禁欲の夫と決別する

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禁欲の夫と決別する

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西園寺聖(さいおんじ ひじり)を数え切れないほど誘惑した。それでも初夜を迎えることに失敗した後、秋月鹿乃子(あきづき かのこ)は兄に電話...

Chương (1)

第1章

西園寺聖(さいおんじ ひじり)を数え切れないほど誘惑した。それでも初夜を迎えることに失敗した後、秋月鹿乃子(あきづき かのこ)は兄に電話をかけた。 「兄さん、私、離婚しようと思う」 電話の向こうで沈黙が流れ、やがて秋月臨也(あきづき いざや)の低い声が響いた。 「言っただろう。西園寺聖という男は、お前が俗世に引きずり下ろせるような相手じゃないんだ」 鹿乃子は赤い目をして笑った。 「そうね。私が身の程知らずだったわ」 「D国に来い」 臨也の声は明るかった。 「こっちにはいい男が山ほどいる。聖なんかに負けやしない。俺のこんなに可愛くて手のかかる妹を大事にしないなんてな。あいつについては、一生孤独のまま腐ればいいさ」 第1話 西園寺聖(さいおんじ ひじり)を数え切れないほど誘惑した。それでも初夜を迎えることに失敗した後、秋月鹿乃子(あきづき かのこ)は兄に電話をかけた。 「兄さん、私、離婚しようと思う」 電話の向こうで沈黙が流れ、やがて秋月臨也(あきづき いざや)の低い声が響いた。 「言っただろう。西園寺聖という男は、お前が俗世に引きずり下ろせるような相手じゃないんだ」 鹿乃子は赤い目をして笑った。 「そうね。私が身の程知らずだったわ」 「D国に来い」 臨也の声は明るかった。 「こっちにはいい男が山ほどいる。聖なんかに負けやしない。俺のこんなに可愛くて手のかかる妹を大事にしないなんてな。あいつについては、一生孤独のまま腐ればいいさ」 「うん、手続きが終わったら行く」 彼女は静かにそう答えた。 電話を切った鹿乃子は深く息を吸い、廊下の突き当たりにある聖の部屋を通りかかったとき、ふと中から押し殺したようなうめき声を耳にした。 扉は完全に閉まっておらず、隙間から一筋の光が漏れている。彼女は吸い寄せられるように、震える瞳で中を覗き込んだ。 立ち込める香の煙の中、聖は祭壇の前に跪いていた。純白の和装の胸元は乱れ、手首には古びた念珠が巻き付いている。 しかし、彼の体は微かに揺れ動いていた。その身の下にあるのは、一体の人形だった。 揺らめく光に照らされたその人形の顔は、はっきりと見て取れた。大きな瞳、桜色の唇、左目の泣きぼくろ。 それは紛れもなく、彼の義理の妹、西園寺梨花(さいおんじ りか)の姿そのものだった。 鹿乃子は血の味がするほど強く下唇を噛み締めた。 これで、目撃するのはもう三度目だ。 一度目は部屋を飛び出し、二度目は一晩中眠れなかった。そして今夜、彼女が感じるのはただの麻痺だけだった。 なんて滑稽なのだろう。彼に情欲がないわけではない。ただ彼の欲望が、自分に向けられることは決してないというだけなのだ。 冷たい壁に背を預け、彼女はふと、初めて聖に出会った日のことを思い出した。 あの年、彼女は二十歳だった。兄に連れられて会員制クラブのパーティーに行き、兄の親友を紹介されたのだ。 あの日、聖は白いスーツの姿で、襟元には蓮の飾りをつけ、手首には念珠をはめていた。享楽にふける御曹司たちの中で、彼だけが目の前に茶を置いていた。 伏し目がちにお茶を淹れる長い指、注がれる水流、立ち上る湯気。ふと彼が顔を上げ、こちらを見た。 その瞬間、鹿乃子の心臓は早鐘を打った。 それを見ていた兄は、笑いながら彼女の額を小突いた。 「よせよせ、可愛い妹よ。誰を好きになってもいいが、あいつだけは駄目だ。俺たちみたいな跡取り連中は遊び慣れているが、西園寺聖だけは別だ。幼い頃から厳格な修行を積んできて、色恋沙汰とは無縁の男だからな」 彼女は信じなかった。幼い頃から恐れ知らずだった彼女は、この世に本当に無欲な人間などいるはずがないと思ったのだ。 それから彼女は彼につきまとい、あらゆる手を使って誘惑した。 彼が瞑想している時にわざと膝の上に座れば、片手でつまみ上げられて横に置かれた。 お茶に薬を盛れば、彼は飲み干した後、「次は茶葉の量を減らしてくれ。のぼせる」と淡々と言うだけだった。 一番酷かったのは、彼が離れに籠もっている間に忍び込み、彼の白いシャツだけを羽織ってベッドに横たわっていた時だ。 聖が入ってきた時、彼女はわざとベッドから足を投げ出して揺らしてみせた。 結果、彼は踵を返して出て行き、翌日には新品のシャツが箱で送られてきた。 「これからはこれを着ろ。俺のを盗むな」という伝言と共に。 兄の臨也も呆れ果てていた。 「お前、もうプライドを持てないのか?」 鹿乃子は胸を張って答えた。 「私は彼を救っているの!あんなにいい男が禁欲生活なんて、社会的な損失でしょ!」 四年かけて彼を追いかけ、全身全霊を尽くしたが、彼の心を掴めなかった。 鹿乃子が諦めかけていたある年の誕生日、深夜に聖から電話がかかってきた。「下にいる」と。 パジャマのまま駆け下りると、彼は雪の中に立ち、肩に雪を積もらせていた。 「結婚しよう」 彼はそう言った。指輪もなければ、愛の告白もない。ただその一言だけ。 それでも鹿乃子は狂喜し、彼に飛びついた。 「やっと私に心が動いたのね?」 聖は抱き返さず、ただ静かに「ああ」と答えただけだった。 今にして思えば、あの「ああ」がどれほど適当なものだったか。 結婚して二年、二人は一度も結ばれることはなかった。 どんなに誘惑しても、彼は最後の瞬間に背を向け、一人であの部屋へと去っていく。 彼女はずっと、彼が厳格な修行のせいで時間がかかっているのだと思っていた。 三日前、諦めきれずに彼の後を追ってあの部屋に入り、あの光景を目にするまでは。 そしてようやく理解したのだ。彼に欲望がないわけではない。ただその対象が、自分ではないだけだと。 彼が愛しているのは、幼い頃に西園寺家に引き取られた義妹、梨花だった。 彼が精神統一をし、念珠を身につけ、自分と結婚したのは、すべて義妹への欲望を断ち切るためだったのだ! その瞬間、鹿乃子の心は完全に死んだ。 部屋の中で、聖はようやく動きを止めた。 「梨花……」 彼は人形の首筋に口づけ、ひどくしわがれた声で呟いた。 「愛している……」 その声は極めて小さかったが、錆びた針のように、既に穴だらけになっていた彼女の心臓を突き刺した。 鹿乃子の目からついに涙がこぼれ落ちた。彼女は背を向け、二度と振り返ることなくその場を去った。 翌朝、鹿乃子が目覚めると、聖は既に身支度を整え、出かけるところだった。 黒のオーダーメイドスーツが彼の長身を引き立て、手首には相変わらず念珠が巻かれている。昨夜の乱れた姿がまるで幻だったかのように。 彼が屋敷を出ようとしたその時、鹿乃子は彼を呼び止めた。 「待って!」 「今日は会議がある」 彼は顔も上げずに言った。その声は氷水に浸すように冷たい。 「まとわりつくな」 その言葉は鈍い刃となって、彼女の最後の期待をゆっくりと切り裂いた。 結局、彼の目には、自分はいつまでもまとわりつく厄介者でしかなかったのだ。 鹿乃子はふと笑みを浮かべた。 「誤解しないで。例の高級車を貸してほしいだけよ。あなたはガレージにある別の車で行って。私、あれが運転しやすいの」 聖はようやく彼女を正視したが、その口調は相変わらずそっけなかった。 「今日は出かけるのか?」 彼女は頷いた。 「ええ」 彼は珍しく問い重ねた。 「何の用だ?」 鹿乃子は彼のスーツのポケットから鍵を抜き取り、口元に微かな笑みを浮かべた。 「あなたを……喜ばせる用事よ」 永遠に、あなたの前から消えてあげるのだから。 第2話 鹿乃子は最後の言葉を飲み込み、踵を返して車に乗り込むと、在留管理庁へと向かった。 D国の永住権申請の手続きは複雑ではない。特に自分のような家柄の人間にとっては。 数年前、秋月家の事業はすべて海外に移転し、両親も兄も海外へ移住していた。自分だけが、聖のためにこの国に残っていたのだ。 そして今、自分もまた去ろうとしていた。 「手続きには一週間ほどかかります」 担当者が微笑みながら言った。 彼女は頷き、受領証を受け取って在留管理庁を出た。 やっと終わる。 西園寺聖。六年間追いかけ続け、俗世に引きずり下ろせると思っていたあの高潔な聖人は、結局自分のものではなかった。 彼のために多くのものを諦めた。精進料理に付き合い、禁欲的な生活に合わせ、本来の奔放な性格さえも押し殺した。少しでも彼に近づくために。けれど結局、彼の心の奥底にある渇望に触れることさえできなかった。 彼女は手の中の受領証を見つめ、自嘲気味に笑ったが、胸の奥は痛んだ。 いいわ、聖。あなたが私を愛さなくても、私を愛してくれる人は他にいくらでもいる。 その夜、彼女は友人たちを誘ってクラブへ繰り出した。 聖と結婚して以来、こうした場所には長く顔を出していなかった。 今日、彼女は黒のキャミソールワンピースを身に纏っていた。歩くたびに裾が揺れ、長い脚が覗く。その瞳には久しく忘れていた得意気の光が宿っていた。 「鹿乃子、今日はいったいどうしたの?」 友人の藤原夏美(ふじはら なつみ)が驚いたように彼女の腕を掴んだ。 「あの堅物の聖人様に惚れてから、毎日彼を追いかけ回して、こういう場所には二度と来ないって言ってなかった?」 鹿乃子は笑ってグラスを傾け、少し酔った瞳で言った。 「もういいのよ。今日は思う存分遊ぼう!」 彼女はダンスフロアへ向かい、リズムに合わせて体を揺らした。まるで拘束から解き放たれたかのように、自由奔放に。 周囲の男性モデルたちに視線を流し、唇に笑みを浮かべ、そのうちの一人の腹筋に指を滑らせると、低い笑い声が上がった。 「鹿乃子、正気?」 夏美が追いかけてきて、彼女の手を引いた。 「あんなに男の腹筋触って、密着して踊って、聖が見たら怒るわよ?」 「彼、ここにはいないし」 「いや……」 夏美は言い淀み、彼女の耳元で囁いた。 「誰がいないって言ったのよ。ずっと言おうと思ってたけど、西園寺聖、後ろのVIP席にいるわよ。さっきからずっとあなたのこと見てる」 鹿乃子の指先が強張った。ゆっくりと顔を上げる。 煌めく照明の向こう、彼女は一目で彼を見つけた。 聖は黒のスーツを着て、周囲の喧騒から浮いていた。 彼は隅の席に座り、長い指をグラスの縁にかけ、重苦しい視線を彼女に注いでいた。一体いつから見ていたのだろう。ちょうどその時、音楽が止まった。 聖の隣にいた友人が冷やかす声が聞こえた。 「聖、鹿乃子ちゃんがあそこで随分踊ってるし、他の男を触ってるぞ。俺の嫁ならとっくに怒り切れたが、よく座ってられるな」 聖は表情一つ変えず、ただ茶を啜り、冷淡な声で言った。 「彼女には分別がある。一線を越えるような真似はしない」 その言葉は毒を塗った針のように、彼女の心の一番柔らかい場所を刺した。 分別がある? 自分が愛しすぎているから、他の男とどうにかなるはずがないと高を括っているのか、それとも……そもそも興味がないのか。 恐らく、その両方だろう。 「まったく、お前のその達観ぶりには負けるよ。この世でお前の心を乱すものなんてあるのかね……」 友人の言葉が途中で裏返った。 「おい、聖、どこへ行くんだ?」 鹿乃子は反射的に顔を上げた。聖が猛然と立ち上がり、ダンスフロアの反対側を死にそうな形相で睨みつけていた。普段の無機質な瞳に、見たこともない嫉妬の色が浮かんでいる。 彼女はその視線を追った—— 案の定、梨花が白のワンピースを着てフロアの端に立ち、一人の男と連絡先を交換していた。 聖は大股で歩み寄り、梨花の手首を荒々しく掴んだ。恐ろしいほど冷たい声だった。 「何故こんな場所に来た?誰が男に番号を教えていいと言った!」 梨花は呆気にとられ、すぐに目を潤ませた。 「どうしていちゃいけないの?なんで連絡先を教えちゃ駄目なの?兄さん、私のことなんてもうどうでもいいんでしょ?だったら私が何をしようと関係ないじゃない!」 聖の指の関節が白く浮き出る。 「なぜそう思う?」 「どうでもいいと思ってるじゃない!」 梨花の声が涙声になる。 「私を避けて、会ってもくれない!兄さん、昔はあんなに優しかったのに、どうして急に変わってしまったの!」 その言葉に、聖の喉仏が動き、抑圧された感情が声に滲んだ。 「それは……」 鹿乃子は傍らに立ち、心臓を鷲掴みにされたような気分だった。 彼女にはわかる。聖には言えないのだ。 どう言えばいい? 妹を愛しているから、避けているのだと? 妹を見ると、理性を失ってしまうからだと? 妹を愛しすぎるあまり、結婚して二年の妻を抱きもせず、代わりに妹と瓜二つの精巧なドールを作って慰めにしているのだと? 鹿乃子は自嘲気味に笑い、立ち去ろうとした。しかし、泣き声が耳に入った。 「兄さん、昔に戻ろうよ。昔の兄さんがいい、私だけを見てくれていた兄さんがいいの!」 聖の声は低く、しわがれていた。 「兄さんはもう結婚したんだ。お前一人にかかりきりにはなれない」 「じゃあ、その奥さんさえいなくなれば、また昔みたいに戻れるの?」 梨花がふと顔を上げた。その瞳には狂気が宿っていた。 鹿乃子がバッグを持って去ろうとしたその時、梨花がテーブルの酒瓶を掴み、早足で向かってくるのが見えた。 ガシャン。 酒瓶が頭に叩きつけられ、ガラスの砕ける音が耳元で炸裂した。生温かい鮮血が額を伝う。 「鹿乃子!」 夏美の悲鳴が聞こえた。 よろめいて後ずさる鹿乃子の視界に、梨花が二本目の瓶を振り上げる姿が映った—— 「死んじゃえ!」 二撃目はさらに重かった。 今度こそ鹿乃子は意識を失い、血の海に倒れ込んだ。耳に残ったのは、騒がしい悲鳴だけだった。 第3話 鹿乃子は痛みで目を覚ました。 消毒液の匂いが鼻をつき、天井の蛍光灯が目に染みる。無意識に手を上げて遮ろうとしたが、手の甲の点滴針が引っ張られ、「っ」と痛みに声を漏らした。 「やっと気がついたのね」 看護師が包帯を交換していた。彼女が目を開けたのを見て、ほっと息をつく。 「一体誰にそんな恨みを買ったの?酒瓶で二回も殴られて、三十針以上も縫合したのよ」 彼女は思わず包帯の巻かれた頭に触れ、掠れた声で尋ねた。 「私を運んでくれた人は?」 「お友達のこと?一晩中ついててくれたけど、会社で急用が入って行っちゃったわ。介護士を手配したって伝えてくれって」 鹿乃子は呆然とした。 病院に運んでくれたのさえ、聖ではなかったのだ。 じゃあ、彼はどこに? 彼女は携帯を探し、画面に触れた瞬間、SNSのタイムラインに投稿が流れてきた。 梨花の投稿だった。 【兄さんはやっぱり、すぐに私のご機嫌をとってくれる】 添付された動画の中で、梨花は手を差し出し、甘えた声で言っていた。 「見て、瓶を割ったときに人差し指切っちゃった」 カメラが切り替わると、聖が彼女の前にしゃがみ込み、長い指で絆創膏を丁寧に貼っていた。そして頭を垂れ、抑えきれない様子で彼女の指先に口づけ、低く掠れた声で言った。 「これで痛くない」 鹿乃子は画面を食い入るように見つめた。頭の傷口が再び引き裂かれ、そこにアルコールを浴びせられたような気がした。指先が痺れるほど痛い。 彼女は深く息を吸い、110番に通報した。 「もしもし。被害届を出したいのですが」 その夜、聖が病室のドアを開けた。 黒のコートを羽織り、表情は冷ややかだったが、その瞳の奥には怒りが潜んでいた。 「通報したのはお前か?梨花を傷害罪で訴えると?」 「ええ」 鹿乃子は彼の目を真っ直ぐに見つめた。 「故意の傷害よ。立件するには十分だわ」 聖は低い声で、不機嫌そうに言った。 「梨花が衝動的に殴ったのは良くない。だが、俺はもう彼女に罰を与えた。この件はもう終わりだ」 「罰?」 鹿乃子は冷笑した。 「どんな罰を与えたの?」 「あいつは自由奔放な性格だ。一日外出禁止にした」 鹿乃子は一瞬呆気にとられ、次の瞬間、傷口が痛むのも構わずに笑い出した。 「私の傷、三十針以上縫合したのよ?それで一日外出禁止?聖、あなたが彼女を外に出さないのは、本当に罰するためなの?それとも私が彼女に報復しに行かないように、守っているだけじゃないの!」 聖の瞳が暗く沈んだ。 「馬鹿なことを言うな。当然、罰だ。 警察への通報は取り下げた。他の署に行っても無駄だぞ。帝都中、この件を受理する警察はいない」 鹿乃子はシーツを強く握りしめ、爪が掌に食い込んだ。 言いたいことは山ほどあったが、絞り出したのはただ一言だった。 「西園寺聖。私が追いかけたこの六年間、あなたは私を一体何だと思っていたの? 私のことなどどうでもいいなら、どうして結婚したの?」 聖は眉をさらに深く寄せた。 「誰がどうでもいいと言った?」 一呼吸置いて、彼は続けた。 「もういい、この話はこれまでだ。ここ数日は俺が病院で付き添う。退院したら埋め合わせもする。もう騒ぐな」 その言葉は、まるで彼が天からの恩恵でも与えるかのような響きだった。 鹿乃子はふと、可笑しくなってきた。 そう、昔はずっと自分が追いかけていた。「好きだ」と言い、「付き合って」と言い、「抱いて」とねだった…… 彼から歩み寄ることなど一度もなかった。 今、彼が自ら残ると言っている。これを「天からの恩恵」と言わずして何と言うのだろう? 第4話 それからの数日、聖は言葉通り病院に泊まり込んだ。 毎日決まった時間に現れ、消化の良い粥を用意し、薬を交換し、夜中に鹿乃子が痛みで目を覚ますと、無言で手を握ってくれさえした。 以前の鹿乃子なら狂喜乱舞していただろう。だが今、彼女の心にあるのは荒涼とした虚無感だけだった。 六年間の恋心が、冷める時は一瞬なのだと思い知った。 退院の日、駐車場に行くと、聖の車の助手席に梨花が座っていた。 梨花は彼女を見ると、不満げに横目を向けた。 聖が眉をひそめる。 「梨花、前に言ったことを忘れたのか?」 梨花は唇を噛み、目を潤ませて渋々口を開いた。 「お義姉さん、ごめんなさい……あの時はカッとなって。 兄さんが結婚してから、何年も会ってくれなくて、お義姉さんにばかり構うから、それで腹が立って……もうこんな事はしないわ」 聖は鹿乃子を振り返り、平坦な口調で言った。 「梨花がしばらく家に住みたいと言っている。これからは仲良くしてくれ」 帰りの車中、聖と梨花が前の席に座った。 鹿乃子は窓際に寄りかかり、飛ぶように過ぎ去る景色を無言で見つめていた。 視界の端には、聖の横顔が見え続けている。 常に冷静沈着な彼だが、今はその視線が頻繁に梨花に向けられていた。 梨花はスマホをいじっていたが、突然吹き出した。 「ねえ兄さん、この人かっこよくない?さっきライン交換したんだけど」 ハンドルを握る聖の指が強張った。冷たく低い声が出る。 「削除しろ」 「なんで?」 梨花が唇を尖らせる。 「私もう二十歳過ぎてるのよ?恋愛もしちゃ駄目なの?」 「削除しろと言っている」 彼の口調には有無を言わせぬ響きがあった。 梨花は不満そうにしながらも、大人しく削除し、小声で文句を言った。 「兄さんってば、厳しいんだから……」 聖は何も答えなかったが、鹿乃子には彼のアゴのラインが強張っているのが見えた。 彼は嫉妬しているのだ。 帰宅後、鹿乃子は夕食も取らずに部屋へ戻った。 外から食器が触れ合う音、梨花のケラケラ笑う声、映画の甘いBGMが聞こえてくる…… それは彼女と聖の二年の結婚生活で、一度としてなかった「家庭の温もり」だった。 彼女は布団に顔を埋めた。心臓が辛く痛んだ。 どれくらい時間が経っただろう。外の音が静まり返った。 喉が渇いた鹿乃子は水を飲もうと起き上がった。 しかし、部屋のドアを開けた瞬間、彼女はその場で凍りついた—— 月明かりが差し込むリビングで、聖がソファの側にしゃがみ込み、眠っている梨花をじっと見つめていた。 普段は冒涜を許さぬ神のような彼が、今、自分の神を崇めるように見つめている。 梨花がふいに身じろぎし、寝ぼけ眼で彼の首に腕を絡めた。甘い声で呟く。 「兄さん、梨花を捨てないで……梨花を可愛がってくれるのは兄さんだけ……」 無意識に彼の首を引き寄せる。 二人の唇が、偶然触れ合った—— 聖の瞳が揺れ、呼吸が乱れた。 次の瞬間、彼はついに最後の理性の糸を切ったかのように、抑えきれず、激しく彼女に口づけた。 第5話 月光が優しくリビングの床に降り注いでいる。 鹿乃子はドアの陰に立ち、半開きの隙間から聖が梨花に口づけるのを見ていた。 呼吸は乱れ、長い指が彼女の腰に食い込み、六年分の抑制をすべて吐き出すかのようだった。 「梨花…… 梨花……」 低く掠れた声で彼女の名を呼ぶ。その響きには、鹿乃子が一度も聞いたことのない愛執が込められていた。 どれくらい経っただろう。聖はハッと我に返ったように動きを止め、指の腹で梨花の唇の濡れを優しく拭った。 彼は念珠をつけ直し、再び俗世を離れた聖人へと戻った。 鹿乃子の指先は掌に深く食い込み、その痛みが辛うじて彼女の意識を保っていた。 彼女は勢いよく背を向け、音もなくドアを閉めると、布団に潜り込んだ。 ドアの外で足音が遠ざかっていく。聖がまた例の部屋へ向かったのだとわかった。 目を閉じると、これまでの誘惑の日々が走馬灯のように蘇った—— 彼が瞑想している時にセクシーな寝間着で「うっかり」転んでみせたが、彼は平気のまま受け止めただけだった。 彼が入浴中にタオルを届けようとしたが、彼は腰に厳重に布を巻いてからドアを開けた。 酔ったふりをして倒れ込んだ時は、人差し指一本で額を押さえられ、突き放された。 彼は常に動じず、自分の努力はすべて徒労に終わったかのようだった。 だが、本当に心底愛している相手なら、たった一言で深淵の底へ落ちるほど理性を失うのだ。 涙が顔中を濡らしたが、すぐに拭い去った。 大丈夫。私、秋月鹿乃子だって、捨てられたままじゃ終わらない。 これからは、彼は愛する義妹と、私は私の自由と生きていく。 翌朝起きると、聖と梨花はすでに朝食をとっていた。 梨花は自分の唇に触れ、不満そうに言った。 「兄さん、この家、蚊がいるんじゃない?起きたら唇が腫れてるんだけど」 聖の動きが止まり、低い声で言った。 「後でお手伝いさんに薬を持ってこさせる」 鹿乃子は渡されたプレゼントの箱を開けた。中身は数十億円の骨董品だった。 彼女は唇を歪め、皮肉っぽく言った。 「随分と奮発したのね」 梨花が覗き込み、嫉妬混じりに言った。 「兄さん、お義姉さんにそんなに優しいんだ?堅物で先祖供養しか興味がないと思ってたのに、家族サービスなんて絶対しないと思ったの」 鹿乃子が聖を見上げると、彼は視線を伏せ、この贈り物が実は梨花が頭を割ったことへの賠償だということを説明するつもりはないようだった。 普段の彼なら、彼女が何を好きかなど気に留めないし、何を贈るか考えることさえしない。 彼は淡々と「ああ」と答え、立ち上がった。 「会社に行く」 去り際、彼は梨花を見て、少し声を低くした。 「家では大人しくしていろ。屋敷の中はどこへ行ってもいいが、俺のあの部屋だけは駄目だ」 梨花は首を傾げた。 「どうして?」 聖は適当な理由ではぐらかしたが、鹿乃子は知っている—— あの部屋には、彼の最も隠微な欲望が隠されていることを。 鹿乃子は朝食を終えると部屋に戻った。梨花と同じ空気を吸いたくなかったからだ。 しかし、昼寝から目覚めた時、彼女は自分の長い髪が滅茶苦茶に切り刻まれた。 慌ててリビングへ駆け出すと、梨花がソファに座り、自分の髪の毛を手に持って、楽しそうに何かを編んでいた。 一目で状況を理解した。 「私の髪を切ったの?」 鹿乃子の声が震えた。 梨花は顔を上げ、悪びれもせず笑った。 「そうよ。学校の課題で工芸品を作るんだけど、カツラを作ろうと思って」 彼女は手の中の髪を揺らしてみせた。 「お義姉さんの髪色が一番きれいだから。黒くて艶があって」 鹿乃子は全身が冷たくなるのを感じ、もはや我慢できずに駆け寄り、思い切り彼女の頬を張った! パァン。 第6話 乾いた音がリビングに響き渡った。 梨花は頬を押さえ、瞳が急激に冷ややかになった。 「私を打った?兄さんは昔から私を命のように大事にして、指一本触れなかったのに、あなたごときが何様のつもり?」 彼女は大声でボディガードを呼んだ。 「こいつを押さえなさい!」 ボディガードたちは躊躇して鹿乃子を見、それから梨花を見た。 梨花は目を細めた。 「あなたたちは兄さんの部下でしょ。自分で考えなさい、兄さんの心の中で、誰が一番大事かを」 ボディガードは一瞬沈黙し、最終的に鹿乃子を取り押さえた。 鹿乃子は笑った。涙が出るほど笑った。 結局、誰もが知っていたのだ。聖の心の中で、梨花がどれほど重要かを。 自分だけが、六年かけてこの周知の事実を知ったのだ。 反応する間もなく、梨花の手が振り上げられた—— パァン。 最初の一撃。顔が焼け付くように痛い。 続いて二発目、三発目…… 鹿乃子は必死に抵抗し、声を枯らした。 「西園寺梨花!こんなことをして、お兄さんが黙ってると思うの?」 梨花は勝ち誇ったように笑った。 「小さい頃から、私がどんなトラブルを起こしても兄さんは解決してくれたわ。奥さんを殴ることだって同じよ」 彼女は身を乗り出し、鹿乃子の耳元で囁いた。 「秋月鹿乃子、覚えておいて。彼にとって唯一の存在は私なの」 言い終わると、彼女は次々と鹿乃子の顔に平手打ちを浴びせた。 鹿乃子は必死に身をよじったが、ボディガードの手はペンチのように彼女を固定していた。 パァン。パァン。パァン。 平手打ちの雨が降り注ぐ。 鹿乃子の意識が遠のき始める。頬は焼けるように熱く、何千本もの針で刺されているようだ。 涙で視界が歪む中、梨花の歪んだ快感に満ちた表情だけが見えた。 「今いくつ?」 梨花がボディガードに尋ねた。 「99回です」 ボディガードが答えた。 「じゃあ、キリよくいきましょう」 梨花は笑って言った。 最後の一撃が重く振り下ろされ、鹿乃子は血を吐き出し、目の前が真っ暗になり、その場に崩れ落ちた。 朦朧とする意識の中で、玄関の扉が開かれ、誰かが鋭く叫ぶのが聞こえた。 「何をしているんだ!」 …… 再び目を覚ました時、鹿乃子は寝室のベッドに横たわっていた。 聖がベッドサイドに座り、表情は落ち着いていた。 「今日のことは、すべて聞いた」 鹿乃子の喉は渇ききっていた。しわがれた声で問う。 「それで?」 「梨花は昔から甘やかされて育ったからな」 彼は淡々と言った。 「もう罰は与えた。気にしないでくれ」 鹿乃子は彼を見つめた。 「どんな罰を?」 聖はしばし沈黙し、ポケットから一房の髪を取り出した。 「彼女がお前の髪を切ったから、謝罪として彼女の髪も一房切った」 鹿乃子はあまりの理不尽さに呆れ返った。 「じゃあ、私を100回殴ったことは?まさか彼女を一発殴って終わりにしたわけじゃないでしょうね?」 聖の声は相変わらず平坦だった。 「彼女が殴ったせいで、手が腫れてしまった。それが罰のようなものだ」 鹿乃子は呆然とし、やがて笑い出した。涙が止まらなかった。 彼女は自分に問いかけた。 西園寺聖、どうして私、彼なんかを好きになったんだろう? 聖が口を開こうとした瞬間、鹿乃子は枕元の花瓶を掴み、床に叩きつけた。 「出てって!」 赤い目をして叫んだ。 聖は立ち上がり、落ち着いた声で言った。 「怒るのも無理はないが、医者も言っていたように、今は安静が必要だ。頭を冷やすといい」 そう言って、彼は背を向け、部屋を出て行った。 ドアが閉まった瞬間、鹿乃子はもう感情を抑えきれず、声を上げて泣き崩れた。 第7話 それからの数日、聖は珍しく家に居続けた。鹿乃子の機嫌が悪いことを察したのか、彼は稀なことに梨花に謝罪させた。 梨花は鹿乃子の前に立ち、投げやりな口調で言った。 「お義姉さん、ごめんなさい。あの日はちょっとカッとしちゃって」 鹿乃子は冷ややかな視線を一瞥させただけで、言葉を返す気にもならず、背を向けて部屋に入り、バンと音を立ててドアを閉めた。 梨花は驚いて身を震わせ、すぐに聖の懐に飛び込んで震える声を出した。 「兄さん、お義姉さん私を殴ったりしないよね?」 聖はなだめるように彼女の背中を叩いた。 「兄さんがいる。誰にもお前をいじめさせはしない」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、部屋の中からガタガタと何かをひっくり返すような音が聞こえてきた。 聖が眉をひそめ、ドアをノックしようとした瞬間、ドアが勢いよく開けられた—— 鹿乃子が大きな段ボール箱を抱えて出てきた。彼女は彼を見ようともせず、真っ直ぐリビングのゴミ箱へと向かい、ガラガラと音を立てて中身をすべてぶちまけた。 聖の瞳が僅かに収縮した。 箱の中身は、彼女がこの数年、自分に関して大切に集めてきたコレクションのすべてだった。 自分が何気なく書いたメモ、水を飲んだコップ、自分が唯一贈ったプレゼント——彼女が死に物狂いでねだって手に入れた数珠のブレスレット。 それらが今、まるで生ゴミのように捨てられたのだ。 「どういうつもりだ?」 聖の声は冷え切っていた。 鹿乃子は手の埃を払い、淡々と言った。 「別に。もういらないだけ」 あなたの物も、あなたという人間も、私、秋月鹿乃子にはもう必要ない。 そう言い捨て、彼女は背を向け、二度と彼を見なかった。 梨花は聖の顔色が変わるのを目の当たりにし、少し嫉妬してわざと言った。 「兄さん、お義姉さんの機嫌とらなくていいの?」 聖はしばらく沈黙し、やがて口を開いた。 「必要ない。自分で勝手に消化して、すぐにまた拾いに戻ってくるはずだ」 この六年間、自分が死に物狂いで彼を追いかけ、愛してきたように。 壁一枚隔てた部屋の中で、その言葉を聞いた鹿乃子は笑い出しそうになった。 間違ってる。 西園寺聖、今回ばかりは、あなたの読みは大間違いよ。 その夜、聖は鹿乃子と梨花を連れてチャリティーパーティーに向かうことになった。 鹿乃子は行きたがらなかったが、聖は淡々と言った。 「お前の友人の夏美も来ている。ずっと家に引きこもっていないで、気晴らしに行ったらどうだ」 鹿乃子は少し考え、結局ドレスに着替えた。 最近の出来事はあまりに重苦しく、誰かと酒でも飲まなければやってられなかった。 道中、彼女は聖と梨花とは一言も口をきかず、終始目を閉じていた。 車が道半ばまで差し掛かった時、突然轟音が響いた—— ドカン—— 刺すようなヘッドライトが直射し、鹿乃子の目に制御不能の車が正面から突っ込んでくるのが映った。次の瞬間、世界が回転した。 次に目が覚めた時、冷たい鉄錆の匂いが鼻をついた。 鹿乃子は辛うじて目を開け、自分と梨花が廃倉庫の椅子に縛り付けられていることに気づいた。両手は後ろ手に縛られ、胸には爆弾が巻き付けられている。 意識を失う前、衝突してきたもう一台の車から降りてきたのは、西園寺グループの宿敵、氷室(ひむろ)家の次男だったことを微かに思い出した。 彼が自分と梨花を拉致したのは、西園寺家への復讐のためか。 梨花は隣で絶えず泣き叫んでいた。その声は鋭く耳障りだった。 「誰かいないの!助けて!助けてよ!死にたくない!」 爆弾のタイマーが残り数分を示しているのを見て、鹿乃子は無理やり冷静さを取り戻し、自分の爆弾の解体を試み始めた。 しかし、梨花の泣き声がうるさくて頭痛がし、冷たく言い放った。 「泣かないで。死にたくなければ、さっさと自分で爆弾を解除なさい」 梨花はさらに激しく泣いた。 「怒らないでよ!解除なんてできないわよ!兄さん、どこにいるの、怖いよ……兄さん……」 その瞬間、倉庫の重い扉が蹴破られた。 聖が飛び込んできた。 第8話 常に完璧に着こなしていたスーツは埃まみれで、額からは血が流れていた。呼吸は荒く、二人を見つけた瞬間、その瞳が限界まで収縮した。 あの冷徹な「聖人」がこれほど狼狽した姿を見せるのを、鹿乃子は初めて見た。 事故で二人が消えた後、聖はすぐに部下を動員し、最速でここを突き止めたのだろう。 爆弾が爆発するまで残り一分。時間は一人分しか残されていない。 聖は迷うことなく梨花を選んだ。 彼は梨花の爆弾を素早く解体しながら、顔も上げずに言った。 「鹿乃子、梨花を外に送ったら、すぐに戻って助ける」 鹿乃子は笑った。 もう愛していないからだろうか。心が痛むことさえなかった。 梨花の爆弾を外し終えた時、カウントダウンは残り二十秒だった。 梨花は聖の腕を死に物狂いで掴み、声にならない声で震えた。 「兄さん!早く逃げて!爆発しちゃう!」 聖は初めて彼女を突き放し、先に外へ出るよう促すと、きびすを返して鹿乃子の爆弾に向かった。 鹿乃子は猛然と彼の手を掴み、彼を突き飛ばした。その声は驚くほど穏やかだった。 「彼女を連れて行きなさい。いいこと、今日から私はあなたを必要としない。私の生死はあなたに関係ない。私、秋月鹿乃子は誰からも愛されないわけじゃない。あなたが愛さなくても、私を愛してくれる人はいくらでもいる!」 聖は呆然とした。 梨花が脇で泣き叫んだ。 「兄さん!怖いよ!兄さんが行かないなら私も行かない!」 時間の流れに死が迫ってくる。このままでは三人ともここで死ぬことになる。 土壇場で、聖は梨花を抱き上げ、外へと走り出した。 鹿乃子は目を閉じ、指先で素早く爆弾の配線を探った——大学の教養科目で、爆発物の構造学を履修していたのだ。 カチッ。 最後の一秒、彼女は起爆線の切断に成功した。 しかし、爆発は起きた。 熱波に吹き飛ばされる瞬間、彼女は引き返してくる聖の姿を幻視したような気がした。 病院。 鹿乃子が目を開けると、腕に突き刺すような激痛が走った。 聖がベッドサイドに座っていた。彼女が目覚めたのを見ると、すぐに彼女を押さえつけた。 「動くな。梨花への植皮手術が終わったばかりだ」 「……何ですって?!」 朦朧とする意識の中で、彼女は聞き間違いだと思った。 聖は少し沈黙した後、その口調に珍しく罪悪感を滲ませた。 「梨花が腕に火傷を負ったんだ。傷跡を残したくないと言うし、お前の肌の色が一番近かったから、一部を移植した」 鹿乃子は信じられない思いで彼を見つめた。 「西園寺聖、私に許可を取ったの?」 「償いはする」 彼はなだめるように言った。 「ずっとデートしたがっていたろう?退院したら……」 「誰がそんなもの欲しがるもんですか!」 彼女は点滴の針を力任せに引き抜き、血が手の甲を伝って流れ落ちた。 「こんなひどい仕打ちってないわ!人を馬鹿にするのもいい加減にして!」 聖は言葉を失った。 「西園寺梨花は掌中の珠で、私は足元の泥だとでも言うの?」 鹿乃子の目が赤くなり、声が震える。 「私があなたを好きだからって……私が……」 言葉が続かなかった。 聖は胸が詰まるのを感じ、ふと倉庫で彼女が言った言葉を思い出した—— 「あなたが愛さなくても、私を愛してくれる人はいくらでもいる」 彼が口を開こうとした時、突然携帯が鳴った。 秘書からの焦った声が漏れ聞こえる。 「社長、梨花様がずっと欲しがっていた『伝説の王妃のネックレス』が、今夜F国で競売にかけられます。向かわれますか……」 聖は「ああ」と答え、電話を切った。 彼は携帯をしまうと、鹿乃子を見た。 「数日海外に行く。戻ったら土産を買ってくる」 一呼吸置き、彼は付け加えた。 「安心しろ。デートの約束も守る。嘘はつかない」 言い終えると、彼は病室を出て、足早に去っていった。 ドアが閉まった瞬間、鹿乃子はもう耐えきれず、ゆっくりと体を丸めて自分を抱きしめ、涙を流した。 第9話 鹿乃子は三日間入院した。 退院の日、在留管理庁から電話があった——D国の永住権が下りたのだ。 それが最近聞いた唯一の良いニュースだった。 在留管理庁の前に立つと、日差しが涙が出るほど眩しかった。 手をかざして光を遮る。薬指の結婚指輪は既に外されており、淡い跡だけが残っていた。 これで終わる。 在留管理庁で永住権を取得した後、彼女は迷わず法律事務所へ向かい、離婚協議書を作成して署名した。そして梨花に電話をかけた。 「会って話しましょう」 カフェで、梨花は警戒したように彼女を睨みつけていた。 「一体何の用?警告しておくけど、兄さんが戻ってきて私をいじめたって知ったら……」 鹿乃子は何も言わず、バッグからあの結婚指輪を取り出し、梨花の前に滑らせた。 「着けてみて」 梨花は疑わしげに彼女を見たが、何かに憑かれたように手を伸ばし、指輪を薬指にはめた——サイズは寸分の狂いもなくぴったりだった。 「これ……」 梨花は絶句した。 鹿乃子は笑った。 「あなた、ずっと知りたかったでしょう?どうしてお兄さんが急にあなたを避けるようになったのか」 梨花の指が微かに震える。 「いいわ、真実を教えてあげる」 鹿乃子は彼女の目を見据え、はっきりと告げた。 「彼があなたを避けたのは、私と結婚したからでも、あなたが彼を怒らせたからでもない。彼があなたを愛しているからよ」 「あの立ち入り禁止の部屋には、あなたと瓜二つの精巧なドールが置いてある。 彼は毎日、その人形に欲望をぶつけているの。 あなたが家に泊まりに来た夜、ソファで眠るあなたに、彼はこっそり三分間もキスをしていたわ。 その指輪も、あなたのサイズに合わせて特注したものよ。彼が娶りたかったのは、最初からずっとあなただったの」 短い言葉の連なりに、梨花の顔色が瞬時に変わった。 衝撃、驚愕、羞恥、そして歓喜……無数の感情が瞳の奥で渦巻く。 鹿乃子は彼女を見ながら、ふと滑稽に思えた。 聖は梨花に自分の想いを告げるのを恐れ、彼女を失うのを恐れ、修行という名目で強引に欲望を抑え込んでいた。 だが彼は知らなかったのだ。梨花もまた、彼を想っていたことを。 鹿乃子は立ち上がり、署名済みの離婚協議書をバッグから取り出して彼女の前に置いた。 「彼が戻ったらこれを渡して。『お幸せに』って伝えておいて」 彼女が立ち去ろうとすると、ようやく我に返った梨花が呼び止めた。 「秋月鹿乃子、どこへ行くの?」 鹿乃子は振り返りもしなかった。 「離婚したんだから、私自身の人生を生きに行くに決まってるでしょ。これからはあなたたち兄妹のことは、私には一切関係ない。 それと、西園寺梨花。今後もし私に手出ししたら、必ず百倍にして返すからそのつもりで」 空港。 鹿乃子はスーツケースを引きながら歩いていた。搭乗直前、携帯が震えた。 見ると、聖からのメッセージだった—— 写真が一枚。そして【着いた。土産だ】という一文。 写真を引き伸ばすと、箱にも入っていない、安っぽいブレスレットが写っていた。 彼女は乾いた笑いをもらした。 わかっている。これはただの「おまけ」だ。 彼が今回出国したのは、梨花のためにあの王妃のネックレスを競り落とすため。 自分へのお土産はただのついでに過ぎない。 けれど、悲しくはなかった。 だって、西園寺聖。私はもうあなたを愛していない。だからあなたはもう、私を傷つけることはできない。 彼女は航空券を握りしめ、搭乗口へと急いだ。ふと顔を上げた瞬間、遠くのVIP通路から、黒のコートを纏った聖が冷峻な面持ちで出てくるのが見えた。 彼女は声をかけず、ただ静かに彼が遠ざかるのを見送った。 西園寺聖、離婚おめでとう。自由をあなたに。 そして、私に解脱を。 次の瞬間、彼女は迷わず彼のすべての連絡先をブロックし、踵を返して、彼とは逆の方向へと歩き出した。