渡り雁は去りゆく

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渡り雁は去りゆく

GoodNovel Hoàn thành

「来栖様、契約はすでに締結済みです。ご希望通り、17日後に『仮死』のサービスをご提供いたします」 応接室で、スタッフがさっき仕上がったば...

Chương (1)

第1章

「来栖様、契約はすでに締結済みです。ご希望通り、17日後に『仮死』のサービスをご提供いたします」 応接室で、スタッフがさっき仕上がったばかりの紙の契約書を来栖葉に差し出してきた。 葉はそれを受け取り、パラパラと目を通しながら、念のためもう一度確認した。 「その仮死用の遺体、ちゃんと私に似せて用意してたんだね?」 スタッフは自信満々に胸を張って頷いた。 「ご安心ください。遺体はお客様の体型にそっくりそのまま作ってますから。絶対にバレません」 第1話 「来栖様、契約はすでに締結済みです。ご希望通り、17日後に『仮死』のサービスをご提供いたします」 応接室で、スタッフがさっき仕上がったばかりの紙の契約書を来栖葉(くるす よう)に差し出してきた。 葉はそれを受け取り、パラパラと目を通しながら、念のためもう一度確認した。 「その仮死用の遺体、ちゃんと私に似せて用意してたんだね?」 スタッフは自信満々に胸を張って頷いた。 「ご安心ください。遺体はお客様の体型にそっくりそのまま作ってますから。絶対にバレません」 その一言に、ようやく少し安心できた。葉はバッグからカードを取り出し、勢いよく決済を済ませると、くるっと背を向けて部屋を出た。 玄関を出た瞬間、真っ先に目に飛び込んできたのは、一台の豪華なロングリムジン。葉の姿を見つけた運転手が、すぐに恭しくドアを開けてくれた。 「お嬢様」 葉は軽く頷いて応え、無言のまま後部座席に乗り込む。運転手がドアを閉め、運転席に戻って車を発進させた。 車はスムーズに走り出し、最終的に来栖家の別荘の前で止まった。 ここは、葉が間宮礼司(まみや れいじ)と同棲するためにわざわざ買った家だ。 戻ってきて間もなく、別荘の玄関が再び開いた。 入ってきたのは、まるで彫刻のように整った顔立ちの男。白いシャツに黒のスラックスというシンプルな格好なのに、ひと目で人を惹きつける美しさがある。どこか冷たくて、近寄りがたい雰囲気をまとっていた。 礼司はゆっくりとカフスボタンを外しながら近づいてきて、そのまま葉を抱き上げるようにして歩き出した。 「礼司、やめて!」 思わず大きな声を出して、彼の腕から逃れようともがいた。 礼司の目が、冷たい月光のようにじっと葉を見つめてくる。 まるで「何をそんなに騒いでるんだ?」とでも言いたげな表情で、低く言った。 「やめてって?毎日俺と寝るって条件で俺を買ったんだろ?違うのか?」 「最近は……ちょっと無理。今月、生理が早く来ちゃって」 視線を落としながら、葉は曖昧な声で嘘をついた。でも幸いなことに、礼司はそれ以上興味を持つこともなく、あっさりと言った。 「じゃあ、仕事に戻る」 最近の礼司は本当に忙しい。ちょうど新しい事業を立ち上げる真っ最中で、葉はできるだけ彼の邪魔をしたくなかったから、黙って頷いて見送った。 今夜はずっと仕事だと思っていたのに、しばらくして、礼司が一本の電話を受けると、突然あわただしく書斎から出てきた。 葉がリビングにいるのを見て、一瞬足を止めた。 「今日はもういいんだろ?ちょっと用事あるから出かける」 いつもの冷たい表情の中に、ほんのわずか焦りの色が見えた。その瞬間、葉は直感的に察した。 その「用事」って、どうせ雅美のことでしょ。 でも、葉は何も言わなかった。ただ静かに頷くだけ。 礼司はそれを了承と受け取ったのか、そのまま葉の横を通り過ぎて玄関へ向かった。 そしてドアノブに手をかけたとき、葉はふと彼の名前を呼んだ。 「礼司……実はね、もうこんな関係、続けなくていいと思ってるの」 礼司は思わず足を止めた。眉をひそめながら立ち尽くす様子は、葉の話を最後まで聞くつもりでいるようだった。だが、彼の目に浮かんだわずかな焦燥感に触れた途端、葉は急に声を失ってしまった。 「……行っていいよ」 結局、最後まで言葉を飲み込んで、そう言って彼を見送った。 礼司の背中が闇に完全に消えるまで、ずっと見つめていた。 そしてようやく、ぽつりとつぶやいた。 「実はね、本当に、こんな関係、終わりにしようって思ってるの。だって……私、もうすぐいなくなるから」 来栖葉――京坂の上流階級出身のお嬢様。美貌もスタイルも、そしてお金も、全部持っている彼女は、今までいろんな無茶をしてきた。 でも、その中でも一番バカなことをしたのは、大学一年のとき、「契約彼氏」を作ったことだった。 あの人は、京大で有名なイケメンだった。 女子たちはみんな彼に夢中で、ラブレターを渡すために列を作ってた。その列は本校だけじゃなくて、他の学校にまで続いてたくらい。 でも彼は、とにかく冷たくて淡々としてて、誰に対しても平等に断ってた。ただ授業とバイトで忙しくて、誰にも興味がなさそうだった。 葉は、そんな礼司に一目惚れした。 どうしてもこの「高嶺の花」を手に入れたくて、いろいろ調べた。そしたら彼は、両親を早くに亡くして、祖母に育てられて、その祖母が最近ずっと寝たきりの状態で…… 彼もその医療費のために、いくつもバイトを掛け持ちしてるってことがわかった。 だから葉は、彼に取引を持ちかけた。 祖母の治療費を葉が負担する。その代わり、礼司が「彼氏になる」っていう契約。 毎日決まった時間に帰ってきて、決まった回数だけ一緒に過ごす。そして、葉が飽きるまでそれを続ける――そんな条件。 当時、祖母の病状は本当に深刻で、大金がどうしても必要だったから、礼司はその提案を受け入れてくれた。 それから、もう5年。 二人は大学を卒業して社会人になったけど、関係はあの頃とまったく変わらない。 礼司の祖母はまだ完治してないし、葉もまだ飽きてない。彼はいまだに葉の別荘に住んでいて、それでも態度は相変わらず冷たいまま。 それでも葉は諦めなかった。時間をかければ、きっと彼の心を溶かせるって、本気で信じてた。 でも、数日前。 うっかり階段から落ちて頭を打ったとき、まさかの覚醒をしてしまった。 気がついたら、小説の中のキャラクターだった。 主人公は礼司。ヒロインは、幼なじみの雅美。 そして葉は……なんと悪役令嬢だったなんて! 原作のストーリーだと、礼司が今取り組んでるあの起業プロジェクトが、あと17日で大成功して、彼は一気にビジネス界の新星になる。 そこからは順風満帆で、やがて業界の頂点に立つって流れ。 そして、成功した彼がまず最初にやるのが――葉に大金を渡して、別れを告げること。 でも葉はそれを拒否して、彼につきまとい続ける。そして、礼司と雅美がどんどん親しくなるのを見て嫉妬して、ヒロインに何度も嫌がらせをしたり、傷つけたりする。 最終的に、葉は礼司に心底嫌われて、悲惨な最期を迎える。それが、原作のシナリオだった。 そんなバカみたいな話、最初は信じたくなかったし、自分がそんな愚かなことをするなんて思いたくなかった。 でも、ここ最近の出来事が、小説の内容とあまりにも一致していて、もう目を逸らせなかった。 何よりも、礼司が何度も自分を置いて雅美に会いに行くようになって……はっきりと分かった。 あの二人は、運命で結ばれてるんだって。 一週間。 葉は苦しんで、もがいて、ようやく決意した。 自分の命を賭けるような賭けなんてできない。 この小説のシナリオから抜け出すためにも、そして、自分の最期を変えるためにも…… もう彼を愛しちゃいけない。 だから死んだふりをして、ここから……そして、礼司から逃げることにした。 第2話 未来に起こる出来事を思い返しながら、葉は一晩中、何度も寝返りを打って眠れなかった。 その夜、礼司は帰ってこなかったし、彼に電話をかけて様子を尋ねることもなかった。 翌朝、葉はいつもより早く目が覚めて、身支度を整えて階下へ降り、一人で朝ごはんを食べ始めた。 別荘の中はしんと静まり返っていて、聞こえるのは葉が食べ物を噛む音だけ。食べ終わる頃になって、ようやく執事がどこか戸惑った様子で近づいてきた。 「使用人はすべてご指示どおりに解雇いたしました。私も今日、実家へ戻りますが、お嬢様、本当に使用人は必要ないのでしょうか?」 「もう大丈夫よ」葉は静かに答えた。 なぜなら、もうすぐここを離れるからだ。 不安そうな執事の視線を受けながらも、それ以上の説明はせず、階上へ行って一通の手紙を持ってきて彼に手渡した。どうしてもその手紙を両親のもとに届けてほしかった。 自らが仮死を装って去った後、両親が深く悲しむのを恐れた葉は、手紙の中で今回の計画についてすべて書いておいた。 十七日後には国外へ渡り、名前を変えて身を隠して生きていくつもりだということ。だから心配しないでほしい、そして時期が来たらこっそり様子を見に戻ると。 両親を連れて一緒に出国することも考えたが、やはり年齢のこともあり、築き上げた生活基盤もここにある。 それに何より、自分が「覚醒した」というあまりにも突飛な出来事を説明しきれる自信がなかった。簡単に話せるようなことではなく、下手をすれば気がふれたと思われかねない。 それに両親まで一緒にいなくなれば、礼司に疑われる可能性も高くなる。色々と考えた末、葉は両親をここに残して自分だけで出て行くことを決めた。 自分の準備が整ったら、今度は礼司のまわりの整理を始めた。 使用人たちを解雇したあと、葉は果物を手土産に、礼司の祖母に会いに行った。 葉にはこれといって「お嬢様らしい」気取りはなく、時間さえあればよく礼司の祖母を訪ねていた。 訪れるたびに色々なものを買って行き、話し相手になったり、スマホの使い方を教えたりして、外に出なくても世界が見られるようにしてあげてた。 冷たい態度の礼司とは違い、祖母は葉をとても気に入っていた。 「葉ちゃん、礼司とはいつ結婚するの?」 またその質問が飛んできたとき、葉の顔には以前のような照れはなく、ただ苦笑いだけが浮かんだ。 結婚なんて、あるわけない。 十七日後、葉はここを去る。たとえ去らなかったとしても、きっと原作と同じ結末を迎えるだけだろう。 礼司が本当に愛しているのは、雅美。自分と結婚する理由なんて、どこにもない。 何も言わない葉を見て、祖母はため息をつきつつも、やさしく声をかけてくれた。 「礼司のことなら、このおばあちゃんが一番よく分かってるよ。あの子があなたに想いがないなんてことはないわ。ただね、ふたりの出会い方が……そうね、普通のカップルとはちょっと違ったでしょう?それが礼司の心に、小さなわだかまりを作っちゃったのよ。そのわだかまりさえなくなれば、きっと仲良くやっていけると思うんだけどね」 祖母の言葉を聞きながら、葉は無理やり笑ってみせた。 葉は物語の展開を知っている。礼司が最初から最後まで愛しているのは、雅美ただ一人。 ヒーローはヒロインしか愛さない。悪役のサブヒロインに恋なんて、するわけがない。 結局何も言い返さず、葉はただカードを一枚差し出した。 「おばあちゃん、このカード……機会があったら、礼司に渡してくれる?」 このカードはもともと、礼司のスタートアップ支援のためにずっと前から用意していたもの。でも、礼司のプライドを傷つけたくなくて、どう渡せばいいかずっと悩んでた。 でも、今はもう意識が覚醒して、離れる覚悟もできた。だからもう、祖母に託すのが一番だと思った。 せめてこれで、礼司が少しでも自分のことを好意的に思ってくれれば。自分が「死んだ」あと、「遺体」に対して何か酷いことをされずに済むかもしれない。 祖母は、葉の様子がいつもと違うことにすぐ気づいて、心配そうに聞いてきた。 「また礼司とケンカでもしたのかい?」 葉は首を横に振った。 「ケンカなんかしてないよ。ただ……しばらくしたら、すごく遠くに行くことになるの」 その言葉を言い終わらないうちに、冷たい声が背後から飛んできた。 「すごく遠くって……どこに行くつもりなんだ?」 第3話 ふと振り向くと、ちょうど後ろで険しい表情でこちらを見つめる司礼の姿が目に入った。そして、彼の横には雅美が立っているのが見えた。 葉はすぐに視線をそらして、適当な理由を口にした。 「近いうちに、旅行に行くんだ」 礼司の目には、葉の好きなことは二つしか映っていない。一つは彼と寝ること、もう一つは世界中を旅すること。 だからなのか、この返事にも特に突っ込んでくることはなくて、表情をさっと整えると、雅美を連れて祖母のベッドのそばに座った。そして、何気ない仕草で葉をいちばん遠くの席へと押しやった。 「おばあちゃん、聞いて!礼司さん、ほんっとケチなんだから!さっきここに来る途中でアイス食べたいって言っただけなのに、ぜーんぜん買ってくれなかったの。おばあちゃんからちゃんと言ってあげて!」 雅美は座るなり、口をとがらせて不満をぶちまけた。 礼司は少し困ったような顔で彼女を一瞥しつつ、口ではたしなめながらも、その声にはどこか優しさがにじんでいた。 「また言ってるよな。もうすぐ生理なんだろ?そんなに冷たいもん食ってどうすんだよ。前の時、痛すぎて死にそうだったって泣いてただろ。アイスはもう二度と食べないから管理してくれって、自分で言ってたの誰だったっけ?」 雅美はぺろっと舌を出して、「えへへ」と笑った。 礼司の目には、もう雅美しか映っていなかった。 この場には四人いるはずなのに、礼司たちが来た途端、彼の世界は雅美一人で満たされてしまった。一番端に追いやられた葉は、その仲睦まじい様子を見て、ふっと苦笑いをこぼした。 またか。この三人の中で、自分はいつだって部外者。でも、もう前みたいに悲しくなったりはしない。だって今回は、自分から全部手放すって決めたから。 礼司のことも、彼への想いも、全部。ちゃんとヒロインに返すって決めたんだ。 祖母は、一瞬だけ葉の目に浮かんだ寂しげな色を見逃さなかった。そして、あえて葉に構おうとしない礼司をちらっと見て、小さくため息をついた。 「礼司、葉ちゃん、ブドウが食べたいの。ちょっと洗ってきてくれないかい?」 祖母のお願いとあらば、断れるはずもない。 礼司はベッドサイドの果物かごを手に取り、葉とふたりで順番に病室を出た。 そして病室を出たその瞬間、礼司が突然、葉の手を掴んできた。 思わず驚いて礼司を見た。今日の彼が、自分から触れてくるなんて―― でも次の瞬間、冷たい声が耳を打った。 「これからはもう、おばあちゃんに会いに来ないでくれ。契約カップルの件は事実だけど、おばあちゃんは関係ない」 たったひと言で、さっきまでの気持ちなんて、全部冗談だったみたいに吹き飛んだ。 胸の奥が、じんわりと痛くなる。 もし前だったら、きっと必死に弁解してたと思う。 礼司が最近忙しいだけだとか、祖母が年配で寂しがり屋だからとか、自分には何の下心もない、ただ一緒にいたかっただけなんだって、何とか伝えようとしたかもしれない。 でも今の葉は、ただうつむいて、静かに答えた。 「……わかった」 それだけ言って、水場へと足を進めた。もう、前みたいに礼司と並んで歩こうとはしなかった。 そんな葉の背中を見送る礼司の胸に、妙な違和感が芽生えていた。 昨日から、葉の様子が明らかに変わり始めていた。 第4話 果物を洗い終えて、葉と礼司は病室に戻った。少し話をしたあと、みんなで一緒に帰ることになった。 ちょうど病院を出たところで、雅美が真っ先に口を開いた。 「礼司さん、それに葉さんも、お昼時だし、一緒にご飯どう?」 雅美の提案を、司礼が断るはずもなかった。 それに、葉がまたわがままを言って雅美を困らせるのを避けたかったのだろう、葉がまだ何も言わないうちに、礼司が代わりに「いいよ」と勝手に承諾してしまった。 レストランに着いてから、三人は案内された個室に通された。礼司は当然のようにメニューを受け取って、迷いなく注文した。 でも、料理が全部運ばれてきたときに葉は気づいたのだ。彼が頼んだのって、ぜんぶ雅美の好きなものばっかりだったんだ。 これが愛があるかないかの違いなのだろう。 葉はかつて、自分の好みをすべて覚えるよう礼司に要求したことがあった。しかし一方は強制で、もう一方は心からの気遣い──その差は雲泥のものだった。 なんとなくこうなる気はしてた葉は、そこまでショックは受けることもなく、黙ってご飯を食べ続けることにした。 ちょうど食事も半分ほど進んだ頃、突然スマホの着信音が個室に響いた。礼司は電話を取るために、外へ出て行った。 そのとき、葉は雅美がスープをよそう手に光る指輪を見つけ――一瞬、表情が固まった。 「そのピンキーリング、どこで手に入れたの?」 雅美はちらっと小指のリングを見て、まるで何でもないことのように笑って答えた。 「これ?礼司さんがくれたの。かわいいって言ったら、すぐにくれたの」 その瞬間、葉の顔から血の気が引いた。 あのピンキーリングは、葉が細かい細工をして、何度も手を傷つけながら仕上げたもの。 葉たちの記念日に、心を込めて彼にプレゼントした、世界に一つだけのリング。内側には、小さな文字が刻まれてる。 ――「礼司が大好き、ずっと 来栖葉」 自分の想いを全部込めて礼司に渡した指輪。そんな大切なものを、あっさり雅美にあげたなんて。 胸の奥から静かに怒りが湧き上がってくるのを感じた。でも、その瞬間、原作のストーリーがふと頭をよぎった。 礼司が好きなのは、最初から雅美だった。どれだけ尽くしても、礼司が葉の想いを大切にしてくれるはずがない。 ここで何かを問い詰めたところで、礼司にとっての自分は、ますます面倒な女になるだけだ。 まるで冷水を頭からぶっかけられたみたいに、一気に冷静になった葉は、顔の感情を整えて、少し笑ってみせた。 「似合ってる。すごく綺麗よ、あなたにぴったり」 葉が怒り出すのを待ってた雅美は、あまりに平然としている葉を見て、一瞬だけ驚いたような顔をした。 そして次の瞬間、雅美は軽く歯を食いしばり、ふいに立ち上がって、一杯のスープを「気を利かせた」風に葉に差し出してきた。 「葉さん、ご飯ばっかりじゃなくて、この海鮮スープもちょっと飲んでみて?美味しいよ」 葉は海鮮アレルギーがあるから断ろうとしたんだけど、次の瞬間、雅美はそのスープを実際には渡さず、手首をひねったような仕草をしたかと思うと―― ガシャーン! 碗が床に叩きつけられるように砕けた。 雅美は涙がこぼれそうな目で、悲しげに葉を見つめてきた。 葉は一瞬、彼女が何をしようとしているのか全く理解できなかった。でもすぐに、礼司が葉の横を駆け抜けて、雅美を自分の背にかばうようにして立ちはだかり、冷たい視線を真っ直ぐこちらに向けてきた。 「お前、何やってんだ!」 雅美は目を赤くしながら、礼司の胸にそっと身を預けて、絶妙なタイミングで言葉を挟んできた。 「礼司さん……全部、私が悪いの。私が葉さんを怒らせちゃったから、葉さんもついカッとなってスープをかけちゃったのだろ。ただの軽い火傷だから、大丈夫。彼女を責めないであげて」 「私じゃない!」 あまりにも事実をねじ曲げられて、葉は思わず目を見開き、必死に弁解しようとした。けれど、礼司は葉の言葉なんて一切聞こうとしなかった。ただ冷たい視線を一瞥だけ向けて、こう言い放った。 「お前、頭おかしいんじゃないのか?」 そう言い捨てると、何も言わずに彼女を抱き上げて、そのままその場を去っていった。 葉はただ、その冷たい背中と、雅美の挑発的な視線を見送ることしかできなくて、呆然とその場に立ち尽くした。心の中が一気に真っ暗になった。 でも、もっと予想外だったのは――その後、数日間の雅美の行動だった。 あの子、自分の嘘がうまく通じたのが嬉しかったのか、まるで癖になったみたいに、次から次へと葉を陥れ始めた。 「葉さんのせいで仕事を失った」とか、「あの人が業界中に私の悪口を言いふらして、干された」とか、「家の前にペンキをまかれて、もう安心して暮らせない」とか…… どれもこれも、ありえない話ばかり。 礼司は最初のうちは我慢してたみたいだけど、ついに堪えきれなくなったのか、ある日、帰ってくるなり葉の腕をガシッと掴んできた。 「お前さ、俺に不満があるなら、直接言えよ。なんで雅美をいじめるんだ?」 付き合って五年。礼司は常に冷たい態度を崩さなかった。葉が彼の感情をこれほど露わにする姿を見るのは初めてだった。だが、それが雅美をかばうためだと思うと、胸が締め付けられるような思いがした。 「私は何もしてないし、そもそも雅美を狙ったわけじゃない」 必死に説明を続けたが、礼司の表情は終始、疑いに満ちたままだった。 「お前以外に誰がいる!?契約彼氏とか言い出すような女が、今さら何もしないとか、説得力あると思ってんのか? もういい加減にしろよ。あげられるものは全部差しあげたのに、なんで俺の周りの人間まで巻き込むんだよ!」 そう言い捨てると、礼司は完全に失望しきった目で、もう一言も口をきく気はないとばかりに、まっすぐ客間へと向かっていった。 その背中を見送りながら、葉は込み上げる悲しみをどうにか押し殺した。 彼の中で、自分はいつまでも「信じるに値しない存在」のままなのだ。 けれど、悲しみ以上に強かったのは恐怖だった。 あと数日でこの家を離れるというのに、このままじゃ偽装死どころか、その前に礼司に本当に殺されてしまいそうだった。 眠れぬままベッドで何度も寝返りを打ち、悩みに悩んだ末、ようやく一つの考えにたどり着いた。 その夜のうちに車を走らせ、雅美の家を訪れた。 そして、開口一番こう切り出した。 「雅美さん、もう和解しよう。これからは、礼司とあなたをくっつけてあげるから」 第5話 それを聞いた瞬間、雅美はまるで信じられないといった顔で目を見開いた。 「……は?あなた、何言ってるの?」 雅美は誰よりも分かってる。葉がどれだけ礼司のことを想ってるかを。 だってそうじゃなきゃ、礼司の祖母の五年間の医療費を、何の見返りもなく払うなんてありえない。何度冷たく突き放されても、文句ひとつ言わずにずっと彼のそばにいようとするなんて、普通じゃできないことだった。 そんな葉が、今こうして自分の元を訪れ、まさかの「あなたと礼司をくっつける」なんて言い出した。 信じられない様子で雅美が問い返すと、葉は小さく首を横に振った。 「本気だよ。和解したいって思ってる。もう私を陥れようなんて考えなくていい。あんまり時間がないの、もうすぐ礼司の前からいなくなるから……だから、私のことを恋のライバルなんて思わなくていいの」 その顔に嘘はなかったが、それでも雅美の疑念は消えず、どこか裏があるんじゃないかと警戒を解かなかった。 でも、そんな雅美の反応なんて、どうでもよかった。葉にできるのは、ただ行動を示すことだけだった。 翌日、礼司が出かけようとしたタイミングで玄関で彼を引き止め、一枚のチケットを差し出した。 「今夜のユニバーサル・スタジオのチケット、二枚買ったの。一緒に行こう?」 「最近はずっとプロジェクトで忙しいんだ……」 冷たい表情のまま断ろうとした礼司の言葉を、葉はすぐに遮った。 「取引の時に言ったでしょ?一日一回寝る以外、私のお願いは断れないって」 そのひと言で、礼司はそれ以上何も言えなくなり、眉をしかめながらもチケットを受け取り、足早にその場を後にした。 礼司の背中が遠ざかっていくのを見送った後、スマホを取り出し、雅美の番号に電話をかけた すぐに電話は繋がった。挨拶もなしに、ストレートに本題に入った。 「さっき送ったチケット、届いたでしょ?もう一枚は礼司に渡したから。今日はちゃんとおしゃれして、彼といい雰囲気になれるよう頑張って」 予想外の展開に戸惑いながらも、雅美は半信半疑のまま「わかった」と返事をした。 葉が電話を切ろうとした、そのときだった。向こうからふいに声がかかった。 「どうして私を助けようとするの?」 その言葉がスマホ越しに耳に届いたとき、一瞬だけ沈黙が落ちた。 けれど葉は、答えを返すことなく、こう言った。 「知る必要はない。ただ、約束通り、私はあなたと礼司をくっつける。だから、もう私を陥れたりしないで」 通話が切れ、暗くなったスマホの画面を見つめながら、雅美のさっきの言葉が再び頭をよぎった。 どうして助けようとするのか―― 葉が助けたかったのは、雅美ではなかった。 本当に救いたかったのは、自分自身。 それに、礼司が本当に想っている相手は、もともと雅美だったのだから。 ただ、その流れを少し早めただけ。そして、自分のために逃げ道をひとつ作っておきたかっただけ。 空がすっかり暗くなったころ、雅美からメッセージが届いた。 二人のツーショット写真だった。 写真の中で、雅美はカメラを見つめ、礼司はそんな彼女を見つめていた。その眼差しには、優しさと甘さがあふれていた。自分がどれだけ願っても、二人きりでは一度も見せてもらえなかった表情。 五年も一緒にいたのに、そんな写真一枚さえ叶わなかった。何度も「撮りたい」って言ってきたけど、いつも「俺、写真嫌いなんだ」って拒まれてきた。 でも、好きな人の前では、そんなこだわりだって簡単に壊せるんだね。 さらに写真をスクロールしていくと、ある一枚に目が留まった。 レストランでの写真。 礼司の前に置かれていたのは、すでに殻をむかれたエビと、その横に積み上げられたエビの殻。 付き合っていた間、いつも葉がエビの殻をむいて、彼の器に入れていた。礼司が自分のためにエビの殻をむいてくれたことなんて、一度もなかった。 夢見ていた「優しさ」は、今、こうして別の人に向けられてる。 しばらく何も言えずにその写真を見つめたあと、短い一文を打ち込んで送信した。 「いい感じ、お似合いだよ」 第6話 雅美はずっと、葉の行動には何か裏があると思っていた。だからこそ、わざとあの写真を送りつけて葉の気持ちを揺さぶり、本当の目的を探ろうとしたのだ。 けれど、あの祝福の言葉を目にしたとき、完全にわからなくなった。 チャット画面には長い間「相手が入力中です」の表示が浮かび、何度も文章を打ち直した末に、ようやく一通のメッセージが届いた。 「昨日の話って本当?ほんとに礼司さんと私のこと、応援するつもり?」 今回はすぐに返信が来た。 「そうだよ」 これから先、礼司はあなたのものよ。 葉は、今日礼司が帰ってきたらきっと機嫌がいいと思っていた。だが、帰宅した彼の表情は相変わらず冷たく、声にはどこか怒気さえ含まれていた。 「葉、今日のこれはどういうつもりだ?また何か企んでんのか?」 礼司の態度に少し戸惑いながらも、一応説明した。 「チケットのこと?急に用事ができちゃって行けなくなったから、雅美にあげただけだよ」 そう言ってから、彼の様子を伺いながら続けた。 「今日、楽しかった?観覧車とか乗った?お化け屋敷とか行った?もしまだ遊び足りなかったなら、まだチケットあるから、明日もう一回行けばいいよ」 礼司は、葉の意図が読めなくて混乱してるみたいに、じーっと葉を見つめ続けた。 だが葉の顔には、まるで裏がないような真剣さが浮かんでいた。 本当にただ予定が合わなかっただけで、チケットを雅美に譲ったようにすら見えた。 しばらくして、礼司が先に折れて、無言で部屋に入っていった。 一度うまくいったから、葉はさらに積極的に二人の距離を縮めようとした。 たとえば、カップル向けのレストランに礼司を誘って、席に着いた瞬間、偶然を装って雅美が目の前に現れて、「礼司さん、偶然だね!」って声をかけてきた。 礼司が何か返す前に、店員さんが近づいてきた。 「お客様、本日は当店の周年記念で、ご来店の52組目のカップル様には、カップルリングと記念写真のプレゼントをご用意しております!」 その説明が終わる前に、葉は急に立ち上がった。 「ちょっと体調悪いかも。先に帰るね」 席を立つ葉に、礼司が慌てて立ち上がって追いかけようとすると、葉はふと何かを思い出したように振り返って、彼を見た。 「せっかく当たったんだし、無駄にしたらもったいないよ。礼司、雅美と一緒に受け取ってきなよ」 そう言って、礼司の返事も待たずにレストランを出て、そのまま車に乗って帰った。残されたのは、ぽかんとしてる礼司と、ちょっと照れくさそうに彼の腕を引っ張りながら、「リングもらいに行こう」「写真撮ろうよ」って言ってる雅美だけ。 また別の日には、大学時代の同級生たちとの同窓会があって、葉は礼司を無理やり連れて行った。会場に着くと、やっぱり雅美もいた。 帰り際、葉は雅美を礼司の前に押し出した。 「こんな夜遅くに、女の子が一人で帰るの危ないし、車で送ってあげて。私はタクシーで帰るから。 それとね、すぐに帰らなくてもいいよ。雅美さん、けっこう飲んじゃってるし、ちょっと家で様子見てあげて」 そう言って、強引に車のキーを彼の手に押しつけ、葉は道に出てタクシーを拾いに行った。 こんなことが何度も続いて、さすがに礼司も気づき始めた。 最近はどんな場所でも、なぜか毎回雅美とばったり会う。そしてそのたびに、葉は自分を残して一人で去っていく。 まるで自分を、雅美に「譲ろう」としているみたいに。 第7話 また何日か経ったある日、酔っ払って帰ってきた礼司は、ベッドで寝てるように見えた葉を一瞥したあと、何も言わずにそのままバスルームに向かった。 シャワーの音が響く中、葉はふっと目を開けた。 バスルームの閉まったドアを一度見てから、慌ててスマホを取り出して、ある番号に連絡した。 「今すぐ、うちの別荘に来て」 二十分後、雅美がうちのドアをノックした。 葉はそっと部屋から出てドアを開けると、さっき引っ張り出しておいたレースのネグリジェを彼女に手渡した。 「これに着替えて、主寝室で寝て」 その一言を聞いた雅美は、手の中のネグリジェを見下ろして、何かを察したのか、心臓がドクドク鳴って、まるで胸から飛び出しそうだった。 葉に急かされてようやく我に返り、急いで階段を駆け上がり、ネグリジェに着替えてベッドに横たわった。 横になって間もなく、バスルームのドアがガチャッと開いて、腰にタオルを巻いただけの礼司が、髪を拭きながら出てきた。 礼司はふと顔を上げ、ベッドの上の人影を見て、動きを止めた。 しばらくご無沙汰だった約束を思い出したのか、数歩近づいて、自然な流れでその体を抱き寄せた。そして、酔ってかすれた声でつぶやいた。 「もう……生理、終わったよな?」 最初、雅美は何のことかピンと来てなかった。でも、ベッドが少し沈んで、うなじに熱い吐息がかかり、腰に回された大きな手に触れられた瞬間、全身がビクリと震えた。 体温の熱さに、呼吸が苦しくなってくる。 背後から微かな笑い声が漏れ、優しいキスが耳の後ろや首筋に落ちてきた。未経験の彼女が耐えられるはずもなく、思わず声を漏らしてしまった。 そのたった一声で、礼司の動きがピタッと止まり、彼は急に身を引いて、信じられないという顔で叫んだ。 「……雅美!?」 一階のリビングでは、礼司がソファに座っていて、雅美は毛布を羽織ってその隣にいた。彼女の顔は真っ赤で、恥ずかしさが隠せない様子だった。 礼司は暗い表情で、鋭い視線をこちらに向けてきた。 「これ、一体どういうことだ?」 まさかこんなに早くバレるとは思っておらず、葉は動揺しながらなんとかごまかそうと、言い訳を口にした。 「雅美の家、停電しちゃってさ。それで、一晩だけ泊まってもらうことにしたの」 「……で、なんで主寝室で寝てた?」 全然納得してない様子で、さらに問い詰めてくる礼司。葉は一瞬言葉に詰まり、なんとか答えた。 「ゲストルーム、まだ片付いてなかったから……一晩だけならいいかなって、主寝室を使ってもらったの」 彼の目には怒りが宿っていて、胸の上下も激しくて、かなり怒ってるのがわかった。でもまずは、雅美を家まで送るのが先。 礼司は怒りをなんとか抑えながら、無言で雅美の腕を取り、そのまま連れて出て行った。 礼司が戻ってきた頃には、葉はすでに寝室に戻っていた。 部屋には二人だけ。抑えていた礼司の怒りが、ついに噴き出した。 この頃葉の様子に違和感を覚えていた礼司は、とうとう堪えきれなくなった。 「お前、一体何がしたいんだ?また新しい方法で俺たちを苦しめようとしてんのか?」 その言葉を聞いて、葉は一瞬息が止まりそうになった。 まさか彼が、そんなふうに思ってたなんて……胸の奥にズシンと何かが落ちて、痛くて、重くて、言葉が出てこなかった。 「私は、ただ……」そう言いかけたけど、途中で言葉を飲み込んで、理性を取り戻した。 礼司はじっと葉を見つめて、問いかけを続けた。 「……ただ何だ?言えよ」 第8話 長い沈黙のあと、葉がようやく口を開いた。でも、礼司の質問には答えなかった。 「ごめんね……あなたが喜ぶと思ってたの」 だけど、その謝罪が結果的にトドメを刺してしまったみたいで、礼司の怒りに完全に火をつけてしまった。 「お前ってさ、いつも勝手に決めつけるよな!」 その冷たい一言を吐き捨てて、礼司は重たい空気を引きずるようにして寝室を出て行った。 その背中を見送りながら、葉はなんとなく察した。 ……うん、だよね。 礼司はまだ、自分の「契約彼氏」だ。あの人の性格と信念を考えたら、たとえどれだけ雅美のことが好きでも、簡単に一線を越えるはずがない。 あと三日。三日で、すべてが終わる。 別れの日が近づくにつれて、葉は別荘の中にある礼司に関する物をひとつずつ引っ張り出して処分し始めた。捨てるものは捨てて、燃やせるものは全部燃やした。跡形もなく、きれいさっぱりと。 大学時代の礼司のスピーチやディベートの写真、二人で揃えたペアのマグカップやスリッパ、パジャマ、そして彼のために願掛けして手に入れた御守りまで。 どれもこれも、礼司のことを好きだった証ばかりだった。 最後に火にくべたのは、礼司宛に書いたラブレター。 一通、また一通と火に投げ入れながら、自然と昔のことが頭をよぎった。 最初は、ただひたすら普通に礼司を追いかけてたんだ。三ヶ月かけて、99通の手紙を書いた。 でも、その全部を礼司は突き返してきた。 それから、礼司が医療費で困ってるって知って……それで、ああいう方法を思いついた。助ける口実にもなるし、自分の気持ちも報われるかもしれない――そう思った。 でも、やっぱり間違ってたのかもしれない。 愛はお金で買えるもんじゃない。 小説にも書いてあった。男主人公の礼司が心から愛するのは、ヒロインの雅美だけだと。 そう考えると、もう何の未練も残らなかった。最後の一通を手に取って、火の中へ投げた。 ちょうどその瞬間、玄関がガチャっと開いて、礼司が帰ってきた。 燃え盛るカラフルな封筒を目にして、礼司の表情が一瞬で固まった。中身までは見てなかったが、封筒の見た目には見覚えがあった。 以前、葉が何度も渡そうとして、そのたびに拒否されたラブレターたち。 礼司の心臓も、一瞬ドクンって跳ねたんじゃないかな。頭で考えるより先に、口から言葉が飛び出してきた。 「何してるんだよ」 燃え盛る火越しに、呆然と立ち尽くす礼司の顔が見えた。何となく妙な気分になりつつも、葉は淡々と答えた。 「物を燃やしてるの。もういらないから……全部、燃やしたの」 礼司の目がわずかに揺れた。動揺してるのが、はっきり分かった。 最近の葉の変化を感じ取ってるみたいで、理解できない行動に戸惑いもあるんだろうけど、それでも出てきた言葉は、やっぱりあの人らしい皮肉だった。 「そうだな。欲しいものは全部手に入れたもんな。もう必要ないってわけか」 かつて何度も、彼は皮肉を投げつけてきた。葉はその度に傷ついてきた。でも、今は不思議なくらい何も感じなかった。 ただ、心の中は驚くほど静かだった。 「もうすぐ終わるよ……」 ぽつりとつぶやいたその言葉が、脈絡がなさすぎて礼司には不可解で仕方なかった。今度は何をたくらんでいるのか、さっぱり分からない。 だから礼司はそれ以上何も言わず、無言で階段を上がって書斎へと消えていった。 葉はそのまま座って、燃え尽きていく炎をじっと見つめてた。最後の一通も、灰になって、火は燃やすものを失って、すっと静かに消えていった。 ……礼司、これで本当に全部終わりだよ。 この屈辱の記憶も、悪役だった自分の存在も、ぜんぶ忘れていい。 あなたも、自分も、新しい人生をやり直そう。 第9話 翌朝、礼司が出かける準備をしているとき、葉が彼を呼び止めた。 「ねえ、明日でうちら付き合って5年だよ。記念日。クルーズ予約してあるからさ、一緒に海見て、夕日見に行こうよ」 また思いつきで何か仕掛けてるんじゃないか。そう思いながらも、礼司はただ冷たく「うん」とだけ返して、そのまま出ていった。 心のどこかで期待があるせいか、葉にとってその日は驚くほど早く過ぎた。 そしてついに、約束の日が来た。そう、自分が「死んだふり」をして去るあの日。 気合を入れて準備して、礼司を連れて、予約しておいたクルーズに乗った。 デッキからの景色は本当にきれいで、夕日のオレンジ色の光が海と船全体にふわっと降り注いでた。身体にも、あったかい光が柔らかく差し込んできて、海と空が溶け合うような、まるで絵みたいな景色だった。 そんな景色を見つめる礼司の目に、ふと不思議な色がよぎった。 でも、その静かな時間はスマホのけたたましい着信音にあっさり壊されてしまった。振り返ると、礼司はすでに電話で仕事の話を始めていた。 礼司が今取り組んでいるのはあのプロジェクトだ。あと数時間で動き出す、礼司にとっても、葉にとっても大きな転機になる仕事。 「ねぇ、礼司。お金持ちになったら、何したい?」 そう聞いたときには、礼司はもう電話を切っていて、葉の唐突な質問に少しだけ間を置いてから、淡々と答えた。 「自分のやりたいことをやる」 表情も特になくて、言い方もいつも通り淡々としてた。でもその顔を見ていると、胸の奥にぽつりと思いが浮かんだ。 きっと、お金持ちになったら、最初に私を切り捨てるんだろうな。でもね、礼司。今回ばかりはあなたの手を煩わせないよ。 甲板には次々と料理が運ばれてきて、あっという間にテーブルの上はごちそうでいっぱいになった。 夕日が海に沈むまで、もうあと少し。二人は向かい合って座っていたけど、葉はもうご飯なんて食べる気になれなかった。礼司も相変わらず、必要なことしか話さない。 沈黙を破ったのは、またしても礼司のスマホだった。画面に表示されたのは「雅美」の文字。 礼司は一瞬たじろいだあと、結局そのまま電話に出た。 通話の向こうから、雅美の泣きそうな甘い声がはっきりと聞こえてきた。 「礼司さん……事故っちゃって、病院に来てくれる?」 その瞬間、礼司の眉がピクリと動き、そっと葉に目を向けた。葉もナイフとフォークを置いて、穏やかに言った。 「聞こえてたよ。行きたいんでしょ?」 礼司は、ためらいもなく答えた。 「記念日なんて、いつでもできる。今は雅美が俺を必要としてる」 葉は言葉を返さず、ただじっと礼司を見つめた。 その視線に、なぜか心臓が強く打つ礼司。子供の頃から何事にも冷静だった礼司が、初めて自分の感情がコントロールできなくなる気がした。 だからか、珍しく一言付け加えた。 「記念日、今度ちゃんとやり直すから」 そう言って、礼司はスマホを握ったまま立ち上がった。葉はただ、その背中を見送っただけ。慌てて船を降りていく礼司の姿を、止めようとは思わなかった。 しばらくして、ぽつりとつぶやいた。 「礼司……『今度』なんて、もうないよ」 葉は一人で夕日を見届けた。最後の光が海の向こうへ沈んでいき、クルーズのライトがぽつぽつと灯り始めた。 そのとき、一人の係員が近づいてきて、葉の元へ歩み寄った。 「来栖さん、準備はすべて整いました」 「私って、どうやって死ぬことになるの?」 「誤って海に転落した事故という設定です。一時間後に情報が出回り、三日三晩海に漂った末、警察によって身元確認される予定です」 葉はそれを聞いて、こくんと頷いた。特に異論はなかった。 すべての手筈を確認したあと、葉は船を降りた。もう一度だけこの街を振り返ってから、あらかじめ用意していた帽子とマスクをつけて、SIMカードを手でパキッと割った。 一度も振り返らず、そのまま空港へ向かった。 礼司、今回ばかりは、ちゃんとあなたを雅美ちゃんの元へ送り届けてあげる。 悪役の私は、あなたの世界から、きれいに消えるから。