今宵、月は何処へ

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今宵、月は何処へ

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早坂美羽が個室の扉を開けようとしたその瞬間、「初恋の破壊力」について語り合う男たちの声が耳に飛び込んできた。 「悠翔、さっき全員話した...

Chương (1)

第1章

早坂美羽が個室の扉を開けようとしたその瞬間、「初恋の破壊力」について語り合う男たちの声が耳に飛び込んできた。 「悠翔、さっき全員話したんだから、次はお前の番な。逃げんなよ?」 その名前を聞いたとたん、美羽の手が扉の前で止まった。 神崎悠翔はしばらく黙っていたが、やがてグラスの酒を一口含み、アルコールの香りをまとった低い声で話し始めた。 「俺、心臓の近くにあの子の名前のタトゥーを入れてる。今でも消してない。 ライダースには血の跡が残ってる。初めて彼女と肌を重ねた時についたもので、ずっと大事にしてる。 今付き合ってる子は、あの子の代わりなんだ」 第1話 早坂美羽(はやさか みわ)が個室の扉を開けようとしたその瞬間、「初恋の破壊力」について語り合う男たちの声が耳に飛び込んできた。 「悠翔、さっき全員話したんだから、次はお前の番な。逃げんなよ?」 その名前を聞いたとたん、美羽の手が扉の前で止まった。 神崎悠翔(かんざき ゆうと)はしばらく黙っていたが、やがてグラスの酒を一口含み、アルコールの香りをまとった低い声で話し始めた。 「俺、心臓の近くにあの子の名前のタトゥーを入れてる。今でも消してない。 ライダースには血の跡が残ってる。初めて彼女とヤった時についたもので、ずっと大事にしてる。 今付き合ってる子は、あの子の代わりなんだ」 その一言一言が、美羽の耳に突き刺さり、心に雷が落ちたような衝撃を与えた。 血の気が引き、体中が氷のように冷たくなる。まさか、自分が悠翔の「初恋の代わり」だったなんて…… 室内は一瞬の静寂の後、男たちの熱狂的な歓声に包まれた。 「すげぇな、マジで!」 「さすが悠翔!一発でキメるなんて、ほんとロマンチスト!」 「そういえば、和泉優奈(いずみ ゆうな)がもうすぐ帰国するって聞いたぞ。もしまだお前のこと忘れてなかったら、すぐにより戻せるんじゃないか?でも今の彼女のこと、どうすんだよ?お前の妹の親友だろ?うまく処理しないと、妹の人間関係めちゃくちゃになるぞ?」 悠翔は少し考え込んだが、それ以上何も答えなかった。 部屋の中から誰かが出てこようとしたのを見て、美羽は我に返り、真っ青な顔で階段を降りていった。 外は土砂降りの雨。美羽は感覚を失ったように、雨の中をただ歩き出した。 冷たい雨粒が頬に打ちつけ、流れる涙と混ざり合って頬を伝い落ちていく。 ぼんやりとした視界の中、頭の中を巡るのはさっき聞いたあの言葉たち。記憶が次第に蘇ってくる。 悠翔は親友の兄で、四つ年上。彼と初めて出会ったのは高校時代、親友と一緒にチンピラに絡まれていた路地裏だった。 どうしようもなく追い詰められていたとき、悠翔はバイクに乗って現れ、すらりとした手でヘルメットを外しながら静かに言った。 「うちの妹に手出してんの、お前らか?」 ヘルメットを外した瞬間に見えたその顔に、美羽の心臓は激しく鼓動を打った。 「うちの兄、信じられないくらいイケメンだから」と親友が言っていたのを思い出した。でも、実際に見た悠翔の輝きは、言葉以上だった。しかも、チンピラたちをあっさりと打ち負かし、華麗なキックで追い払う姿には、さらに心を奪われた。 当時、学校の女子たちにはそれぞれ憧れの男子がいたけれど、美羽には誰もいなかった。けれど、その日から、美羽の心に入り込んだのは、親友の兄・悠翔だった。 大学に進学した後、美羽は顔立ちも体つきも洗練されていき、親友の後押しもあって、ついに悠翔に想いを打ち明ける決心をした。 毎朝手作りの弁当を用意したり、偶然を装って出会う機会をつくったり、彼の好みを調べて話題を用意したり…… 全力でアプローチしていたけど、悠翔の態度はずっと「妹の友達」扱い。冷たくもなく、かといって優しくもない。だけど、ときどきふいに向けられる視線の奥に、かすかな揺らぎを感じた。 転機が訪れたのは、彼に家まで送ってもらった夜、帰り道で交通事故に巻き込まれたときだった。車が突っ込んできた瞬間、美羽は迷わず悠翔の前に立ちはだかった。 幸い、車は急ブレーキをかけて大事には至らなかったけど、シートの角に目尻をぶつけて、小さな傷ができた。 ほんの爪ほどの傷なのに、悠翔はいつもの冷静さを失い、美羽を病院へ連れて行き、医師に「跡が残らないか」を何度も確認した。大丈夫と聞いてようやく安心したと思ったら、すぐさま厳しい口調で美羽を叱り始めた。 「なんで庇った?命を軽く考えてるのか?」と問い詰める彼に、美羽は澄んだ瞳でじっと見つめながら、隠しきれない想いをにじませて言った。 「だって……好きだから」 悠翔はその場で言葉を失い、そしてうっすらと笑みを浮かべながら、冷たくも優しい声で言った。 「好き?お子様に『好き』の意味なんてわかるのか?どれだけ俺を好きでいられるんだ?」 「一生!」美羽は迷わず答えた。「私は、悠翔のことを一生好きでいる」 そのあまりに真っ直ぐで揺るぎない言葉に、悠翔は初めて美羽の頬に手を伸ばし、そっと触れた。 そして、深くため息をついたあと、美羽がずっと夢見てきた言葉を口にした。 「……じゃあ、付き合ってみるか」 それ以来、ふたりは正式に恋人として付き合い始めた。交際してから3年、悠翔の性格は変わらずクールだったが、彼氏としては申し分なく、美羽もそれ以上は求めなかった。 でも今夜、あの会話を耳にしたことで、美羽が「幸せ」だと信じていた夢は、音を立てて崩れ去った。 悠翔が自分の顔を見つめるのは、美羽が「初恋の代わり」だったから。顔に傷が残るのを恐れたのも、激しい夜に顔を見つめてくるのも、全部「代わり」だったから。 雨の中、美羽は泣き崩れた。全身ずぶ濡れのまま帰宅し、玄関でそのまま力尽きて床に座り込んだ。 しばらくして、ようやく少し意識が戻った。乾きかけた涙をそのままに、美羽は鞄から一枚の名刺を取り出した。 それは半月ほど前、バーで悠翔のために歌ったオリジナルソングがきっかけで、スカウトマンからもらったものだった。 「声質も見た目も際立ってる」と言われ、海外で3年間、秘密裏にトレーニングして一流の歌手に育てるという話だった。 歌は美羽にとって何よりも大切なものだったし、スターになる夢がなかったわけでもない。けれど、悠翔のそばにいたい一心で、その誘いを断った。それでも、名刺は捨てずに持っていた。 でも、今となっては、悠翔のそばにとどまる理由はもう何もない。 名刺に書かれた電話番号をじっと見つめながら、美羽は冷たく青ざめた指で番号を押した。 通話が繋がった瞬間、かすかに喉を潤し、静かに口を開いた。 「もしもし、早坂美羽です。……契約の件、承諾します」 第2話 「早坂さん!ついに決心してくれたんですね?それじゃ、連絡先交換して、明日直接会って話しましょう!」 スマホの向こうから弾むような声が聞こえてきた。美羽は静かにうなずくと、無言で相手から送られてきたアカウントを追加した。 通話を切って間もなく、玄関の外に足音が近づいてきた。 数秒後、ドアが開き、悠翔が傘を手に入ってきた。 床に座り込んだままの美羽の姿を見て、悠翔は眉をひそめた。「全身びしょ濡れじゃないか」 「傘、忘れてた」 濡れた髪が顔に張りつき、センサーライトがちょうど消えたせいで、美羽の表情は見えなかった。 悠翔は美羽の髪をくしゃっと撫でた。「ほんと、変わらないな。子供みたいに……ちゃんと天気予報くらい見ろよ」 美羽は黙ったままだった。 悠翔がバスルームへ向かうのを見届けると、美羽は痺れたような体を引きずって、もうひとつのバスルームへと向かった。 身支度を終えて布団に入ると、美羽は天井をぼんやりと見つめながら、さっきの出来事が頭から離れなかった。 しばらくして、悠翔も隣に布団へ入ってきた。 ふと、懐かしいヒノキの香りが鼻をかすめ、それだけで美羽の記憶は午後の出来事に引き戻された。 気づけば、美羽は悠翔にそっと抱きつき、ゆっくりと彼のパジャマの裾をめくり上げていた。 胸のすぐ上、一寸ほどの場所に、はっきりと刻まれた四文字―― YUNA。 初めて見るわけじゃなかった。 情交を重ねた時、美羽は何度もそれを目にしていた。でも、そのときは、なんとなく訊けなかった。 けれど今、改めてそれを目にした瞬間、こみ上げるものを堪えきれず、声を震わせて口を開いた。 「このイニシャル……どんな意味?」 悠翔は一瞬たじろぎ、視線をそらした。そして淡々としながらも、どこか優しさが滲む声で答えた。 「……すごく大切な意味だ」 少し間が空いてから、悠翔は美羽の問いの真意を取り違えたらしく、低い声で続けた。 「今日は濡れて冷えただろ。無理すんな。早く寝ろ」 そう言って、美羽の手をそっと払いのけ、パジャマを下ろすと、電気を消した。 寝室には静寂が広がった。 ただ、何も音を立てず、涙だけが止まることなく流れ続けていた。 そのまま、暗く深い夜に溶けていった。 翌朝、悠翔は珍しく早起きして、朝食も摂らずに靴を履き、出かけようとしていた。 窓の外は相変わらずの雨。美羽はふと思い出した。悠翔は、雨の日の外出が嫌いだったはず。 「最近、フライトの予定ないよね?なんでこんな雨の日に?」 問いかけると、悠翔は珍しく機嫌が良さそうに、目元に柔らかな笑みを浮かべながら傘を手に取った。 「ちょっと大事な用があるんだ。お前は、今日は家でおとなしくしてろよ」 ドアが閉まる音と同時に、悠翔の声がふわりと消えていった。 その後ろ姿を無言で見送った美羽は、静かに寝室へ戻った。 ベッドサイドにふと目をやると、悠翔のスマホが置きっぱなしになっていた。 画面が点灯し、LINEの通知が表示されていた。 ロックを解除すると、チャット画面が開いた。 画面の上部に表示されていた名前は「優奈」。 【今日のフライト何時?外は大雨だから、ターミナルから出ないで。俺が車で迎えに行くから】 その文面を見た瞬間、昨日の「天気予報くらい見ろよ」という悠翔の冷たい言葉が、心に突き刺さった。 本当に好きな人のためなら、大雨の中でも自分から迎えに行くんだ。 そのことを、美羽は痛いほど思い知らされた。 ほんの一瞬だけ画面を見つめたあと、玄関から足音が聞こえた。 美羽はすぐにスマホを元に戻し、悠翔が入ってくる前にクローゼットの中に身を隠した。 化粧を済ませて出てくると、スマホはすでになく、家の中には誰もいなかった。 バッグを手に取り、タクシーを拾って向かった先は、あらかじめ約束していたカフェだった。 入口で待っていたスカウトの相馬律(そうま りつ)と目が合い、美羽は軽く会釈した。 挨拶を交わし、二人は個室へ案内された。 律は、これからのトレーニングプランやキャリア構想を丁寧に説明し、契約書を取り出した。 そこに押された真っ赤な「流星プロダクション」の社印を見て、美羽は一瞬、呼吸を止めた。 「流星プロダクション」といえば、世界屈指の芸能事務所。芸能界を目指す者なら誰もが憧れる場所だった。 美羽は、ほんの一歩でその夢のチャンスを逃すところだったのだ。 少し自嘲するように笑いながらも、今度は迷わずサインをした。 契約書を受け取った律は、まるで宝物を手に入れたかのように目を細め、口元に深い皺を刻んだ。 「早坂さん、前にお断りされた時は本当に残念でしたが……気持ちを変えてくれて、ありがとうございます。埋もれた原石が輝きを放つ時が、ついに来ました。『流星』は業界トップの実力を誇る事務所です。必ずや、あなたに最高のステージを用意してみせます。 今回のトレーニングは合宿形式ですので、ご帰宅後は準備を整えてください。出発は15日後です」 第3話 美羽は日付をメモし、丁寧に別れの挨拶をしてその場を後にした。 帰り道、突然悠翔から電話がかかってきた。普段と違って、慌ただしい声だった。 「今、家にいないのか?」 一瞬、言葉に詰まった美羽が返事をしようとした矢先、彼は続けた。 「どこにいてもいいから、とにかく市立病院に来てくれ!」 これまで付き合ってきた中で、悠翔がこんなに焦っている声を聞いたのは初めてだった。 数秒迷った末、美羽はタクシーの運転手に方向転換を頼んだ。 病院の救急外来に着くと、悠翔が無事な姿で立っているのが見えた。 事故に遭ったのは彼じゃない。じゃあ一体……? 何かを聞く暇もなく、看護師が美羽を隣の部屋へと連れていった。 「あなた、O型ですよね?」 わけもわからないまま頷くと、看護師は健康状態を確認し、太めの針を彼女の腕に刺した。 鋭い痛みに思わず「っ」と声を漏らした瞬間、これが献血だと気づいた。 看護師は血液の量を確認しながら、気さくに話しかけてきた。 「ねえ、お嬢さん。あの外で待ってるイケメンとどんな関係なんですか?あの人の恋人が空港の近くで事故に遭って搬送されてきてさ、もう半狂乱って感じだったよ。院長まで呼びつける勢いだったし。 血液バンクに在庫がなくて、あちこち電話して、最後にあなたを呼んだんですって。ほんとに恋人のこと、大事にしてるんですね」 その言葉を聞いた瞬間、美羽の心臓がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。 まるで心臓を誰かに握りつぶされたようで、しかももうその手は離れているのに、息ができず、痛みだけが残っているような、そんな感覚だった。 つまり、悠翔が自分を呼んだのは、優奈に献血させるためだったの? 替え玉が本物のために血を抜かれるなんて、残酷とかそういうレベルじゃない。でもそれよりも、美羽が重度の貧血だってことを、悠翔は知っていたはずだ。 それを忘れていたのか、それとも、優奈を助けるためなら、自分のことなんてどうでもよかったのか。 献血を終えた美羽は、30分ほど椅子に座ってようやく回復した。けれど、その間悠翔は一度も顔を見に来なかったし、声もかけてこなかった。 考えるまでもない。今も彼は、優奈のそばにいるんだろう。 そう、自分はただの「替え玉」なんだ。悠翔の心配なんて、受ける資格もない。 美羽はかすかに笑って、壁に手をつきながらゆっくり立ち上がり、部屋を出た。 そのとき、手術室の明かりがふっと消えるのが見えた。 医師が患者をベッドに乗せて運び出すと、悠翔は大股で駆け寄り、そのままベッドと一緒に病室へと入っていった。 ガラス越しに、美羽は見た。ベッドの傍らで蒼白な手を握りしめ、祈るような、そして怯えたような表情を浮かべている悠翔の姿を。 胸が、苦しくなった。 美羽の記憶の中の悠翔は、どんな時でも冷静で、まるで他人事のように見える人だった。 知り合って五年。こんな表情を見たのは、初めてだった。 彼が誰かを本当に愛するときって、こうなるんだ…… その後の五日間、悠翔は一度も帰ってこなかった。 彼が病院にいることは分かっていたが、美羽から連絡することはなかった。 その代わり、三つのことをした。 一つ目、会社に辞表を提出した。 二つ目、スーツケースを出して荷造りを始めた。 三つ目、カレンダーに「ここを出る日」の印をつけた。 日が経つにつれ、揺れ動いていた気持ちは少しずつ落ち着いていった。 雨季が明けた、よく晴れた日。ようやく悠翔が帰ってきた。 彼は玄関を入ってすぐ、家の様子がいつもと違うことに気づいた。 段ボール箱に目を止めて眉をひそめた。 「なんで、会社のもの全部持って帰ってきてるんだ?」 そして部屋に置かれたスーツケースを見て、息を呑んだ。 「急に荷造りなんて、どうした?」 最後に、壁にかけられたカレンダーに目をやった。 「30日に丸がついてるけど、これって……どういう意味だ?」 その問いに、美羽の手が少し止まった。 だが、もう隠すことはなかった。 「最近いい仕事が見つかったから、会社は辞めたの。荷造りはその仕事のためで、30日が出発日よ」 そう言って、美羽はそっと息を吸い込み、別れを告げようとした。 「少し時間ある?どうしても話したいことがあって、私――」 その瞬間、悠翔のスマホが鳴った。 画面には「優奈」の名前が表示され、彼は慌てて通話ボタンを押した。 受話器から、優奈の明るい声が聞こえてきた。 「悠翔、ここ数日ありがとうね。友達が歓迎会開いてくれるの。来ない?」 悠翔は返事をしようとしたが、ふと何かを思い出したように美羽を見た。 「さっき、話があるって言ってたよな?大事なこと?」 そう聞かれて、美羽はすべてを悟った。 「……大したことじゃないよ。用事あるなら、行ってきて」 その声を受話器越しに聞いた優奈は、楽しそうに笑いながら言った。 「へぇ、そばにいるんだ、彼女。じゃあ一緒に来てよ。前に私に献血してくれたんでしょ?ちゃんとお礼してないし」 「献血」という言葉に、悠翔は一瞬動きを止め、思わず受話器を押さえて少し離れた。 二人が何を話していたのかまではわからなかったが、結局、悠翔は美羽を連れて家を出た。 断る間もなく、車に乗せられた。 車内で、悠翔は数日前の出来事について説明を始めた。 「さっき電話してきた子……あれは友達だ。帰国した日に事故に遭って、病院に血液がなくて……お前と同じ血液型だったから、急いで呼んだ。ちゃんと説明する時間もなくて……この数日、連絡できなかったのは、それで怒ってたのか?」 「ううん。貧血気味で、ここ数日ちょっと休んでただけ」 美羽の声は落ち着いていて、まるで何も気にしていないようだった。 その青ざめた顔を見て、悠翔の胸がチクリと痛んだ。申し訳なさが込み上げてきた。 そうだった。彼女が貧血だってこと、完全に忘れてた。 謝ろうとした。でも、口から出たのは違う言葉だった。 「何か欲しいものある?なんでも買うから」 けれど美羽は、もう目を閉じてしまっていた。まるで、もう何の興味もないかのように。 結局、悠翔はそのまま黙るしかなかった。 第4話 車を降りた二人は、そのまま指定された個室へと向かった。 けれど、ドアを開けた瞬間、空気の重さが肌で感じ取れた。 歓迎会と聞いていたのに、集まっていたのはほとんどが男ばかり。しかも、その大半が悠翔の仲間だった。何か言いたそうな顔をしていたが、みんな何も言わず、口を閉ざしている。 まだ誰も言葉を発していない中、優奈が笑顔を浮かべて近づいてきた。 「来てくれたのね」 そう言って、美羽の顔に目を向けた。数秒間じっと見つめたあと、また笑顔を浮かべて言った。 「この子があなたの彼女なのね。ずいぶん若く見えるわ。前は血を提供してくれてありがとう。あのとき、あなたのおかげで命拾いしたって言っても過言じゃないのよ。何かあったら遠慮なく言ってね。いつでも助けに行くから」 美羽は無理に笑顔を作り、「そんな、大したことじゃないです」と返した。 優奈は軽く笑って席をすすめ、そのあと別の到着客を迎えに行った。 その間も、悠翔の視線はずっと優奈を追っていた。 彼女が他の男性たちと楽しげに笑いながら話しているのを見た途端、悠翔の表情が曇りはじめた。 優奈がマカロンを少し多めに食べているのを見ると、彼は何も言わずにスタッフに指示を出し、会場内のマカロンをすべて優奈の前に並べさせた。 そして、シャンパンタワーが突然崩れかけ、優奈のほうに倒れそうになった瞬間、迷うことなく彼女を抱き寄せて守った。 「危ない!」 鋭いガラスの破片が悠翔の左手を切り、指に傷ができた。周囲は「病院に行ったほうがいい」と騒いだが、悠翔はシルクのスカーフを手に巻いただけで、気にも留めていなかった。 「ただのかすり傷だ。気にするな」 血で染まった白いスカーフを見つめながら、美羽は一度取り出した車のキーをそっとバッグに戻した。 一時静まり返った空間は、やがて元のにぎやかさを取り戻した。 夜8時を回り、場が盛り上がってきた頃、優奈がマイクを手に取り、明るい声で言い放った。 「みんな揃ったところで、大事な発表があるの! もう知ってる人もいるかもしれないけど、実は今回の帰国までに彼氏と別れたの。それで今日は、新しい彼氏を見つけるための合コンってわけ!」 その言葉に、場の空気が一瞬で凍りついた。全員が恐る恐る悠翔の方を見た。 悠翔は何も言わず、ただ優奈をじっと見つめたまま、手にしていたグラスを力いっぱい握り潰した。 血に染まった手もそのままに、優奈は彼に向かって微笑みながらグラスを掲げた。 「悠翔。今日ただ楽しもうと思って呼んだわけじゃないの。私にふさわしい人を、あなたに見極めてほしいの。あなたの仲間の中から、誰が一番合うか選んでちょうだい」 一瞬にして個室は静まり返った。誰もが目を逸らし、悠翔の仲間たちはみな、彼の怒りを前に顔を青くしていた。 そのとき、中央の席にいた男性が突然立ち上がった。 「俺は……」 「トイレに行くだけだ」という言葉を言い終える前に、悠翔が目の前のテーブルをひっくり返し、冷たい目で彼を睨みつけた。 「言いたいことがあるなら言ってみろよ」 その剣幕に、男は何も言えず、立ち上がったまま固まって動けなくなった。 悠翔は血まみれの拳を握ったまま、ゆっくりと優奈の前へ歩み寄り、震える声で問いかけた。 「優奈……時々思うんだ。お前って、本当に心があるのか?」 そう言い残すと、彼は一切後ろを振り返ることなく、個室を出ていき、ドアを勢いよく閉めた。 美羽のことなど、すっかり忘れたように。 ここまで来て、もはや歓迎会などではなくなっていた。美羽は自嘲気味に笑いながら椅子から立ち上がり、トイレに向かった。 廊下を歩いていると、悠翔の仲間たちが優奈と口論している声が聞こえてきた。 「優奈、どういうつもりだ?何でこんなことして悠翔を怒らせたんだ?悠翔が今でもお前とヨリを戻したがってるの、みんなわかってるんだぞ?そんな状態で、誰がお前に手を出せるって言うんだよ!」 「ヨリを戻したいって言われたからって、私がすぐ受け入れるとでも思ってるの?何の誠意も見せてないくせに」 「誠意だって?悠翔に誠意が足りないって言うのか?この数年間、彼がどう過ごしてきたか知らないのかよ?この世で、あいつほど一途な男なんて見たことないぞ。あの悠翔が、お前のためにどれだけ狂ってたか、知ってんのか? お前が別れたいって言って出国してから、あいつは毎日酒に溺れて、潰れそうになってたんだぞ。お前が欲しいって言ったものは、どんな手段を使ってでも手に入れて、すぐに特急便で送ってた。お前が花火が見たいって言ったら、大型の花火ショーまで手配してたんだ。それを知らなかったなんて言わせねえぞ……」 そのやり取りを聞きながら、美羽の手は小さく震え出していた。 付き合っていた頃、時々理由も言わずに姿を消していた悠翔――そのすべてが、優奈のためだったのか。 廊下での口論はさらに激しくなり、優奈は冷たい口調で言い放った。 「悠翔がやりたいからやっただけで、私は無理やり頼んだわけじゃない。だいたい、このくらいのことで大騒ぎすること?命でも差し出してくれたら、少しは考えてあげてもいいけど」 「ふざけんな!悠翔の気持ちにつけ込んで、やりたい放題して!いつかあいつが本当に見限ったら、お前、絶対後悔するぞ!」 「見限る?それこそ笑えるわ。だって悠翔、恋人を選ぶときも、私に似た子を選んでるじゃない。私を嫌いになれるわけないでしょ。悠翔と私のことに口出すなんて、あんたこそおせっかいよ!」 優奈の声には、確信に満ちた自信がにじんでいた。そして勢いよく振り返ったその瞬間、すぐ近くで立ち止まっていた美羽と目が合った。 第5話 美羽の姿を見た瞬間、その場にいた全員が凍りついた。 最初に反応したのは優奈だった。悠翔がいないのをいいことに、以前のような礼儀正しさはどこへやら、代わりにどこか同情を含んだような視線を美羽に向けてきた。 「全部聞こえてた?それならちょうどいいわ。ずっと騙されてるなんて、かわいそうだもの。あんたなんか、私と悠翔の関係においては、ただの脇役にすぎないの。だから、早めに身を引いたほうがいいと思うわよ」 そう言い捨てて、高いヒールを鳴らしながらその場を立ち去っていった。 一瞬、廊下が静まり返る。悠翔の友人たちは顔を真っ赤にし、慌てて言い訳しようとした。 「美羽、違うんだ、さっきのは……その、えっと……」 なんとか説明しようとするものの、結局は言葉が続かなかった。 本当のところ、全員わかっていた。優奈の言ったことは、紛れもない事実だった。 緊張で固まっている彼らを見て、美羽はそれ以上何も言わず、彼らを責めることもなく静かにその場を離れた。 階段を下りてタクシーを待っていると、突然、ローズピンクのスポーツカーが水たまりを踏みながら勢いよく近づいてきた。 泥水が跳ね上がり、美羽の服はびしょ濡れになった。 眉をひそめて運転席の方を見ると、窓越しに優奈が意地悪そうな笑みを浮かべていた。 「あんた、自分が脇役だってこと、ちゃんと自覚して欲しいの。今のうちにきれいさっぱり身を引きなさい。じゃないと、もっと惨めな結末が待ってるわよ」 そう吐き捨てて、優奈はそのまま車を走らせて去っていった。 美羽はバッグからティッシュを取り出し、ゆっくりと顔にかかった水を拭った。 濡れたティッシュをゴミ箱に捨て、ふと空を見上げると、頬を伝ってひとしずく、涙がこぼれた。 脇役、か。 ……違う。私は脇役なんかじゃない。 悠翔こそ、私の物語から――消えてもらう。 家に戻ると、美羽は少しだけ食事をとり、洗面を済ませてベッドに入った。 午前三時。寝室のライトが突然パッと点いた。 酔っ払ってふらふらの悠翔が、勢いよくドアを開けて入ってきた。驚いて目を覚ました美羽を強く抱きしめ、そのまま腕の中に引き寄せた。 「どうしてそんなに俺を苦しめるんだ……?俺が、お前を手放せないってわかってるくせに……なんで、もう一度チャンスをくれないんだよ…… 俺がどれだけお前を好きか、知ってるくせに……それなのに俺の目の前で、他の男を探してるなんて。こんなふうに辱めて……お前のために俺が苦しむ姿を見て、楽しいのか? ……ああ、ほんとに辛かった。お前が欲しいものは、なんでもやる。だから……そばにいてくれ」 苦しげな表情の悠翔を見つめながら、美羽はそっと力を込めてその腕の中から身を引いた。 ベッドに倒れ込んだ悠翔が、うわごとのように優奈の名前を繰り返しているのを見て、美羽はうっすらと自嘲の笑みを浮かべた。 誰かを愛してる時って、あなた、そんな顔になるんだね。 この三年間、私たちの関係って、あなたにとって何の意味もなかったんだね。 目を赤くしながら枕を手に部屋を出て、スイッチをパチンと切ると、寝室は再び暗闇に包まれた。 悠翔はまだ酔いに任せて、意味不明なことを呟き続けていたが、その声に耳を傾ける者は、もう誰もいなかった。 翌日、悠翔は昼までベッドから出なかった。 頭が割れそうなほどの二日酔い。重い体を起こすと、窓辺で小物を片付けている美羽の背中が見えた。 その背中をぼんやりと眺めていると、ふいに昨夜の記憶が断片的に浮かび上がってきて、思わず動きが止まった。 「昨日、俺……なんか変なこと、言ったか?」 美羽が首を横に振るのを見て、悠翔の中の不安は少しだけ静まった。 こめかみに手を当てようとした瞬間、傷に触れて「……っ」と小さくうめき声を漏らした。 そのタイミングで振り返った美羽は、彼の手にまだ処置もされていない傷が残っていて、それがアルコールで炎症を起こしていることに気づいた。 悠翔はパイロット。これからも飛行機を操縦する立場で、怪我は致命的になる。 今になってようやく、ちゃんと処置しなきゃまずいと気づいたようだった。 「薬箱、どこだっけ?」 美羽は無言で立ち上がり、リビングから薬箱を持ってきた。 「必要なもの、全部入ってるわよ」 悠翔は思わず苦笑した。「そんなわけないだろ……」 でも、薬箱を開けた瞬間、風邪薬から胃薬、絆創膏、消毒液まで、何でも揃っているのを見て、彼の動きが止まった。 「これ……全部、お前が用意したのか?」 美羽はうなずいた。 「うん。あなた、パイロットでしょ?怪我しちゃいけない仕事だし、必要なときにすぐ使えるようにって……」 その言葉に、悠翔の頭の中で、いくつもの記憶が一気に蘇った。 酔って帰ってきた夜、無言で起きて作ってくれた酔い覚ましのスープ。 「これ食べたいな」と何気なく言った一言を覚えていて、レシピを調べて作ってくれたこと。 体調が悪くなったとき、真っ先に動いてくれたこと…… 付き合い始めた頃、神崎瑠璃(かんざき るり)が何度も言っていた言葉が頭をよぎった。 「美羽は家じゃ何もできないお姫様みたいな子だから、ちゃんと支えてあげて」 だけど、実際には支えられていたのは自分の方だった。 年上の自分のはずが……美羽はずっと、黙って支えてくれていた。 そのことに、今さらようやく気づいて、胸が締めつけられた。 顔を赤くしながら何か言いかけたそのとき、美羽がバッグを手に取り、薬を塗る気配も見せず出かける支度をしているのに気づいて、思わず口を開いた。 「……出かけるのか?」 第6話 美羽は「うん」と小さく答えて、帽子をかぶった。 「瑠璃ちゃんと約束してて、一緒にお昼ごはん食べることになってるの」 悠翔はようやく、妹が旅行から帰ってきたことを思い出した。 彼は慌てて薬を取り出し、手の傷の手当てを終えると、立ち上がって玄関へ向かった。 「送ってくよ」 美羽は断ろうとしたけれど、悠翔は彼女の手を取ると、車の鍵をつかんでそのまま外へ連れ出した。 車に乗り込むと、悠翔はナビを操作しながら、午後の予定を尋ねた。 買い物に行くつもりだと聞いて、一緒に行こうと考えていたそのとき、スマホに新しいメッセージが届いた。 画面を一瞥した悠翔は、車を路肩に停め、申し訳なさそうに美羽を見つめた。 「本当は今日は一緒にいたかったんだけど、さっき急に仕事の連絡が入って……美羽、タクシーで行けるよね?」 悠翔の仕事の予定はすでに確認済みだったから、彼が嘘をついていないのは分かっていた。だから美羽は何も言わずに頷き、車のドアを開けた。 車が視界から消えたあと、美羽は手を挙げてタクシーを止めた。 約束のレストランに着くと、瑠璃はすでに注文を済ませていた。 興奮気味にバッグからギフトを取り出し、美羽に差し出した瑠璃。声には嬉しさが溢れていた。 「じゃじゃーん!旅行のお土産!早く開けてみて!気に入ってくれるといいな!」 美羽はギフトを膝の上に置いたまま、すぐには開けず、代わりに瑠璃をじっと見つめて、真剣な表情で口を開いた。 「瑠璃ちゃん、話したいことがあるの。実は、あなたのお兄さんとは別れるつもりで、それに、留学しようと思ってる。たぶん、三年くらいになると思う」 その言葉に、瑠璃は目を大きく見開き、驚いたように言った。 「え?なに急に?うまくいってたじゃん、なんで別れるの?」 美羽は静かに笑って、淡々と事実を語った。 「悠翔は、私のこと好きじゃないの。最初に付き合ったのも、私が彼の元カノに似てたからで、ずっと私を代わりに見てた」 もう悠翔への想いは断ち切れていたから、波風立てずに話すことができた。でも、それを聞いた瑠璃は、途端に怒りを爆発させた。 彼女は勢いよくテーブルを叩き、信じられないという口調で言い放った。 「元カノ?あの和泉って女のこと?確かに別れたあと、お兄ちゃん毎日飲んでたけど、まだ引きずってるわけ!?しかも優奈でしょ?全然美羽ちゃんに似てないじゃん!むしろ美羽ちゃんのほうが、ぜっっったい美人だし!あんな人のこと、なんで今さら引きずってるの?こんなに優しい彼女がいるのに、なんでその人を想い続けてんの?しかも、美羽ちゃんを『代わり』にしてるなんて、ありえない!」 怒りがどんどん膨れ上がって、瑠璃はとうとう食事もせずに、悠翔の居場所を聞き出すと、怒り心頭で飛び出していった。 瑠璃は昔から悠翔のことを尊敬していた。だからこそ、今こうして自分の味方になってくれたことに、美羽は思わず胸が熱くなった。でも、もう悠翔のことは諦めると決めた以上、これ以上の騒ぎは避けたくて、慌てて瑠璃を止めに走った。 必死に止めたものの、瑠璃は結局、悠翔のいるクラブに飛び込んでいった。 個室の前にたどり着いた瑠璃が扉を開けると、目に飛び込んできたのは、周囲の人々の前に立ち、悠翔を見下ろす優奈の姿だった。 「そんなに私に謝りたいなら、いいわ。馬になって、私を乗せてくれたら考えてあげる」 その言葉に、悠翔はまだ反応していなかったが、周囲の仲間たちがすぐに騒ぎ出し、前に出て止めに入った。 「優奈、それはさすがにやりすぎだぞ!最初に間違ってたのはお前だろ?合コンとか彼氏探しとかくだらないことばっかして、悠翔を怒らせたくせに!」 「今日だって、急に会いたいって言い出したお前のために、悠翔は仕事も断って、制服も脱がずに飛んできたんだぞ!なんでそんな無茶言うんだよ!」 「そうだよ!この街で、悠翔の前であんな態度取る奴なんかいないんだよ!?なんでこんなに恥かかされなきゃいけないんだ!」 非難の声が飛び交う中、優奈はまったく動じず、涼しい顔で言い返した。 「そんなのどうでもいいのよ。あの日、彼が私のことびっくりさせたから、こうやって謝らせたいの。それに、馬乗りなんて、好きな人ならむしろ嬉しいんじゃない?私の彼氏になりたいなら、そのプライドくらい捨てなさいよ」 騒然とする個室の中で、悠翔は無表情のまま立っていた。しばらく優奈の傲慢な顔を見つめてから、静かに口を開いた。 「もし俺が馬になるなら、俺以外の彼氏を作らないって、約束してくれるか?」 「ええ、約束するわ」 その答えを受けて、悠翔はパイロットの制服の一番上のボタンを外し、ゆっくりと身をかがめて言った。 「……乗ってください」 その場にいた全員が、あ然として口を開けたまま凍りついた。 優奈が得意げに彼の背中に乗ったのを見て、瑠璃は怒りに震え、今にも突進しそうになったが、美羽が必死に止めて、一緒にエレベーターへと引っ張っていった。 怒りに任せて何度も振りほどこうとした瑠璃だったが、ふと美羽の顔を見た瞬間、動きを止めた。 美羽の顔には一切感情がなかった。でも、涙が糸が切れたようにぼろぼろとこぼれ落ち、それが瑠璃の手に落ちた。 ぽつ、ぽつと落ちる涙が、瑠璃の手のひらを濡らし、心の奥で燃えていた怒りを静かに冷ましていった。 瑠璃は慌てて美羽を抱きしめ、涙を拭きながら、喉を詰まらせるようにして声を出した。 「美羽ちゃん、泣かないで……お願いだから、泣かないで…… わかったから。もうお兄ちゃんと付き合わなくていいよ。もっと素敵なイケメン、私が紹介してあげるから、ね?」 美羽はかすかに笑い、切ない想いを必死に飲み込もうとしたけれど、涙は止まらなかった。 「……本当は、そんなに悲しくないんだ。もう悠翔のことは諦めて、新しい人生を始めようって、そう決めたのに」 でも、なんでこんなに涙が止まらないんだろう? たぶん、さっきの光景を見て、過去のことをいろいろ思い出して、やっと気づいたからだ。 悠翔は、誰かを好きになると、その人のためにすべてを捨てて駆けつけて、プライドを捨ててでも謝れる人なんだ。 その愛情は隠しようもなく、誰が見てもすぐにわかるくらいだった。 そして私は、一度も、そんなふうに愛されたことがなかったんだ。 第7話 家に戻った頃には、美羽の気持ちはもう落ち着いていた。 目が覚めると、旅立ちの日がまた一日、近づいていた。 ひとりで、大好きな歌手のライブに足を運び、青いペンライトの波と歓声が響く会場を動画に収めた。 その動画をモーメンツのトップに固定し、恋人だった頃に投稿した過去の投稿をすべて削除した。 夢を追う美羽の覚悟を知っている数人の友人たちは、コメントで応援のメッセージを寄せてくれた。 【美羽ちゃん、いつか君のいちばんのリスナーになれる日を楽しみにしてるよ!】 【未来のスーパースター、サインの予約しといていい?】「 数日間連絡のなかった悠翔も、その投稿に「いいね」を押していた。 突然の「いいね」に、美羽は少し驚いた。 彼は、自分でモーメンツを投稿することも、他人の投稿に反応することも、ほとんどなかったはずだから。 その理由がわかったのは、瑠璃から送られてきた数件のメッセージを見たときだった。 【美羽、あの女のLINEアカウント、やっと追加できたんだけど、マジでムカついた】 メッセージには、優奈の投稿のスクショが添えられていた。 海辺の夕焼け、花畑の散歩、夜景とキャンドルディナー…… どの投稿にも、悠翔のコメントがあった。 【なんで俺が撮ったやつはアップしないの?】 【西山の桜、咲き始めてるみたいだから、今度連れてってあげる】 【エビ剥くのはちょっと面倒だけど、君が好きなら全然平気】 ひとつひとつ見ていくと、まるで恋人同士のラブラブ投稿そのものだった。 どうやら、優奈の投稿を追っていた悠翔が、たまたま美羽の動画を目にして、ついでに「いいね」を押しただけ、ということらしい。 美羽はほんの少しだけ苦笑いを浮かべ、瑠璃をなだめながら、静かに三年間の思い出――悠翔からもらったプレゼント、ペアグッズ、写真、そして日記をまとめはじめた。 何度か部屋と階下を往復して、それらを運び出し、処分しようとした――そのとき。 突然帰ってきた悠翔と鉢合わせた。 どこか機嫌がよさそうで、目元にも口元にも微笑みが浮かんでいた。 美羽の姿を見て一瞬立ち止まった彼は、少し進行方向を変えて、彼女に近づいてきた。 「その箱、全部捨てるの?」 「もう使わないガラクタよ」 悠翔は軽く頷いて、手にしていたケーキを差し出した。 そしてそのまま、かがんで手伝おうとした。 ケーキを見た瞬間、美羽の表情がわずかに変わった。 「どうして急にケーキなんか買ってきたの?」 その言葉を聞いた瞬間、悠翔の動きが止まり、表情がすっと引き締まった。 「……忘れたのか?今日、俺の誕生日だよ」 誕生日? ようやく、美羽は思い出した。確かにこの数日のどこかにそれがあった。 一ヶ月前までは、何をプレゼントしようかと悩んでいた。 でも、自分が「代わり」だったと知り、別れる決意をしてからは、その日を完全に心の隅へと追いやってしまっていた。 どうせ、もうすぐ元カレになる人の誕生日なんて、覚えておく必要なんてないじゃない。 美羽の顔に一瞬浮かんだ気まずさに気づいたのか、悠翔の呼吸がわずかに荒くなった。 今日の深夜、たくさんの人から祝福のメッセージが届いた。 でも、美羽からは何の反応もなかった。 きっと、何かサプライズを用意してくれてるんだと、彼は思っていた。 まさか、忘れていたなんて? 別に大したことじゃないはずなのに、なぜか胸のあたりがずっと重苦しくて、落ち着かない。 今までなら、記念日も誕生日も、美羽はいつも丁寧に準備して、盛大に祝ってくれていたのに。 どうして、今年は忘れてしまったんだ? 自分を一番大事にしてくれていたはずの彼女が。 何か言おうとしたそのとき、スマホが「ピロン」と数回鳴った。 優奈からのメッセージだった。自分のためにバースデーパーティーを開いたという知らせだった。 添付されていたのは会場の住所と、グループ仲間たちの茶化すようなメッセージ。 悠翔はスマホをぎゅっと握りしめた。 さっきまで曇っていた表情がふっと晴れ、眉の端に笑みが浮かんだ。 そのままスマホを操作しながら、出かけようとした。 「誕生日……」と、美羽が声をかけた。 悠翔は少し戸惑いながらも、「今ちょっと用事があってさ。夜戻ったら、一緒に祝おう」と言って微笑んだ。 「うん……」と美羽は静かに頷き、彼の後ろ姿を見送った。 見えなくなるまで、じっとその背中を見つめていた。 そして、持っていた箱を、全部捨ててしまった。 悠翔があんなに嬉しそうな顔をしていたのを思い出し、美羽ははっきり気づいた。 彼は、もう今日、自分と誕生日を祝うつもりなんてなかったのだ。 なのに、どうしてだろう。美羽は思わず、ふっと息をついた。 ゴミ箱はほとんどいっぱいだった。 その中に、あのケーキも放り込んで、背を向けて階段を上がった。 数時間後、美羽のスマホに律からメッセージが届いた。 【明日出発だよ。朝の9時、迎えに行くから】 【OK】 美羽はそう返しただけだった。 すると突然、悠翔の友人から音声メッセージが届いた。 「美羽ちゃん!ヒルトンホテルに来て!悠翔がやばい、急いで!」 切羽詰まったその声に、美羽は一瞬、固まった。 次の瞬間、瑠璃から電話がかかってきた。 今にも泣き出しそうな声で、こう言った。 「美羽ちゃん……お兄ちゃんが、お兄ちゃんが……」 そのときになってようやく、美羽は事の重大さを理解した。 急いで階段を駆け下り、タクシーを止めた。 第8話 車を降りた瞬間、瑠璃は美羽の手をつかんで、湖へ向かって必死に走り出した。 走りながら、ところどころ言葉を詰まらせつつも、状況を説明してくれた。 「優奈の元カレが、海外から追いかけてきて……ホテルにまで押しかけて復縁迫ったの。お兄ちゃん、ブチギレてそいつと殴り合いになって……でも優奈、止めるどころか煽ったのよ。『このネックレス拾った人と付き合う』って言って、それを湖に投げたの! あいつの元カレが飛び込もうとしたら、お兄ちゃんも一緒に飛び込もうとしたの。この湖の下には崖があるって、プロのダイバーですら潜らないような場所なのに……みんなで止めたのに、お兄ちゃんまったく聞く耳持たなくて……お願い美羽ちゃん、止めて……私にとって、たった一人のお兄ちゃんなの!」 話を聞くうちに、美羽の表情はどんどん暗くなっていった。 相手が優奈なら、たとえ百人がかりでも悠翔を止めるのは無理だ。 でも、泣きはらした目で懇願してくる瑠璃の前では、その現実を口に出すことがどうしてもできなかった。 湖に着いたとき、悠翔はちょうどダイビングスーツを身につけているところだった。 優奈の元カレはすでに準備を終え、湖に飛び込んでいた。 その姿が水面から消えていくのを見つめながら、悠翔の目には鋭い光が宿り、動きがさらに素早くなった。 周囲の友人たちは、鍋の上の蟻みたいに慌てて、なんとか彼を止めようとしていた。 「この湖、深すぎてネックレスなんか絶対見つかんねぇって!誰が潜っても無理だよ、悠翔、やめとけって!」 「女一人のために命捨てんのか!?目を覚ませよ、悠翔、このバカヤロウ!」 だけど、悠翔は何も言わず、酸素マスクをしっかり装着すると、目の前で立ちはだかる仲間たちを一気に突き飛ばした。 もう限界だった瑠璃は彼の元へ駆け寄り、その腕にしがみついた。 絶望と涙にまみれた声が響いた。 「優奈のたった一言で死ぬつもり!?お兄ちゃん、私やお父さんとお母さんのこと考えたことあるの!?美羽ちゃんのことは!?今日もし死んだら……私には、もうお兄ちゃんなんかいなくなっちゃうよ!」 その場の空気が一瞬にして凍りついた。 悠翔は動きを止め、ゆっくりと瑠璃を見つめた。 しばらく沈黙したのち、彼は静かに手を上げ、妹の手をそっと握った。 そして低く、落ち着いた声で言った。 「必ず戻ってくる。このことは、両親にも、美羽にも言わないでくれ」 そう言って、瑠璃の指を一本ずつ優しくほどくと、迷いなく湖に飛び込んだ。 水面に広がる波紋を見つめながら、美羽は少し離れた場所に立ち、ぎゅっと両手を握りしめていた。 あたりは静まり返っていたが、不意に笑い声が響き、全員の視線がその方向に向いた。 笑っていたのは、優奈だった。 彼女は勝ち誇ったような顔で、堂々と美羽の隣へと歩み寄ってくる。 「彼、私のことを命懸けで愛してるのよ。それだけの覚悟があるってこと。美羽、あなたにそんなこと、できる?」 「優奈、他人の命を使って遊ぶとか……頭おかしいなら、病院行け!」 あまりにも傲慢な態度に、泣き疲れて声もかすれていた瑠璃が突然飛びかかり、力いっぱい平手打ちをかました。 優奈は、これまでこんな屈辱を受けたことがなかった。 怒りに任せて反撃しようとしたが、周囲の人々がすぐさま二人の間に割って入った。 美羽は瑠璃を抱きとめ、必死になだめた。 ようやく瑠璃が少し落ち着きを取り戻し、呆然とモニター画面を見つめ始めた。 それから一時間ほど経って、酸素が先に尽きた元カレが水面に浮かび上がってきた。 静寂に包まれていた岸辺がざわつき始め、誰もが息をのんで、悠翔の登場を待った。 だがさらに五分が経過しても、彼の姿は現れなかった。 酸素の残量も限界に近づき、現場には一気に緊張が走った。 そんな中でも、美羽だけは冷静だった。 すぐにホテルの救助チームに連絡を取り、どうか助けてほしいと必死に頼み込んだ。 プロのダイバーたちが、次々と湖に飛び込んでいく。 さらに十数分が経っても、何の手がかりもない。 瑠璃はもう崩れ落ちそうで、さっきまで余裕ぶっていた優奈も、次第に不安げな表情に変わっていった。 美羽の顔には感情らしきものは浮かんでいなかったが、手のひらには自分の爪が深く食い込んでいた。 一方、優奈の取り巻きたちはすでに怯えたように、縁起でもないことを口にし始めていた。 「もう無理なんじゃ……酸素切れてから結構経ってるのに、まだ戻ってこないって……」 「もし本当に何かあったら、神崎家が黙ってるわけないよね……」 「関係ないって。あれは悠翔が勝手に優奈のためにやったことなんだから」 その時だった。 長らく沈黙していた湖面から、突然、水音が響いた。 数人の救助隊員が、一人の男を連れて、ゆっくりと岸へ泳いで戻ってきた。 人々はすぐに駆け寄り、力を合わせてその身体を岸へと引き上げた。 悠翔は、意識が朦朧とし、今にも倒れそうだった。 酸素マスクを外された彼の青白い顔を見た瞬間、友人たちも、瑠璃も、涙を浮かべた。 そんな中、彼は胸を苦しげに押さえながら、じっとある一点を見つめていた。 その視線の先には――優奈がいた。 「……見つけた、ネックレス……」 かすれた声でそう言いながら、彼は震える右手をゆっくりと持ち上げた。 水に洗われたダイヤのネックレスは、夕陽を受けて、まばゆい光を放っていた。 あまりにも眩しくて。 あまりにも、目に痛いほどに美しくて。 その視線は、ずっと優奈だけを追い続けていた。 最初から最後まで。 すぐそばに立っていた美羽の存在にさえ、気づくことはなかった。 ただ―― 悠翔が、どれほど強く、他の誰かを愛しているのかを、見せつけられただけだった。 第9話 悠翔は病院に搬送された。 美羽は瑠璃と一緒に、病室で一晩を過ごした。 朝8時、あらかじめセットしていたアラームが鳴った。 スマホの画面に「出発」と表示されたメモを見た瞬間、瑠璃は現実に引き戻されたように目を見開いた。 そのまま美羽にしがみついて、泣きながら訴える。 「美羽ちゃん、行かないで……お願い、行かないで……次に会えるの、三年後なんでしょ?その頃には、きっとピカピカのスーパースターになってて、もっと会えなくなっちゃうよ……寂しいよ……」 美羽も目を潤ませながら、そっと彼女の背中を撫でた。 何度も優しく宥めて、ようやく瑠璃は泣きながらも、美羽を送り出した。 病院を出て、タクシーを止めようとしたそのとき―― ふと、美羽の足が止まった。 そういえば、みんなにはちゃんと別れを告げたつもりだった……ただ一人、悠翔を除いて。 三年間の恋だった。 きちんと終わらせるには、「けじめ」が必要だと思った。 もう一度踵を返して、彼の病室へ向かった。 でも、病室の前に立った途端、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。 優奈が悠翔の胸にしがみつき、涙交じりの声で語っていた。 「ただ、あなたの気持ちが知りたかっただけなの……ネックレスが見つからなかったら、それでよかったの。どうしてあんな危ないことまでして……バカすぎるよ…… まだ私のこと、好きなんでしょ?ちゃんと今の彼女と別れるって言って、私とやり直したいって言ってくれたら、私……応えたのに……なんで素直にそう言ってくれなかったの?」 その言葉は、悠翔がこの六年間ずっと聞きたかったはずのものだった。 だけど、実際に耳にした今、なぜか心はまったく弾まなかった。 それどころか、「別れる」って言葉が混じっていたせいで、真っ先に思い浮かんだのは、美羽のことだった。 車の前に飛び出して、自分を庇ってくれたときの姿。 赤く潤んだ目で「一生、好きだよ」って笑った顔。 誕生日の夜、誰よりも楽しそうに祝ってくれたあのときのこと。 何度も、何度も、自分の腕の中で、心からの愛を注いでくれた、美羽のことを。 頭が割れるように痛んだ。 心はぐちゃぐちゃで、もう何が正しいのかもわからなかった。 そんな中、ふと顔を上げたとき、視界の端に、見慣れた人影が映った。 病室のガラスの向こうに立っていたのは、美羽だった。 彼女はじっと、まるで湖面のように静かな瞳でこちらを見つめていた。 その視線が合った瞬間、悠翔の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。 悠翔は咄嗟に、腕の中の優奈を振り払うように立ち上がった。 だが、窓の外に、美羽の姿はもうなかった。 慌てて廊下に飛び出した。けれどそこも、静まり返っていた。 見間違いだったのか? いや、違う。 自分は「美羽には話さないでくれ」ってみんなに頼んだ。湖に潜ったことも、入院していることも、美羽が知るはずがないし、来るわけがない。 なのに、どうしてこんなにも胸がざわつくんだろう。 まるで、大切な何かが静かに、自分の手の中からすり抜けていくような、そんな得体の知れない焦りに、胸が締めつけられる。 一方その頃、美羽はもう、「最後の挨拶」すらやめていた。 家に戻ると、無言でカレンダーを破り捨て、机の上にそっと、部屋の鍵を置いた。 そのあとスーツケースを引いて、階段を降りた。 空港へ向かう車の中で、悠翔とのチャット画面を開いた。 長い間悩んだ末に、たった三行のメッセージを送った。 【別れましょう。今までのこと、ありがとう】 【どうか、和泉さんと幸せになって】 【悠翔。私は行くね。もう、二度と会わない】 「別れましょう」の一言で三年間の想いに区切りをつけ、「幸せになって」の言葉で悠翔を手放し―― そして「もう、二度と会わない」で、彼との未来を完全に閉ざした。 それからというもの、悠翔は「親友の兄」でしかなくなった。 送信ボタンを押したあと、しばらくしても返事はなかった。 美羽は、きっと今は優奈と一緒にいて、こんな自分からのメッセージを見る暇なんてないんだろう、と思った。 たとえあとでそのメッセージを見たとしても、たぶん何の感情も湧かないだろう。 だって、好きな人はもうすぐそばにいるのだから。替え玉だった自分のことなんて、気にする必要すらないはず。 搭乗前、律が新しいスマホを差し出してきた。 「早坂さん、契約どおり、今日からは事務所以外との連絡は一切禁止です。これが仕事用のスマホになります」 美羽は頷いて、自分のスマホを取り出し、そっとそれと交換した。 飛行機はちょうど離陸し、アナウンスの音がややうるさく、後ろの数人の女性たちが楽しげに騒いでいた。 美羽は、スマホの電源が切れる前に一瞬光った画面を見逃し、続いて鳴り続けた通知音も耳に届かなかった。 顔を少し横に向け、窓の外で曇り空から晴れ間に変わっていく景色を眺めながら、そっと微笑んだ。 これからの人生が、あの空のように晴れやかになりますように。