Đang tải thông tin quảng bá...
君と星を拾う夜明け前
古川光奈子(ふるかわ みなこ)は、足掛け十年もの時をかけ、ようやく近藤千隼(こんどう ちはや)の隣に並ぶ権利を得たはずだった。 名前さえ...
Chương (1)
第1章
古川光奈子(ふるかわ みなこ)は、足掛け十年もの時をかけ、ようやく近藤千隼(こんどう ちはや)の隣に並ぶ権利を得たはずだった。
名前さえ覚えられていなかった片思いの相手から、彼が自らの口で認める「婚約者」という座を手にするまで。
だが、挙式をわずか半月後に控えたある日、光奈子はすべてを手放す決意を固めた。
「先輩、赤砂島支所への異動を希望します。リストに私の名前を加えてください」
光奈子は署名済みの申請書をデスクに置いた。その声は、不気味なほど穏やかだった。
モニター越しに担当者である先輩が顔を上げ、驚愕に目を見開く。
「君と近藤室長は来月結婚するんじゃなかったか?」
第1話
古川光奈子(ふるかわ みなこ)は、足掛け十年もの時をかけ、ようやく近藤千隼(こんどう ちはや)の隣に並ぶ権利を得たはずだった。
名前さえ覚えられていなかった片思いの相手から、彼が自らの口で認める「婚約者」という座を手にするまで。
だが、挙式をわずか半月後に控えたある日、光奈子はすべてを手放す決意を固めた。
「先輩、赤砂島支所への異動を希望します。リストに私の名前を加えてください」
光奈子は署名済みの申請書をデスクに置いた。その声は、不気味なほど穏やかだった。
モニター越しに担当者である先輩が顔を上げ、驚愕に目を見開く。
「君と近藤室長は来月結婚するんじゃなかったか?
室長を追いかけてこの研究所に来たことは、所内の誰もが知ってるぞ。ようやくゴールインというこの土壇場で、なぜあんな絶海の孤島なんだ?」
光奈子は喉の奥から込み上げる苦い塊を無理やり飲み下し、先輩の親切な忠告を遮った。
「先輩、承認をお願いします」
彼女がこの数年、千隼の隣に立つためにどれほどの血肉を削ってきたか、周囲は知っているつもりでいるのだろう。
自身のキャリアを捨て、千隼の「生活アシスタント」兼務の研究員に志願したこと。他者との接触を極端に嫌う彼に対し、並外れた根気強さで接してきたこと。
十年かけて、彼にとって自分の存在を「あって当たり前」の空気のようなものにした。雑事を処理し、煩わしい人間関係をすべて排除した。
傍目には、千隼にとって光奈子はすでに特別な存在に映っていただろう。
あの孤独で偏屈な天才科学者が、唯一光奈子の誕生日だけは記憶し、彼女の体調不良時には特例として所内休憩室での宿泊を許可するのだから。
だが、光奈子だけは真実を知っていた。
誕生日プレゼントが高額な現金の振り込みで済まされるのは、彼が贈り物選びに一秒たりとも時間を割きたくないからだということを。
そして宿泊を許されたあの夜、彼が徹夜で解析作業に没頭し、隣室で熱にうなされる自分に、ただの一度も声をかけなかったことを。
千隼がプロポーズした理由も、彼女が彼の心を動かしたからではない。二ヶ月前の「廃工場での監禁事件」が引き金であることを、誰も知らない。
産業スパイに拉致された彼を救うため、光奈子はたった一人で現場に乗り込んだ。
そして千隼をかばい、犯人グループの標的となったのだ。
地面に蹴り倒され、背中に鉄パイプが振り下ろされる。
鈍い音が響く。
それでも光奈子は悲鳴ひとつ上げず、それに逆上した犯人は、彼女の頭を冷たいコンクリートの床に容赦なく打ち付けた。
時間を稼いだおかげで警察が突入し、千隼は無傷で済んだ。だが光奈子は生死の境を彷徨った。
ようやく意識を取り戻した時、必要に迫られない限りラボを出ないはずの千隼が、病床の脇に座っていた。
血走った目、枯れた声。
「日を改めて両親に挨拶に行こう。婚約の日取りを決めるために」
数年の付き合いだ。光奈子には、千隼の瞳に浮かぶ色が「負い目」でしかないことが痛いほど分かってしまった。
彼はただ、罪悪感から責任を取るという、もっとも安易な道を選んだに過ぎない。
それでも彼女は、償いとしての結婚を卑しくも受け入れた。
ただ彼のそばにいる、その資格を得るために。
もし渡辺夏希(わたなべ なつき)が現れなければ、光奈子は一生、自分を騙し続けることができたのかもしれない。
先輩のオフィスを出て行政棟の外に出ると、巨大なスクリーンが国際サミットの会場を中継していた。
数人がスクリーンの下に集まり、興奮した様子で囁き合っている。
「見て!近藤室長と渡辺さんだ!」
「並ぶとお似合いだよね……今回の渡辺さんの論文、室長が直々に指導したって聞いたよ」
「あの合理主義の塊みたいな室長が?やっぱり氷の城壁も、渡辺さんみたいな天真爛漫な子には溶かされちゃうんだな」
周囲のざわめきに、光奈子は目眩を覚えた。研究所の誰もが、夏希と千隼の相性の良さを無邪気に称賛していた。
これほど長く彼に尽くしてきた光奈子こそが「正式な婚約者」であることを知る者は、ほとんどいない。
不快な浮遊感をこらえ、光奈子は顔を上げた。
スクリーンの映像には、夏希が千隼に耳打ちする姿が映し出されている。彼はわずかに頭を下げ、その声に耳を傾けていた。
距離が、近すぎる。
だが、彼は不快感を示さない。
光奈子が業務報告をする際でさえ保たれる3メートルの「安全距離」。それを侵し、他人の吐息が耳にかかることを、今の彼は許している。
彼が引いた境界線は、何人たりとも越えられない絶対的なものだと思っていたのに。
しかし、夏希が現れてから、光奈子は見たことのない千隼の姿を目の当たりにすることになった。
初めて千隼の口から「夏希」という名を聞いた時の衝撃。
散乱したデータの山を前に、彼の顔には微かな笑みさえ浮かんでいた。
「夏希がまたサンプルの順番をバラバラにした」
その口調に非難の色はなく、むしろ呆れと甘やかしが滲んでいた。
恩師である渡辺秀夫(わたなべ ひでお)教授の娘であり、同門の縁でチームに配属された夏希。
彼女は真夏の太陽のように明るく、そして奔放だった。
千隼の指からペンを奪って落書きをし、飲みかけのドリンクを彼の口元に運び、彼が思考の海に沈んでいる時でさえ、背中を叩いて大笑いする。
当初は夏希のアプローチに身を強張らせていた千隼も、いつしか彼女がデスクを散らかしても黙認し、普段なら絶対に口にしない甘い飲料を受け取り、彼女の冗談に口元を緩めるようになった。
もし、夏希が実験室で背伸びをして千隼の頬にキスをする瞬間を目撃していなければ。
そして、指先が触れただけで拒絶反応を示すはずの彼が、一瞬あっけにとられ、耳を赤らめながらも突き放さなかったあの光景を見ていなければ。
光奈子は永遠に知らなかっただろう。
千隼が本当に誰かを好きになった時、彼もまた不器用な少年の一人のように心拍を乱し、原則などすべて捨て去ってしまうのだということを。
光奈子は二人の新居に戻った。
内装工事が終わってから今日まで、千隼は一度も足を踏み入れていない場所だ。
静かにクローゼットを開け、買い揃えた衣類を一枚ずつ取り出して畳む。
厳選した生活用品。彼と共に過ごす温かい日常を夢見て揃えたそれらが、今となっては無言の皮肉となって胸に突き刺さる。
段ボールを用意し、自分の痕跡が残る物を丁寧に梱包し、配送業者の集荷を予約した。
すべてを終えた時、スマホの画面が点灯した。
赤砂島支所への異動申請が、正式に承認されたという通知だった。
ほぼ同時に、千隼からメッセージが届く。
【JA1837便。明晩8時、東都着。迎えに来てくれ】
光奈子はそのメッセージを、長い間見つめていた。
やがてスマホを手に取り、静かに、短く返信した。
【先約があります】
第2話
光奈子の行動は迅速だった。
新居に残された痕跡は、わずか一日できれいに消え去った。
不動産業者が内見客を連れてきた時には、そこに人が住んでいた気配すら感じさせないほど、部屋は無機質な空間に戻っていた。
それはまるで、彼女自身の在り方のようだった。
長い年月を費やしても、千隼の人生に何一つ爪痕を残せなかった虚しさと重なる。
「古川様、本当に売り急いでよろしいのですか?この立地と内装でこの価格設定では、相当な損をされますが」
「構いません」
光奈子は委任契約書にサインを走らせ、淡々と告げた。
「できるだけ早く」
あの頃はあれほど夢見て手に入れたマンションだが、ここを出て行くと決めた今、未練など欠片も残っていなかった。
研究所からは業務の引き継ぎを完了させるよう求められており、あと半月は本部に留まらなければならない。
千隼と夏希が帰国した日、東都は激しい雨に見舞われていた。
実験室でデータを整理していた光奈子のスマホが、無機質に点滅する。
千隼からだ。
【着陸した】
以前なら、どんなに夜遅くても、豪雨の中でも、この文字を見ればすべてを放り出して駆けつけた。
高熱でうなされていても無理をして車を出し、彼を待つ間に意識を失いかけ、結局千隼がタクシーで戻ってくることになった時でさえ。
その事実を知った彼が放った言葉は、冷淡極まりないものだった。
「次は体調が悪いなら来なくていい」
心配ではない。
ただの効率的な指示。
その言葉に光奈子は深く傷つき、あろうことか、自分がすべてを台無しにしたのだと自らを責めたものだ。
光奈子はスマホの画面を伏せ、データの照合作業に戻った。
研究所では、輝かしい成果を上げて凱旋した千隼と夏希のために、内輪だけの食事会が開かれていた。
光奈子は欠席するつもりだったが、副所長直々の誘いを断る理由は見つからなかった。
遅れて到着した彼女は、誰の視界にも入らないような隅の席を選んだ。
食事会はすでに中盤に差し掛かっていた。主役はもちろん、上座に座る千隼と、その隣にぴったりと寄り添う夏希だ。
夏希はサミットでの滑稽なエピソードを身振り手振りを交えて話し、テーブルは笑い声に包まれている。
普段なら人を避ける千隼も、ただ静かに座り、不快な素振りを見せていない。
時折、夏希が興奮して彼の腕に触れても、わずかに眉を寄せるだけで、避けようとはしなかった。
「あ、そういえば昨日は本当に大変だったんですよぉ」
夏希が話題を変え、その視線が隅にいる光奈子を捉えた。
「フライトは遅れるし、外は大雨でした。先輩とずっと待ってたのにタクシーがつかまらなくて、スーツケースも中まで濡れてしまいましたよ。
古川さん、以前はいつも空港まで迎えに来てくれてましたよね?今回はどうして来てくれなかったんですか?」
一瞬にして、その場の全員の視線が光奈子に突き刺さる。そこには、下世話な好奇心と、こちらの腹を探るような色が混じっていた。
光奈子は箸を置き、ナプキンで口元を拭うと、夏希の悪気など微塵もない無邪気な視線を真っ直ぐに見返した。
「送迎の手配は、私の業務範囲に含まれておりません」
夏希の笑顔が凍りついた。
上座の千隼が、ようやくこちらに視線を向けた。
その顔は無表情だったが、眼底に一瞬よぎった驚きを、光奈子は見逃さなかった。
そう、彼は慣れきっていたのだ。
光奈子の至れり尽くせりの献身に。必要な時には必ず現れる彼女という機能に。
まるで空気のように、ある時は意識もしないが、消えて初めて微かな息苦しさを覚えるだけの存在に。
食事会は微妙な空気を孕んだまま終了した。
お開きの際、廊下の突き当たりで千隼が光奈子を呼び止めた。
「どうしたんだ?」
その声は、いつも通りの平坦なものだった。
光奈子は足を止め、彼を見つめた。
廊下の照明が男の端正な顔に淡い影を落とす。かつては、こうして彼を見つめられるだけで一生分の幸福だとさえ錯覚していた。
「何がですか?」
「夏希に悪気はないんだ」
千隼は言葉を選ぶように、一瞬の間を置いた。
「今回のサミットで、夏希の専門分野には大いに助けられた。お前は俺の生活サポートも兼ねているのだから、そういった雑務は本来……」
光奈子には手に取るようにわかっていた。彼は、自分が夏希に嫉妬して癇癪を起こし、その当てつけで公衆の面前で彼の顔を潰したのだと解釈している。
「近藤室長」
仕事外でこのように呼んだのは、これが初めてだった。声は大きくなかったが、千隼の言葉を遮るには十分な冷たさを持っていた。
彼は驚いたように光奈子を見た。
「癇癪を起こしているわけではありません。
誰と一緒にサミットへ行ったかなんて、どうでもいいんです」
千隼の視線を受け止め、心臓に鈍い痛みが走る。
だが、光奈子は深く息を吸い込み、心の底で幾度も繰り返してきた言葉を、ついに口にした。
「私たちの婚約、白紙に戻しましょう」
第3話
千隼は怪訝そうに眉をひそめた。
「何を言っている?」
彼が言葉の意味を咀嚼しきれない隙に、廊下の向こうから夏希が駆け寄ってくる。
「先輩!3番のサンプルに異常が出ました!」
千隼は弾かれたように彼女の方へ向き直る。
「どうした?」
「臨界値を突破しています、早く来てください!」
夏希は彼の袖を引く。
彼は振り返り、光奈子を一瞥だけして、冷静に告げた。
「緊急事態だ。この話は後でしよう」
そう言い捨てると、光奈子に反論の隙すら与えず、夏希と共に足早に去っていった。
その場に立ち尽くし、光奈子は二人の白衣が翻って消えるのを見つめた。
表情は、抜け落ちていた。
意外ではなかった。千隼にとっては、いつだって研究が最優先であり、光奈子の存在など付属品に過ぎないのだ。
そして、彼の言う「後で」という言葉が履行されることは、十中八九あり得ない。
どうせ結婚式の雑事など、彼にとってはただ金を払って済ませる事務処理でしかないのだから。
とりあえず、通知はした。
これで義務は果たされた。
新居は売却の手続きに入り、以前のワンルームもとうに解約している。光奈子は今になって、自分がこの世界で一時的な寝床さえ失っている事実に気づいた。
三十分後。光奈子は古びた団地の一室、その錆びついた鉄扉の前に立っていた。
ドアを開けたのは母・古川香苗(ふるかわ かなえ)だった。
彼女を見るなり、顔をくしゃくしゃにして、卑屈な笑みを貼り付けた。
「あら光奈子?どうしたの急に?千隼さんは?一緒に上がってこないの?」
光奈子は体を横にして中に入り、淡々と言った。
「彼は来ていない」
茶の間では、父・古川琥太郎(ふるかわ こたろう)と弟の古川和樹(ふるかわ かずき)が畳の上に寝転がり、ちゃぶ台に足を投げ出してテレビを見ていた。
物音に気づいた琥太郎はすぐに上体を起こし、光奈子の背後を値踏みするように視線を走らせた。
「千隼さんは?下に車を待たせてるのか?」
「別れたわ」
空気が一瞬、凍りついた。
「……なんだと?」
琥太郎の顔から笑みが消え、のそりと立ち上がる。
声が裏返った。
「別れた?別れたとはどういうことだ!」
「婚約は取り消し。もう赤の他人ってこと」
光奈子は繰り返した。その口調には、感情の欠片も乗っていなかった。
ドガッ――!
琥太郎がいきなり目の前のちゃぶ台を蹴り飛ばした。湯呑みや菓子鉢が宙を舞い、床に散乱して砕け散る。
熱い茶が光奈子の脛にかかり、焼けるような痛みが走った。
「この役立たずがッ!」
琥太郎の額には青筋が浮かび、娘の鼻先を指差して罵声を浴びせる。
「誰のおかげでここまで大きくなれたと思ってるんだ!千隼さんがどんな人物か分かってるのか?どれだけの人間が取り入りたくてもできない相手だぞ!それをお前、別れただと?」
弟の和樹はふんぞり返ったまま、貧乏ゆすりで畳を鳴らしながら口を開いた。
「姉貴さぁ、言っちゃ悪いけど。千隼さんがどんな地位にいるか理解してる?周りにいるのはトップクラスのエリートばかりだろ?
聞いたぜ、職場の渡辺夏希って人、教授の娘なんだって?それこそ釣り合いが取れてるって言うんだよ」
彼は鼻で笑い、光奈子を上から下まで品定めするように舐め回した。
「お前はその顔以外に何がある?千隼さんに拾われただけでも拝むべきレベルだろ。少しでも身の程をわきまえてるなら、大人しくして、我慢すればいいんだよ。
男なんてのは、遊びの一つや二つ当たり前だ。今さら別れるだのなんだの騒いで、俺の借金はどうするつもりだ?ヤミ金の取り立てが、この可愛い弟を殺しに来てもいいってのか?」
光奈子は、当てが外れて醜く歪んだ三人の顔を見つめ、心を抉るような罵声をただ浴びていた。熱い茶を浴びた脛がずきずきと痛む。けれどその物理的な痛みも、胸の奥に広がる絶対零度の冷たさには、到底及ばなかった。
これが、自分の「家」だ。
かつてはこの小さな箱庭から、たとえ偽りでも温もりを得たいと渇望していた。
稼いだ金のほとんどは、この底なし沼に消えた。
弟の三流私大への寄付金と学費、両親が要求し続ける身の丈に合わない「老後資金」、実家の住み替えの頭金……
感覚が麻痺するほど尽くしても、心に卑しい期待を隠し持っていたのだ。
千隼との婚約が決まるまで、家族は冷淡そのものだった。それが掌を返したように、急に電話が増え、口調も馴れ馴れしくなった。
時には「疲れていないか」と気遣うことさえあった。
それを遅れてやってきた家族の情愛だと、両親がようやく自分の価値を認めてくれたのだと、馬鹿な彼女は信じていた。
今、その化けの皮は完全に剥がれ落ち、残酷な真実だけが死骸のように転がっている。
彼らが求めていたのは、「近藤千隼」から搾り取れる利益であって、「古川光奈子」という人間ではなかったのだ。
光奈子はもう何も言わず、火傷の手当てもしなかった。
壁際のスーツケースを引き寄せ、くるりと背を向けて出口へと歩き出す。
「おい!どこへ行く気だ!親に口答えして出て行くつもりか!
出て行くなら二度と敷居を跨ぐな!誰がお前なんか人間扱いしてやるものか!」
光奈子は全身の力を込めて鉄扉を閉め、すべての罵倒と喧騒を背後に遮断した。
古びた廊下のセンサーライトが明滅する中、彼女は冷たい壁に背中を預け、深く息を吐き出した。
世界はこれほど広いというのに、行く当てなど、何処にもなかった。
第4話
光奈子はスーツケースを引き、研究所の厚生課で職員宿舎の鍵を受け取った。
部屋は最上階の隅。半月ほどを凌ぐ仮住まいとしては十分だろう。
彼女は細々とした私物や書籍が入った重い段ボール箱を抱えていた。
階段を上がろうとしたその時、上から降りてくる千隼と夏希に出くわした。
夏希はファイルを片手に千隼と談笑しており、あやうく光奈子と衝突しそうになる。
「あら」
彼女はずり落ちそうになった光奈子の箱を、とっさに支えた。
「古川さん、何を運んでるんですか?こんなに重いのに……私、運びますよ」
夏希は屈託のない笑顔で、親しげに申し出る。
光奈子は反射的に腕に力を込め、その接触を拒絶した。
「結構です」
「遠慮しないでくださいよ、私これでも体力には自信あるんですから!」
夏希が強引に手を伸ばそうとする。
その時だった。傍観していたはずの千隼が不意に一歩踏み出し、横から段ボール箱をさらうように奪い取った。
それを見た夏希が笑う。
「あっ、先輩!その手は精密実験を行う国宝級の手なんですよ?こんな力仕事させちゃダメですって!」
千隼が夏希に目を向けた時、その冷徹な瞳には、ごく薄い笑みが滲んでいた。
光奈子が一度も向けられたことのない、甘やかすような、冗談めいた口調。
「お前のような『お嬢様』の手じゃないんだ」
その言葉はあまりにも軽く、しかし鋭利な棘となって、不意に光奈子の心臓を貫いた。
彼のアシスタントになりたての頃、重い文献の山を崩してしまったことがある。
慌てて拾い集める光奈子を、通りかかった千隼は一瞥しただけで、一本たりとも手を貸すことなく去っていった。ただ後日、総務に台車を手配させただけだ。
彼は決して「俺がやる」とは言わない男だった。
ましてや、そんな親密な冗談めいた口調で、彼女を「お嬢様」扱いすることなどなかった。
夏希は千隼の言葉に頬を染めて笑った。
「もう、先輩ったらまたからかいますよ!」
千隼はそれ以上何も言わず、光奈子の方を見ずに「何階だ」とだけ聞いた。
「四階です」
光奈子の声は、砂のように乾いていた。
二人は箱を抱えたまま、談笑しながら階段を上っていく。
夏希は先ほどの実験データの特異性について早口でまくし立て、千隼が時折、柔らかな相槌を打つ。雰囲気は穏やかで楽しげだ。
光奈子は数歩遅れて、黙って彼らの背中を追った。
この光景は、嫌というほど見慣れたものだった。
この十年の大半、彼女はこうして千隼の背中を追いかけてきたのだ。
一人で遠ざかる彼の背中を。
そして今、その隣には当然のように夏希が並んでいる。
光奈子はずっと余計な影法師のように必死に食らいついてきたが、決して彼の世界に溶け込むことはできなかったのだと思い知らされる。
402号室の前で、光奈子は鍵を取り出した。
宿舎はベッドと机、ロッカーだけの簡素な作りだが、ユニットバス付きで、掃除は行き届いている。
千隼は段ボールを入り口のたたきに無造作に置いた。
そこでようやく思い出したかのように、狭い部屋を見渡し、視線を光奈子に向けた。
「なぜ寮なんだ?」
光奈子はスーツケースを引き入れ、静かに答えた。
「マンションは売りました」
言い終えて、少しの間を置いた。何か反応を待つように。
問い詰められるか、あるいは驚かれるか。だが背後には短い沈黙があるだけだった。
やがて聞こえたのは、声のトーンすら変えない彼の言葉だった。
「住み心地が悪いなら別の物件を探せばいい。無理をしてこんな所に住む必要はない」
光奈子はゆっくりと顔を上げ、彼を見た。
この人は、まったく気にしていない。
二人の新居がどうなったのかも、なぜ自分がここに移らざるを得なかったのかも。
もしかすると、昨晩告げた「婚約破棄」さえ、ただの一時的な癇癪か冗談だと思っているのかもしれない。
夏希が千隼の背後から顔を出し、口角を上げて言った。
「古川さん、じゃあ片付け頑張ってくださいね。私と先輩はデータセンターに行かなきゃいけないんです」
千隼は軽く頷き、夏希を促して去っていった。
光奈子はその場に立ち尽くし、がらんとした入り口を見つめ、箱の重みで赤く跡がついた自分の手を見下ろした。
無理をする?
本当に「無理」をしていたのは、長年尽くしてきたことが見て見ぬ振りをされたことだ。
満身の愛情が金銭で償われ、命がけの守護が義務感だけの婚約処理で済まされ、彼を笑顔にする「お嬢様」には永遠に勝てない。
胸の奥からせり上がる惨めな感情が、焼けるように喉を塞いだ。
第5話
それから数日は平穏だったが、ある日、光奈子がシミュレーション後の片付けを終えた頃、実験室のドアが勢いよく撥ね飛ばされた。
同僚の佐野恵子(さの けいこ)が、青ざめた顔で飛び込んでくる。
「光奈子ちゃん、大変!お母さんと弟さんが宿舎の入り口で大騒ぎしてるの。警備員さんも手を焼いてて……」
光奈子の心臓が、鉛のように重く沈んだ。
あの日以来、実家への送金を止めていた。だが、まさか職場にまで押しかけてくるとは。
駆けつけると、遠くからでも和樹の汚い罵声と、香苗のヒステリックな喚き声が聞こえてきた。
宿舎の入り口には、遠巻きに野次馬の輪ができている。
香苗は警備員の袖にしがみつき、半狂乱で叫んでいた。
「お願い、通してちょうだい!娘が中にいるのよ!母親を平気で見捨てるような、血も涙もない子なの!」
その横で、和樹が自動ドアのガラスをドカッと蹴り飛ばす。
「おいコラ!隠れてねえで出てこい、光奈子!」
光奈子は人混みをかき分け、前に出た。
「母さん、和樹、やめて。迷惑でしょう!」
「迷惑だと?」
和樹は警備員を振り払い、光奈子の鼻先に躍り出た。
「誰のおかげで大学まで出て、こんないい所に就職できたと思ってんだ、この恩知らずが!今日が返済期限なんだよ。四百万足りねえんだ、今すぐ出せ!」
「毎月送っている生活費で十分でしょう。ギャンブルの借金なんて、一銭も出さないわ」
光奈子の声は、氷のように冷たかった。
「ふざけるな!千隼さんに取り入ってた時は羽振りが良かったくせに、捨てられた途端に金がないだと?」
和樹がいきなり手を伸ばし、彼女を力任せに突き飛ばした。
「調子に乗るんじゃねえよ!」
不意を突かれた光奈子は、冷たく硬いコンクリートの地面に激しく叩きつけられた。
衝撃が骨まで響き、肘と膝からじわりと血が滲む。
周囲は静まり返り、誰もが息を呑んだ。
光奈子は立ち上がろうとしたが、膝に走る激痛に体が言うことを聞かない。
擦り傷の痛みより、実の弟に衆人環視の中で突き飛ばされたという屈辱が、心に深く突き刺さった。
十数年尽くし続けた家族を見上げ、彼女は震える声で言い放った。
「……お金は、ないと言ったわ」
「てめぇ、どこまでナメ腐った口を……!」
完全に理性を失った和樹は、花壇に飾られていた金属製のオブジェを掴み上げ、光奈子めがけて振り下ろした。
周囲から悲鳴が上がる。
その一瞬、誰かが光奈子の視界を遮るように飛び込んできた。
ドンッ!
鈍い衝撃音が響く。
金属の塊は、その人物の背中を直撃していた。
千隼だった。
いつの間にか現れた彼は、光奈子を完全に覆い隠すように守り、その背で一撃を受け止めたのだ。
彼は低く呻き、苦痛に眉を寄せたが、彼女をかばう姿勢は微塵も崩さなかった。
光奈子は、ただ呆きなかった。
和樹は腰を抜かしてへたり込み、香苗も顔面蒼白で震えている。
息子が千隼を殴った!金を無心するどころか、警察沙汰になれば一家の破滅だ!
「警察を呼べ」
千隼の声が、冷徹に響き渡った。
「研究員への暴行、および脅迫だ。監視カメラの映像はすべて確保しろ」
パトカーのサイレンが近づき、和樹と香苗は土気色の顔で連行されていった。
香苗はパトカーに押し込まれる際も、まだ「親に向かってなんてことを!」と泣き喚いていたが、光奈子はその声を遠い世界の雑音のように聞いていた。
人混みが散り、突き刺さるような好奇の視線だけが残る。
光奈子はどうにか立ち上がろうとしたが、膝の震えが止まらずよろめいた。
千隼が黙って手を貸し、彼女の傷を確かめるように見つめた。
「……医務室へ行こう」
光奈子は顔を上げ、彼の瞳の奥を覗き込んだ。
その硬質な眼差しが、ふと、高校時代の彼を思い出させた。
あの頃から、千隼は正真正铭の天才だった。コンクールでは常に頂点に君臨する、手の届かない高嶺の花。
一方の光奈子は成績も平凡、親からも関心を持たれない、クラスで最も目立たない存在。
二人の人生が交わるはずなどなかったのだ。
生理が突然始まり、あまりにも無慈悲な鮮紅が、彼女を座席に縫い止めてしまったあの日までは。
羞恥心で、誰もいなくなるまで身動きひとつできずにいた光奈子の耳に、戻ってくる足音が聞こえた。
千隼だった。
彼は生理用品と、自分の制服の上着を、そっと彼女の机に置いた。
「みんな帰った」
千隼は淡々と言い、視線は礼儀正しく彼女の窮地を避けていた。
「雨がひどい。今なら、誰にも見られない」
窓の外は土砂降りで、彼の濡れた髪と肩が夕闇に沈んでいた。
その瞬間、光奈子の耳の奥で鳴り響く鼓動が、激しい雨音さえも塗り潰していった。
第6話
家では余計者、学校では透明人間。
そんな彼女が憧れることさえ躊躇われた少年が、最も惨めな瞬間に、崩れ落ちそうだった自尊心を守ってくれた。
千隼が恵んでくれた微かな光。それに吸い寄せられる羽虫のように、光奈子は彼の背中を追うことに全てを捧げた。
その後、彼女は死に物狂いで研鑽を積み、彼と同じ大学の門を潜った。
彼は相変わらず選ばれしエリートであり続け、卒業後は研究所の最年少室長へと上り詰めた。
光奈子は迷わずその研究所に履歴書を送った。自身のキャリアも、華々しい昇進の機会も全て捨て、ただ千隼の隣に立つためだけに。
「光奈子?」
彼の声が現実に引き戻す。
医師が傷の手当てをしている横で、千隼は淡々と言った。
「家の問題は早急に片付けろ。仕事に支障をきたさないように」
その言葉は冷水を浴びせられたかのように、庇われた喜びで灯った胸の小さな火を、一瞬で鎮火させた。
彼が自分を庇ったのは、決して光奈子を想ってのことではない。ただ、自分の生活圏を乱されることを忌み嫌っただけだ。
彼女は視線を落とし、短く頷いた。
手当てが終わると、千隼は無機質に時計を見た。
「今夜は研究室の会食だ。一緒に行くぞ」
食事が進むにつれ、話題は自然と最新の研究成果で持ちきりになった。
夏希は当然のように千隼の隣に陣取り、海外での見聞を得意げに披露している。
恩師である渡辺教授は上機嫌で、愛弟子と愛娘を交互に見つめていた。
やがて、教授の視線が二人を繋ぐように留まり、満足げに口を開いた。
「千隼くん、今回は夏希との連携も順調だったようだな。君たちは一方が沈着、もう一方が天真爛漫。専門性も補完し合えるし、実によい相性だ。
君もいい歳だ、研究ばかりでなく身を固めることも考えたらどうだね。うちの夏希は少し子供っぽいが、根はいい子でな……」
意図は明白だった。
千隼に婚約者がいることを知る数人が息を呑み、気まずい視線がそれとなく光奈子を掠める。
夏希は頬を染めて「お父さん!」と抗議してみせたが、その瞳には千隼への期待が溢れんばかりに輝いている。
光奈子は目を伏せ、湯呑みから立ち上る微かな湯気だけをじっと見つめていた。
千隼は数秒の沈黙の後、いつも通りの平坦な声で答えた。
「お気遣いありがとうございます。ですが今はプロジェクトに集中したい時期ですので、そういったことは考えておりません」
言葉が落ちた瞬間、夏希の顔から血の気が失せた。
信じられないという目で千隼を凝視し、みるみる涙を溜めると、彼女は突然席を蹴って部屋を飛び出していった。
「夏希!」
教授の制止も虚しく、彼女の足音が遠ざかる。
千隼は走り去る背中に微かに眉をひそめ、すぐに立ち上がった。
「先生、様子を見てきます」
個室に重苦しい沈黙が流れる。
同僚の恵子が堪り兼ねたように、光奈子に耳打ちした。
「光奈子ちゃん、これ……室長はどうして婚約してるって言わないの?
私から渡辺先生に言いましょうか?」
光奈子は静かに首を振った。
「……必要ありません」
当事者が隠したがっている関係を、第三者が暴露したところで、それは滑稽な話にしかならない。
数分ほど座っていたが、込み上げる胃の不快感に耐えられず、光奈子も「中座します」と席を立った。
彼女はトイレには向かわず、レストランの裏手に広がる静かな中庭へと出た。
夜風が心地よく、個室の澱んだ熱気と酒気を散らしてくれる。
そこで、光奈子は見てしまった。
植え込みの陰で、夏希が千隼の胸に顔を埋めているのを。
嗚咽混じりの、途切れ途切れの声が聞こえてくる。
「どうしてダメなんですか?先輩、好きなんです……未熟なのはわかってます。古川さんみたいに物静かで、聞き分けの良い人には敵わないかもしれませんが……私だって頑張ります!古川さんにできることなら、私だって学べますから!」
千隼はその背に腕を回しはしなかった。だが、突き放そうともしない。
その沈黙こそが、全てを物語っていた。
過去に何度か、彼に触れようとして拒絶されたあの瞬間を、光奈子は思い出していた。明確で、容赦のない拒絶。それを今の夏希は受けていない。
その時、千隼が気配を感じて顔を上げた。
光奈子は無表情のまま、静かに彼を見返した。まるで、出来の悪い芝居の幕間でも眺めているかのように。
ただ、体の横に垂らした手の爪だけが、掌に深く食い込んでいた。
千隼の瞳がわずかに揺れたように見えたが、もはやどうでもよかった。
夏希は自らの悲劇に酔いしれたままで、光奈子の存在に気づきもしない。
「私の方がもっと先輩を理解してます!どうすれば楽しませられるか知ってますよ……」
光奈子はそれ以上留まることなく、きびすを返した。
個室に戻り、体調不良を理由に早退を告げる。
恵子の心配そうな視線を背に、彼女は店を後にした。
一人で宿舎への道を歩く。
心の中の、燃え尽きた灰さえも風に吹かれて散り散りになり、後には虚無だけが残っていた。シャワーを浴び、泥のような眠りに就こうとしたその時、ドアを叩く音が響いた。
扉を開けると、薄暗い廊下に千隼が立っていた。
第7話
光奈子はドアの外に立つ千隼を見つめた。道を空けることも、口を開くこともなく、ただ無言の冷ややかな視線で彼の言葉を待つ。
彼は数秒の沈黙の後、重い口を開いた。
「夏希の件は……断った」
一拍置いて、彼は言い訳めいた言葉を付け加えた。
「変な誤解はしないでくれ」
意外だった。
てっきり、夏希と付き合うことになったという報告だと思ったからだ。
だが彼はここに立ち、わざわざ「振った」と告げに来た。
自分が誤解して傷つくことを懸念したのか?今さら?
光奈子は静かに告げた。
「彼女を受け入れようと断ろうと、私にはもう関係ありません」
千隼はそのあまりに他人行儀な反応を予期していなかったのか、瞳に微かな動揺の色を宿した。
「他に用事がないなら、もう休みます」
「待て、光奈子」
千隼の手がドア枠を押さえ、閉めようとする動作を阻んだ。
声のトーンが落ちる。
「お前は最近、おかしいぞ」
光奈子は何も答えず、視線を逸らして強引にドアを閉めた。
カチャリという無機質な音が、十年間見上げ続けてきた人を閉め出した。
冷たいドアに背を預け、光奈子はゆっくりと息を吐き出す。
胸の奥のどこかが、何かに侵食されたように鈍く痛む。
わざわざ弁解に来るなんて、千隼らしくない。彼が「余計」だと切り捨てるはずの言葉を、彼自身の口から聞く日が来るなんて。
かつては彼の顔色を窺い、その些細な言動に心を振り回された。けれど千隼は、そんな彼女に見向きもしなかったはずだ。
今、光奈子が夏希の件に動じなくなると、逆に千隼が追いかけてくる。
なぜだろう。
滑稽さと虚しさが入り混じった感情がこみ上げ、光奈子は自嘲した。
どれくらい経っただろうか。けたたましいスマホの着信音で、彼女は我に返った。
同僚の恵子からだ。
「光奈子ちゃん!内部システムで公示されたトップジャーナルの論文採用通知、見た?
あの『新型材料』の筆頭著者が、なんで渡辺夏希なの?あれはあなたと室長が主導したプロジェクトでしょう?データだって光奈子ちゃんが何ヶ月も徹夜して出したものじゃない!」
光奈子の全身の血が、一瞬で逆流したかのような感覚に襲われた。
「……何ですって?」
「早くシステムを見て!著者は夏希一人だけなのよ!室長の名前すら載ってない!これどういうこと?」
光奈子は震える手で即座にPCを開き、サイトにログインした。
掲示板の最新ニュースが目に飛び込んでくる。
【渡辺夏希研究員の論文が『Matter&Structure』に正式受理されました……】
『Matter&Structure』はその分野の最高峰だ。
そしてその論文のタイトルは、間違いなく彼女と千隼がここ数ヶ月、最も心血を注いだプロジェクトのものだった。
光奈子が構想を出し、千隼と何度も検証を重ね、三ヶ月間実験室にこもってようやく重要データを得た課題だ。
貢献度から言えば、この論文の筆頭著者は、千隼でなければ光奈子であるべきだ。だが著者欄には、たった一つの名前しかない――渡辺夏希。
千隼の名前すらない。まるで彼が、ただの献身的な協力者であるかのように。
光奈子はすぐさま千隼に電話をかけた。
「論文の署名はどういうことですか」
光奈子は単刀直入に切り出した。
電話の向こうから、千隼の落ち着き払った声がする。
「告白を断ったせいで、夏希は精神的にかなり参っていた。このままでは次の職位審査に響く恐れがある」
光奈子は怒りを通り越して、乾いた笑いが漏れそうになった。
「つまり、私とあなたの研究成果を使って、彼女を慰めたんですか?
私の血の滲むような努力を、手切れ金代わりに彼女へくれてやったんですか?私に一言の相談もなく!」
千隼の返答は淡々としており、論点は巧妙にずらされていた。
「データは既存の実験設備の産物だし、初稿をまとめたのは夏希だ。名前を載せるのは妥当だろう。
この論文の権利は研究所に帰属する。研究室の運営方針と署名の決定権は、室長である俺にある。お前の貢献については、後で反映させる」
光奈子の声が震えた。悔しさ、そして煮えたぎるような怒りだ。
三ヶ月、命を削るように注いだ成果を千隼になかったことにされ、あろうことか他人の踏み台として軽く譲り渡された。
さっきドアの前で、千隼の異例の弁解に心を揺らした自分が滑稽でならない。あれは、夏希にプロジェクトを与えるための、ただの罪滅ぼしの下準備に過ぎなかったのだ。
「反映?どのように?また以前のように、末尾の謝辞に小さく名前を載せるだけですか?
私のことを、何だと思ってるんですか?共著者としての名前もいらない、都合よく働くだけの道具……そう考えておいでですか?」
第8話
電話の向こうが、重苦しい沈黙に包まれた。
しばらくして彼が口を開いたとき、その言葉は光奈子の心を凍てつかせた。
「お前が研究所に来たのは、俺のそばで働くためだったろう?」
光奈子はスマホを握りしめる指が白くなるほど力を込めた。
彼は諭すように、論理的に続けた。
「論文の著者名などという名ばかりのものは、お前にとって重要じゃないはずだ。俺のチームにいれば、お前の立場は俺が守る。
だが夏希は違う。この分野で足場を固め、先へ進むためには、こうした実績が不可欠なんだ」
ドクン――!
光奈子は耳鳴りがし、全身の血が冷え切るのを感じた。
千隼は知っていたのだ。
自分が昇進を諦め、アシスタントに甘んじていた理由を、彼は最初から知っていた。
分かっていないのではない。どうでもよかったのだ。
それどころか、彼は自分の献身と譲歩につけ込み、その心血を注いだ成果を意のままにするための「便利な駒」として利用していたに過ぎない。
光奈子は十年かけて、自らの無謀な愛を証明しようとした。
だが千隼から返ってきたのは、「お前にとっては重要じゃない」、「夏希の方がもっと必要としている」という、あまりにも軽い査定だった。
口を開き、光奈子は反論しようとした。
何の権利があって自分の重要度を勝手に決めるのか、あのデータを得るためにどれだけ徹夜し、どれだけ失敗を重ねたか知っているのかと問い詰めたかった。
けれど、喉が張り付いて声が出ない。
結局、彼女は震える指で、力なく通話を切ることしかできなかった。
数日後。
研究所の大講堂にて、定例の重要学術報告会が開かれた。
夏希の名前でトップジャーナルに掲載されたあの論文は、今回の報告会の目玉の一つだった。
発表者は当然、夏希だ。
彼女は仕立ての良い上品なドレスを纏い、壇上で論文の核心を述べていた。
会場からは時折、称賛のささやきが漏れ、すべてが順調に進んでいるように見えた。
質疑応答の時間になるまでは。スクリーンの端に表示されていたパブリックチャットに、匿名のオンライン参加者が爆弾を投下したのだ。
【報告者・渡辺夏希氏の学術的誠実さに疑義あり。本論文の核心データは、古川光奈子氏が早期に発表した実験データと高度に一致している】
【渡辺氏はデータの出所をどう説明するのか?これは同僚の成果を盗用したデータ捏造ではないのか?】
会場が騒然となった。
スクリーンの文字が拡大され、数百人の目がその告発をはっきりと捉える。
壇上の夏希は顔面蒼白になり、言葉を失って狼狽した視線を最前列の千隼に向けた。
司会者が場を収めようとするが、ざわめきは止まらない。
光奈子の背筋に、冷ややかな戦慄が走った。
彼女がやったことではない。
共倒れになるような過激な手段など、考えてもいなかった。
その時、刺すような視線を感じた。
顔を上げると、千隼と目が合った。
彼は人混み越しにこちらを見ていた。眉を固く寄せ、その瞳には隠そうともしない疑念と……深い失望の色があった。
問う必要すらない。光奈子はその目の意味をすべて悟った。
千隼は、彼女が署名問題に不満を持ち、報復としてわざとこのタイミングで匿名告発をしたのだと決めつけている。
彼の目には今、光奈子が「夏希の将来を潰すためなら研究所の名誉さえ傷つける、浅ましい女」として映っているのだ。
光奈子の心が、底なしの沼へと沈んでいく。
千隼は立ち上がり、奇妙な視線が集中する中で演台へと歩み寄った。
彼は硬直した夏希からマイクを受け取り、騒然とする会場に向き直った。
「近藤千隼です。先ほどの匿名の疑義について、統括責任者として説明します。
本論文のすべての作業は、私の指導と監督の下で行われました。渡辺夏希研究員が主要な完成者であり、その正当性は私の学術的名誉にかけて保証します」
彼は一呼吸置き、顔色の悪い光奈子の方へ、氷のような一瞥を投げた。
「古川光奈子は私のアシスタントであり、あくまで機材のセッティングや書類整理を担当していたに過ぎません。彼女には、本研究のような高度な実験設計を単独で遂行するだけの学術的知見はありません。この成果は、疑いようもなく渡辺夏希のものです」
会場の空気が一変した。
疑惑は消え去り、代わりに安堵と、光奈子への侮蔑を含んだ私語がさざ波のように広がっていく。
「室長が直々に保証したぞ!」
「なんだ、古川はただの雑用係だったのか」
「自分の手柄だと勘違いして騒いだのか?みっともないな……」
光奈子はその場に立ち尽くし、極寒の荒野に裸で放り出されたような心地だった。
千隼は隣で目を赤くしている夏希を見やり、マイクを外して優しく声をかけた。
「続きを話しなさい」