レンズの先に、愛と自由があった

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レンズの先に、愛と自由があった

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結婚して五年の間、近藤陽葵(こんどう ひまり)は、瀬戸理翔(せと りしょう)の度を越した潔癖症は職業柄のせいなのだと自分に言い聞かせてき...

Chương (1)

第1章

結婚して五年の間、近藤陽葵(こんどう ひまり)は、瀬戸理翔(せと りしょう)の度を越した潔癖症は職業柄のせいなのだと自分に言い聞かせてきた。 生死や細菌と隣り合わせの外科医であれば、自宅を無菌室のように徹底管理したがるのも無理はないことだと、自分を納得させていたのだ。 しかし、理翔のスーツのポケットから、くしゃくしゃに丸まったティッシュを見つけた瞬間、陽葵の顔から血の気が引いた。そのティッシュの端には黄色いシミが滲み、さらには数本の短い縮れ毛がこびりついていた。 耳の奥で、昨日親友の宮崎結葵(みやざき ゆき)がためらいがちに告げた言葉が蘇る。「陽葵、理翔の職場の近くで、彼が女性と一緒に歩いているのを見かけた気がするの。その人、彼の腕にぴったりしがみついていたけど……彼は避けようともしていなかったわ」 その時の陽葵は、理翔は自分の手に触れることさえ滅多にないのに、他人に腕を組ませるはずがないと笑って否定した。 だが今、あの時の言葉が針となって喉を突き刺している。 突き動かされるように、陽葵は理翔の勤める病院へと駆け出した。すべてをはっきりと問い詰めるために。 第1話 結婚して五年の間、近藤陽葵(こんどう ひまり)は、瀬戸理翔(せと りしょう)の度を越した潔癖症は職業柄のせいなのだと自分に言い聞かせてきた。 生死や細菌と隣り合わせの外科医であれば、自宅を無菌室のように徹底管理したがるのも無理はないことだと、自分を納得させていたのだ。 しかし、理翔のスーツのポケットから、くしゃくしゃに丸まったティッシュを見つけた瞬間、陽葵の顔から血の気が引いた。そのティッシュの端には黄色いシミが滲み、さらには数本の短い縮れ毛がこびりついていた。 耳の奥で、昨日親友の宮崎結葵(みやざき ゆき)がためらいがちに告げた言葉が蘇る。「陽葵、理翔の職場の近くで、彼が女性と一緒に歩いているのを見かけた気がするの。その人、彼の腕にぴったりしがみついていたけど……彼は避けようともしていなかったわ」 その時の陽葵は、理翔は自分の手に触れることさえ滅多にないのに、他人に腕を組ませるはずがないと笑って否定した。 だが今、あの時の言葉が針となって喉を突き刺している。 突き動かされるように、陽葵は理翔の勤める病院へと駆け出した。すべてをはっきりと問い詰めるために。 入院棟のエントランスに差し掛かったその時、一台の救急車が猛スピードで突っ込んできた。陽葵は避ける間もなく激しく撥ね飛ばされ、花壇の縁に叩きつけられた。 内臓がことごとく砕け散ったかのような激痛に襲われながらも、皮肉なことに、意識だけはやけに鮮明だった。 視線の先では、理翔が救急車から一人の女性を抱きかかえて降りてくるところだった。上着を羽織ってはいるものの、その下は一物も纏っておらず、女性の股の間からはおぞましいほどの鮮血が滴り落ちている。 理翔の顔に浮かぶ焦燥は、これまでの結婚生活で陽葵が一度も見たことのないものだった。そして、その肌を寄せ合うほどの距離も、彼女が一度として味わえなかったものだ。 病院の中へ消えていく二人の背を追いかけようと、陽葵は無意識に立ち上がろうとした。だが、一歩踏み出した瞬間に視界が暗転し、そのまま力なく地面に崩れ落ちて意識を失った。 再び目を覚ましたとき、耳に飛び込んできたのは看護師たちのひそひそ話だった。 「信じられる?あの瀬戸先生、普段はあんなに禁欲的で冷徹なのに、一晩で十回も致したんですって。相手の女性が出血するまでなんて、よっぽど激しかったのね」 「瀬戸先生、三十年間ずっと浮いた話一つなかったのにね。いきなり一回りも年下の女子大生なんて捕まえちゃって。あれだけ溜め込んでりゃ、歯止めが効かなくなるのも無理ないわよ」 陽葵の全身が凍りついた。 一晩に十回? 結婚して五年、理翔と肌を重ねたのは、薬を盛られたあの一度きりだ。 五年前、近藤家が不慮の破産に見舞われた際、両親は自ら命を絶つ直前、陽葵が路頭に迷わぬよう、かつて陽葵の祖父が理翔の祖父を救った「恩義」を盾に、理翔との結婚を強引に取り決めた。 理翔とは幼馴染だった。陽葵は恋心を知った時から彼を想っていたが、恩義を振りかざして彼を縛るつもりなど毛頭なかった。 理翔は幼い頃から陽葵のために多くのことをしてくれた。 幼稚園の頃、陽葵がいじめられれば、彼は真っ先に飛び出し、相手の口の中が血だらけになるほど叩きのめした。 十六歳の夏、陽葵が高熱を出したときには、彼は授業を放り出して学校の塀を乗り越えて、彼女を背負って病院へと走った。救急外来の外で、丸三日間も一睡もせずに付き添ってくれたのだ。 大学時代、酷い生理痛で倒れた際もそうだった。彼は夜通し遠方の街から駆けつけ、よく効く薬を届けてくれた。そのまま女子寮の下で、夜が明けるまでじっと待ち続けていた。 それらすべてが、理翔もまた自分を想ってくれているのだという確信に繋がっていた。二人は相思相愛で、ただその想いを言葉にする機会がないまま今日に至っただけなのだと、陽葵は信じて疑わなかった。 だが、期待に胸を膨らませて嫁いだ日に待っていたのは、身を切るような屈辱だった。 新婚の夜、理翔は氷のように冷たい視線で彼女を射抜いた。「恩を盾に親を動かして、俺との結婚をもぎ取ったんだ。これから始まる生活を、精々覚悟しておくことだな」 陽葵は弁解したかった。けれど、何を言っても言い訳にしか聞こえない気がして、言葉を飲み込むしかなかった。 あの日以来、理翔は病院に一ヶ月も泊まり込み、一度も家に寄り付かなかった。 業を煮やした彼の母が、半ば強制的に彼を帰宅させるまでは。 その晩、理翔の母の瀬戸綾子(せと あやこ)は使用人に命じて二人の飲み物に薬を盛らせ、寝室の扉を外から施錠した。さらには浴室の水まで止められ、逃げ場を失った二人が身体の異変に気づいた時には、すでに手遅れだった。 身体の火照りに耐えかね、陽葵が縋るように理翔へ近づこうとしたその時、彼は嫌悪感を露わにして身を翻した。理翔は自身の内側から突き上げる衝動を抑え込むように、冷酷な声を絞り出す。 「触るな。シャワーも浴びていないお前の体には、何百種類もの細菌がうごめいている。俺に移すんじゃない」 だが結局、身体を内側から焼き尽くすような熱に抗いきれず、二人は一線を越えることを決めた。 歓喜に震える陽葵が彼を抱きしめようとした瞬間、理翔はどこからか救急箱を取り出してきた。マスクと手袋を着用し、消毒液を取り出す。 「やりたいなら、させてやる。だが、その前に徹底的に消毒だ。服を脱いでそこに横になれ」 陽葵の心は激しい屈辱に塗りつぶされたが、抗う術などなかった。彼女は一物も纏わぬ姿へと服を脱ぎ捨て、ベッドに横たわった。 理翔は綿棒を使い、陽葵の体の隅々まで、秘部に至るまで徹底的に消毒を施した。 彼女の消毒を終え、自分自身の消毒も済ませてから、二人はようやく一度きりの、事務的な交わりを持った。 それ以来、彼は家には戻らず、彼女への嫌悪を隠そうともしなくなった。 二人の関係を公表することさえ、彼は頑なに拒み続けた。 それなのに、今の理翔はどうだ。別の女と一晩で十回も睦み合い、あろうことか人目も憚らず、股の間から太ももにかけてを真っ赤に染めるその女を、なりふり構わず抱きかかえて病院へ駆け込んだのだ。 結局のところ、彼には潔癖症などなかったのだ。細菌を恐れていたわけでもない。彼の優しさと包容力は、最初から陽葵に向けられるものではなかったというだけだ。 これまでの年月、自分を慰めるために使ってきた「職業柄」という言葉は、ただ彼が自分を愛していないことへの惨めな言い訳に過ぎなかった。 ならば、もういい。この婚姻に、終止符を打つ時が来たのだ。 第2話 病院で過ごした一週間、陽葵は一度も理翔の姿を見ることはなかった。だが、その代わりに看護師たちの噂話から、理翔とあの女の子が繰り広げたドラマのような恋物語を耳にすることになった。 あの女の子の名は青木柚乃(あおき ゆの)。医大に入ったばかりの一年生だという。 数ヶ月前、理翔が大学の特別講義に登壇した際、彼女に一目惚れされた。そこから、彼女のなりふり構わぬ猛烈なアプローチが始まった。 最初は見向きもしなかった理翔だったが、柚乃は取り憑かれたように毎日手を変え品を変え、花や食べ物、飲み物といった差し入れを届け続けた。 さらには全校生徒の前で大胆な愛の告白までしてのけ、大学から警告を受けても、彼女が引き下がることはなかった。 氷のように閉ざされていた理翔の心が動いたのは、彼をひたむきに追い求めるあまり、彼女が交通事故に遭い、重傷を負って入院した時だった。 そこで理翔は初めて、太陽のように真っ直ぐで眩しい彼女に、自分もまた心を奪われていることに気づいたのだ。 すべてを聞き終えた陽葵は、自嘲気味に微かな笑みを浮かべ、退院手続きのために病室を出た。 だが一階に降りた途端、目に飛び込んできたのは、柚乃が理翔の白衣の裾を掴んで無邪気に揺らし、上目遣いで何事かを語りかけている姿だった。 彼は病院という場所さえ忘れ、愛おしそうに彼女の唇に口づけを落とした。 陽葵の全身が、石のように硬直した。 次の瞬間、刺すような視線に気づいたのか、理翔がふと顔を上げた。 陽葵の姿を認めた途端、彼の表情は一瞬で険しく歪んだ。彼は一言も発することなく、隣の少女を強く抱き寄せると、そのまま一度も振り返ることなく立ち去った。 最初から最後まで、彼が陽葵に言葉をかけることはなかった。 陽葵は苦笑をもらし、退院手続きを済ませて病院を後にした。 家に戻ると、思いがけず理翔がいた。 口を開くよりも早く、彼の冷徹な声が突き刺さる。「また俺に付きまとっているのか?」 陽葵は呆気に取られ、首を振った。「そんなこと、していないわ」 「病院にまで現れて、よくもまあそんなしらじらしい嘘がつけるな」 理翔は勢いよく立ち上がった。その声は、芯まで凍てつくような冷気を孕んでいる。「以前からそうだ。弁当を届けに来たり、講義についてきたり、出張先にまで現れたり…… その都度、冷たく突き放して拒絶してきたはずだ。いい加減、身の程を知ったと思っていたが、まだそんな付きまといを続けていたとはな」 彼の怒りに満ちた顔を見て、陽葵の胸には、やりきれないほどの痛みがこみ上げた。 彼が食事を抜いていないか心配して弁当を届け、長時間の講義で疲れているだろうと迎えに行き、出張先で倒れたと聞けば居ても立ってもいられず看病に駆けつけた。それらすべての献身が、彼にとっては「付きまとい」でしかなかったのだ。 陽葵は鼻の奥がツンとするのを必死に堪えた。「付きまといなんてしていない。私はただ……」 「陽葵、お前には本当に反吐が出る」 言い終える前に、理翔が冷たく言葉を遮った。その瞳には、隠そうともしない嫌悪が渦巻いている。 「お前はそうやって、人の後ろを這いずり回ることしかできないのか?他にすることはないのか?仕事も、自分の情熱を傾けられるものもないのか? 昔はカメラマンになりたいと言っていなかったか。今やそのカメラを放り出し、自らが監視カメラにでもなり果てて、四六時中俺を見張るのがお前の生きがいか!」 陽葵は全身を衝撃に貫かれ、立ち尽くした。まさか彼が、自分のことをそこまで卑しい存在だと思っていたなんて、耳を疑わずにはいられなかった。 理翔の言葉は、容赦なく陽葵を切り裂き続けた。 「病院に来たのなら、もう分かっているだろう。俺は一回りも年下の女の子に惚れた。彼女が相手なら、潔癖症なんて欠片も感じない。それどころか、骨の髄まで溶け合いたいとさえ思っているんだ。 お前が俺をどう思おうと構わないが、彼女にだけは指一本触れるな。もし手出しをしたら、絶対に許さないからな」 言い捨てて上着をひっ掴むと、彼は外へと歩き出した。 まるで、その警告を叩きつけるためだけに帰宅したかのようだった。 去り際、理翔は陽葵のそばを通る際、まるで汚らわしいものを避けるように二メートルは距離を取り、大きく迂回して玄関へと向かった。 陽葵は目を真っ赤に腫らし、去りゆく彼の背中に向かって絞り出すように言った。「理翔。そんなに彼女を愛しているなら、もう離婚しましょう」 もう、十分だった。この五年間、自分なりに尽くし、耐え忍んできた。 けれど、どれほど尽くしても彼の凍てついた心を溶かすことはできなかった。 理翔は虚を突かれたように一瞬呆気にとられたが、すぐに滑稽な冗談でも聞いたかのように、冷ややかな嘲笑を浮かべて振り返った。 「陽葵、今度は何のつもりだ?また新しい小細工を弄するつもりか?」 陽葵が拳をぎゅっと握りしめ、反論しようとした瞬間、それよりも早く彼の冷徹な声が追い打ちをかける。 「お前が腹の底で何を企んでいるかなど、すべてお見通しだ。俺にサインをさせて離婚の証拠を手に入れ、それを盾に親たちの前で泣きつくつもりだろう?他に女ができたと被害者面をして、親の手で目障りな彼女を排除させる。それが狙いだろ、違うか?」 自分という人間が、彼の心の中でこれほどまでに卑劣に映っていたのか。陽葵は言葉を失った。 理翔は唇を固く結び、蔑むような視線を投げつける。 「かつての恩義をこれみよがしにひけらかして、俺の親に結婚を強要させたお前だ。そんな女が、自分から離婚に応じるなどと誰が信じると思う? 陽葵、これはお前がすべてを賭けて選んだ道だ。安心しろ、離婚なんてしてやるものか。お望み通り、一生お前と添い遂げてやるよ。ただし、お前はその特等席で、俺が別の女と家庭を築き、睦み合って老いていく様を、指をくわえて見ていろ」 その言葉は毒を孕んだ刺となり、陽葵の心臓の最も深い場所を無慈悲に抉った。 陽葵の瞳は血が滲むほどに赤く染まっていた。「……あの女を一生、あなたの愛人として日陰に置いておくつもりなの?」 理翔は鼻で笑った。「聞いたことがないか?『愛されていない側こそが、本当の愛人』なんだよ。俺は外で、彼女と新しく家庭を築く。お前は一生、ここでたった一人、孤独に朽ち果てていればいい」 「愛されていない」。その言葉を、彼はわざと陽葵を辱めるように、一語一語に憎しみを込めて言い放った。 彼女が我に返った時、部屋にはもう誰の姿もなかった。 陽葵は突如、乾いた笑い声を上げた。同時に、熱い涙が堰を切ったように溢れ出し、頬を伝い落ちる。 どれほどの時間が過ぎたのか。彼女は涙を拭い、立ち上がると、理翔の本家へと向かい、綾子を訪ねた。 「陽葵、本当に離婚するつもりなの?」 綾子は驚きを隠せない様子で問い返した。「あんなに理翔のことを愛していたじゃない」 陽葵は自嘲気味に口角を上げた。「無理に繋ぎ止めた縁なんて、決して幸せにはなれませんから」 綾子も病院での騒ぎを耳にしていた。彼女はため息をつき、五年もの間、何の兆しも見せなかった陽葵のお腹に視線を落とすと、惜しむように呟いた。 「五年経っても子を授かることがなかったし……理翔とは、本当に縁がなかったのね」 陽葵の身体が凍りついた。この五年間、薬を盛られたあの一夜を除いて、彼に一度も触れられなかったことをぶちまけてやりたかった。 けれど、今さらそんなことを言っても何の意味もないと思い直し、言葉を飲み込んだ。 「本当にいいのね?離婚届にサインをしたら、もう後戻りはできないわよ」 綾子の念押しに、陽葵は迷うことなく自分の名前を書き込み、離婚届を差し出した。 「お義母さん。離婚が正式に受理されて、全ての手続きが終わったら、彼に伝えていただけますか」 その時になれば、きっと彼はこの上なく喜ぶだろう。 本家を出て、荷物をまとめるために家に戻ろうとした陽葵だったが、車に乗り込む前に、凄まじい怒りを顔に張り付かせた理翔がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。 「陽葵!やはりお前か!」 第3話 陽葵が事態を飲み込めずにいると、理翔は傍らに控えるボディガードに冷徹な命令を下した。「彼女を柚乃の大学へ連れて行け」 言葉が終わるが早いか、ボディーガードが容赦なく陽葵の両脇を抱え、強引に車内へと引きずり込んだ。 ドアが重々しく閉まった衝撃で、陽葵はようやく我に返った。込み上げる怒りを抑えきれず、運転席の理翔を睨みつける。「理翔、一体何をするつもりなの?」 「何をするだと?」理翔の口端が、冷たく吊り上がった。 「俺のお母さんを焚きつけ、大学内に根も葉もない噂を流させたな。柚乃が愛人だと言いふらし、彼女を追い詰めて三階から飛び降りさせた。彼女が足を骨折する重傷を負ったことに、少しの責任もないとでも言うつもりか?」 「私はやってないわ!」 陽葵の瞳が激しく揺れ、必死に弁解する声が震える。「理翔、私の仕業じゃない。誓ってそんなことしていない!」 「お前以外に誰がいる」理翔の眼差しには、猛毒のような憎悪が宿っていた。「陽葵、その報い……百倍にして贖わせてやる」 陽葵がどれほど必死に言葉を尽くし、無実を訴えようとも、冷酷な彼を前にしてはその叫びさえ虚しく霧散するだけだった。 大学に到着すると、ボディガードによって地面に蹴り出された。 ちょうどその時、松葉杖をついた柚乃が医務室の方から姿を現した。理翔の姿を認めるや否や、彼女は目を赤く腫らし、松葉杖も忘れたように彼の懐へと飛び込んだ。 声が詰まった。「理翔……私、愛人なんかじゃないよね?違うよね?」 理翔は慈しむように視線を下げ、彼女を優しくあやした。「ああ、その通りだ。柚乃は愛人なんかじゃない。俺の、唯一の妻だ」 柚乃は泣きじゃくりながら、彼に強く縋り付いた。 次の瞬間、理翔は地面に這いつくばる陽葵へと、氷のような冷徹な視線を向けた。 「彼女の顔に『愛人』の二文字を書きなぐれ。そのまま縄で縛り上げ、大学の正門に三日間晒し者にしておけ。誰が本当の愛人なのか、学生連中にたっぷり拝ませてやるんだ」 陽葵の目元が、屈辱と恐怖で瞬時に赤く染まった。「理翔、あなた正気なの?こんなことをして、もしお義母さんに知られたら……」 「陽葵、お前は告げ口以外に能はないのか?」 理翔は冷ややかに吐き捨てた。その声は、骨の髄まで凍てつくほどに冷たい。「今回だって、お前が俺のお母さんに余計な真似さえしなければ、俺もこんな手段は取らなかったんだ」 陽葵が必死に弁明しようと口を開きかけたが、理翔はそれを許さなかった。彼は一顧だにせず、柚乃を軽々と抱き上げると、そのまま背を向けて立ち去った。 陽葵はもがきながら立ち上がろうとしたが、二歩も行かぬうちにボディガードに膝裏を蹴り上げられ、その場に崩れ落ちた。 抵抗も虚しく押さえつけられ、顔には赤いペンで屈辱的な文字が書き込まれた。そしてそのまま縄で縛り上げられて、医学院の正門に晒し者として吊るされた。 通りがかる学生たちは、次々とスマホを向け、彼女の無残な姿を撮り溜めていく。 丸三日間。陽葵は宙に吊るされ続け、やがて両腕の感覚は完全に失われた。炎天下に晒され、全身の水分が奪われて脱水症状に陥り、ついには息をすることさえ苦しくなった。 眼下に控える監視役のボディガードに何かを訴えようと視線を送ったが、乾ききった喉からは声一つ漏れない。 最後には限界を迎え、彼女は深い闇の中へと意識を失った。 ……目を覚ました時、陽葵を襲ったのは手首を貫くような刺すような激痛だった。思わず身をよじろうとした瞬間、そばにいた看護師に制止された。 「無理に動かさないでくださいね。手首を脱臼されているんですから」 陽葵が薄く目を開けると、看護師が手際よく患部を固定しているところだった。 看護師は処置を終えると、いくつか注意事項を言い添えてから、静かに病室を後にした。 喉が焼けるように渇いている。陽葵は激痛を堪えて身体を起こし、ベッドの端まで這うようにしてにじり寄った。サイドテーブルにあるコップに手を伸ばそうとしたその時、病室のドアが乱暴に開かれた。 現れた理翔は冷淡な表情のまま、陽葵から一メートルほど距離を置いて足を止めた。彼女の怪我を気遣う素振りなど微塵も見せず、手にしていたものを無慈悲に投げつけた。その口端には、冷酷な嘲笑が刻まれていた。 「陽葵、本当にお前は大した策士だな。俺のお母さんをあそこまで丸め込むとは。お前がひどい目に遭ったからと、お母さんが自ら謝罪の宴を主催し、そのうえ俺に直接招待状を届けさせるなんてな」 陽葵は、何を言っても無駄だと悟り、ただ沈黙を貫いた。 理翔は彼女の無反応にわずかな違和感を覚えたようだが、すぐに興味を失った。 理翔が背を向けて立ち去ろうとしたその時、甘ったるい声が病室に響いた。 「理翔!見て、何を持ってきたと思う?」 いかにも少女らしいワンピースに三つ編み姿の柚乃が、ひょっこりと姿を現した。背中に何かを隠しながら、可愛らしい顔で理翔を上目遣いに見つめる。 理翔の口元がふわりと綻んだ。陽葵が今まで一度も向けられたことのない、とろけるように甘く、優しい声で彼は問いかけた。「何を持ってきたんだ?」 柚乃はいたずらっぽく微笑む。「手を貸して」 理翔が言われるがまま掌を差し出すと、彼女はふいに顔を寄せ、そこにそっと唇を落とした。 して、何も持っていない両手を広げて見せ、茶目っ気たっぷりに瞳を輝かせる。「私のキスだけよ」 理翔は一瞬呆気に取られたが、すぐに愛おしそうに低く笑った。「なんて可愛い子だ」 そう言って彼は柚乃の頬に口づけを落とすと、何かを思い出したように、わざとらしく陽葵の方を振り返り、挑発的な視線を向けた。 陽葵の存在に気づいた柚乃は、怯えたように理翔の懐に潜り込んだ。 「理翔……」 「大丈夫だ、柚乃。俺がここにいる」 陽葵は自嘲気味に口角をわずかに上げると、淡々と視線を外した。「……帰るなら、ドアを閉めて」 理翔は、彼女のあまりに冷めた反応に意表を突かれたようだった。だが、次の瞬間にはその顔を露骨な嫌悪で歪ませた。「俺はお母さんのように甘くない。そんな安っぽい駆け引きで俺の気を引こうとしても、無駄だ」 陽葵は唇を噛み、何も答えなかった。 理翔は鼻で笑う。「明日の宴を忘れるなよ。招待状を渡さなかったと、またお母さんに告げ口されては敵わないからな」 第4話 翌日、陽葵が宴会場に到着したときには、綾子がすでに主賓席で彼女を待っていた。 陽葵の姿を見るなり、綾子はすぐに立ち上がって彼女の手を引き寄せ、隣に座らせた。その表情は申し訳なさで溢れている。 「陽葵、本当にごめんなさいね。理翔があんな無体な真似をするなんて……すべては私の教育不足だわ。あの子が来たら、私からきつく言い聞かせてやるから」 そう話している最中、会場の入り口がにわかに騒がしくなった。 二人が目を向けると、そこには白いワンピースを身にまとった柚乃が立っていた。 おどおどと周囲を伺うその姿はいかにも垢抜けない小娘といった風情で、陽葵の凛とした気品には、その足元にも及ばない。 綾子の顔色が瞬時に険しくなった。「誰かその女を今すぐつまみ出しなさい!ここは、どこの馬の骨とも知れない卑しい女が足を踏み入れていい場所じゃない!」 柚乃が顔を青ざめさせ、立ち往生していると、背後から現れた理翔が彼女の手を力強く握った。 「お母さん、紹介するよ。俺の恋人の柚乃だ」 妻のための謝罪の宴に、夫が別の女を連れて現れる。それは、どこからどう見ても目を覆いたくなるような修羅場でしかなかった。 陽葵は、爪が掌に食い込むほど拳を固く握りしめたが、顔には微塵も動揺を見せなかった。 理翔は柚乃を連れて堂々と歩を進めると、わざとらしく陽葵の真向かいの席に腰を下ろした。その挑発的な視線は、あからさまに彼女を辱めることを愉しんでいるかのようだった。 その後の宴席は、言うまでもなくいたたまれない沈黙に包まれた。 綾子は怒りで全身を震わせ、ものの三分も持たずに席を蹴って立ち去った。それを見た賓客たちも、次々と適当な理由をつけて中座していき、賑やかだったはずの会場はあっという間に静まり返った。 広大な宴会場に、ついに陽葵、柚乃、理翔の三人だけが取り残された。 理翔は満足げに口角を上げると、愛おしそうに柚乃の髪を撫でた。「興醒めだな。柚乃、ここで待っていろ。車を回してくるから、別の場所へ遊びに行こう」 柚乃は甘えるように微笑んだ。「ええ」 陽葵は視線を外すと、背を向けて出口へと歩き出した。 だが数歩も行かないうちに、柚乃が追いかけてきた。その声は低く、勝ち誇ったような響きを帯びている。 「陽葵さん。聞いたわよ?理翔と結婚して五年、一度も子宝に恵まれなかったんですって?」 陽葵は相手にせず、足を止めることもしなかった。 だが、柚乃はしつこく食い下がり、さらに距離を詰めると、隠しきれない優越感を声に滲ませた。 「ねえ、陽葵さん、結婚してこれほど長い間、彼に何度抱かれたの?一回、二回……それとも、一度もなし?先日、彼のポケットにこっそり忍ばせたあの丸まったティッシュ、見てくれたかしら。あれ、彼が黙認してくれたのよ。 彼はね、私の方が若くて可愛いし、陽葵さんよりずっと彼を喜ばせるのが上手だって言ってたわ。私のために命を懸けてもいいって」 陽葵の足が、ぴたりと止まった。「……あの汚物を仕込んだのは、あなたなの?」 「そうよ、わざとやったの」柚乃の瞳には、歪んだ勝利の光が宿っていた。「今、理翔に愛され、慈しまれているのは私。陽葵さんなんて、彼の目には汚らわしい細菌か何かにしか見えていないわ。指一本触れるのも、手が汚れるから嫌だって言っていたもの」 陽葵は冷たく鼻で笑い、反撃しようと口を開きかけた。その時――頭上の巨大な広告看板からギギッと不吉な軋み音が響き、今にも崩れ落ちそうなほどに揺れ始めた。 陽葵は直感的に身の危険を感じ、咄嗟にその場を離れようとした。しかし、その手首を柚乃に力任せに掴まれ、看板の真下へと無理やり引き戻された。 「陽葵さん……今日ここで確かめてみましょうよ。理翔の心の中で、本当はどちらが大切なのかを!」 言い終える間もなく、柚乃は落下してくる看板を避けるように激しく後ろへよろけ、凄惨な悲鳴を上げて地面に叩きつけられた。 ドォォォォン! 凄まじい衝撃音とともに、重厚な看板が陽葵の背中を直撃した。鮮血が瞬時に噴き出し、純白のドレスを無慈悲に赤く染め上げていく。 全身を突き抜けるような激痛に、陽葵はその場に膝から崩れ落ちた。 朦朧とする意識の中で、遠くの車から理翔が必死の形相で駆け寄ってくるのが見えた。 彼は血まみれの陽葵には目もくれず、真っ先に柚乃を抱きかかえると、取り乱した様子で彼女の怪我を確認し始めた。柚乃に傷一つないことが分かってようやく安堵した彼は、彼女を自分の背後に庇い、陽葵に向けて凍てつくような眼差しを向けた。 「陽葵、お前……柚乃に何をしようとしたんだ!」 激痛で声も出ない。背中の傷よりも、心臓を直接抉られるような痛みの方が、はるかに鋭かった。 柚乃は瞳に涙を溜め、理翔の袖を弱々しく引いて見せた。「理翔……違うの。陽葵さんが私を突き飛ばして、助けてくれたのよ」 柚乃が何を企んでいるのか、陽葵には分からなかった。ただ、一言の反論を口にする力すら、今の彼女には残っていなかった。 理翔は柚乃の言葉に一瞬動きを止めたが、すぐにその瞳にどろりとした嫌悪の色を浮かべた。「柚乃、騙されるな。彼女が君を助けるはずがないだろう。あんな反吐が出るような真似ができる女なんだぞ」 陽葵の胸の奥を、言葉にできないやるせなさが突き上げた。 「本当なの!本当に陽葵さんが助けてくれたのよ!」柚乃は地面に広がる鮮血を見て、瞳を激しく揺らした。「理翔、お願い。早く彼女を病院へ!このままじゃ、死んじゃうわ!」 だが理翔はその場を動こうともせず、突き放すように言い放った。「今の彼女は血まみれで、汚らわしい。触れる気にもなれない。救急車を呼べば済む話だ」 陽葵の心臓が、見えない手に力任せに握りつぶされたかのように軋んだ。呼吸をすることさえままならない。 遠くから、救急車のサイレンが近づいてくる。 駆けつけた救急隊員が陽葵を担架に乗せようとしたその時、柚乃の身体がふらりと揺れた。みるみるうちに血の気が引き、その顔が真っ白に染まる。「理翔、私……っ」 言い終える前に、彼女は目の前が真っ暗になったかのように、理翔の腕の中へ力なく倒れ込んだ。 「柚乃!」 理翔は彼女を抱き留めると、焦燥に満ちた顔で救急隊員に向かって怒声を上げた。「その女を降ろせ。先に柚乃を病院へ運ぶんだ!」 看護師が困惑した表情で訴える。「ですが、近藤さんは大量出血しています。次の救急車を待っていては、命の保証はできません……」 「救急車を呼んだのは俺だ!それに俺はこの病院の外科部長、瀬戸理翔だぞ。万が一のことがあっても、責任はすべて俺が取る。いいから代われ!」 理翔は強引に言葉を遮ると、陽葵が乗せられていた担架から彼女を無理やり降ろさせ、代わりに柚乃を丁寧に横たえた。 彼はそのまま、一度も陽葵を振り返ることなく救急車に乗り込んだ。終始、彼女を視界に入れることさえしなかった。 その直後――意識を失ったはずの柚乃が、誰にも見えない角度でふっと目を開けた。そして陽葵に向かって、勝ち誇ったように眉を上げてみせた。 遠ざかっていくサイレンの音を聞きながら、陽葵はついに耐えきれず、深い闇の中へと意識を失った。 第5話 再び目を覚ました時、目に刺さるような白い光に、陽葵は不快そうに目を細めた。 「ようやくお目覚めになりました!」看護師が安堵の息を漏らした。「通りがかりの方が運んでくださったんですよ。もう命に別状はありません。ご家族に連絡しましょうか?」 陽葵は力なく首を振り、かすれた声で答えた。「いいえ……家族はいませんから」 両親はとうの昔に亡くなり、夫とも離婚した。結局のところ、自分はたった独りではないか。 看護師は不思議そうに首を傾げた。「でも、カルテには結婚して五年とありますが……旦那様は?」 「離婚しました」声は弱々しかったが、そこには決意が籠もっていた。 その言葉が終わるが早いか、病室のドアが乱暴に押し開かれた。 「離婚だと?」 白衣を身にまとった理翔が、冷徹な表情で足を踏み入れてきた。「誰が離婚するって?」 看護師は気圧されるように部屋を後にした。陽葵は唇を噛み、視線を逸らす。「……友達の話よ」 理翔は鼻で笑った。「てっきり、お前のことかと思ったよ」 陽葵の全身が強張った。彼女はゆっくりと彼を見据える。「……もし、本当に私だったら?」 理翔は滑稽なジョークでも聞いたかのように、嘲りを含んだ声を上げた。「陽葵、お前にそんな真似ができるはずがないだろう。親を丸め込み、反吐が出るような手段を選ばず俺に結婚を強いたのは、どこのどいつだ」 陽葵の目元がわずかに赤く潤んだ。彼女は、どうしても一つの答えを求めたかった。 「もし、私が今、本気で離婚したいと言ったら?」 理翔が不快そうに眉根を寄せ、何かを言いかけたその時、背後から看護師の声が響いた。「先生!青木さんがお目覚めです。泣きながら先生を探していらっしゃいます!」 彼の表情が一変した。すぐさま背を向けて駆け出そうとしたが、出口の間際で足を止め、冷たく言い捨てた。「お前が離婚を切り出すなんて、これっぽっちも期待していない。ただ、余計な真似をして場をかき乱すのはやめろ。柚乃にも、二度と近づくな」 言い残すと、彼は大股で去っていった。 陽葵はその背中を見つめ、視界を滲ませながら自嘲の笑みを浮かべた。 しばらくは理翔の顔を見ずに済むだろう。そう思っていた。 だが翌日、彼は再び病室の入り口に現れた。その背後には、いかにも痛ましげに青白い顔をした柚乃を連れている。 陽葵はすっと視線を外し、二人など最初から存在しないかのように無視した。 「陽葵!」理翔はその冷淡な態度に触れ、瞬時に顔を険しくした。「柚乃がせっかく善意で見舞いに来てやったんだぞ。その態度はなんだ」 陽葵はふっと鼻で笑った。「なら、私はどう振る舞えば満足なの?床に膝をついて、三つ指でもついてお出迎えすればいいかしら?」 理翔の顔が、これ以上ないほど不快そうに歪んだ。「柚乃が、あの日自分を突き飛ばして救ってくれたのはお前だと言い張るから、わざわざ連れてきてやったんだ。そうでなければ、誰がお前の顔など見に来るか」 陽葵は冷ややかな視線を柚乃へと向け、一字一字を叩きつけるように言い放った。「あなたは妄想癖でもあるのかしら。悪いけれど、私は道端の犬なら助けるかもしれないけれど、あなたを助けることなんて万に一つもありえないわ」 理翔の瞳に激しい怒火が宿り、声を荒らげようとした瞬間、柚乃がその手をそっと制した。「理翔……お願い、陽葵さんと喧嘩しないで」 柚乃のしおらしい姿を目にした途端、理翔の怒りは霧散した。彼は彼女の頬を愛おしそうになで、慈しむような溜息をついた。 「柚乃、君のそのお人好しも大概にしろ。そんな無防備な善意は、いつか自分を滅ぼすぞ」 柚乃は彼の袖を掴んで甘えるように揺らした。 「理翔、私は平気。それに、陽葵さんが助けてくれたのは本当だもん。彼女はただ口が悪いだけで、本当は根が優しいんだよ。ねえ、お詫びに陽葵さんも誘って、隣の海を回るクルーザーに乗りに行かない?」 理翔が答える前に、陽葵が冷たく突き放した。「行かないわ」 柚乃の瞳がみるみる赤くなった。「陽葵さん、私の気持ち、受け取ってくれないんだね……でも、そうだよね。私があんな……」 「お芝居はもう十分よ」陽葵は冷酷にその言葉を遮った。「気が済んだなら、今すぐ私の前から消えてよ」 理翔の額に、怒りで青筋が浮かび上がった。 「お前に行くか行かないかを選ぶ権利などない!これは柚乃の厚意だ。四の五の言わずに従え!」 第6話 その日、理翔は陽葵の意志を無視し、無理やり彼女を連れ出した。 海岸に着くと、理翔は自らクルーザーの舵を握った。広々とした甲板には、彼ら三人の姿しかなかった。 乗船した時から、陽葵は終始冷徹な表情を崩さず、一言も発しなかった。そんな彼女に、柚乃が歩み寄る。 「陽葵さん、あの日は助けてくれてありがとう。陽葵さんがいなかったら、ひどい怪我をしてたのは私だったかもしれないね」 陽葵は冷ややかな一瞥をくれただけで、何も答えなかった。 柚乃の顔に、すぐさま被害者を装うような、しおらしい色が浮かぶ。「陽葵さん、まだ怒ってるの?」 そこへ理翔がやってきた。柚乃の弱々しい声を聞いた途端、彼は不快そうに眉根を寄せた。「陽葵、せっかく遊びに来たんだ。そんな反吐が出るような不機嫌な面を見せるな」 陽葵は依然として口を閉ざしたままだ。 理翔の顔色が沈み、柚乃の手を引いた。「柚乃、放っておけ。おいで、クルーザーの操縦を教えてやるよ」 二人は肩を並べて操縦室へと向かった。理翔は後ろから柚乃の腰を抱き、手取り足取り舵輪の扱いを教える。触れ合う指先、囁き合う笑い声――そこには隠そうともしない睦まじさがあふれていた。 やがてコツを掴んだ柚乃が、自分一人でやりたいと言い張った。彼女が思うままに舵輪を回すせいで、クルーザーは海面をのたうつように暴走し、あちこちへ横滑りを始めた。 だが、理翔はそれを止めるどころか、傍らで愛おしそうに彼女を見つめ、甘やかすような笑みさえ浮かべていた。 船首が前方の暗礁に激突しそうになった瞬間、陽葵の顔色がさっと変わった。彼女は迷わず操縦室へ駆け込んだ。 「柚乃!今すぐやめて!」 中の二人が一斉に振り返る。理翔は不快そうに顔を歪めた。「陽葵、今度は何の真似だ?また気が狂ったのか?」 陽葵が言い返す暇もなかった。船体は凄まじい轟音とともに暗礁に乗り上げ、ドォンという爆音が響き渡った。 クルーザーが激しくのたうち、理翔は反射的に柚乃を抱き寄せると、自分の体を盾にして彼女を死守した。飛んでくる雑物や衝撃を、すべてその背中で受け止める。 「柚乃、怪我はないか!」 彼は、柚乃が少しでも傷ついていないかと必死に確認する。 一方、無防備だった陽葵は猛烈な勢いで甲板へと無残に叩きつけられた。まだ癒えていない体にはあまりに過酷な一撃。全身の骨が砕け散るような激痛が彼女を貫いた。 柚乃は理翔の腕の中に縮こまり、大粒の涙を次から次へと溢れさせた。「理翔、暗礁にぶつかったの?クルーザー、沈んじゃうのかな……私、まだ死にたくないよ……」 理翔は彼女の背を優しくさすり、なだめるように囁いた。「怖がるな。俺が様子を見てくる」 そう言うと、彼は状況を確認するために背を向けた。その間、陽葵に一瞥をくれることさえなかった。 船の激しい揺れによって、背中の傷口が引き裂かれるように疼く。陽葵は立ち尽くしたまま、声も出せない。 そこへ、いつの間にか柚乃が歩み寄ってきた。「ねえ、陽葵さん。もし本当にこのクルーザーが沈んだら、彼はどっちを先に助けると思う?」 言い終わるが早いか、クルーザーに再び猛烈な衝撃が走り、船体がゆっくりと傾き始めた。甲高い警報音が鳴り響く。 操縦室から理翔が飛び出してきた。「船底が破れた!早く救命胴衣を!」 理翔が自分を助けるはずがない――そう悟っていた陽葵は、迷わず一番近くにある救命胴衣に手を伸ばした。 だが、指先が触れようとしたその瞬間、理翔が突進してきた。彼は陽葵の手からそれを強引に引ったくると、淀みない手つきで柚乃の身体に着せ始めた。 「理翔、何をしてるの?」 陽葵は怒りで瞳を血走らせ、最後の一着を掴もうと必死に手を伸ばした。 だがその時、柚乃の泣きじゃくる声が響く。「理翔、私、泳げないよ……置いていかないで。離れたくないっ」 その声を聞いた理翔の表情は、一瞬でとろけるような慈愛に染まった。彼は彼女の額にそっと唇を寄せ、なだめるように囁いた。「安心して。君を置いていったりしないよ」 そして、彼は迷うことなく、陽葵が手にしていた最後の救命胴衣をも力任せに奪い取った。 陽葵の瞳には、血の涙が滲まんばかりの絶望が宿る。「理翔!それは私が先に掴んだのよ!」 理翔は彼女を見向きもせず、自分の身に救命胴衣を着けながら言い放った。 「近藤家の令嬢教育には、自己救助の訓練も含まれていたはずだ。お前はここで持ちこたえろ。俺は先に柚乃を連れて戻り、すぐに救助を向かわせる」 言い捨てるなり、二人の姿は海面へと消えていった。 ほぼ同時に、船内で爆発音が響いた。火光が走る刹那、陽葵の体は衝撃波で宙に舞った。 ドォン!激しく床に叩きつけられ、喉の奥からせり上がる熱い塊を堪えきれず、彼女は鮮血をぶちまけた。 浸水はもはや止める術もなく、足元は激しく揺れて立っていることさえままならない。陽葵は意識を失いそうな激痛を気力だけで振り払い、必死に這い上がると、船縁から暗い海へと身を投げた。 刺すような氷の水が全身を包み込み、心臓が凍りつきそうになる。それでも彼女は止まらなかった。生きるためではない。ただ、逃れるために、必死に腕を動かし続けた。 どれほど泳いだだろうか。ついに体力の限界が訪れ、視界が白く霞んでいく。指先一つ動かす力も残っていない。 陽葵はそっと目を閉じた。そのまま、深い海の底へと沈んでいく自分の身を、彼女はただ運命に委ねた。 第7話 次に目を覚ました時、視界に飛び込んできたのは無機質な白い天井だった。陽葵は、自分がまだ生きていることに驚きを禁じ得なかった。 「……しぶとい女だな。あの状況で漁師に救い上げられるとは」 聞き慣れた冷ややかな声に顔を向けると、白衣を纏った理翔が、高みから見下ろすように立っていた。 陽葵の喉は火で焼かれたように熱く、一言も発することができない。 理翔はそれ以上取り合おうともせず、「安静にしていろ」とだけ冷たく吐き捨てて、背を向けて立ち去った。 遠ざかっていくその背中を見送っても、陽葵の心にはもはや、さざ波一つ立たなかった。 大量の海水を飲み込んだ影響で喉の炎症がひどく、入院生活は一週間続いた。 ようやく声が出るようになったその日は、ちょうど離婚の手続きが完了する頃合いでもあった。 陽葵が布団をめくり、ベッドを降りて病室の入り口へ向かおうとしたその時だ。理翔が血相を変えて駆け込んできたかと思うと、彼女の手首を骨が軋むほどの力で掴んだ。 「お前はRhマイナスだったはずだな。来い、時間がない!」その口調には、反論も拒絶も許さないような、異常なまでの切迫感が籠もっていた。 陽葵は苦痛に眉をひそめ、その手を激しく振り払った。「……何の真似よ」 理翔の瞳には、陽葵が見たこともないほどの激しい焦燥が滲んでいた。 「柚乃が妊娠したんだ。学校で倒れて運ばれてきたが、重度の貧血を起こしている。彼女と……お腹の子を救うには、今すぐ輸血が必要だ。柚乃はお前と同じ希少血液型なんだ。救えるのは、お前しかいないんだよ!」 一瞬の沈黙の後、陽葵は喉の奥から絞り出すような冷笑を漏らした。「……私が、どうしてあの女を助けなきゃいけないの?」 「陽葵、二つの命がかかっているんだぞ!」理翔の顔が、怒りと焦りで険しく歪む。 「あの二人が死のうが生きようが、私には関係ないわ」陽葵が背を向けて立ち去ろうとした瞬間、理翔がその腕を乱暴に掴み取った。「拒否権などない。来い!」 彼はなりふり構わず、抵抗する陽葵を処置室へと引きずっていった。そして、彼女の細い腕を看護師の前に突き出すと、冷酷に言い放った。 「必要なだけ抜け。予備も多めにストックしておけ。中にいる患者の血が足りなくなることだけは、絶対に許さん」 「……承知いたしました、先生」 陽葵の目元が、絶望で真っ赤に染まった。「理翔、正気なの?私はまだ退院すらしていない病体なのよ。こんなに抜かれたら……私が死んでしまうわ!」 理翔は一瞬視線を泳がせたが、すぐに彼女を見下ろして言った。「陽葵、柚乃とお腹の子のために血を分け与えると誓うなら、望むものは何でもやる。お前を抱いてやってもいい」 「……最低。反吐が出るわ、離して!」 陽葵は泣きながら必死に抗ったが、理翔が微塵も動じなかった。彼女の顔からみるみる血の気が失せ、膝がガクガクと震え、立っていることさえままならなくなるまで、彼はその手を緩めることはなかった。 ようやく解放された陽葵は、まだ血の滲む腕を痛々しく押さえ、ふらつく足取りで一歩、また一歩と踏み出した。その顔にはもはや表情一つなく、ただ死人のような蒼白さだけが張り付いている。 理翔が眉をひそめ、支えようと手を伸ばしかけたが、陽葵はその手を激しく叩き払い、全力で拒絶した。「……触らないで、消えて!」 理翔の顔が瞬時に氷のように冷え切り、彼はそのまま一度も振り返ることなく去っていった。 陽葵は壁を伝いながら、一歩ずつ、這い出すようにして病院を後にした。そのままタクシーを拾って役所へと向かい、離婚届受理証明書を受け取った。 かつて「家」だと思い込んでいたあの邸宅に戻り、手早く荷物をまとめ、この場所を去る準備を整える。 だが、階段を降りたところで、いつの間にか帰宅していた理翔と鉢合わせした。 陽葵は一瞬立ち止まったが、すぐに視線を逸らして通り過ぎようとした。 理翔の視線が、彼女が引いているスーツケースをなめるように走る。彼は鼻で笑うと、皮肉たっぷりに言い放った。 「……たかが血を抜かれたくらいで、また俺のお母さんのところへ泣き言でも並べに行くつもりか?今回はわざわざ荷物までまとめて、一体何日居座って同情を引く気だ?」 陽葵は何も答えない。 理翔は冷笑を浮かべたまま歩み寄ると、財布から一枚のカードを取り出し、スーツケースの上にパサリと放り投げた。 「中には二億円入っている。好きなものでも買え。今回の件の補償だ」 そして、何かを思い出したように残酷な言葉を付け加えた。 「今後も柚乃とお腹の子に血が必要になったら、協力するたびに報酬を弾んでやる。お前の望み通り、俺と寝ることも許してやろう。ただし、あらかじめ全身を念入りに消毒しておくことを忘れるなよ」 その施しを与えるような物言いに、陽葵の口角がわずかに上がった。「あなた、自分を過大評価しすぎじゃない?私とあなたは、もう何の関係もないわ」 理翔は一瞬呆気に取られたが、すぐに何かを察したように鼻で笑った。「陽葵、気を引くための駆け引きなら、いい加減そのくらいにしておけ。何度も同じ手を使えば、誰も信じなくなるぞ」 彼女は唇を噛み、言葉を紡ごうとした。「理翔、私たち、もう――」 「離婚した」という言葉を口にするより早く、理翔のスマホが鳴り響いた。 画面に表示された「柚乃」の文字を見た瞬間、彼の瞳にはとろけるような慈愛が宿り、すぐさま通話ボタンを押した。 柚乃と二言三言交わすと、彼は焦ったように靴を履き替え、去り際に冷たく言い捨てた。「俺と寝たければ、明日の夜、念入りに消毒を済ませてベッドで待っていろ」 遠ざかっていく彼の背中を見送りながら、陽葵は静かに笑った。「……ええ。理翔、これであなたは自由。そして私も、ようやく自由になれるわ」