瓦礫に沈んだ命

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瓦礫に沈んだ命

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震災から四十八時間が経過していた。私は廃墟の下敷きとなり、すでに完全に息絶えていた。 三歳の息子、森永浩之(もりなが ひろゆき)は狭い...

Chương (1)

第1章

震災から四十八時間が経過していた。私は廃墟の下敷きとなり、すでに完全に息絶えていた。 三歳の息子、森永浩之(もりなが ひろゆき)は狭い隙間に閉じ込められ、私の傷口から滲み出る血を舐めることで、かろうじて命を繋いでいた。 トランシーバーから、夫である森永行人(もりなが ゆきと)の苛立ちに満ちた怒鳴り声が響いてくる。 「街中が震災救助に追われているっていうのに、よりによってこんな時に失踪か?非常時だって分かってるのか?」 パパの声を聞いた息子は、泣きじゃくる幼い声でトランシーバーに向かって叫んだ。 「パパ、ママね、寝ちゃったの。もうすぐおうちに連れてってくれるって言ってたよ。 ママの言うことを聞いて、イチゴジュース全部飲んだよ。でも、ママ、どうしてまだ寝てるの?」 通信の向こう側が、一瞬にして静まり返った。直後、行人が半狂乱になり、ショベルカーを速く動かせと怒鳴り散らす声が響き渡った。 救助を待つばかりの息子を見つめながら、私はほっとしたように微笑んだ。 行人、おめでとう。あなたを苛立たせてばかりいた妻は、ようやく望みどおり消えてあげられる。 第1話 震災から四十八時間が経過していた。私は廃墟の下敷きとなり、すでに完全に息絶えていた。 三歳の息子、森永浩之(もりなが ひろゆき)は狭い隙間に閉じ込められ、私の傷口から滲み出る血を舐めることで、かろうじて命を繋いでいた。 トランシーバーから、夫である森永行人(もりなが ゆきと)の苛立ちに満ちた怒鳴り声が響いてくる。 「街中が震災救助に追われているっていうのに、よりによってこんな時に失踪か?非常時だって分かってるのか?」 パパの声を聞いた息子は、泣きじゃくる幼い声でトランシーバーに向かって叫んだ。 「パパ、ママね、寝ちゃったの。もうすぐおうちに連れてってくれるって言ってたよ。 ママの言うことを聞いて、イチゴジュース全部飲んだよ。でも、ママ、どうしてまだ寝てるの?」 通信の向こう側が、一瞬にして静まり返った。直後、行人が半狂乱になり、ショベルカーを速く動かせと怒鳴り散らす声が響き渡った。 救助を待つばかりの息子を見つめながら、私はほっとしたように微笑んだ。 行人、おめでとう。あなたを苛立たせてばかりいた妻は、ようやく望みどおり消えてあげられる。 …… ショベルカーの轟音が、徐々に近づいてくる。 霊体となった私は宙に浮かび、自分の遺体を見下ろしていた。 私の体は巨大なコンクリートパネルの下敷きとなり、上半身は無残に歪んでいる。ただ片方の手だけが、その下にある何かを守るような姿勢を保ったままだった。手の甲は鉄筋に切り裂かれ、血肉の判別もつかないほどに潰れている。 それは、私が息子・浩之に残した最後の障壁だった。 行人がよろめきながら廃墟へと駆け寄ってくる。 「早くしろ!下に子供がいるんだ!」 彼は絶叫した。その声は裏返り、悲痛さがにじみ出ていた。 救助隊員が慎重に、あの狭い隙間から浩之を抱き上げる。 浩之は全身が埃まみれで、小さな顔も泥だらけだったが、口の周りだけが刺すように赤く染まっていた。 行人が飛び出し、浩之をひったくるように抱きかかえる。 彼は浩之の体をあちこち手で触れて確かめ、四肢が無事であること、傷が擦り傷程度にすぎないことを確認した。 強張っていた彼の肩が、ようやく緩む。 だが次の瞬間、顔に浮かんでいた焦燥は、瞬時に激しい怒りへと変わった。 「林知世(はやし ともよ)!お前、一体どこに行ったんだ! 子供がこんなに怯えて、二晩も廃墟に埋まってたんだぞ。お前はどこにいたんだよ!」 作業をしていた救助隊員たちが手を止め、異様なものを見るような目でこちらを振り返った。 私は行人の前に浮かび、その口を塞ごうと手を伸ばした。もう叫ばないで、と伝えたかった。 私は、あなたの足元、たった三メートルの場所にいるのに。 けれど、私の手は行人の顔をすり抜け、彼は何も感じない。 浩之は父の怒鳴り声にビクッと体を震わせ、小さな手で行人の襟元をぎゅっと掴んだ。 「パパ……ママを怒らないで」 行人は鼻で笑い、浩之が持っていたトランシーバーを地面に叩きつけた。 プラスチックのボディが粉々に砕け散った。それはまるで、私の心そのもののようだった。 それは、まだ私たちが熱愛していた頃、ソファで一緒にパニック映画を観ながら、ふと思い立って買ったものだった。 たとえ世界から電波が消えても、たとえ地球が滅びても、これでお互いを見つけよう――彼はそう言ったのだ。 だから私は、いつもカバンの中に入れて持ち歩いていた。 それなのに、彼は自らの手で、私たちの最後の繋がりを打ち砕いた。 「何を言っている?浩之くんをここに放り出して自分だけ逃げた女を、怒るなっていうのか? それとも最初から迎えに来てなかったのか。いつもそうだ、喧嘩するたびに姿を消しやがって!」 「パパ、ママは逃げてないよ」 浩之が必死に訴える。涙が顔の埃を洗い流し、幾筋もの泥の跡を作っていた。 「ママ、本当に寝てるだけなの。 イチゴジュース、いっぱい、いっぱい。いい子で飲んでねって、ママがくれたの」 行人は一瞬、呆然とした。 彼は浩之の口元にこびりついた暗赤色の塊を凝視し、眉をひそめた。 ウェットティッシュを取り出し、乱暴に浩之の口元を拭った。 「何がイチゴジュースだ。あいつ、普段からこんなジャンクフードを食わせてたのか? 口の周り中、着色料だらけじゃないか。汚らしい」 余震が、何の前触れもなく襲ってきた。 大地が激しく揺れ、今しがた掘り起こされたばかりの廃墟が再び崩落する。 行人はとっさに腕の中の浩之を死守し、這うようにして安全な場所へと後退した。 瓦礫が崩れ落ち、先ほど開いたばかりの救出孔を完全に塞いでいくのを、私はただ見つめていた。 私の残骸を照らしていた最後の光さえ、消えてしまった。 それでいい。あの子に残酷な姿を見せずに済むのだから。 行人は、急いで駆けつけたチームドクターに浩之を押し付け、隣にいた副隊長へ命じた。 「ここにはもう生活反応はない。東地区へ移動する。知世については……」 その声には、抑えきれない嫌悪が滲んでいた。彼は言葉を切り、蔑むような口調で続ける。 「放っておけ。あいつは賢しい女だ。今頃どこかの避難所にでも隠れてるさ」 「パパ……」 医者に抱かれながら、浩之が不意に小さな手を伸ばし、行人の袖を必死に掴んだ。 「パパ、ママは逃げてない」 子供特有の焦燥に駆られた泣き声で、懸命に言葉を紡ぐ。 「ママ、本当に寝てるの。静かにしててねって。ママね、汗、いっぱいいっぱい流してたの……」 行人は眉をひそめ、ティッシュで浩之の口元に残った「汚れ」を強く拭い去った。 「わがままを言うな」 彼は三歳の子供の言葉など、端から相手にしていなかった。背を向け、大股で次の廃墟へと向かい、再び救助活動へ戻っていく。 私は宙を漂いながら、彼の冷酷な後ろ姿を見つめていた。泣きたいのに、涙は一滴もこぼれなかった。 第2話 医療テントの中は薄暗く、消毒液の匂いに土の生臭さが混じり合っていた。 看護師が温かいタオルで浩之の顔を拭っている。その手つきは驚くほど優しい。 だが、タオルが浩之の唇に触れた瞬間、彼女の手がぴたりと止まった。 「先生!ちょっと来てください!」看護師の声に緊張が走る。「この子の口の周り、どうしてこんなに赤いんでしょう。内臓出血の可能性は?」 私は浩之の傍らに浮かび、ひび割れた唇と、そこにこびりついた刺すような暗赤色を痛ましく見つめていた。 行人は近くで自分の腕の擦り傷の処置を受けていたが、その声を聞くと眉をひそめ、こちらへ歩み寄ってきた。 彼はウェットティッシュを一枚引き抜き、浩之の口元を乱雑に拭った。 「おやつでも食べ散らかしたんだろう」 低い声で、そう断じる。 ティッシュが擦れるたび、乾いた血痕が浩之の埃まみれの頬に広がった。 浩之は痛みに顔を歪めて身をよじり、小さな手で行人の手首を押し返しながら泣き叫ぶ。 「拭かないで!これ、ママがくれたイチゴジュースなの!」 悔しさに赤く染まった浩之の目尻を見て、私は思い出していた。 激痛と息苦しさに耐えながら、無理に微笑み、彼にそう告げたあの瞬間を。 「いい子ね。これはママが出した魔法のイチゴジュースよ。世界中で浩之だけが飲めるんだから」 私の愛しい息子。 彼は、本当にそれを信じてくれたのだ。 行人の動きが一瞬止まる。 だが次の瞬間、怒りの火はさらに激しく燃え上がった。 「知世のやつ、子供をいくつだと思ってるんだ。いつまでこんなものを与えてるんだ?地震が起きても息子を助けに来やしない。無責任すぎるだろう」 そのとき、行人のポケットのスマートフォンが突然震え出した。 着信表示を一瞥すると、彼はテントの入口まで歩き、声をわずかに落として電話に出る。 私は音もなく、その傍らへと漂った。 受話口の向こうから、親密さを滲ませた女性の声が聞こえてくる。 「行人、奥さんとはまだ連絡がつかないの?病院に聞いたんだけど、奥さん、出勤の報告もしてないみたいで」 副隊長の松本晴子(まつもと はるこ)だった。 「放っておけ」 行人の声には、ひとかけらの温度もなかった。 「死にやしないさ。どうせどこか安全な避難所にでも隠れて、怖くて出てこられないんだろう。医者のくせにな」 私は思わず、自嘲の笑みを漏らした。 やはり彼の目には、私は命が惜しくて息子を見捨て、職務すら放棄する人間に映っているのだ。 「パパ……」 浩之が弱々しく呼びかけた次の瞬間、突然、体を激しく折り曲げて吐き出した。 地面いっぱいに広がる暗赤色の液体。 むせ返るような血の臭いが、瞬く間に小さなテントの中を満たした。 行人は数歩で駆け戻り、ぐったりした浩之を抱き上げて怒鳴る。 「医者はどこだ!」 私は浩之の上空に浮かび、この上ない恐怖に震えていた。 けれど、絶望の中で見守ることしかできない。自分には、もう何もできない。 駆けつけた医師が素早く診察を終えると、その表情が険しく変わった。 「重度の脱水症状、および急性ストレス障害です」 医師は地面の嘔吐物へ視線を落とし、行人を見上げる。 「胃の中に食べ物は一切入っていません。これは、すべて……血液です」 行人は呆然と立ち尽くした。 彼は浩之の青白い小さな顔を見つめ、無意識に口をこじ開けようとする。 「舌でも噛んだのか?」 医師は静かに首を振り、それ以上は何も言わなかった。 経験豊富なベテラン医師は、すでに何かに気づいていたのかもしれない。行人を見つめるその瞳には、言葉にできない複雑な色が宿っていた。 彼が口を開こうとした、そのとき―― 一人の救助隊員が汗だくのままテントへ飛び込んできた。 「隊長!幼稚園エリアの廃墟……すべての瓦礫撤去が完了しました!」 荒い息をつきながら、報告を続ける。 「遺体は……発見されませんでした」 浩之を抱く行人の腕が、ぴたりと硬直する。 安堵の光が一瞬、彼の瞳をかすめた。 だがそれはすぐ、深い嫌悪へと塗り替えられた。 彼は口角を吊り上げ、鼻で笑う。 「やっぱりな。しぶとい女だ」 私はテントの天井近くを漂いながら、安堵と軽蔑の入り混じった彼の横顔を見つめていた。 ええ、そうね。見つかるはずがないわ。 校舎が崩落した瞬間、私の足元の地面も裂け、私はさらに深い地の底へと埋まってしまったのだから。 第3話 医療テントの中の空気は、いっそう重苦しく沈み込んでいた。 浩之の顔は真っ赤に火照り、小さな体を丸めたまま、眠りの中でもきつく眉間にしわを寄せている。 額に当てた濡れタオルはすでに三度も取り替えられていたが、高熱が引く気配は一向にない。 私は焦燥に駆られながら彼の上に浮かび、幾度となくその額へ手を伸ばした。かつて数えきれないほど繰り返してきた夜と同じように。 浩之は幼い頃から体が弱く、季節の変わり目になるたび決まって熱を出していた。 意識が朦朧とする彼を前に、私は一晩中眠らず、ぬるま湯で何度もその体を拭いてやったものだ。 熱が下がれば、彼の大好物であるカボチャシチューを作ってやる――それがいつもの約束だった。 それなのに今は、苦しむ彼を、ひび割れた唇を、看護師が突き立てる冷たい注射針を、ただ見守ることしかできない。 抱きしめてあげたい。 冷えた私の手のひらをその額に当て、「ママはどこにも行ってないよ」と伝えてあげたい。 けれど今の私は、触れることも、留まることも叶わない――ただ漂う空気の塊に過ぎなかった。 行人は傍らで様子を見守っていたが、眉間の皺が解けることは一度もない。 彼は浩之が抱え込んでいる、明らかに邪魔そうなリュックを取り上げようとした。少しでも楽に眠らせるためなのだろう。 だが、リュックに手が触れた瞬間――浩之がカッと目を見開いた。 残された力を振り絞り、リュックを胸元へ引き寄せる。 「触っちゃダメ!」かすれた子供の声が、泣き声混じりに響いた。「これ、ママにあげるの!」 行人の手が空中で止まる。 「ママのために、ちゃんと取っておくんだもん!」 浩之の目から大粒の涙が溢れ、リュックの帆布へと吸い込まれていく。 「これ、パパがママにプレゼントしたやつでしょ……ママがこれを受け取ったら、もう喧嘩しないでしょ……?」 宙に漂う私は、心臓など存在しないはずなのに、不意に激しく疼くような錯覚に襲われた。言葉にならない痛みが、一気に胸を満たす。 私の愛しい息子。 まだ三歳だというのに、彼は私たち夫婦の間に生じた巨大な亀裂を修復しようとするほど、敏感に空気を感じ取っていたのだ。 途切れ途切れの言葉を聞いた瞬間、行人の顔色が目に見えて悪くなった。 「何を馬鹿なことを……」 低く唸るように言う。 「知世のやつ、喧嘩のことまで子供に話したのか?こんなことまで……!」 私は行人の前へ飛び込み、その耳元で叫んだ。 「違うわ!子供には一言もそんなこと言ってない!」 けれど、彼には届かない。 行人は浩之の腕から強引にリュックを奪い取ると、ファスナーを引き開け、中身を乱暴に床へぶちまけた。 砕けたビスケットの欠片。 空になった水筒。 そして、一体のテディベア。 そのクマのぬいぐるみに、私は見覚えがあった。 結婚して三度目のバレンタイン。 あの日の朝、私は行人が消し忘れたスマートフォンの画面を見てしまったのだ。 そこには彼と晴子が写っていた。 親密そうに寄り添い、心からの笑顔を浮かべる二人。 写真の下には―― 【同僚が撮ってくれた。すごく気に入ってるよ】 さらにその下には、直視できないほど甘い言葉が並んでいた。 そして数日前、私はクローゼットの隅でひとつのジュエリーボックスを見つけていた。 中には、店で何度も眺めながら、結局もったいなくて買えなかった金のネックレス。 私はてっきり、行人からのサプライズだと思い込んでいた。 けれどその夜、彼が私に差し出したのは――ただのテディベアだった。 積み重なっていた虚しさと疑念が、その瞬間、限界を超えた。 黙り込む私を見て、行人はまたいつもの我がままだと思い込んだ。 「気に入らないのか?」 そう問われても、私は答えなかった。 玄関まで歩いていき、そのクマをそのまま廊下のゴミ箱へ投げ捨てた。 あの日、私は行人と激しく口論した。 けれど浩之のために、夫の浮気については一切触れなかった。 耐えさえすれば、浩之に健全な家庭を、望まれた子供時代を与えられると信じていたから。 けれど、浩之はすべてを知っていたのだ。 そして彼なりのやり方で、不器用に、この家を守ろうとしてくれていた。 行人がテディベアをつまみ上げる。 その瞳には苛立ちと、わずかな困惑が混じっていた。 きっと予想外だったのだろう。 私が拾い戻し、あろうことか息子が宝物のように大切にしていたことが。 「こんなもののために泣いてるのか?」 苛立たしげにテディベアを握り潰そうとした、そのとき――ふいに行人の指が止まった。 布地越しに、硬い感触があった。 彼は眉をひそめ、テディベアを裏返すと、背中に隠されたファスナーを開いた。 綿の中から、眩いばかりの金のネックレスが滑り落ち、傷だらけの彼の掌へ収まる。 チェーンの先で揺れるペンダントトップには、「知」の一文字が刻まれたプレート。 医療テントの薄暗い灯りの中で、それはかすかな光を反射していた。 第4話 私は呆然としていた。 ネックレスが――私が捨てたはずのテディベアの体の中に? 私が口にできなかった疑念と、彼が説明しそびれたサプライズ。 私たちは、一度は捨てられ、そして私が密かに拾い戻したこのテディベアを挟んだまま、最後の仲直りの可能性を永遠に逃してしまったのだ。 そして今、私たちは生者と死者に分かたれている。 すべては、取り返しのつかない、悪い冗談のような悲劇へと変わってしまった。 私はそのネックレスをじっと見つめた。 それは、まだ私たちがまだ愛し合っていた頃、街を並んで歩き、ジュエリーショップの前を通るたびに、私がいつも足を止めて眺めていたものだった。 私はプレートを指さし、行人にこう言ったのだ。 「見て。この『知』っていう字、素敵じゃない?私は富や名声なんていらない。ただ、私たち家族が幸せに、満足を知って、楽しく暮らせればそれでいいの」 幸せと、満足を知ること。 それは私の人生に対する、そして私たちの家庭に対する、最もささやかで、けれど切実な願いだった。 あのとき行人は、私の額にキスを落とし、こう言ってくれた。 「ああ。絶対に幸せにして、満足できる人生にしてあげるよ」 行人は、覚えていてくれたのだ。 私の願いを、確かに心に留めてくれていたのだ。 けれど彼は知らない。 たった一枚の写真、たったひとつの誤解によって、「満足を知る幸せ」の象徴になるはずだったこの贈り物が、私たちの間に横たわる最も深い溝へと変わってしまったことを。 そして私も知らなかった。 これは安物のぬいぐるみなどではなく、かつてあれほど渇望していた「安心」そのものだったということを。 行人はネックレスを強く握りしめ、指の腹で「知」の文字をなぞった。 そして不意に、冷ややかな失笑を漏らす。 「知世……それほど俺が憎いのか?」 低く、独り言のようにつぶやく。 「あんなに欲しがっていたくせに、これさえいらないほど俺を恨んでいるのか」 宙に漂う私は、苦しげに震え、体を丸めた。 違うのよ、行人。 違うの。 行人はネックレスを乱暴にポケットへ押し込むと、苛立たしげにスマートフォンを取り出した。 ロックを解除し、叩きつけるような指先で文字を打ち込む。 やがて、一行のメッセージが送信された。 【知世、いい加減にしろ。怒っているのはわかるが、今はそんな場合か!?街中が救助活動をしてるんだ。数日くらい我慢しろ。俺への当てつけで仕事を疎かにするな!】 あまりのことに、私は思わず笑い出しそうになった。 「このバカ!私がいつ、当てつけで仕事を放り出すような人間だったっていうのよ!勝手に決めつけないで!」 大声で怒鳴り散らしても、何ひとつ音は生まれない。 伸ばした手は、ただ虚しく彼の体をすり抜けるだけだった。 私はしばらく呆然と立ち尽くし、顔を覆い、再び体を丸めた。 私たちはもう二度と、誤解を解く機会を失ってしまったのだ。 そのとき、テントのカーテンが激しく跳ね上げられた。 ひとつの影が、よろめきながら飛び込んでくる。 「浩之くん!私の可愛い孫よ!」 私の母・林恵美(はやし めぐみ)だった。 母はベッドサイドへ駆け寄り、高熱で顔を真っ赤にしたまま眠り続ける浩之の姿を見た瞬間、堰を切ったように涙を溢れさせた。 震える手で額に触れようとして、起こしてしまうのを恐れるように途中で手を止める。 そして血走った目で、狭いテントの中を必死に見回した。 「ともちゃんは?私のともちゃんはどこなの!?」 その姿を見た行人は、母までもが「なぜ娘がここにいないのか」と責めに来たのだと思い込んだ。 「お義母さん、落ち着いてください。知世はここにはいませんよ。俺と喧嘩して、どこかに隠れてるんです。浩之くんが怪我をしたっていうのに顔も見せない。救助活動が終わったら、俺はあいつを――」 行人の言葉は、母の悲痛な叫びによって遮られた。 母は行人の腕を激しく掴み、真っ赤に充血した目で彼を睨みつける。 その声は、抑えきれない震えに満ちていた。 「何を馬鹿なことを言ってるの!あの子は一昨日――つまり地震の日よ!わざわざ仕事を早退して、幼稚園まで浩之を迎えに行ったじゃないの!」