忘却の恋、覚醒の裏切り

Đang tải thông tin quảng bá...

忘却の恋、覚醒の裏切り

GoodNovel Hoàn thành

「十億円。一週間以内にこの国を離れて、二度と碧斗の前に現れないで」 高橋裕子(たかはし ゆうこ)は、浅見花音(あさみ かのん)の向かい側...

Chương (1)

第1章

「十億円。一週間以内にこの国を離れて、二度と碧斗の前に現れないで」 高橋裕子(たかはし ゆうこ)は、浅見花音(あさみ かのん)の向かい側に座り、手入れの行き届いた顔に隠しきれない軽蔑を浮かべていた。 以前の花音であれば、目を真っ赤にして「お金のために彼と一緒にいるのではありません」と反論していただろう。 しかし今の彼女は、ただ静かに頷くだけだった。「分かりました」 裕子は明らかに呆気に取られた様子だったが、すぐに冷笑を浮かべた。「身の程を知っているようで安心したわ」 裕子は「身の程」という言葉を、まるで花音と高橋碧斗(たかはし あおと)との間にある絶望的な格差を強調するかのように言い放った。 花音は視線を落として黙り込み、その小切手を受け取ると、そのまま背を向けて立ち去った。 第1話 「十億円。一週間以内にこの国を離れて、二度と碧斗の前に現れないで」 高橋裕子(たかはし ゆうこ)は、浅見花音(あさみ かのん)の向かい側に座り、手入れの行き届いた顔に隠しきれない軽蔑を浮かべていた。 以前の花音であれば、目を真っ赤にして「お金のために彼と一緒にいるのではありません」と反論していただろう。 しかし今の彼女は、ただ静かに頷くだけだった。「分かりました」 裕子は明らかに呆気に取られた様子だったが、すぐに冷笑を浮かべた。「身の程を知っているようで安心したわ」 裕子は「身の程」という言葉を、まるで花音と高橋碧斗(たかはし あおと)との間にある絶望的な格差を強調するかのように言い放った。 花音は視線を落として黙り込み、その小切手を受け取ると、そのまま背を向けて立ち去った。 邸宅に戻った頃には、すでに日はとっぷりと暮れていた。 ここはあまりに広すぎて、彼女は今でも時折迷子になりそうになる。 唯一見慣れているのは、リビングのテーブルにある写真だけだった。写真の中の碧斗は彼女の腰を愛おしそうに引き寄せ、真冬の雪さえ溶かしてしまいそうなほど、甘く優しい眼差しを彼女に向けていた。 花音はそっと写真に触れ、三年前の雨の夜を思い出した。 あの年、路地の入り口で血まみれになって意識が朦朧としている碧斗を拾った。 「あなたは誰?」と彼女が尋ねる。 「俺……分からないんだ」彼は茫然と首を振り、雨水が血の混じった雫となって髪から滴り落ちていた。 そうして、彼女は記憶を失ったこの男を自宅へと連れ帰った。 わずか十平米の古びたアパートに、二人で身を寄せ合った。 壁の塗装はボロボロと剥げ落ち、水道は水漏れが絶えず、冬は三枚の布団を被らなければ眠れないほど寒かった。 しかし、そんな最も貧しい場所で、最も純粋な愛が育まれた。 肩を寄せ合うようにして生きる日々のなかで、いつしか互いの存在だけが、この世界のすべてになっていた。 碧斗は花音が残業のとき、会社の前で三時間も待ち、彼女を迎えに行った。 生理痛で冷や汗を流す夜は、一晩中眠らずに彼女のお腹をさすってくれた。 彼女が三回も見つめては諦めた高価なネックレスを買うために、内緒で一日五つのバイトを掛け持ちしたこともあった。 唯一、彼女が困り果てていたのは、彼が夜ごと熱烈に睦み合いをせがんでくることだった。 頬を赤らめて許しを請う彼女の耳たぶを甘噛みし、彼は低く掠れた声で囁いた。「……好きすぎて、どうしようもないんだ」 最も愛し合っていた頃、碧斗は花音をタトゥースタジオへ連れて行き、鎖骨に彼女の名前を刻んだ。 彫り師に痛くないかと聞かれ、彼は彼女を見つめて笑った。「痛いくらいがいいんだ。そうすれば、一番大切な人を忘れずに済むから」 こんな幸せが永遠に続くと思っていた。 碧斗が記憶を取り戻すまでは。 そこで初めて知った。彼は家もない貧乏人などではなく、帝都の名家である高橋家の御曹司だったのだ。金融界を牛耳る後継者が、ライバルの罠にかかって事故に遭い、記憶を失っていただけだった。 身分を取り戻した後、碧斗は花音を二千平米もの豪邸に住まわせた。バスルームだけでも、かつてのアパートより十倍は広い。 しかしそれ以来、彼もまた別人のようになってしまった。 彼は、彼女がブランド名すら分からないような高級スーツを纏い、価値のつけられないような腕時計をはめ、十億単位の商談をこなし、連日家には帰らない。 花音は「彼は忙しいだけだ」と自分に言い聞かせ、自分を騙し続けてきた。 だが、芸能ニュースに彼と白鳥グループの令嬢、白鳥彩葉(しらとり いろは)との熱愛報道が溢れかえったあの日、その幻想は無惨にも打ち砕かれた。 写真のなかで、仕立ての良いスーツを纏った彼は、エスコートするように彩葉のために車のドアを開けていた。見つめ合い、微笑みを交わす二人の姿はあまりに眩しく、それを見つめる花音の瞳を鋭く刺した コメント欄は【お似合いだ】【まさに理想のカップル】といった、祝福の言葉で埋め尽くされていた。 その夜、窓辺で一晩中月を眺めていた花音は、ようやく一つの事実に気づいた。 吹雪のなかを迎えに来てくれた碧斗も、幾つも仕事を掛け持ちしてネックレスを贈ってくれた碧斗も、鎖骨に自分の名前を刻んだ碧斗も、記憶を取り戻したあの日に死んでしまったのだ。 今の高橋グループの御曹司である碧斗と自分の間には、雲泥の差がある。 彼は雲の上に立ち、彼女は泥の中に沈んでいる。 夜空に浮かぶ月が地上の塵に決して触れることがないように、彼のような人は、同じように輝く人と結ばれる運命なのだ。 ならば、これ以上惨めな思いをする必要はない。 別れよう。 彼を自由にしてあげて、そして、自分をこの苦しみから解き放つために。 その夜、広大な邸宅は相変わらずしんと静まり返り、碧斗は帰ってこなかった。 花音はいつものように深夜まで彼を待つことはせず、早めに眠りについた。そして翌朝、ビザの申請センターへと向かった。 追加料金を払って特急申請の手続きを済ませる。これなら、ビザもパスポートも一週間以内には手元に揃うはずだ。 ビザ申請センターを出たときには、すでに正午を回っていた。花音は、目についたレストランに適当に入ることにした。 扉を押し開けた瞬間、彼女の足が止まった。 窓際の席で、碧斗が紙ナプキンを使い、彩葉の口元を優しく拭っていた。 厳冬の氷をも溶かしそうなほどの慈しみに満ちたその眼差しは、かつてアパートで笑いながらキスを交わしたあの頃と、何ひとつ変わっていなかった。 花音はその場に釘付けになり、見えない手に心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような錯覚に陥った。 たまらず背を向けて立ち去ろうとしたが、焦りのあまり入り口の観葉植物に体をぶつけてしまう。 その音に、碧斗が顔を上げた。そこに立つ花音の姿を認めた瞬間、その瞳に宿っていた親密な光は、一瞬にして消え失せた。 彼はゆっくりと歩み寄り、唇を開く。その声は低く、そして冷徹だった。「……俺をつけていたのか?」 言い返す間もなく、彼はさらに言葉を重ねる。「ネットの噂なら、ただのビジネス上の付き合いだと説明したはずだ。いつまでそうやって騒ぎ立てれば気が済むんだ?」 花音は何かを言おうと唇を震わせたが、喉が固く締め付けられ、いくらもがいても言葉が形を成さない。 昨日、裕子が放った言葉が耳の奥でリフレインする。 「碧斗と彩葉の縁談は、両家でずっと前から決めていたことなの。彼自身も彩葉のことをとても気に入っているし……」 ビジネス上の付き合いというのは、その政略結婚のことなのだろうか。 「碧斗、そんなに怖い顔をしないで。せっかく会えたんだから、これも何かのご縁だわ」彩葉も歩み寄り、楽しげに笑ってその場をなだめた。「ねえ、よろしければご一緒しましょう?」 拒否する間もなく、花音は強引に彼らのテーブルへと連れて行かれた。 彼女は操り人形のように椅子に座らされ、氷のように冷え切った碧斗の顔と正面から向き合うことになった。 「花音さんは何が食べたい?ここのA国料理は、本場さながらの味で評判なのよ」彩葉はそう言って、メニューを彼女の前に差し出した。 花音は、そこに並ぶ見覚えのない外国語の綴りをじっと見つめた。意味の分からない記号の羅列を前に、形容しがたい惨めさが心の奥底からじわじわと広がっていく。 「……お腹は空いていないから」彼女はメニューを押し戻した。 「じゃあ、スープだけでも。素材の旨味が凝縮されていて、本当に絶品なのよ」彩葉は、海鮮の出汁がたっぷりと利いたスープを器に盛り、花音の前に置いた。 スープに浮かぶ海老の身を見つめた瞬間、花音の胃のあたりがきりきりと鳴るように痛んだ。 彼女は、重度の甲殻類アレルギーだった。 断ろうとしたその時、碧斗のスマホが鳴った。 彼は電話に出るために席を立った。その背筋の伸びた後ろ姿は、どこまでも凛としていて、微塵の隙もない。 その身に纏うスーツは、かつて雑誌の誌面で見かけたことのある代物だった。一着で、彼女が以前暮らしていた地区のアパートなど建物ごといくつも買い取れるほどに、途方もなく高価なものだ。 「さあ、召し上がれ」彩葉が不意に声を低めた。「あなたの身分じゃ、普段は一生口にできないような高級料理だもの」 花音が顔を上げると、そこには嘲笑を浮かべた彩葉の瞳があった。 「まさか、碧斗と少しの間付き合ったくらいで、本気でセレブの仲間入りができるなんて思っていないわよね?」彩葉はグラスの縁を指先でなぞりながら続けた。「彼が記憶喪失でさえなければ、あなたみたいな底辺の女、彼の靴を磨くことさえ許されないのよ」 花音は膝の上のナプキンを、指先が白くなるほど強く握りしめた。柔らかな布地が、手のひらの中で無惨にくしゃくしゃに丸まっていく。 自分は貧しい。それは否定できない事実だ。けれど、だからといって見ず知らずの他人に、ここまで土足で尊厳を踏みにじられるいわれはない。 「あなたとは今日初めて会ったばかりの、ただの赤の他人。それなのに、そんな……」 「きゃあっ!」 言葉を遮るように、彩葉が突然悲鳴を上げた。彼女は自らスープの皿を払い落とし、熱い液体が彼女の手の甲と、そして花音の手へと飛び散った。 異変に気づいた碧斗が駆け戻り、すぐさま彩葉の手を握った。「どうした、何があった!」 「ううん、大丈夫。全部、私のせいなの。二人きりで食事しているところを見られちゃったから……花音さんだって、あなたの恋人だもの。怒るのも無理はないわ……」彩葉は瞳を潤ませ、今にも泣き出しそうな震える声でそう告げた。 碧斗の視線が、ナイフのような鋭さで花音を射抜いた。「花音、何度も説明したはずだ。なぜ、これほどまでに執拗な真似をする?」 「違うわ、私は何も……彼女が自分で……」 「もういい!」彼は激しく言葉を遮った。「目の前で起きたことだ。これ以上、何を言い逃れするつもりだ?お前はいつから、そんなに度し難い女になったんだ!」 吐き捨てるように言うと、碧斗は彩葉を抱きかかえ、振り返ることもなく店を飛び出していった。 彼の肩に顔を埋めた彩葉が、一瞬だけこちらを向き、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。 花音はその場に立ち尽くし、真っ赤に腫れ上がった自分の手を見つめた。 すでに大きな水ぶくれができ、針で突き刺されているような激痛が走る。 しかし碧斗の目には、彩葉のわずかな赤みしか映っていなかった。 あんなにも急いで、迷うことなく彩葉を連れ去った。自分には一瞥もくれずに。 かつての碧斗は、誰よりも自分を慈しんでくれていたはずなのに。 三年前、料理中に火傷をしたとき、彼は泣きそうな顔で薬局へ走り、帰ってくるなり「花音、痛いか?」と言って、一晩中、薬を塗ってくれて、そばに寄り添ってくれた。 あの頃、彼の瞳には自分しかいなかった。 けれど、今の碧斗の瞳には、もう自分の姿など映っていないのだ。 第2話 花音は独り、家路についた。 帰宅後、リビングで救急箱を引っ張り出すと、自分で消毒と薬を塗り、包帯を巻いた。 傷口から這い上がるような細かな疼きが、絶え間なく神経を蝕んでいく。 二階へ上がろうとしたとき、リビングの隅にあるグランドピアノがふと目に留まった。 記憶を取り戻したばかりの碧斗が、「ピアノを教えてあげる」と言って買い与えてくれたものだった。 しかし、それから随分と時が流れた今、ピアノの蓋には厚い埃が積もっている。 それは、とうの昔に埃を被り、輝きを失ってしまった二人の愛そのものだった。 目頭が熱くなるのを堪え、花音は部屋に入って荷造りを始めた。 服、身分証明書、クレジットカード……一つ一つ整理するその手つきは、過去の自分に別れを告げるかのように、ひどく緩慢だった。 整理が半分ほど済んだとき、突然ドアが開いた。 碧斗が入り口に立っていた。ジャケットを腕にかけ、ネクタイは少し緩んでいる。 広げられたスーツケースを見て、彼は不快そうに眉を寄せた。「何をしているんだ?」 「荷物をまとめているの」花音は低く伏せたままで答え、手を止めずに服を畳んだ。 眉を寄せた彼が近づくにつれ、鼻先を掠めたのは、今日一日中、彩葉が纏っていたあの甘い香水の香りだった。 彼は花音の手首を掴んだ。その力は、彼女が痛みで顔をしかめるほどに強い。 「今日、彩葉と食事をしたのがそんなに気に入らないのか?だからって家出の真似事か。向こうは怪我をさせられたのに、お前を責めることもしなかった。それなのに、自分のほうが先にへそを曲げるとはな」 花音が顔を上げると、そこには隠しようのない苛立ちを浮かべた碧斗の瞳があった。 「高橋家と白鳥家は代々、深い付き合いがあるんだ。帰国したばかりの彼女を支えてやってくれと、両親からも頼まれている。少しは聞き分けを良くしたらどうだ?」 聞き分け。 その言葉が鋭い刃となって花音の心臓を抉る。彼女は掌の中の衣類を、くしゃくしゃになるほど強く握りしめた。 これ以上ないほど聞き分けよく、静かに身を引こうとしている自分に、まだ何を望むというのだろう。 「何か言え!」碧斗が不意に声を荒らげた。 花音は黙って背を向け、荷造りを続けた。 その頑なな沈黙が、碧斗の苛立ちを爆発させた。 「いいだろう。いつまでそんな子供じみた真似が続けられるか、試してみるがいい」 そう吐き捨てると、彼はドアを激しく叩きつけて部屋を去った。その衝撃に、彼女の心臓が小さく震えた。 翌朝、花音が階下へ降りると、リビングで彩葉が親しげに碧斗と談笑していた。 彼女は白いワンピースに身を包み、完璧なメイクを施して、この上なく清純で優雅に見える。 花音の姿を認めると、彩葉はすぐに立ち上がり、微笑みを向けた。「花音さん、おはよう。ごめんなさいね、両親がどうしても碧斗に今日のオークションのエスコートを頼みたいって仰るから……変に邪推しないでね?」 花音が碧斗を伺うと、男は手元の袖ボタンを整えるのに夢中で、彼女に視線一つ向けなかった。 「邪推なんてしていないわ」彼女の声は、消え入りそうなほど微かだった。「二人のことは、もう私には関係のないことだから」 碧斗の手が止まり、さらに深く眉間に皺が刻まれた。 彼が何かを言おうとした瞬間、彩葉がそれを遮るように言った。「だったら、花音さんも一緒に行きましょうよ。どうせ今日はお暇なんでしょう?」 拒否する間もなく、花音は彼女に腕を絡められ、そのまま車へと押し込まれた。 会場は煌びやかな光に包まれ、名士たちが顔を揃えていた。 碧斗は前列に座り、無造作に札を上げては次々と宝飾品や高級時計を競り落としていく。そしてそれらを、当然のように隣の彩葉へと手渡した。 彩葉は淑やかに微笑み、時折彼の耳元で囁く。その姿は、見ていて痛々しいほどに親密だった。 「碧斗、花音さんにも何か買ってあげたら?」殊勝な顔をして、彩葉が提案した。 碧斗は淡々と答えた。「彼女はこういうものは好まない」 彩葉は口角をわずかに上げ、碧斗からは見えない角度で、勝利者の笑みを花音に投げつけた。 花音はただ視線を落とし、手元のカタログを指先でなぞった。心はもう、氷のように冷え切っていた。 好まないから?それとも……私には不相応だから? 彼の目には、私はいつまでも掃き溜めから這い上がってきた女に過ぎないのだ。 たとえ今、彼の隣という特等席にいたとしても、私にはこうした煌びやかな品々に相応しい資格などないのだ。 しかし、構わない。どうせ、もうすぐすべてが終わるのだから。 花音は静かに片隅に座り、彼が彩葉のために一擲千金する様を、まるで他人の出来事のように見つめていた。 やがて、最後の出品物がステージへと運ばれてきた。 一点物のクリスタルネックレスだ。 それを見た瞬間、花音の呼吸が一瞬止まり、無意識に指先を強く握りしめた。それは、亡き祖母の形見だった。 三年前、碧斗は彼女に誕生日プレゼントを買おうと、無理をして工事現場の肉体労働にまで手を出したことがあった。そして作業中に足場から転落し、一時は生死の境を彷徨うほどの大怪我を負った。 碧斗の手術費用を工面するため、彼女は祖母が遺してくれた唯一の形見であるネックレスを、背に腹は代えられず手放した。 ようやく買い戻せるだけの金を貯めて店を訪ねたときには、時すでに遅く、それは別の誰かの手に渡った後だった。 それからというもの、彼女は街中の質屋を片っ端から探し回ったけれど、二度とその姿を見ることはなかった。 それが今、こうして予期せぬ形で、あまりに唐突に彼女の目の前に現れた。 花音は歓喜に震え、すぐに番号札を掲げた。「二千万円!」 彩葉が驚いたように振り返り、すぐに嘲笑を含んだ笑みを浮かべて札を上げた。「六千万円」 「八千万円!」 「一億円!」 執拗に競り合う二人を、碧斗が眉をひそめて交互に見つめた。 結局、彼は迷うことなく悠然と手を挙げ、圧倒的な最高値でその場の争いに終止符を打った。 オークショニアの木槌が鳴り響く。「落札です!おめでとうございます、高橋様!」 どよめきが広がる中、彼は彩葉へと向き直った。「君が気に入ったのなら、差し上げよう」 花音の手から、番号札が力なく床へと滑り落ちた。 第3話 スタッフがうやうやしく差し出したそのネックレスを、花音は呆然と見つめることしかできなかった。彩葉が満足げに目を細め、それを受け取ろうと手を伸ばす。指先が箱の縁に触れた、その瞬間だった。 「あらっ!」 短い悲鳴と共に、ネックレスが箱から滑り落ちた。硬い大理石の床に叩きつけられたクリスタルネックレスは、パリンッという乾いた音を立てて無惨に砕け散った。 一瞬、花音の呼吸が止まった。耳の奥では、破片が飛び散る鋭い音だけが反響している。 頭の中が真っ白になり、彼女は本能のままに突き動かされるように駆け寄った。彩葉を突き飛ばすようにして退けると、震える手で地面の破片を拾い集める。 碧斗の顔色が瞬時に険しくなった。よろめいた彩葉を抱きとめ、花音へ向ける視線には刺すような冷たさが宿っている。「花音、一体何の真似だ!」 花音は血走った目で彼を見上げ、声を震わせた。「何の真似……?これは、おばあちゃんの形見なのよ!あなた、以前にはっきり言ったじゃない。いつか必ず、買い戻してあげるって…… なのに、そんなことさえ、もう覚えていないの?」 碧斗は一瞬、何かに触れたかのように呆然としていた。しかし、すぐにその瞳から微かな揺らぎは消え去り、冷ややかな色に塗りつぶされた。 「そんな昔のことを、いちいち覚えているわけがないだろう」彼は不快感を隠そうともせず、さらに言葉を重ねる。「それに、彩葉に悪気はなかった。それをお前は、わざわざ突き飛ばすなんて。いつからそんなに狭量な女になったんだ」 「ごめんなさい……私の不注意のせいで……」彩葉は瞳を潤ませ、消え入りそうな声で彼の袖を掴んだ。 碧斗はわずかに眉を寄せ、彩葉の涙を指先で拭ってやった。その声は驚くほど優しく、慈しむような響きを湛えていた。「君のせいじゃない。気にするな」 そして、彼は花音に冷ややかな一瞥を投げ、有無を言わせぬ口調で告げた。「このネックレスは俺が修理に出す。お前も、これ以上見苦しい真似はやめろ」 そう言い残すと、彼は彩葉の肩を抱き寄せ、ネックレスを手に取った。そして、一度として振り返ることなく、その場を立ち去った。 花音はその場に立ち尽くし、遠ざかる二人の背中を見つめていた。心臓の一部を無理やり抉り取られたような、息もできないほどの激痛が彼女を襲う。 オークションが終わる頃、外は冷たい雨が降り始めていた。 花音は会場の出口に独り佇み、碧斗の黒いマイバッハが彩葉を乗せて、夜の闇へと無情に走り去るのをただ見送った。 人里離れた立地のせいで、三十分待ってもタクシーの一台すら捕まらない。結局、彼女は降りしきる雨の中を独り、家路を辿るしかなかった。 ようやく家に辿り着いた頃には、足の感覚はとうに失われていた。 玄関でヒールを脱ぐと、潰れた血豆がストッキングにべったりと張り付いている。それを無理やり引き剥がそうとする時、刺すような激痛が走り、彼女は思わず息を呑んだ。 花音はそのままソファに身を投げ出し、ぼんやりと天井を見つめた。 不意に、数年前の雨の夜を思い出す。碧斗は、怪我をした彼女を背負い、三キロもの道のりを歩いて病院まで運んでくれた。 当時の彼は、タクシーを呼ぶ金さえないほど貧しかった。けれど、彼女を一歩も歩かせまいと頑なに拒んだ。 「花音、あと少しだ。すぐに着くからな」 あの時の彼の背中はあんなにも温かかった。雨に打たれながらも、彼女は幸せすら感じていたというのに。 今はどうだろう。数億円もする高級車を乗り回しながら、彼は彼女を五分待つことさえ拒んだのだ。 手当てを済ませると、花音は逃げるように布団の中へ身を隠した。 最近の出来事を深く考える勇気はなかった。ふとした瞬間に記憶の蓋が開けば、やるせないほどの惨めさと痛みが、濁流のように押し寄せてくるからだ。 誰も知らない。彼女が本当に求めていたのは、高橋グループの御曹司としての碧斗ではない。 彼女がただ欲しかったのは、あのアパートで肩を寄せ合い、優しく名前を呼んでくれた、あの頃の碧斗だけだった。 けれど、あの男はもう「死んでしまった」。二度と、帰ってはこない。 彼女はそっと瞳を閉じ、溢れ出す涙を拭うことさえ忘れて、深い闇の中へと沈んでいった。 翌日の正午、ドアの開閉音で彼女は目を覚ました。 枕元には、スーツを纏った碧斗が立っていた。 「今夜は親族の会食がある。お前も一緒に来い」 第4話 出発を前に余計な波風を立てたくはなかった。これ以上、彼に異常を悟られ、不測の事態が起きるのを避けるため、花音は数秒の沈黙の後、感情を押し殺して小さく頷いた。 それから、ズキズキと疼く足首を無理やり叱咤し、クローゼットの中から会食に相応しい一着を選び出した。 三十分後、二人は目的地に到着した。 煌々と明かりが灯る高橋家の邸宅。碧斗の背を追うようにして足を踏み入れると、真っ先に視界に入ってきたのは、ソファに腰掛ける彩葉の姿だった。 彼女は一目で上質と分かる気品溢れるツイードのセットアップを品よく着こなし、裕子と親しげに談笑している。 傍らでは碧斗の父の高橋宗一郎(たかはし そういちろう)も満足げに頷いており、そこにはまるで絵に描いたような「睦まじい家族」の光景が広がっていた。 「碧斗、来たわね!」裕子が相好を崩して駆け寄ってきたが、花音の存在など最初からそこになかったかのように無視し、碧斗の腕を取った。「彩葉が、ずっと待っていたのよ」 碧斗はふと無意識に背後の花音を振り返った。 彼は、彼女が傷ついた表情を見せるか、あるいは悲しみを堪える様子を見せるだろうと思っていた。しかし、花音はただ淡々とそこに佇んでいるだけだった。まるで、この場のすべてが自分とは無関係であるかのように。 「花音さんもいらしたの?」彩葉がわざとらしく驚いて見せ、それから慈しむような微笑みを浮かべた。「どうぞ座って。遠慮しないでね」 裕子がようやく花音を一瞥し、冷淡な声を放った。「来たからには、粗相のないようにしなさい。泥を塗るような真似は許さないわよ」 花音は何も答えず、ただ黙って頭を下げた。 ディナーの席で、裕子と彩葉は令嬢界隈の社交話に花を咲かせ、宗一郎と碧斗は会社のプロジェクトについて議論を交わしていた。花音に言葉をかける者は、一人としていなかった。 彼女はまるで透明人間にでもなったかのように、目の前の料理を静かに口に運ぶ。その耳には、裕子の嘲笑が容赦なく突き刺さっていた。 「やはり、家柄の釣り合いというのは何より大切ね。 身の程を知らない女の子というのは、見ていて痛々しいわ。 彩葉と碧斗は幼馴染だもの、気心も知れているし、これほどお似合いの二人はいないわね」 そんな言葉は、もう耳にタコができるほど聞かされてきた。 かつての碧斗なら、冷ややかな顔で裕子の言葉を遮ってくれた。やがて、眉をひそめて「母さん、そのくらいにしてくれ」と言うだけになった。 そして今――彼は、眉をひそめることさえしなくなった。 花音は俯いてスープを口にした。熱いスープが喉を通り過ぎていくが、凍てついた心までは温めてはくれない。 会食の後、碧斗の運転で帰路に就いた。 当然のように彩葉が助手席に収まり、花音は独り、後部座席に座った。 車内には彩葉の好む曲が流れ、彼女は先ほどの会食の内容を楽しげに碧斗と語り合っている。 窓の外でぼやけていくネオンを眺めながら、花音はふと、あの冬の夜を思い出した。 まだ碧斗が、ガタのきた中古の自転車で彼女を送り届けてくれていた頃のことだ。 彼女は彼の腰にしがみつき、かじかんだ指先を彼の上着のポケットに突っ込んでいた。 「花音、いつか金持ちになったら、絶対にいい車を買うよ。二度と、お前に寒い思いなんてさせないから」 今、彼は確かに富を手に入れた。けれど、助手席に座っているのは彼女ではない。 その時、眩いヘッドライトが突然、視界を射抜いた。反応する間もなかった。制御を失ったトラックが、猛烈な勢いでこちらへ突っ込んでくる。 ドンッ! 凄まじい衝撃の中、花音が目にしたのは、碧斗が躊躇なく助手席へと身を投げ出し、自分の体で彩葉を庇う姿だった。 一方で花音は、慣性のままに前へと投げ出された。額がフロントガラスに叩きつけられ、鮮血が瞬時に視界を真っ赤に染め上げる。 意識が遠のいていく最期の数秒間、彼女は自分の心が粉々に砕け散る音を、はっきりと聞いた。 死に直面したその極限の瞬間でさえ、今の彼が選ぶのは、もはや自分ではない。 再び目を覚ましたとき、花音は病室のベッドの上にいた。 額の傷は包帯で処置され、足首の古傷には新たな傷が加わっていた。体中の節々を刺すような痛みが走り、指一本動かすのさえままならない。 重い体に鞭を打ち、なんとか上体を起こしたその時、病室のドアが乱暴に開かれた。高いヒールの音を響かせながら入ってきたのは、裕子だった。 「まだこの国にいたの?」裕子はベッド脇に立ち、軽蔑しきった眼差しで見下ろした。「さっさと海外へ行けと言ったはずよ。それとも何か、まだ高橋家に嫁ぐなんて分不相応な夢でも見ているのかしら?」 花音は逆らうこともなく、ただ静かに彼女を見据えた。「いいえ。手続きに少し手間取っているだけです。ご安心ください、ビザが発給され次第、すぐに発ちます」 一度言葉を切り、彼女は淡々と、けれど決意の籠もった声で付け加えた。「遠くへ行きます。彼が二度と私を見つけられない場所へ」 裕子は冷笑を浮かべた。「その言葉、忘れないことね」 言葉が終わるか終わらないかのうちに、再びドアが乱暴に押し開けられた。 そこに立っていたのは、顔を険しく歪めた碧斗だった。「……行く?誰が、どこへ行くというんだ?」 第5話 花音は伏せ目がちに、嘘を吐いた。「裕子さんが見舞いに来てくださったの。私はもう大丈夫だから、先にお帰りくださいと伝えたところよ」 裕子がこれに合わせ、わざとらしく数言の気遣いを見せてから、用事があると言い置いて病室を去った。 部屋には、花音と碧斗だけが残された。 「あの時は……」碧斗がベッド脇まで歩み寄る。その声は掠れた。「事故があまりに突然で、咄嗟に反応できなかったんだ」 花音は短く「分かってる。気にしていないわ」と答えた。 碧斗は不意を突かれたように固まった。「……怒っていないのか?」 「ええ、怒っていない」 碧斗は彼女の瞳をじっと見つめ、そこに隠されたはずの恨みや悲しみの欠片を探そうとした。しかし、彼女の眼差しは凪のように静まり返り、まるで死んだ淵のように冷めていた。 彼は急に苛立ちに駆られ、彼女の頬に触れようと手を伸ばした。「そんな態度を取るな。俺は……」 「本当に怒っていないの」花音は顔を背けてその手を避け、静かだが拒絶の滲むトーンで告げた。「休みたいの。彩葉も怪我をしたのでしょう?彼女のそばにいてあげて」 そう言い終えると、彼女は瞳を閉じ、彼に背を向けた。 ベッドの傍らで、碧斗が長い間自分を見つめている気配がした。やがて、重苦しい沈黙の後にドアが閉まる音が響いた。 それからの数日間、碧斗は毎日花音の病室を訪れた。 彼はベッド脇で書類を片付け、時折「痛みはないか」と問いかけたが、花音は首を振るだけだった。 けれど、彼女が眠りから覚める時、傍らに彼の姿があることは一度もなかった。聞こえてくるのは、看護師たちの潜めるような噂話だけだ。 「隣のVIP病室にいる白鳥さんの恋人、本当に素敵ね。一晩中付き添っているそうよ」 「高橋グループの御曹司なんだって。あんなに格好いいのに、一途なのね」 花音は聞こえないふりをして、そっと目を閉じた。 退院の日、碧斗は自ら車を運転して迎えに来た。 花音はまだ完治していない足首をかばいながら、ゆっくりと車まで歩いた。しかし、車のドアを開けようとした瞬間、彼女の動きがピッタリと止まった。 助手席には、すでに彩葉が座っていた。 「花音さん、ついでに送ってもらうこと、気にしないでね。私、車に酔いやすくて……助手席しか座れないの」 彩葉は微笑みを向けた。碧斗は眉をひそめ、何か言い訳をしようとしたが、花音が先に口を開いた。「構わないわ」 花音は平然と後部座席に乗り込んだ。まるで自分だけが外の世界から迷い込んだ「部外者」であるかのように、前座席の二人の背中を見つめながら。 バックミラー越しに碧斗が視線を送ってきたが、何かを言いかけて、結局は口を閉ざした。 車が停まったのは、見上げるほどに壮麗な邸宅の前だった。花音はそこで初めて、碧斗が自分を自宅へ連れ帰るつもりなど毛頭なかったことを悟る。 彼は事前の相談もなく、社交界の重鎮が主催する金婚式の祝宴に、怪我の癒えぬ彼女を伴ったのだ。 「あれが高橋家の御曹司か。連れている女が二人?」 「あの白いドレスの女の子が浅見花音でしょう?掃き溜めのような場所から這い上がってきた、身分違いの女だって噂よ」 「やはり白鳥さんの方がお似合いだわ。家柄も釣り合っているし」 客たちのあからさまな囁きを、花音は聞こえないふりで受け流し、静かに壁際に佇んでいた。 碧斗は終始、彩葉の傍を離れなかった。彼女のために飲み物を用意し、冷えないようにと上着を肩にかける。その眼差しは優しさに満ちていた。 「花音さん、お友達を紹介するわ」彩葉が唐突に近づいてくると、親しげに花音の腕を取った。 花音が拒む隙さえ与えず、彩葉は彼女をきらびやかな令嬢たちが集まる輪の中へと、半ば強引に連れ出した。 「こちらが花音さん。碧斗の……恋人なの」 彩葉は微笑んで紹介すると、次の瞬間、流暢な外国語に切り替えて令嬢たちと談笑を始めた。 周囲は一瞬驚いたものの、すぐに察したように外国語で応じ、時折愉快そうな笑い声を上げた。 花音は独り、その場に立ち尽くしていた。言葉という見えない壁に隔絶された、絶海の孤島のように。 「花音さん?」彩葉が突然、本国の言葉で問いかけた。「あなたはどう思う?」 「……何のこと?」 「あら、ごめんなさい。外国語は分からなかったわね」彩葉は申し訳なさそうな顔を作り、周囲に説明した。「花音さん、外国語を学ぶ機会がなかったの。皆さん、気にしないであげて」 周囲からクスクスと忍び笑いが漏れた。それはまるで無数の細い針となって、花音の肌を容赦なく刺し貫いていく。 「大丈夫。これからゆっくり覚えていけばいいのよ」彩葉は花音の手を優しく叩いた。まるで、何も分からない幼子をなだめるかのような口調で言った。 花音は目を伏せ、爪が手のひらに食い込むほど拳を強く握りしめた。 嘲笑と憐れみの入り混じった視線に晒され、彼女は自分が衆目の前で尊厳を剥ぎ取られたピエロになったかのような錯覚に陥った。 呼吸を繰り返すたび、鋭利な刃で胸の奥を直接切り刻まれるような、逃げ場のない激痛が全身を貫いていく。もはや、息を吸うことさえもが苦痛だった。 第6話 そんな折、宴の主催者からある余興が提案された。 恋人同士がステージでピアノを合奏し、最も優れた演奏を披露した者に、景品として稀少なジュエリーが贈られるという。 「あのジュエリー、本当に素敵……」彩葉の瞳が輝き、碧斗の袖を引いて甘えるようにねだった。「ねえ碧斗、もうすぐ私の誕生日でしょう?お祝いに、あなたと花音さんで、私のためにあのジュエリーを勝ち取ってくれないかしら?」 周囲の令嬢たちが、追い打ちをかけるように笑い声を上げた。「彩葉、それは無茶よ。外国語さえ覚束ない彼女に、上流階級の嗜みであるピアノなんて弾けるはずがないもの」 「いっそのこと、彩葉と碧斗さんで演奏なさったらどうかしら?」ある人がこう提案した。 彩葉は困ったように碧斗の顔を覗き込んだ。「……碧斗、いいかしら?」 碧斗は淡々と頷いた。「いいだろう」 「それじゃあ、碧斗を少しの間だけお借りするわね」彩葉は勝ち誇ったように花音を一瞥すると、碧斗と共にステージへと上がった。 旋律が流れ出した瞬間、会場は静寂に包まれた。 彩葉の指先が鍵盤の上を軽やかに跳ね、碧斗がそれに完璧な呼吸で合わせていく。その姿は、誰もが認めざるを得ないほど完璧な似合いの二人だった。 会場が感嘆に包まれる中、独りステージの下に取り残された花音は、彩葉の友人たちに幾重にも取り囲まれていた。 「見た?花音さん。あれが本当のパートナーというものよ。 外国語も満足に話せず、ピアノの旋律一つ奏でられないような育ちの悪い小娘が、高橋家の御曹司に相応しいとでも思っているの?少しでも弁えがあるなら、さっさと自分から消えなさいな。 以前は西側のスラムのような掃き溜めに住んでいたんだってね。あんな場所に人が住めるなんて驚きだわ。道理で、いくら着飾っても貧乏臭さが消えないわけね。 貧乏女が玉の輿にでも乗って、人生一発逆転でも狙ってるつもり?惨めなだけだから、これ以上恥をさらすのはやめなさいよ」 卑俗な嘲笑が、逃げ場のない矢となって花音の耳を貫く。 花音は裾を握りしめ、その場を離れようと背を向けた。だがその瞬間、誰かがわざと出した足に引っかかり、彼女は無様に床へと倒れ込んだ。 鈍い衝撃と共に、鋭い激痛が体中を駆け巡る。 痛みに呻き、息を整える暇もなかった。鮮やかな真紅のヒールが花音の手首を、無慈悲に踏み抜いた。 「あら、ごめんなさい。そこにいたなんて、全然気づかなかったわ」 踏みつけた令嬢はわざとらしく声を上げたが、その瞳には冷酷な愉悦が宿っていた。彼女は花音の指先をぐりぐりと、悪意を込めて執拗に踏みにじる。 パキッ、と乾いた音が響いた。 視界が真っ白に染まるほどの激痛。花音は悲鳴を上げようと口を開いたが、喉が引き攣れて声にならない。ただ縋るような思いで、ピアノの前に座る碧斗へと視線を向けた。 碧斗の視線が、一瞬だけこちらを捉えた。たしかに、彼は花音を見た。 だが、彼はまるで道端に転がる石ころでも見るかのように、冷淡に、何事もなかったかのように視線を逸らした。そのまま、隣で演奏する彩葉のために、指先一つ乱さず優雅に譜面をめくってみせたのだ。 花音は唇を血が滲むほど強く噛みしめ、溢れ出そうになる涙と呻きを必死に飲み込んだ。 脳裏に、三年前の光景が蘇る。スーパーのアルバイト中に少し指を切っただけで、彼は血相を変えて仕事を放り出し、彼女を無理やり病院へ連れて行った。 「これくらいの小傷なら、特に処置は必要ありませんよ。放っておいても自然に治ります」医師からそう告げられても、当時の碧斗は頑ななまでに一晩中、花音の傍を離れようとはしなかった。 万が一にも化膿して熱でも出たらどうするんだと、まるで自分の身が削られるような思いで、彼女をじっと見守り続けてくれた。 なのに、今。手首を無残に踏み砕かれているというのに、今の彼は一瞥を向けることさえ惜しんでいる。 碧斗と彩葉は見つめ合い、穏やかに微笑みを交わした。その姿はまるでお伽話から抜け出してきた王子と姫君のように、非の打ち所がないほど眩かった。 「っ、ああ……!」 鋭利なヒールが再び、容赦なく振り下ろされる。全体重をかけて抉るように踏みしめられ、花音は自分の手首の骨が、嫌な音を立てて砕け散るのをはっきりと聞いた。 激痛が、一瞬にして全身の神経を食い破る。あまりの苦痛に視界はぐにゃりと歪み、周囲の景色がどろどろと溶け出していく。 意識が深い闇へと沈んでいく間際、彼女の耳に届いたのは、美しく結ばれた連弾の終止符と、会場を揺るがすほどの万雷の拍手だった。 …… 意識を取り戻した時、鼻を突いたのは消毒液の匂いだった。 医師が碧斗に、深刻な表情で告げている。 「高橋さん、浅見さんの手首は粉砕骨折しており。完治しても一生、後遺症が残るでしょう。もう二度と重いものを持つことはできませんし、この一ヶ月は夜も眠れぬほどの激痛に苛まれるはずです。細心の注意を払って看病してください」 花音の顔から血の気が引いた。 震える手でサイドテーブルのコップを取ろうとしたが、手首を突き抜ける激痛に指先が跳ね、掴み損ねたコップをそのままなぎ倒してしまった。 ガシャンッ。 床に落ち、砕け散ったグラスの音が、病室の静寂を切り裂く。医師と碧斗が、弾かれたように同時にこちらを振り返った。 医師は重いため息をつき、病室を後にした。碧斗はベッドに歩み寄り、新しいコップに水を注ぎ、彼女の口元に差し出す。 碧斗はわずかに眉を寄せ、言い淀むように喉仏を上下させてから、ようやく口を開いた。「……すまない。あの時は演奏に集中していて、お前が転んだことに気づかなかったんだ。まだ痛むか?」 花音は彼の顔をじっと見つめた。脳裏に浮かぶのは、ピアノの前で彩葉を優しく見つめていた彼の横顔だ。 気づかなかったのではない。気づかぬふりをして、彼女を見捨てたのだ。 花音はゆっくりと瞳を閉じ、胸を抉るような痛みを飲み込んで、一文字ずつ静かに告げた。「警察を呼ぶわ」 碧斗は絶句した。「……何だって?」 「先生の話、聞こえなかったの?」花音はギプスで固められた腕を上げ、滲みそうになる涙を堪えて、鋭い眼差しで彼を射抜いた。「私の腕は、もう元には戻らない。あんな仕打ちをした人たちに、相応の報いを受けてもらうのは当然でしょう?」 碧斗の表情に、困惑と苦渋が混じる。「ただ重いものが持てなくなるだけだろう。以前とは違うんだ、俺がいる以上、お前が重い物を持つ必要なんてない」 彼は一度言葉を切り、諭すように続けた。「あいつらはみんな彩葉の友人なんだ。警察沙汰にでもなれば、彼女の顔に泥を塗ることになる。……たかがそれだけのことで、波風を立てるつもりか?」 第7話 花音は唇を強く噛みしめた。 これほどまでの苦しみを、ただ彩葉のメンツを守るためだけに、黙って飲み込めというのか。 「……私は、絶対に警察を呼ぶわ」 碧斗は沈黙し、不意に小切手を取り出した。「どうしても責任を追及したいというのなら、俺が彼らの代わりに賠償する」 静まり返った病室に、小切手を走るペン先のさらさらという乾いた音だけが響く。その一払いごとに、花音の心は鋭利な刃で薄く削り取られていくような、耐えがたい苦痛に苛まれていた。 最初の数字が書き込まれたとき、彼女は唇を千切れるほど噛みしめた。じわりと鉄のような血の味が口の中に広がっていく。 彼女が受け取ろうとしないのを見て、金額が足りないと思ったのか、彼はその紙を破り捨て、再び新しい数字を書き込んだ。 一度、二度、三度…… 小切手の金額は跳ね上がっていく。 「二十億円」と書かれた小切手が目の前に差し出されたとき、花音の脳裏には三年前の雨の夜が蘇っていた。 十平米にも満たない安アパートで、深夜三時まで残業を終え、帰宅した碧斗は、ずぶ濡れの体のまま、愛おしげに花音を抱き寄せた。 「なあ花音。俺、絶対に二十億円稼いでみせるよ。そうしたら、お前には二度と苦労なんてさせないから」 誓いは果たされた。……けれど、こんな最悪な形で。 彼は今、ためらいもなく二十億円を差し出している。自分をハイヒールで踏みにじった連中を、見逃してやるための代償として。 「二十億円だ。これでいいだろう?」再び差し出された小切手を、花音は震える手で受け取った。そして、突然笑いが込み上げた。 笑いながら、涙がこぼれ落ちる。涙は小切手の上で、書き立ての墨を無残に滲ませていく。 「……ええ、十分だわ」かすれた声は、自分の声ではないように響いた。「碧斗。……あなたのあの時の約束、ようやく果たされたわね」 碧斗はわずかに眉をひそめ、彼女が何を言っているのか理解できないという顔をした。 分かるはずもない。 あの狭苦しいアパートで彼女を慈しむように抱きしめ、「二十億円稼いで幸せにする」と誓ったあの頃の碧斗は、とっくの昔に死に絶えていた。 跡形もなく、微かな面影すら残さずに。 あの日以来、碧斗が病院に顔を出すことはなかった。 だが、毎日午前十時になると、彼の秘書が決まって病室のドアを叩いた。その手には、いつも洗練された包装紙に包まれた、見るからに高価な手土産の箱が握られている。 今日は、桐箱に収められた最高級のマスクメロン。昨日は、老舗果物店の彩り豊かな特選詰め合わせ。一昨日は、希少なツバメの巣を凝縮したという高級美容ジュレのセット。 「社長からの伝言です。仕事が立て込んでおり、どうしても伺えないことを深くお詫びしておりました。どうか、しっかり静養なさってください」秘書は恭しく、けれど事務的な口調で告げた。 花音は、サイドテーブルに積まれた手つかずの箱に目をやった。 陽光に照らされたパッケージの金色のロゴが、キラキラと輝いている。それは、今の碧斗が生きる眩い世界そのもののようで、花音の瞳にはひどく毒々しく映った。 秘書が去った後、彼女は何気なくスマホを開いた。目に飛び込んできたのは、彩葉のSNSの更新通知だった。 画面の中には、どこまでも続くエメラルドグリーンの海と、透き通るような青空。その楽園のような景色を背景に、彩葉が碧斗の肩に愛おしげに寄り添っている。 【忙しい合間を縫って、連れてきてくれてありがとう】という言葉が添えられていた。 目が痛くなるまで、花音はその写真を見つめ続けた。 彼の言う「仕事が忙しい」とは、彩葉を連れて南国のリゾートへ行くことだったのだ。 スマホを閉じようとしたその時、一通の通知が飛び込んできた。 【浅見花音様。ビザの申請が承認されました。パスポートの準備が整いましたので、明日以降、窓口にてお受け取りください】 花音はそれを三度読み返し、声を出して笑った。 笑いながら、また涙が溢れた。画面の「承認」という二文字が、涙でぼやけていく。 ようやく、すべてが終わる。 もう、秒針を数えながら彼の帰りを待つ必要もない。冷めきった夕食を一人で飲み込むことも、裕子からの軽蔑に満ちた視線に耐えることもない。 何より――思い出に縋りつきながら、ボロボロになっていく自分を、ようやく許してあげられる。 翌日の昼、花音は退院手続きを済ませ、そのままビザセンターでパスポートと航空券を手に入れた。 邸宅に戻ると、リビングで碧斗と彩葉が親しげに談笑しており、使用人たちがゲストルームに荷物を運び込んでいた。 花音が戻ると、リビングにいた二人が揃って彼女の方を振り返った。 碧斗は視線を落とし、弁明するように口を開いた。「……彩葉の両親が海外旅行へ行ってな。一人で家にいるのは怖いと言うから、しばらくここで預かることにした。家同士の付き合いもあるし、仕事上の協力関係もある。俺が面倒を見るのが筋だろう」 そんな説明は、もう必要なかった。 今日この時から、二人は何の関係もない赤の他人になるのだから。 花音は小さく頷くと、そのまま二階へと上がった。 「そういえば」と、背後から彩葉が声をかけてきた。「これからは碧斗とミュージカルを見に行こうと思っているの。花音さんも一緒にどう?」 花音が答えるより先に、碧斗が言葉を遮った。「やめておけ。手も怪我しているし、家で休ませてやれ。……それに、彼女にはどうせ理解できない内容だろうしな」 花音は足を止め、振り返って、ひどく青ざめた微笑を浮かべた。「ええ、そうね。私には理解できないわ」 二人が出かけた後、花音の荷造りはすぐに終わった。 彼女は寝室の中央に立ち、かつては無数の希望を詰め込んでいたはずの部屋を見渡した。だが、今そこに漂っているのは、寒々とした荒涼とした空気だけだった。 サイドテーブルには、一枚のツーショット写真が置かれたままになっている。写真の中の碧斗は、世界に彼女しかいないかのような、どこまでも慈しみに満ちた眼差しで彼女を見つめていた。 花音はそのフォトフレームにそっと触れ、それから表面を下にして机に伏せた。 玄関のカウンターに合鍵を置き、静かに扉を閉める。 三年前の土砂降りの夜、路地裏で血まみれの少年を拾った。まるで空から落ちてきた星を拾ったような、そんな奇跡だと思っていた。 三年後の今日、彼女は荷物を引きずって、静かにこの場所を去る。 背後に残された邸宅の灯りは、遠ざかるほどに小さくなっていく。まるで、あの星など、最初から彼女の人生には存在していなかったかのように。