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精一杯愛したから、もう自由にさせて
東都中の誰もが、ある茶番劇が終わるのを待っていた。 セレブ界の御曹司、黒崎雄太(くろさき ゆうた)が、病弱な恋人の内田綾菜(うちだ あや...
Chương (1)
第1章
東都中の誰もが、ある茶番劇が終わるのを待っていた。
セレブ界の御曹司、黒崎雄太(くろさき ゆうた)が、病弱な恋人の内田綾菜(うちだ あやな)と別れる、その瞬間を……
3年だ。
この3年間で、絢香は20回も健康診断を受けていた。そして、その結果で婚姻届が提出できないのも、20回となった。
綾菜は何度も希望を胸に健康診断を受けに行ったが、結局は結果が芳しくなく、項垂れて病院から出てくるのだった。
それでも、雄太は綾菜を世界一大切な宝物のように、甘やかし続けた。
第1話
東都中の誰もが、ある茶番劇が終わるのを待っていた。
セレブ界の御曹司、黒崎雄太(くろさき ゆうた)が、病弱な恋人の内田綾菜(うちだ あやな)と別れる、その瞬間を……
3年だ。
この3年間で、絢香は20回も健康診断を受けていた。そして、その結果で婚姻届が提出できないのも、20回となった。
綾菜は何度も希望を胸に健康診断を受けに行ったが、結局は結果が芳しくなく、項垂れて病院から出てくるのだった。
それでも、雄太は綾菜を世界一大切な宝物のように、甘やかし続けた。
綾菜が初日の出を見たいと言えば、雄太は自分が39度の高熱だとしても、一晩中山頂で付き添い、肺炎になりかけたほどだった。
全国絵画コンクールで、綾菜が最優秀賞を受賞した際、彼女はライバルからひどい誹謗中傷を受けたうえに、実力ではなく、裏でコネを使ったなどと、根も葉もない噂を立てられた。
しかし雄太は、百年続く黒崎グループの名誉にかけて、綾菜の潔白を証明した。
「綾菜の才能は誰にも汚させはしない。今日この場で、これ以上なにか言うやつがいれば、この俺が相手になる」と、人々の前で言ってくれたのだった。
しかし、黒崎家は家柄も釣り合わず、おまけに病弱な綾菜との結婚を許さなかった。そして雄太に、最後通牒を突きつける。
綾菜を諦めて莫大な資産を相続するか。あるいは、この病弱な女と一緒になり、全てを捨てて家を出るか。
雄太は一秒たりとも迷わなかった。
「俺は綾菜を選ぶ」
書類にサインする雄太の手は一切震えておらず、その瞳はまっすぐだった。
20通もの「健康状態に問題あり」という診断書を前に、綾菜の罪悪感は、つる草のように心を覆い尽くしていった。
もしかしたら、これは自分みたいな人間は雄太にふさわしくないという神様からのメッセージなのかもしれない。
綾菜がそう口にする度、雄太は彼女を腕の中に抱きしめ、まるで祈るかのような口調で言った。
「綾菜。どんなお前でも俺はずっと愛してる。たかが診断書一枚だろ?そんなもので、俺たちの愛が引き裂かれることはないよ」
雄太の低く優しい声は、どんな言葉よりも甘く、心を惑わせるようだった。
綾菜は雄太がくれる優しさの中に溺れていった。一生、正式な夫婦になれなくてもいい。ただ雄太の傍にいられるなら、それで構わないと覚悟もしていた。
そう。21回目の、あの日までは……
綾菜は最新の健康診断書を手に病院から出てきた。今度こそきっと大丈夫と、心の中で繰り返しながら。
駐車場まで歩いて行くと、遠くに雄太の車が見えた。
雄太は車の側に立っていた。上質でスタイリッシュなスーツが、非凡なオーラを一層引き立てている。
綾菜が歩み寄ろうとしたその時、冷たい目をした雄太が白衣の医者と話しているのが聞こえてきた。
医者は不可解だと言わんばかりの表情で、一枚の診断書を雄太の手に渡す。
「黒崎さん、私にはどうしても分かりません。あなたと内田さんは誰もが羨むような仲なのに。あの盛大なプロポーズの時も、内田さんには『最高なものがふさわしい』なんて言って、花をわざわざ空輸したんでしょう?
それなのに、いざ入籍するとなると、どうして躊躇うんですか?診断書を偽造するのは、これで21回目ですよ」
綾菜の手から、持っていた診断書がはらりと落ちた。
21回分の診断書が全部偽物?しかも、それを指示したのは雄太?
心臓がどきりと音を立て、大きな疑問が胸に渦巻いく。どうして、雄太がそんなことを?
雄太が煙草に火をつけた。立ち上る煙が、彼の端正な横顔をいっそう際立たせる。
「綾菜を愛してる。その気持ちに、今も昔も変わりはない。でも3年前の事故の時、由理恵が命がけで俺を運転席から引きずり出してくれなかったら、俺はとっくに死んでたんだ」
煙草を一口吸うと、雄太は低い声で続けた。
「由理恵はこの街に身よりもなく、一人でいる。この間酔った彼女が、俺に抱きついて泣きながら言ったんだ……こんなに優しくされたのは生まれて初めてだって。そんな由理恵が、俺が他の誰かと入籍するのを見たら、何をしでかすか分からないだろ?
あんな風に泣かれたら、こっちの胸が張り裂けそうになるんだ。命の恩人を苦しませるなんて、俺にはできない。だから、これは俺が由理恵にできる唯一の恩返しなんだ」
医者は眉間にしわを寄せ、納得いかない様子で言う。
「東都きっての御曹司であるあなたなんだから、恩返しする方法なんていくらでもあるでしょうに。ましてや、自分の結婚を犠牲にする必要はないんじゃないですか?」
雄太がきっと医者を睨む。その眼光は、ナイフのように鋭い。
持っていた煙草を、火花が散るほど強く握りつぶした。
「由理恵はそんな女じゃないんだよ。由理恵の俺への気持ちを金で汚すような真似は誰にもさせない」雄太は一語一句、力を込めて言った。「いつか由理恵の気持ちが落ち着いて俺がいらなくなった時、綾菜とはちゃんと入籍する」
雄太は携帯の待ち受け画面に目を落とした。そこに映っているのは、綾菜と二人で撮った写真。綾菜は屈託なく笑っていて、その瞳はキラキラと輝いている。
「その時が来るまで、綾菜に本当のことは言わない。あいつには、自分の体のせいで結婚できないと思い込ませておく。そうすれば、いざ結婚するとき、綾菜は俺が3年間も待たせたことを責めたりしないだろう。むしろ、見捨てなかった俺に感謝するはずだから」
横山由理恵(よこやま ゆりえ)。3年前、雄太の鶴の一声で、インターンとして特別採用された女性だった。
出張、会食、交渉……雄太がどこへ行くにも、必ず傍にいた。
綾菜は今まで、由理恵は仕事ができるからなのだと、ずっと思っていた。
でもまさか、二人の間にそんな特別な関係があったなんて。
ふと、由理恵がいつも自分に向けていた、あの視線を思い出す。
笑っているようで笑っていない、どこか見下したような、あの目つき。
若い女性のプライドの高さゆえだと綾菜は思っていた。
でも今なら分かる。あれは、自分への挑発だったのだ。
呼び方もそうだ。
会社の誰もが自分のことを「奥様」とかと呼ぶのに、由理恵だけはいつも「綾菜さん」と呼んだ。
その頃はその呼び方に親しみさえ感じ、少し嬉しく思っていたのに。
しかし今は、はっきりと分かった。あの「綾菜さん」という呼びかけは、親しみの表れではなく、雄太の妻として、自分を認めていないという意思表示だったのだろう。
ちょうどその時、雄太の携帯が鳴った。
電話の向こうから、由理恵の甘えるような声が聞こえてくる。
雄太は少しだけ眉を顰め、二、三言応えると、すぐに車に乗り込んだ。
車があっという間に走り去っていく。
すぐ後ろに綾菜がいることなど、全く気づかずに……
数秒後、綾菜の携帯が震える。雄太からのラインメッセージだった。
【ごめん。会社で急用ができたから、先にタクシーで帰っててくれるかな?気をつけてね。愛してるよ】
メッセージに添えられたピンクのハートマークを、綾菜はじっと見つめる。その口元には、ひどく乾いた笑みが浮かんでいた。
顔を上げ、地面に落ちていた診断書をゆっくりと拾い上げる。
【検査結果:各項目、全て正常値。健康状態に問題なし】
もう一度、自分の手に握られた診断書に目を落とす。病院の印が押されたそれは、雄太が渡してきた、偽物の診断書だ。
その瞬間、綾菜はふっと笑った。
しかし、その目からは涙がこぼれ落ちていく。
この数年間、雄太に尽くしてずっと待っていた……
でも、それは全部ただの滑稽な一人芝居だったのだ。
家に帰ると、綾菜は携帯を取り出し、長い間かけていなかった番号に電話をかける。
「中山さん……以前、私と結婚したいって言ってくれたこと、まだ有効かな?」
第2話
電話の向こうの中山智也(なかやま ともや)は、数秒黙りこんだが、次に発した言葉には驚きが滲んでいた。
「内田さん。2週間前に億単位の結納金でプロポーズした時、好きな人がいるから、その話はもうしないでほしいと俺に言ってたよね……なのに、どうして急に心変わりしたの?」
綾菜は深く息を吸った。その声は掠れていたが、とても落ち着いている。
「もし駄目であれば、他をあたるから」
そう言って綾菜が電話を切ろうとした瞬間、受話器から智也の冷静だが、しっかりとした力強い声が聞こえてきた。
「1ヶ月待ってくれないか?必ず盛大に迎えに行くから」
呆気に取られた綾菜だったが、「分かった」と小さく呟いた。
綾菜の祖母の体はここ数年、どんどん弱っていた。しかし、そんな祖母の一番の願いは、自分の花嫁姿を見ること。
智也……結婚相手としては、確かに申し分ない。
電話を切った途端、背後から雄太の優い声が聞こえてきた。
「綾菜、誰と電話してたんだ?1ヶ月後に何かあるの?」
雄太の口調はとても自然で、穏やかな笑みまで浮かべている。
さっき駐車場で見た、冷たくて無情な姿とはまるで別人だった。
綾菜が口を開くより先に、雄太が後ろからそっと彼女を抱きしめ、綾菜の肩に顎をのせた。
「健康診断の結果は出た?」
綾菜は心臓が締め付けられるのを感じた。
自嘲気味に口元を歪める。
結果なんて、雄太はとっくに知っているはずなのに。
その白々しい態度に、吐き気がした。
そっちが芝居をしたいというのなら、こっちも最後まで付き合ってあげようではないか。
綾菜は雄太がわざわざ手配したその偽の健康診断書を、そっと彼の方へ押しやる。
報告書を受け取った雄太の表情は少しも変わらない。
なぜなら、全てが筋書き通りなのだから。
「大丈夫だよ、綾菜」雄太は綾菜の髪にそっとキスを落として、何でもないことのように言う。「貧血なんてたいしたことじゃないし、有名なお医者さんを探して、体質を改善してもらえばいいんだから。そうすれば俺たちはすぐに入籍できる……そしたら、お前はずっと俺の妻だ。そうだろ?」
綾菜は目を伏せ、その奥にある皮肉な色を隠した。
貧血は確かに重い病気じゃないし、入籍するのに法的な問題もない。
だが、雄太の父親の黒崎大輔(くろさき だいすけ)が結婚の条件として、「健康診断で問題がないこと」というのを出したのだった。
黒崎家は名家だから、病気がちな嫁を迎えることを許さなかった。
たとえ軽い貧血だとしても、診断書には「健康状態に異常あり」と書かれてしまうだろう。
だから、綾菜はこの何年も、体質を改善するため、多くの苦い薬を飲み、好きな食べ物も我慢して、様々な病院を巡った。全ては、健康な体で嫁入りするために。
しかし今、綾菜の中では疑いがどんどん膨らんでいた。
この「条件」とやらは、本当に大輔が言ったものなのだろうか。それとも……雄太が作り出した、ただの言い訳という可能性もあるのではないか?
そんな綾菜の冷たい態度を見て、雄太はそっと綾菜に顔を近づけ、彼女の唇にキスをしようとした。
これはいつもの雄太の機嫌の取り方だった。
これまでの綾菜は、雄太にこうされるとすぐに絆されてしまっていたし、自分の考えすぎだ、なんて自分を責めたりもした。
しかし、今の綾菜は雄太の唇が触れる寸前で、そっと顔を背けてキスを拒んだ。
「どうした?」雄太の目つきが少し険しくなり、その声には、珍しく不安の色が滲んでいる。
綾菜は静かに首を横に振った。「なんでもない。ただ、少し気分が悪くて」
その時、部屋のドアが静かに開けられ、使用人が入ってきた。
使用人は笑顔で、つやつやした柿でいっぱいの籠を持ちながら、心から羨ましそうな口調で言った。
「内田様、旦那様は本当に優しいですね!この柿は、わざわざ空輸されたものだそうですよ。なんて幸せなんでしょう!」
綾菜は籠いっぱいの柿を見つめると、ふと手を伸ばして使用人を止めた。
実は綾菜、柿がそんなに好きではなかった。
しかし以前、雄太に「柿は貧血にいい」と言われ、それ以来、綾菜はその言葉を信じて、柿の季節になるたびに無理して食べていたのだ。そればかりか、「大好物だ」と嘘までついていた。
しかし、病院の待合室で待っている時、偶然目にした健康コラムの記事があった。【貧血を悪化させる食べ物とは?】
見出しのすぐ下には、こうはっきりと書かれていた。【柿に含まれるタンニンは、長期間大量に摂取すると鉄分の吸収を妨げ、貧血を悪化させる可能性があります】
雄太のように、几帳面で何事も細かく気にする人が、これを知らないはずがない。
綾菜は顔を上げ、雄太をまっすぐ見つめると、静かに言った。
「本当に……これを私に食べさせるつもり?」
綾菜は自嘲気味に口元を歪め、心の中にある疑いを確かめようとした。
雄太は一瞬きょとんとしたが、すぐに優しく頷いた。
「柿はお前の大好物だろ?それに、これを食べれば、体調も良くなるからさ」
そのあまりにも自然な口ぶりは、まるで心からそう信じているかのようだった。
綾菜は静かに微笑む。
柿を一つ手に取り、一口、また一口とゆっくりと飲み込んでいった。
しかし、数口食べただけで、お腹に鋭い痛みが走り始める。
額に冷や汗を浮かべながら、綾菜は雄太の袖口を強く掴んだ。「雄太、私、ちょっと……」
言い終わらないうちに、雄太の携帯が鳴った。
受話器からは由理恵の泣きじゃくるような助けを求める声が聞こえてくる。
「雄太さん、早く助けに来て……友達とバーにいるんだけど、変な男に絡まれてて。なんだか、すごく怖いの……」
雄太の表情が一瞬で変わった。
さっきまで綾菜を優しく見つめていた瞳には、もう焦りと緊張の色しか浮かんでいない。
雄太は勢いよく立ち上がると、綾菜に掴まれていた手を乱暴に振りほどいた。
「ごめん、綾菜。由理恵が大変みたいなんだ。だから、すぐに行かないと」
綾菜は最後の力を振り絞り、指が白くなるほど強く雄太の服の裾を掴んだ。
「由理恵が危ないなら、秘書かボディーガードを行かせればいいでしょ……私、今……本当に苦しいの。病院に連れてって……」
しかし、雄太は苛立ちを隠そうともせずに、綾菜の指をそっと引き剥がす。
「我が儘を言うな。由理恵はああいうところに慣れていないんだ。そんな子が傷つけられるのを、黙って見ていられるか」
少し間を置いてから雄太は口調を和らげたが、それはただの言い訳にしか聞こえなかった。
「お前の貧血はいつものことだし、少し我慢していれば治まるだろ?それに、俺はすぐ戻るから」
綾菜は雄太を見つめる。目の前にいる男が、なぜだか見知らぬ他人のように思え、ぞっとした。
雄太はそのまま綾菜の手を振り払うと、足早に部屋を出て行ってしまった。
綾菜は激しく痛む下腹部を押さえ、ソファの上でうずくまる。
その瞬間、生温かい液体が足の間をゆっくりと伝うのを感じた。
綾菜は恐る恐る下に目線を向ける――
真っ白なワンピースの裾に、真っ赤なしみがゆっくりと広がっていた。
なんとか体を起こそうとしたが、視界はどんどん霞んでいくばかり……
そしてついに、意識は完全に闇の中へと落ちていった。
意識を失うその最後の瞬間、綾菜の頭にはたった一つの思いだけが残っていた。
智也。1ヶ月後……必ず、迎えに来て。
第3話
次に目が覚めた時、綾菜は病院のベッドにいた。
若い看護師が眉を顰めながら、綾菜の手当てをしていて、その口調は、どこか責めるような響きがあった。
「ご家族は何をしてるんですか?妊娠中なのに、あなたのサポートをしてくれないなんて……身体も心も休まらなくて、流産するに決まってるじゃないですか!」
綾菜は息をのむ。妊娠していて、しかも流産したって?
しかも、原因は雄太がくれた柿のせいらしい。
綾菜は目を閉じた。胸に大きな石で押しつぶされたような、ひどい痛みが走る。
でも、いなくなってよかったのかもしれない。別れる時に馬鹿げた幻想を抱かずに済む。
しかし、ひとつだけ知りたい。昔、「お前とサッカーチームができるくらい子供が欲しい」と言っていた雄太がこの事実を知ってどう思うのだろう、ということが……
かなりの日数入院していたのだが、雄太は一度も見舞いに来なかったし、雄太から届くメッセージを見る限り、家にすら帰っていないようだった。
そのくせ、由理恵のインスタには、頻繁にある一人の男性が写っていた。
顔は写っていない。でも、綾菜には分かった。あれは雄太だ。
雄太は由理恵を連れて、話題のレストランに行ったり、遊園地ではしゃいだり、二人で温泉旅行にまで行っていた。
どれも、綾菜がもうずっと経験していないことばかり……
1週間後。
綾菜は一人で退院手続きを済ませて、雄太の家に戻った。
家に入ると、綾菜はまっすぐ2階へ上がり、荷物をまとめ始める。
服や画材、それに、こまごまとした思い出の品……
それらを一つ一つ段ボールに詰めて、静かにここを出ていくつもりだった。
最後に、雄太の会社へ向かった。残り僅かな仕事の引き継ぎをきちんと終わらせるために。
綾菜はもともと優秀な美大生で、描く絵はどれも生命力にあふれていた。
しかし、雄太の傍にいたい一心で、自分のキャリアを諦め、彼の会社の事務員となり、退屈な企画書や契約書と毎日向き合っていた。
だが、もう自分に無理をさせるのはやめる。
そう思いながらオフィスを片付けていると、急にドアがバンっと大きな音を立てて開けられた。
眉間にしわを寄せた雄太が入ってきて、綾菜の両手を押さえる。
「綾菜、辞めるって聞いたけど、なんでだ?」
綾菜は冷たく雄太の手を振り払い、無感情な声で答えた。
「別に。ただ、生き方を変えたいと思っただけ」
そう。あなたのいない人生を……
雄太は綾菜の瞳にいつもと違う光が宿っていることに気づき、何かを言おうとした。
だがその瞬間、由理恵の甲高い声が響く。雄太がいるからか、その態度はとても強気だった。
「綾菜さん、会社を辞めるのは勝手だけど、うちの大事なクライアントまで引き抜くのはどういうつもりなの?」
綾菜にクライアントを奪うつもりなど全くなかった。ただ、クライアントの方が彼女を信頼してくれていただけなのだ。
綾菜が説明するより先に、由理恵の隠す気もない軽蔑のこもった声が、耳元で鳴り響く。
「ねえ、綾菜さん。雄太さんと喧嘩したからって、会社に八つ当たりするのはやめてよね。あなたのせいで、雄太さんがこれまで築き上げてきたものが台無しになるのよ?これじゃあ、どうやって雄太さんにご家族へ説明させるの?」
由理恵はさらに近づくと、綾菜の真っ青な顔をなめるように見た。
「雄太さんの婚約者っていう立場にいるなら、雄太さんのことを考えるべきなのに。ああ、そうだ。あなたの健康診断の結果……ずっと良くないんだってね。だから黒崎家のお嫁にはなれないんでしょ?だったらさっさと身を引いて、もっと雄太さんにふさわしい人にその座を譲ったらどうなの?」
本当に雄太にふさわしい人?
それって、由理恵自身のことなのだろうか?
綾菜は爪が手のひらに食い込むほど、強く拳を握りしめた。
雄太が僅かに眉を顰め、申し訳なさそうな声を出す。
「綾菜、この前は俺が悪かった。急性胃腸炎で入院したって聞いたよ……もしこのことで怒ってるなら、謝る。これからは絶対に、こんな辛い思いはさせないって約束するからさ」
そう言うと、雄太は冷たい目つきで由理恵を見た。その口調には、はっきりと警告の色が聞き取れる。
「由理恵、綾菜にそんな口の利き方をするな。いずれにせよ、綾菜は俺の嫁になるんだ」
「あなたのお嫁さん?」由理恵はその言葉にひどく傷ついたようで、一瞬で目を赤くした。
由理恵は信じられないという目で雄太を一度見ると、泣きながら走り去ってしまった。
「由理恵!」雄太はあからさまに焦った顔になり、考える間もなく後を追いかけようとした。
「雄太!」綾菜は勢いよく立ち上がる。しかし、必死に感情を抑えようとするせいで、声が微かに震えてしまった。
だが、なんとか背筋を伸ばし、雄太をまっすぐに見つめ、一語一句はっきりと告げる。
「こんなに人がいる前で、どうしても由理恵を追いかけるって言うなら、私たち、ここで終わりにしよう」
雄太が足を止めた。振り返り、苛立ちと葛藤が入り混じった複雑な目つきで綾菜を見つめる。
そして、雄太はため息を一つつくと、まるで聞き分けのない子供を宥めるように言った。
「綾菜、もう我が儘を言うのはやめろ。俺たち、もう何年も一緒にるんだから、今更別れるなんてできるはずないだろ?それに、あの日のことはちゃんと理由も説明したはずだ。それなのに、いつまでも一つのことに拘るな」
すると、雄太がいつものように綾菜の髪をなでようと、手を伸ばしてきた。
「安心しろ。こんなことは、もう二度とないから」
「二度とない?」
今この瞬間も、由理恵のことばかり気にかけているのに?
心の中にあった雄太への最後の希望が完全に消え去った綾菜は、顔をそむけ、彼に触れられるのを拒む。
最後の賭けのつもりで「別れ」を切り出したのに。返ってきたのは、雄太の軽い「我が儘を言うな」という言葉と、躊躇いもなく他の女に向かうその後ろ姿だった。
そんな雄太の後ろ姿を見て、綾菜はようやく目が覚めた。
自分たちの関係は、もう終わらせるしかないようだ。
第4話
周りの人たちの視線を感じながらも、綾菜は私物を抱え、一歩一歩を踏み締めるように会社を出て行った。
どれくらい歩いたのか、ようやく「家」と呼んでいた場所へたどり着いた。
家に足を踏み入れた途端、綾菜はふと思い出す。心を込めて描いた絵がまだアトリエにあって、そのままになっていたのだ。
あの絵だけは、どうしても持っていかなくてはならない。
しかし、アトリエに駆け込むと、壁もイーゼルも何一つなく、すっかり空っぽになっていた。
パニックになった綾菜は、まるで狂ったように広い家の中を探し回る。
使用人を見つけると、震える声で尋ねた。「私の絵を見なかった?あの絵はどこにあるの?」
あの絵には、これまでの全てが詰まっている。自分の誇りであり、多くの賞も受賞していた。
置いていくなんて絶対にできない。
使用人は視線を逸らすと、困った顔で口を開いた。
「内田様……あの絵は、確か旦那様が誰かに運び出させていました。どこへ運ばれたのかは、ちょっと……」
綾菜の心に、怒りが潮のように押し寄せる。
綾菜はすぐに携帯を取り出し、震える指で雄太に電話をかけた。
1回、2回……10回目にして、ようやく電話が繋がった。
しかし、電話の向こうから聞こえてきたのは、由理恵の挑発的な声。
「綾菜さん。今、雄太さんはあなたに構ってる暇なんてないの。だって、私と一緒にいるんだから。だから、ちょっとは空気を読んで、邪魔しないでもらえるかしら?」
綾菜は唇を震わせ、歯の間から声を絞り出した。
「雄太に代わって」
電話が奪われるような音がした後に、すぐに雄太の聞き慣れた声が聞こえてきた。
「綾菜、どうした?ごめん、今夜は少し帰りが遅くなりそうなんだ。会社でちょっと処理しないといけないことがあってさ」
綾菜は雄太が何をしているかなんてどうでもよく、焦って問い詰める。
「私の絵をどこにやったの?」
雄太は綾菜がひどく焦っている様子を感じ、すぐに彼女を宥めた。
「綾菜、ちょっと落ち着いて。以前、お前のために個展を開いてやるって約束しただろ?
だから、お前の絵は全部、会場に運び込んであるんだよ。サプライズをしようと思ってさ。これも由理恵のアイデアなんだよ。最近、お前はなんだか色々あるみたいだから、それを少しでも癒せるんじゃないかって言ってくれて」
強い不安が、綾菜の心臓を鷲掴みにする。
由理恵のアイデア?あの女がそんな親切なはずがない。
綾菜が何か言う前に、雄太は用事があると言って、早々と電話を切ってしまった。
すぐに雄太からメッセージが届く。
【綾菜。住所を送ったから。また明日ね】
その晩、綾菜は眠れない夜を過ごした。
翌日、住所を頼りに見知らぬ美術館の前にやってきた。
完璧な笑顔を浮かべる雄太が、すでにそこで待っていた。
「綾菜!待ってたよ!」雄太は自然に綾菜の手を取り、「さあ、お前のために用意した個展を見に行こう」と言った。
綾菜は雄太に半ば引きずられるようにして会場に入った。
雄太はさらに勿体ぶって、スカーフで優しく綾菜の目隠しをする。
サプライズをしたいんだ、と雄太は言った。
しばらく静かに歩いた後、雄太は足を止めた。
スカーフが解かれた瞬間、眩しいほどの照明がつき、綾菜は眩しさに目を細める。
目が慣れてくると、綾菜は息を呑んだ。
自分の絵が!寝る間も惜しんで、心血を注いで描いた作品たちが!
今は見るも無惨にペンキをかけられ、目も当てられない姿になっているではないか!
雄太はすぐに近くのスタッフの腕を掴み、怒りを顕にする。
「どういうことだ!わざわざお前たちに準備を頼んだのに、なぜこんなことになっているんだよ?お前たちは何をしてたんだ?」
スタッフたちも驚いたが、何度も手を振り、慌てて説明した。
「ち、違います、黒崎社長。これは横山さんが……以前、横山さんから、このように飾るようにと指示がありまして……何度も確認したのですが、『破壊もアートの一種だから、作者の方もきっと喜んでくれるはず』と……」
綾菜は死んだようにその場に立ち尽くし、手のひらが痛くなるほど拳を握りしめていた。
果てしない憎しみと絶望が理性を押し流し、振り返って雄太の腕を強く掴む。
その声は、極度の怒りで激しく震えていた。
「雄太!あなたも見たでしょ!これがあなたが大事にしている由理恵がやったこと!この絵が私にとってどれだけ大事か知らない訳はないよね?なのに、どうして彼女に任せたの!?」
雄太の目に一瞬だけ罪悪感の色が浮かぶ。
しかし、すぐに彼は宥めるような表情になり、綾菜の手の甲を摩った。
「綾菜、落ち着いて。必ずなんとかするから。だから、安心して」
そう言うと、雄太は綾菜の手を離し、「由理恵に話をつけてくる」と背を向けた。
去っていく雄太の背中を見る綾菜は、心の中の怒りと悲しみをもう抑えられなかった。
綾菜は迷うことなく、雄太の後を追いかけた。
第5話
綾菜は雄太が自分のために由理恵を問い詰めてくれるものだと思っていた。
しかし、目の前に広がっていた光景は、全身の血の気を凍りつかせるものだった。
由理恵が雄太の胸で目を真っ赤にして、しくしくと泣いていたのだ。
そして雄太は由理恵を優しく抱きしめ、背中をそっとさすってあげている。
綾菜の心に、怒りの炎が燃え上がった。激しい怒りのせいで、体が小刻みに震える。
綾菜は駆け寄ると、雄太の腕をぐっと掴んだ。
「雄太!私のためになんとかしてくれるんじゃなかったの?なのに、この茶番は何?私のこと忘れたわけ?」
はっと顔を強張らせた雄太は、綾菜の手を乱暴に振り払う。
そして彼から発せられるその言葉は、一語一句が骨身に染みるほど冷たかった。
「綾菜、やりすぎなのはお前の方だ」
綾菜は自分の耳を疑い、息を呑んだ。
「なんて?」
すると、雄太が由理恵の手首をそっと持ち上げて見せてきた。
その華奢な手首には、分厚いガーゼが巻かれている。
由理恵が恐怖と恨みの入り混じった目で綾菜を見つめた。
「綾菜」雄太の声には、深い失望と疲れが滲む。
「最近お前が、俺と由理恵の関係を疑って、彼女を目の敵にしてたのは知ってる。だけど、だからって男たちをけしかけて、由理恵を襲わせるなんて!おまけにいかがわしい写真まで撮らせようとしたんだって?
もし由理恵が死に物狂いで抵抗しなかったら……由理恵はどうなっていたと思う?」
歯を食いしばる雄太のその瞳には、深い悲しみと嫌悪の色が浮かんでいた。
「綾菜、お前が……どんどん分からなくなっていくよ」
綾菜は信じられない思いで雄太を見つめた。心の底から冷たいものがこみ上げてくる。
「雄太……お願いだから、状況をちゃんと整理した上で私を悪者にしてくれる?
こんな下手な演技なのに、あなたには分からないの?ちょっと泣き真似をされただけで、全部信じちゃうわけ?」
すると、傍にいた由理恵が、いきなりその場にどさっと崩れ落ちた。
綾菜の服の裾を掴み、ぼろぼろと涙をこぼす。
「綾菜さん、お願いだからもうやめて!私が悪かったの……あなたのことを傷つけようなんて思ったことないし、雄太さんを奪おうなんて考えたこともない。
それなのに、私にこんな酷いことをするなんて……女にとって自分の体がどれだけ大事なものか、分かるでしょ?だからお願い、もうこんな陰湿なことはやめて……」
そう言いながらも、由理恵は挑発するような視線を綾菜に向けていた。
綾菜は拳を固く握りしめた。爪が掌に食い込み、鋭い痛みが走る。
もう我慢の限界だった。綾菜は手を振り上げ、この嘘つき女の顔をひっぱたいてやろうと思った。
こんな手に騙されるものか、と。
しかし、振り上げたその手は、雄太に強く掴まれた。
彼の目の奥には冷たい光が宿り、綾菜を殺さんばかりに睨みつけている。
「まだ懲りないのか?悪事がバレて逆ギレ?それとも、人の尊厳を踏みにじることなんて、お前にとっては些細なことなのか?」
雄太は一瞬言葉を切ると、口の端を残酷に歪めた。
「そういうことなら……お前も、由理恵がされたことをその身で味わってみろ。それが……彼女への罪滅ぼしだ」
綾菜は信じられない思いで目を見開いた。雄太が何をしようとしているのか、理解する間もなく、暗がりから見知らぬ男たちが数人現れ、乱暴に綾菜の腕を掴んだ。
そして、隣の薄暗い部屋へと乱暴に押し込む。
ドアが重い音を立てて閉められた。
男たちがいやらしい笑みを浮かべ、綾菜の服を引き裂き始め、まるで心臓を抉られるような、激しい痛みが綾菜を襲う。
長年付き合ってきた恋人が、自分をこんな獣たちに襲わせるなんて。
絶望が津波のように押し寄せてくる。もう、だめだと思ったその時……
綾菜は最後の力を振り絞り、側にいた男を突き飛ばす。
そして部屋の大きな窓に、ありったけの力で体ごと飛び込んだ。
ドンッ――
鈍い音と共に、体が道路に面した花壇の上に叩きつけられた。
激しい痛みが全身を駆け巡り、骨が粉々になったかのような衝撃が全身に走る。
薄れゆく意識の中、ぼんやりと一つの考えが浮かんだ……自分はこのまま死んでしまうのだろうか?
第6話
綾菜は朦朧としながらも、なんとか力を振り絞って前に這い進む。
1ミリ動くだけで、骨をナイフで削られるような激痛が走った。
後ろから、泣きじゃくる由理恵を連れた雄太が追いかけてきた。
地面を必死に這う綾菜を見下ろし、雄太は目に、一瞬哀れみの色を浮かべる。
しかし、口を開くとその声には非難の色が混じっていた。「綾菜、ちょっと怖がらせたかっただけなんだ……なのに飛び降りるなんて。
お前は、俺のことをそんなに信じてないのか?」
雄太はしゃがみこみ、綾菜の手を掴む。
「早く一緒に戻ろう。由理恵も、もうお前を責めたりしないって言ってたからさ」
しかし綾菜は雄太の手を振り解き、血の気のない唇を噛みしめ、道路の中央へと這い続ける。
もう二人の顔なんて、一目たりとも見たくなかった。
もがきながら道路の中央にたどり着いたその時、まぶしいヘッドライトが突然、夜空を照らした。
綾菜は強い光に目がくらみ、鋭いブレーキ音をが耳を擘く。
ドンッ。
体が宙に飛ばされ、地面に強く叩きつけられると、綾菜すぐに意識を失った。
次に目を開けたとき、綾菜は自分が由理恵と背中合わせに、古びた工場の柱に縛りつけられていることに気づいた。
体には冷たい爆弾が巻きつけられ、タイマーが冷酷に時を刻んでいる。
ナイフを持って二人の前を行ったり来たりしているのは、多分犯人だろう。
時折、ナイフの先端を由理恵と綾菜の顔の前でちらつかせた。
「お前たち二人、どっちが黒崎社長の本当の恋人なんだ?あいつのせいでうちの会社は大損害をくらい、株価も大暴落……今日はあいつにも苦痛を味わわせてやる。早く言え、どっちが社長に大切にされているんだ?」
隣の由理恵はとっくに恐怖で顔面蒼白になっていて、支離滅裂に泣き叫んでいる。
「綾菜さんよ!私は雄太とは何の関係もない……綾菜さんが彼の彼女なんだから!殺すなら彼女を殺して、お願いだから私は助けて……」
その言葉を聞いた瞬間、綾菜は信じられない思いで顔を向けた。
隣で泣いているその顔を見て、心の底から軽蔑が湧き上がってくる。
これが雄太が長い間愛してきた女?
もし由理恵がこんなにも自己中心的な人間だと知っても、雄太は迷わずに彼女を庇うのだろうか?
その時、工場の錆びついた鉄の扉が、勢いよく蹴り開けられた。
額に汗を滲ませた雄太が大きな金の袋を手に飛び込んできた。
袋を犯人の前に放り投げ、張り詰めた声で叫ぶ。
「金は持ってきた。早く二人を解放しろ!」
犯人はちらりと一瞥すると、鼻で笑った。
「これっぽっちか?うちの会社の損失を埋めるには、端金にもなりゃしねえ」
犯人は一瞬言葉を切ると、不気味な笑みを浮かべた。
「だが……まあ、黒崎社長も今日は誠意を見せたってことだもんな」
そう言うと、犯人は突然手元のリモコンのボタンを押した。
由理恵と綾菜の体に巻きつけられた爆弾のタイマーが、同時にものすごい勢いでカウントダウンを始める。
「一人だけ助けるチャンスをやるよ!」
犯人が狂ったように笑い始めた。「選べよ、黒崎社長。どっちを連れて帰るんだ?」
犯人はリモコンを叩きつけて粉々にし、さらに2度3度踏みつけると、金の袋を持って去っていった。
次の瞬間、雄太が連れてきた爆弾処理の専門家が、焦ったように声を潜める。
「黒崎さん、爆弾の構造が複雑で、時間的に1人しか救えません!今すぐ選んでください、さもないと2人とも助かりませんよ!」
雄太の顔は真っ青になり、歯を食いしばる音が聞こえるほどだった。
彼の視線は綾菜と由理恵の間を激しく行き来し、拳は指の関節が白くなるほど強く握りしめられていた。
「だめだ、2人とも助けるんだ!」
「無理です、黒崎さん!もう時間がありません、1人しか!」
「ああっ!」
ついに雄太は、追い詰められた獣のように、魂を絞り出すような叫び声を上げた。
「由理恵だ!由理恵を助けろ!!」
やはり、雄太の心の中で私はとっくにどうでもいい存在になっていたのだ。
一筋の熱い涙が、綾菜の目尻からこぼれ落ちる。
爆弾のカウントダウンが止まると、雄太はなりふり構わず駆け寄ってきた。
由理恵の体のロープを引きちぎり、その体を強く抱きしめる。
しかし綾菜のほうには目もくれず、ただ慌ただしく一言だけ言い捨てたのだった。
「綾菜、もう少しの辛抱だ……専門家はすごいんだから。きっとお前を助けてくれると信じてる」
そして雄太は由理恵を横抱きにすると、振り返ることなく工場を飛び出していった。
ガラガラという音を立てて鉄の扉が閉まり、最後の光さえも遮断された。
工場の中には、綾菜と険しい顔つきの爆弾処理の専門家だけが残された。
タイマーが最後の30秒に突入する。
専門家は額に冷や汗を浮かべながら、数秒間なにかを試していた。
しかし、すぐに数歩後ずさると、綾菜の方を深く見つめた。
その目には、申し訳なさとどうしようもなさ、そして無力さからくる恐怖が浮かんでいた。
すると、次の瞬間にはなんと踵を返し、裏口に向かって一目散に走り出し、暗闇の中に消えていったのだ。
……
冷たい柱に縛りつけられたまま一人残された綾菜。
タイマーの数字が時を刻む。10、9、8……
時間が急にゆっくりに感じられた。
たくさんの思い出が目の前を駆け巡っていく。初めて会った時の雄太の笑顔。不器用に誕生日を祝ってくれた時のこと。
雨の中で自分のために傘を差してくれたこともあったのに。
でも、最後に浮かんだのは由理恵を背中に庇いながら、自分に向けたあの冷たい眼差し。
思い出全てが粉々に砕け散っていく。
「ふっ……」
綾菜はどこまでも自嘲的で冷たい笑い声を漏らした。
そして、ゆっくりと目を閉じる。心にはもう、何の感情もなかった。
「もしやり直せるなら……雄太、あなたになんて出会わなければよかったよ」
ドカーン――
耳をつんざく爆発音が、全てを飲み込んだ。
炎が天を焦がし、廃工場全体が轟音と共に激しく揺れる。
そして一瞬のうちに、灼熱のがれきの山と化したのだった。