雪山から、もう返事は来ない

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雪山から、もう返事は来ない

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旅の中で、松永遥子(まつなが はるこ)というひどく奇妙な娘に出会った。 どこか虚ろで足元もおぼつかない様子なのに、たった一人で二年も外...

Chương (1)

第1章

旅の中で、松永遥子(まつなが はるこ)というひどく奇妙な娘に出会った。 どこか虚ろで足元もおぼつかない様子なのに、たった一人で二年も外を彷徨い、一度も家に帰っていないという。 片足を引きずりながらも、執拗にヒマラヤ山脈を這い上がってきた。 けれど運命は残酷で、彼女は猛吹雪の中で負傷し、もう二度と山を下りることはできない。 意識が混濁する中、彼女は顔を涙で濡らしながら、二つの小さな人形を私に託す。 「私、たぶんここで死んじゃう。お願い、これを義兄の森下祐介に届けて」 命の灯火が消えかけているというのに、彼女はとても穏やかに微笑んでいる。 「彼に伝えてほしいの。広い世界をたくさん見て、もう彼のことは愛していないって。 それから、安心してって。私はもうあんなに馬鹿じゃないから、誰にも迷惑をかけないよって」 森下祐介(もりした ゆうすけ)? その名を聞いた瞬間、私はその場に立ち尽くす。 海市の港で知らない者はいない、あの海運王だ。 登山前、私は彼が世間を賑わせている婚約のニュースを目にしたばかりだった。 第1話 旅の中で、松永遥子(まつなが はるこ)というひどく奇妙な娘に出会った。 どこか虚ろで足元もおぼつかない様子なのに、たった一人で二年も外を彷徨い、一度も家に帰っていないという。 片足を引きずりながらも、執拗にヒマラヤ山脈を這い上がってきた。 けれど運命は残酷で、彼女は猛吹雪の中で負傷し、もう二度と山を下りることはできない。 意識が混濁する中、彼女は顔を涙で濡らしながら、二つの小さな人形を私に託す。 「私、たぶんここで死んじゃう。お願い、これを義兄の森下祐介に届けて」 命の灯火が消えかけているというのに、彼女はとても穏やかに微笑んでいる。 「彼に伝えてほしいの。広い世界をたくさん見て、もう彼のことは愛していないって。 それから、安心してって。私はもうあんなに馬鹿じゃないから、誰にも迷惑をかけないよって」 森下祐介(もりした ゆうすけ)? その名を聞いた瞬間、私はその場に立ち尽くす。 海市の港で知らない者はいない、あの海運王だ。 登山前、私は彼が世間を賑わせている婚約のニュースを目にしたばかりだった。 …… ゆっくりと閉じられていく彼女の瞳を見つめながら、私はその粗末な泥人形を握りしめる。 「しっかりして、自分の口で言いなさい」 彼女は首を振り、おとなしく笑う。 「彼は私に会いたくないの。私に雪山に登れって言ったのは、彼なんだから」 途切れ途切れに紡がれる彼女の言葉から、ようやく事情が読み取れた。 この二年間、彼女を世界各地へ旅に行かせたのは祐介だった。 そして今回、登山キャンプに申し込んだのも彼の部下だという。 もし彼女が拒めば、無理やり雪山へ放り出される手はずになっていた。 遥子の声は、今にも切れそうな糸のように細い。 「彼は言ったの。私が小さい頃からずっと彼と一緒に育ったから、世界が狭すぎるんだって、だから、彼に執着しちゃうんだって」 それを聞いた私は、思わず声を荒らげる。 知能が人並みではない、足の不自由な女の子を雪山に登らせるなんて。 「デタラメだわ。それじゃあ、あなたに死ねと言っているようなものじゃない」 痛ましげに遥子を見つめると、彼女は小さく頷いた。 「知ってる。でも、いいの」 私は言葉を失う。あまりに純粋すぎるこの娘は、いいように騙されているのではないか。 「遥子、死ぬっていうことがどういうことか分かっているの?」 彼女の視線は定まらず、吹雪の向こうにある遠い場所を見つめている。 「三年前、祐介が白いお薬を飲ませてくれた時に分かったよ」 長い時間をかけて話を聞き、私はようやく理解した。 白い薬、それは睡眠薬のことだ。 三年前、祐介は水に睡眠薬を混ぜ、風邪薬だと偽って遥子に飲ませようとした。 遥子が不意に、どこか誇らしげに笑う。 「本当は、私だって賢いの。でもね、祐介の目が真っ赤だった。彼を泣かせたくなかったから、思いきり飲み込んだの」 彼女の表情が、急に悔しげに曇る。 「でも、祐介がどうしちゃったのか分からない。突然、私のコップを叩き割ったの。 死ぬ暇もなかった。死ぬっていうのは、永遠に眠ること。そうすれば私だって祐介だって、みんな幸せになれるのに」 胸の奥がひどく痛み、預かった人形を彼女に投げ返したい衝動に駆られる。 「この大馬鹿者。そんな酷い男に、どうしてそこまで尽くすのよ」 怪我をしても泣かなかった遥子の目から、突然涙が溢れ出した。 「私が馬鹿だから、いつもみんなに迷惑をかけちゃうの。二十歳の年、私は彼を死ぬ一歩手前まで追い詰めちゃったから」 第2話 遥子の声は、今にも猛吹雪に掻き消されてしまいそうに細い。 「私の父……森下家のために、身代わりになって撃たれたの。だから森下家は恩返しとして、私を育ててくれた」 10歳になるまで、遥子は聡明で活発な少女だった。テストはいつも一位。 けれど、祐介を狙う仇を誘い出す囮になり、激しい暴行を受けた末に、心も身体も壊れてしまった。 祐介は遥子の父の墓前で、一生彼女を愛し抜くと誓った。 やがて彼がのし上がり、港を支配する「海運王」と呼ばれるようになっても、彼女を見捨てることなど微塵も考えていなかった。 しかし22歳の年、森下家に政略結婚の話が持ち上がった。婚約者の条件は、遥子を追い出すことだった。 周囲は誰もが二人はお似合いだと言った。 遥子のような出来損ないは捨てて、容姿端麗で莫大な資産を持つ令嬢と結婚すべきだと。 けれど祐介は、一族から追放されることになっても迷わず遥子を選んだ。 「ねえ、彼って私より馬鹿だと思わない?」 凍りついた涙が、遥子の睫毛に残っている。 「海運王の座も捨てて、私を背負って逃げ回るなんて」 一族は祐介を兵糧攻めにし、彼は行き場を失った。 遥子を養い、治療費を稼ぐため、彼は地下の賭けボクシングのリングに立つしかなかった。 思い出したのか、遥子の身体が小刻みに震えだす。 「私のせい。私のせいで、彼は慣れない肉体労働をして、骨まで折られるような目に遭ったの」 私は驚きに目を見開く。「そこまであなたを愛していた人が、どうして今になって死んでほしいなんて思うの?」 遥子のうつろな顔に、深い罪悪感が広がる。「私みたいな人間を連れているのは、きっと、すごく疲れることだから」 かつての海運王は、彼女のために泥にまみれ、建設現場でセメントを運んだ。 そんなある日、例の令嬢から電話がかかってきた。彼女は泣きながら、後悔していないのかと祐介に問い詰めた。 祐介の手は震え、声も微かに震えた。 「あいつの、あの頼りない姿を見ていると……後悔する勇気すら出ないんだ。あの時のことは、君に申し訳ないと思っている」 電話を切った後、彼は数錠の睡眠薬を水に溶かした。 けれど結局、最後の一線は越えられず、彼は自らカップを叩き割った。 私はたまらない気持ちで遥子を見つめる。 「あなたはあの時……もう分かっていたの?」 彼女の額に、じわりと脂汗が滲む。 「最初は分からなかった。でも、あの日の祐介はすごく怖かったの」 酒に溺れた祐介のために、遥子は不器用ながらも胃に優しい飲み物を作ろうとして、誤ってカップを割ってしまった。 その瞬間、祐介の感情が爆発し、飲み物を激しくなぎ払った。 「遥子!台所には入るなと言っただろう!何を勝手なことをしているんだ、この役立たずが!」 熱い飲み物が遥子の身体に降りかかった。腕に大きな火傷を負いながらも、彼女はおどおどと服の裾を掴み、謝り続けた。 「祐介、ごめんなさい。私がどんくさいから」 そして彼のご機嫌を伺うように、そっと手を差し出した。 「さっきの風邪薬、まだある?風邪をひいちゃったみたい。また飲みたいの」 その言葉が、祐介の堰を切らせた。 「あれは風邪薬なんかじゃない!どうして何年経っても、お前はそんなに愚かなんだ!」 祐介は遥子を引きずるようにして隣人の車を借り、人気のない郊外へと向かった。そして、彼女を空き地に放り出した。 遥子の瞳は、空洞のように空っぽだった。 「彼は、わざとやってるのかって私を責めた。お医者さんはどこも悪くないって言うのに、どうしていつまでも馬鹿なままなんだって」 私は彼女を抱きしめる。胸が締め付けられる思いだ。 「それで、あいつは、あなたをそこに置き去りにしたの?」 遥子は力なく首を振る。 一度は走り去った祐介だったが、数分後、車で戻ってきた。そしてアクセルを限界まで踏み込み、彼女目掛けて一直線に突っ込んできた。 彼女を轢き殺そうとした。 遥子は地面にへたり込んだ。 けれど車は、彼女のわずか一メートル手前で急停車した。 祐介は狂ったように怒鳴り散らした。 「遥子!なんでお前は、車を避けることすらできないんだ!」 激しい怒りが収まると、彼は結局、遥子を抱き上げて車に乗せた。 「もういい、いいんだ。お前を背負い続けるのは、俺の宿命なんだろうな」 遥子の涙が、私の手にこぼれ落ちる。 「あんなに絶望した彼の声、聞いたことがなかった。なれるものなら、私も普通の人になりたかった。 避けなかったんじゃないの。頭の中で、誰かがずっと叫んでたの。私がいなくなれば、祐介は幸せになれるって」 彼女の声から、幼さは消えていた。そこにあるのは、底知れない悲しみと絶望だけだ。 「そんなことない。あなたは馬鹿なんかじゃないわ」 私は彼女を強く抱きしめる。 「たった一人でこんなに遠くまで旅をして、あなたはとても勇敢で、立派よ」 遥子は無理に微笑んでみせたが、記憶はまた混濁し始めている。 「南(みなみ)ちゃん、優しいね。ありがとう。 でも、本当に祐介に幸せになってほしくて。だから私、こっそり彼の婚約者に電話したんだ」 第3話 遥子は、桜井美智(さくらい みち)が祐介を海市へ連れ戻しに来てくれるよう懇願した。 彼女の涙が、私の胸元を濡らしていく。 「これまで何度も、彼に行きなさいって頼んだの。 でもいつも頭を撫でてくれて、一緒に育ったんだから、もう離れられないって言うの」 遥子が突然私の手首を掴む。その力は驚くほど強い。 「でも、美智さんが教えてくれた。彼はまだ私のために犠牲になろうとしているって」 祐介が森下家に戻るためには、落とし前として遥子の片足を差し出さなければならない。 遥子はその場で凍りつき、美智に頼み込んだ。祐介に知られないよう、こっそりA市まで自分の足を取りに来てほしいと。 あの日、遥子は家を抜け出し、左足を美智に差し出した。 彼女を憎んでいた美智は、わざと用心棒が使うような太い棍棒を用意させた。 足に振り下ろされても血は出ず、すぐには折れない。けれど、一度死ぬほどの激痛が走る代物だった。 彼女は何度も殴打された。 凄まじい痛みのはずなのに、遥子の口調にはどこか誇らしさが混じっている。 「でも、祐介のことを想うと、勇気が湧いてくるの。私、逃げなかったよ」 彼女が目を閉じ、次の衝撃に備えたとき、その棒を祐介が遮った。 「何をしている!」 気の強い美智は、隠そうともせずに言い放った。 「このバカが、自分の足一本と引き換えにあなたを帰してほしいって自ら望んだのよ。だから叶えてあげているだけ」 ボロボロになり意識が朦朧としている遥子を見て、祐介は激昂した。 「あの時と同じだ、こいつの独りよがりな犠牲なんて、俺はこれっぽっちも求めていない!」 彼は遥子を抱きかかえて病院へ向かおうとするが、美智は泣きながら走り去った。 「いいわよ、必要ないって言うなら、私の余計なお世話だったわね!」 祐介は立ち尽くしたまま動かなかった。だが突然、遥子を地面に放り出すと、美智を追って走り去ってしまった。 あの日も大雪だった。 足が動かない遥子は、雪の中に放っておかれた。 北国の冬の屋外は、本当に人を凍死させるほど過酷だ。 体温が少しずつ失われていくのを感じながらも、彼女は助けを呼ばず、電話もしなかった。 ただ静かに、雪の中に横たわっていた。 あと一歩で、凍死するところだった。 そこまで聞いて、私は心の中で祐介を罵倒する。 「なんて最低な男なの」 遥子は高熱にうなされ、言葉を発するのも一苦労といった様子だ。 「南ちゃん、あのまま死んじゃっていれば、もっと良かったのかな」 私は背筋が凍る思いで、彼女の体を冷やし続ける。 「馬鹿なこと言わないで。もう喋っちゃだめ、体力を温存するのよ」 遥子は疲れ切った様子で私に寄りかかり、もう私の声も届いていないようだった。 彼女の話では、祐介は根が優しい男なのだという。 彼女の足も欲しくないし、雪の中で死なせたくもなかった。 彼はすぐに引き返してきた。美智の姿はなく、彼のポケットにはペンダントが入っていた。彼は遥子を背負って病院へ急いだ。 医師は、遥子の足は完治が難しいと告げた。 障害が残る可能性があった。 足を治すには、また莫大な費用がかかった。 祐介は、金はもう底をついた、全部知的障害を治すために使い果たしたと言い放った。 そして遥子に問った。「血を売るところまで行かなければ、お前への義理は果たせないのか」と。 遥子の全身がガタガタと震えた。 「彼はもう、私を相手にしてくれなくなった」 退院後、祐介は遥子に一言も話しかけなくなった。 夜になると、彼は翡翠色のペンダントをじっと見つめた。それは、港へ戻るための証だった。 昼間は、闇ボクシングの試合を次から次へと詰め込んだ。 体中の傷が増えていくのを見て、遥子はおろおろと狼狽えるばかりで、どうすればいいか分からなかった。 そんなある日、美智から再び電話がかかってきた。 「今日が最後。私は明日、婚約するわ。あなたが私に少しも気がないなんて信じられない。 それに、あなたの人生をこんなところで終わらせていいはずがない。もし本当に来てくれないなら、今度こそ諦めるわ」 祐介は遥子の目をじっと見据えた。 突然、何かが決壊したように彼女を突き飛ばし、外へと飛び出した。 遥子の声は、もう消え入りそうだ。 彼女の口元に耳を寄せて、ようやく聞き取ることができた。 「あんな時でも、彼は私が勝手に出歩かないか心配して、外から鍵をかけたの」 けれどあの日、二人は忘れていた。部屋の中で火にかけたままの料理があったことを。 吹きこぼれたスープが火を消し、ガスが部屋中に充満した。 そして、あっという間に火の手が上がった。 第4話 遥子は不自由な足を引きずりながら、必死に水を運び、火を消そうとした。 けれど、すぐに煙に巻かれて地面に倒れ込んだ。ドアノブを必死に回しても、鍵がかかっていて開かなかった。 火の勢いは凄まじく、瞬く間に祐介の部屋へと燃え広がった。 遥子の脳裏に、彼が大切にしていたあのペンダントが浮かんだ。 燃え盛る炎に焼かれる痛みに耐え、彼女は必死で部屋の奥へと這い進んだ。 ようやくペンダントを見つけ出したその時、火が彼女の太腿を舐めた。 激痛に体勢を崩し、手から零れたペンダントは、パリンと音を立てて床で砕け散った。 遥子は大声を上げて泣きじゃくり、破片を拾い集めようとした。 「祐介の宝物、壊しちゃだめ。壊しちゃだめなの」 消防隊と共に駆けつけた祐介が目にしたのは、無残に砕け散った破片を握りしめる遥子の姿だった。 私の腕の中で、遥子の身体が突然激しく震えだす。彼女は私の手を握り、何度も「痛い」とうわ言を繰り返した。 「南ちゃん、彼に叩かれたのが、すごく痛いの。 綺麗に直そうとしただけなのに。彼は私に、消えろって、触るなって言った」 私は胸を締め付けられる思いで、彼女の体を撫で続ける。これは全部幻覚なのだと、火も暴力もここにはないのだと必死に言い聞かせた。 「遥子、もう誰もあなたを傷つけない。もう痛くないわよ」 けれど遥子は、突如として血を吐いた。 「彼の目が真っ赤で。私がわざとやったんだろうって。彼を家に帰したくないから、わざと壊したんだろうって責めるの。 そんなことないのに。私は、誰よりも彼に帰ってほしかった」 あの日、遥子はただぼんやりと頷いただけだった。 「祐介にいなくなってほしくない。ずっと一緒にいたい」 その一言が、祐介の理性を完全に焼き切った。 彼は消防隊員の手から遥子を力任せに引き剥がし、そのまま連れ去った。 人気の途絶えた路地裏。 祐介は電話で一人の見知らぬ男を呼び出すと、その目の前でナイフを取り出した。 彼は遥子の足を押さえつけ、憎しみを込めて三度、深く切りつけた。 刃を振り下ろすたびに、祐介の声は崩壊した。 「遥子!最初にお前が言い出したことだろう!俺はもうお前に借りなんてない。一ミリも残っていないんだ!」 最後の一撃が振り下ろされたとき、遥子の服は、どろりとした鮮血で赤く染まった。 祐介は二度と彼女を振り返ることなく、血のついたナイフを手に、部下と共に海市へと謝罪に向かった。 話を聞き終えた私の目からは、涙が止まらなくなった。 「遥子、あなたの足は、そんな風に壊されたのね。 あんなに血を流して、痛かったでしょう?辛かったでしょう?」 返事は期待していなかった。彼女の意識はもう、現実にはないのだから。 けれど彼女は、震える手を伸ばして、私の涙をそっと拭った。 「あの日、彼も同じことを聞いたよ。 南ちゃん、不思議だね。私は痛くないんだよ」 そう言い残すと、彼女は全ての力を使い果たしたように意識を失った。 私は彼女を必死に揺さぶるが、二度と目は開かない。 ただ彼女を強く抱きしめ、祈り続けるしかなかった。 神様、どうかこの哀れで無垢な娘を、一度でいいから幸せにしてあげてください。 夜更け、遥子がふと目を覚まし、嗚咽を漏らし始めた。 私は強く抱きしめる。 「遥子、夜が明けたら救助が来るわ! 生きて、あんな最低な男を見返そう!」 彼女が痛いとつぶやくたび、私の涙も止まらない。 遥子は知能は幼くても、誰より強い娘だ。この二年の旅路で毒虫に刺されても、一度だって泣き言を言わなかった。 そんな彼女がこれほど苦しんでいる。一体どれほどの激痛なのだろうか。 遥子の口から、血が溢れ出す。 「昔は、お金を稼ぐのがあんなに大変だったのに。彼はいつも食べ物を全部私にくれて、自分は空腹で倒れちゃうの」 彼女には、私が別の誰かに見えているようだった。 「祐介、この何年もきっと、すごく疲れていたんだね」 私は泣きながら、彼女の口を塞いだ。 「もう言わないで。頑張って、雪はもうすぐ止むから」 遥子の視界は、もう閉ざされようとしていた。 うつろな様子で、彼女が私の耳元に顔を寄せる。 「彼には内緒だよ。私はやっぱり馬鹿で、意気地なしで。あんなにたくさんの場所に行ったのに、結局、彼のことを忘れられなかった」 激しい涙が血と混ざり合い、彼女の顔を汚していく。 「しっかりしなさい。あなたが元気にならなきゃ、彼に全部バラしてやるんだから!」 彼女は私の首に手を回し、消え入りそうな声で囁いた。 「あの人形ね、彼が自分の手で作ってくれたの。 一つは彼、一つは私。どこへ行く時も、離れないようにって」 彼女の瞼がゆっくりと閉じられ、温かい血が私の襟元を濡らす。 「南ちゃん、もし私が、馬鹿じゃなかったら良かったのに」 彼女の目が、完全に閉じられた。 私の首に回されていた両手が、力なく滑り落ちる。 やがて、その微かな呼吸さえも聞こえなくなった。 吹き荒れる雪の中、私の泣き叫ぶ声だけが響き渡る。 …… 吹雪が止むと、私は一人で山を下り、そのまま急いで海市へ飛ぶ。 ちょうど祐介の婚約式に間に合う。 祐介が美智の指に指輪を嵌めようとしたその瞬間、私は式場へと乱入した。 「森下祐介!松永遥子は死んだわ。彼女から預かったプレゼントを届けに来てあげた」