身代わりの花嫁

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身代わりの花嫁

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神谷晴美(かみや はるみ)と藤原時男(ふじわら ときお)が結婚して三年目、彼女のもとに一つの朗報が届いた。 ようやく、時男の元を離れられ...

Chương (1)

第1章

神谷晴美(かみや はるみ)と藤原時男(ふじわら ときお)が結婚して三年目、彼女のもとに一つの朗報が届いた。 ようやく、時男の元を離れられるのだ。 「あと一か月で悦子が戻ってくる。それまで、ちゃんと彼女のふりを続けなさい」 電話の向こうで、母・神谷里美(かみや さとみ)の声は、いつもと変わらぬ冷たい。 「すべてが終わったら、六億円を渡す。それからは、好きにしなさい」 「分かった」 彼女は小さく答えた。その声に、一切の感情の揺らぎがなかった。 電話を切ると、晴美は壁に掛かった大きなウエディングフォトを見上げた…… 第1話 神谷晴美(かみや はるみ)と藤原時男(ふじわら ときお)が結婚して三年目、彼女のもとに一つの朗報が届いた。 ようやく、時男の元を離れられるのだ。 「あと一か月で悦子が戻ってくる。それまで、ちゃんと彼女のふりを続けなさい」 電話の向こうで、母・神谷里美(かみや さとみ)の声は、いつもと変わらぬ冷たい。 「すべてが終わったら、六億円を渡す。それからは、好きにしなさい」 「分かった」 彼女は小さく答えた。その声に、一切の感情の揺らぎがなかった。 電話を切ると、晴美は壁に掛かった大きなウエディングフォトを見上げた。 写真の中の時男は端正なスーツ姿で、神々しいほどの整った顔立ちをしていた。彼女自身は高価なウェディングドレスに身を包み、穏やかな微笑みを浮かべている。 「三年か……」彼女は小さくつぶやき、指先でそっと額縁をなぞる。「やっと終わるのね」 三年前、二つの名門、藤原家と神谷家が政略結婚で縁組みし、世間を騒がせた。その花嫁となるはずだったのは、晴美の双子の姉である神谷悦子(かみや えつこ)だった。 しかし、結婚式の前夜、悦子は一通の手紙を残して姿を消した。 【お父さん、お母さん、私は政略結婚に縛られたくない。でも、これが私の責任だということも分かっています。自由を探すために、三年だけ時間をください。三年後、必ず戻ります】 両家の協力関係を守るため、両親はやむなく、幼い頃に田舎に預けていた双子の妹を急ぎ呼び戻した。 田舎で育ち、一度も家族の集まりに招かれたことのない晴美は、こうして悦子の名を背負い、身代わりの花嫁として生きることになった。 「時男が好きなのは、悦子じゃない。藤原家が援助していた、あの貧しい学生よ」 結婚式の前夜、里美は冷たく言い放った。 「あんたが嫁いだとしても幸せになれるとは思わないわ。でもね、おとなしく悦子のふりをして、三年だけ耐えなさい」 あの時、晴美はおとなしくうなずくしかなかった。 時男が誰なのか、彼女はもちろん知っていた。経済誌の常連で、都で最も名の知れた御曹司。数えきれないほどの名家の令嬢たちが憧れる存在だ。 彼と根元詩織(ねもと しおり)の噂も耳にしたことがある。 藤原家の援助で名門校に通う貧しい彼女。時男は心から彼女を愛し、家の反対を押し切ってでも一緒にいようとした。だが、彼女は冷徹で誇り高く、誰にも祝福されない恋を受け入れられず、自ら別れを告げて海外へ旅立った。 藤原家はそのことで大喜び、すぐに時男の政略結婚を取り決めたのだった。 結婚後の生活は、想像以上に過酷だった。 時男の書斎には詩織の写真が隙間なく飾られ、彼は毎週パリへ飛んでは、密かに彼女に会いに行っていた。そして妻である晴美は、主寝室に入ることさえ許されず、廊下の突き当りにあるゲストルームで寝起きするしかなかった。 晴美は細心の注意を払い、悦子の役を完璧に演じようと努めた。両家の協力関係を壊さないよう、この三年間、彼女は身を削ってまで時男に尽くした。 彼が残業すれば、彼女は玄関の灯りを一晩中点けっぱなしで待ち続けた。彼の胃が弱いと知ると、毎朝五時に起きて胃にやさしい養生スープを用意した。 静寂を好む彼のために、彼女は自らをこの家で最も音を立てない存在へと変えていった。 やがて、都の社交界では「藤原夫人は藤原社長に夢中だ」と噂が広まり始め、時男の晴美を見る目にも、どこか微妙な変化が見え始めた。 書斎から詩織の写真が消え、毎週密かに続けられていたパリ行きも途絶えた。彼は晴美の誕生日を覚え、彼女が風邪を引けば早めに帰宅するようになり、やがて――ふたりで夜を過ごすことさえ、時にはあるようになっていた。 晴美は一瞬、この代役の結婚に本物の感情が芽生えたのかと思った。 だが三か月前、詩織が戻ってきた。 すべてが振り出しに戻った。 時男の心は再び詩織に奪われてしまった。夜を徹して帰らぬ日々が続き、書斎の机にはまた詩織の写真が並び始めた。周囲はこっそりと晴美を嘲笑ったが、彼女はただ静かに微笑みを絶やさず、一度も声を荒らげることはなかった。 なぜなら、彼女はもともと時男を愛してなどいなかったからだ。 彼のそばにいられたのは、ただ両親に約束された金と自由が欲しいからにすぎない。もし彼が自分を愛してくれたなら、心は少し軽くなったかもしれない。だが、愛されなくても、彼女はまるで気に留めなかった。 誰も知らないことだった。晴美と悦子は双子でありながら、その運命には雲泥の差があったということを。 里美は晴美を産んだ際に大量出血し、命を落とす一歩手前だった。以来、彼女の目には晴美に対する憎しみにも似た嫌悪の色を宿すようになり、妻を溺愛する夫もまた、晴美を不吉な存在として忌み嫌った。 そして五歳のとき、彼女は田舎の祖父母の元へ預けられた。 あの冬のことを、彼女はいまでも覚えている。祖父母の家のストーブは壊れ、寒さに震えながらも厚手の綿入りの服すら持っていなかった。 その頃、悦子は暖かな豪邸で高価なウールスカートを身にまとい、両親の愛情を一身に受けていた。 十八年に及ぶ差別的な扱いで、彼女は家族愛に少しの期待もしなくなった。あと一ヶ月だけ耐えればいい。三年間、悦子として演じ続けた報いの六億円を手にすれば、この街を離れ、ようやく自分の人生を始められるのだから。 気分が少し晴れたその瞬間、スマホが突然バイブが鳴った。画面に着信表示が現れた。 時男だ。 彼女は深く息を吸い込み、通話ボタンを押した。「もしもし?」 「二十分以内に桜クラブへ生理用品を届けろ」時男の声は氷のように冷たかった。「夜用だ」 通話はあっさり切られた。晴美はスマホを握りしめ、一瞬でそれが誰のためかを悟った。 詩織の生理のリズムを、時男は会社の上場日よりも正確に覚えている。 窓の外は土砂降りだ。藤原家の豪邸から桜クラブまでは、普通なら車で少なくとも四十分はかかる距離である。 それでも晴美は傘を手に、外へ飛び出した。 車が道半ばで渋滞に完全に巻き込まれた。時計を見れば、残り十二分。歯を食いしばり、彼女はドアを開けて雨の中へ駆け出した。 雨はたちまち服を濡らし、ハイヒールは滑りやすい路面で何度も足を取られた。ふらついた瞬間、水たまりに倒れ込み、膝に突き刺すような痛みが走った。 だが、気にしている暇はない。手で地面を突いてすぐに立ち上がり、走り続けた。 そして、十九分で、ようやく桜クラブに辿り着いた。 個室の前でノックしようとした瞬間、中から談笑の声が漏れてきた。 「藤原社長、こんな土砂降りの中、奥さんにナプキン届けさせたんですか?お宅からここまで、少なくとも四十分はかかるでしょう?」 「詩織がひどく苦しんでる」時男の声には一切の情がなかった。「あいつならどうにかして来るさ」 「そりゃそうでしょうね。奥さんが藤原社長に夢中なのは皆知ってますからね。この三年間、社長の心にずっと別の女性がいたってのに、文句ひとつ言わずに尽くしてきたんですから」 誰かが軽くからかうように言った。「でもよ藤原社長、正直、あんなに献身的で美人の奥さんと三年も一緒で、一度も恋心揺れたことなかったんですか?」 個室内がぱたりと静かになった。晴美は息を詰まらせた。 時男が一瞬の沈黙を置いて、低い声で答えた。 「詩織と彼女なら……いつだって、俺は詩織を取る」 容赦ないその言葉に、晴美は意外にも悲しみを覚えなかった。むしろ、胸の奥でかすかな安堵の息を吐いた。中の会話が終わるのを待ち、そっと手を伸ばしてドアをノックした。 扉を押し開けた瞬間、全員の視線が一斉に彼女に向けられた。 「うわ、マジで時間ぴったりじゃん!」 「奥さん、これ……どうしたんです?びしょ濡れですよ!」 時男が立ち上がり、眉をひそめた。「どうしてそんなにボロボロなんだ?」 晴美は大事に抱えていたナプキンを差し出した。「二十分以内にって言ったでしょ?急用だと思って、車を降りて走ってきたの」 転んだことも、膝が今も震えるほど痛むことも、彼女は何も言わなかった。 時男の目が一瞬変わり、突然上着を脱いで彼女に掛けた。「これを着ろ」 そして彼女の手にあるナプキンを指さして言った。「女子トイレに届けてこい」 晴美は小さくうなずき、素直にトイレの方へ歩いていった。 ノックすると、中から詩織のか細い声が聞こえた。「どなた?」 「ナプキンを届けに来ました」 中から数秒の沈黙が流れ、ドアがわずかに開いた。晴美は中へそれを差し入れ、すぐに背を向けて出て行った。 家に戻り、熱いシャワーを浴びたとき、膝の傷がじんわりと疼いてきた。 ベッドに横たわって、もうすぐ全てが終わると思うと、言葉にできない安堵が胸の中に静かに広がっていった。 眠りに落ちかけたまさにそのとき、ドアが激しく蹴り開けられた。 時男が室内に躍り込むと、彼女の手首をぎゅっと掴み、「起きろ」と鋭く言った。 晴美は状況を理解する間もなく、乱暴にベッドから引きずりおろされ、よろめきながら階段の方へと引っ張られていった。 「時男、なんだよ?」 声がかすれるうちに、猛烈な衝撃が背中を襲った。体がのけぞり、頭が階段の角に強く打ちつけられる。その衝撃と共に、制御できないまま転がり落ちていった。 全身を貫く鋭い痛みが、一瞬で走り抜けた。 階段の下に倒れ込んだ晴美の視界がぼやけ、額から温かい液体が流れ落ちた。 「どうして……」彼女は必死に身を起こした。「こんな……こと、するの?」 時男は階段の上に立ち、逆光の中で表情は見えない。だが、その声は氷のように冷たい。 「詩織を突き落としたのは、お前だろう?」 晴美は呆然と顔を上げた。「え……?」 「とぼけるな」彼は一歩一歩、階段を降りながら言い放った。 「この数か月、大人しいふりをしていたのも、すべては今日のためだったんだろう?お前、詩織を窓から突き落として、全身の骨を折らせ、危うく死なせるところだったんだぞ!」 「違う……」 彼女はかすかに首を横に振った。すると頭の傷が鋭く疼き、クラッとめまいがして、視界が一瞬かすんだ。 時男は身をかがめ、彼女の顎をぎゅっと掴み上げた。「悦子、俺がこの数年お前に優しくしてきたからって、何か勘違いしてんじゃないか?もう一度言っておく。俺たちは単なる政略結婚だ。そこに感情なんてこれっぽっちもない」 彼は彼女の耳元に顔を寄せ、一語一語噛みしめるように低く呟いた。「お前が欲しがってる愛なんて、俺は一生やれない」 晴美は痛みで視界が暗くなる中、ふと笑いが込み上げた。 だって――彼の愛なんて、最初から望んでいなかったのに。 第2話 晴美が口を開こうとした瞬間、時男は冷たい表情のまま彼女の腕をつかみ、力任せに引き起こした。 「何をとぼけてる?」彼の声は氷のように冷たかった。 「詩織は五階から落ちたんだ。お前なんて二階から転げ落ちただけだろ! 立て。病院に行って、彼女に謝れ」 彼は容赦なく晴美を外へと引きずっていった。額からまだ血が流れていることも、膝の傷の裂け目が再び開いていることもまったく気にかけなかった。 一歩進むたびに、鋭い痛みが走った。 車に押し込まれた晴美は、道中、一言も発することがなかった。 窓の外を流れていく景色を見つめながら、彼女の心の中にはただ一つの思いがあった――もう少し、もう少しだけの辛抱で解放されるのだ。 病室で、詩織はベッドにもたれかかり、顔色は蒼白だった。手首には包帯が巻かれている。 晴美の姿を見たとたん、彼女ははっと身を縮め、目の縁が一瞬で赤く染まった。 「時男……」その声は震えており、怯えた子鹿のようだった。「私……彼女に会いたくない……」 時男はすぐに歩み寄り、優しく彼女の手を握った。「怖がるな、俺がいる。誰にもお前を傷つけさせない」 そう言うと、彼は冷たい目で晴美を見やり、「何を突っ立ってる?謝れ」と言い放った。 晴美の表情には疲れがにじんでいたが、なぜか穏やかだった。 彼女はまっすぐに詩織を見つめ、静かに問いかけた。「根元さん、あなたを窓から落としたのは、本当に私なんですか?」 詩織のまつげがわずかに震え、涙がぽろりとこぼれ落ちた。「神谷さんが謝りたくないのなら、結構です。あなたを責めようとは思っていませんから。 ここ最近、時男がずっと私と一緒にいる。あなたが不満なのはわかってます。でも、あなたたち、政略結婚でしょ?彼、あなたのこと愛してないんですから。もしうちの家柄が同じくらいだったら、そもそもあなたとの結婚なんてなかったですもの……」 話せば話すほど彼女の涙は止まらなくなり、時男の表情も次第に険しくなっていった。 「悦子!」彼は鋭い声で一喝した。「お前をここに呼んだのは、謝罪させるためだ。これ以上彼女を刺激するためじゃない。謝る気があるなら、さっさと謝れ!」 晴美はそっと目を閉じた。 詩織が自分に罪をなすりつけようとしていることを、彼女はわかっていた。 けれど……彼女はもうすぐここを去るのだ。二つの家の協力関係に少しでも支障をきたすわけにはいかない。さもなければ、六億円も手に入らず、自由も得られなくなるのだから。 「ごめんなさい」彼女はかすかに声を落として言った。「私が悪かったです」 そう言い終えると、彼女は背を向けて立ち去ろうとした。 「止まれ」時男が冷たい声で呼び止めた。「お前が押したのなら、彼女が退院するまで付き添って世話をしろ」 晴美の指先がわずかに震え、やがて小さくうなずいた。「わかった」 それからの日々、晴美は片時も離れず、詩織の病室に付き添った。 時男もまた、病院に寝泊まりするほどに、会社の仕事をすべて後回しにして自ら詩織にご飯を食べさせ、手を拭いてやり、眠りにつくまで傍を離れなかった。 そんなことを、彼は一度も晴美にしてくれたことはなかった。 それでも晴美は嫉妬することなく、ただ静かに傍らで詩織の世話を続けていた。その表情は穏やかで、まるでそのすべてが自分とは無関係であるかのようだった。 看護師たちはひそひそと噂を交わしていた。 「あら、こんなに寛大な奥様って初めて見たわ!」 「分かってないわね。全身全霊をかけて愛するってことなのよ」もう一人の看護師が感心したように言った。 「藤原社長のことを深く愛しているからこそ、彼が好きな人の世話まで進んでするの。ほんの少しでも藤原社長に目を留めてもらいたいだけ……本当に哀れなことだわ」 その言葉を、ちょうど通りかかった時男が耳にした。 彼は一瞬足を止め、無意識のうちに視線を病室の中の細い影へと向けた。 晴美はうつむきながら、真剣な表情でりんごの皮をむいていた。横顔は静かで従順だった。 時男の胸の奥に、言葉にできない違和感がふと浮かんだ。 詩織が退院するその日、時男は晴美に告げた。「しばらくの間、詩織を旅行に連れて行く。用事でもない限り、余計な連絡はするな」 晴美はうなずいて「ええ」と答えた。 彼が詩織の手を引いて去っていく背中を見送りながら、胸の奥にふっと解放されたような感覚が広がった。 ようやく、あの二人と向き合わなくて済むのだ。 家に戻ると、彼女は荷物をまとめ始め、近い将来の旅立ちに備えた。 数日後、彼女は詩織のSNSの投稿を目にした。 時男は彼女をモルディブへ連れて行き、オークションで彼女の欲しがる宝石を惜しげもなく競り落とし、買い与えていた…… 晴美はその投稿を一瞥しただけで、静かに画面をスクロールした。 気にも留めなかった。 もともと、気にしたことなど一度もなかったのだ。 第3話 一週間後、藤原家の月に一度の家族の食事会が予定どおり開かれた。 時男は不在で、晴美は一人で出席するしかなかった。 時男の母・藤原恭子(ふじわら きょうこ)は晴美の姿を見るなり、顔を険しくした。 「時男は?」 晴美は目を伏せ、「用事があって、しばらく戻れません」と静かに答えた。 恭子は冷ややかに笑い、何か言おうとしたその時、執事が慌てた様子で駆け寄り、一枚のゴシップ紙を差し出した。 見出しには、時男と詩織がヨットの上で抱き合いキスしている写真が大きく載っていた。 バンッ! 恭子は箸をテーブルに叩きつけ、怒りを爆発させた。「悦子!書斎へ来なさい!」 書斎に入るや否や、恭子は怒鳴り始めた。「この役立たず!自分の夫もまともに取り繕えないなんて」恭子は怒りで全身を震わせながら言った。「今すぐに電話をかけて時男を呼び戻せ」 晴美のまつげがわずかに震えた。彼女には分かっていた。電話をしたところで、時男は戻ってこない。 それにあの二人の時間を妨げるわけにはいかない。万一彼を怒らせて、両家の協力関係にひびが入ったらまずい。 「ごめんなさい。電話をかけるわけには行けません」彼女は静かに答えた。 恭子は激怒して、「じゃあ、ここで土下座して反省しなさい」と言葉を残して立ち去った。 晴美は言われたまま、床に土下座した。先日の膝の傷はまだ治っておらず、痛みが全身に走った。やがて痛みで視界が暗くなり、そのまま意識を失った。 次に目を覚ましたとき、彼女は病院のベッドに横たわっている。膝には包帯がぐるぐると巻かれていた。 その傍らには時男が座り、眉間に深い皺を寄せていた。 「母さんにあんなことをされたのに、なぜ俺を呼ばなかった?」彼は冷たい声で問い詰めた。 晴美はかすかに笑みを浮かべた。「あなたと根元さんの旅行を邪魔したくなかったの」 時男は一瞬、動きを止めた。 彼は彼女の青ざめた顔を見つめ、ふと看護師の言葉を思い出した。 「藤原社長のことを深く愛しているからこそ、彼が好きな人の世話まで進んでするの……」 彼女は――そこまで俺を愛しているのか。 自分が罰を受けてもなお、時男に迷惑をかけまい――彼女のそんな思いが、時男の胸にわだかまる違和感を、さらにつのらせていった。 その後の数日間、時男は珍しくも病院に残り、晴美の世話をした。 晴美が「大丈夫だから」と幾度か促したが、結局彼は帰ろうとしなかった。 退院の日、時男は突然会社から呼び出しの電話を受け、急な会議が入ったと言った。 「自分で帰りな」そう言い残すと、彼はさっさと踵を返した。 晴美は小さくうなずき、ゆっくりと病院を出た。 階段を降りたところで、不意に誰かにぶつかってしまった。 「どこ見て歩いてんのよ!?」相手は怒鳴りつけた。「この服がどれだけ高いかわかってんの?そんな安っぽい格好で、弁償できるわけ?」 晴美が謝ろうとしたその瞬間、背後から冷たい声が響いた。 「失せろ」 いつの間にか車から降りていた時男が、札束を相手の顔に叩きつけた。「これで足りるか?」 男は反論しようとしたものの、時男の服装と漂う気迫に圧され、慌ててその場から逃げ去った。 時男は冷ややかに晴美を一瞥し、「悦子、神谷家も藤原家もお前にお金を渡してないのか?そんな格好で?」と吐き捨てるように言った。 晴美は黙り込んだ。 実際、神谷家からは一銭ももらっていない。藤原家のブラックカードはあっても、自分は本当の藤原夫人ではない。だから一度も使ったことがなかった。 彼女が何も言わないのを見て、時男の胸にはわけもない怒りが込み上げ、彼女の腕を掴んでくるりと車に押し込んだ。 「服を買いに行こう」 ショッピングモールで、時男は彼女にいくつものオートクチュールを選んだ。どれも目が飛び出るほど高価なものばかりだ。 晴美は終始無言で従い、まるで感情を失った操り人形のようだった。 だが、二人がモールを出たその瞬間―― 「時男……?」 震える声が響いた。 晴美が顔を上げると、ウェイトレスの制服姿の詩織が少し離れた所に立っている。目を赤くし、潤んだ瞳で二人を訝しむように見つめる。 「会社で会議だって……言ってたじゃない?」 「詩織……」時男の表情がわずかに変わった。 「私を愛さなくてもいい……」詩織の頬を涙が伝う。「でも、どうして嘘をつくの?帰国しなければよかったのに……ただの邪魔者だっただけね……」 そう言い残すと、彼女はくるりと背を向けて走り出した。 「詩織!」時男はすぐに追いかけた。 晴美はその場に立ち尽くし、時男の背中を見つめながら、心の中は不思議なほど静かだった。 だが次の瞬間―― ドンッ! 轟音が響いた。 モール上層のガラスが突如落下し、詩織を直撃した。 彼女は何の声も発せず、血の中へと倒れ込んだ。 第4話 時男の顔色が一変し、倒れた詩織を抱き上げると、そのまま振り返りもせず病院へと駆け出した。 晴美はその場に立ち尽くし、指先がわずかに震えたが、結局彼の後を追った。 病院の廊下には冷たい白い光が差し込み、手術室のランプはまだ消えていない。 時男は手術室の前に立ち尽くし、スーツにはまだ乾いていない詩織の血が滲んでいた。いつも冷静な彼の表情に、焦りが色濃く浮かんでいる。 晴美は何も言わず、椅子に腰を下ろしてその様子を見守っていた。 手術室のドアが突然開き、医師が慌てて飛び出してきた。「緊急事態!患者が大出血!緊急輸血が必要なのに、血液がRhマイナスで、血液センターにも在庫がなくて……」 時男が眉をひそめ、何か言おうとした瞬間、晴美が立ち上がった。「私、Rhマイナス型です。私のを使ってください」 時男ははっと彼女を振り向いた。瞳の奥に驚きが一瞬走る。 晴美は静かにその視線を受け止め、「今は助けることが最優先でしょう」と落ち着いた口調で言った。 晴美は看護師に付き添われて採血室へと向かった。400mlの血液がゆっくりと採血されていくにつれ、彼女の顔色は次第に青ざめていった。それでも、彼女の瞳だけは終始、静かに落ち着いていた。 時男は傍らに立ち、彼女の細い腕に刺さった針を見つめながら、胸にわだかまりがどんどん大きくなっていった。 ……俺のこと、そんなに好きだったのか? 採血を終えた晴美は、腕に当てた脱脂綿を押さえながら歩き出した。手術室の前で、時男が微動だにせず立ち尽くす姿を目にして、一瞬、躊躇うように足を止めた。そして、そっと声をかけた。 「心配しないで。きっと大丈夫だから」 時男が顔を上げ、かすれた声で尋ねた。「まだ帰らないのか?」 晴美は首を振った。「根元さんは私たちのことを誤解してる。彼女が目を覚ましたら、きちんと説明しとくわ」 時男は彼女の青ざめた顔をじっと見つめ、ふいに問いかけた。「そんなに俺のことが好きか?」 晴美は一瞬、息をのんだ。 ちょうど口を開こうとしたその時、手術室のドアが突然開き、医師が出てきた。「手術は成功しました。麻酔が切れ次第、意識が戻ります」 時男のこわばっていた肩が、ほっと緩んだ。 晴美は一歩下がって、何も言わなかった。 数時間後、詩織が目を覚ました。 目を開けた途端、ベッドのそばに立つ晴美を見て、詩織の目に涙がにじんだ。「時男……私に二人を祝福してほしくて、また彼女を連れてきたの?」 晴美は慌てて一歩前へ踏み出し、静かに言った。「根元さん、それは誤解です。あの日、時男には本当に会議があったのです。私が買い物に付き合ったのは、たまたま通りかかっただけで、デートなんかじゃありません。彼はあなたに嘘をついたりしていないんです」 時男も頷いた。「彼女とはただの政略結婚だ。感情なんてない」 詩織は唇を噛み、涙をこぼした。「じゃあ、どうやって証明できるの?彼女に少しの想いもないって?」 時男は眉をひそめた。「どう証明すればいい?」 詩織は少し考え、窓の外を指さして言った。「彼女を湖に放り込んで」 時男の顔色がわずかに変わった。「詩織……」 「ためらっているの?」詩織の声は震えていた。「やっぱり彼女が好きなんでしょ!」 時男は数秒沈黙し、やがて小さく息を吐くと、背を向けてボディーガードに手を振った。「悦子を湖に投げ捨てろ」 晴美の瞳孔がぎゅっと縮んだ。 詩織のためなら時男が何でもするって、とっくに知っていた。だが、ここまで残酷になれるとは思ってもみなかった。 それでも彼女は逆らえない。 耐えるしかない。 ボディーガードに両腕を押さえられ、外へ連れ出されていった。時男はその場に立ったまま何も言わず、暗い瞳で見つめていた。 氷のように冷たい湖水が、骨まで刺すようだった。 晴美が突き落とされた瞬間、息が止まりそうになった。 冷水が鼻に流れ込み、手足の感覚が凍りついていった。歯を食いしばり、必死に水面に浮かぼうとするが、体は言うことを聞かず沈んでいく。 湖のほとりではボディーガードたちが冷ややかに見下ろし、誰一人として手を伸ばそうとはしなかった。 晴美の意識は次第に遠のき、朧げな視界の中で幼い頃の自分を見た気がした。 両親に田舎へ置き去りにされ、冬でも厚着がなく、寒さに震えながら、ただ祖父母の家の薪小屋に身を寄せて温もりを求めていた。 今までの人生は、誰にも気にかけられたことなどなかった。 どれほどの時間が経ったのか分からない。晴美はようやく湖から引き上げられた。 全身が氷のように冷えきり、唇は紫に染まり、すでに意識を失っていた。 ぼんやりとした意識の中、誰かが熱いタオルで体を拭っているのを感じた。その手つきは珍しく優しい。 晴美は無意識のうちにその手を掴み、かすれた声でつぶやいた。「もう少しだけ我慢すれば……ここを出られるから……」 次の瞬間、その手が突然強く握り返してきた。骨が砕けそうなほどの力で。 「出られるって……どういう意味だ?」時男の声は、氷のように冷たかった。 第5話 晴美は痛みに目を開け、自分がすでに藤原家に戻っていることに気づいた。 時男はベッドのそばに座り、暗い目で彼女を見つめていた。「さっき出られるって言ったのはどういう意味だ?」 晴美の胸が高鳴り、かすれた声でとぼけるように答えた。「出られる?……きっと高熱で頭がぼんやりして、変なこと言っちゃったんだと思う……」 時男はしばらくじっと彼女を見つめ、どうやら納得したように手を離した。「生理中なのに、なんで言わなかった?湖の中にあんなに長くいたなんて」 晴美は弱々しく笑った。「あなたを許してもらえるなら、湖に入るくらいで、全然大丈夫よ」 時男の表情が微かに歪み、再び言葉を続けた。「本当にそんなに俺のことが好きか?」 晴美はまつげを伏せた。 好きなわけじゃない。ただ、二つの家の関係を守るため。それだけ。悦子が戻ってきたら、自分は遠くへ行くつもりだ。 部屋のドアが突然開き、詩織が入ってきた。「時男、いつ釣りに出かけるの?」 彼女は晴美が目を覚ましているのを見て、わざとらしく驚いたように言った。「神谷さん、具合どう?」 晴美が答える前に、彼女は笑顔で続けた。「この前は腹が立ってたから、時男にあんなことをさせちゃったの。まさか本当にあなたを湖に落とすなんて思わなかったわ。ごめんなさいね。 あなたが輸血してくれたって聞いたわ。一緒に釣りに行かない?お詫びのつもりよ」 晴美が断ろうとした瞬間、詩織は親しげに彼女の手を取った。「断らないでよ、時男にもう話してあるの」 時男はちらりと彼女を見て、場を壊すなというように目で合図した。 結局、晴美はうなずくしかなかった。 豪華なヨットの上で、潮風がほのかに海の香りを運んでいる。 詩織は終始、時男のそばにぴったりと寄り添い、甘い声で果物を食べさせてもらったり、UVケアを塗ってもらったり、さらには背負ってもらって海の景色を見たいと甘えてみせたりしていた。 晴美はデッキに立ち、静かに水平線を見つめていた。まるでこの光景が、自分とはまったく無縁のものであるかのように。 時男が電話を受けてその場を離れると、詩織はようやく晴美のそばに歩み寄り、ふと口を開いた。「あんたのこと、時々マジでわからなくなるんだよね」 晴美が顔を向ける。 詩織は目を細めて言った。「あなたが時男のことをすごく好きで、彼のためなら何でもするって噂になってる。でも、好きなんだから、普通は独占したいって思うんじゃない? 濡れ衣を着せられて無理に謝らされても、顔色一つ変えず、時男に湖に突き落とされても無表情だった。今、私たちがこんなに親しくしていても、やっぱり何とも思わないのね?」 彼女は晴美にぐっと顔を近づけ、声を潜めた。「あなた、本当に彼のことが好きなの?」 晴美は口元をわずかに引き上げた。彼女の推測は正しかった。自分は確かに時男のことが好きではない。 言葉が喉を出る前に、突然、巨大な波が襲いかかってきた。 「きゃあ——!」 二人は踏ん張りきれず、同時に海へと巻き込まれた。 冷たい海水が一瞬で頭の上まで押し寄せ、ヨットの鋭い金属の縁で二人の腕に深く切り込み、長い傷を負わせた。鮮血がたちまち海面に広がっていった。 「誰か落ちたぞ!早く助けろ!急げ!」 デッキは一気に騒然とし、救助員が即座に海へ飛び込んだ。しかしすぐに浮かび上がり、険しい表情で言った。「藤原様、この出血では間もなくサメが寄ってきます!それに、二人は流される方向が違うんです。今の状況で同時に二人とも救えるのは無理です!」 時男の顔色が一変し、狂おしいほどの勢いで海面を睨みつけた。片や詩織が必死にもがき、片や晴美が波に翻弄され、どんどん遠くへと流されていく…… 「詩織を先に助けろ!」彼は怒鳴るように叫んだ。 晴美がその言葉を耳にしたとき、すでに何口分もの塩辛い海水を飲み込んでいた。救助員が詩織の方へ泳いでいくのを目にし、時男の焦りに満ちた顔を見ると、彼女は苦い笑みを浮かべてゆっくりと目を閉じた。 とっくに気づくべきだった。 彼の中で、自分は常に切り捨てられる側なのだと。 海水が肺に満ち、意識が徐々に闇へと溶けていく。 朦朧とする中、黒い影がものすごい速さで近づいてくるのが見えた。 サメだ! 足に鋭い痛みが走った。そして、紺碧の海が鮮血にじわっと滲んでいく──それが、彼女の意識の最後の灯火だった。 第6話 晴美が再び目を覚ましたとき、まぶしいほど白い病院の天井が視界に広がっていた。 「お目覚めになりましたね」看護師がほっとした表情を浮かべた。「大けがですので、早くご家族に連絡しておかないとね」 看護師は一瞬言葉を切り、思わず感嘆の声を漏らした。「隣の部屋の患者さんを見てごらんなさい。同じ海に落ちたのに、あなたよりずっと軽傷なのですよ。でも藤原様は片時も離れずに世話して、まるで宝物のように扱っています。ところで……ご家族の方は?もう二日も経つのに、誰一人訪ねて来てませんね……」 晴美は微かに唇を歪めたが、結局何も言わなかった。 その時、病室のドアが勢いよく開かれた。 時男が入り口に険しい表情で立ちはだかり、冷たい視線を彼女に突き刺した。 看護師は一瞬、きょとんとした表情を見せた。時男の突然の登場に面食らった様子だったが、その険しい表情にたじろぎ、慌てて部屋から出ていった。 ドアが閉まるやいなや、時男はベッドサイドの薬品トレーを床に叩きつけるようにひっくり返した。ガラス瓶が砕ける鋭い音が響き、錠剤が床一面に散らばった。 「お前が詩織を海に突き落としたのか?」その声は氷のように冷たかった。 晴美は呆然とした。 なぜ詩織がまだ自分を陥れようとするのか分からず、ただ胸の奥に疲労が押し寄せる。「そんなこと、やってない……」 「まだ言い逃れようっていうのか?」時男は彼女の手首を掴み、骨が軋むほどの力で握りしめた。「詩織が全部話した!昔のお前はもっと優しかったじゃないか。どうして急に、こんなふうに変わってしまったんだ?」 彼は冷たく笑うと、何かに気づいたように目を細めた。「まさか……今までの優しさは全部演技だったのか?俺の気を惹こうとして?」 晴美は痛みで顔色が真っ青になったが、ただ静かに彼を見つめ、弁解する気力さえ見せなかった。 その無言の視線が、時男の怒りに最後の一撃を与えた。 彼は荒々しく彼女の手を振り払う。「いいだろう。謝る気がないなら、すべて自分で背負え」 振り返らずに歩き去り、氷のように冷たい声だけを残していった。「もう誰にもお前の世話をさせない。その痛み、全部一人で味わえばいい」 その後の数日間、晴美は耐え難いほどの苦痛に苛まれた。 医者の回診もなく、看護師の手当てもない。傷だらけの体を引きずりながら、少しずつ薬品棚まで辿り着き、震える手で自ら傷の手当てをした。 何度も床に倒れ、膝を打ちつけて青黒い痣を作っても、歯を食いしばって再び起き上がった。 時男はきっと、この「神谷家の長女」がこんな苦痛に耐えられないと思っていたに違いない。 だが彼が知らないのは、彼女が悦子ではないということだ。温室で大切に育てられた名家の令嬢などではなかった。 彼女は田舎で泥まみれに生きてきた晴美だ。幼い頃に両親に捨てられ、病気になっても自分で耐えるしかなかった。この程度の痛みなど、彼女にとっては何でもないことだ。 数日後、晴美がようやく退院手続きを終え、荷物をまとめていると、病室のドアが突然乱暴に蹴り開けられた。 時男が険しい顔で踏み込んできて、彼女の手首をがしっと掴んだ。「ついて来い」 「何をする?」晴美が眉をひそめた。 「詩織が白石三郎に拉致された」時男の声は張り詰めていた。「相手はお前を指名して要求してきた。お前と引き換えに、三日後に解放すると言っている」 晴美の胸が一瞬、鋭く締めつけられるような感覚に襲われた。白石三郎(しらいし さぶろう)――あの社交界では悪名高い変態。会うたびに、冷ややかな視線がねっとりと絡みついてくるのが、身の毛がよだつほどだった。 「行かない」彼女は即座に拒絶した。 時男の目が一瞬で冷たくなる。「お前に選択の余地はない」 彼はじっと彼女を見つめ、ふいに口調を落とした。「白石はお前に目をつけている。手荒なことはしないさ。ただ要求に従えばそれでいい。今回の件が片付いたら、お前が望むものなら何でも満足してやる」 晴美が顔を上げて彼を見つめ、突然笑った。「いいわ、じゃあ結婚式を挙げて」 時男はぽかんとした。「はあ?」 「あの時は婚姻届を出しただけで、式は挙げなかったでしょう」晴美は声を潜めて言った。「だから今、埋め合わせでちゃんと式を挙げてもらうわ」 それは彼女の周到に計画した筋書きの一つだった。 晴美は悦子が戻ってくるのを待っていた。そして盛大な結婚式を挙げて、誰もが知る「藤原夫人」という肩書きが譲られる瞬間を、この目ではっきりと確かめるつもりだった。 時男はしばらく深いため息を漏らして沈黙したが、やがて頷いた。「わかった……約束しよう」 晴美が白石家の豪邸に送られたとき、三郎はソファにだらしなくもたれかかり、にやにやと笑いながら彼女を見ていた。 「藤原夫人、お久しぶり」 彼の指先が彼女の頬を撫でた。晴美は吐き気をこらえ、身を引かなかった。 最初の二日の拷問はまだ優しい方だった。三郎は人に命じて、彼女の血を一本、また一本と採らせただけだ。 針が血管に刺さる痛みには、もう慣れていた。だが、自分の血がガラスの管に次々と満たされていくのを見るたび、心の奥がどうしようもなく震えた。 三日目の夜明け前、彼女は半分夢の中にいた。ドアの外から、ボディーガードたちの囁き声が途切れ途切れに聞こえてくる。 「若様は気が狂ったじゃないよね?本当に彼女の血を全部抜いて標本にするつもりか?」 「しっ、静かにしろよ……若様も言ってただろ、あの女、美人すぎるって。死んだら標本にして永遠に残すんだってさ……」 晴美の全身の血が一瞬で凍りついた。 これが時男の言った、手荒なことはしないって約束?命ごと差し出せってことじゃない。 足の裏から背筋にかけて、氷のような寒気が走った。唇を噛みしめ、血の味が広がるまで、震えをこらえた。 見張りが気を抜いた隙を突いて、彼女はベッド脇の水晶のオブジェを手探りで掴み、窓に力任せに叩きつけた。 ガシャッ! 水晶の破片が四方に飛び散った。鋭い欠片で縄を切り、二階の窓から身を投げたその瞬間、右足首にパキッという乾いた音が走った。 激痛で視界が真っ暗になるが、彼女は立ち止まれない。 捻挫した足を引きずり、よろめくように白石家を抜け出し、そのまま藤原家の豪邸まで走り続けた。 リビングの扉を押し開けたとき、彼女の目に映ったのは、片膝をついて詩織の足首にそっと薬を塗る時男の姿だった。 「時男……」詩織は目を赤くして言った。「神谷さんがこんなに長い間戻ってこないのに、少しも心配じゃないの?」 時男の手が一瞬止まり、信じられないほど優しい声で答えた。「心配なのはお前だけだよ。足をくじいたのに黙ってるなんて、俺をどれだけ心配させるつもり?」 晴美は玄関に立ち、全身が雨でびしょ濡れで、足首は腫れ上がっているというのに、彼からは一瞥さえ向けられない。 彼女は無表情で二人のそばを通り過ぎようとした。 「悦子?」時男がようやく彼女の存在に気づき、声を詰まらせて立ち上がる。「お前は……」 第7話 彼の視線が彼女の全身をさっと走らせて、怪我の有無を確かめるようだった。やっと安堵の息をつき、「この三日間、何があったんだ?」と尋ねた。 晴美は口元をわずかにゆがめ、乾いた唇から血が滲んだ。「別に」 そしてすぐに、本題を切り出した。「約束した結婚式は、いつ?」 詩織がすぐに顔を上げた。「……結婚式?何の話?」 時男は一瞬黙り、「彼女との結婚式、改めて挙げるつもりだ」と言った。 詩織の目が一瞬で赤く染まるのを見て、彼は慌てて説明した。「ただの儀式だよ、詩織。俺の心にいるのはお前だけだ」 詩織は無理に笑みを作り、「わかってる……怒ってなんかいないわ。私を助けるためだったもの」と言った。 そして突然、晴美を見て優しく微笑みかける。「神谷さん、ウェディングドレスのこと、私が手伝いましょうか?」 その後、詩織は晴美のウェディングドレス選びに、まるで影のようにぴったりと付き添った。 ドレスショップの鏡の前。真っ白なドレスが晴美の細いウエストのラインを浮かび上がらせている。詩織はすぐ後ろに立ち、一つ一つのドレスを自分の目で確かめ、細部にまで口を挟んだ。 「この襟ぐり、開きすぎじゃない?」詩織は晴美のドレスの襟元をつまみ、少し不満そうに言う。「もう少し控えめなものに替えましょう」 別のドレスを手に取ると、ため息まじりに続けた。 「こちらのウエストラインも……体の線を全然活かせてないわ。藤原夫人がこんな平凡なデザインを着るなんて、ありえないでしょ?」 晴美は終始、静かに従っていた。感情を失った操り人形のように。 そして、最後の一着が決まった瞬間、無人の試着室で詩織はついに本性を露わにした。 「……そう、今まで、無関心なふりをしていたのは、ただの駆け引きか」 詩織は突然、晴美の手首を鷲掴みにした。爪が白い肌に深く食い込ませた。「そんな子供じみた策で、時男を奪えると思う?彼は、最初からずっと私のものよ」 晴美は眉一つ動かさず、ずばりと手を引き抜いた。 駆け引きなんてしていないし、時男を奪おうなんて思ってもいない。 彼女は誰よりもここから逃げ出したかった。この茶番劇が一日も早く終わればそれでいい。 だが詩織は、晴美が時男を奪うつもりだと決めつけ、再び火種をくすぶらせた。 結婚式の少し前に、時男が彼女の部屋のドアを蹴り破った。 「お前が……詩織を試着室に閉じ込めたってことか?」彼の顔は険しく歪んでいた。「彼女に閉所恐怖症があること、知ってたんだろうな!?」 晴美はうんざりしたように目を伏せた。「……そんなこと、してない」 「まだ言い訳するつもりか?」時男は彼女をぐいと引っ張り起こした。「どうやら、前の懲りが足りなかったようだな」 彼は彼女の抵抗など一切気にせず、ボディーガードに命じて、暗く湿った地下室へ閉じ込めさせた。 暗闇の地下室で、晴美は膝を抱えて隅にしゃがみこんだ。 真夜中、突然、カサカサと物音がした。 次の瞬間、生きたネズミの入った袋が彼女のすぐそばに放り込まれた! 「きゃあ——!」 彼女は悲鳴を上げて飛び上がり、必死に鉄の扉を叩いた。爪が割れて血が滲んでも、誰一人助けに来なかった…… 翌朝、時男が冷たい表情で扉を開けた。「たかが一晩閉じ込めただけだろう。何を大げさに泣き喚いている?」 一晩中恐怖に苛まれた晴美の顔は、青白く憔悴していた。「詩織が……ネズミを……」 時男は嗤った。「詩織にそんな真似ができるわけがないだろう」 彼はライトをつけた。「お前の言っていたネズミはどこだ?」 晴美は呆然と立ち尽くした。 地下室は隅々まできれいで、ネズミの毛一本すら落ちていない。 詩織……すでに証拠をすべて消していたのだ。 晴美は唇を開いたが、声にならず、言葉を詰まらせた。 時男は厳しい口調で宣告するように言った。「式は三日後だ。それまで俺は詩織のところにいる。当日には行く」 そして彼は晴美を一瞥して、冷たく付け加えた。「これ以上邪魔するな。さもないと、結婚式は中止だ」 第8話 時男は冷たい表情のまま言い終えると、背を向けて地下室を後にした。 晴美は彼の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ようやく壁に手をついてゆっくりと立ち上がった。 その後の三日間、彼女は自分の部屋に閉じこもり、ほとんど外に出なかった。 メイドが運んでくる食事も、ほんの少し食べただけ。窓の外にどんなに明るい日差しがあっても、一歩たりとも部屋を出ようとはしなかった。 これ以上詩織に付け入る隙を与えてはならない。 幸いなことに、時男は約束を守り、三日間ずっと詩織と共に過ごし、家には姿を見せなかった。 晴美はゴシップ記事で、二人が寄り添って歩く姿が何度も目に入った。 詩織は時男の腕に手を絡め、花が咲いたように笑っている。時男が彼女を見下ろす眼差しは、優しさがこぼれんばかりだった。 結婚式の前日、彼女は机に向かい、時男の好みと嫌いなものを、一つひとつ丁寧に書き留めていった。 「パクチーが嫌い、辛いものは食べない。コーヒーはアメリカンだけ、砂糖なし。シャツは完璧にアイロンをかけること。寝るときは光を一切消すこと……」 書き終えると、彼女はメモをきちんと折りたたみ、メイドを呼んだ。 「これをあなたに預けるわ」彼女は静かに言った。「結婚式が終わったら、私に返してね」 メイドは不思議そうに首をかしげた。「奥様、これは……?」 「忘れないためよ」晴美はかすかに笑った。「最近、どうも物忘れが激しくって」 メイドは少し戸惑いながらも、素直にメモを受け取った。「奥様、ご安心ください。必ず大切にお預かりします」 メイドが部屋を出て行ったあと、晴美はクローゼットの奥から、すでに荷造りを終えたスーツケースを引き出した。 三年間暮らしたこの部屋を最後に見渡し、視線は壁に掛かったウェディングフォトの上で止まった。 写真の中の時男は仕立ての良いスーツを着こなし、神々しいほどの完璧な美貌を漂わせていた。彼女は高価なウェディングドレスをまとい、穏やかに微笑んでいる。 晴美はそっと額縁を外し、それを裏返して机の上に置くと、一度も振り返らずに部屋を後にした。 空港のロビーでは、里美がすでに長い間待っていた。 彼女は晴美に一枚のキャッシュカードと航空券を差し出した。「六億円、きっちり入っているわ。これで、神谷家はあなたとの縁が完全に切れるわ」 晴美はカードを受け取り、指先がかすかに震えた。 顔を上げて母を見ると、里美は一瞥すらくれようとしなかった。 「ありがとう」彼女は小さく言った。 里美は冷たく言い切った。「この三年、よくやった。両家の協力関係に、何の支障もなかった」 少し間を置き、続けた。「じゃあ、行って。あなたの望む人生を生きるがいい」 晴美はうなずくと、背を向けて保安検査場へと歩き出した。 角を曲がるところ、最後にもう一度だけ振り返ったが、里美は既に背を向けた。その背中は、最初から娘などいなかったかのように冷たく、決然としていた。 しかし、晴美の胸に悲しみなどなかった。ただ、航空券をきつく握りしめ、目頭が熱くなっていくのを感じただけだ。 今度こそ、自分のために生きられるのだ。彼女は一度も振り返らず、搭乗口へと向かった。その背中には迷いの色は一つもなかった。 そしてその頃、藤原家の豪邸では、彼女と瓜二つの女がウェディングドレスに身を包み、静かに明日の結婚式を待っていた。 ――悦子が帰ってきた。