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風よ、我を遠くに連れて行って
瀬戸未玖(せと みく)は、これが何度目になるのか――もう、数えるのをやめてしまった。 夫である瀬戸海斗(せと かいと)が求める反応を、返...
Chương (1)
第1章
瀬戸未玖(せと みく)は、これが何度目になるのか――もう、数えるのをやめてしまった。
夫である瀬戸海斗(せと かいと)が求める反応を、返してあげられないことへの無力感に、未玖はただ打ちひしがれていた。
けれど、今日の検診で、医師の言葉は確かなものだった。治療の効果が現れ、聴覚神経が回復し始めていると。間もなく、失われた音の世界は完全に戻ってくるだろう、と。
もうすぐ、また普通に話せるようになる。もう二度と失望させたり、興醒めさせたりせずに済む――!
希望に胸を震わせ、未玖は口を開いた。けれど、喉から最初の声が漏れた途端、海斗は不快そうに眉をひそめた。
「先に寝てて。な?おやすみ」
冷たく言い残し、彼は去っていく。
未玖は胸を締め付けられるような申し訳なさを抱えながら、それでもこのいい知らせを伝えたくて、書斎へと彼を追った。手話ならば、正確に伝えられるはずだから。
書斎の扉は、わずかに開いていた。
手をかけて押し開けようとした、その時だ。
扉越しに、くぐもった音が聞こえた。海斗の声だ。パソコンに向かい、「声を聞かせてくれよ」と甘えている。
隙間から覗き込むと、画面の中には女性の姿があった。
露出の多い、扇情的なキャミソールを身に纏い、唇に妖艶な笑みを浮かべている。「かしこまりました、海斗さん~。専属声優の荻野香奈(おぎの かな)、今日はたっぷりとご奉仕させていただきますね」
海斗の手が、熱を帯びた自身へと伸びている。その瞳には、未玖が一度も向けられたことのない、生々しい情欲が宿っていた。
「俺の名前を呼んでくれ!」
「海斗さん、あぁ、海斗さん……っ!」
甘く、脳を溶かすような蠱惑的な声が、何度も何度も耳にこびりつく。その場に立ち尽くす未玖の全身が、凍てついた水底へと沈んでいくようだった。
さっき、急いで寝室を出ていったのは、仕事があるからではなかった。彼にはもう、他の女がいたのだ。
そういうことなら――
あなたの望み通りにしてあげる。離婚して、約束通り――あなたを、一文無しにしてやるわ!
第1話
瀬戸未玖(せと みく)は、これが何度目になるのか――もう、数えるのをやめてしまった。
夫である瀬戸海斗(せと かいと)が求める反応を、返してあげられないことへの無力感に、未玖はただ打ちひしがれていた。
押し付けられた海斗の体温は、痛いほどに熱い。瞳の奥で渦巻く暗い欲望も、荒くなる吐息も。
応えたい、という想いはある。けれど、聴力を失ってから長く閉ざされていた喉の奥で空気が潰れたような、意味をなさない音が漏れるだけだ。
海斗の瞳から、欲望の色が急速に褪せていく。未玖はそれを、ただ見つめることしかできなかった。
やがて彼は身を起こし、手話で淡々と告げる。
「書斎で片付けなきゃいけない仕事がある。先に寝ててくれ」
額にキスを落とし、部屋を出ようとする海斗。
未玖は慌てて起き上がり、その手を掴んだ。どうしても、伝えたいことがあったからだ。
今日の検診で、医師は確かにこう言ってくれた。治療の効果が現れ、聴覚神経が回復し始めていると。間もなく、音の世界は完全に戻ってくるだろう、と。
もうすぐ、また普通に話せるようになる。もう二度と失望させたり、興醒めさせたりせずに済む――!
希望に胸を震わせ、未玖は口を開いた。けれど、喉から最初の声が漏れた途端、海斗は不快そうに眉をひそめた。
「先に寝てて。な?おやすみ」
冷たく言い残し、彼は足早に去っていく。
未玖は胸を締め付けられるような申し訳なさを抱えながら、それでもこのいい知らせを伝えたくて、書斎へと彼を追った。手話ならば、正確に伝えられるはずだから。
書斎の扉は、わずかに開いていた。
手をかけて押し開けようとした、その時だ。
扉越しに、くぐもった音が聞こえた。海斗の声だ。パソコンに向かい、「声を聞かせてくれよ」と甘えている。
画面が眩しく発光していた。隙間から覗き込むと、そこには女の姿があった。
露出の多い、薄いキャミソールを身に纏い、唇に妖艶な笑みを浮かべている。
「かしこまりました、海斗さん~。専属声優の荻野香奈(おぎの かな)、今日はたっぷりとご奉仕させていただきますね」
海斗の手が、熱を帯びた自身へと伸びている。その瞳には、未玖が一度も向けられたことのない、生々しい情欲が宿っていた。
「俺の名前を呼んでくれ!」
「海斗さん、あぁ、海斗さん……っ!」
甘く、脳髄を痺れさせるような甘い声が、何度も何度も耳にこびりつく。全身の血が逆流し、足元の床が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
「あぁ……やっぱりお前の声は、あいつなんかよりずっといい」
「奥様、お耳が聞こえなくなってからは声も出せなくて、満足させてあげられないんですものね」
香奈が甘えた声で囁くのが聞こえる。
「どうせ私、もう海斗さんの秘書ですし、海斗さん専属の声優なんですから。画面越しじゃ物足りないでしょう?今なら会社、誰もいませんよ……?」
その瞬間、未玖の中で全てが繋がった。この女は、海斗がつい最近採用したばかりの秘書・荻野香奈だ。
そういうことだったのか。学歴も高くない彼女を、破格の待遇で秘書に据えた理由は。
「彼女には一芸がある。チャンスを与えたい」などと海斗は言っていたが、その一芸とは、この喘ぎ声のことだったわけだ。
「海斗さ~ん、そんなに大変そうなら、今すぐ来てくれてもいいのよ?私、海斗さんの上で、いっぱい声出してあげるから」
「お前、本当に小悪魔だな。待ってろ、すぐ行く」
欲望を吐き出し終えた海斗は、パソコンを閉じて立ち上がろうとしたその時、扉の前に立ち尽くす未玖と、目が合った。
一瞬、海斗の顔に動揺の色が浮かぶ。
けれど次の瞬間、彼は思考を切り替えたようだった。彼女には聞こえていないはずだ。何をしていたかなんて、分かるはずがない、と。
彼は表情を戻し、手話で告げてくる。
「先に休めって言っただろ?何の用だ?」
血の気の引いた顔で夫を見つめる未玖は、震える指でパソコンを指差し、掠れた声を振り絞った。
「今……何してたの?」
「何でもない。急ぎの用事ができたんだ。これから会社に行く。早く寝ろ」
海斗は傍らの上着を掴むと、信じがたいことに、スマホを取り出し、未玖の目の前で臆面もなく香奈に電話をかけた。
「こんな遅くに来たら、奥様に悪いんじゃないですか?」
「今さら何を。いつものことだろ。会社に行くと言えばそれで済む、疑いやしないさ。たとえ本当のことを知ったとしても、どうってことない。今のあいつの状態で、俺以外の誰が欲しがるんだ?」
口では未玖を貶める言葉を吐きながら、海斗はその顔に優しげな笑みさえ浮かべている。
出かける間際、彼は未玖を抱きしめた。そして手を振り、バイバイと告げて部屋を出て行った。
未玖は彼の背中を見送りながら、声もなく笑った。瞳からは、堰を切ったように涙だけが流れ落ちる。
二人は幼馴染の夫婦だった。中学、高校、大学と、人生のすべてを共に歩んできた。
誰もが言ったものだ。二人は最高のカップルだと。もしこの二人が別れるようなことがあれば、もう愛なんて信じられないと。
海斗が起業した時も、未玖は献身的に彼を支え続けた。
わずか二年で、海斗は事業で大成功を収めた。無名の青年が、一転して気鋭の社長となったのだ。
本来なら、二人の生活は幸せに満ちているはずだった。あの突然の事故が、未玖から聴力を奪ってしまうまでは。
三年前、海斗が会社の工事現場を視察していた時のことだ。未玖は彼に弁当を届けに行っていた。
そこで偶然、制御を失ったクレーンから鉄パイプの束が、海斗めがけて落下してくるのを目撃してしまった。一瞬の躊躇いもなく、未玖は駆け出し、彼を突き飛ばした。
背中に走った激しい衝撃。けれど、もっと致命的だったのは、鉄パイプが降り注いだ時の、鼓膜をつんざくような衝撃音だった。無数の鋼鉄の針が、鼓膜を直接貫くような破壊的な音。
その瞬間、未玖の世界は死のような静寂に沈んだ。
医師の診断は、騒音性難聴。回復の見込みは限りなく低い。
聴力の損傷が深刻すぎて、当面は補聴器さえも使えないという絶望的な宣告だった。
悲嘆に暮れる未玖を、海斗は強く抱きしめた。そして親族たちの前で誓ったのだ。一生愛し続けると。この人生で決して裏切らないと。
それからの数年間、海斗は確かに良き夫だった。
彼は未玖をとても大切にしてくれた。彼女とスムーズに意思疎通ができるよう、激務の合間を縫って手話教室に通い続けた。
耳が聞こえなくなってから、未玖は発声を避けるようになった。それでも海斗は根気強く、何度も何度も語りかけてくれた。
「今日は何していたの?
俺のこと、恋しかった?
俺はすごく恋しかったよ。
聞こえなくても大丈夫。これからは俺が、お前の耳になるから」
結婚五周年の記念日。海斗は会社の全社員の前で、手話でこう伝えてくれた。
「未玖、愛してる。生まれ変わっても、俺は必ずお前を見つける!」
深く妻を愛する夫という評判は、多くの顧客からの称賛を呼び、数え切れないほどの大型契約をもたらした。
なのに。
あの日から、まだ三ヶ月しか経っていない。
ベッドで魅惑的な声を出せないから、思うような反応が返せないからという理由だけで、彼は他の女を抱いたのだ。
未玖には、精神的な潔癖さがあった。裏切りなど、到底受け入れられるものではない。
離婚しよう。そう決めた。
彼女は棚の奥から、三年前――あの事故の日に海斗が署名済みの離婚協議書と離婚届を取り出した。
当時、障害を負った自分が海斗の足枷になりたくなくて、未玖は離婚を申し出た。だが海斗は首を縦に振らず、その場でこの協議書と離婚届を作成し、署名したのだ。
「未玖、お前は俺の足を引っ張ってなんかいない。俺が自分から望んで一緒にいるんだ。これが俺の愛の証だ」
協議書には、はっきりと明記されている。もし海斗が未玖を裏切ることがあれば――
彼は一切の財産を放棄し、すべてを未玖に残す、と。
海斗は信じて疑わなかったのだろう。未玖がこの協議書と離婚届にサインすることなど絶対にないし、自分のもとを離れることなど永遠にないのだと。
けれど、彼は間違っていた。
今度こそ、未玖は去る。
第2話
海斗が車で自宅を出ていくと、未玖はすぐさま記入済みの協議書と離婚届を封筒に収め、弁護士の元へ送付した。
そして自らも車に乗り込み、アクセルを踏み込んだ。
何年も連れ添った相手だ。自分のこの目で確かめなければ、到底諦めがつくはずもなかった。
ついて行くしかない。海斗とあの女が、どこまでの関係なのか、この目で真実を暴くために。
深夜十一時。会社のビルは全館消灯し、闇に沈んでいた。
入口の警備員は、深夜に現れた社長を見て少し驚いた様子だった。
「瀬戸社長、どうされたんですか?」
「急ぎの仕事があってね」
彼が上階へ向かって間もなく、未玖もその場に現れた。
警備員は扉を開けながら、不思議そうに首を傾げる。
「奥様までいらっしゃるなんて妙だな。ご夫婦で別々の車で来るなんて」
未玖は答えず、エレベーターの表示板を見つめた。最上階の社長休憩室でランプが止まったのを確認すると、急いで別の機に乗り込んだ。
休憩室の扉に近づく前から、中からは女の声が漏れ聞こえていた。
「ああっ!海斗さん!もう、そんなに急いで?一刻も待てないの?」
次いで、海斗の声が響く。「当たり前だろ。今夜は一秒だって惜しいんだ」
「もう、海斗さんったら!ちょっと待って、着替えるから。今夜はどれがいい?」
香奈の声が妖艶に絡みつく。「小悪魔?それとも秘書の制服?」
「小悪魔、だな」
未玖は震える手で、ゆっくりと扉を押し開けた。
ソファに両腕を広げて踏ん反り返る海斗。その目の前で、身につけた衣服を一枚ずつ脱ぎ捨て、露出の激しい小悪魔風の衣装へと着替えていく香奈の姿が目に飛び込んできた。
細い腰をくねらせ、ヒールの音を高く響かせながら、香奈は一歩ずつ海斗へと近づいていく。彼の顎に指をかけ、甘えた声で囁いた。「ねぇ……気に入った?」
「ああ。お前の声は最高だよ。未玖みたいに、アヒルのようなダミ声じゃないからな」
「こんな感じですか?」香奈は彼から離れると、アヒルの真似をしてよちよち歩きながら、「ガーガー」と喉を詰まらせたような無様な真似をして見せた。
「海斗さん、こんなに不快ですか?」
「あいつの声は、お前よりもっと酷い。耳障りなんだよ、真似するな!」
男の嘲笑が、まるで鋭利な刃物のように、未玖の心を何度も何度も切り裂いていく。
扉の傍らに立ち尽くす未玖は、遠くで冷ややかな笑みを浮かべる男を見つめながら、激しい耳鳴りに襲われた。
彼の言葉の一つひとつが、ナイフで抉られるかのように、心の最も柔らかな場所へと突き刺さる。
彼のために、こうなったのに。彼を助けたせいで、もう二度と歌うことさえできなくなったのに……
なのに彼は、他の女と結託して私を嘲笑っている――!
目頭が熱くなり、堪えきれない涙が頬を伝い落ちた。
「あいつの話はもういい。思い出すだけでイライラする」
海斗は乱暴に香奈を抱き寄せ、体を翻してソファへと押し倒した。
香奈は彼の首にしなだれかかり、不思議そうに問いかける。
「そんなに嫌なら、いっそ離婚すればいいのに」
海斗の動きが、一瞬だけ止まる。
「あいつは俺のせいでああなった……責任ってものがある。離婚はしない。一生面倒を見るって約束したんだ」
「じゃあ、まだ愛してるの?」
海斗は答えず、ただ顔を寄せて彼女の耳たぶを甘噛みした。「小悪魔め、嫉妬してるのか?もっと声を聞かせてくれよ!」
「海斗さんっ!」
二人がさらに深く求め合おうとした、その時。未玖はついに自制心を失い、悲鳴のような泣き声を上げてしまった。
物音に気づいた海斗が顔を上げ、入口を振り返る。
未玖の姿を認めると、彼は反射的に香奈の体から飛び退いた。慌てふためき、必死に手話で弁解してくる。
「未玖、どうしてここに?」
海斗の狼狽とは対照的に、香奈には大した動揺も見られない。ただ傍らのソファに置かれた海斗のスーツの上着を手に取り、優雅に肩へ羽織っただけだ。
彼女は口元に余裕の笑みを浮かべ、未玖を見つめている。これからどんな修羅場になるのかを楽しんでいるかのように。
「海斗さん、浮気がバレちゃいましたね?どうします?その耳の聞こえない奥さん、うまく誤魔化さないと!」
第3話
香奈の顔に浮かぶ勝ち誇ったような嘲笑を見た瞬間、未玖は駆け寄り、その頬を思い切り叩いた。
乾いた音が響き、香奈の笑顔が凍りついた。
頬を押さえながら、信じられないといった様子で未玖を睨みつける。
「何するの?頭おかしいんじゃないの?よくも私を殴ったわね!」
未玖はもう一度手を振り上げたが、海斗にその腕を強く掴まれた。
「もういい、やめろ」
「離して、離してよ!」
叫んだその瞬間、頭の中で何かが弾け、突然はっきりと音が飛び込んできた。
自分の声が聞こえる。本当にアヒルのような、ひどく掠れた不快な音だった。
どうりで海斗が、こんなにも嫌悪するわけだ。
彼が自分を制止するのを見て、涙がさらに溢れ出す。
「海斗、約束したじゃない。絶対に浮気しないって。嘘つき!」
海斗の顔には、密会を押さえられた時の気まずさなど微塵もない。むしろ、どこか安堵しているようにさえ見えた。
彼はポケットからハンカチを取り出し、優しい手つきで涙を拭う。
手話では「ごめん。でも何もしてない。ただ声を聞かせてもらっただけだ。それ以外は何もしてないんだ!信じてくれ!」と必死に弁解しながら、口ではこう言ったのだ。
「いい加減にしてくれ。毎日毎日、手話で会話なんてたまったもんじゃない、気が狂いそうだ!」
香奈が呆れたように言った。「海斗さん、今さら嘘ついてどうするの?正直に打ち明けるのかと。どうせあの人、離婚なんてしないでしょう?」
「時々、あいつがこんな状態なのを見ると、さすがに憐れみは感じる。正直、お前がいなかったら、俺の人生は台無しだったよ」
手話を使わなければ、未玖には聞こえはしないと高を括っているのだろう。
彼の本音を知った未玖は、もう我慢の限界だった。腕を振りほどき、彼の頬を叩く。尖った爪が皮膚を掠め、赤い筋が走った。
完全に怒りを爆発させた海斗は、力任せに彼女を突き飛ばした。
「もう、いい加減にしろ!未玖!いつまで騒ぐつもりだ?どうしてほしいんだよ?お前が声を出せないんだから、他の女に声を出させて何が悪い!お前のあの不快な声のせいで、俺まで不能になりかけたんだよ!」
突き飛ばされた勢いで、後頭部をテーブルの角に強打した。熱いものが滲み出してくる。
激痛に耐えながら顔を上げ、彼を見つめる。海斗の口が開閉する。手話はしていない。だが、その言葉は残酷なほど鮮明に耳に届いた。
「ああ、そうか、お前には聞こえないんだったな」
海斗は溜息をつき、手を伸ばして彼女を起こそうとする。そして、再び手話で優しい嘘を紡ぎ始めた。
「今日の話は終わりだ。送っていく。未玖、俺が外で誰といようと、お前は永遠に俺の唯一の妻だ。約束しただろ?それじゃ足りないのか?」
彼の手がさっきまで他の女を抱いていたかと思うと、吐き気がした。
未玖は激しく彼を押しのけ、ふらつく足取りで立ち上がろうとした。
だがその瞬間、視界が暗転した。
意識が、闇へと落ちていく。
次に目覚めたとき、耳元で女の喘ぎ声と嬌声が聞こえてきた。
「海斗さん、優しくして、もう無理……」
「無理?これがお前の望みだったんだろ?先に帰れって言ったのに、わざわざ病院まで押しかけてきて」
「焦らしておいて逃げるなんて、ひどい!海斗さんがまだ満足してないの分かってたから、せっかく追いかけてきたのに。どう?興奮する?」
卑猥な水音が、容赦なく鼓膜を震わせる。横たわる未玖は、その声を聞きながら、まるでナイフで心臓を抉られるような痛みを感じた。
さっき、ほんの一瞬だけ、海斗の手話を信じかけていた自分がいた。
ただ声を聞きたかっただけで、香奈とは本当に何もしていないのだと、縋りたかった。
けれど今、完全に諦めがついた。
第4話
すぐ隣のベッドから響く水音が、次第に大きくなっていく。遮るカーテンが揺れるほどの振動がこちらまで伝わってくる。
未玖はもう、我慢の限界だった。震える手を伸ばし、ベッド脇のナースコールを強く押し込んだ。
海斗、そんなに飢えているというなら、見せてあげる。みんなに、あなたのその醜く飢えた姿を。
あなたの被っている「良き夫」という仮面も、今日で終わりよ。
ナースコールが鳴り響いているというのに、隣の二人は何も聞こえていないかのように、激しく求め合い続けている。
やがて、当直の医師が数名の看護師を引き連れて病室へ駆け込んできた。
「瀬戸さん、どうされました!?」
しかし、彼らが真っ先に目にしたのは、カーテンの隙間から覗く、扉際のベッドで絡み合う男女の姿だった。
「きゃあっ!!誰が入っていいって言ったのよ!出てって、出てってってば!」
香奈は悲鳴を上げ、慌てて掛け布団を引き寄せ、露わになった体を隠した。
海斗も狼狽し、その顔色は瞬時に真っ青へと変わる。
「何しに入ってきた!全員出ていけ!さっき見たことは誰にも言うな。さもなければ、全員クビだ!」
あまりの剣幕に、全員が慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません、瀬戸社長。どなたかがコールを押されたものですから、急変かと思いまして……どうかお怒りにならず、すぐに失礼いたします!」
医師と看護師たちは後退りしながら病室を出ていくが、ひそひそとした囁き声が漏れてくる。
「一体どういうこと?瀬戸社長が他の女と……奥様のことをあんなに愛してるって評判なのに?」
「気持ち悪い。カーテン一枚隔てただけで他の女と寝るなんて。奥様がすぐ横に寝ているのに!」
「でも、奥様は耳が聞こえないから……」
「いや、でも聞いた話だと、実はもう聞こえてるんじゃないかって……」
足音が遠ざかっていく。
カーテンの向こうでは、香奈がすでに服を整えていた。
海斗が彼女を急かし、早く帰るよう促す声がする。
「道中、気をつけて」
「分かってます!ちゃんと私のこと、想っててくださいね!」
香奈が病室を去って、ようやく未玖の目から涙が零れ落ちた。
シャッ、とカーテンが開けられる。海斗だ。
彼女が目覚めているのを見て、彼は慌てて駆け寄り、抱き起こそうとした。
けれど近づいた途端、彼の体から漂う生々しい情事の匂いに、強烈な吐き気を催してしまう。
未玖は彼を乱暴に押しのけ、病室内のトイレへと駆け込み、激しく嘔吐した。
「うっ――」
「どうした?未玖、大丈夫か?頭が痛いのか?医者を呼んでくる」
焦燥を露わにして手話を繰り出す彼の瞳には、確かに心配の色が浮かんでいる。けれど未玖にとっては、ただただ不快で、吐き気がした。
何か言おうと口を開きかけた時、彼のポケットでスマホが震えた。海斗は苛立った様子で電話に出る。
「何だ?」
「社長、早くネットのトレンドを確認してください!」アシスタントの焦った声が響く。
「社長と、あの声優の件が……写真に撮られてネットに上がってます!しかもこの動画のせいで、瀬戸グループの株価が一気に6%も暴落しました!このまま下がり続けたら、まずいことに――」
「何だと?」
海斗がスマホを取り出し、SNSのトレンド欄を開く。
トップに躍り出ていたのは、彼と香奈の、まさにこの病院での写真、そして動画だった。
高画質で、修正など一切ない。あらゆる角度から、二人の痴態が克明に撮影されている。
【瀬戸グループ社長・瀬戸海斗の「愛妻家」の仮面が剥がれ落ち、病院で声優とゲス不倫か!】
【ゲス不倫!瀬戸海斗、美人秘書と病院不倫!】
海斗が事態を飲み込めずに呆然としていると、今度は香奈から着信が入った。彼女は泣きじゃくりながら訴えてくる。
「海斗さん!私、記者たちに囲まれて動けないんです。早く助けて!」
海斗は狼狽し、未玖のことなど構いもせず、病室を飛び出していった。
遠ざかるその背中を見つめながら、未玖は蒼白な顔のまま、口元だけを歪めて笑った。
どうやら海斗は、あの女に本気で心を奪われてしまったらしい。
いいだろう。この茶番劇が、どう幕を閉じるのか――最期まで見届けてやる。
第5話
間もなく、海斗は顔を赤く腫らした香奈を連れて戻ってきた。
病室の扉の外には、すでに記者たちが押し寄せており、二人はここから出ることができない。
香奈は海斗の胸元に身を寄せ、彼のシャツの裾をギュッと握りしめ、震えながら言う。
「どうしよう。こんなに大事になって、会社にまで影響が……海斗さん、会社があなたの命だってこと、知ってます。放っておけないですよね。私が行きますよ。
記者たちに、この件は海斗さんとは関係ないって言いますわ。海斗さんは奥様を愛してるって、私が勝手に誘惑したんだって証言してきます!」
確かに彼女は美しい。頬を腫らし、涙に暮れる姿は、男の庇護欲をかき立てるものがある。
海斗は激しく彼女の手を掴んだ。「駄目だ、お前を行かせるわけにはいかない」
病室の扉が激しくノックされる。記者たちが我先にと質問を浴びせかけてくる。
「海斗さん、あの動画は本物ですか?本当に女性秘書と不倫したんですか?」
「瀬戸社長、三年前、奥様があなたを庇って聴覚を失った際、一生愛すると誓われましたよね?なのに不倫とはどういうことですか!奥様に知られるのが怖くないんですか?」
「そうですよ瀬戸さん、何か一言お願いします!」
扉が押し開けられそうになったその時、海斗が振り返り、部屋の隅の影の中に立つ未玖を見つめた。
彼女は無表情でその場に立ち尽くしている。彼が愛人の香奈を犠牲にするのか、それとも自分の会社を犠牲にするのか――静かに見定めようとしていた。
ところが彼は、躊躇うことなく手を伸ばした。扉を開け、未玖の細い腕を掴むと、無理やり外のフラッシュの海へと引きずり出したのだ。
足元が定まらない未玖は、よろめきながら前へ数歩進み、背中をドア枠に強打した。痛みに息を呑む。
次の瞬間、海斗が氷のように冷淡な声で記者たちに告げるのが聞こえた。
「申し訳ありません、全ては誤解です。妻は耳が聞こえなくなってから神経質になっていまして、私と秘書が関係を持っていると勘違いし、誰かに頼んであのようなAIによる悪質なディープフェイク動画を作らせたのです!動画の内容は偽物で、映っているのも私と荻野秘書ではありません!ただの悪質な誤解です!」
記者たちにそう説明し終えると、海斗は未玖に向かって手話で告げる。
「未玖、彼らに言ってやれ。全部お前がやったことだって!大したことじゃない、ただ変な噂に反論するだけだ。俺の手話に合わせて頷いていればいい」
眼前の無数のフラッシュに目が眩みそうになりながら、未玖は信じられない思いで夫を見つめた。
ここまで来て、まだ自分を騙そうとするの?私を利用して、世間の口を塞ごうとするの?
「奥様、本当ですか?」
「本当に不倫していないんですか?あの動画は奥様の捏造なんですか?」
「荻野秘書とは本当に何もないんですか?奥様、もし何か事情がおありなら、おっしゃってください!私たちは被害者である奥様の味方ですから!」
……
記者たちが次々と矢継ぎ早に質問を浴びせかける。未玖がまだ口を開かないうちに、傍らの香奈が鼻で笑いながら口を挟んだ。
「何を聞いても無駄よ。この人、耳が聞こえないんだから。聞こえないのに質問したって意味ないじゃない!」
「そうです、記者の皆さん。妻には皆さんの言葉が届きません。ですから申し訳ありませんが、先ほど私が申し上げたことが、妻も同じ思いです!」
海斗は芝居がかった仕草で彼女の肩を抱き、額にキスを落とす。
「ご覧の通り、妻とは今も変わらず愛し合っています」
その振る舞いに、反吐が出るような嫌悪を感じながら、未玖は顔を上げ、あえて無邪気な表情を作って尋ねた。
「ねえあなた、どうしてこんなに記者さんがいるの?昨夜、浮気がバレて、私を突き飛ばしちゃったことを後悔して、わざわざ記者の方々を呼んでくれたの?みんなの前で、謝ってくれるために?」
その場の空気が凍りついた。
「あ、香奈さんもいる。どうして?私、ずっと寝てたから、いつ来たのか全然気づかなかった!
あら、このベッド誰も使ってないのに、どうしてカーテンが閉め切られているの?遮光のため?開けちゃうわね」
未玖が隣のベッドのカーテンを勢いよく引き開けると、一同の目に飛び込んできたのは、乱れたシーツと、その上に海斗が破り捨てた黒いストッキングだった。
「ねえあなた、どうしてここに破れたストッキングがあるの?」
その言葉を合図に、現場は騒然となった。
「やっぱり本当に不倫してたんだ!」
「どうりで奥様が病院にいるわけだ。後頭部に包帯を巻いてる。本当に暴力を振るわれて怪我してたんだ!」
「瀬戸海斗、最低だ。妻が聞こえないのをいいことに、秘書をここに連れ込んで密会なんて!気持ち悪い!」
「証拠まであるのに、まだ認めないなんて。この瀬戸海斗、とんだクズ野郎だ!」
「もういい!」海斗は完全に錯乱状態に陥った。未玖の手を激しく掴み、「何を言ってるか分かってるのか?お前の声は不快なんだ、黙ってろ!」と怒鳴りつける。
「あなた、何を言ってるの?聞こえないわ」
未玖は何食わぬ顔で記者たちに向き直った。
「申し訳ありません、今日は少し疲れてしまって。夫の謝罪も受け入れましたので、どうかもうお帰りいただけますか?」
第6話
記者たちが去った後、病室には重苦しい沈黙と、三人だけが取り残された。
香奈は全身を震わせながら怒りを露わにする。
「海斗さん、こいつが本当に耳が聞こえないのか嘘なのか分からないですけど、私たちのことを全部バラしちゃったじゃないですか。これからどうするのよ?」
海斗は険しい顔で黙り込んでいる。彼もまた、予想外の展開に途方に暮れていた。
未玖は聴覚障害者だ。手話がなければ、何も分からないはずなのに。
だから彼女が、悪意を持ってわざとやったわけじゃない!偶然が重なっただけだ。彼女が計算ずくでやったはずがない。
「未玖!」
その時、扉が再び開き、入ってきたのは海斗の母・瀬戸美帆(せと みほ)だった。
未玖が怪我をして入院したこと、そして海斗の不倫騒動を知り、居ても立ってもいられず見舞いに来たのだ。
まさか、その場に香奈までいるとは思わなかっただろう。
海斗が眉をひそめる。「母さん、どうして来たんだ?」
「この恥知らずな女も、ここにいるの?」
香奈の姿を認めた途端、美帆はツカツカと歩み寄り、その頬を強く張り飛ばした。
「恥を知りなさい!よくも私の息子を誘惑したわね。他にいくらでも相手はいただろうに、わざわざ既婚者に手を出すなんて!」
「きゃっ!」香奈は呆然とし、赤くなった頬を押さえて泣きじゃくる。
「また殴るの?どうしてみんな私ばかり殴るのよ?海斗さん、分かってるでしょ、私は悪くない!庇ってよ!」
「あんた不倫相手のくせに、無実だって?今日こそ嫁の代わりに、私が教育し直してやるわ!」
美帆がさらに手を振り上げると、海斗が慌てて割って入り、香奈の前に立ち塞がった。
「母さん、やめろ!香奈は悪くない!」
「あなた……」自分の息子が不倫相手を庇う姿を見て、美帆の顔が怒りと失望に歪む。
「自分が何をしてるか分かってるの?未玖はすぐそこにいるのよ!傷ついた彼女の目の前で他の女を庇うなんて、彼女の気持ちを考えたことがあるの!」
その言葉に、海斗の体が強張った。
恐る恐る振り返ると、未玖が少し離れた場所に立ち、黙って彼らを見つめていた。
その瞳は凪いだ水面のように冷たく、何の感情も映していない。
彼は安堵の息を漏らした。
「母さん、大丈夫だよ。どうせあいつには何も聞こえてない。適当に言いくるめればいい!」
「もう我慢できない!」
ついに美帆の激情が爆発し、息子の頬を力任せに張った。
「よくもそんな最低なことが言えるわね!」
「ぶつなら私をぶってください!全部私が悪いんです!私が海斗さんを誘惑したんです。殴るなら私を殴ってください。海斗さんは殴らないで!」
香奈が飛び出してきて、健気な女を演じるように美帆の前に立ちはだかる。
海斗は彼女を引き留めた。「香奈、お前は関係ない。俺から誘ったんだ。お前に責任はない!」
目の前で繰り広げられる茶番劇があまりにも滑稽で、未玖にはもう、怒る気力さえ残っていなかった。
聞こえないふりをして、静かに告げる。「出ていってくれませんか?疲れたから、休みたいの」
海斗がすぐに駆け寄り、彼女をベッドまで支えて座らせた。
「会社で片付けなきゃいけない仕事があるんだ。医者が脳震盪の疑いがあるって言ってたから、しっかり休んでくれ。明日、必ず迎えに来る」
今回の手話は、皮肉なほど丁寧だった。
手話を終えると、彼は誰に聞かせるつもりか、小さく呟く。
「ごめんな、未玖。これは俺が悪かった。でも本当に我慢できなかったんだ。この先ずっと、ベッドであの耳障りな雑音しか聞けないなんて……許してくれ」
彼は香奈を連れて去っていった。香奈は泣いていた。それでも海斗は優しく彼女を宥め続けている。
遠ざかる男の背中が、十八歳の頃の記憶と重なった。
大学の体育祭。優勝賞品が、未玖の大好きな男性歌手のサイン入りアルバムだと知った海斗は、走るのが大嫌いなのに即座にエントリーした。
あの日、陽射しは眩しかった。白い運動着を着た彼が、真剣な眼差しでゴールラインを見つめ、絶対に一位を取ると誓っていた。
けれど普段走らない彼に、奇跡は起きなかった。結果は二位。
未玖は彼が自分のために精一杯頑張ったことを知っていたから、首を振って「いいの」と笑った。
けれど海斗は諦めなかった。自分の宝物だったサイン入りバスケットボールを一位の人に差し出し、交換してまで、そのサイン入りアルバムを手に入れてくれたのだ。
感動した未玖は、彼の胸に飛び込んで泣いた。
彼は汗ばんだ笑顔で、優しく慰めてくれた。
「馬鹿だな、全部お前が最優先だよ。瀬戸海斗が頑張る意味は一つだけ――未玖が欲しいものは、俺が全部手に入れてやる!
いつか稼げるようになったら、お前が欲しいもの全部買ってやる。サイン入りアルバム一枚くらい何だ?お前の推しに、直接会わせてやるよ!」
「でも、男の人ってお金持ちになると変わっちゃうって言うじゃない。その時、浮気とかしない?」
「作るわけないだろ!俺は一途なんだ。他の女になんか指一本触れない!愛してるのは未玖だけだ」
病室の扉が閉まる音が、現実に引き戻す。未玖はついに堪えきれず、その場に崩れ落ちて、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
どうして?どうしてこんなことになってしまったの!
美帆が駆け寄り、震える体を強く抱きしめてくれる。声を詰まらせながら宥めた。
「可哀想な子……海斗があなたに酷いことをしたわ!あの子はもう、あなたに相応しくない!」
未玖はゆっくりと涙に濡れた顔を上げた。「お義母さん、ごめんなさい。私、海斗と離婚します」
美帆の体が一瞬、硬直したが、やがて深く頷いた。
「ああ、そうしなさい……もう、これ以上苦しむのを見ていられないわ」
第7話
それから数日間、未玖は海斗の姿を見ていない。
あの騒動で会社の株価が暴落し続け、彼はその対応に追われて奔走しているらしい。
その隙に、未玖は自宅で荷物をまとめ始めていた。
退院した日、弁護士からメッセージが届いたのだ。【離婚届提出の手続きが完了し、間もなく受理証明書が発行されます】と。
家の中の調度品は、そのほとんどが二人で選んだものだった。大きな家具から小さな食器に至るまで、すべて一つひとつ吟味して買い揃えたものだ。
この家は、未玖のこれまでの幸せな記憶のすべてが詰まった、愛の結晶だった。
けれど今は、それらが視界に入るたび、胸をえぐられるような苦痛しか感じない。
その日、業者に頼んで寝室のベッドを運び出させていると、海斗が帰ってきた。
彼はベッドを運ぶ作業員など目に入らないかのように、血走った目で未玖に詰め寄り、その細い手首を乱暴に掴み上げた。
「香奈をどこにやった!?」
骨がきしむほどの力で締め上げられ、未玖は痛みで顔をしかめる。
「俺に声を聞かせただけで、お前は嫉妬に狂って彼女を拉致して痛めつけたのか!未玖、お前はどうしてそこまで恐ろしい女になっちまったんだ!」
未玖は呆然と彼を見つめた。何を言っているのか、全く理解が追いつかない。
「クソッ!耳が聞こえないんだったな!こんな時でも手話をしなきゃならないなんて!本当にうんざりだ!」
海斗は彼女の腕を乱暴に振り払い、手話で繰り返した。
けれど、未玖には理解できない。「拉致って何?何を言ってるの?私、ここ数日ずっと家にいて、一度も外出してないわ。香奈さんを拉致するわけないよ!本当に知らない!」
必死に訴え、荷作りの手を動かそうとすると、海斗が彼女の足元のスーツケースを思い切り蹴り飛ばした。
「出ていくつもりか?香奈をあんなに傷つけておいて、逃げられるとでも思ってるのか?」
海斗は完全に錯乱していた。その顔色は見るも恐ろしい形相だ。
彼はスマホを取り出すと、画面を彼女の目の前に突きつけた。
映し出された写真の中の香奈は、椅子に縛り付けられ、体中に無数の鞭の痕が刻まれていた。破れた衣服の端からは血が滴り、目隠しをされた頭は、まるで生気を失ったかのように項垂れている。
「未玖、お前は一体どうしたいんだ?どうして俺の人生を台無しにする!どうして!もし俺の人生がこんなことになると分かっていたら、あの日、工事現場で余計な助けなど出さなければよかったのに!今の俺はな、生きているより死んだ方がマシだと思ってるんだぞ!」
未玖の耳は、もう完全にはっきりと音を捉えていた。しかし、彼の制御を失ったその罵声は、まだ痛むほど鼓膜を激しく震わせた。
だが、それ以上に激痛が走ったのは、心だった。
まさか海斗の口から、「死んだ方がマシ」だなんて言葉を聞く日が来るなんて。自分と一緒にいるくらいなら死んだ方がいいと、愛した男に言われる日が来るなんて。
熱い涙が頬を伝い落ちる。未玖は唇を強く噛み締めたが、それでも嗚咽が漏れた。
「泣くのか?泣きたいのは俺の方だぞ!」
海斗は侮蔑の視線を向け、手話で最後通告を突きつける。
「最後にもう一度だけ聞く。香奈は一体どこだ!」
「知らない!」未玖は首を振った。「どこにいるか知らないし、拉致もしてない!」
床に散らばった荷物を拾おうと身を屈めた、その時だ。海斗がボディガードたちを呼び入れた。「こいつをリビングへ連れて行け!」
二人の屈強なボディガードが瞬時に彼女の腕を左右から掴む。
「海斗、何をするつもり?」
慌てる未玖は必死に抵抗したが、男たちの力には敵わない。やがて引きずられ、リビングの冷たい床へと乱暴に放り出された。
「香奈がどこにいるか言わないなら、香奈が受けた苦痛を、お前にも全部味わってもらう!未玖、こんなことしたくなかった!お前が俺にやらせたんだ!」
海斗が目の前に立ちはだかる。その手には、黒くしなる鞭が握られていた。
殺気立った眼差しと目が合った瞬間、未玖は全身の血が凍りつくような恐怖に襲われた。
「やめて……海斗、何をするつもり?」
「香奈はどこだ!」
その言葉と共に、鞭が空気を切り裂く音を立て、未玖の薄い部屋着の上から容赦なく叩きつけられた。
第8話
背中の皮膚が裂けるような激痛。未玖は一瞬で意識が遠のきそうになった。
「ああっ!痛い!」
床を転げ回り、悲鳴を上げる彼女の姿を見ても、海斗の顔には一片の憐憫も浮かばなかった。
彼は高い位置から冷酷に見下ろし、暗い狂気を宿した瞳には、狂気はらんだ殺気が渦巻いている。
「香奈はどこだ、答えろ!」
振り上げられた鞭が、再び容赦なく彼女を打つ。その惨状に、周囲のボディガードたちでさえ目を背けたくなるほどだった。
激痛が津波のように全身を襲い続け、未玖は床に蹲り、苦しげに呻くことしかできない。
「知ら……ない……海斗、本当に知らないの……」
「知らないだと?」海斗の怒りがさらに爆発した。
「昨日、香奈が退職届を出そうとしてたのを、俺がやっとの思いで引き止めたんだ。説得しても辞めないと分かったお前が嫉妬して、拉致して、拷問したんだろ!未玖、もし香奈を見つけられなかったら、いっそ二人とも死んだ方がマシだ!どうせ生きてても意味がない!」
狂ったように、何度も何度も鞭を振り下ろす。
一打ごとに、未玖は意識が遠のいていくのを感じた。
何度打たれたか分からない。意識が徐々に朦朧としていく。体は終わりのない苦痛に包まれていた。
泣きたかった。許しを乞いたかった。けれど、もう叫ぶ力さえ残っていない。
涙と血が混じり合って床を濡らす。辛うじて顔を上げ、霞む視界で彼を見つめる。その瞳には、深い絶望だけが宿っていた。
「瀬戸海斗……憎い……どうしてあの時、あなたと結婚してしまったんだろう。どうしてあなたのために、自分のすべてを、あの素晴らしいキャリアを捨ててしまったんだろう……」
その時、部下が駆け込んできた。
「社長!荻野秘書の情報が入りました。発見されて、もう病院に運ばれています!」
「本当か!」
海斗は即座に手にした鞭を放り投げ、床に倒れる未玖の体をまたいで駆け出していった。
足取りは速く、最初から最後まで、一度として振り返ることはなかった。
その無情な背中を見送ると同時に、未玖はゴボリとおびただしい血を吐き出し、完全に意識を闇へと手放した。
暗転する意識の底で、家政婦の悲鳴が聞こえた。
「一体どうしたの?旦那様、あんなにお怒りで!以前は奥様の髪の毛一本傷つけるのも嫌がってたのに、今日はこんなに酷いことを……!
まあ!奥様の下が血だらけよ!早く!早く奥様を病院へ!」
……
次に目を覚ましたとき、未玖は病院のベッドの上だった。使用人が手配してくれたのだろう。
医師の話では、数日間昏睡状態だったという。そして、あまりの衝撃と外傷により、お腹にいた子供を流産してしまったと告げられた。
「ですが……お辛いでしょうが、一つだけお伝えしなければならない変化があります。瀬戸さん、検査の結果、あなたの聴力は完全に回復しています。発声に関しても、機能は回復しています。リハビリ次第で、会話も可能になるはずです。もし社長がこのことをお知りになったら――」
海斗の名前を出した途端、医師は気まずそうに口を閉ざした。
「彼、この病院にいるの?」
「……はい。荻野さんの病室に、付ききりで」
海斗よりも、この医師にとって付き合いが長いのは、長年治療に通っていた未玖の方だった。
聴力が回復するため、よくここに通っているからだ。
ようやく聴力が回復したというのに、その夫が他の女性にかかりきりだという事実。彼としても、それ以上かける言葉が見つからなかった。
けれど言われなくても、未玖にはすべて分かっていた。
「いつ退院できますか?」
「全身に大小様々な傷があります。あと数日は様子を見た方がいいでしょう」
「分かりました」
少し体を動かしただけで、全身に鋭い痛みが走る。
海斗は香奈のために、本当に手加減なく、殺すつもりで打ったのだ。
その後数日間、海斗は一度も見舞いに来なかった。
代わりに来たのは、弁護士だった。
「瀬戸さん……いえ、西村(にしむら)さん。離婚届受理証明書が正式に発行されました。入院されていると聞いて、お届けに参りました」
弁護士は二通の証明書を取り出した。「海斗さんの分も預かっております。どうされますか?」
「三日後にしてください。三日後なら、退院できますから。それともう一つ。資産の名義変更は順調ですか?」
「はい、現在進行中です。できるだけ早く完了させます!」
「お願いします。海斗がすべてを失った日、どんな反応を見せるのか、見ものですね」
退院の日。窓の外の陽射しは、今の未玖には不釣り合いなほど、残酷に心地よかった。
手にした受理証明書を強く握りしめ、未玖の心は不思議と晴れやかだった。
スマホが震えた。画面を見ると、海斗からのメッセージだった。
【体の具合はどうだ?退院の日、迎えに行くからな。
耳の再検査もそろそろだろ。先に検査に付き添って、それから一緒に荷物をまとめて退院しよう】
海斗はあの日、鞭で打ったことには一言も触れていない。まるで何もなかったかのように振る舞っている。
メッセージを読みながら、未玖は渇いた笑いがこみ上げてくるのを抑えられなかった。
このスマホは、かつて海斗が誕生日にプレゼントしてくれたものだ。
待ち受け画面は、幸せだった頃の二人のツーショット。
スマホの中身は、すべて海斗との思い出で埋め尽くされている。
けれど、もう離婚は成立した。このスマホを使うことも、二度とない。
返信がないまま時間が経つと、海斗から着信が入った。
未玖は躊躇なく、鳴り続けるスマホをゴミ箱へと放り込んだ。
そして身をかがめ、迎えに来た実家へと向かう車に乗り込んだ。
車窓を流れる景色を眺めながら、手首に刻まれた赤黒い鞭の痕を見下ろす。唇の端に、冷ややかな皮肉の笑みが浮かんだ。
「海斗。あなたが離婚協議書を書いて、『浮気したら無一文になる』と誓ったあの日――こんなに早く、その日が来るなんて思ってた?」