奈落に散る、十年の嘘と贖罪

Đang tải thông tin quảng bá...

奈落に散る、十年の嘘と贖罪

GoodNovel Hoàn thành

私の妹、高橋羽衣(たかはし うい)は、極度の愛情飢餓を抱えた地雷女だ。 彼女の人生最大の執着、それは私、高橋咲茉(たかはし えま)の持ち...

Chương (1)

第1章

私の妹、高橋羽衣(たかはし うい)は、極度の愛情飢餓を抱えた地雷女だ。 彼女の人生最大の執着、それは私、高橋咲茉(たかはし えま)の持ち物を奪うこと。 幼い頃は両親の愛を、大人になってからは恋人の愛を奪おうとした。 彼女は若さを武器に、大学教授である私の恋人のベッドに何度も潜り込んだ。 「お姉ちゃん、あなたのものは全部私が奪ってやるんだから!」 彼女は牙をむいて挑発してくるが、その度に黒木奏多(くろき かなた)に無慈悲に放り出されていた。 「俺は咲茉のものだ。誰にも奪わせない」 私の妹であることに免じて、奏多は根気強く彼女を傍に置き、その更生に力を貸してくれていた。 羽衣が騒ぎを起こすたびに、奏多は容赦なく彼女を少年院へと叩き込んだ。 25歳の誕生日、私は警察の昇任試験に合格した。 羽衣がケーキを持ってやってきた。その瞳の奥からは、かつての刺々しさが完全に消えていた。 奏多は片膝をつき、差し出した婚約指輪が暖かな光を反射して煌めいている。 友人は皆、仕事も恋も順風満帆だと言ってくれた。 反抗的だった妹さえも更生させた、人生の勝ち組だと。 ――あの日。初めての風俗店摘発任務で、ホテルのドアを蹴破るまでは。 そこで私が目にしたのは、羽衣に跨がれ、なすがままに快楽を貪るに任せる奏多の姿だった。 第1話 私の妹、高橋羽衣(たかはし うい)は、極度の愛情飢餓を抱えた地雷女だ。 彼女の人生最大の執着、それは私、高橋咲茉(たかはし えま)の持ち物を奪うこと。 幼い頃は両親の愛を、大人になってからは恋人の愛を奪おうとした。 彼女は若さを武器に、大学教授である私の恋人のベッドに何度も潜り込んだ。 「お姉ちゃん、あなたのものは全部私が奪ってやるんだから!」 彼女は牙をむいて挑発してくるが、その度に黒木奏多(くろき かなた)に無慈悲に放り出されていた。 「俺は咲茉のものだ。誰にも奪わせない」 私の妹であることに免じて、奏多は根気強く彼女を傍に置き、その更生に力を貸してくれていた。 羽衣が騒ぎを起こすたびに、奏多は容赦なく彼女を少年院へと叩き込んだ。 25歳の誕生日、私は警察官採用試験に合格した。 羽衣がケーキを持ってやってきた。その瞳の奥からは、かつての刺々しさが完全に消えていた。 奏多は片膝をつき、差し出した婚約指輪が暖かな光を反射して煌めいている。 友人は皆、仕事も恋も順風満帆だと言ってくれた。 反抗的だった妹さえも更生させた、人生の勝ち組だと。 ――あの日。初めての風俗店摘発任務で、ホテルのドアを蹴破るまでは。 そこで私が目にしたのは、羽衣に跨がれ、なすがままに快楽を貪るに任せる奏多の姿だった。 奏多の白シャツは見る影もなく皺くちゃになり、大きく開いた襟元――その鎖骨には生々しいキスマークが刻まれていた。 羽衣が彼の腰に絡みつき、その動きは未熟でありながら大胆で、奔放だった。 その瞬間、世界が私の耳元で音を立てて崩れ落ちた。 心臓を巨大な手で鷲掴みにされたようで、痛みのあまり呼吸さえままならない。 羽衣はようやく顔を上げた。その頬には情事の余韻である紅潮が残っている。 私と目が合うと、彼女はわざとらしく胸を張り、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。 「あらお姉ちゃん、来るのが遅いじゃない? もう少しで、いい見世物を見逃すところだったわよ」 奏多は私を直視しようとせず、ただ黙ってスーツのジャケットを羽衣の体にきつく巻き付けた。 それは先月、私が給料の半年分をはたいて彼に贈った誕生日プレゼントだった。 私は無理に視線を逸らし、背後に控える同僚たちに告げた。 「連行して」 警察署に戻る車内、空気は死んだように静まり返っていた。 助手席に座る私は、後部座席からの視線を背中に感じていた。 そこには同情、驚愕、そして抑えきれない好奇心が混ざり合っている。 私は笑い者になったのだ。 実の妹と婚約者に二人がかりで寝取られた、とんだピエロとして。 署に到着後、私は取調室の記録を担当することになった。 マジックミラー越しに、取調室にいる羽衣を見つめる。 彼女は足を組み、恥じる様子も反省の色も微塵も見せない。 「ねえ刑事さん、私は売春婦なんかじゃないわよ。私たちは自由恋愛。 私は彼を愛してるし、彼も私を愛してる。ずっと前から付き合ってるの」 彼女の声は鮮明に私の耳に届き、その一言一句が鋭利な刃となって、私の心臓をずたずたに切り刻んでいった。 「奏多さんの体のどこにホクロがあるかだって、私は全部知ってるんだから。 ずっと前に言ったでしょ。お姉ちゃんの全てを奪ってやるって。 かつてはお父さんとお母さんの愛、今は奏多さんの愛よ」 バサッ。 手から力が抜け、持っていた書類が床に散らばった。 視界が暗くなり、胃の底からせり上がってくるような吐き気に襲われる。 同僚がふらつく私の体を支えてくれた。 「咲茉、大丈夫?向こうで少し休んだほうがいい」 霞む視界の中、別の取調室から奏多が出てくるのが見えた。 彼は私のすぐ側を通り過ぎ、はっきりとした声で言った。 「羽衣はまだ子供で、分別のないだけなんだ。 全ての責任は、俺が負う」 彼の視線が羽衣に注がれるとき、そこには久しく私に向けられていなかった心配と、愛おしさが滲んでいた。 隊長から帰宅命令が出た。 どうやって家に帰り着いたのか、記憶が定かではない。 がらんとしたリビングで、私は何かに憑かれたように奏多の番号を叩き続けた。 数十回かけても、応答がないどころか、最後には着信拒否された。 やがて、スマホの画面がようやく明るくなったが、それは彼からの折り返しではなかった。 震える指でメールを開く。 そこには署の公印が押された、懲戒免職通知書が添付されていた。 理由は、「逮捕行動における職権乱用、および関係者への著しい悪影響」だった。 第2話 添付ファイルには、奏多の直筆署名が入った苦情申立書もあった。 私は冷たい床にへたり込み、虚ろな目でダイニングテーブルを見つめた。 そこには、まだ箱からも出していないケーキが置かれている。 私の初任務の成功を祝うために、奏多が事前に用意していたものだ。 数年前、警察学校に合格して興奮気味に報告した時のことを、ふと思い出した。 彼は私を抱き上げてくるくると回り、その瞳は夜空の星よりも輝いていた。 「咲茉、君を本当に誇りに思うよ」 ――あれは全部、嘘だったのだ。 私が宝物のように思っていた思い出は全て、彼の周到な演技に過ぎなかった。 震える手で電話に出る。 電話の向こうで、奏多はかつての優しい口調に戻っていたが、今はそれが反吐が出るほど気持ち悪い。 「咲茉、説明を聞いてくれ。確かに俺は酔っていて……」 私は彼の言葉を遮り、枯れた声で言った。 「奏多、私がそんな言い訳を信じるとでも思うの?」 彼は一瞬沈黙し、仕方がないと言わんばかりの、諭すような口調に変わった。 「咲茉、今日の騒ぎはあまりにも酷すぎた。君への影響も悪い。 既に新しい仕事を手配しておいたよ。警察官より楽だし、給料だっていい。君は……」 私は思わず吹き出し、涙が溢れ出た。「奏多、何様のつもりで私の人生を決めるの?」 その直後、羽衣からのメッセージがポップアップした。 写真の中で、彼女は男物の大きな白シャツを着ていた。 襟元は大きくはだけ、鎖骨には生々しいキスマークが散らばっている。 背景は、私と奏多が二人で整えた新居だ。 私たちが一緒に選んだ、あの柔らかい純白のベッド。 奏多は「新居はまだ換気が必要だから、住むのは先だ」と言っていたはずなのに。 写真の下には、こういう文字が添えられていた。 【お姉ちゃん、あなたが選んだベッド、寝心地最高。 あなたが選んだ男もね】 怒りで頭に血が上り、視界が赤く染まった。私は半ば狂したように車のキーを掴み、外へと駆け出した。 すぐに新居の前に到着した。 奏多と決めた暗証番号を入力するが、エラー音が鳴り続ける。 仕方なく裏庭へ回り込み、なりふり構わず壁をよじ登って、バルコニーへと這い上がった。 リビングから話し声が聞こえる。 私は足音を殺し、一歩ずつ近づいた。 ダイニングでは、奏多が茶碗を持ち、一口ずつ羽衣にみそ汁を食べさせていた。 その動作は優しく、愛に溢れており、私が一度も受けたことのない扱いだった。 「このカーテン嫌い。地味すぎるわ。変えてよ」 私が選び抜いた星空柄のカーテンを指差し、羽衣がわがままに言い放つ。 奏多は彼女の鼻先を指で軽く弾き、愛おしげに笑った。 「わかった、変えよう。 羽衣の好きなものに、全部変えよう」 ひとしきり指図した後、羽衣は口を尖らせて不満げに尋ねた。 「奏多さん、お姉ちゃんと結婚なんかしないでよ……」 奏多は茶碗を置き、羽衣の額にキスをした。 「おバカさんだな。彼女との結婚は必要なんだ。 俺には彼女のように、経歴がクリーンで体裁が良く、その上、聞き分けの良い妻が必要なんだよ」 彼が吐き出す言葉の一つ一つが、重い楔となって私の心に打ち込まれた。 「でも安心してくれ。この家の本当の主は永遠に君だ。 俺が真に愛しているのは、君一人だけだよ」 爪が掌に食い込み血が滲んだが、心臓の痛みに比べれば万分の一にも及ばない。 羽衣はまだ機嫌が直らないのか、ぷいと顔を背けた。 奏多は低く笑い、彼女の首筋にキスを落とし始める。 手もいやらしく、彼女の服の中へと滑り込んでいった。 「ん……奏多さん……やだ……っ」 羽衣は拒むふりをしながらも、その身体は骨を抜かれたようにしなだれかかった。 すぐに二人はソファの上で絡み合い始めた。 私は物陰に立ち、その見るに堪えない光景を見つめていた。 全身の震えが止まらず、凍てつく湖の底へと突き落とされたかのような寒さを感じた。 冷たい風に吹かれて体温を失うまで立ち尽くした後、私は窓から来た道を戻った。 車に戻り、震える手でスマホを取り出し、あるウェブページを開いた。 【特別選抜隊員募集要項】 国境の最果てへの配属を条件とし、向こう十年間、外部との接触は厳格に制限される。 私は静かに全ての情報を入力し、送信ボタンを押した。 この七年間の青春は、ドブに捨てたと思えばいい。 この二十数年の人生は、ただの笑い話だったと思えばいい。 第3話 今日をもって、高橋咲茉は死んだ。 翌日、土砂降りの雨。 私は両親の墓前に立ち、冷たい雨に打たれるがままになっていた。 脳裏には、制御できない記憶の断片がフラッシュバックする。 奏多と出会い、恋に落ちた甘い記憶。 そしてもっと昔、私が両親の足にしがみつき、泣きながら「羽衣を連れて行かないで」と懇願した光景。 工事現場の仕事はあまりに過酷だ。私は自分がついて行っていくつもアルバイトを掛け持ちしてでも、羽衣だけは実家に残して、学校に行かせてやりたかった。 けれど、私が必死に守り抜いた羽衣は、背後から私に致命的な一撃を加えた。 七年間愛した男も、私の人生を自らの手で粉々に破壊した。 目を閉じると、胸の痛みはもはや麻痺し、感覚を失っていた。 雨の中で、スマホが執拗に鳴り響いている。 「咲茉、相手の後ろ盾が強大すぎる。絶対に無理をするな。損をするのは自分だぞ」 私は顔に張り付いた雨を拭い、努めて平静な声を装った。 「隊長、ありがとうございます。 考え直しました。この職業は私には向いていません。新しい人生の目標を見つけました」 電話を切り、灰色の空を見上げる。 雨と涙が混じり合い、頬を伝って流れ落ちる。 不意に、黒い傘が私の頭上に差しかけられた。 振り返らなくても、誰だか分かる。 かつて私が無性に惹かれたあの香りが、今では吐き気をもよおすだけだった。 背後から聞こえる奏多の声は、変わらず優しかった。 「濡れると風邪を引くよ」 私は動かず、言葉も発しなかった。 「咲茉、意地を張るのはやめてくれ」 彼は私の手に、一通の採用内定書を強引に握らせた。 「新しい仕事を用意したんだ。 上場企業の管理職で、仕事は楽だし、年収も千万円を超える。 警察官なんかよりずっといい」 「必要ないわ」私は冷たく言い放った。 彼は私の夢を壊しておいて、今度は金で私を丸め込み、侮辱しようとしている。 奏多の口調は相変わらず忍耐強く、まるで聞き分けのない子供を諭すようだった。 「咲茉、君が悲しいのは分かってる。 でも俺がしたことは全て、君のためなんだ。 君が危険な目に遭うのを見ていられない。君の亡くなったご両親に代わって、俺が面倒を見る。 これからは、もう一人で強がる必要はないんだ」 「私のため?」 私は我慢できず、顔を上げて彼を見つめ、突然笑い出した。 その笑い声は雨の中で際立って物哀しく響いた。 奏多は眉をひそめた。 「癇癪を起こすな、咲茉。 今はショックで受け入れられないだろうけど、冷静になれば俺の真意が分かるはずだ。 俺たちの長年の絆は……」 私は鼻で笑った。 彼は私が骨の髄まで彼を愛しており、彼から離れられないと確信しているのだ。 最終的には従順なペットのように、彼の全てのアレンジを受け入れると思っている。 その顔を見つめるうち、胸の内で渦巻いていた憎悪と怒りが頂点に達した。 私は彼の目の前で、その内定書を無造作に引き裂いた。 そして、バラバラになった紙屑を、力任せに彼の顔面へと叩きつけた。 「奏多!何様のつもりで私の人生を決めるの? 二度と顔も見たくない!」 紙屑が舞い散り、濡れた彼の顔に張り付き、無様な姿を晒した。 彼が怒り出し、激昂すると思った。 しかし、彼はそうしなかった。 ただ私を見つめ、穏やかな声で言った。 「咲茉、君が冷静になるのを待つよ」 これ以上、彼と関わり合う気など微塵もなかった。私は踵を返し、その場を立ち去ろうとした。 だが、激しい感情の起伏と連日の精神的疲労で、私の体はとっくに限界を超えていた。 視界が急激に暗転し、全身の力が抜け、糸の切れた人形のように、そのまま地面へと崩れ落ちた。 意識が途切れる寸前、いつも余裕綽々だった奏多の顔に、慌てふためく表情がよぎったのが見えた気がした。 きっと、錯覚だろう。 目が覚めると、奏多がベッドの脇に座っていた。その顔色はやつれていた。 私が目覚めたのを見ると、彼はすぐに私の手を握り、申し訳なさそうな目をした。 「咲茉、やっと気がついたんだね」 第4話 彼は私の布団の端を整えると、温かいタオルで私の掌や頬を丁寧に拭った。 市内で最高の専門医を呼び集め、私の治療にあたらせた。 皆の前で甲斐甲斐しく立ち働くその姿は、「献身的な完璧な恋人」そのものだった。 私はベッドに横たわり、その空々しい茶番劇を冷めた目で見つめていた。 意識は時折鮮明になり、また混濁した。 微睡みの中で、私はいくつかの記憶を思い出した。 警察学校の卒業式の日、奏多が大きな向日葵の花束を抱えて校門で待っていたこと。 彼は誇らしげに周囲の友人に紹介した。 「俺が心底惚れ抜いて、ようやく射止めた彼女、咲茉だ」 陽光の下、彼の笑顔はその向日葵よりも眩しかった。 過去数年間、羽衣が何度もトラブルを起こしたこと。 他人と殴り合い、サボり、窃盗……。 そのたびに奏多は金とコネで揉み消し、警察署から彼女を連れ出した。 当時の私は、彼への感謝と申し訳なさで胸がいっぱいだった。 私を愛しているからこそ、私の家族の尻拭いまでしてくれるのだと信じて疑わなかった。 今にして思えば、彼は私を助けていたのではない。 彼は私を掌の上で転がし、弄ぶ快感を楽しんでいただけなのだ。 私という存在は、彼と羽衣の歪んだ情欲を盛り上げるための、最高のスパイスでしかなかったのだ。 奏多が転院の手続きのために席を外し、より環境の良い私立病院へ移ろうとしていた時だった。 彼のスマホが棚の上に置き忘れられていた。 不意に画面が点灯し、一通の通知が表示される。 私は何かに導かれるように手を伸ばし、そのスマホを手に取った。 【奏多さん、私、妊娠したわ。いつお姉ちゃんと別れてくれるの?】 ――妊娠。 その二文字が、私の心の中に僅かに残っていた幻想を無慈悲に粉砕した。 心が凍りついていくのを感じた。 私はそのメッセージを消去せず、自分のスマホを手に取った。 一通の未読メールが届いている。 【特別選抜隊員 採用通知】 メールを開くと、着任期日は翌日にまで迫っていた。 不思議なほど、心は凪いでいた。 いいだろう。 これも天命なのだろう。 私は無表情のまま、腕に刺さった点滴の針を引き抜いた。 モニターが耳障りな警告音を鳴らし始める。 奏多が戻ってきた時、私は既に服を着替え、静かにベッドの端に座っていた。 彼は引き抜かれた針を見て顔色を変え、足早に駆け寄ってくる。 「咲茉、何をしている?」 私は顔を上げ、微かな笑みを浮かべて見せた。 「奏多、私、やっと吹っ切れたの。 一緒に帰りましょう」 彼は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに安堵したように口角を上げた。 「咲茉、本気か?」 私は頷き、かばんから一枚の名刺を取り出して彼に手渡した。 「でもその前に、お願い。私の代わりに、あるものを受け取ってきてほしいの。 この銀細工店に、数日前にお揃いのペアリングを注文しておいたの。内側に私たちの名前を刻印してもらった、特別なやつ」 「ああ、分かった。すぐに行ってくる」 奏多は微塵も疑うことなく、弾んだ声で応じた。 彼は私を抱き寄せ、額に口づけを落とした。 「待っていてくれ、すぐ戻る。 それから、一緒に家に帰ろう」 彼が背を向けた瞬間、私の顔から穏やかさも笑みも、全てが消え失せた。 最後にもう一度だけ窓の外の景色を見つめる。 そして私は迷うことなく病室を後にし、雑踏の中へと姿を消した。 奏多がペアリングを手に病院へ戻った時、病室は誰もいなかった。 その瞬間、彼の心臓を冷たい手が掴んだかのような、得体の知れない不安が襲った。 彼は焦燥に駆られながら私の番号を呼び出した。だが、スピーカーから聞こえてくるのは、「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか……」という無機質なアナウンスの繰り返しだった。 心拍が激しく打ち鳴らされる中、彼の手元でスマホが鳴った。 共通の友人からの連絡だった。 「奏多、咲茉と喧嘩でもしたのか?」 奏多の心臓が早鐘を打ち、かすれた声で問い返す。 「どういうことだ」 「たった今、採用者名簿を見たんだが…… 国境の最果てへの配属に伴い、向こう十年間、外部との接触は厳格に制限される。 採用者名簿の中に……咲茉の名前があった」 電話の向こうの言葉が終わるか終わらぬうちに、奏多の手から力が失われた。手元から滑り落ちたペアリングは、乾いた高い音を立てて床を転がった。