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私はもう、振り返らない
六年ものあいだ育ててきたはずの子どもが、彼女を自らの手で、犬だらけの檻の中へ突き落とした。 一夜が明けたころには、鷹宮澪(たかみや み...
Chương (1)
第1章
六年ものあいだ育ててきたはずの子どもが、彼女を自らの手で、犬だらけの檻の中へ突き落とした。
一夜が明けたころには、鷹宮澪(たかみや みお)の身体は十数か所を噛み裂かれ、息も絶え絶えのまま、檻の隅にもたれかかっていた。激痛に肺が締めつけられ、まともに息を吸うことすらできない。
檻の外では、鷹宮勇太(たかみや ゆうた)が段差の上に立ち、彼女を見下ろしていた。鷹宮恒一(たかみや こういち)と瓜二つの黒い瞳には、凍りつくような嫌悪が浮かんでいた。
第1話
六年ものあいだ育ててきたはずの子どもが、彼女を自らの手で、犬だらけの檻の中へ突き落とした。
一夜が明けたころには、鷹宮澪(たかみや みお)の身体は十数か所を噛み裂かれ、息も絶え絶えのまま、檻の隅にもたれかかっていた。激痛に肺が締めつけられ、まともに息を吸うことすらできない。
檻の外では、鷹宮勇太(たかみや ゆうた)が段差の上に立ち、彼女を見下ろしていた。鷹宮恒一(たかみや こういち)と瓜二つの黒い瞳には、凍りつくような嫌悪が浮かんでいた。
「痛いか?」
幼い声は、その年齢には不釣り合いなほど鋭かった。
「ママの猫を死なせたとき、こんな日が来るなんて思わなかったでしょ。この家に来ただけで、ママの代わりになれると思わないで。
僕が大きくなったら、絶対お前をこの家から追い出すからな!」
喉を締めつけられるような苦しさの中で、澪はかすれた声を絞り出した。「猫は……寿命で死んだだけよ。私がやったんじゃない……」
「嘘つけ!」
勇太が檻を思いきり蹴りつける。金属の格子が大きく震え、その衝撃に怯えた犬たちは、かえって凶暴さを増し、彼女へと襲いかかった。
澪は反射的に身を引く。背中が氷のように冷たい檻の壁にぶつかり、もう後ろへ下がることはできなかった。
見かねた使用人が慌てて割って入る。「坊っちゃん、どうかお怒りをお鎮めくださいませ。確認いたしましたところ、あの猫は寿命によるものでございます。奥様の責ではございません」
「黙れ!」勇太は振り向きざま怒鳴りつけた。
「たとえ寿命でも、あいつの世話が足りなかっただけだ!」
そして再び、檻の中の澪を睨みつける。
「まだ出すな。徹底的に思い知らせろ」
低いうなり声が迫り、澪はそっと目を閉じた。爪が食い込むほど、拳を強く握りしめる。
――もう、六年。
この家で、彼女はいまだに居場所すらなかった。
どれほどの時間が過ぎたのか。
遠くにあったはずの足音が次第に近づき、やがて扉の向こうから、低く冷え切った声が落ちてきた――
「勇太、何をしている」
入口に立っていたのは恒一だった。隙のないスーツ姿に、冷えた眼差し。
血に染まった澪へ視線を走らせた瞬間、その瞳がわずかに細まる。だが次の瞬間には、感情を押し殺した声で命じた。
「出せ」
ボディガードがすぐ鍵へ手を伸ばす。
澪はすでに力を失っていた。支えられて檻の外へ出された途端、膝が崩れ落ちそうになる。
恒一が手を差し伸べた。
だが、その指先が触れた瞬間、澪は反射的に身を引く。
ほんのわずか、恒一の眉が寄った。
青ざめた彼女の顔を見つめ、低く問う。
「ここまでやられて、なぜ呼ばなかった?」
澪は睫毛を伏せたまま、答えない。
――呼んで、どうなるというの。
この家で、いったい誰が彼女の声に耳を貸すというのか。
沈黙が落ちる。
その沈黙に、恒一の瞳にかすかな苛立ちがよぎった。
「病院へ連れていけ」
執事にそう命じる。
病院は消毒薬の匂いが鼻を刺す。
澪はベッドに横たわり、医師が傷を処置する微かな音を聞きながら、痛みに指先を震わせていた。
やがて病室の扉が静かに開く。
恒一だった。
上着はすでに脱ぎ、シャツ姿のまま。襟元がわずかに乱れ、鎖骨には生々しい赤い痕が残っている。
澪の視線が一瞬、そこに留まる。
すぐに、逸らした。
――キスマーク。
見慣れすぎるほどに。
この数年、恒一の傍らに女の影が絶えることはなかった。だがその誰もが、澪の亡き姉・白石青葉(しらいし あおば)の面影を色濃く宿していた。
青葉を忘れられないから、代わりを探し続ける。
いま最も近い「代わり」は鳥谷愛花(とりたに あいか)。あまりにも似ているせいか、恒一はひと月のうち二十八日を愛花のもとで過ごしている。
けれど。
妻である澪は――その「代わり」にすら数えられていなかった。
澪は、実家から遠ざけられた私生児だった。幼いころから、重い病を抱えた母・沢村美智子(さわむら みちこ)と寄り添うように生きてきた。
青葉は姉だが、その歩んできた道は澪とはまるで違う。
青葉は生まれながらにして何不自由なく育ち、由緒ある名家の御曹司・恒一と恋に落ち、宝物のように大切にされてきた。
だが六年前、青葉は難産の末に命を落とす。生まれて間もない勇太を残して。
生まれたばかりの勇太の世話をする女が必要だった。
澪の実父・白石隆志(しらいし たかし)は、恒一という願ってもない婿を手放したくなかった。美智子の治療費を盾に、六年という契約を澪に突きつけ、鷹宮家へと嫁がせた。
――恒一と勇太の世話をしろ、と。
澪は、逆らえなかった。
その六年、恒一は澪を顧みることもなく、外では青葉に似た女を次々と抱いた。
勇太は澪を憎み、鷹宮家から追い出そうとあらゆる手を尽くした。
二千日を超える歳月を重ねても、彼らが彼女を受け入れることはなかった。
意識がはっきりしたころ、恒一が口を開いた。
淡々とした声で告げる。
「猫が死んだのは、お前の世話が行き届かなかったせいだ。勇太は気が立っているだけだ。少しは我慢しろ」
さらに言葉を重ねる。
「お前の母親は、退院してから体調が思わしくない。認知症の兆しもある。個室の療養施設を手配しておいた。今回の件は、それで終わりにする」
その口調はあまりに平静で、まるで取引条件を並べているかのようだった。
澪は、ふっと笑った。
しばらくしてから、ゆっくりと視線を上げる。声は驚くほど落ち着いていた。「結構です。最初に決めたはずでしょう。私は勇太の世話をするために、六年だけここにいると。残りは半月。半月たてば、私は出ていきます」
一瞬、恒一が言葉を失う。だがすぐに眉をひそめ、不快さを隠そうともせず言い放つ。
「何をそんなに意地を張っている。くだらない駆け引きに付き合っている暇はない。その話は聞かなかったことにする。療養施設はすでに手配した。これで終わりだ」
そう言い捨てると、恒一は大股で部屋を出ていった。その背中は振り返ることもなく、ひどく遠かった。
閉まった扉を見つめながら、澪はゆっくりと目を閉じる。
彼女は意地を張っているわけでも、駆け引きをしているわけでもない。
六年の約束は、六年で終わる。それ以上でも、それ以下でもない。
今度こそ、本当に去る。
――二度と、戻らない。
第2話
病院で静養していた数日のあいだ、恒一も勇太も、澪の傷に目を向けることはなかった。
それでも澪は、愛花のインスタに毎日投稿される三人の写真を目にしてしまう。
写真には、レストランで端正にスーツを着こなした恒一が立ち、その脚に甘えるように勇太が寄り添っている。白いロングドレス姿の愛花は、恒一の隣でやわらかな笑みを浮かべていた。
三人は揃ってカメラを見つめている。
――まるで、本物の家族写真のように。
添えられた言葉は、【大切な人と囲む食卓。それだけで、十分に幸せだ】
澪は一瞥しただけで、静かに画面を閉じた。
もう出ていく。
そこにあるすべては、これからは自分の人生には関わらない。
退院の日。
澪はひとりで手続きを済ませ、まだ癒えきらない脚を引きずりながら、ゆっくりと鷹宮家へ戻った。
屋敷の中はひっそりとしている。恒一も勇太もいない。
澪は何も言わず自室へ入り、荷物をまとめ始めた。
とはいえ、まとめるほどの物もない。着替えが数枚と、わずかな日用品だけだ。
引き出しを開け、いちばん奥の底から小さな木箱を取り出す。中には、この数年こっそり貯めてきた金と、必要な書類が収められていた。
――あと半月。
あと半月で、ここを完全に離れられる。
ちょうど荷物を半分ほどまとめたところで、不意に部屋の扉が開いた。
入口に立っていた勇太が、冷えた目で澪を見つめる。
苛立ちを隠さない声で言った。
「何してるんだよ」
澪は指先の動きを止め、顔を上げることもなく、淡々と答える。
「整理しているだけよ」
勇太は眉をひそめるが、澪が何をしているかなど興味もない様子で、ただ命じた。
「もうすぐ梅雨だ。パパが言ってた。ママの物を全部片づけろ。カビさせるな」
澪は指先をわずかに握り込み、低く答える。
「……わかった」
勇太は背を向けかけたが、ふと思い出したように振り返り、付け加えた。
「それと、もうすぐ僕の誕生日だ。前みたいに準備しとけ」
澪は目を伏せ、かすかに頷く。
「うん」
勇太は鼻で笑った。その従順な態度が退屈だと言わんばかりに、そのまま立ち去る。
澪は三日をかけて、盛大なパーティーの準備を整えた。
開宴まであと三十分。
澪はドレスに着替えようとクローゼットを開ける。
だが――そこにあるはずのドレスは、どれも無残に切り裂かれ、ぼろぼろになっていた。
あまりの光景に、しばし言葉を失う。
使用人に事情を聞こうと振り向いた、その瞬間。
扉口に立っていた勇太が、ハサミを手に、愉快そうに笑った。
「ドレスもないのに、どうやって出るつもり?恥かけばいいんだ」
ぺろりと舌を出すと、そのまま勢いよく階段を駆け下りていった。
床一面に散らばる布切れを見つめ、澪は小さく息を吐いた。
いまから買い直す時間はない。
どうすべきかと立ち尽くしていると、不意に愛花が訪ねてきた。
ドレスがすべて勇太に切り裂かれたと知ると、愛花は気遣うように言った。
「澪さん、もうすぐ始まりますよね。よかったら、私のドレスをお貸しします。終わったら返してくだされば大丈夫ですから」
その笑みは穏やかで、どこか無垢にさえ見えた。
澪は何度も彼女を見つめたが、そこに悪意を見いだすことはできなかった。
代わりのドレスを用意するあてもない。
澪は、頷くしかなかった。
ほどなくして、愛花がドレスを届けに来る。
淡い水色のマーメイドドレスは陽光を受けてきらめき、散りばめられた無数の小さなダイヤが、眩いほどに輝いていた。
会場は、まばゆい照明に包まれていた。
澪がそのドレス姿で現れた瞬間、会場がふっと静まり返った。
驚きと、探るような視線。そしてどこか含みを帯びた眼差しが、一斉に澪へと注がれる。
胸の奥がざわつく。
だが、澪が状況をのみ込むより早く、勇太が駆け寄ってきた。その幼い顔を怒りに歪め、声を張り上げる。
「誰が僕のママの服を着ていいって言った?!」
澪は息を呑む。
視線を落とし、自分のドレスを見る。
そのとき、ようやく気づいた。
愛花が渡したのは、ただのドレスではない。青葉が生前、いちばん大切にしていた――あの一着だった。
澪は勢いよく顔を上げ、少し離れた場所に立つ愛花を見る。
愛花は微笑んでいた。
その瞳の奥に、わずかな勝ち誇りの色がよぎる。
次の瞬間――
勇太が澪を思いきり突き飛ばした。
「ママのドレスを着たからって、代わりになれると思うな!僕のママはひとりだけだ!消えろ!」
不意を突かれた澪の身体が大きく揺れる。
そのまま後方へ倒れ込み、背後のプールへと落ちた。
――ばしゃん!
冷たい水が一気に口と鼻を塞ぐ。
泳げない澪は必死に水面へ浮かび上がろうとする。だが濡れたドレスが水を含み、鉛のように重くなって身体を引きずり、深みへと沈めていく。
息が続かない。
意識が遠のきかけたそのとき、ようやくボディガードが水中から澪を引き上げた。
澪はプールサイドに伏せ、激しく咳き込む。
呼吸も整わぬうちに、勇太の冷たい声が降ってきた。
「服を剥げ!こいつにママの服を着る資格なんてない!」
言い終わるより早く、ボディガードが乱暴にドレスへ手をかける。
「やめて――!」
澪は悲鳴を上げ、反射的に身を縮めた。
だが、遅かった。
真珠のように白いサテンが無残に裂け、布片が散る。濡れた肌に夜風の冷気がまとわりつく。
大勢の視線の前で、澪は下着だけの姿にされ、無防備に晒された。
勇太は傍らで歯を食いしばり、憎悪をむき出しに叫ぶ。「お前にママの服を着る資格なんてない!」
プールサイドにはいつの間にか人だかりができていた。
澪は震えながら、その場にうずくまる。
ひそひそと交わされる声と、突き刺さるような視線。それらが彼女の尊厳を、少しずつ削っていく。
そのとき――
すらりとした影が人垣をかき分けて進み出た。
恒一だった。
彼はスーツの上着を脱ぎ、澪の肩にそっと掛ける。眉をひそめ、低く問う。
「どういうことだ」
勇太はすぐさま声を上げた。
「パパ!こいつが勝手にママのドレス着たんだ!ママの代わりになろうとしてる!」
第3話
それを聞いた瞬間、恒一の表情がすっと冷えた。
澪を見下ろし、これまでに見せたことのない冷たい目で告げる。「澪。お前は従順で、聞き分けがよくて、欲を出さない女だと思っていた。
……全部、演技だったのか。青葉に取って代われる人間なんて、この世にいない。
嫁いできた時点で、わかっていたはずだ」
澪は口を開いた。
けれど、喉が張りついたまま、声にならない。
そのとき――
愛花が静かに歩み寄ってきた。
淡い水色のロングドレス。ゆるやかに巻いた長い髪。控えめで清楚な化粧立ち。
その姿は、青葉にあまりにもよく似ている。
周囲の客が、すぐにざわめき出した。
「……似てる」
「鳥谷さん、その格好……青葉さんそっくりだ」
ひそひそとした声が広がる中、恒一の視線が一瞬だけ揺れる。
勇太の目が赤くなる。
次の瞬間、泣きながら愛花に駆け寄り、強く抱きついた。
「愛花お姉さんが僕のママならよかったのに!僕、この人イヤだ!」
愛花は勇太をやさしく抱きしめ、そっと頭を撫でた。
恒一は、しばらく愛花を見つめたまま動かなかった。
やがて我に返ったように歩み寄ると、迷いなく彼女を抱き寄せる。
その眼差しには、隠しようのない愛情が宿っていた。
澪はプールの縁に力なく身を預け、胸の奥が冷え切っていくのを感じた。
鷹宮家に嫁いで六年。
彼らに尽くして六年。
勇太にあんなふうに抱きつかれたことはない。
恒一に、あんな目で見られたこともない。
彼らの心に、澪が入り込めたことは一度もなかった。
それなのに愛花は――
青葉に似た顔をしている、ただそれだけで。
澪が夢にまで見たものを、あっさり手にしてしまう。
肩に掛けられたスーツの上着を強く握りしめ、澪は乾いた笑みを浮かべた。
いい。
これも、もうすぐ終わる。
宴が終わったあとの雨の夜、彼らはそのまま帰路についた。
澪は着替えを済ませ、助手席に座ると、何も言わず窓の外を見つめていた。
後部座席では、愛花が勇太にやさしく話しかけている。ときおり返される恒一の低い声は、どこか甘やかすようにやわらかかった。
そのやわらかさが、澪に向けられたことは一度もない。
――まるで、本当の家族だ。
澪は視線を落とし、無意識に左手の薬指へ触れる。
結婚指輪を指先でそっとなぞる。
六年。
けれど、この指輪に意味が宿った日は、一度もない。
そのとき――
鋭いブレーキ音が、雨音を切り裂いた。
ドン――!
激しい衝撃。
視界が大きく揺れ、次の瞬間、エアバッグが顔に叩きつけられる。口の中に鉄の味が広がった。
澪は必死に顔を上げる。
ひび割れた窓越しに見えたのは、恒一が愛花を抱きかかえ、雨の中へ駆け出していく姿だった。勇太がその背を追いかける。
誰ひとり、澪を振り返らない。
雨と血が混じり、目に流れ込む。視界がにじむ。
澪は口を開く。
だが、声は出なかった。
――人は死にかけると、走馬灯を見るという。
それは、本当らしい。
六年前の雪の夜。
恒一は実家の応接間に立ち、窓の外の雪よりも冷えた目で言い渡した。
「両家の取り決めだ。期限は六年。お前は勇太の世話をする。それから、夜は俺の相手をしろ。それ以外で俺の私生活に口を出すな。妊娠したら必ず堕ろせ」
勇太に初めて地下室へ閉じ込められたときも、恒一は階段の上から淡々と告げた。「勇太は青葉が命と引き換えに残した子だ。お前が我慢しろ」
「まだ息がある!担架、急げ!」
遠のく意識の中で、誰かが自分を車内から引きずり出す感覚があった。
病院の廊下は、白すぎる灯りが目に刺さる。
「二人ともRHマイナスです。血液の備えは一人分しかありません!」医師の緊迫した声が飛ぶ。
「先に愛花だ」
恒一の声は、少しも揺れなかった。「彼女にだけは、絶対に何もあってはならない」
「では、澪さんは……」
「死んだっていい!」勇太が泣きじゃくりながら叫ぶ。「ママはひとりが嫌いなんだ!あいつをママのところへやれ!」
澪は笑おうとしたが、代わりに血をひと口、吐き出した。
――あまりにも滑稽だ。
自分の命は、あの二人にとって、身代わり以下だったのだ。
第4話
目を覚ましたとき、病室は静まり返っていた。
人の気配がなく、その静けさがかえって胸をざわつかせる。
澪の右脚は分厚いギプスで固定されている。わずかに動かしただけで鋭い痛みが走り、冷や汗がにじんだ。
看護師が薬を替えに来たとき、ぽつりと口にした。
「鳥谷という方も、あなたと同じ事故で入院されているんですけど……ご主人とお子さんがずっと付き添っていらして。
あなたはこんなにお怪我も重くて、命も危なかったのに……ご家族はどうされたんですか?」
澪は少し間を置いてから、静かに答えた。
「今おっしゃったのが、私の夫と子どもです」
看護師は気まずそうに視線を落とし、慌てて処置を終えると足早に部屋を出ていった。
窓の外はよく晴れている。
白いシーツに陽射しが落ちているのに、澪の身体は芯から冷えたままだった。
夕方。
病室の扉が突然、乱暴に蹴り開けられた。
恒一が荒い気配をまとって入ってくる。そのまま澪の顎をつかみ、強引に顔を上げさせた。「今回の事故……お前が仕組んだのか」
澪の瞳が大きく揺れる。
「愛花の顔に、傷が残りかけたのを知っているか?」
指先に力がこもる。目の奥に、抑えきれない怒りが浮かぶ。
「あいつの顔が台無しになったら、青葉に似ていなくなるだろう」
澪は苦しげに咳き込む。「違う……私じゃない。何もしていない。それに……一番ひどい怪我をしたのは、私でしょう」
だが恒一は聞く耳を持たない。彼女の腕をつかみ、無理やりベッドから引きずり下ろす。
「来い。愛花に謝れ」
その声には温度がなかった。
「私、悪くない」
澪がなおも首を横に振るのを見て、恒一の怒りが爆発した。
「いい。謝らないなら、それでいい。あいつの顔を傷つけたらどうなるか、身をもって教えてやる。
お前、昔バレエをやってたよな。……来い。こいつの脚を一本、折ってやれ」
言い終わると同時に、ボディガードがバットを手に病室へ入ってきた。
澪の全身から血の気が引く。
「や……やめて……」
逃げようと身をよじるが、二人の男に両肩を押さえつけられ、ベッドへ縫い止められる。
次の瞬間――
バットが右脚のギプスに、容赦なく振り下ろされた。
――バキッ。
骨が折れる音が、はっきりと耳に届いた。
激痛が一気に突き抜け、意識が白く飛ぶ。
その刹那、澪の脳裏に浮かんだのは、ひどく皮肉な事実だった。
――そもそも、私は踊れない。
バレエのコンクールで金賞を取ったのは青葉だ。恒一が忘れられないのも、青葉だ。
澪はただ、白石家の表に出せない私生児にすぎない。
もし青葉が死ななければ、隆志は一生、澪という娘の存在を思い出すこともなかったかもしれない。
母と二人、身を寄せ合って生きてきた日々が、どれほど苦しかったかも、知ろうとすら、しなかった。
ボディガードの手が離れたとき、澪は力を失った人形のようにベッドの上で丸まっていた。冷や汗で病衣が肌に張りついている。
恒一はベッド脇に立ち、看護師が慌てて医師を呼びに走るのを、冷めた目で見ていた。
「今日の痛みを忘れるな。次は、分をわきまえることだ」
それから何日も、見舞いに来る者はいなかった。
そしてある日、隆志が怒鳴り込むように病室へ現れ、手にしていた写真の束を澪の顔へ叩きつけた。
「これがお前のやり方か?両家の関係を保つと言いながら、偽物に好き勝手させてどうする!」
写真の角が頬をかすめ、細い傷がいくつも走る。
床に散らばった写真を拾い上げると、そこには愛花と恒一、そして勇太が、寄り添って笑う姿ばかりが並んでいた。
どれも、幸せそうな場面だった。
澪は視線を落としたまま、静かに言う。
「それは、私には関係ありません。六年の期限はもう来ました。……私は出ていきます」
わずかに息を整え、続ける。
「約束したでしょう。離婚したら、母と二人で、自分の人生を生きると」
隆志が怒鳴り返そうとした、そのとき。
病室の扉が、また乱暴に押し開けられた。
入口に立つ恒一の顔は、重く沈んでいる。
低い声が落ちた。
「……本気で言ってるのか?」
第5話
「ええ。本気です」
澪の声は小さい。それでも、一語一語がはっきりと届いた。
恒一の目がわずかに沈む。
何かを言いかけた、その瞬間――
隆志が割って入った。顔いっぱいに作り笑いを張りつけ、腰を折るようにして言う。「鷹宮社長、どうか澪の言葉を真に受けないでください。あれは一時の意地でして……社長と勇太くんから離れられるはずがありません」
さらに調子を合わせる。
「最近、社長が鳥谷さんと親しくされているのを見て、少し嫉妬しただけです。少し宥めてやれば、出ていくなどと言うはずがありません」
それを聞いた恒一の目から、張りつめた色がわずかに消えた。視線を澪へ戻し、低く言った。
「やっぱりな。今回の騒ぎも、愛花のことが原因か」
澪が反論しようと唇を開く。
だが恒一は、その隙を与えない。「ここを出たら、お前には何も残らない。約束する。少し大人しくしていれば、愛花が表に出ることはない。お前の立場も今まで通りだ。それで満足だろう」
澪は掌に爪を食い込ませる。
その瞬間、隆志が机を叩き、怒鳴った。「澪!お前は俺の娘だ。俺の言うことを聞け!」
怒声の直後、隆志はすぐに笑みを取り戻す。ブリーフケースから契約書を取り出し、両手で差し出した。「鷹宮社長、こちらの案件も……ご署名をお願いできればと」
恒一は契約書に目を通す。
そして一瞬だけ澪を見やり、何も言わずにペンを取った。
さらりと署名する。
「もう騒ぐな」それだけを残し、背を向けて出ていった。
病室の扉が閉まって間もなく、勇太が勢いよく入ってくる。
小さな身体で入口に立ちながら、目にははっきりと敵意が宿っていた。「全部聞いた!パパはお前を家に置くって言ったけど、僕は認めない!」
澪はその顔を見つめる。
ふと、三歳になる前の勇太を思い出した。
柔らかい声で「ママ」と呼び、抱っこをせがんで両手を伸ばしてきたあの頃を。
けれど、いつからか――
澪は本当の母ではない。それどころか、母を殺したのだと、誰かが吹き込んだ。
それを境に、すべてが変わった。
「愛花お姉さんはお前より優しくて、ちゃんとしてる!僕のことも大事にしてくれる!」
勇太は歯を食いしばり、震える声で叫ぶ。
「僕は、愛花お姉さんがパパと結婚してくれたほうがいい!お前みたいな人殺しはいらない!」
澪は目を閉じ、かすれた声で言った。「勇太……何度も言ってきたでしょう。私があなたのパパと結婚したとき、ママはもういなかったの」
「嘘つき!」勇太が甲高い声で遮る。「愛花お姉さんが言ってた!ママを殺したのはお前だって!見栄っ張りで、上にのし上がりたかっただけだろ!僕を騙せば許されると思うな!」
澪の胸が強く脈打つ。
――愛花が?
勇太の前で、そんなふうに自分を貶めたのか。
言葉を継ごうとしたその前に、勇太はボディガードへ命じた。「こいつを霊安室に入れろ!頭を冷やさせろ!」
ボディガードが一瞬ためらう。「坊っちゃん、それは……」
「何?僕の言うことが聞けないの?」勇太がスマホを取り出す。「じゃあ今すぐパパに電話して、お前たちが命令に逆らったって言う!」
それ以上、逆らう余地はなかった。
ボディガードは黙って澪の車椅子を押し、病院の奥へと進む。
人の気配が消え、空気が変わる。
たどり着いたのは、いちばん冷え込むところ――霊安室だった。
冷気が容赦なく肌を刺す。
薄い病衣一枚のまま、澪の身体は震え出した。
車椅子を動かそうとするが、右脚のギプスが重く、思うように動かない。
「勇太!勇太!
出して!」
必死に名前を呼んだ。だが返ってきたのは、鉄の扉が重く閉まる音と、鍵が回る乾いた響きだけだった。
やがて闇が落ちる。息が詰まりそうな静寂の中、かすかに聞こえるのは遺体保存冷蔵庫の低い作動音だけ。
澪は何度も扉を叩いた。
しかし、応答はない。
やがて力を失った手が、ゆっくりと滑り落ちる。冷えがじわじわと身体を奪い、指先の感覚が薄れていく。思考がほどけるように遠のき――
澪の意識は、静かに闇へ沈んだ。
第6話
再び目を覚ますと、澪は病床に横たわっていた。分厚い毛布が掛けられているのに、寒気だけが骨の奥に残っている。いくら包まれても、抜けていかない。
「起きたか」すぐそばから、恒一の声が落ちた。
澪がゆっくり顔を向けると、恒一はベッド脇に腰を下ろしている。整ったスーツ姿。だが襟元から、うっすらと赤い痕がのぞいていた。
――また、キスマーク。
澪は視線を逸らす。
「何しに来たの」
かすれた声で問う。
恒一が眉を寄せる。「お前、また勇太の癇に障ることをしたのか?」
澪は口元をわずかに歪めた。笑みというより、皮肉だった。「私が、勇太の癇に障ることを?
前のことはもういい。ここ数日、犬の餌みたいに檻へ放り込まれて、プールに突き落とされて、服まで剥がされた」
澪は顔を上げ、恒一の目を真っ直ぐ見据える。「これでも私が悪いというんですか?」
恒一の表情が硬くなる。「お前が何かしたんだろう」
澪は小さく息を漏らした。「じゃあ、霊安室の件は?私が何もしていなくても、勇太は理由を作って私を追い出そうとする」
しばらく沈黙してから、淡々と言う。
「お願いだから伝えて。もうああいうことはやめてほしい。私たちの契約は、もうすぐ終わる。期限が来たら、私は黙って出ていく」
その言葉に、恒一の顔色が一段と沈んだ。「澪。またその話か。何度言わせる」
苛立ちを隠さない。
「わかった。勇太には俺から言っておく。これ以上お前を追い出そうとするなってな。これからは揉めるな。お前も、出ていくなんて二度と言うな。鬱陶しい」
澪は黙って彼を見つめ、ふっと笑った。
「わかった。もう言わない」
どうせ――
あと七日で、すべて終わるのだから。
澪が反論しないのを見て、恒一の表情がわずかに和らいだ。「傷を治せ。余計なことはするな」
それだけ言い残し、恒一は出ていく。背中は、相変わらず遠い。
澪は閉まった扉を見つめ、静かに目を閉じた。
――あと七日。
七日耐えれば、すべて終わる。
翌日、恒一に連れられて勇太が病室に現れた。
勇太は頬をこわばらせ、渋々といった様子でベッド脇に立つ。目にあるのは隠そうともしない嫌悪だった。
恒一が低く命じる。「謝れ。それから、ちゃんと世話しろ」
勇太は唇を尖らせながらも、お粥の椀を手に取る。ひと匙すくい、ぎこちなく澪の口元へ差し出した。「……食えよ」
澪は一度だけ彼を見て、何も言わず口をつける。
それを確認すると、恒一は満足げに頷き、電話に出るため部屋を出ていった。
――その直後だった。
澪の全身に、じわじわと違和感が広がる。肌の上を無数の虫が這うような感覚。
思わず掻く。だが掻けば掻くほど痒みは強まり、白い肌に赤い筋が浮かび上がる。やがて皮膚が裂け、血が滲んだ。
ふいに、くすくすと笑う声。
澪は顔を上げ、勇太を見る。
「……あなたがやったの?」
勇太は澪を突き飛ばし、冷たく笑った。「だから何だよ。僕はお前に謝らない。
その傷だって自業自得だ。さっさと消えればよかったのに、しつこく居座るからだろ!」
澪は痒みを必死にこらえ、ナースコールへ手を伸ばす。だが右脚のギプスが重く、身体が思うように動かない。
ようやく身を起こした瞬間、床へ崩れ落ちた。
鈍い音。
無様に横たわる。
勇太はその様子を見て、声を上げて笑った。
「どうだ?効いてるだろ。今のお前、マジで笑える。亀みたいだ!」
澪は歯を食いしばり、もう一度呼び鈴へ手を伸ばす。
しかし勇太は再び突き倒した。
「無駄だよ。ドア、鍵かけた。誰も来ない」
時間だけが過ぎていく。薬の刺激がようやく薄れたころ、澪は掻き傷だらけのまま、床に力なく横たわっていた。
やがて勇太はのんびりと扉を開け、外へ飛び出す。
「パパ!澪が転んだ!僕じゃ起こせない!」
ほどなく恒一が戻ってきた。
澪を抱え上げ、ベッドに戻す。
身体じゅうの引っかき傷を見て、眉をひそめる。
「どうした?」
澪は息を整え、かすれた声で言った。
「勇太が……何か入れた」
第7話
恒一の顔色がさっと変わり、鋭く怒鳴った。
「勇太!」
叱責の言葉が続く前に、勇太の目がみるみる赤くなる。
「こいつが嘘ついてる!パパ、言われた通り、もう追い出そうとしてない!
信じないなら、胃を洗って調べればいいじゃん!そしたら本当かどうか分かるよ!」
恒一はわずかに黙り込んだ。
そして、思案の末に頷いた。
澪はそのまま処置室へ連れていかれた。だが誰も知らない。勇太がこっそり、胃洗浄に使う薬液へ刺激性の液体を混ぜていたことを。
処置が始まる。
喉から胃へ、焼けつくような痛みが一気に広がった。澪は思わず身体を丸める。冷や汗が流れ、病衣がぐっしょりと濡れる。
吐いても、吐いても終わらない。胃の中が空になっても、奥からこみ上げる痛みだけが消えなかった。
やがて看護師が検査結果を持って現れ、淡々と告げる。
「検査では薬物反応は出ていません」
その言葉を聞いた瞬間、恒一の表情に、はっきりとした落胆が浮かんだ。
恒一は冷ややかに澪を見下ろす。「澪……お前は本当に嘘ばかりだな。青葉は優しくて、いい子だった。どうしてお前は、全然違うんだ」
勇太も横で勢いよく頷く。「そうだよ!こいつ、僕の本当のママには全然かなわない!僕のことまで悪者にして!」
恒一は怒りを滲ませたまま勇太を連れて出ていき、最後に吐き捨てるように言った。「自分の立場を考えろ」
澪はベッドに力なく倒れ、目尻がじわりと熱を帯びる。
それから数日。ようやく、身体の震えと痛みが少しずつ落ち着いていった。
退院して、澪が最初に向かったのは美智子のいる療養施設だった。
「お母さん。あと二日で、鷹宮家を出られる。ここも離れて、二人で別の場所で暮らそう」
美智子はゆっくり息を吐く。「澪……今まで本当にごめんね。お母さんのせいで、たくさん我慢させた。
これからは、お母さんが澪と一緒にいる。どこへ行きたい?澪が決めなさい。二人で、自分たちの人生をやり直そう。白石家も鷹宮家も、もう関係ない」
その言葉を聞いた瞬間、澪の目が赤くなる。
込み上げるものを必死に飲み込みながら、何度も頷いた。
家に戻ると、愛花が来ていた。
愛花はリビングのソファに腰を下ろし、あどけない笑みを浮かべた。「勇太くん、ピアノのコンクールで賞を取ったんです。それでお祝いしようって。澪さん、気にしませんよね?」
「気にしない」
どうせ、もうすぐ出ていく。この家の奥さまは、やがて澪ではなくなる。
食卓では、恒一と愛花と勇太が楽しげに笑い合っていた。
まるで本物の家族のように。
その一方で澪は、勇太に言いつけられるまま海老の殻をむき、蟹の身をほぐす。
皿へ取り分け、また殻を外す。
食事が終わるころには、蟹殻で指先がいくつも切れていた。
じわりと滲んだ血が、白い指先を赤く染める。
それでも、誰ひとり澪を見る者はいなかった。
第8話
食後、恒一は愛花と勇太を連れて花火を見に行った。
夜空に大輪が咲き、恒一は愛花の腰に手を回し、勇太はそのそばへ身体を寄せている。
幸せをそのまま切り取ったような光景だった。
澪は少し離れた場所からそれを見つめ、何も言わず背を向ける。
立ち去ろうとした、そのとき――
背後から足音が迫った。
振り向く間もなく、勇太が火のついた花火を澪へ向けて投げつける。
バン!
足元で弾ける音。
火の粉がズボンの裾に散り、瞬く間に布が焦げ、穴があいた。
「見た?パパと愛花お姉さん、すごく幸せそうだろ」勇太は意地悪な笑みを浮かべる。「僕もパパも、お前が嫌いだ。ママを殺したくせに、世話もろくにできないくせに!
それでもまだ居座るなら……僕、絶対に許さないからな!
僕は、ママ以外なら愛花お姉さんにしか世話してほしくない!」
言い終えると同時に、次々と花火を投げつけてくる。
ぱん、ぱん、と乾いた破裂音が重なる。
服に焦げ穴が増えていく。
顔をかばおうと上げた腕に火の粉が当たり、広い範囲が焼けた。鋭い痛みが走り、皮膚が赤くただれる。
澪は歯を食いしばり、それでもはっきりと言った。
「追い出されなくてもいい。私はすぐに出ていく」
勇太が一瞬、言葉に詰まる。だが次の瞬間、恒一がこちらへ歩み寄ってきた。
「どうした」
勇太は瞬時に表情を変える。悔しそうな顔を作り、声を震わせる。
「パパ、澪と花火で遊ぼうとしただけなのに……こいつが不器用で、自分でケガしたんだ!」
愛花はすぐに勇太を抱き寄せ、どこも痛くないかを確かめてから、ようやく安堵の息をついた。
「澪さん、大人なんですから、自分がケガするのは仕方ありませんけど……勇太くんに当たったら困りますよ?」
恒一は眉をひそめる。「次から気をつけろ。勇太に何かあったら困る」
澪は、もう何も言わなかった。その場を離れ、ひとりで病院へ向かい、受付を済ませて傷の手当てを受ける。
病院で一晩休んだ翌朝、役所から電話が入った。
「ご依頼いただいていた離婚手続きが完了いたしました。書類をお受け取りいただけますでしょうか」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
――ようやく、終わる。
澪は役所へ行き、関連書類を受け取った。職員が尋ねる。「もう一通は、どうなさいますか」
澪は恒一に電話をかける。だが受話口の向こうから聞こえてきたのは、勇太と愛花の楽しげな笑い声だった。ふざけ合う気配が、はっきり伝わる。
澪は少しだけ黙り、静かに告げた。「六年の期限は終わった。私は出ていく。役所に来て、書類を受け取って」
恒一が鼻で笑う。「まだその芝居を続けるのか?お前が出ていけるわけないだろ。口だけで、毎日出ていくと言って。
ここ数日のことで拗ねているだけだろ。欲しいものがあるなら秘書に言え。俺は今、手が離せない。これ以上、煩わせるな」
通話は一方的に切れた。
澪は小さく息を吐き、職員へ向き直る。「来られないそうです。こちらは預かってください。これが彼の連絡先です。都合がついたら取りに来るよう、お伝えいただけますか」
そう言って、男性側の分の書類を職員に差し出し、澪は役所の外へ出た。
外の空気を吸い込む。
あの家へ戻る気も、荷物を取りに行く気も、もう残っていなかった。
澪はタクシーで療養施設へ向かい、美智子を迎える。
そのまま空港へ向かった。
飛行機に乗り込み、シートに身を預けた瞬間、張りつめていたものがふっとほどけた。
――やっと、笑える気がした。
五時間後。
遊園地の入口で、恒一は車に乗り込み、勇太を連れて帰ろうとしていた。
勇太が唇を尖らせる。「パパ、なんで澪と離婚しないの?愛花お姉さんが僕の世話してくれてもいいじゃん」
恒一は眉を寄せる。「だめだ。お前の世話は澪がする。それ以外はない。あいつだって離婚なんて望んでいない。これ以上、あいつに突っかかるな」
勇太は不満そうにまだ言い返そうとしたが、その瞬間、恒一のスマホが鳴った。
通話に出ると、受話口から淡々とした職員の声が聞こえてきた。
「鷹宮さま。離婚手続きはすでに完了しております。関連書類がございますが、いつ頃お受け取りになりますか?」