もう、季節は私を通り過ぎていくだけ

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もう、季節は私を通り過ぎていくだけ

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結婚の事実を隠して3年。菅原日和(すがわら ひより)は999回、公表を夢見てた。でも夫の菅原真司(すがわら しんじ)がしたのは、他の誰かへの99...

Chương (1)

第1章

結婚の事実を隠して3年。菅原日和(すがわら ひより)は999回、公表を夢見てた。でも夫の菅原真司(すがわら しんじ)がしたのは、他の誰かへの999回のプロポーズ。 日和は、真司の秘書でいられた。彼の友達からかわれれば「愛人」と呼ばれることも受け入れた。 義理の妹としても振る舞えた。でも、真司の妻にだけはなれなかった。 はじめは真司もこう言っていたのに。「日和、もう少しだけ待ってくれ。あと数日したら、俺たちの関係をちゃんと公表するから」 でもその後、彼から数億円が振り込まれた。それは冷たい警告でしかなかった。 「何を話してよくて、何を話しちゃいけないか。お前なら分かるだろ。 お前の両親のお墓のことも、よーく考えるんだな」 さらに時がたち、日和がすっかりおとなしくなって、泣きも騒ぎもしなくなったころ。なぜか今度は、真司が泣いて彼女にひざまずいていた。 「行かないでくれ、お願いだから」 第1話 結婚の事実を隠して3年。999回も待ち望んだ公表の約束が、また破られた。 菅原日和(すがわら ひより)はスマホの画面をじっと見つめた。そこに表示された菅原真司(すがわら しんじ)からのメッセージ。【今夜は会議が長引くから、帰らない】 彼女は返信しなかった。 翌朝、菅原グループの社長秘書として、日和はいつも通りに出勤した。 ただ、真司のスケジュールを書き込んだメモを握りしめることも、エレベーターの前で数分前から待つこともしなかった。 お昼になっても、真司のデスクには、いつも置いてあった温かいコーヒーはなかった。 夜10時。会議で遅くなるとき、いつもビルの下で待っていたはずの女は、もう姿を見せなかった。 日和は、振り向いてくれない人を追いかけるのはもうやめよう、と心に決めた。 ところが真司は、パーティーで友人たちにからかわれていた。 「あれ、例のかわいい愛人は連れてこなかったのか?」友人がグラスを片手に笑って聞く。 真司はグラスを持つ手をぴたりと止め、数秒ほど間を置いてから、わざと強調するように言った。「都合が悪いんだ」 そのそっけない態度は、まるで日和と特別な関係であることが、なにかやましいことでもあるかのようだった。 誰かがそのときの動画を、日和に送ってきた。 日和は冷えきった邸宅でひとり、その動画を何回も再生した。 スマホの明かりに照らされた彼女の顔は、無表情だった。 7年前、日和の両親は交通事故で亡くなった。 事故を起こしたのは菅原家だった。彼らは慰謝料を払い、何度も「申し訳ない」と頭を下げ、当時17歳だった日和を「養女」として引き取ったのだ。 彼女を物置に住まわせながら、対外的には、「養女」だと言っていた。 菅原家での7年間で、日和は人の顔色をうかがい、何も望まず、息をひそめて生きることを覚えた。 そんな日々のなか、真司と出会った。 あの日、池のほとりで鯉にえさをあげていた日和は、菅原家の長男に突き飛ばされて池に落ちてしまった。 そこを通りかかったのが、地方の分家から菅原家に引き取られてきたばかりの真司だった。彼は日和を水の中から引き上げてくれた。 真司は日和の前にしゃがみこみ、タオルで濡れた髪を拭きながら、そっと尋ねた。「お名前は?」 「小林日和です」 「小林日和……」彼は名前を口ずさんで、にっこり笑った。「きれいな名前ですね」 日和が真司の笑顔を見たのは、それが初めてだった。 それから、彼はいつも日和のそばにいてくれるようになった。 日和が菅原家の他の子供たちにいじめられている日も、お腹をすかせて宿題をしているときも、物置でひとり泣いている夜も。 そんな二人の様子を察した菅原家の祖母・菅原睦月(すがわら むつき)は、日和への償いもかねて、彼らの結婚を取り決めた。 日和は、これを運命の巡り合わせだと思った。ついに、自分だけのあたたかい家庭が手に入るのだと信じた。 ところが、睦月が亡くなったとたん、真司の態度は手のひらを返したように冷たくなった。 あれほど宝物のように大切にしてくれた義理の妹は、今や彼にとって、ただの邪魔者になってしまった。 日和が999回もお願いした結婚の公表は、理由も告げられずにすべてキャンセルされた。 3年間の結婚生活。日和には、結婚式も、誰からの祝福も、指輪も、結婚写真の一枚すらなかった。 婚姻届も、真司が会議へ向かう途中で、むりやり時間を作って提出しただけ。 はじめて妊娠したときでさえ、一人きりだった。 心労がたたって、日和は流産してしまった。 真司が病院に顔を出したのは、日和が入院して数日経ってから。彼はただ、「子供ならまた作ればいいだろ。俺たちはまだ若いんだから」と、あっさり言っただけ。 その瞬間、日和の心のなかで、何かが音を立てて砕け散った。 それでも、彼女は自分に嘘をつき続けた。真司はただ、忙しいだけなんだって。 気持ちを表現するのが下手なだけ。この結婚を受け入れるのに、まだ時間が必要なだけなんだ、って。 あの夜の出来事が起きるまでは。 日和は、青木綾子(あおき あやこ)を誘ってバーで飲んでいた。 綾子は、日和にとって「一番の親友」 少なくとも、日和はそう信じていた。 二人は高校からの友達。日和がずっと片思いをしていた青春時代を、綾子はすべて見てきたはずだった。 ぐでんぐでんに酔っぱらった綾子は、日和に抱きつきながら、「あなたって本当に恋愛のことばっかりよね」とからかう。 片思いの相手が自分を好きじゃないって分かってるのに、何年もよくやるよ、と。 日和は苦笑いするだけで、何も答えなかった。 でもその日の綾子は、ひそひそ声でこう打ち明けてきた。「ねぇ日和、私はアプローチしてくる男の人を二人とも好きになっちゃったんだけど、どうしよう?」 日和は一瞬ぽかんとして、軽い気持ちで答えた。「えーっと、じゃあ両方を比べてみて、一番条件がいい人にすれば?」 すると綾子は、SNSに投稿したという比較表をスマホで見せてきた。タイトルは、【この二人、どっちがいいかな?アドバイス待ってる!】だ。 日和は思わず笑ってしまった。「ほんとに比較表まで作ったの?あなたをそんなに悩ませるなんて、どんな人たちか見せてよ」 日和はそう言って、画面をじっくりと見始めた。 だが、画面を見ているうちに、彼女の笑顔はこわばっていった。 片方の男性のプロフィールが、あまりにもよく知っているものだったから。 名前:菅原真司。 年齢:28歳。 身長:185センチ。 職業:菅原グループ社長。 結婚歴:未婚。 住所の欄には、日和が真司と暮らしている家の住所が、部屋番号まで寸分たがわず書かれていた。 日和の酔いは一気に醒めた。震える指で、書かれている文字を一字一句、何度も確認する。 自分の夫が、まさか親友の綾子にとっての予備の彼氏だったなんて。 第2話 「この人、あなたに気があるの?」日和は、自分の声が震えているのがわかった。 綾子はその名前をちらっと見て、にっこり頷いた。 「気があるなんてもんじゃないわ。初めて会ったとき、いきなりみんなの前でプロポーズされたんだから。冗談で、『999回プロポーズしてくれたら考えてあげる』って言ったら、まさか本当に続けてるの。毎週一回、しかも毎回ちがうやり方でね」 綾子はうんざりした顔で言った。「先月、あなたとドライブしたあのオーダーメイドのフェラーリ、あれも彼がくれたものよ。 先々月は海外旅行に行ったでしょ?そしたらなんと、彼も追いかけてきて、山頂から日の出を見せてくれたの。それに、世界にひとつしかないアンティークのジュエリーまでくれたんだから。 おまけに、すごく気が利くの。私が生理痛でつらかったとき、わざわざ車で何十キロも走って、農家から特別な生姜を買ってきてくれたの。それで、手作りの生姜湯を飲ませてくれて。 こんないい男、好きにならないわけないじゃない?」 日和は呆然と聞いていた。胸がナイフでえぐられるように痛んだ。 綾子の話すことは、すべて心当たりがあった。 海外のスキー場で貸し切りのゴンドラに乗ったり、海辺でキャンドルディナーをしたり。雪山の頂上で星空と日の出を眺めたりも。 ニュースで何度も見た、あのロマンチックなプロポーズの数々のことだ。 かつては自分も、うらやましがって綾子にこう言ったことがある。「そんないい人、もう結婚しちゃいなよ」って。 それなのに、まさか。その一途でロマンチックな男性が、自分が3年も結婚を隠してきた夫だったなんて。 これまで、真司が気が利かないことに不満を言ったこともあった。でも、彼はいつも面倒くさそうに冷たい態度をとるだけだった。 「日和、結婚したからには軽々しいことはできないんだ。わかってくれ。 今の地位まで来るのは大変だったんだ。俺が結婚していて、しかも相手が菅原家の養女だと知られたらどうなる?隙を狙ってるライバルたちが、よってたかって俺を潰しにくるに決まってる」 日和が悲しい思いをするたび、真司は彼女を抱きしめて、いつも同じ言葉で慰めた。 「日和、もう少しだけ待ってくれ。俺が菅原家で立場を固めて、もっと力をつけるまで。そうしたら、世界中に向かって堂々と、お前が俺の妻だって発表するから」 そのたびに、日和は心を許してしまっていた。 真司を愛していたし、結婚を隠しているのは彼が自分を守るためなんだと、わかっていたから。 恵まれない境遇からグループの社長にまでなったのだ。たくさんの人間が、真司がしくじるのを妬みながら見張っている。 彼は毎日、薄氷を踏むような思いで慎重に生きていた。 だから、結婚生活にサプライズやロマンチックなことがなくても、日和は理解していた。真司が人生の大事な瞬間にいなくても、仕方ないと思っていたのだ。 でも、今この瞬間、その理解はすべて滑稽な茶番に変わってしまった。 日和の心には、まだわずかな希望があった。もしかしたら、真司にも何かやむを得ない事情があるのかもしれない、と。 しかし次の瞬間、現実は彼女を打ちのめした。 真司の声が、綾子のスマホから聞こえてきた。「綾子、バーの向かいの公園にいるんだ。これが最後のプロポーズになる。来てくれるかい?」 綾子はためらわずに頷き、日和は人ごみの後ろに隠れた。 数千機ものドローンが夜空に舞い上がり、綾子の顔を描き出した。最後には巨大なダイヤの指輪の形に変わり、その下では真司が本物の指輪を手にしている。 彼は片膝をつき、厳かに誓った。 「結婚したら、すぐにお前のことを公表する。菅原グループ社長の妻として、最高の暮らしをさせてあげる。俺が全力でお前を守って、永遠に幸せにしてみせる。 それに、会社の株の半分をお前にあげたい。これからは、俺が何かを決めるときは必ずお前の同意を得るよ。菅原家のみんなにも言ってある。もしお前を傷つけるやつがいたら、相打ちになってでも俺が叩き潰すってね! 綾子、愛してる。命をかけて、一生お前を愛し続ける。結婚してくれ」 第3話 嵐のような歓声のなかで、日和だけが、ひとり涙を流していた。 彼女は背を向けて逃げだしたけど、たいして走らないうちに道で転んでしまった。ひざをすりむくと、血がふくらはぎを伝って流れていく。 でも、痛みは感じなかった。それよりも、心が無数の矢で射ぬかれたように痛んだ。 ふらつきながら家にたどりつくと、珍しく真司が先に帰っていた。 書斎のドアが少し開いていて、彼は窓際に立ち、秘書の木村亮太(きむら りょうた)と電話をしていた。 「離婚協議書を作ってくれ。財産分与をはっきりさせたら、裁判所に訴訟を起こす。すべて内密に進めるんだ。日和が騒ぎださないよう、気をつけろよ」 ドアの外でその言葉を聞き、日和は、ふと笑ってしまった。 そういうことだったんだ。 真司は、とっくに自分と別れる準備をしていたんだ。 どれくらい時間が経っただろうか。真司が寝室にもどってきて、日和の隣に横になった。 彼女は、ぽつりと尋ねた。「真司、あなたは、愛する人にはすごく優しくするんでしょ?」 真司はどきりとした。なぜそんなことを聞くのかわからなかったが、落ち着いて答えた。「もちろんだよ。俺は、お前に優しくなかったかな?」 日和は声もなく笑い、自分にだけ聞こえる声でつぶやいた。「なら、あなたの望みをかなえてあげるわ」 二人は互いに背を向けたまま、眠れない夜を過ごした。 翌朝早く、真司はそそくさと家を出ていった。 日和も後を追うように家を出て裁判所へ向かい、亮太が提出した離婚の申立書に、自らサインをした。 まもなく、綾子から電話がかかってきた。「日和、助けて!昨日の夜、真司のプロポーズを受けたばっかりなのに、もう今日ウェディングドレスを選びに来てるの。スタッフみんなが私を見てて、どれにすればいいか全然決められないよー!」 日和はとっさに断った。「私がお邪魔するのもなんだし、二人が気に入ったものを選んだらいいじゃない」 でも綾子は譲らない。「だめ!絶対あなたに選んでほしいの。午後に雲上カフェで待ってるから!」 コーヒーの豊かな香りが漂うなか、日和は綾子の口元についていたミルクの泡をぬぐってあげた。 小さいころから、日和はいつも彼女のお世話をする役だった。 綾子は目を輝かせながら日和の手を握った。「ねぇ日和、私、今すっごく幸せなの!もう迷わなくていいのが、こんなに幸せなことだったなんてね。あなたは一番の親友なんだから、ブライズメイド、絶対お願いね!」 彼女の笑顔を見ていると、日和は心が張り裂けそうだった。 それでも、顔には必死に平静を装った笑みを浮かべていた。 綾子はいくつかのアクセサリーを取り出すと、日和の前に並べて見せた。「これ、今日彼がくれたの。未来のお嫁さんのためにって、特別に出してきてくれたんだって。菅原家に代々伝わる宝物なんだよ」 ビロードの箱の中。オーダーメイドのアンティークジュエリーには、すべて綾子の名前が金色の刻印で彫られていた。 その下には真司のサインがあり、彼がいつも使っている決まり文句だった。 「これは菅原グループの社長夫人だけへの特別な贈り物で、この刻印も、彼が自らの手で彫ってくれたものなんだって」 綾子の目元は優しく和らぎ、幸せいっぱいの笑みを浮かべていた。 日和は目の奥がつんとして、テーブルの下で太ももを強くつねり、なんとか涙をこらえた。 「おめでとう、綾子、あなたを愛してくれる人が見つかって、本当によかった。でも、一つだけ先に言っておきたいことがあるの。あなたの結婚式、ブライズメイドはできないかもしれない。仕事で異動があって、近いうちに海外に行くことになったのよ」 綾子の笑顔がこわばった。「いつの話?そんなの聞いてないよ。一人で海外に行ってどうするの?旦那さんはいいって言ってるの?」 「彼とは、離婚するつもりよ」 日和は、まるで世間話でもするように、何でもないことのように答えた。 このとき彼女は、真司が結婚を秘密にしておこうと言ったことに、感謝すらしていた。そのおかげで、親友の綾子さえも、自分の夫が誰なのかを知らないのだ。 かつては、愛はどんな障害も乗り越えられると信じていた。だから、このつらさも喜んで受け入れていたのだ。 でも、こんなにあっけなく、突然すべてが変わってしまうなんて、思ってもみなかった。 綾子はみるみるうちに目を赤くした。「どうしてそんな大事なこと、今まで教えてくれなかったの?旦那さんが、何かひどいことでもしたの? その人、誰なの?教えてよ!私が直接問いただしてやるから!なんでそんなひどいことができるの!」 日和の心は、ぎゅっと締めつけられるように痛んだ。 本当は、何もかもぶちまけてしまいたかった。でも、できるはずがなかった。 綾子の幸せそうな笑顔はまぶしく輝いていた。彼女があんなに一人の男性を愛したのは、きっと初めてなのだ。 日和には、その幸せを壊すことなんてできなかった。自分のせいで、綾子を傷つけるなんて、絶対に嫌だった。 日和は手を伸ばし、綾子の涙をぬぐった。「大丈夫。もう手続きも進んでるから、このまま、きれいに終わりにするの。前は家庭が大事だと思ってたけど、これからは仕事に集中したいから」 綾子は呆然と日和を見つめ、胸を痛めてテーブルを回り込むと、彼女をぎゅっと抱きしめた。「日和、このごろ、私自分の幸せな話ばっかりして……あなたの気持ちに、全然気づいてあげられなかった。ごめんね」 日和は彼女の背中をそっと撫でながら、こらえきれずに涙をこぼした。「綾子、その人は、本当にあなたを幸せにしてくれるのね?」 綾子は力強くうなずいた。「うん。彼の熱い愛情をいつも感じてる。毎日が夢みたいに幸せなの。私は恋愛に臆病だったじゃない?心から安心させてくれる男性に出会えるなんて、思ってもみなかった。 私はとっても幸せだよ。だから、日和、あなたも絶対に幸せになってね!」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、カフェのドアベルがカランと音を立てた。 そして、聞き覚えのある声が響いた。「綾子、迎えに来たよ」 第4話 二人の視線が、かち合った。 日和は、息をするのも忘れた。 体の後ろで握りしめた拳が、ぶるぶる震えている。爪が手のひらに、深く食い込んでいた。 なのに真司は、まるで彼女のことを知らないみたいだった。まっすぐ綾子のそばまで歩み寄ると、親しそうにそのほっぺを軽くつねった。 「ばかだな。さっき別れたばかりなのに、もう俺に会いたくなった?」 昨日の夜も、二人は同じベッドで眠ったばかりだった。そうでなければ日和は、本気で自分が幻覚を見ていると思ったはずだ。 目の前にいるこの男は、何年も夫婦であることを隠してきた自分の夫なんかじゃない。まるで、見ず知らずの他人だ。 綾子は可愛らしく頬を染めて、真司の胸を軽くぽんと叩いた。「もう、やめてよ。親友もいるんだから!」 真司はそこでやっと日和に気づいたかのように、何の感情もこもっていない視線を彼女に向けた。そして少しも動揺した様子もなく言った。「はじめまして、菅原真司です。綾子の婚約者です」 日和はうつむいて、自分に差し出された真司の手をじっと見つめた。 すらりと長くて、大きな手。丸い爪は、きれいに整えられている……いつも自分が、手入れをしてあげていた。 喉の奥が、きゅっと締めつけられる。感情が、爆発しそうだった。 綾子が不思議そうに日和を見て、小声でたずねた。「どうしたの、日和?二人とも……知り合い?」 その場の空気が、ぴしりと凍りついた。 「知らないわ!」 「いや、知らない……」 男と女、二人の声が同時に響いた。 女の声は焦っていて、男の声は冷淡だった。 日和は無理に口の端を上げて、言い訳をした。「ごめん、ちょっと考えごとをしてて、ぼーっとしてた」 そう言って、すぐに気持ちを立て直す。目の前の手をそっと握るだけで、すぐに離した。「はじめまして、菅原日和です」 真司の瞳が一瞬、暗くなったように見えた。彼の視線が数秒、日和の顔の上で止まる。そして、ようやく口を開いた。「菅原さん、はじめまして」 綾子は甘えるように真司の腕に絡んだ。「もう、さん付けなんて水臭いな。まるでビジネスの交渉みたいだよ。真司、日和は私の大親友なんだから。これからは二人も友達なんだからね、わかった?」 真司は綾子を見て、優しい眼差しで笑った。「分かったよ。お前の言う通りにする」 その言葉は、なんとか冷静を保っていた日和の心を、鋭く突き刺した。 彼女はふと、何年も前の夜を思い出した。睦月が、二人の結婚を決めた、あの夜のことを。 花の香りが満ちるベランダで、真司は片膝をつき、真剣な顔で約束してくれた。「おばあちゃんの願いを叶えたいんだ。結婚したら、この菅原家のことは全部お前が決めていい!」 あの頃の自分は、二人は熱く愛し合っているんだって、心の底から信じていた。 日和の目に涙が光るのに気づいて、真司は思わず彼女を抱きしめようと体を動かした。 だが、一歩踏み出しかけたところで、ぴたりと動きを止めた。 彼自身も気づかないうちに、声が少し震えていた。「もう遅い時間ですし、俺がご馳走しますので、菅原さんも夕食をご一緒しませんか」 日和は奥歯をぐっと噛みしめ、必死に平静を装った。「ごめんなさい、今日は本当にだめなんです。家にまだ用事がありますから」そして、綾子のほうを振り向いて言った。「綾子、婚約者さんも来てくれたことだし、私はここで失礼するね。また連絡する」 そう言うと、綾子が何か言うよりも先に、慌てて雲上カフェを飛び出した。 数本先の通りまで走って路地に駆け込むと、ようやく全身の力が抜けた。その場にうずくまり、声を押し殺して泣きじゃくった。 日和が息を整える間もなく、スマホが鳴り出した。 電話の相手は、真司の秘書の亮太だった。上司そっくりの冷たい事務的な口調で言った。「たった今、社長のご指示で、奥様の口座に2億円を振り込みました。 何を話すべきで、何を黙っておくべきか、奥様なら、お分かりのはずです。ご両親のお墓のことを、よくお考えください」 それは事務連絡の形を装った、あからさまな脅迫だった。 第5話 日和が家に帰ると、リビングで真司が彼女を待っていた。 彼は改まった態度で言った。「日和、安心して。お前の今後の生活は俺がちゃんと手配する。この家にも、そのまま住んでいいから」 日和は、玄関に立ったまま動かなかった。 シャンデリアのきらめく光を浴びながら、彼女は目の前の夫を静かに見つめた。この3年間、ずっと愛してきた人だった。 その視線の先には、真司の左手の薬指。そこには、別の女性との婚約指輪がはめられていた。 「真司」かすれた声が出た。「あなたは、私と綾子の関係、知ってるでしょ?」 真司は、思わず言葉をさえぎろうと口を開いた。 だけど日和はそれを手で制した。「最後まで聞いて。今のあの子、本気であなたのことを好きみたい。だからお願い、彼女を裏切らないであげて」 そこまで言うと、日和の目頭が熱くなった。 真司はため息をついた。「俺たちのことを認めてくれるなら、なるべく早くこの東都から出ていってくれないかな?」 日和は彼を見て、ふっと笑った。 自分の人生って、なんて哀れなんだろう。 リビングの空気が、まるで凍りついたかのようだった。 日和が不意に口を開いた。「真司、私のこと、愛してくれたことはあった?綾子のために私をだますって決めたとき、少しでも、ためらったりはしなかったの?」 真司の喉がごくりと鳴り、かろうじて上ずった声が漏れた。「す……すまない」 その言葉に、日和の心はきつく締めつけられた。 でも、彼の残酷な言葉はまだ続く。「綾子には、初めて会った時から惹かれていたんだ。おばあちゃんからこの結婚を頼まれていなければ……」 このとき日和は、自分が夢見た結婚も家庭も、真司にとっては迷惑な押しつけでしかなかったのだと悟った。 自分でも驚くほど、彼女は落ち着いた声が出た。「もともと海外に行くつもりだったの。来週月曜日の便で」 真司の表情がやっと和らいだ。「月曜は俺に時間がないから、明日の夜にしてくれ」彼は有無を言わせぬ口調でスマホを取り出した。「木村さんに連絡して、向こうでお前の世話をしてくれる人を探させる」 言い終わると、真司はさっさとゲストルームへ行ってしまった。 翌日、日和はまとめておいた荷物を持って、空港へ向かう準備をしていた。 でも、その途中で綾子から電話がかかってきた。 「日和?もうすぐいなくなっちゃうって聞いたんだけど、今夜最後に会えないかな。私は嵐川バーにいるの」 夜の路地裏は、ひっそりと静まり返っていた。 日和は嵐川バーへ向かって、足を速めた。 遠くの薄暗い街灯の下、綾子が低い壁に寄りかかり、血まみれの額を押さえながらずるずると座り込むのが見えた。 「綾子?」日和は驚いて駆け寄った。「一体どうしたの!すぐに病院へ行かなきゃ!」 綾子は息も絶え絶えに、必死で首を横に振った。「私はいいから、日和……早く、逃げて……」 彼女が言い終わるか終わらないかのうちに、路地の奥の暗闇から、数台のバイクがけたたましい音を立てて飛び出してきた。 日和はとっさに、綾子をそばの店の物陰へと突き飛ばした。 でも、自分は間に合わず、バイクにはね飛ばされてしまった。 体が宙を舞って壁に叩きつけられる。全身の骨がきしむような衝撃とともに、ごふっと口から血を吐き出した。 「なんなのよ、あなたたち!」彼女はなんとか体を起こし、綾子をかばおうとした。 でも相手は何も答えず、日和の髪をわしづかみにして後ろへ引っぱる。 見ると、男の一人が懐から拳銃を取り出し、こちらに狙いを定めて引き金を引こうとしていた。 「やめろ!」 鋭い叫び声と同時に、真司が十数人のボディガードを連れて路地裏に駆け込んできた。 銃を持った男たちは慌てて逃げだし、ボディガードたちがそれを追いかけていく。 真司はまっすぐ綾子のもとへ駆け寄ると、震える腕で彼女を抱きしめた。「綾子、しっかりしろ!大丈夫だ、俺がいる。すぐに病院へ連れて行くから」 綾子は血だらけで、もう話す力もないらしい。弱々しく真司を一瞥すると、ぐったりと彼の腕の中にもたれかかった。 「綾子!」日和も慌てて綾子のもとへ這っていき、容態を確かめようとした。 「どけっ!」真司は怒りに我を忘れ、血走った目で日和をにらみつけた。「お前のせいだ!お前さえいなければ綾子はこんな目に遭わなかった!彼女に万が一のことがあったら、絶対に許さないからな!」 そう言い放つと、彼は綾子を抱きかかえて去っていった。日和も同じように血と泥で汚れていたが、その姿に目もくれなかった。 第6話 手術は数時間かかった。 真司は手術室の外を、いらいらしながら行ったり来たりしていた。 彼はいてもたってもいられず、握りしめたこぶしは、小刻みにふるえている。 通りすがりの人に病院まで送ってもらった日和が目にしたのは、そんな真司の姿だった。 複雑な気持ちで一歩前に出て、なにかを言おうとしたその時、日和は思いきり頰をひっぱたかれ、パンッ、と乾いた音が響いた。 日和は驚いて頰をおさえる。「真司、今ぶったの?」 真司は、人を殺しそうな目で彼女をにらみつけた。「綾子との結婚をめちゃくちゃにしたい気持ちはわかる。でも、どうしてあんなひどいやり方で彼女を傷つけたんだ!」 「私じゃない!」 真司はさらに目を血走らせ、日和の首を強くつかんだ。「まだ言いのがれるつもりか!手術室に入る前に綾子から聞いたんだぞ。彼女がどこにいたか知ってたのは、お前だけだってな! あの子は意識を失う直前までお前をかばってたんだぞ。お前を尾行してきたやつらの仕業かもしれないから、ぬれぎぬを着せないでくれってな!それなのに、お前は!」 そこまで言うと、彼の目は赤くなった。それは綾子への想いであふれていた。「綾子は、お前をあんなに大事にしてた。親友だって思ってたんだぞ!日和、お前には心がないのか!」 日和はもう涙を抑えきれない。声を詰まらせながら訴える。「真司、私じゃないって言ってるでしょ!綾子を傷つけるようなこと、絶対にしない!あなたを失うのはすごく辛いけど、二人の邪魔をしようとなんて考えたこともないわ!」 けれど、真司はまったく信じようとしなかった。 彼は日和を疎ましそうに振りはらい、冷たい声にもどった。「綾子は、あの中に寝てるんだぞ。これ以上お前のなにを信じろって言うんだ?日和、見逃してやろうと思ったが……お前が自分でまいたタネだ。 誰か来い。こいつを物置部屋に閉じ込めておけ。俺の命令があるまで、絶対に出すな!」 その言葉を聞くと、数人のボディガードがすぐさま前に出て、日和を取り押さえた。 彼女は必死に抵抗した。「こんなことしないで!私じゃないの!綾子を傷つけるわけないでしょ!」 もがいたせいで、体中の傷口がすべて開いてしまった。そして、そこからまた血が流れ出す。 そのとき、下腹部にひやりとした鋭い痛みが走る。日和は思わず体を丸めたくなった。 しかし真司はもう彼女を見ようともしない。ただ手を振って、ボディガードに早く連れて行けと合図するだけだった。 物置部屋はひんやりと湿っぽく、吐き気のするようなカビの匂いが充満していた。 日和は、下腹部の痛みがどんどん強くなっていくのを感じた。 はじめは、わずかな痙攣だけだった。 彼女は必死にドアを叩いたが、だれも応答してくれなかった。 どれくらい時間が経ったのか。昼なのか夜なのかも分からない。ふと、股のあたりに暖かい湿り気を感じた。辺りに、生ぐさい血の匂いが広がる。 そのとき日和はふと気づいた。今月はまだ、生理が来ていない、と。 日数を数えてみると、ある残酷な真実が浮かび上がってくる。もしかしたら、妊娠しているのかもしれない。 そして今、その子の命が、少しずつ消えかけている…… 前にも、一度赤ちゃんを失ったことがある。もう二度と失うわけにはいかない。 日和は、体のけだるさと激しい痛みに耐えながら、ドアを強く叩いた。「開けて、助けて、この子を助けて!真司、私は妊娠してるのよ!あなたの子でもあるの!」 ドアに爪を立てると、血のにじんだ跡がつく。そして、体を引き裂くような痛みが、波のように押し寄せてきた。 意識がだんだんとおぼろげになっていく。口は大きく開いているのに、少しも声が出ない。 日和はドアに寄りかかり、うつむいて自分の足のあいだにあふれ出る血だまりをじっと見つめた。 それから数日、彼女は熱が出て、下からの出血は悪臭を放ち、傷口はひどくなる一方だった。 日和は悟った。お腹の子は、もう生きていないのだと。 そして自分も、傷が悪化して、この汚い物置部屋で死んでいくのだろうと。 もしかしたら、それも悪くないかもしれない…… 再び意識が戻ったとき、鼻にツンとくる消毒液の匂いがした。 日和の体は、まるで鉄板に固定されたように動かなかった。強心剤が打たれ、医師の指示が飛び交っていた。 「手当てが遅すぎたな。この子、もう子どもは産めないかもしれない……」 「産めるかどうかの問題じゃないよ。子宮がひどい感染症を起こしてるし、全身傷だらけだ。そもそも助かるかどうかも怪しい」 「血中酸素濃度が下がり続けています。挿管を準備してください」 医師たちの言葉が耳に入ってくる。日和は目を開けようとしたけれど、結局できなかった。 だれかが話を続けた。「感染症でショック状態になってから、もう数日も経つのに。家族もだれひとり見舞いに来ないなんて、かわいそうにね」 「そうよ。それにひきかえ、上の階にいる青木さんは幸せよねぇ。婚約者がつきっきりで看病してて、ヘルパーさんだけでも数人も雇ってるんだって」 「たいしたケガじゃなくて、手術したその日に退院できたらしいわよ。でも婚約者が心配しすぎて、絶対に退院させないんだって……1日何千万円もする、この病院でいちばん豪華な特別室にいるなんて、うらやましいわ……」 ピッピッ、と鳴っていたモニターから、けたたましいアラーム音が響く。数値が大きく乱れはじめたのだ。 医師と看護師たちが、いっせいに日和の周りに集まった。「急いで!血中酸素濃度が60まで落ちた!すぐに集中治療室へ!」 日和のくちびるがふるえ、やがて自嘲するような笑みがうかんだ。 第7話 1週間後、綾子は青木家と菅原家の人たちに付き添われて退院した。 真司は、そばで看病ができるようにと、綾子を自分の家に連れて帰った。 車が停まると、執事の陣内正人(じんない まさと)がすぐに出迎え、そして、ひそひそ声でこう言った。「真司様、お電話が繋がらなかったこの数日間、物置部屋のことで……」 「綾子がいるんだぞ。なぜ物置部屋の話をするんだ?」真司はすぐに正人の言葉をさえぎり、思わず綾子の方に目をやった。 正人は何か言いたそうに口を動かしたが、結局は言葉を飲み込んだ。 真司はそんな正人を無視して、綾子の肩を抱き寄せた。「しばらく綾子はこの家で休む。気の利く使用人をちゃんと手配しておけ。この子の邪魔になるようなことは、何一つあってはならない。分かったな?」 正人はとうとううなだれた。「かしこまりました」 真司は綾子を抱きかかえるようにして、家の中へ入っていった。 「真司、私たちまだ結婚もしてないのに、ここに住むのはまずいんじゃ……」 「今やお前は、俺の正真正銘の婚約者なんだ。何の問題がある?」真司は愛おしそうに彼女のほっぺを軽くつねると、その赤い唇にキスを落とした。 甘い吐息がもれ、一気に二人の間の空気が熱を帯びる。正人が言いかけた言葉は、完全に居場所を失ってしまった。 深いキスのあと、二人は息を切らしながらソファに身を沈めた。 そこでようやく真司は立ち上がり、さっきから何か言いたそうに控えていた正人のもとへ向かった。 「日和は……何か言っていたか?」 正人は首を横に振った。「真司様、日和様のことでございますが、一度、ご自身の目で確かめられたほうが……日和様は今……」 その言葉を、真司はまたも遮った。「もういい。あいつに反省の色がないなら、家のルールどおりに罰を与えろ。過ちを認めないなら、毎日10回……いや、20回だ!20回棒で叩け!」 正人はその場に立ち尽くしたまま、動かなかった。 真司は苛立ちを隠さずに怒鳴った。「ぼさっと突っ立ってないで、さっさと行け!」 とうとう、正人の目頭が赤く潤んだ。 覚悟を決めたように、震える声で言った。「しかし真司様、日和様は、日和様はもう、おそらくは……」 「おそらく、なんだ?」真司の鋭い目がすっと細められる。その視線には、明らかな警告の色が宿っていた。「まさか、あいつのために命乞いでもするつもりか?お前が長年あいつに仕え、情が移っているのは知っている。だが……」 彼の眼差しは暗く、その口調は断固としていた。「これからは誰がこの家の女主人となるのか、よく覚えておけ!今回ばかりは、日和に骨の髄まで思い知らせてやる。それでようやく、あいつも従順というものを覚えるだろう!」 真司の口調には、一切の反論を許さない響きがあった。 正人は言葉を飲み込むしかなかった。「はい。承知いたしました」 その返事を聞いて、真司は寝室へと戻っていった。 ただ、なぜだか胸にぽっかりと穴が空いたような感覚があった。何か悪いことが起きる前触れのようだ。 真夜中、外から聞こえてくる慌ただしい足音で目を覚まし、不機嫌に部屋を出て様子を見に行った。 すると、家の使用人たちがせわしなく出入りしながら、何かを運び出しているのが見えた。 「綾子には絶対安静が必要だとわかっているだろう!お前たち、何をやっているんだ?」 正人が顔を上げ、真司と視線を合わせた。「真司様、急な事情がございまして、日和様の私物を今夜中に届け……届けなければならなくなりました」 真司は思わず眉をひそめた。「届ける?どこへ?日和は物置部屋に閉じ込めているはずだ。一体いつまで騒ぎを起こすつもりだ!」 正人は数秒間黙り込んだ。そして、一言一言区切るようにして、こう告げた。「斎場です……日和様のご遺体は、今夜、火葬が執り行われます」 その言葉に、真司は正人に掴みかかった。胸ぐらをきつく掴み上げ、今にもそのまま持ち上げんばかりの勢いだ。 「あいつはぴんぴんしているはずだ、遺体だと?誰がそんな縁起でもないことを言うのを許した!俺たちはまだ離婚していない、あいつは今も菅原家の嫁だぞ!誰の許しを得てそんな口をきく!」 正人の目は真っ赤に充血していた。 「事実でございます、真司様。受け入れがたいこととは存じますが、これが現実でございます。日和様は……お腹の子と共に、3日前に、ご逝去されております……」