Đang tải thông tin quảng bá...
私たちの絆は、ここに断つ
「システム、私はこの世界からの離脱を申請します」 そう言った後、機械的な電子音がすぐに響いた。 「宿主の任務は、一途なサブキャラ・辻...
Chương (1)
第1章
「システム、私はこの世界からの離脱を申請します」
そう言った後、機械的な電子音がすぐに響いた。
「宿主の任務は、一途なサブキャラ・辻本茂仁(つじもと しげひと)を救済することでした。五年前に任務はすでに達成されましたが、当時、宿主が離脱を拒否したため、現在再び時空トンネルを開くには、辻本茂仁と別の女性との結婚を成立させる必要があります」
第1話
「システム、私はこの世界からの離脱を申請します」
そう言った後、機械的な電子音がすぐに響いた。
「宿主の任務は、一途なサブキャラ・辻本茂仁(つじもと しげひと)を救済することでした。五年前に任務はすでに達成されましたが、当時、宿主が離脱を拒否したため、現在再び時空トンネルを開くには、辻本茂仁と別の女性との結婚を成立させる必要があります」
その返答を聞いた橋本夕帆(はしもと ゆうほ)は一瞬呆然とし、続けて問いかけた。
「誰とでもいいの?」
「はい。こちらでは半月の時間を与えます。任務に失敗した場合、宿主は完全にこの世界に留まることになります」
誰にも知られていないが、夕帆はこの世界の人ではなかった。彼女はシステムによって小説世界に送り込まれた存在だ。
茂仁はこの物語の中で、ヒロインに狂おしいほどの愛情を注ぐサブキャラであり、彼女のためなら全てを捧げる覚悟を持っていた。
彼はヒロインにこう語った。
「雪華、君が俺と結婚するなら、辻本家すべてを結納にしよう。だがあいつを選ぶのなら、辻本家すべてを祝儀にしよう」
この一言で、何千万の読者の涙を誘った。
しかし、ヒロインの運命は主人公を愛すること。最後に選ばれるのは当然主人公であり、茂仁は若き日の狂気的な愛に囚われたまま、報われることなく孤独に老いていった。
夕帆に課された任務は、そんな彼を救い、その結末を変えることだった。
彼女は彼の世界に入り、彼が悲しみに沈んでいる時には寄り添い、堕落しそうな時には励まし、危険に晒された時には身を挺して守った。何度も、彼が必要とする時には必ずそばにいた。
茂仁はかつて彼女にこう尋ねた。
「なぜ、そこまで俺を助けてくれるんだ?」
その時彼女は彼を見つめ、瞳に深い愛情と決意を湛えていた。
「だって、私はあなたのためにここに来たのよ」
彼女は七年の歳月をかけて攻略に成功した。だが、システムから帰還可能だと告げられたとき、彼を手放すことができず、迷いなくこの世界に留まることを選んだ。
二人は恋人となり、幸せな時を過ごした。
やがて、原作のヒロイン・千川雪華(ちがわ ゆきか)と主人公の離婚の知らせが届いた。
雪華が再び茂仁の前に現れた時、彼の心はまるで宿命のように彼女へと向かっていった。
彼はかつて、自分が「これからの人生は君だけだ」と誓ったのも、すっかり忘れてしまったのだ。
雪華への愛が変えられない運命だった。そして同時に雪華も物語の制約から解き放たれ、主人公と離婚して茂仁の元へと戻ってきた。
ならば、今回は彼らを結ばせて、自分は元の世界に帰ればいい。
そうすれば、彼女は本来の世界へ帰還でき、彼は愛する人と結ばれる。
扉が開く音が思考を遮り、視線を向けると、そこには長身の茂仁と、その後ろにぴったりついてくる雪華の姿があった。
夕帆の視線が雪華に向けられて、離れないのを見た茂仁は、何気ない仕草で彼女を庇うように自分の後ろに隠した。
「雪華が住んでいるところ、最近物騒だから、しばらくうちに泊めることにした」
彼は優しく説明した。まるで彼女が怒るのを恐れているような口調だったが、その決定には揺るぎがなかった。
かつての彼女なら、その言葉を聞けばきっと怒っただろう。けれど、今の彼女はとても冷静だった。
「わかったわ」
その反応に茂仁は戸惑いを隠せなかった。
これほど穏やかな返答は予想外だったのだろう。だが最後は雪華への心配が勝り、彼女を連れて階段を上りながら、振り返ってこう言った。
「夕帆、俺と雪華のことはもう終わった。ここには俺しか頼れる人がいないから連れてきただけだ。怒らないでくれ」
ずっと彼の背後に隠れていた雪華も、その頭をそっとのぞかせて、微笑みながら言った。
「そうなのよ、夕帆。私と茂仁の間には本当に何も......」
だが、彼女の言葉は最後まで届かなかった。夕帆が淡々と視線を逸らし、すべてを悟ったような、何も気にしないような顔で遮った。
「わかってる。あなたたちはただの友達だ。気にしないし、怒ったりもしない」
その寛容すぎる一言に、二人の瞳に驚きがよぎった。
だがそれ以上の詮索もせず、二人はそのまま階段を上がっていった。
雪華は正々堂々と茂仁の別荘に住み始めた。
夕帆にとっては、二人を結びつけるという目的に沿うものであり、むしろ望ましい展開だった。
しかし、予想外のことが起きたのはその夜のことだった。
どうやって二人を取り持つか考えていた矢先、雪華に呼び出された夕帆は、目の前で彼女がわざと階段から落ちるのを目撃した。
彼女は一瞬驚いて、思わず駆け寄ろうとしたが、もう遅かった。
次の瞬間、誰かに激しく突き飛ばされ、彼女がよろけながら体勢を立て直した時には、既にあの人が駆け下りていた。
茂仁だ。
事態があまりにも急で、夕帆は何が起こったのか理解する暇もなかった。
彼は涙に濡れる雪華を愛しそうに抱きしめていた。
「茂仁、夕帆のことを責めないで。悪いのは私よ。二人はカップルなのに、私がここにいて邪魔してるだけ......もうすぐ出ていくわ」
まるで全ての苦しみを耐え忍びながら、それでも夕帆のために良いことを言おうとする健気な姿。
それを見た優しい男は、初めて夕帆の前で怒りを露わにした。
「もう何度言えばわかるんだ、俺と雪華はもう終わったって。昔の友情があったから泊めてるだけだ。なぜ、そんなに彼女を受け入れられないんだ?」
「私は......」
彼女の顔色は真っ青になり、まさか雪華が自分をここまで傷つけるとは思ってもみなかった。
弁解の言葉を口にしたとたん、彼は既に彼女を連れて去っていた。聞く気などなかった。
短い沈黙の後、夕帆の胸に鋭い痛みが走った。
もういい。どうせ彼の心には、すでに自分が犯人だと決めつけている。何を言っても無駄だ。
夕帆が雪華の病室を訪れた時、窓の外から、茂仁が献身的に彼女を看病する様子が見えた。
「茂仁、南区にあるあのお店のお粥が急に飲みたくなっちゃった......」
彼女は恥じらいに満ちた笑顔を浮かべ、彼は愛しげに彼女の頭を撫でた。
「食いしん坊だね。買ってきてやるよ」
彼が出て行こうとするのを見て、夕帆はそっと身を引き、彼の視線を避けた。
幸い彼は急いでいたため、彼女の存在に気付くことはなかった。
彼女は知っていた。南区にあるそのお粥専門店は有名で、町の反対側にあり、常に長蛇の列ができている。
ここからだとかなりの距離がある上、長時間並ばなければならない。時間も体力も消耗するだろう。
それなのに、雪華の一言で、彼はすぐに向かった。
やはり、心から愛している相手の望みなら、どんな手間でも厭わない。
彼の背中が角を曲がって消えていくのを見送った後、彼女は苦笑しながら病室に入った。
夕帆が入ってきた時、雪華の顔には相変わらずの笑み、そして目には明らかな優越感が浮かんでいた。
「茂仁は私がうるさくされるのを嫌がって、わざわざこのフロアを全部貸し切ったのよ。ちょっとした怪我なのに、彼ったら大げさに一番いい医者を呼んで......
夕帆、もしあの時私が間違った相手を選んでいなければ、今その奥様の座にいるのはあなたじゃなくて私だったはず。身の程を弁えて、とっとと離れたほうがいいわよ」
この言葉で彼女が怒ると思っていたのだろう。
だが夕帆はただ静かに彼女を見つめた。
相変わらず落ち着いた様子で、むしろ微笑みさえ浮かべながら言った。
「雪華、これからはもう私を陥れる必要はないわ。今日ここに来たのは、あなたと協力関係を結ぶためよ。
今日から、私は全力であなたと茂仁を結びつけてみせる。結婚するまで、ね」
第2話
「どういうつもり?」
雪華は思わず戸惑ったが、すぐに我に返って嘲るように鼻で笑った。
「あんたがそんな好意を持ってるなんて思えないけど」
夕帆はそれ以上何も言わず、彼女を深く見つめてからそのまま背を向けた。
「信じるかどうかはあなた次第。私の行動で証明するわ」
翌日、茂仁が雪華を連れて病院から戻ってくると、目の前の光景に目を大きく見開いた。
「これは、何をしてるんだ?」
その声には困惑が滲んでいた。一方で、夕帆の表情は穏やかだった。
「前に、私がうっかりお客さんに失礼なことをしてしまったでしょう?それで、寝室を空けて、雪華に使ってもらうことにしたの。彼女、ロココ調が好きって聞いたから、家具も全部それに合わせて新しくしたのよ」
まるで別の家のように変わったインテリアに、茂仁の脳裏には夕帆がこの家に引っ越してきたばかりの頃の光景が浮かんだ。
あの時の彼女もまた、嬉々としてこの家を飾り立てていた。無機質な白黒グレー一色だった別荘を一新し、彼女が心を込めて選んだ小物や観葉植物、二人の写真をあちこちに飾って、まるで「家」と呼ぶにふさわしい温もりを与えてくれた。
だが今のロココ調は、雪華の趣味そのものだ。確かに豪奢で凝ったデザインではあるけれど......何かが、足りない。どこか温かみに欠けているように思った。
彼が言葉を発しようと唇を開いたその時、ふと主寝室の中に敷かれた床の寝具に目が留まり、視線がそこに吸い寄せられた。
それに気づいた夕帆は、微笑みながら説明を加えた。
「雪華さんは雷が苦手だったでしょ?昔、あなたはよく彼女の家の下まで行って付き添ってあげてたじゃない。今はこうして一緒に住んでるし、より楽でしょ?だから二人で一緒に寝たらどうかと思って」
その言葉に、茂仁の瞳は一層大きく見開かれ、信じられないといった表情になっていった。
「夕帆、今、何て言った?俺が、雪華と......一緒に寝るって?」
「あなたたち、もう終わったって言ってたじゃない?」
彼女は笑顔のまま答えた。その言外の意図は明白だったが、茂仁にはどこか引っかかるものがあり、言葉を継ごうとしたところで、隣にいた雪華が急に顔を曇らせ、目にみるみる涙を浮かべ始めた。
「いやなの?雷の日、あなたはいつも私の家の下でずっと立っててくれたじゃない......」
大粒の涙が今にもこぼれ落ちそうになったその瞬間、茂仁の思考はすべて止まり、ただ条件反射のように彼女に頷いた。
疚しい思いがあったからだろうか。翌朝、茂仁は会社に出かける前に、夕帆へと二枚のオペラのチケットを差し出した。
「夕帆、ずっとオペラを観に行きたいって言ってたよね。今日の仕事終わって、一緒に行こう」
「ええ」
夕帆は微笑を崩さぬまま、何事もなかったかのようにチケットを受け取ると、彼が車に乗って去っていくのを見送った。
そしてすぐに、手にしたチケットを朝食中の雪華の前へと無言で差し出した。
「彼と一緒に行って」
雪華は戸惑いながらもチケットを受け取った。彼女が取り返そうとする素振りを見せないのを見て、ようやくその意図を察した。
本気で、自分と茂仁をくっつけようとしているのだと。
その瞬間、彼女の顔には満足げな笑みと優越感が浮かび上がった。
「最初から諦めてくれてよかった。あなたも勝てないとわかってるでしょう」
鼻で笑いながら、彼女は軽やかに階段を上がっていった。今日は珍しく夕帆に嫌味の一つも言わず、約束の時間が近づくと、時間をかけて着飾って出かけていった。
その頃、茂仁はすでにオペラ劇場に到着していた。
入口に飾られた主役のポスターを眺めていると、自然と思い出されるのは──数年前、夕帆と付き合い始めた頃のこと。
彼女はオペラが好きで、何度も一緒に観に行こうと誘ってくれた。
けれどその度に彼は、「次は、必ず行こう」と、優しく断っていた。
空約束は積もりに積もって、ついに今日を迎えるに至った。
第3話
突然、胸の奥に罪悪感が湧き上がってきた。少し悩んだ末に、彼は長蛇の列ができているカウンターに並び、夕帆の好きなお菓子をいくつか買った。
買い物を終えた彼がふと顔を上げると、どこかで見覚えのある姿がこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。自然と口元に微笑みが浮かんだが、すぐに何かがおかしいと気がついた。
服装、体つき、そして近づいてきたときに見えたその顔――夕帆ではない。どう見ても雪華だ。
彼女は恥ずかしそうに微笑みながら彼に近づき、腕を絡ませた。
「夕帆、ちょっと体調悪いみたいで......チケットを譲ってくれたの。さあ、行きましょ」
だが、彼女の言葉を聞いた瞬間、茂仁の顔色が一変した。
「具合が悪い?どこが?」
そう言うなり、彼はすぐに引き返そうとした。
それに気づいた雪華は慌てて彼の腕を引き止め、甘えるように言った。
「ほんの風邪よ、ちょっと休めばすぐ治るって......茂仁、この演目、ずっと前から楽しみにしてたの。一緒に観ようよ!」
彼女の甘く柔らかな声が、不安で乱れた彼の心を落ち着かせた。彼は昔から彼女の頼みを断れないのだ。少しのためらった末に、結局うなずいて、雪華と共に会場へと足を踏み入れた。
彼女の顔には再び笑みが浮かび、道中も彼の腕を引きながら絶え間なく話しかけていた。本番が始まると、雪華は舞台の一場面ごとに感想を述べるほどだった。
だが、かつてなら彼女の言葉に全て応じていた茂仁も、今日は上の空だった。ただ機械的に頷き、時おり適当な相槌を打つばかり。
終演後、彼は一言も発さず、無言のまま彼女を連れて別荘に戻った。
扉を開けると、そこにいたのは病気で寝込んでいるはずの夕帆ではなかった。彼女の頬には赤みが差し、霧吹きを手に花に水をやっていた。
「具合が悪いって言ってたじゃないか?」
茂仁の声は冷たく鋭く、その詰問が彼女を怯ませることはなかった。
「ええ、もうだいぶ良くなったわ」
彼女は手を止めることなく答えた。少し間を置いてから顔を上げ、二人を見た。
「今日は楽しかった?良い時間を過ごせた?」
彼女の様子を見て、茂仁にはわかっていた。彼女は病気なんかではなかったし、チケットを渡したのも自分の意思だったはず。だが、そんな平然な態度で振る舞われると、胸の中に何とも言えない怒りが渦巻いた。
「とても、楽しかった」
歯を食いしばりながらそう言うと、彼は険しい表情をして部屋へと入っていった。
残された夕帆は、彼の態度に戸惑った。好きな人と一緒になれるよう手を尽くしたのに、何を怒ってるのだろう。
そして、すぐそばから不快な声が響いた。
「夕帆、これが『私たちを結びつける』ってこと?まさか、わざとじゃないでしょうね?そんな手で茂仁の気を引こうなんて!いいわ、そっちが諦めないなら、私も遠慮しない!」
こう言った後、雪華は床に倒れ込み、顔を青ざめさせて腹を押さえながら叫び出した。
「痛い......お腹が、すごく痛い!」
玄関を出たばかりの茂仁は、その悲鳴を耳にした瞬間、慌てて引き返してきた。倒れている雪華を抱き上げ、動揺した声を漏らす。
「雪華、どうしたんだ!?」
彼女は彼の腕の中で、涙に濡れた目をこちらに向けた。
「分からない......さっき、夕帆がくれた水を飲んでから、急に......」
「何度言ったら分かる!俺と雪華のことは、もう終わったって!なのに、なんでわざわざ彼女を傷つけるんだ......チケットだって、自分からあげたんじゃないのか?それなのに、なんでこんなことを!」
その目には怒りが燃え上がり、彼は震える声でボディガードに命じた。
「こいつを外に立たせておけ。雪華が許すまでは、絶対に中に入れるな!」
第4話
命じられるままに、ボディガードはすぐさま夕帆を中庭へと引きずり出し、少し距離を置いて見張りを始めた。
彼女はぼんやりとその場に立ち尽くし、弁解もせず、謝罪の言葉さえ口にしなかった。
厚い雨雲が頭上に立ち込め、間もなく大粒の雨が降り注ぎ、彼女の薄手の服はあっという間にびしょ濡れになった。
傍らにいた使用人たちはその様子を見て、耐えきれなかった。
「橋本さん、なぜ弁明しないのですか?」
先ほど雪華が取った行動は隠しようもなく、夕帆が水を差し出した事実などなかった。それでも茂仁は雪華の一言だけで、彼女を一方的に断罪した。
「説明したところで、彼が信じるとでも?」
彼女は苦笑を浮かべた。
初めて茂仁と出会ったその日から、彼はいつも優しく、温かかった。数少ない感情の乱れも、すべて雪華のためだった。
千川雪華という名は、彼の心の中で触れるべからず、純粋無垢な高嶺の花だった。誰も彼女の代わりにはなれない。
空は次第に暗くなり、雨は一向に止む気配を見せなかった。初秋の風雨が肌を刺すように吹きつけ、彼女は思わず身震いした。
雨に濡れた視界はぼやけ、意識もまた徐々に朦朧としていった。どれほどの時が過ぎたのかも分からぬまま、ついにはその身を支えきれず、地面に崩れ落ちた。
再び目を開けた時、彼女は既に部屋のベッドに横たわっていた。
茂仁が枕元に座り、薬をそっと吹き冷まし、差し出してきた。
「すまない。使用人が教えてくれた。水は雪華自分で注いだんだ。君を誤解してしまった」
彼女の表情は平静そのもので、まるで先日、彼が雪華を連れて屋敷へ戻ってきたあの日と同じだった。喜怒哀楽の欠片もない。
茂仁はその様子に気づかなかった。彼女がまだ自分に怒っているのだろうと勝手に納得した。
「雪華は以前、つらい恋愛を経験したんだ。だから不安定なんだよ。彼女のこと、許してやってくれないか」
言葉を切り、彼女が黙って薬を飲み続けるのを見届けると、さらに続けた。
「今回のことは、確かに俺が悪かった。もうすぐ君の誕生日だろう?一番欲しい『サプライズ』を用意してる」
その言葉に、彼女の手が一瞬止まった。薬を飲むふりをして、口元の苦笑を隠した。
いま、彼女が一番欲している「サプライズ」は、彼の元を去る自由だ。
時は流れ、あっという間に夕帆の誕生日が訪れた。
多くの客が招かれ、茂仁がこの宴に相当な労を尽くしたことは一目瞭然だった。
杯を重ね、言葉を交わし、場は賑やかに盛り上がっていた。
やがて、宴のハイライト――贈り物披露の時間が訪れた。
列席者は皆、錚々たる顔ぶればかりで、贈られる品の数々に彼女の目もくらむほどだった。
そしてついに茂仁の番になると、彼は謎めいた笑みを浮かべ、彼女を舞台上に呼び寄せた。
その場で彼は片膝をつき、使用人が運んできた真紅の薔薇の花束を前に置いた。花束の中心には、ビロードの小箱が鎮座していた。
彼はその箱を開き、指輪を取り出し、深く彼女を見つめながら言った。
「夕帆、俺と結婚してくれないか?」
四方から注がれる視線。彼の手の中で輝くダイヤの光に、彼女の思考は混乱の渦に包まれていた。
これが、彼の言う「一番欲しいサプライズ」なのか。
会場には歓声が響き渡っている。しかし彼女の心は迷いに満ち、答えを出しかねていた。
その時、突然会場の一角から悲鳴が上がった。
「誰か倒れたぞ!」
その声に、茂仁は思わずそちらを振り向き、目を見開いた。
「雪華!」
指輪をしまう余裕すらなく、彼は即座に立ち上がり、駆け寄って雪華の体を抱き上げると、そのまま会場を後にした。
結局、賓客たちに頭を下げながら見送ったのは、他ならぬ夕帆だった。
一人帰宅し、階段を上がると、開かれたままの寝室の扉の向こう、目に飛び込んできたのは、雪華の髪を撫でる茂仁の、限りなく優しいその手つきだった。
彼女と視線が合うと、彼ははっとして手を引っ込めた。
「彼女が気を失っていたから......髪を整えただけなんだ。夕帆、誤解しないでくれ」
そう言って部屋を出て扉を閉め、彼女の前に立って声を潜めて続けた。
「それより、さっきの返事だけど......俺と、結婚してくれるか?」
強引に話題を戻すその態度に、彼女は返す言葉を見つけられず、手にしていた水の入ったコップを差し出した。
「もう遅いし、まずは休んで」
彼が水を飲み干し、洗面所へ向かうや否や、彼女は雪華の部屋のドアをノックした。
「雪華、あんたが気を失ったふりをしてるのは知ってる。さっき、茂仁に薬を盛ったわ。今こそ絶好のチャンスよ、早く行きなさい」
その後、シャワーを終えた茂仁が髪を拭きながら部屋へ戻ると、照明が消されており、薄明かりの中に小柄な人影がベッドに横たわっているのが見えた。
なぜか喉が渇くような感覚を覚えながら、彼はその体を自然に抱き寄せて、唇を近づけようとしたその時、ふと鼻先をかすめたのは、薔薇の香水の匂いだった。
だが、夕帆は香水など使わない。
手を止め、パッと身を引いて照明をつけると、ベッドに横たわる人物を見て、息が止まった。
雪華だ。
第5話
リビングには、事が露見しても慌てる様子のない穏やかな顔の夕帆がいた。対する茂仁は顔を曇らせ、黙ったまま二人と向き合っていた。
「本当に、ただ部屋を間違えただけなの......」
雪華は毛布に身を包み、涙を湛えた瞳で怯えたように小声で弁解した。
だが、茂仁の視線はまっすぐ夕帆に向けられており、その言葉を信じていないことは明らかだった。けれど夕帆は落ち着いたまま、雪華の言葉を肯定した。
「雪華さんは体調が悪いんだから、部屋を間違えるのも無理はないわ」
茂仁は依然として沈黙しっていたが、そのとき、裾がふと引かれた。
目を向けると、まだ目元に涙の痕を残す雪華がいて、巧妙に話題を変えてきた。
「ひとりで寝るの怖いの......茂仁、今夜は一緒に寝てくれない?」
しばらく躊躇したものの、彼はついにその願いを拒めず、うなずいた。
そのまま事態はうやむやになったが、深夜になって夕帆のスマホがメッセージを受信した。
差出人は茂仁だ。
【今夜、一体どういうことなんだ?君からもらった水を飲んだあと、身体の調子が急におかしくなって......それで気づけば雪華がベッドにいた】
夕帆は全く慌てず、少し考えてから返信した。
【あの場は人も多かったし、パーティー中に誰かに薬を盛られたんじゃないの?それに、雪華さんのことならさっきも言ってたでしょ。ただ部屋を間違えただけ。まさか、私がわざと彼女をあなたのベッドに送り込んだとでも?】
最後の一文を見て、茂仁はしばし沈黙した。
そうだ。
彼は何を考えていたのだろう?
夕帆はあれほど自分を愛してくれた。どうして彼女が自ら、他の女に自分を譲るなんて考えられる?
彼女が現れたあの年、彼の心は雪華でいっぱいで、突然現れて「好き」と言い張る彼女のことをまともに見たことがなかった。でも彼女は、決して諦めなかった。
「あなたには好きな人がいるのは知ってる。でも私は気にしない。茂仁、私にもあなた自身にも、もう一度チャンスをちょうだい。過去の恋に縛られないで、お願い」
どんなに落ちぶれても、彼女はずっとそばにいた。
孤独なとき、振り返ればいつもそこに彼女がいた。
四年前の事故のときだって、二人の車が衝突したあの瞬間、彼女は迷わず自分を庇ってくれた。
後になって、なぜそこまでして自分を愛せるのかと問うと、彼女はこう答えた。
「あなたを愛することが私の使命なの。茂仁、私は永遠にあなたを愛し続けるよ」
回想から現実に戻ると、さっきまでの疑念がすっと霧散した。
彼女がそれほど自分を愛しているのなら、他の女に自分を押しつけるなんて、あるはずがない。
茂仁がそれ以上問い詰めなかった一方で、夕帆はふと自嘲気味に笑みを漏らした。
昔の彼女は、あまりにも彼を愛しすぎていた。
だからこそ、茂仁は彼女が絶対に自分のもとを離れないと思っていたのだろう。
けれど、愛は、何度も失望させられることで、やがて消えてしまうものなのだ。
本当の「別れ」とは、大声で責め立てたりするものではない。
静かに、音もなく、去っていくことなのだ。
この一件のあと、夕帆は下手に動くのをやめ、目立つ行動は避けた。
それからしばらくして、茂仁が彼女に「流星群を見に行こう」と誘ってきた。だがそのとき、偶然通りかかった雪華がそれを耳にしてしまった。
「えっ、流星群見に行くの?私も行きたいなぁ!まだ一度も見たことないの。茂仁、私も一緒に連れてって?」
もちろん茂仁が彼女の願いを断るはずもなかった。たかが一人増えるだけ――そう思っていた。
出発のとき、無意識に助手席へと向かう二人を見て、彼は一瞬迷ったように夕帆を見た。
「夕帆、雪華は車酔いしやすいんだ。前の席に座らせてあげてもいい?」
夕帆は一瞬手を引っ込めたが、その表情にはまったく動揺がなかった。
「いいわよ」と、すぐさま微笑み、後部座席のドアを開けて中に乗り込んだ。
彼女もまた、車酔いしやすいことを、彼は知っていた。
けれど、選んだのは、愛する人の方だった。
その日の山は、流星群の影響か人出が多く、車はしばしば渋滞で止まった。
そのうち、夕帆の顔色はみるみるうちに青ざめていった。
山道が狭くなり、車では進めなくなったため、一行は徒歩で山を登ることにした。
もともと車酔いでふらついていた夕帆だったが、山を登っている途中、突然――
ガツン!
横からものすごい力で誰かにぶつかられた。
「きゃっ!」
第6話
彼女は強く突き飛ばされ、体勢を崩したまま地面に尻もちをついた。足首に走った鋭い痛みに思わず声を上げるが、その瞬間、彼女は気付いた――声を上げたのは自分だけではなかった。
振り返ると、顔をくしゃくしゃにして、今にも泣き出しそうな表情の雪華が、茂仁を見つめていた。
その位置を見た瞬間、先ほどの突き飛ばす力が誰からか、夕帆はすぐに察した。
二人の異変に気づいた茂仁はすぐに戻ってきて、唇を尖らせた雪華が訴える。
「茂仁......足を挫いちゃったみたい。痛いよ......」
甘えたような声が出た瞬間、彼の心は大きく波立ち、目には彼女への憐れみが浮かんだ。
「俺が背負って山頂まで連れて行くよ、ね?」
彼は優しく語りかけ、心のすべては雪華だけに向けられていた。まるで、同じ足を挫いた夕帆の存在など初めからなかったかのように。
彼女は何も言わず、ただ黙って立ち上がった。幸いにも彼が雪華を背負っていたおかげで、何とかついていけた。
足を引きずりながらようやく山頂に着いたころ、ようやく一息つけると思った矢先、雪華が声を上げた。
「あっ、カメラを車に忘れちゃった!」
それを聞いた彼は彼女を見つめ、優しく微笑んだ。
「俺が取ってくるよ」
その瞬間、雪華の視線が自分に向けられたことを感じた夕帆の胸に、警鐘が鳴った。案の定、次の瞬間、彼女はにこやかにこう言った。
「いいの、夕帆さんが付き合ってくれればいい」
有無を言わせず手を引かれ、ふたりは山を下り始めた。
茂仁の視界から外れたところで、雪華は急に足を止め、夕帆を見つめながら得意げに笑った。
「夕帆、昨日はあなたの誕生日だったよね?プレゼントを渡すのを忘れてたけど、今からでも遅くない」
そう言ってスマホを取り出し、何かを操作したかと思うと、それを夕帆の前に差し出した。
画面に映ったのは、こっそり撮られた日記帳の写真だ。
そこに綴られた文字は、筆跡からして茂仁のものだとすぐに分かった。
【雪華は他の人を選んだ。長年守ってきたけれど、彼女は結局俺のものにはならなかった】
【彼女はプロポーズを受け入れた。俺の気持ちを知ってるくせに、俺を介添人に指名した。きっと彼女は、俺が彼女を愛してるから、何を言っても断れないって分かってるんだ。いいさ、彼女が笑ってくれるなら、地獄だって喜んで行くよ】
【雪華は今幸せじゃない。彼女は知らないのだろう。俺が毎日、彼女の家の前で待っていることを。時には数時間、時には一晩中。彼女が振り向いてくれさえすれば、そこに俺がいることに気づくはずなのに】
【今日、俺に好意を寄せる女性に出会った。名前は橋本夕帆。彼女は俺のために来たと言った。ずっと俺を愛し続けると。
でも、他人の気持ちなんて、俺にはどうでもいい。俺がこの一生で望むのは、雪華の愛だけだ。少しだけでもいい。日々、少しずつ、何年も、何十年もかけて、どうてもいい、長く続く愛が欲しいんだ】
......
写真が次々と切り替わるたびに、夕帆の脳裏には、机に向かってこれらの言葉を書き綴る彼の姿が浮かんだ。
まるでその全ての言葉に、雪華への想いが溢れんばかりに込められているかのようだった。
夕帆は彼に愛されなかった。茂仁は雪華を愛し、そしてその想いは報われないままだった。
結局、誰も報われていなかった。
呆然と画面を見つめる夕帆を、雪華の鋭い声が現実へと引き戻した。
「分かったでしょ?茂仁がずっと好きだったのは私よ。分を弁えて、さっさと身を引きなさい。でないと恥をかくのはあなただけよ」
「身を引くわ。でも、今じゃない」
最初から、彼が好きなのは雪華だと知っていた。それでも夕帆は、傍にい続ければ、いつかその心の中に自分の居場所ができると信じていた。
だが雪華が戻ってきた今、それがただの幻想だったと気づいた。
一途なサブキャラが愛するのは永遠にヒロインだけ。他の誰かを愛することなど、あり得ないのだ。
それでも、彼女はまだこの場を離れるわけにはいかなかった。茂仁と雪華が結婚するまでは。
夕帆が返そうとしたその時、雪華が手を掴んだ。
「今じゃないって、いつならいいの?はっきり言いなさいよ!」
二人の立っている場所は、山道のすぐ脇の斜面で、決して安全とは言えなかった。
夕帆は眉をひそめ、周囲を確認しながら、争いを避けようと彼女の手を振りほどこうとした。
「手を離して!」
「答えなさい!」
だが、雪華は応じようとしなかった。返事がないことに逆上し、さらに力を込めてきた。
行こうとする夕帆と、引き止めようとする雪華。二人の力が拮抗する中、バランスを崩した雪華が、足を滑らせた。
そのまま彼女は斜面へと倒れ込んでいった。
そして、手を掴まれていた夕帆もまた、逃れられず――そのまま、引きずられるように斜面へと落ちていった!
第7話
茂仁が異変に気づき、山を下りて二人を探し始めたのは、それから数時間が経ってからだった。
ようやく山のふもとで、傷だらけで瀕死の状態にある夕帆と雪華を見つけた彼は、動揺と焦りを隠せずにいた。
「茂仁......」
かすかな物音に反応して、夕帆がぼんやりと目を開けた時、目の前には雪華を抱き上げようとする茂仁の姿があった。
無意識のうちに、彼の名を呼んだ。
その声に、彼の体が一瞬ビクリと強張り、ゆっくりと振り返って彼女を見た。
「夕帆、雪華の容態がかなり悪いんだ。彼女を安全なところに運んだら、すぐ戻ってくるから、ちょっとだけ待っててくれないか?」
夕帆は何か言おうとしたが、声はあまりにもか細く、彼の耳には届かなかった。彼はそれ以上何も言わず、雪華を抱えたまま急いで去って行った。
止めることもできず、夕帆はただその場で待つしかなかった。
しかし、時間は過ぎても、彼は戻ってこなかった。
日が傾き、気温もどんどん下がっていく中で、彼女の意識は再び朦朧としてきた。
朦朧とした意識の中、生き延びたいという本能で、彼女は自分の舌を噛んで、激痛で意識を無理やり呼び戻した。
目に宿るのは、ただ一つの想い――「生きたい」。
ここで死ぬわけにはいかない。絶対に、帰らなければ。
誰も助けに来ないのなら、自分で這ってでも助けを呼ぶしかない。
その強い意志で、彼女は血まみれの体を引きずりながら、車の通る道路までたどり着いた。
そして、人影を見たその瞬間、張り詰めていた神経が途切れ、彼女はそのまま意識を失った。
次に目を覚ました時、夕帆はすでに病院のベッドの上にいた。
そして、ようやくあの時「すぐ戻ってくる」と言った茂仁と再会することになった。
「夕帆、目が覚めたんだね」
彼は緊張した面持ちでベッドに駆け寄り、安堵の息を吐いた。
だが、夕帆はただ黙って彼を見つめ、しばらくして、かすれた声で問いかけた。
「どうして、迎えに来なかったの?」
その言葉に、茂仁の顔は一瞬で凍りついた。
やがて目を赤くしながら、ぽつりと語り始めた。
「雪華の容体がかなり悪くて......急いで病院に連れて行ったんだ。検査してみたら.....実は彼女、この前すでにがんだと診断されてたんだ。
今回戻ってきたのは、最後のお別れを言うためだったんだって。俺に心配かけたくなくて、隠してたみたいなんだ......
その事実を聞いた時、頭が真っ白になって……だから、君のこと、すっかり……本当にごめん。怒っても責めても構わない、でも……君に嫌われたくないんだ」
彼の言葉に、夕帆は答えず、心の中で静かにシステムに呼びかけた。
「システム、千川雪華は本当に末期の病気なの?」
「いいえ。医者に頼んで偽の診断書を用意させただけです」
機械的な電子音が、彼女の疑いをあっさりと肯定した。
夕帆は静かに微笑んで、しばらく沈黙し、やがて彼を見て言った。
「だったら、彼女のそばにいてあげて」
その言葉に、茂仁は感動したように微笑み、彼女をそっと抱きしめた。
「夕帆、君みたいに優しくてわきまえのある彼女がいて、本当に幸せだ。雪華の命は、もう長くない。彼女を看取ったら、必ず君の元に戻ってくるから......待っててくれる?」
それからの彼は、雪華のそばを片時も離れなかった。
そして夕帆も、彼に何一つ問いかけることなく、その日々を静かに見送った。
全ての怪我が癒え、彼女が一人で退院手続きを済ませ、自宅に戻って最初にしたことは、茂仁の「日記」を確かめることだった。
最終ページを開くと、そこにはたった一行――
【雪華が末期がんだと知ったとき、俺の最初の思いは、殉死したいだった。彼女が死ぬなら、俺も生きてはいけない。だが】
第8話
彼が書き残した言葉の続きを、彼女はあえて考えようとはしなかった。ただ静かに微笑んで、日記を閉じ、元の場所に戻した。
翌日、雪華は茂仁に付き添われて退院した。
「どうせ死ぬなら、一番馴染みのある場所で死にたい」と言った。
ちょうど数日後は彼女の誕生日だ。茂仁は自ら準備をし、かつて夕帆のために開いた宴よりも盛大な誕生日会を開いた。
「あなたが引き下がらないなら、私が目の前で見せてあげるわ。茂仁がどれほど私を愛してるのか、思い知らせてあげる!」
得意げに眉を上げた雪華だったが、夕帆はその挑発に微塵も動じず、まるで何も聞こえなかったかのように落ち着いていた。代わりに、他ののことを聞いた。
「あとで、願い事をするんでしょう?」
「もちろんよ!」願い事の話になると、雪華はさらに得意げに言った。「今の私が願えば、彼は何でも叶えてくれるもの」
夕帆は静かに首を振った。「それなら、これを願ってみて」
そう言って、彼女は小声で雪華の耳元に何かを囁いた。
雪華は息を呑み、信じられないように夕帆を見つめた。
二十分後、大きなバースデーケーキが運ばれ、ろうそくの火が灯された。雪華の目には光が宿っていた。
「茂仁、私が何を願っても叶えてくれるって言ったわよね?」
「ええ」彼は優しく頷いた。
その言葉を確認すると、彼女は夕帆を一瞥し、唇の端をゆるやかに上げて言った。
「じゃあ、私、あなたと結婚したい」
その一言で、場内は騒然となった。
茂仁は息を呑み、なぜか無意識に夕帆の方を見てしまった。
彼の返事がなかなか返ってこず、雪華の目の光は消え、涙が瞬く間にあふれた。
その涙が、まるで大きな金槌のように彼の心を打ち砕いた。もう何も考えられなくなった彼は、ただ焦りながら優しく彼女を宥めた。
「……わかった、結婚しよう」
彼女はようやく笑顔を取り戻し、彼の手を引いてホールの外へと駆け出していった。
「辻本社長が千川さんにぞっこんって噂は本当だったのね」
「そりゃそうよ。昔、千川さんが苦境に立たされたと聞いた辻本社長は、すぐさま私財の半分を投げ打って彼女を支えたんだから」
「今の彼女もずっと一緒にいたんでしょ?でも、やっぱり初恋には敵わないのね。その人が戻ってきたら、何年もの付き合いなんて全部無意味だね」
角に立ち、目を赤くして黙って涙を流していた夕帆を見て、周囲の人は彼女が悔しくて泣いていると思った。
だが、それは違う。
彼女が涙を流していたのは、嬉しかったから。
茂仁が雪華と結婚すると決まって、嬉しかった。
自分の任務が果たされることが、嬉しかった。
そして、ようやく、家に帰れることが嬉しかった!
その夜、賓客が帰った後、茂仁はすぐに夕帆の元に戻り、申し訳なさそうに彼女を抱きしめた。
「夕帆、ごめん......雪華には残り時間がないって医者に言われたんだ。今は、彼女の願いをすべて叶えてあげるべきだと思って......あの結婚もただの形式だけど、怒らないでほしい」
彼は、長く宥めなければならないと覚悟していた。だが意外にも、夕帆はまったく怒っておらず、穏やかに彼を見つめて言った。
「分かってる。今は、雪華さんの方が大事なんでしょう?
結婚式の準備、私がやるわ。お二人に最高の式にしてあげる」
それからの日々、夕帆はドレス、靴、会場、すべての手配に奔走した。
雪華からどんな無理難題を押し付けられても、反論せず、黙って全てをこなした。
最近やつれていった彼女を見て、茂仁の心には罪悪感が広がっていった。
「雪華を見送ったら、その後はずっと君のそばにいる」
彼の言葉に、夕帆はふっと笑った。
その後?
そんなもの、もうない。
茂仁、あなたたちが結婚さえすれば、私はようやく帰れるの。
第9話
結婚式の前夜、夕帆は自分の持ち物をすべて整理し、一つ一つ火の中に投げ入れていた。
その光景を目にした茂仁は、目を見開き、慌てて駆け寄った。
「夕帆、何をしてるんだ!」
「ここはこれからあなたたちの新居になる場所よ。私の物を置いておくのはよくないでしょ?」
彼女は淡々と笑いながら答えた。言葉は軽やかだったが、茂仁の心には妙な不安が広がっていった。
「前にも言ったけど、あれは全部偽りなんだ!」
「わかってるわ。でも、偽りならなおさら、それらしく演じなきゃ」
彼女の表情は静かで、手の動きも止まらなかった。物をひとつ火鉢に投げ入れれと、その物の思い出を口にした。
「これは私があなたに書いたラブレター。あの頃、あなたの心は雪華でいっぱいで、私の手紙は読むこともなく捨ててたわね。
これは私があなたに編んだマフラー。雪華が森承平(もり しょうへい)にマフラーを編んだと知って嫉妬してたから、私が代わりに編んだの」
......
彼女はすべてを燃やし尽くし、茂仁は今まで感じたことのない焦燥に襲われ、彼女を抱きしめて必死に繰り返した。
「全部偽りなんだ、本当に......」
彼女は真剣にうなずいて、ただ一言。
「わかってる」
結婚式当日、招かれた客は多かった。
花嫁を迎える儀式で、夕帆は自らの手で雪華を茂仁に引き渡した。
彼の前には確かに雪華と夕帆が並んでいた。だが、何故か心のどこかがざわついている。
まるで、何か大切なものが自分の人生から永遠に消え去ってしまうような、そんな予感が胸を締めつけている。
彼は雪華の手を取りながらも、視線は夕帆から離せず、離れ際にひとこと声をかけた。
「夕帆、君は後ろの車に乗ってきて。安心して、変なことはしないから」
彼女はやはり笑顔でうなずいた。すぐそこにいるのに、彼には彼女がもう遠くへ行ってしまうような錯覚があった。
そのとき、彼女の脳裏に再び電子音が響いた。
「宿主、任務完了おめでとうございます。肉体の死をもって、この世界から離脱し、元の世界へ帰還できます」
この時、夕帆は本当に心から笑った。
何度も振り返る茂仁は、その笑顔を見てふと立ち止まった。最近もよく彼女の笑顔を見たが、こんなに心からの笑顔は本当に久しぶりだった。
「茂仁、どうかしたの?」
雪華が不思議そうに問いかけると、茂仁は我に返り、彼女の手を引いて車に乗り込んだ。
「なんでもないよ。もう時間だ、ホテルに行こう」
夕帆も素直に彼らの後ろの車に乗り、式場となるホテルへ向かった。
到着後、他の人々は茂仁と雪華とともに会場へと入っていった。夕帆だけが最後に一人、遠く離れて立っていた。
全員の姿が見えなくなった後、彼女は一歩一歩、エレベーターへと向かい、最上階のボタンを押した。
ホテルは高く、屋上は風が強かった。風が彼女のドレスをはためかせる中、彼女の視線は近くの巨大スクリーンに注がれていた。
今回の茂仁と雪華の結婚式は全市に生中継されており、彼女のいる場所からも映像がはっきり見える。
二人が愛を誓い、指輪を交換する様子を。
そして最後、司会者の「新郎新婦、キスをどうぞ」の声とともに、システムの音声が再び響いた。
「宿主、時空トンネルが開きました。世界離脱が可能です」
その声を聞き、夕帆は最後にもう一度だけスクリーンを見つめた。
スクリーンの中、茂仁は満面の優しさを浮かべ、頬を赤らめる雪華へと顔を近づけていた。
彼女は一歩、前へと踏み出した。
茂仁、私は帰るわ。
私たちの絆は、ここに断つ。
その後の茂仁の人生に、夕帆の姿はもう、どこにもいなかった。
高層の縁に立っていたその足は、ついに――踏み外された。
ドン!