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花期を逃した私と、遅れてきた春
高梨瞳(たかなし ひとみ)と有馬蓮(ありま れん)は学園公認の、誰もが羨む完璧なカップルだった。 蓮は、すれ違う誰もが思わず振り返るほど...
Chương (1)
第1章
高梨瞳(たかなし ひとみ)と有馬蓮(ありま れん)は学園公認の、誰もが羨む完璧なカップルだった。
蓮は、すれ違う誰もが思わず振り返るほどの学園のプリンスだ。すらりとした長身に、目を奪われるほど整った顔立ち。いつも制服の上に黒のマウンテンパーカーを羽織り、クールでどこか近寄りがたいオーラを纏っている。
そんな彼に女子たちは我先にと群がるが、彼の目に映るのは、いつだって瞳だけだった。
二人は幼馴染だ。物心ついた時から、二人はいつも一緒だった。一歳の誕生日には互いの小さな手を握り合い、七歳で「大きくなったら結婚しよう」と約束を交わした。十四歳でラブレターを交換し、十六歳で正式に恋人同士となり、十八歳で同じ大学を目指すと誓い合った……
永遠に続くと思われた二人の関係が揺らぎ始めたのは、高校三年の春のことだった。
クラスに一人の転校生がやってきたのだ。小池桃果(こいけ ももか)という子だ。
「成績優秀者による学習サポート」のペアを決める際、担任はあろうことか、蓮を桃果の担当に指名したのだ。
「もし断るつもりなら、校内で瞳とイチャつくのを禁止するからな」
第1話
高梨瞳(たかなし ひとみ)と有馬蓮(ありま れん)は学園公認の、誰もが羨む完璧なカップルだった。
蓮は、すれ違う誰もが思わず振り返るほどの学園のプリンスだ。すらりとした長身に、目を奪われるほど整った顔立ち。いつも制服の上に黒のマウンテンパーカーを羽織り、クールでどこか近寄りがたいオーラを纏っている。
そんな彼に女子たちは我先にと群がるが、彼の目に映るのは、いつだって瞳だけだった。
二人は幼馴染だ。物心ついた時から、二人はいつも一緒だった。一歳の誕生日には互いの小さな手を握り合い、七歳で「大きくなったら結婚しよう」と約束を交わした。十四歳でラブレターを交換し、十六歳で正式に恋人同士となり、十八歳で同じ大学を目指すと誓い合った……
永遠に続くと思われた二人の関係が揺らぎ始めたのは、高校三年の春のことだった。
クラスに一人の転校生がやってきたのだ。小池桃果(こいけ ももか)という子だ。
「成績優秀者による学習サポート」のペアを決める際、担任はあろうことか、蓮を桃果の担当に指名したのだ。
「もし断るつもりなら、校内で瞳とイチャつくのを禁止するからな」
普段の蓮なら即座に突っぱねるところだが、この脅しには逆らえなかった。
最初は本当に、ただの補習のはずだった。勉強を教えたり、校内を案内したりするだけの関係。しかし、次第に歯車が狂い始めた。
桃果が「駅前の有名なケーキ屋さん、すごく並んでるけど食べてみたいな」と呟けば、蓮は自習を抜け出してまで買いに走った。
桃果がSNSに【なんか今日、しんどい】と投稿すると、蓮は深夜まで通話に付き合い、相談に乗るようになった。
極めつけは、桃果の生理痛がひどいと聞いた日だ。蓮は校則違反を承知で塀を乗り越え、コンビニまで温かいココアを買いに走ったのだ……
瞳は悲しみに暮れた。怒りをぶつけ、喧嘩をし、別れを切り出すようになった。
一度目の別れ話は、電話越しだった。蓮は長い沈黙の後、荒い息遣いだけを返してきた。その夜は土砂降りの雨だった。ふと気づけば、彼は瞳の家の前に立っていた。全身ずぶ濡れのまま、朝まで立ち尽くして。彼は掠れた声で何度も何度も瞳の名前を呼び、「ごめん」と繰り返した。
二度目の別れ話の時、彼は学校を丸一日休み、瞳の教室の前で待ち伏せをした。充血した赤い目で、乱れた字で思いの丈を綴った長い手紙を差し出し、「もう一度チャンスをくれ」と深々と頭を下げた。
だが、回数を重ねるうちに――彼は高を括るようになった。
彼女は自分から離れられない、と。
だから彼の謝罪は、回を追うごとに雑になっていった。以前ならすぐに飛んできてくれたのが、一日後、三日後、一週間後……と、その間隔は延びていくばかり。
そして、九十九回目。
大学受験が終わった打ち上げの席でのことだ。桃果が何気なく「スイカ食べたいな」と口にした。すると蓮は、当たり前のような顔をして、一番甘い真ん中の部分をスプーンですくい、桃果の皿に載せたのだ。
すぐ隣に座っている瞳もまた、スイカの真ん中の一番甘い部分が大好きだということを、すっかり忘れてしまったかのように。
積もりに積もった失望が、ついに堰を切った。
瞳は真っ赤なスイカを見つめたまま、恐ろしいほど冷ややかな声で告げた。「蓮、別れよう」
蓮の手が止まる。彼は面倒くさそうに瞼を持ち上げると、心底うんざりした声を出した。「……またそれ?」
瞳はもう、何も言わなかった。バッグを掴むと、個室を出た。
いつもなら追いかけてくるはずの蓮が、今回は動かなかった。
彼はナメていたのだ。瞳がまた機嫌を損ねているだけだ、と。数日もすれば機嫌が直り、いつものように自分の元へ戻ってくるだろう、と。
だから瞳が出て行った後も、彼は余裕の笑みを浮かべ、周囲にからかわれて酒を飲まされそうになる桃果の隣に座り、「二十歳まで俺が守ってやる」などと言ってのけた。
彼は気づいていなかった。今回は、本気だということに。
何度も何度も傷つけられ、すり減ってしまった瞳の心は、ついに最後の温度を失ってしまったのだということに。
……
家に帰って真っ先にしたことは、パソコンを開き、志望校の欄を書き換えることだった。
蓮と一緒に受けると約束していた西京大学を消し、遥か遠方の大学へと変更する。もう二度と、同じ場所にいるわけにはいかない。
次に、蓮との思い出の品をすべて片付け始めた。
限定版のぬいぐるみ、お揃いのブレスレット、甘い言葉が綴られた無数のメモ、二人で撮った写真の束……どれもが、かつてはかけがえのない宝物だった。甘く幸せだった日々も、胸が締め付けられるような切ない瞬間も、今となってはただ重荷でしかない。
瞳はそれらすべてを、大きな段ボール箱に詰め込んだ。
翌日。その段ボール箱を抱え、瞳は蓮の家を訪れた。
昔から知っている執事が、何も聞かずにリビングへと案内してくれる。
広々としたリビングでは、蓮と桃果が並んでソファに座り、最新のゲームに興じていた。二人の距離は妙に近く、桃果は楽しげな歓声を上げている。
「蓮くんすごい!私、このステージ何回やってもクリアできなかったのに!」
瞳は、桃果の服装に目を疑った。
大きめの黒いTシャツ。あまりにも見覚えがありすぎる。去年の蓮の誕生日に、何軒ものショップを回ってようやく見つけ出した限定品だ。
あの時、プレゼントを受け取った蓮は満面の笑みで瞳を抱き上げ、熱を帯びた声で耳元に囁いたのだ。
「瞳がくれたんだ。毎日着るよ」
その「毎日着る」という言葉の中には、簡単に他の女に貸し与えることも含まれていたのだろうか。
瞳の視線に気づき、桃果が振り返った。段ボール箱を抱えた瞳を見ると、彼女は悪びれもせず無邪気な笑みを浮かべた。
「あ、瞳ちゃん!蓮くんに誘われてゲームしに来たんだ。お昼に手作りパスタまでご馳走してくれちゃって。でね、私ドジだからジュースこぼしちゃって……それで蓮くんの服借りちゃった。大丈夫だよね?」
蓮は桃果の言葉に対し、だるそうに視線だけを向けてきた。手元では器用にコントローラーを操作したまま、投げやりに言った。
「何しに来たの?別れたんじゃないのか?」
まるで他人事のようなその態度に、瞳の胸に冷たい自嘲が広がった。
一度目の別れ話の時、土砂降りの中で惨めに謝り続けた彼。二度目、三度目と回数を重ねるごとに、謝罪が遅くなっていった彼。前回に至っては、「もう怒るなよ、夜に焼肉連れてくから」というラインメッセージが一通だけ……
彼は幾度となく、瞳の我慢の限界を試すような真似を繰り返してきた。瞳がそのたびに許してしまうから、彼は際限なく図に乗っていったのだ。
だが彼は知らない。限界というものは、必ず訪れるということを。
九十九回目の別れで、瞳はもう本当に、彼のことを諦めたのだ。
瞳は深く息を吸い、込み上げる感情を押し殺した。「別れたから、返さなきゃいけないものがあって」
蓮は眉間を押さえ、いかにも面倒くさそうに言った。「そこまで怒ってるなら、そんなの勝手に捨てればいいじゃん。わざわざ持ってこなくていいよ」
「……そう」
瞳は静かに頷いた。そして何の迷いもなく、思い出の詰まった段ボール箱を抱えたまま、部屋の隅にある大きなゴミ箱へと歩み寄った。
躊躇いなく、箱ごと放り込む。
段ボールがゴミ箱の底に落ち、鈍く重い音が室内に虚しく響いた。
第2話
瞳が背を向け、その場を去ろうとした瞬間、蓮の声が背中に突き刺さった。
「待って」
振り返ると、彼は相変わらず面倒くさそうな表情を浮かべていた。
「ついでに、お前がうちに置いてる物も全部持って帰れよ」
きっと彼は期待していたのだろう。いつものように瞳が傷つき、涙目で「どういうつもり?」と詰め寄ってくることを。そうすれば、「もう喧嘩はやめよう」と宥め、また元通りになるのだと高を括っている。
だが、瞳は何も言わなかった。
ただ黙って向き直り、かつては自分の第二の家だと思っていたこの場所から、自身の痕跡を一つ一つ消していく作業に取り掛かった。
玄関には、彼がわざわざ買ってくれたイニシャル入りのクマのスリッパ。キッチンの棚に並ぶ、彼女専用の苺柄のマグカップ。リビングのソファに無造作に置かれた、いつも使っていたグレーのブランケット……
それらを一つ一つ見つけ出しては、淡々と空の段ボール箱に放り込んでいく。まるで何の価値もないゴミを片付けるかのように。
その間も、蓮と桃果のゲームは新しいラウンドに突入していた。
ゲームの合間、桃果が「喉渇いた」と呟くと、ごく自然な動作で蓮の飲みかけのコップを手に取り、一口飲んだ。
極度の潔癖症で、以前は瞳が口をつけた飲み物さえ嫌がっていた蓮が、今はちらりと視線を向けただけで何も言わない。
さらに桃果が甘えた声で、「お腹空いちゃった。駅前の有名な鯛焼き、食べたいな」と言うと、蓮は何の躊躇もなく立ち上がり、部屋を出て行った。
瞳はそのすべてを、目に焼き付けた。だが不思議と、もう心は痛まなかった。ただ麻痺したような冷たさだけが、胸の奥底に残っている。
片付け終えた段ボール箱を抱え、瞳は二階へと上がった。蓮の部屋に残してあった最後の物を回収するために。
ドアを開けようとした瞬間、行く手を阻むように人影が立った。
桃果だ。
彼女は隠そうともしない挑発的な笑みを浮かべていた。「別れたくせに、まだ未練たらしくウロウロしてるの?」
相手にするつもりはない。瞳は淡々と答えた。「私の物を取りに来ただけ。きっちり縁を切るために」
「縁を切る?」桃果が鼻で笑った。
「こんな駆け引きして、蓮くんが振り向くとでも思ってるの?蓮くん、もうあんたのワガママにはうんざりしてるよ。すぐ別れるって言い出すのって、結局彼が謝ってくれるのを分かってるからでしょ?しつこくすがりつく以外、何ができるの?」
彼女はさらに一歩踏み出し、言葉を続ける。
「教えてあげる。あなたの好きなもの、全部奪ってあげる。西京大の志望も彼に合わせたんでしょ?まだ縋りつくつもり?大丈夫、私も西京大に受かったから。一歩一歩、彼を完全に奪ってあげる。あんたが私に完敗する瞬間を、その目で見せてあげるわ!」
そんな戯言、聞く価値もない。瞳は箱を抱え直すと、彼女を避けて通ろうとした。
だが桃果は諦めない。瞳の腕を掴み、さらに辛辣な言葉を浴びせてくる。
「どうしたの?図星つかれて何も言えないの?どこまで図々しいの。しつこくすがりつく姿、本当に気持ち悪い!蓮くんがあんたを鬱陶しがるのも当然よね。親からの躾はどうかしてるわ。だからこんな……」
パシンッ!
乾いた衝撃音が廊下に響いた。
瞳の平手打ちが、桃果の暴言を遮ったのだ。
自分への侮辱は耐えられる。だが、両親を侮辱することだけは絶対に許さない!
頬を押さえた桃果が、信じられないという顔で目を見開く。次の瞬間、瞳は怒りに燃えて再び手を振り上げた――
その時、階下から玄関の開く音と足音が聞こえてきた。
蓮が戻ってきたのだ。
桃果の目が怪しく光った。
次の瞬間、彼女は自ら瞳の手を掴み、悲鳴を上げながら、瞳を抱え込んだまま転がり落ちたのだ!
「きゃああああっ!」
二人はもつれ合うように階段を転げ落ち、一階の床に叩きつけられる。瞳は全身の骨が砕けたような激痛に襲われ、額を階段の角に強く打ち付けた。生暖かい血が流れる感覚に、意識が遠のく。
桃果も無事ではなかったはずだが、すぐに体を起こすと、先んじて顔を押さえた。瞳につけられた鮮明な平手打ちの跡を見せつけるように。彼女の目からはすぐに涙が溢れ出し、泣きじゃくり始めた。
「蓮くん……うう……瞳ちゃんが……いきなり殴りかかってきて、私を階段から突き落としたの……痛い……」
蓮は目の前の惨状を見て、顔色を一瞬で険しくさせた。
大股で駆け寄ると、まず泣き崩れた桃果に視線を向け、それから氷のように冷たい目で、這い上がろうともがく瞳を睨みつけた。
「瞳!何やってんだよ!ここは俺の家だぞ。いい加減にしろ!」
瞳は体中の激痛と眩暈を堪えながら、必死に説明しようとした。
「彼女が先に私の両親を侮辱したから……」
「もういい!」
蓮は聞く耳を持たず、声を荒げて言葉を遮った。その目には失望と苛立ちしか浮かんでいない。
「言い訳なんか聞きたくない!おい、こいつを連れて行け!」
執事が沈痛な面持ちで歩み寄り、瞳に「どうぞ」と退出を促す。
瞳は見ていた。蓮が何の躊躇もなく自分に背を向け、優しく桃果を起こし上げ、大切そうに抱えてソファへと運ぶ姿を。救急箱を取り出し、丁寧に傷を拭いて、薬を塗る。まるで大切な宝物を扱うかのように。
その瞬間、瞳の胸は、鋭利な刃物で抉られるような痛みに襲われた。痛くて、息ができない。
昔、彼もこうやって自分を扱ってくれた。体育の授業で膝を擦りむいた時、彼は真っ青な顔になり、すぐに背負って保健室へと走ってくれた。走りながら「瞳、怖がらないで。すぐに痛くなくなるから」と何度も励ましてくれた。
あの時の優しさと心配は、自分だけのものだったはずなのに。
それが今、彼の全ての思いやりと優しさは、別の女の子に注がれている。
言いたいことも、訴えたい想いも、全て喉の奥に詰まって、冷たい絶望へと変わっていった。
瞳はもう何も言わなかった。傷だらけの体を引きずり、一歩ずつ外へと歩いていく。
一人で病院へ向かった。
診断は、全身打撲と軽度の脳震盪。医者は入院観察を勧めた。
入院中、スマホが何度も震えた。
桃果からの挑発的なメッセージと共に、蓮が彼女を手厚く看病している写真や動画が次々と送られてくる。
お粥を食べさせている蓮。林檎の皮を剥く蓮。庭園を一緒に散歩する蓮。
瞳は無表情で画面を見つめるだけだった。もちろん、返信などするはずもない。
心が死んでしまえば、こんな挑発を受けても、もう何も感じないのだ。
第3話
退院後、クラスで卒業パーティーが企画された。行く気はさらさらなかったのだが、親友に説得され、渋々参加することにした。
個室に入った瞬間、蓮と桃果が寄り添うように座っているのが目に入った。桃果が笑いながらイチゴをあーん、と口元に運ぶと、蓮は嫌がる素振りも見せず、口を開けてそれを受け入れる。
クラスメイトたちは瞳を見て気まずそうにざわついた。何人かが小声で聞いてくる。
「瞳、どうしたの?蓮と……また喧嘩?」
瞳は静かに首を振った。小さな声だったが、はっきりと告げた。
「喧嘩じゃなくて、別れたの」
「えっ!?別れた!?」
皆が驚愕の声を上げる。
「なんで!?蓮くん、あんなに瞳ちゃんのこと大事にしてたのに!」
「そうだよ!高三の時、瞳が体調崩した時、担任に食ってかかってまで長期休暇取らせようとしたじゃん!」
「記念日のサプライズも毎回すごかったよね!私たちみんな羨ましかったもん!」
「ゴールイン確実だって言われてたのに……卒業前に別れるなんて」
次々と語られる蓮の優しかった思い出に、瞳の胸がきつく締め付けられる。
そう、彼は本当に優しかった。この人以外考えられないと思うほどに。
でも、だからこそ。その後の冷たさと、他の誰かへの優しさが、残酷すぎるほどに胸をえぐる。
少しの沈黙の後、瞳は静かに答えた。
「価値観が合わなくなったから、別れただけよ。永遠に続く関係なんて、どこにもなかったのよ。それに……」
少し離れた場所で桃果に飲み物を注ぐ蓮に視線を向ける。
「彼、今あの子といて幸せそうだし」
蓮はちょうどその言葉を聞いたようで、眉を顰めてこちらを見た。複雑な表情だ。
その夜、彼はまるで意地になったかのように、桃果への態度をさらに過熱させた。これ見よがしに気遣いを見せつけ、片時も離れようとしない。
きっと期待していたのだ。瞳が嫉妬して、怒って、いつものように二人の間に割って入ってくるのを。
だが、瞳は動かなかった。
静かに隅に座り、時々隣の人と言葉を交わすだけ。その瞳には何の波も立たない。まるで彼が本当にどうでもいい赤の他人になったかのように。
その徹底した無関心が、蓮の胸に今まで感じたことのない焦燥感を駆り立てた。
無意識に彼女の方へ歩き出しかけたが、桃果に腕を掴んで止められる。
桃果が爪先立ちになって、彼の耳元で何かを囁いた。蓮の足が止まり、眉間に深い皺が寄る。結局、彼は元の席に戻っていった。
やがて、誰かが「真実か挑戦か」をやろうと言い出した。
何回か回して、桃果が負けた。引いた罰ゲームカードには「この場で一番背の高い男子と三分間キスすること」と書かれていた。
全員の視線が一斉に蓮に集まる。
桃果の頬が赤く染まる。だがその目には確かな挑発が宿っていた。迷いなく蓮の前へと歩み寄る。
周りがざわめいた。
「これは……まずくない?瞳ちゃんもいるのに……」
だが桃果はわざと隅にいる瞳を見て、甘ったるい声で尋ねた。
「瞳ちゃん、もう蓮くんと別れたんだよね?だったら、ゲームでキスするくらい、気にしないよね?」
桃果の取り巻きがすかさず援護する。
「そうだよ。もう元カノなんだし、蓮くんが誰とキスしようが関係ないでしょ?」
一瞬で、蓮の視線も含めて、痛いほどの視線が瞳に集まった。
彼の眼差しは深く、言葉にできない圧力を孕んでいた。まるで彼女の反応を試すかのように。
瞳は顔を伏せた。長い睫毛が全ての感情を隠す。小さな、ほとんど聞こえないような声。でもはっきりと、全員の耳に届いた。
「……そうだね、私には関係ない」
その一言で、明確な一線が引かれた。
蓮の表情が一瞬で険しくなる。目の奥に怒りと、何か裏切られたような感情が渦巻いている。
彼は冷笑を漏らすと、乱暴に桃果の腰を引き寄せ、周囲の悲鳴の中、深く唇を重ねた。
「んっ……」
個室に抑えた驚きと息を呑む音が響き、そして凍りついたような静寂が訪れた。
瞳は目を開けたまま、照明の下で絡み合う二人を見つめていた。桃果の手が蓮の首に回される。
心臓を見えない手で握り潰されるような痛みが、息もできないほど苦しい。掌をに爪を立てて、理性を押し流しそうな苦い絶望を必死に抑え込む。
どれくらい経ったのか。永遠にも感じられたキスが、ようやく終わった。
桃果の友達がわざとらしく大声で聞く。
「ねえ、学園のプリンス様、どうだった?桃果ちゃんとのキス、あの人よりずっと良かったんじゃない?」
蓮の視線が、青ざめた瞳の顔を捉える。唇の端に冷たい笑みを浮かべて、小さいが明瞭に、残酷に言い放った。
「比べるまでもない。桃果の方が……最高だよ」
第4話
桃果の顔に浮かぶ勝ち誇った笑みが、今にも零れ落ちんばかりだった。
さらに何回かゲームが続き、また桃果が負けた。
今度の罰ゲームは「男子一人の膝の上に座って指定された命令を実行すること」
桃果は迷う素振りもなく、再び蓮に熱い視線を送った。
もう無理だった。瞳は勢いよく立ち上がり、隣の友達に小声で「トイレ」とだけ告げて、澱んだ空気の立ち込める部屋から逃げ出した。
トイレに駆け込んで、何度も何度も冷水で顔を洗う。でもいくら洗っても、涙は止まってくれなかった。長い時間をかけてようやく気持ちを落ち着かせ、もう帰ろうと決めた。
廊下の角を曲がろうとした時、テラスから聞き覚えのある声が漏れ聞こえてきた。蓮と、いつもの悪友たちだ。
「蓮、さっきは……やりすぎじゃなかったか?瞳のやつ、すごい顔色だったぞ。フォローしなくていいのか?」
「フォロー?」
蓮の冷ややかな声が聞こえる。
「で、どうせまたすぐに『別れる』って言われんの?もううんざりなんだけど」
「まあな……お前が甘やかしすぎたんだよ。すぐ別れるって言い出すんだもん。今回のことで、少しお灸を据えてやればいいんじゃないか?」
「だよな。入学したら西京大で周りに知り合いもいないし、絶対お前に連絡してくるって。その時ちょっと優しくしてやって、復縁すればいい。今回の件で、今度からは『別れる』なんて安っぽく口にしなくなるだろ」
廊下に立ち尽くす瞳の体から、一気に血の気が引いていった。全身が凍りつくように冷たくなる。
彼にとって、傷ついて、失望して、何度も口にした別れの言葉は――ただの「駆け引き」で、「脅し」に過ぎなかったのか。
そして彼の言う「懲らしめる」とは、皆の前で別の女とキスをして、自分を辱めることだったのか!
音を立てないように踵を返し、瞳は一人で階下へ降りていく。
夜風が肌をなでるが、震えるほど冷たい。
歩きながら、思い出が古い映画のフィルムのように脳裏を駆け巡る。
少し眉を顰めただけで、「どこか具合悪い?」と心配してくれた彼。女の子から告白されても一瞥もせず断って、「瞳、今日もちゃんと断ったよ!褒めて」と駆け寄ってきた彼。
彼の優しさに慣れすぎていた。自分を唯一無二の宝物のように扱ってくれることに。
いつから変わったのだろう?
……桃果が現れてからだ。
彼は桃果のために何度も自分のルールを曲げ、自分の気持ちを無視した。
桃果が彼に特別な感情を抱いていることも、彼が桃果を特別扱いしていることも、気づいていた。ただ最後の希望を捨てきれず、別れを切り出すことで、彼の本心を確かめようとした。その結果が、「面倒」で「幼稚」という評価だった。
自分が彼の「特別」でなくなった今、涙を流すことさえ許されないのだと。
ぼんやりと歩いているうちに、いつの間にかマンションの前まで来ていた。遠くに、玄関前で立っている大学からの速達を手に持った配達員の姿が見える。
きっと合格通知が届いたのだろう。
深く息を吸って、近づこうとした瞬間――
見覚えのある長身の影が、配達員の前に立ちはだかっているのが目に入った。
間違いなく、蓮だ!
彼の手には、南都大学の大学名が記された封筒が握られている。今まさに、封を破り捨てようとしていた。
第5話
瞳の心臓が激しく跳ね上がった。反射的に、蓮の手から合格通知書を奪い取った。
「……何してるの?」声の震えを、必死に冷たさで覆い隠した。
蓮の手が宙に取り残される。彼は彼女の過剰な反応に面食らったようだったが、やがてその目に冷ややかな光が宿った。
「『お留守です』って言われて、連絡先の番号が俺のままだったから、代わりに受け取っただけだよ」
連絡先の番号……
瞳の胸を、鋭い針で刺されたような痛みが走った。
ずっと昔に設定したものだ。彼がまだ自分の世界の全てだった頃、当然のように、大切なすべてを彼に結びつけていた。
瞳は瞼を伏せ、溢れそうになる感情を隠した。「そうね……変え忘れてた。後で変えておく」
もう彼を見ない。すぐに備え付けのペンを取り、受取欄に丁寧に、はっきりと自分の名前を記した――高梨瞳、と。
これで、彼女の人生に彼はもういない。
サインを終え、家に戻ろうと向き直る。
背後で蓮が配達員に尋ねる声が聞こえた。
「これだけ?俺のは?俺も彼女と同じ大学だし、俺もここを住所地に登録したから、一緒に届くはずなんだけど」
配達員が確認する。「いいえ、こちらの一通だけです」
蓮の眉間に深い皺が刻まれる。数歩先を歩き出した瞳を呼び止めた。
「瞳、開けて確認してくれよ。俺の通知書、間違って一緒に入ってるかも」
瞳の足が止まる。振り返ることなく、きっぱりとした声で答えた。「入ってない」
あまりにも確信に満ちた口調に、蓮が訝しげな、そしてどこか不安げな表情を浮かべる。
「なんでそんなに断言できるんだよ?」
瞳が深く息を吸い、長い間胸に秘めていた決断を告げようとした――その瞬間、蓮のスマホが鳴り響いた。
桃果からだ。
電話に出ると同時に、泣きじゃくるような声が漏れ聞こえてくる。
「蓮くん……今どこ?怖いの……誰かにずっと尾けられてる気がする……」
蓮の顔色が一変した。全ての注意が一瞬で電話の向こうへと集中し、久しぶりに聞く焦りと緊張が声に滲む。
「怖がらないで!今いる場所から動くな。位置情報送って。すぐ行く!」
瞳をもう一度見ることもなく――軽く、しかし決定的な重みを持つ「私、志望校変えたから。同じ大学じゃないの」という言葉を聞くこともなく――彼は駐車場へと駆け出していった。
彼の姿が遠ざかっていく。
瞳はその場に立ち尽くし、彼が消えた方向を見つめた。心の底に広がっていた波紋が、静かに凪いでいった。
それからの日々、瞳は黙々と引っ越しの準備を進めた。
南都大学は、ここから遠く離れている。生活用品一式、すべて一から揃える必要があった。
一方、蓮のSNSは異様に活発だった。
毎日のように更新される投稿。写真にも動画にも、必ず桃果の姿がある。
一緒に山に登って日の出を見る二人。桃果が蓮の肩に寄りかかり、背後には雲海が広がる。キャンプに行って、焚き火を囲み、桃果が笑いながら串焼きを食べさせる動画。
数え切れないほどの観光地を巡り、有名な観光スポットで親密に記念撮影……どの写真でも、蓮の目には穏やかな笑みが宿っていた。
クラスメイトたちがコメント欄で囃し立てる。
【蓮、これって公認ってこと?】
【お似合い!!】
【桃果ちゃんすごい、マジで蓮くん落としたんだ!】
瞳は画面をスクロールして、眩しいほど生き生きとした光景を眺めた。胸が重苦しい。水を吸った綿のように重かった。
だが不思議なことに、もうあの鋭く、息ができなくなるような痛みはなかった。
心が完全に死ぬというのは、こういうことなのだと悟った。
学校に書類を取りに行った日、天気は快晴だった。
校門をくぐると、遠くの掲示板の前で、桃果が蓮の腕に親しげにしがみつき、可愛らしいポーズを取りながらスマホに向かって満面の笑みを浮かべているのが見えた。
蓮の表情は相変わらずクールだったが、口角が微かに上がっており、彼女の撮影に付き合っているのがわかる。
瞳は遠くからその光景を見つめながら、ふと昔の自分と蓮を思い出した。
このキャンパスで、手を繋いで並木道を歩いた。壁際に追い詰められてこっそりキスをされた。机に突っ伏して一緒に未来を描いた。「絶対に一緒に西京大に行こうね」「制服を卒業したら、次はウェディングドレスだね」って誓い合った……
あまりにも美しかったあの日々は、今となっては遠い過去の、霞んだ夢のようだ。
桃果が現れてから、全てが変わった。
自分と彼に、もう未来はない。
第6話
瞳は静かに踵を返し、二人を避けて、学校の裏庭へと向かった。
そこには古い木があり、その幹には彼女と蓮の名前が刻まれていた。隣には小さなハートマークも添えられている。
高校一年の時、彼が手を引いて連れてきて、小さなナイフで一文字ずつ、丁寧に刻み込んだものだ。「互いの名前を、心に刻み込むんだ」と言って。
瞳は持っていた鍵を取り出して、その名前を見つけ、力を込めて削り取っていった。
削り終えて、立ち去ろうとした時、背後から桃果の弾んだ声と足音が聞こえてきた。
「蓮くん、見て見て!この林で名前を刻むと、永遠に結ばれるんだって!私たちも刻もうよ!」
瞳は振り返らなかった。だが、蓮が頷く気配は容易に想像できた。
案の定、低い声が響く。「いいよ」
そして、ナイフが樹皮を削る微かな音が聞こえ始めた。
瞳が名前を消したばかりの木のすぐ隣で、二人は敢えて別の木を選び、「有馬蓮」と「小池桃果」の名を並べて刻んでいったのだ。
瞳はずっと背を向けたまま、一言も発しなかった。
自分のすべきことを終え、鍵をポケットにしまうと、その場を離れた。
庭園の端にある池のほとりまで来た時、桃果が後ろから追いかけてきた。「瞳ちゃん、待って!」
桃果が声をかけてくる。彼女の手に、小さなヘアピンを弄んでいた。「落とし物だよ」
瞳は自分がさっき落としたものだと気づき、手を伸ばした。
だが桃果はさっと手を引っ込めると、嘲るような笑みを浮かべた。
「瞳ちゃん、これから蓮くんの隣に立てるのは私だけ。あんたにはもう、彼と並ぶ資格なんてない。証明してあげる。彼の心の中で、私はあんたよりずっと、ずーっと大切な存在だってことを」
瞳はこんな無意味な口論に付き合う気はなかった。物を返してもらって、さっさと立ち去りたいだけだ。
「返して」
この徹底した無視が、桃果を完全に怒らせた。
彼女は瞳の手首を掴み、鋭い声で叫んだ。
「何いい子ぶってるの!幼馴染だからって何が偉いの!幼馴染なんて、運命の相手には勝てないのよ!私と蓮くんこそ、運命で結ばれてるの!あんたは彼の過去の中の、端役に過ぎないのよ!」
「離して……っ!」瞳の手首に痛みが走る。力を込めて振りほどこうとした。
「離さない!」
二人は池のほとりで揉み合ううちに、足がもつれ、どちらからともなくバランスを崩した。
激しい水音と共に、二つの影が水面を叩いた。水しぶきが、大きく飛び散る。
瞳は泳げる。だが冷たい水が全身を包み込んだ全身を刺すような冷たさに、足がつった。
体が思うように動かず、沈んでいく。水が鼻から入り込み、窒息感が襲ってくる。
絶望に沈みかけた時、岸にいた蓮が躊躇なく飛び込んでくるのが見えた。
その瞬間、消えかけていた希望が、一瞬だけ、熱を取り戻した。
だが次の瞬間、その小さな希望の灯火は完全についえ、冷たい底へと沈んでいった。
蓮は真っ直ぐ桃果の方へ泳いでいき、彼女の腰を抱いて、必死に岸へと運んでいったのだ。最初から最後まで、瞳を振り返ることさえしなかった。
桃果を岸に引き上げると、彼女は蓮の腕を掴み、咳き込みながらわざとらしく大声を上げた。「蓮くん……瞳ちゃん、瞳ちゃんがまだ水の中に!」
蓮が振り返る。水中でもがき、沈みかけている瞳を一瞥した。
薄れゆく意識の中で、その声ははっきりと、瞳の最後の希望を打ち砕いた。
「もう別れたんだ。あいつがどうなろうと、俺の知ったことじゃない」
第7話
そう言い捨てて、彼は気が動転した桃果を支え、背を向けて去っていった。
瞳は徐々に冷たくなる水の中で、ゆっくりと全ての力を失っていく。
次に目を覚ました時、視界に入ったのは病院の白い天井だった。
何人かのクラスメイトがベッドの周りを囲んでいて、瞳が目を覚ますと安堵のため息をついた。
「瞳ちゃん、起きた!良かった!めっちゃ心配したんだから!」
たまたま池のほとりを通りかかったクラスメイトが、岸辺に打ち上げられて気を失っている瞳を見つけ、急いで人を呼んで助け出し、病院に運んでくれたのだという。
「瞳ちゃんの親御さんに連絡しようとしたんだけど、電話繋がらなくて……それで、勝手に蓮に電話しちゃったんだ……」
一人のクラスメイトが気まずそうに小声で説明する。
別のクラスメイトが補足した。その口調には不満と信じられないという思いが滲んでいた。
「病院にいるって伝えて、来てくれって言ったら……蓮くん、なんて言ったと思う?もう別れたから、瞳のことは一切関係ないって!」
瞳は静かに聞いていた。顔には何の表情もない。ただ「一切関係ない」という言葉を聞いた時だけ、唇の端を、自嘲的に歪めた。
……そうか。これが、何年も愛し続けてきた男の成れの果て。
心が冷え切って、氷底のように冷たく固まる。
クラスメイトたちは彼女の様子を見て、気まずさと同情を感じながら、次々と慰めの言葉をかけた。
瞳は体を起こして、クラスメイトたちに安心させるような笑みを向けた。
「蓮の言う通りよ。私たち、本当に完全に別れたの。これから……多分もう連絡を取ることもないと思う」
皆が顔を見合わせる。まだ信じられないようだ。「そんな!二人、一緒に西京大行くって約束してたじゃん!」
瞳は伏し目がちに、静かに答えた。「違うの。蓮は桃果と西京大に行く。私が志望したのは……」
言い終わる前に、病室のドアがバンと開いた!
瞳の両親が焦った様子で駆け込んでくる。
「瞳!大丈夫!?どうして池に落ちたの!?お母さん、とても心配だったわ!」
両親が瞳を囲んで心配そうに様子を尋ね、検査結果を確認する。瞳は二人をなだめた。
ぼんやりとした意識の中で、ドアの隙間に見慣れた長身の影がちらりと見えた気がした。あの見慣れた黒いマウンテンパーカーを着た――
だがはっきりと見ようとした時には、ドアのところには誰もいなくて、行き交う医療スタッフと患者がいるだけだった。
瞳に大きな問題がないことを確認して、両親は退院手続きを済ませた。
瞳はクラスメイトたちにお礼を言って、別れを告げた。
それから一週間以上、瞳は家で体を休めながら、南都大の先輩と連絡を取り、詳しく学校の様子を聞いて、フライトの予約も済ませた。
両親は忙しく準備する娘を見ながら、何度か言いかけては躊躇い、ついに口を開いた。
「瞳、蓮くんの家で入学祝いのパーティーがあるんだって。うちの家族も招待されてるの。どうする……」
瞳は荷物を整理する手を一瞬止めて、それから静かに頷いた。「うん、行く」
入学祝いの日、瞳は両親と共にプレゼントを持って定刻通りに出席した。
蓮と顔を合わせた時、二人は軽く会釈を交わしただけで、一言も話さなかった。
両家の親たちはその様子を見て、察した。この二人、また喧嘩してるんだな、と。
蓮の母が瞳の手を取って、笑いながら取り持とうとする。
「瞳ちゃん、来てくれたのね。中に入って。蓮ったら頑固なんだから。もうすぐ一緒に大学行くんでしょ?お互い歩み寄って、仲直りしなさいね」
蓮の父も蓮の肩を叩いた。「お前は男なんだから、瞳ちゃんをしっかりエスコートしてやれよ」
蓮は冷たい顔で脇に立ち、一言も発さず、視線すら瞳に向けなかった。
瞳は小さく息を吸って、別れたことを告げようとしたその時、玄関から騒がしい声が聞こえてきた。
桃果が大きな向日葵の花束を抱え、華やかな装いで入ってくる。礼儀正しく蓮の両親に挨拶した。
「おじさま、おばさま、こんにちは!蓮くん、お祝いに来ました!」
蓮は桃果を見た瞬間、冷徹だった表情が、氷解するように緩み、目元が柔らかくなった。両親の返事も待たずに、ごく自然に桃果に声をかける。
「来てくれたんだ。さあ、中に入って」
そして、桃果を先導して大広間へと入っていった。瞳と彼女の両親を完全にその場に置き去りにして。
蓮の両親の笑顔が凍りつき、慌てて瞳たちを招き入れた。
「どうぞ中へ。さあ、座って……」
その夜、瞳の両親の視線は、ほとんど蓮と桃果から離れることがなかった。
蓮が桃果に丁寧に料理を取り分ける様子、お酒を勧められた時にさりげなく庇う様子、二人が耳打ちする時の親密で自然な仕草……
両親の表情は次第に疑問から理解へ、そして深い同情へと変わっていった。
トイレに行く合間に、母が瞳の腕を引いて、小声で尋ねた。
「瞳、お母さんに正直に言って。蓮くんと何があったの?わざとあの子とあんな風にして、あなたに意地悪してるんじゃないの……幼馴染でこんなに長い付き合いなんだから、ちょっとしたことで喧嘩しちゃだめよ」
瞳は何年も繰り返してきた別れと復縁を思い出した。短い仲直りの後には、必ずさらにエスカレートした桃果への肩入れと傷が待っていた。
首を横に振る。疲れているが、確固とした口調で答えた。
「お母さん、拗ねているわけじゃないのよ。本気で……彼と完全に終わらせるつもり」
深く息を吸って、ずっと胸に秘めていた決断を打ち明けた。
「実は、志望校変えたの。西京大には行かない。南都大に行く」
両親が驚いて娘を見つめる。一瞬、言葉が出ない。
南都大?西京大とは真逆の方角、ここからは簡単に行き来できない距離だ!
父と母が何か言いかけた――その時、宴会場の中央から悲鳴と、ガラスが砕け散るような破壊音が響いた!
第8話
天井から、巨大なクリスタルシャンデリアが落下してきた――その真下で談笑していたのは蓮と桃果だった!
一瞬の出来事だった。蓮は考えるよりも速く、本能的に体を翻し、その身を挺して桃果をかばったのだ!
ガシャンッ!
轟音と共に、重厚なシャンデリアが蓮の背中と頭部を直撃し、無数のガラス片が弾け飛ぶ。
蓮の口から低く掠れた苦悶の声が漏れる。額から、そして背中から、瞬時に赤い血が飛び散った。彼の体はぐらりと揺らぎ、そのままどさりと床に倒れ込み、意識を失った。
会場は一瞬にしてパニックに陥った。悲鳴、泣き声、怒号が入り乱れる。
すぐに救急車が到着し、血まみれで意識のない蓮を乗せて走り去った。
瞳の両親もまた、顔面蒼白になった娘を連れ、急いで病院へと向かった。
手術中のランプが、永遠のように長く灯り続けていた。
やがて医師が現れ、手術の成功と命に別状はないことを告げると、その場にいた全員が深い安堵のため息を漏らした。
瞳の両親は、魂が抜けたような娘の横顔を見て、小さく息を吐いた。結局、その場では何も言わず、彼女を家に連れて帰ることにした。
帰りの車内は、重苦しい静寂に包まれていた。
しばらくして、母が意を決したように、小さな声で口を開いた。
「瞳……本当にいいの?蓮くんと……別れて」
瞳は窓の外を流れる夜景を見つめたまま、ゆっくりと、そして静かに微笑んだ。その笑みには、深い疲労と、悟ったような諦念が滲んでいた。
「うん、決めた」彼女は言葉を継ぐ。「お父さんもお母さんも、今日見たでしょ。彼が守りたかったのは、彼が好きなのは……もう私じゃない」
バックミラー越しに、娘の穏やかだがひどく蒼白な横顔を見つめる両親の胸が、痛いほどに締め付けられた。
二人は長い沈黙の後、何かを決意したように顔を見合わせた。
父がついに口を開く。その声には揺るぎない力が宿っていた。
「瞳、お前が決めたことなら、お父さんとお母さんは全力でお前を支える」
父はハンドルを握り直した。
「ちょうど、会社の事業を南都市へ拡大しようと考えていたところだ。だったら、家族全員で引っ越そう。会社も家も一緒に移して、大学生活の間もずっとそばにいてやる」
瞳は驚いて両親を見つめた。その瞳に映る、無条件の支持と深い愛情に、目頭が熱くなる。
彼女は大きく頷き、喉を詰まらせながら答えた。「……ありがとう」
これから先、蓮とはもう二度と会うことはないのだろう。
それから半月の間、瞳の一家は静かに、しかし着々と、かつ迅速に荷造りと引越し作業を終えた。
出発の日、手土産を持って蓮の家を訪れ、最後の挨拶をした。
一家揃って引っ越すこと、そして瞳が改めて蓮と完全に別れたことを告げると、蓮の両親は驚愕し、深く落胆した。
「瞳ちゃん、私たちはもう蓮のお嫁さんになってくれると思っていたのに……蓮の馬鹿が、魔が差してあんなことを……」
蓮の母が瞳の手を握りしめ、目を赤く腫らす。
だが瞳は静かに首を横に振り、優しいが、どこか一線を画した口調で答えた。
「おばさま、幼い頃の『約束』なんて、淡い夢のようなものですから。私たちはきっと、きっと、もっと素敵な人に出会えます」
蓮の両親は何度も引き止めたが、瞳の決意が固いと悟ると、深い溜息をつくしかなかった。
出発の時間が迫り、蓮の母が焦ったようにスマホを取り出した。
「蓮に電話するわ!すぐに帰ってきてもらって、瞳ちゃんを見送らせなきゃ!あの子ったら、傷が癒えるなり一日中姿が見えなくて……」
コール音は長く続き、ようやく繋がった。母が早口でまくし立てる。
「蓮、今どこにいるの?すぐ帰ってきなさい!瞳ちゃんが今日大学に出発するのよ。空港に見送りに来て!彼女が……」
電話の向こうで、蓮が母の言葉を遮った。その声は、驚くほど冷淡だった。
「今日出発するの?ふーん。俺、明日桃果と一緒に学校行くから。あいつが行くなら好きにすればいいだろ。俺には関係ないし。見送りに行く暇なんかない。じゃあな」
母が何か言う間もなく、電話は、一方的に切れた。冷たい電子音が、部屋に響き渡った。
第9話
蓮の母は通話の切れたスマホを握りしめ、顔を強張らせ、いたたまれなそうに立ち尽くしていた。
それを見た瞳が、あえて一歩前に出て、優しく蓮の母の腕に手を添えた。
「おばさま、大丈夫です。もう飛行機の時間ですし、お心遣いありがとうございました。彼が忙しいなら仕方ありません。見送りなんて……元々大したことじゃありませんから」
瞳の両親も慌ててその場を収める。
結局、気まずい空気とため息の中で、瞳の一家は蓮の両親に別れを告げ、空港へと向かった。
機体が滑走路を離れ、雲を切り裂くように高度を上げていく。
窓の外、十八年間暮らした街が次第に小さくなり、霞んで、やがて白い雲の下へと消えていく。それを見つめながら、瞳の心は不思議と穏やかだった。
ゆっくりと目を閉じる。
さようなら、蓮……
一方――
蓮は約束通り、桃果に付き添って西京大の入学手続きに来ていた。
終わると、桃果の借りたマンションに荷物を運び、甲斐甲斐しく世話を焼く。
「蓮くん、終わったね?一緒にご飯食べに行かない?」桃果が片付けを終え、花が咲くような笑顔で誘ってきた。
「いや、疲れた。帰って休みたい」蓮は眉間を押さえながら、そっけない口調で答えた。
なぜか、昨日母から電話をもらって以来、心の中に正体の知れない苛立ちが渦巻いていたのだ。
「そっか……」桃果は少し残念そうだったが、無理強いはしなかった。
蓮は桃果の家を出て、午後の日差しを眩しく感じながら目を細めた。
木陰に立ち、無意識にスマホを取り出して、長い間開いていなかったチャット画面をタップする。
これだけ長く距離を置いたんだから、もう怒りも収まっただろう。
今回、これだけ長く放置して、しかも彼女の前で公然と桃果とキスまでした。お灸を据えるには十分すぎるほどだ。
そろそろ、仲直りのきっかけを作ってやる頃合いだろう。
瞳が自分を見た時に浮かべるであろう、悔しそうだけど嬉しさを隠しきれない表情を想像して、唇の端に薄い、勝ち誇ったような笑みが浮かぶ。
今回のことで、あいつも思い知っただろう。これで軽々しく「別れよう」なんて口にできないはずだ。
そう思い至って、蓮はスマホをしまい、新入生受付の窓口へ向かった。
「すみません、舞踊学科の高梨瞳、手続き終えたか教えてください」
受付がパソコンで検索し、顔を上げた。困惑した表情だった。
「すみません、新入生名簿に、高梨瞳という名前はありませんでした」
蓮の顔に浮かんでいた余裕の笑みが、一瞬で凍りついた。「いない?」
眉を深く顰める。「そんなはずない。間違いなく今年の新入生だ。もう一度よく調べてくれ」
スタッフがもう一度念入りに名簿を確認し、さらに全学部の合格者名簿を照合した後、確信を持って首を横に振った。
「本当にいません。舞踊学科だけでなく、学内すべてにこの名前の学生はいません!」
強烈な不安が一気に蓮の心臓を鷲掴みにした。突然で、激しい動悸。
あの日、彼女が通知書を奪い取ったあの時の姿が、脳裏にフラッシュバックする。桃果の電話に遮られて、聞き取れなかったあの言葉が……
馬鹿げている。あり得ない。だが、手足が一瞬で冷たくなるような最悪の想定が、何の前触れもなく頭に飛び込んできた!
荒々しくスマホを取り出し、指先が自分でも気づかないほど微かに震えながら、覚えている番号を押す。
だが、耳元に聞こえてきたのは、冷たく機械的な女性のアナウンスだけだった。
「おかけになった電話番号は、現在、使われておりません。番号をお確かめになって……」