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星月夜の別れ
「橘さん、ご依頼の離婚協議書ですが、作成して送付いたしました。もうお受け取りになりましたでしょうか?」 配達員が弁護士からの書類を届け...
Chương (1)
第1章
「橘さん、ご依頼の離婚協議書ですが、作成して送付いたしました。もうお受け取りになりましたでしょうか?」
配達員が弁護士からの書類を届けた時、橘詩織(たちばな しおり)はちょうど佐藤弁護士と電話で話していた。書類を受け取りながら、彼女は電話口で軽く「ええ、今受け取りました」と相槌を打ち、「佐藤さん、ありがとうございました」と言った。
電話を切った時には、配達員はもう遠くへ行った。詩織は部屋に戻ると、間もなく後ろからドアが開く音が聞こえた。
低くて魅力的な男性の声が遠くから近づき、声の主はやがて彼女の背後に立った。
「詩織、ごめん。ここ数日、出張で忙しくて、仕事ばかりで携帯を見る暇もなかったんだ。だから連絡できなかった」言葉が終わると、橘彰人(たちばな あきと)は詩織の前に回り込み、彼女のお腹に顔を寄せ、目元に笑みを浮かべた。「赤ちゃん、ここ数日、ママを困らせてないかい?」
第1話
「橘さん、ご依頼の離婚協議書ですが、作成して送付いたしました。もうお受け取りになりましたでしょうか?」
配達員が弁護士からの書類を届けた時、橘詩織(たちばな しおり)はちょうど佐藤弁護士と電話で話していた。書類を受け取りながら、彼女は電話口で軽く「ええ、今受け取りました」と相槌を打ち、「佐藤さん、ありがとうございました」と言った。
電話を切った時には、配達員はもう遠くへ行った。詩織は部屋に戻ると、間もなく後ろからドアが開く音が聞こえた。
低くて魅力的な男性の声が遠くから近づき、声の主はやがて彼女の背後に立った。
「詩織、ごめん。ここ数日、出張で忙しくて、仕事ばかりで携帯を見る暇もなかったんだ。だから連絡できなかった」言葉が終わると、橘彰人(たちばな あきと)は詩織の前に回り込み、彼女のお腹に顔を寄せ、目元に笑みを浮かべた。「赤ちゃん、ここ数日、ママを困らせてないかい?」
「彰人さん」
詩織が突然口を開くと、彰人は一瞬虚を突かれたようだった。
彼は詩織より十歳年上だ。以前は彼女はいつも甘えて「おじさん」と呼んでいた。ただ、彼がベッドで求めすぎた時だけ、彼女は泣きながら彼の名前を呼ぶ。
彰人が深く考える間もなく、詩織は手に持っていた離婚協議書を内容が見えないように最後の署名欄があるページを開き、彰人の前に差し出した。
「あの時、赤ちゃんが生まれたらプレゼントをくれるって言ってたでしょう。もう何が欲しいか決めたの。ここにサインして」
彼女の声は平静で波がなかった。彰人はためらいなく書類を受け取った。一番下に素早く自分の名前をサインした。
詩織は彼の動作があまりにも素早いことに驚いた。書類の内容も確認せずにサインするとは思いもよらなかった。「中身も見ないなんて、この書類であなたが破産するかもしれないわ。怖くないの?」
彰人はただ、甘やかすように笑い、彼女の頬をつねった。「僕のものは君のものだ。これから赤ちゃんが生まれたら、君たち二人のものになる」
言葉が終わると、詩織は笑った。
残念だけど、今回、彼女が欲しいのは自由だった。
その言葉が口に出る前に、着信音に遮られた。
彰人の携帯だった。
彰人は慌てて画面を消したが、詩織はそれでも彼の携帯の明るくなった画面に表示された目立つ名前を一瞬で見てしまった――霧島紗雪(きりしま さゆき)。
「会社からだ。ちょっと電話に出てくる」彰人は自然な様子で携帯をしまい、彼女が頷くのを見て、書斎に向かって歩き出した。数歩も歩かないうちに、彼は突然立ち止まり、その場で立ったまま詩織を見た。「そうだ、ここ数日、何度も電話をくれたけど、何かあったのか?」
彼の質問に、彼女の心臓がきゅうとした。結局彼女は首を振って答えた。「ううん、何でもない」
彼女の答えを聞くと、彼はそれ以上尋ねず、まっすぐ書斎へ向かった。
彰人の後ろ姿は、書斎のドアが閉まるとともに詩織の視界から完全に消えた。彼女はうつむいて自嘲気味に笑った。
確かに、たいしたことではなかった。たかが交通事故に遭って、危篤状態で、子供も助からなかっただけ、それだけのことだ。
彼女が交通事故で流産した日、彼に合計七十八回も電話をかけた。ただ、子供の最後の瞬間に立ち会ってほしかった。しかし彼は、帰国したばかりの少年時代の想い人である紗雪と日の出を見るのに付き合っていた。
彼はこの静かなひとときを誰にも邪魔されたくなかった。だから彼女の電話を拒否し、最後には、電源を切ってしまったのだ。
その時になって初めて、彼女は紗雪が彼の少年時代の想い人であり、自分はその代用品に過ぎなかったことを分かった。
詩織は若かったが、それでも分かっていた。心が完全に空になっていなければ、他人の心に入り込んではいけない。彰人は彼女より十歳も年上なのに、どうしてまだこの道理が分からないのだろうか?
サイン済みの離婚協議書を手に、詩織は再び苦笑いした。
彰人さん、そんなに霧島さんを愛しているなら、どうぞ、霧島さんのところへ。もう私には必要ないから。
第2話
詩織は携帯を取り出し、先ほどの弁護士に電話をかけた。電話はすぐに繋がり、彼女が先に口を開いた。
「佐藤さん、離婚協議書はサイン済みです。いつ手続きが受理されますか?」
電話の向こうで、佐藤弁護士も協議書がこんなに早くサインされるとは思っていなかったようで、一瞬驚いた様子だったが、すぐに冷静さを取り戻し、「手続きを進めるには、あと一ヶ月ほどかかります」と答えた。
正確な時期を知ると、詩織は離婚に関する一切の手続きを弁護士に任せることにした。電話を切った後、携帯で三十日間のカウントダウンを設定した。
その夜、彰人は書斎に泊まった。
翌日、詩織が部屋を出ると、ちょうど彼がスーツを着て、出かける準備をしているところだった。
詩織が出てきたのを見て、彼の動きが一瞬止まったが、すぐに普段の落ち着きを取り戻した。
「今日は少し用事があって、妊婦健診には付き添えないんだ。一人で行ってくれるかい?遅くなるけど、帰りに苺ケーキを買ってくるよ」
妊婦健診?
詩織は皮肉に思った。子供はもういないのに、どこに妊婦健診の必要があるというのだろう。
しかし、玄関に立つ彰人を見て、結局何も言わず、ただ頷いた。彼は立ち去らず、逆に自分の顔を指差した。
彼女はその意味が分からないというように、ただ立ち尽くしていた。彼女が反応しないのを見て、彼が口を開いた。「別れのキスも忘れたのか?」
それは二人が結婚したばかりの頃、新婚の甘い時期に決めた約束だった。彰人が出かけるたびに、詩織は別れのキスを送ることになっていた。
しかし今、詩織はただ首を横に振った。「急いでいるんでしょう?先に行って」
「君は本当に、だんだん甘えてくれなくなるな」彰人は苦笑したが、別れのキスにそれ以上こだわることなく、そのまま家を出た。
彼が出て行って間もなく、詩織も服を着替えて家を出た。ただ、彼女が向かったのは病院ではなく、藤堂司(とうどう つかさ)の講演会だった。
司は帰国したばかりだが、今日、大学で講演会を開くと聞いていた。
詩織が着いた時にはすでに少し遅れており、人々が次々と講堂から出てきていた。彼女のそばを通り過ぎる時、彼らの話し声が聞こえてきた。
「藤堂先輩、すごすぎない?若くしてノーベル賞受賞なんて、研究成果が驚異的だよ!」
「本当だね、今回の講演会、聞きに来て本当に良かった」
......
詩織は人の流れに逆らって講堂に入った。講堂の中にはまだ人が残っており、残った人々は一箇所に集まっていた。そして、その中心に囲まれていたのは、まさに今回の講演会の主役――司だった。
司を囲む人が多すぎた。詩織はしばらく様子を見ていたが、人だかりが解散する気配がないのを見て、先に帰ろうとした。
振り返った途端、喜びにあふれた声が彼女の名前を呼ぶのが聞こえた。詩織が振り返ると、司が人混みをかき分けて苦労して出てくるところだった。
「詩織、久しぶりだな」
彼女は目を細め、彼に向かって微笑んだ。「先輩、お久しぶりです」
二人はしばらく世間話をした後、詩織はおずおずと本題に入った。「先輩の研究所に入れていただけませんか?」
司はその言葉を聞くと、すぐに嬉しそうに頷いた。
「いいよ、もちろんだ!」
「詩織、君はかつて学部の天才少女だったじゃないか。入学早々飛び級したのに、ご家族が『女の子は研究より安定した道を』と強く反対されてね。指導教官も残念がっていたよ。結局、君が辞退したから、このポストが僕に回ってきたんだ。もしあの時続けていたら、今の地位も、もしかしたらノーベル賞だって、本来は君のものだったはずだ!」
そこまで話すと、彼は少し心配そうに詩織を見て尋ねた。「でも、この研究所は全部海外にあるんだが、ご家族は賛成してくれるかな?」
詩織は微笑んだ。「あの頃、両親は女の子は苦労しなくていいという考えで私の研究に強く反対し、ついには信頼できる男性と縁談まで持ってきたんです。それで研究を諦めざるを得ませんでした。でも、今は離婚する準備をしているので、これからは自分の生きたい人生を歩むことができます」
詩織が離婚すると聞いて、司は明らかに感情が高ぶった様子で言った。「それなら、いつ出発できるんだ?」
「一ヶ月後です」
司は彼女が笑っているのを見て、自分も笑った。「わかった、待ってるよ」
第3話
「詩織!」
詩織と司が話に夢中になっていると、突然、聞き慣れた声が後ろから聞こえた。彼女は無意識に振り返ると、そこには見慣れた顔があった。
彰人がスーツ姿で背後にすっくと立っており、やや険しい表情で詩織の隣に立つ司を見つめていた。「詩織、紹介してくれないか?」
彰人は普段は落ち着いている。詩織が彼の目に嫉妬の色を見るのは初めてだった。
しかし、なぜ嫉妬するのだろう?彼の心の中には、明らかに紗雪しかいないはずなのに。
「この方は学生時代の先輩、司さんです」詩織は頭の中の考えを振り払い、まず司を紹介し、それから彰人を紹介した。「こちらは......夫の彰人です」
簡単な紹介の後、司と彰人も握手を交わしたが、手を離すと、互いの手には握りしめた赤い跡が残っていた。
二人は何食わぬ顔で手を背後に隠したが、詩織はかすかな一触即発の雰囲気を感じ取った。
詩織は心の中の奇妙な感覚を抑え、司に向かって手を振った。「それでは、私はこれで失礼します。また今度」
詩織は彰人と肩を並べて去っていった。彼女が背を向けた後、司の目に宿った寂しさには気づかなかった。
一方、彰人はそれで彼女を許すつもりはなかった。
「ここで何をしていたんだ?」
「しばらく大学に戻っていなかったので、ふと思い立って、見に来ただけよ」詩織は少し黙ってから、適当な口実でごまかし、彰人について外に出た。そして彼の方を向いた。「あなたは今日忙しいと言っていたのに、どうしてここに?」
言葉が終わる頃には、二人はもう車のそばまで来ていた。
詩織は習慣的に助手席に向かったが、その時、助手席の窓がゆっくりと開けると、噂に聞いていたが見るのは初めての顔が現れた。
詩織の視線が紗雪に向けられているのを見て、彰人は落ち着き払い、顔色一つ変えずに説明した。「昔の友達に会って、一緒に旧交を温めていたんだ」
ごく普通の言い訳だったが、詩織の視線は、彰人が持っている軽食の袋に注がれた。
彼女はふと、彼もこの大学の学生だったことを思い出した。おそらく紗雪もそうだったのだろう。彼らが本当に旧交を温めに来たのか、それとも若い頃の恋愛を懐かしみに来たのかは、彼ら自身しか知らないことだ。
「こんにちは、私が紗雪よ。あなたが彰人さんの奥さんね。とても若くて綺麗な子ね」
紗雪は笑いながら彼女に手を振り、親しげな口調だった。
詩織はかすかに唇を歪めて頷いた。紗雪が席を立つ気配が全くないのを見て、そのまま後部座席に向かった。
もしかしたら、詩織の譲歩が紗雪に勇気を与えたのかもしれない。車中、紗雪は彰人の妻が後部座席に座っていることを全く気にせず、まるで誰もいないかのように彰人とふざけ始めた。
紗雪の腕の中には、先ほど彰人が彼女に渡した軽食があった。
紗雪は笑顔で餡子の菓子を一つ取り、彰人の口元に運んだ。「彰人さん、この餡子の味、本当に昔と全く同じだわ。食べてみる?」
彰人は運転に集中していて深く考えず、顔を横に向けて紗雪が差し出した餡子の菓子を一口かじった。するとすぐに、車内には紗雪の甘えたような声が響いた。
「もう、どうしてそんなに不注意なの、手まで噛んじゃったじゃない!」
彰人は楽しげに目を細めた。ふとバックミラー越しに後部座席の詩織と視線が交わり、明らかに動揺し、慌てて紗雪を押しやった。「詩織、君も食べるか?」
「私はこういうのは食べないの」詩織は視線を逸らし、首を振った。しかし紗雪は長々と語り始めた。
「本当に味見しないの?とても美味しいのよ。昔、私たちがまだ学生だった頃、彰人さんはよく壁を乗り越えて買ってくれたのよ!」
「最初は彰人さんも先生の目から見ても優等生で、壁越えなんて全く知らなかったの。毎回壁を越えるたびに多少の怪我をするものだから、私はそんな面倒なことしなくていいって言ったんだけど、私が好きだからって、彰人さんはわざわざ壁登りを習いに行ったのよ。それからはもう怪我をしなくなったわ」
紗雪の言葉の端々には過去への懐かしさが滲み出ており、過去の彰人が彼女にどれほど優しかったかを物語っていた。
紗雪の視線は絶えずバックミラーに向けられ、詩織の不快な表情を見たがり、彼女の反応を期待していた。しかし、詩織はずっと黙って聞いているだけで、一言も発さず、何の反応もなかった。
最後に、紗雪は皮肉っぽく彰人を一瞥して言った。「あなたの奥さん、ずいぶん大人しいのね」
その言葉を聞いて、彰人は軽く笑った。
「とても素直だよ」
第4話
時間は紗雪と彰人のやり取りの中で過ぎていき、車はすぐに橘家の別荘の前で停まった。詩織は車を降りたが、彰人はまだ車に乗ったまま動かなかった。
彰人は窓を開け、「後で紗雪と同窓会があるんだ。君は妊娠しているから、連れて行くのは大変だろう。先に帰って休んでいてくれ」と言った。
予想していたような引き止めや質問はなく、詩織は振り返って別荘に入った。彼女が背を向けた瞬間には、車はもう動き出しており、徐々に遠ざかっていった。
詩織は彰人が今夜は帰ってこないだろうと覚悟していた。ところが、真夜中に彼女がうとうとと眠っていると、携帯の着信音が鳴り響いた。
手に取って見ると、知らない番号だったが、詩織は誰からの電話か、かすかに察しがついた。
電話に出ると、案の定、向こうから聞こえてきたのは紗雪の声だった。
「彰人さんが酔っ払っちゃったの。迎えに来てくれない?」
その言葉を言うと、紗雪は彼女が反応する時間も与えず、一方的に電話を切った。
詩織はベッドに座り、紗雪から送られてきた住所をしばらくぼんやりと見つめていたが、最終的には起き上がって服を着替え、家を出た。
彼女も見てみたかったのだ。紗雪がわざわざ自分を呼び出して、何をしようとしているのかを。
十五分後、詩織はウェイターに案内されて、彰人がいる個室のドアの前に着いた。ドアは完全には閉まっておらず、一目で、個室の中で親密そうにしている二人の姿を目にした。
あの二人はゲームをしているようだった。彰人と紗雪は同じ一本のポッキーを口にくわえ、周りの囃し立てる声の中で、ポッキーは徐々に短くなり、二人の唇もどんどん近づいていった。唇が触れ合う寸前になっても、誰も避けようとはしなかった。
次の瞬間、彰人の唇が紗雪の唇に重なった。二人とも一瞬呆然としたが、紗雪が最初に我に返り、顔を赤らめ、恥ずかしそうに身を引こうとした。しかし、彼は酔っているようで、次の瞬間、ぐっと彼女の後頭部に手を添え、深く口づけた。
周りからはやし立てる声が満ち溢れていたが、個室の外にいる詩織は、まるで初めて彰人を知ったかのようだった。
彼女の前では、彼がこれほど激しい一面を見せるのは、これが初めてだった。
そう考えると、詩織はまた自嘲気味に笑った。詩織!あなたは何をやっているの?あなたの夫が個室の中で他の人とキスしているのに、ただ外で見ているだけなんて......
詩織は首を振って立ち去ろうとしたが、突然、人影が追いかけてきて彼女の前に立ちはだかった。
目を凝らして見ると、それは紗雪だった。
紗雪の唇は艶やかで、目にはまだ妖艶な光が残っていた。「詩織さん、さっきの場面、全部見ていたでしょう」
「見ていたのなら、分かるはずよ。彰人さんが最初から最後まで好きなのは私だって。彼ほどの男性が、あなたみたいな小娘を本気で好きになるわけがないでしょう。ただ、この顔が少し私に似ていたから、彼の気を引いただけ」
「早く子供を堕ろして出て行くことを勧めるわ。あなただって、将来生まれてくる子供があなたと同じように、毎日可哀想に家で彰人さんの帰りを待ち望むなんて嫌でしょう?」
「彰人さんは遅かれ早かれあなたと離婚して私と結婚するわ。もしあなたが出て行かなければ、いつか捨てられて、親に泣きついて告げ口する羽目にならないようにね?」
「彰人さんは知っているの?」
紗雪は詩織が逆上する様子を見たがっていたが、彼女の言葉に紗雪は眉をひそめた。「何を?」
「彰人さんが長年好きだった人が、裏表のある人間だってことを、彼は知っているのかしら?」
そう言うと、詩織は紗雪の返事を待たずに、まっすぐ個室の中へ歩いて行った。詩織が入ってきた瞬間に静まり返った人々を気にも留めず、彰人を支えて外に出た。
彰人は本当に酔っていた。彰人は泥酔しており、車の後部座席に乗せられた時も、うわ言のように絶えず紗雪の名前をつぶやいていた。
詩織は彰人の寝顔を見つめ、しばらくして冷めた声で呟いた。「彰人さん、もう少し待ってて」
もう少し待てば、すぐにお互い自由になれるから。
彰人が目を覚ましたのは翌日だった。自分がすでに家に帰っていることに気づいて一瞬呆然としたが、昨夜飲みすぎたせいで、昨晩の出来事を全く覚えていなかった。
ベッドのそばでスキンケア用品を塗っている詩織に尋ねるしかなかった。「昨日、どうやって帰ってきたんだ?」
「迎えに行ったのよ」詩織の表情は淡々としていた。
その言葉を聞いて、彰人の顔に一瞬、複雑な表情が浮かび、低い声で尋ねた。「僕は......何か羽目を外すようなことをしなかったか?」
詩織は静かに彼を見やり、首を横に振った。それから口紅を塗ると、出て行こうとした。
彰人は素早く彼女の手を掴んだ。「どこへ行くんだ?」
「先輩に会いに行くの」
その言葉を聞いて、彰人の顔は珍しく曇り、再び彼女を引き戻し、低い声でなだめた。「詩織、これからは彼から少し距離を置け。君を見る彼の目つきがおかしい」
彼女がすぐに承諾すると思っていたが、意外にも彼女はまっすぐ彼を見つめた。「何がおかしいの?あなたが紗雪さんを見る目つきと同じじゃない?」
「紗雪は僕の友達にすぎない」何か心の内を見透かされたように、彰人の顔は少しこわばったが、彼女は譲らなかった。「先輩も私の友達だ」
彼は言葉に詰まり、少し頭痛がするようにこめかみを押さえた。「詩織、他のことは君の言う通りにするが、この件だけは僕の言うことを聞いてくれ。僕は男だ。男が何を考えているか分かる」
そう言うと、また彼女をなだめようとするかのように、ベッドサイドの引き出しを開けに行った。「いい子だから、行かないでくれないか。ほら、出張前に君にプレゼントを買っておいたんだ。今日ちょうど渡せる」
引き出しが開けられた瞬間、中から一枚の書類が滑り落ち、ぱさりと音を立てて彰人の足元に落ちた。それは、離婚協議書!
第5話
彼が身をかがめ、その書類を拾い上げて詳しく見ようとしたが、詩織が素早く落ちた書類を奪い取った。
彰人の視線は彼女の動きを追い、彼女が抱える書類に注がれた。何かを悟った。「これは前に僕にサインさせた書類か?」
詩織は彼が中身をはっきりと見ていなかったことを知り、ほっと息をつくと同時に頷いた。彼は途端に失笑した。
「何をそんなに大事にしているんだ?君にあげたものは君のものだと言っただろう。君が何をしようと構わないさ」
彼女はその言葉には答えず、彼が再び深く追求するのを恐れて、先ほどの話題に変えるしかなかった。「プレゼントを買ってくれたって言ってたけど、何?」
「行こう、見せてあげる」彼女が尋ねるのを聞いて、彰人はやっと本来やろうとしていたことを思い出し、引き出しから鍵を一つ取り出して彼女に向かって振ってみせた。
目的地に着くと、そこは一軒の別荘だった。
彰人は詩織を連れて別荘の中に入りながら、中のレイアウトを紹介した。「前に、家の内装が古臭くて、自分の家って感じがしないって言ってたろう?新しく一軒買って、全部君の好きなスタイルで内装したんだ」
裏庭を通り過ぎる時、一面の紫色の胡蝶蘭が詩織の目に飛び込んできた。彰人の優しい声が彼女の耳元で響いた。「君が胡蝶蘭が好きだと言っていたから、わざわざ人に頼んで裏庭に一面に植えてもらったんだ」
そう言うと、彼はまた彼女を連れて先へ進み、主寝室の隣にある子供部屋へ直行した。ドアが開けられると、中には赤ちゃん用品がいっぱい置かれていた。
彰人は後ろから詩織を抱きしめ、彼が想像する未来を一つ一つ語りかけた。それは甘く、深い愛情に満ちていた。
「僕たちの子供が生まれたら、ここに住まわせよう。僕たちの時間も大切にできるしね」
「ねえ、僕たちの子供が生まれたら、どんな名前がいいと思う?」
「君は詩織だから、そして僕は詩織を愛しているから......そうだ、君の名前から一字取って、愛織(まおり)なんてどうだろう?」
詩織からまだ返事がないことに気づき、彰人が顔を下げると、彼女がいつの間にか涙で顔を濡らしていることに気づいた。
彼は少し不思議そうに彼女の涙を拭ってやり、全く深くは考えなかった。
「どうしてこんなに感動しているんだ?」
詩織は彼に涙を拭かれるままにしていたが、彼の質問には答えなかった。
彼女だけが知っていた。彼女が涙を流しているのは、感動したからではないことを。
その時、突然ドアの外から聞き覚えのある女性の声がした。「彰人さん、詩織さん、奇遇ね!」
紗雪だった。
紗雪は満面の笑みで入ってきて、入るなりすぐに彰人の方を見た。
「私もこの別荘が気に入ったのよ。でも仲介業者に聞いたら誰かが買ったって。あなたたちだったのね。彰人さん、私、帰国したばかりで住むところがないの。この家、私に譲ってくれない?」
問いかけの形ではあったが、紗雪の目には、それが自分のものになることを疑っていないかのような輝きがあった。
案の定、紗雪が口を開くと、彰人の普段は落ち着いている表情が微妙に変化した。彼は詩織を見て、瞳に少し暗い色を帯びた。
もしこれがただの普通の別荘で、ましてや妻に贈ると宣言する前であれば、彼はためらうことなく承諾しただろう。
しかし、よりによって今、彼がこの別荘を詩織に贈ると言ったばかりの時だった。
「人のものを横取りするのは良くないと分かっているわ。ただ、私は本当にこの別荘が好きなの。それに、かなり急いでいて、すぐにこんなに気に入る家を見つけるのは難しいのよ」
「彰人さん、今回だけ譲ってちょうだい!」
明らかに甘えたような響きを帯びた紗雪の言葉を聞き、しばらくためらった後、彰人はついに決心し、頷いて承諾してから、詩織の方を向いた。
「詩織、どうせ子供はまだ生まれていないんだ。この別荘は紗雪に譲ろう。後で君には全く同じものを買ってあげるから」
第6話
詩織はただ笑うだけで、頷きも首を横に振りもしなかった。
どうせ彰人の心の中ではもう決まっているのだから、彼女の態度など重要ではない。
それに子供のこと......
子供はとっくにいなくなっているのに、彼はまだ知らない。
感謝の印として、紗雪は詩織と彰人を食事に誘った。予約したレストランに着き、料理がちょうど運ばれてきたところで、また彰人の携帯が鳴った。
彰人は詩織に携帯を示し、立ち上がると別の方向へ歩いて行った。「先に食べていてくれ。ちょっと電話に出てくる」
詩織は静かに食事をしたかっただけなのに、紗雪は彼女の思い通りにさせたくないようだった。
うつむいて黙々と食事をする詩織を見て、紗雪は突然口を開いた。「ほらね、たとえ彼があなたにプレゼントしたものでも、私が欲しがれば、彼はやっぱり私にくれるのよ」
「お嬢ちゃん、まだ諦めないの?今、物分かりよく自分で子供を堕ろして出て行けば、まだ少しは体面を保てるわ。もし、彰人さんがあなたに飽きて追い出すのを待つつもりなら、その日には、あなたは社交界の笑いものになるわよ」
詩織は眉をひそめ、ただ紗雪がやかましいと感じた。
彼女には理解できなかった。相手に家庭があると知りながら、どうしてまだしつこく付きまとい、相手の配偶者に対してあんな大口を叩けるのだろうか?
「もう言い終わった?」詩織はようやく顔を上げたが、その反応は紗雪が想像していたものとは全く違っていた。
悲しみも、悔しさも、怒りさえもなかった。
彼女は少し不満で、何か言おうとした瞬間、視界の隅に戻ってくる彰人の姿をを捉え、それまでの傲慢な表情が一変した。テーブルの上の熱いスープを手に取り、自分の体に向かってぶちまけた。
「きゃっ!」
彰人が響き渡った悲鳴を聞いて慌てて駆けつけ、紗雪のそばに来た。彼女もタイミングよく彼の腕の中に倒れ込み、彼にしっかりと受け止められた。
そして、紗雪は顔を上げ、目に涙をいっぱいためて、顔には悔しさが満ちていた。
「彰人さん、詩織さんを責めないで。あの別荘を譲ってくれたから、詩織さんが腹を立てるのも無理はないわ」
悔しさを押し殺したような声と、その可哀想な表情は、瞬く間に彰人の心を痛ませた。その時になって初めて、詩織はようやく立ち上がり、まっすぐ彼を見つめた。「私じゃない。私が彼女にかけたわけじゃない」
「詩織、いくら不満でも、手を出して人を傷つけるべきじゃない!」
彰人の目には明らかに不信感が宿っていた。しかし、紗雪の青ざめた顔色を見て、これ以上説教する余裕もなく、紗雪を抱き上げると急いで立ち去った。
詩織は病院へは行かず、一人で家に帰った。彰人が帰ってきたのはもうかなり遅い時間だった。彼女と会う時、珍しく冷たい顔をしていたが、それでも辛抱強く彼女に折れるよう説得した。
「紗雪は重度の火傷だ。君は謝りに行くべきだ」
しかし詩織は頑固に首を横に振り、ただその一言を繰り返すだけだった。「私はかけていないし、謝りにも行かない」
彰人はこめかみを押さえ、ついに我慢できずに二言三言、非難した。
「君はあまりにもわがままだ。紗雪は結局、僕の友達なんだ......」
果たして友達なのか、それとも想い人なのか?
詩織はじっと彼を見つめ、口から出かかった言葉をまた飲み込んだ。「信じないなら、監視カメラを確認すればいい」
彰人は彼女が子供っぽいのだけだと思い、もうそれ以上説得するのをやめ、直接彼女の手を引いてドアの方向へ向かおうとした。
彼が直接病院へ連れて行って謝らせようとしているのが分かった。しかし、していないことに対して、どうして謝らなければならないのか?
詩織は必死にもがき、彼が掴んでいる手を振り払おうとした。もがくうちに彰人は手を離したが、詩織はバランスを崩してまっすぐ後ろに倒れ込んだ。
ドン!
詩織の額がテーブルの角に強く打ち付けられ、一瞬にして血がどっと流れ出した。激しい痛みの中で、彼女はただ何かが自分の額から滑り落ち、視界を遮り、一面の真っ赤な色だけを残したように感じた。
「詩織!」
彰人はこんなことが起こるとは思っておらず、動揺して慌てて彼女を抱き上げて家を出て車に乗せ、病院へと急行した。
第7話
傷は深く、詩織の額は十数針も縫われた。
彼女の処置が終わるまで、彰人はようやく安堵の息をついた。彼はふと、自分が一体、年下の彼女に対してなぜあんなに意地を張っていたのかと後悔し始めた。
「詩織、ごめん。全部僕が悪かった。謝りたくないなら謝らなくていい。僕が彼女に償いをすればいい。全て任せてくれ」
最初から最後まで、詩織はずっと無表情だったが、心臓はとっくに息もできないほど痛んでいた。
この瞬間になっても、彼はまだ彼女が子供のように意地を張って謝罪を拒んでいると思っている。すでに監視カメラの確認を提案したのに、彼はまだ無意識のうちに紗雪をかばっているのだ。
なぜなら、彼は紗雪を愛しているから。
だから彼は監視カメラを確認したがらない。
だから彼は紗雪の言葉を深く信じ込み、彼女が紗雪にスープをかけたのだと決めつけた。
ちょうどその時、医者もやって来て、名前を確認した後、患者の注意事項を丁寧に説明した。
彰人は注意深く聞き、医者が話し終えたのを見て、ようやく子供のことを尋ねた。「お腹の子供はどうですか、大丈夫ですよね?」
その言葉を聞いて、医者は驚いて再びカルテをめくり返し、答えた。「何の子供ですか?橘さんのお腹には......」
言葉が言い終わらないうちに、携帯の着信音に遮られた。彰人は携帯を取り出し、画面の名前を見るとためらうことなく電話に出た。
電話の向こうが何を言ったのか、彼の表情がわずかに変わり、ろくに挨拶もせず、そのまま病室の外へと急いで出て行った。
彼の背中がドアの向こうに消えるのを見て、詩織はうつむき、心にわずかな苦い思いがよぎった。
彰人さん、あなたは真実を知る最後の機会を逃したのよ。
それからの数日間、彰人は二度と戻ってこなかった。代わりに、紗雪が毎日彼女にメッセージを送ってきた。
一日目は、彰人が紗雪に物語を読んで寝かしつけている様子。
二日目は、彼が彼女に丁寧に冷ましたお粥を食べさせている様子。
三日目は、彼が自ら彼女の髪を乾かしている様子。
一方、詩織は額を十五針も縫ったのに、彰人が一度見舞いに来るのを待っていたが、それさえ叶わなかった。
詩織が退院する日になって、彰人はようやく現れた。
退院手続きを終えた後、詩織は彼について駐車場まで歩いて行った。今回も助手席にはすでに人が座っていた。
窓が開けられて、助手席にいたのはやはり紗雪だった。
詩織は紗雪と同じ車に乗りたくなくて、別のタクシーを拾って帰ろうとしたちょうどその時、紗雪が詩織に向かって手を振った。その動きで、紗雪の首にかかっていた玉のペンダントが現れた。
詩織の立ち去ろうとする動きが止まり、視線はその玉のペンダントに釘付けになった。
そのペンダントに見覚えがあった。それは母親が詩織に贈ったお守りのペンダントだった。
詩織はこのペンダントを十数年間、肌身離さず持っていたが、彰人と結婚した日に、彼を守って欲しい願いを込めて、それを彼に譲り渡した。
詩織の瞳は真剣な色を宿していた。「これからあなたが私の夫になるのなら、母が私のために願ってくれたお守りのペンダントをあなたにあげるわ。あなたが生涯、無事でいられるように」
その時、彼は喜んでそのペンダントを受け取り、笑って彼女にキスをした。「僕は無事でいるよ。そうすれば、君を一生甘やかすことができるから」
そして今、このペンダントが紗雪の身につけられている。
「どうしてそれが彼女のところに?」詩織は手を挙げてそのペンダントを指差したが、視線はまっすぐ彰人を見ていた。
彰人は彼女が指差す方向を見て、ペンダントを目にした途端、ようやく結婚式の夜のことを思い出したようだった。
彼の表情がこわばり、一瞬、どう説明すればいいのか分からなくなった。
最後に、紗雪が彼を助け舟を出した。「詩織さん、怒らないで。彰人さんが私に償いをしたいって言って、私がこのペンダントを気に入ったから、彰人さんがくれたのよ」
詩織はただ、体から最後の気力も完全に抜けていくのを感じた。彰人は彼女の様子を少し心配そうに見て、彼女が路上で騒ぎ出すのではないかと恐れていた。
ところが、彼女はただ彼を見つめ、しばらくして、ようやく口を開いた。
「霧島さんにあげて。全部、霧島さんにあげてしまいなさい」
別荘も霧島さんに、ペンダントも霧島さんに、あなたさえも、私は霧島さんにあげたのだから。
第8話
彰人はまず詩織を別荘に送り届け、彼女が車を降りるのを待ってから言った。「家に戻って、大人しく待っていてくれ。ちょっと紗雪を家まで送ってくるから」
詩織は何も言わず、ただ黙って別荘に入った。
車のエンジンがかかる音が背後で響き、また徐々に遠ざかっていったが、彼女は振り返らなかった。
別荘に戻ると、詩織は持ち物を整理し始めた。不要なものを捨てたり、処分したり、寄付したりして整理した。
しかし、この整理を通して初めて、詩織は二人が結婚してまだ三年しか経っていないのに、共有する思い出が、驚くほどたくさんあったことに気づいた。
アクセサリーケースの中のアクセサリーは、ほとんどが彼から贈られたものだった。ブレスレットから、ネックレス、ヘアピン、ブローチまで。
詩織はアクセサリーケースを取り出し、それらのアクセサリーを全てしまい込んだ。ふと目を上げると、ベッドのヘッドボードに掛けられた淡い紫色のドリームキャッチャーが目に入った。
それは結婚一年目の時に彰人が彼女のために手作りしたものだった。
結婚したばかりの頃、彰人は本当に優しかった。その年、詩織は二十歳で、まだ先生のもとで実験をする学生だった。両親は彼女が研究を続けることに反対し、彼女が研究室を離れて間もなく、彼と結婚させた。
身分が一夜にして人妻に変わり、夢見ていた実験からも離れ、言いようのない不安に襲われた。彼女は来る日も来る日も眠れず、たとえやっと眠りについても、悪夢を見て驚いて目を覚ますことが多かった。
彰人は様々な方法を試したが、ほとんどが数日間しか効果がなかった。
その後、彼がどこでドリームキャッチャーのことを聞いたのかは知らないが、彼はそれを手作りすることを学び、彼女のために一つ作ってベッドの頭に掛けてくれた。「このドリームキャッチャーがあれば、僕のお嬢ちゃんは悪夢を追い払えるよ」と言って。
本当にドリームキャッチャーが効いたのか、それとも彼の優しさの中で彼女の不安がついに和らいだのかは分からないが、その日以来、彼女は本当に二度と悪夢を見なくなった。
今、彼女はそのドリームキャッチャーを取り外し、それを段ボール箱の中に放り込んだ。
詩織が服を整理していると、クローゼットの中から一冊のアルバムが出てきた。アルバムを開いてみると、それは彼らがこの数年間一緒に撮った写真だった。
彼女が彼と過ごした最初の誕生日、彼の顔には彼女が塗ったクリームがたくさんついていた。彼女に合わせてこの写真を撮った時、彼女を見る彼の目には甘やかすような眼差し、そして懐かしさが満ちていた。
何を懐かしんでいるのだろう?彼女のこの少し似た顔を通して、遠い異国にいて、共にいることのできなかった少年時代のすれ違いを懐かしんでいるのだろうか?
詩織はもう見続ける気になれず、分厚いアルバムも段ボール箱の中に放り込まれた。
彼女は自分に関係するものを全て整理し終えた。そして最後の一つは、彼女の結婚指輪だった。
彼女は結婚式の日に、彰人が彼女にこの指輪をはめてくれた時、彼女に忠誠を誓い、永遠に続くと言ったことを覚えていた。
今日に至って、詩織はその言葉を言った時、心の中にいたのが本当に彼女だったのか、それとも紗雪だったのか、少し確信が持てなくなっていた。
最後に整理し終えた時、空はすでにかなり暗くなっており、彰人もちょうど帰ってきたところだった。
彼はぐるりと部屋を見回し、心に奇妙な感覚が湧き上がった。「たくさん物を捨てたのか?なんだか家の中がずいぶん空っぽになった気がするが」
「ただ大掃除をしただけよ。ここに属さないものを全部捨てたの」詩織の表情は全く変わらなかった。最後の言葉は口に出さなかった。
私も含めて。
彰人は疑うことなく、身をかがめて彼女のお腹に近づき、注意深く耳を澄ませてから、疑問の声を上げた。「最近、どうして子供の心音が全く聞こえないんだろう?」
彰人の疑問を聞いて、詩織は淡く笑うだけで何も言わなかった。
子供の心音なんか聞こえるはずがない。なにしろ子供はとっくに一ヶ月前にいなくなってしまったのだから。
彰人はそれに全く気づいておらず、彼女が答えなかったので、彼もそれ以上尋ねなかった。代わりに立ち上がって再び彼女を抱きしめた。
「詩織、僕と紗雪は本当に何でもないんだ。別荘を彼女に譲ったのは、彼女が女の子一人でずっとホテル住まいなのは不便だからだ。ペンダントの件は僕の配慮が足りなかった。僕が改めて彼女に別の償いの品を用意したら、ペンダントは取り返すから」
彰人は優しくなだめながら、まだ機嫌を損ねていると思っている年下の妻に続けて言った。「ずいぶん長い間、君を寝かしつけていなかったな。今日は君と赤ちゃんのそばで寝るよ、いいだろう?」
詩織は彼の抱擁を拒まなかったが、彼の言葉にも応えなかった。彼に抱きかかえられて寝室へ向かった。
しかし、寝室に入ったばかりのところで、彰人にメッセージが届いた。彼はちらりとそれを見て、何か返信しながら急いで外へ向かった。
行く前に、詩織に一言言い残すのを忘れなかった。「詩織、会社で急に処理しなければならないことができた。先に一人で寝ていてくれ。すぐに戻るから」
第9話
詩織は頷き、引き止めはしなかった。彰人の後ろ姿が完全に見えなくなってから、寝室に戻った。
横になった途端、ベッドサイドに置いてあった携帯が光った。詩織が横目でちらりと見ると、紗雪からだった。
タップして開くと、それは紗雪と彰人のチャット履歴のスクリーンショットだった。
紗雪:彰人さん、今日、昔あなたに書いたラブレターをいくつか見つけたの。見に来たい?来ないなら、燃やしちゃうわよ。
彰人の返信は早く、ただ短い言葉だけだった。
彰人:燃やすな、待ってろ。
彰人はすぐに戻ると言ったものの、実際にはその後二日間、彼は帰ってこなかった。
説明もなく、電話一本もなかった。
幸い、今の詩織はもう彼の行き先を気にしていなかった。
離婚を決めてから一ヶ月後の最終日、彼女はついに佐藤弁護士に電話をかけた。
「一ヶ月経ちましたが、手続きは終わりましたか?」
「はい、離婚届受理証明書を受け取りに行けますよ」佐藤弁護士の声が電話の向こうから聞こえ、声には心からの喜びが感じられた。「桜井さん、これからの新しい人生、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
一ヶ月ぶりに、旧姓の桜井(さくらい)にもどれる詩織の顔に心からの笑顔が浮かんだ。電話を切ったばかりなのに、再び着信音が鳴った。携帯の画面に表示された司という名前を見て、ふと先日、彰人が言った言葉が頭に浮かんだ。
「君はこれから、あの司という男から少し距離を置け」
「僕は男だ。男が何を考えているか分かる」
彰人の言葉がまだ耳元で響いていたが、詩織の手の動きは全く止まらず、まっすぐに通話ボタンを押した。「先輩」
詩織は彰人の一言で自分の交友関係や夢を諦めるつもりはなかった。ましてや離婚届受理証明書を手に入れれば、彼らにはもう何の関係もなくなるのだ。どうして彼の一言で、前へ進む足を止めなければならないのだろうか?
すぐに、彼女の思考は司の声によって呼び戻された。「詩織、一ヶ月経ったが、予定通り出発できるか?」
詩織の声には隠しきれない喜びが込められており、「はい、今日にでも出発できます」と答えた。
「わかった、待ってるよ」
司の声が途切れ、電話も切れた。詩織は服を着替え、離婚届受理証明書を受け取りに出かける準備をした。玄関に着いた途端、突然ドアが開けられ、黒いコートを着た彰人がドアの外に立っていた。満面の笑みを浮かべる彼女を見て、彼は一瞬呆然とした。
彰人は少しぼんやりと、彼女がこんなに楽しそうに笑うのを、ずいぶん見ていないような気がした。
「そんなに嬉しそうにして、どこへ行くんだ?」言葉が終わるか終わらないかのうちに、彰人は何かを思い出したかのように、合点がいったような笑みを浮かべた。「病院へ検診に行く準備か?一緒に行こう」
詩織は一瞬戸惑い、説明しようとしたが、彰人はすでに彼女を車に乗せていた。
彰人が車を発進させようとしたちょうどその時、詩織はもう我慢できなくなり、真実をありのまま告げようとした。しかし、よりによってその時、彰人のポケットの携帯が鳴った。
発信者:紗雪。
彰人は少し表情を引き締め、結局は車を降りて電話に出ることを選んだ。
詩織は静かに車の中に座り、彼が自分に背を向けて何かを話しているのを見ていたが、間もなく彼はまた戻ってきた。
「詩織、少し用事ができて離れなければならなくなった。すぐに戻るから、先に一人で行ってくれ。エコー写真をもらったら僕にも見せてくれ、いいだろう?」
いつもの子供をあやすような口調だったが、彼女は何も言わず、素直に車を降り、そして彼の車が遠ざかっていくのを見送った。
それからタクシーを拾った。目的地は病院ではなく、区役所だった。
三十分後、詩織は出来立てほやほやの離婚届受理証明書を手に、氏名変更の手続きを済ませて、別荘に戻った。
詩織は離婚届受理証明書をリビングのテーブルの上に置き、彼にメッセージを送った。
「取りに行ったもの、テーブルに置いていた」
メッセージを送ると、向こうからはすぐに返信があり、いつもの甘やかすような口調が混じっていた。
「僕を待っていてくれ。一緒に赤ちゃんの最近の様子を見よう」
その言葉を見て、詩織は自嘲気味に笑い、説明も返信もせず、ただ携帯のSIMカードを取り出し、へし折り、ゴミ箱に捨てた。一連の動作は淀みなかった。
荷物はとっくにまとめられており、今はただ持って行くだけだった。
スーツケースを引きずって橘家の別荘を出る時、彼女は最後に、三年間暮らしたこの別荘を見つめた。
「彰人さん、これからはあなたも私も、自由よ」
「さようなら」
そう心で呟くと、彼女は振り返らず外へと歩き出し、二度と振り返ることはなかった。