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嘘とまどろみの月
「司令官、『国家AIロボット開発計画』への参加を決めました」 それは、高度に暗号化された極秘回線による通話だった。 電話の向こうで、司令...
Chương (1)
第1章
「司令官、『国家AIロボット開発計画』への参加を決めました」
それは、高度に暗号化された極秘回線による通話だった。
電話の向こうで、司令官の声色が厳粛なものに変わる。「この計画は国家最高機密だ。世間から隔絶された基地で生活し、生涯、外部との連絡は一切断たれることになる。その覚悟はあるのか?」
江原詩音(えはら しおん)は、きっぱりと言い放った。「あります」
「ならば歓迎しよう。君が参加してくれれば、研究の進捗は劇的に加速するだろう。何か条件はあるか?可能な限り叶えよう」
「私専用の万能型ロボットを一体いただきたいのです。初期プログラムは私自身の手で書き上げます」
「それくらいなら容易いが……理由を聞いても?」
詩音は重く息を吐き出し、静かに答えた。「ロボットだけが、永遠に心変わりしないからです」
司令官は尋ねた。「確か、君はもうすぐ結婚を控えていたはずだ。何かトラブルがあって、この計画への参加を決めたのか?」
詩音は少し考えると、こう続けた。「司令官、私と瓜二つの初級ロボットを一体、用意していただきたいのです。……私の代わりに、結婚させるために」
第1話
「司令官。私と瓜二つの初級ロボットを一台用意してください。十日後、私の代わりに結婚式に出席させるために」
それは、高度に暗号化された極秘回線による通話だった。
電話の向こうで、司令官の声がわずかに戸惑ったように響く。
「どうした?何か心境の変化でもあったのか?」
「もう、どうでもよくなったんです。司令官、『国家AIロボット開発計画』への参加を決めました」
司令官の声色が厳粛なものに変わる。「この計画は国家最高機密だ。世間から隔絶された基地で生活し、生涯、外部との連絡は一切断たれることになる。その覚悟はあるのか?」
江原詩音(えはら しおん)は、きっぱりと言い放った。「あります」
「ならば歓迎しよう。君が参加してくれれば、研究の進捗は劇的に加速するだろう。何か条件はあるか?可能な限り叶えよう」
「私専用の万能型ロボットを一体いただきたいのです。初期プログラムは私自身の手で書き上げます」
「それくらいなら容易いが……理由を聞いても?」
詩音は重く息を吐き出し、静かに答えた。「ロボットだけが、永遠に心変わりしないからです」
……
通話を終えた詩音は、鏡に映る純白のウェディングドレスをじっと見つめた。
今日は、婚約者の藤堂樹(とうどう いつき)に連れられ、ドレスの試着に来ていたのだ。
だが今この瞬間、彼女の夫となるべき男は、カーテンの向こうで花嫁姿を心待ちにしているわけではなかった。彼はすぐ隣の試着室にいる。それも、別の女と一緒に。
壁一枚隔てた隣の個室から、衣擦れの音が漏れ聞こえてくる。
女の声は、とろけるような猫なで声だった。「私に会いたかった?」
男の声はすでに荒い息遣い混じりで、欲望に低くかれている。
「ああ……結婚式の準備で忙しくて、ずっと会えなかったからな」
「もう、声が大きいわよ。隣に詩音がいるんだから」
「大丈夫だ。あいつの補聴器なら俺が持ってる。補聴器がなけりゃ、あいつには何も聞こえないさ……」
続いて聞こえてきたのは、生々しい口づけの音と、衣服がこすれ合う音。
さらには、耳を塞ぎたくなるような卑猥な音が響き始めた。
相手の女は、赤の他人ではない。詩音の双子の姉――江原玲奈(えはら れな)だ。
二人の顔立ちは瓜二つだが、性格は全く違っていた。
姉は気が強く、欲しいものは何でも手に入れないと気が済まない。詩音は幼い頃から、常に姉に譲ることを強いられてきた。
大切にしていた人形も、オルゴールも、進学の推薦枠さえも。姉が「欲しい」と口にすれば、詩音は譲らざるを得なかった。
たとえ詩音が拒んでも、両親がこう諭すのだ。「お姉ちゃんが気に入ったんだから、あげなさい」
だがまさか、今回姉が奪おうとしているのが、自分の夫だとは思いもしなかった。
本来なら、これだけは譲りたくなかった。
しかし、樹までもが裏切り、姉と通じているのなら――不誠実な男になど未練はない。
いっそ、二人の望み通りにしてあげましょう。そうすれば私も、自由になれる。
AIロボット開発計画は、詩音のかねてからの夢だった。
自身の才能を国家のために役立てたいと願っていたし、彼女にはその能力がある。
ひいきする両親、自己中心的な姉、そして浮気性の婚約者。もう誰も、何もいらない。
世間から隔絶された基地に籠もり、国家と人々のために一生を捧げる方が、よほどマシだ。
しばらくして、隣の部屋の情事がようやく終わった気配がした。
こちらの試着室のドアがノックされる。
樹の声が響いた。情事の直後らしい、少し息の上がった声だ。「詩音、着替えは終わったかい?」
詩音が答えようとすると、姉の玲奈が猫なで声で割って入った。「やだ、樹ったら。詩音には聞こえないってば。どうして忘れちゃうの?」
「ああ、そうだった。彼女の補聴器はまだ俺が持ってたな」樹が、バツが悪そうに笑う声がした。「店員を呼んでこよう。鍵を開けてもらわないと――」
その言葉が終わらないうちに、詩音は自ら試着室のドアを勢いよく開けた。
純白のドレスの裾を優雅に持ち上げ、ゆっくりと二人の前へ歩み出る。
樹の瞳に、一瞬、驚きと感嘆の色が走った。「……きれいだ」
玲奈が冷ややかに鼻で笑う。「私たち顔は同じなんだから、そんなに驚くことないでしょ?私がおめかしした方が、もっと綺麗かもしれないわよ」
「玲奈、よせよ。彼女は君の妹だぞ。いちいち張り合う必要はないだろう」
樹がたしなめるが、玲奈は止まらない。
「だって張り合いたいんだもん。樹が詩音に隠れて私とこっそりイチャイチャするのは、私の方が魅力的だって証拠でしょ?」
樹は気まずそうに咳払いをし、眉を寄せて玲奈を制した。「これから詩音に補聴器をつけるんだ。余計なことは喋るなよ」
目の前に立つ詩音は、無表情のまま、まるで何も聞こえていないかのように振る舞っている。
それを見て、樹は安堵の息をついた。
幼い頃、詩音は姉と一緒に高熱を出したことがある。
両親は姉だけを連れて病院へ行き、詩音ひとりを家に放置した。その結果、姉は完治したが、詩音は聴力を失ったのだ。
それから二十数年、彼女は補聴器なしではまともに生活できなかった。
だが三ヶ月前、奇跡が起きた。詩音の聴力が回復し始めたのだ。
日に日に聞こえは良くなり、今では完全に普通の人と同じレベルまで戻っている。
樹も玲奈も知らないのだ。
さっき隣の個室で行われていた行為も、今目の前で交わされている浮気の会話も、すべて詩音には筒抜けだということを。
樹は優しげな笑みを浮かべ、詩音に近づくと、耳に補聴器を装着してやった。
そして、甘い声で囁く。「詩音、ドレス姿、本当に綺麗だよ」
詩音は小さく頷いた。「ありがとう」
そして、傍らに立つ玲奈に視線を向ける。「お姉ちゃん、来てたの?」
玲奈は引きつった愛想笑いを浮かべた。「あんたがドレス着るっていうから、どんなもんか見に来てあげたのよ。将来私が結婚する時の参考にもなるしね」
「お姉ちゃんも、結婚したいの?」
「ま、私にあんたみたいな強運があればねぇ。樹みたいな素敵な旦那様、なかなかいないし」
詩音は意味深に言った。「いるよ、きっと」
「あーあ。男を見る目に関しては、私、詩音に負けちゃったかな」
「それはどうかしら」
詩音もまた、薄く微笑んだ。「むしろ今回も、お姉ちゃんの『勝ち』だと思う」
――ただし、あなたが勝ち取ったのは、ただの不誠実な男だけど。
あなたが私から奪い取ったんじゃない。私が自分から捨てたゴミよ。
誰かに奪われるような男なんて、最初から争う価値もない。
人の心は移ろいやすい。やはり、自分で書いたプログラムこそが、この世で最も信頼できるものだ。
第2話
ブライダルショップの女性店員たちが、詩音を取り囲んで大げさに褒めそやした。
「さすが藤堂様はお目が高いですね。このドレス、奥様に本当にお似合いです」
「サイズもぴったりでしたね。藤堂様は奥様のサイズをすべて頭に入れてらっしゃるんですね」
「もちろんですとも。藤堂様がどれほど愛妻家か、知らない人はいないくらいですから!」
少し離れた場所から、別の店員が靴の箱を抱えて駆け寄ってきた。「こちらの靴も藤堂様がセレクトされたものです。奥様、ぜひお試しください」
そう言って店員が詩音の足元に跪こうとした瞬間、骨ばった大きな手がそれを制した。
樹が靴を受け取り、優しく微笑む。「貸して。俺が履かせるよ」
樹は片膝を床につき、詩音の足首をそっと掴んだ。履いていたスリッパを脱がせ、ガラス細工のように繊細なハイヒールへと足を滑り込ませる。
純白のヒールにはダイヤモンドがあしらわれ、照明を受けて夢幻的な輝きを放っていた。
「23.5センチだと少し大きいかな。23センチに変えてもらえるかい?」
「かしこまりました、藤堂様」
店員がすぐに新しいサイズを持ってくる。
樹は満足げに笑みを浮かべ、再び身をかがめて、詩音に靴を履かせ始めた。
彼がしゃがみ込んだ、その瞬間だった。
詩音の視線の先に、彼の首筋が映り込んだ。そこには、赤々とした痕――キスマークがいくつも散らばっていた。
どう見ても、ついさっき付けられたばかりのものだ。
それだけではない。鼻を突く、独特な匂い。男女が濃厚に絡み合ったあとに残る、体液と汗の混じり合った匂いが、彼の身体から漂っていた。
目の前のハイヒールは宝石のように美しい。
けれど、それを手にしているその手は、たった今、別の女の身体を弄んでいた手だ。
あの粘つく、吐き気を催すような匂いを指先に纏わせたまま、詩音の足に触れている。
想像しただけで、胃の奥から強烈な吐き気がこみ上げてきた。おぞましい。汚らわしい。
「詩音、足を上げて」
樹が甘い声で促し、再び彼女の足首を握ろうとした。
詩音は反射的に足を引っ込め、一歩後ろへと下がった。
樹が驚いて顔を上げる。「どうした?」
「……なんでもない」詩音は表情を殺して言った。「人に足を触られるのは慣れてないの。自分で履くわ」
彼女は靴をひったくるように受け取ると、逃げるように試着室へと戻り、内側から鍵をかけた。
ドアの向こうで、樹の戸惑う声がする。「詩音?急にどうしたんだ?ドレスに着替えてから、なんだか様子が変だよ」
店員がフォローする声が聞こえた。「きっと藤堂様の視線が熱烈すぎて、花嫁様が照れてしまわれたんですよ!」
樹は納得したように笑い、ドアを軽くノックした。「詩音、もうすぐ夫婦になるんだから、恥ずかしがることはないよ。ゆっくりでいいからね。ここで待ってるから」
詩音はドアに背中を預け、ずるずると座り込んだ。
不覚にも、涙がこぼれ落ちてくる。
未練があるわけじゃない。ただ、過去の彼があまりにも理想的すぎただけだ。
以前の詩音の世界は、孤独だった。
わがままな姉、無関心な両親、そして聞こえない耳。自分は部屋の隅に積もる埃のような存在で、誰も気にかけてくれないし、誰の視界にも入らないと思っていた。
でも、樹だけは違った。
ある日、両親に連れられて姉妹でパーティーに出席した時のことだ。華やかに着飾った姉の後ろで、地味なドレスを着て召使いのように控えていた詩音に、彼だけが声をかけてくれた。
「ここから見える百合の花畑が一番綺麗なんだ。一緒に行こう」
詩音は信じられず、何度も確認した。「人違いではありませんか?玲奈をお探しなら私ではありません。私は双子の妹で……」
「知ってるよ」樹は爽やかに笑った。「君は詩音。大学のプログラミングコンテストで優勝した天才少女で、百合の花が好きなんだろう?」
あんなふうに自分を理解してくれた人は、生まれて初めてだった。
あの時見た百合の花畑は、生涯で一番美しい景色だった。
それから、樹は頻繁に詩音の前に現れるようになった。
会うたびに、彼は百合の花束をプレゼントしてくれた。
両親さえも不思議がったほどだ。「どうして詩音なんかを?玲奈の方がずっと可愛くて愛想もいいのに」
樹の答えは決まっていた。「みんなは玲奈が良いと言うけれど、俺は詩音が好きなんだ」
付き合い始めてからの彼は、詩音をこれ以上ないほど大切にしてくれた。
ドライブ中にコントロールを失ったトラックが突っ込んできた時も、彼は迷わず詩音に覆いかぶさり、その身を盾にして守ってくれた。
詩音は軽傷で済んだが、樹は生死の境を三日間も彷徨った。肋骨を七本折り、心臓に達するほどの重傷を負って。
目覚めた彼の第一声は、自分の痛みではなく、詩音の安否を気遣う言葉だった。「詩音は無事か?彼女が無事なら、俺はどうなったっていい」
その瞬間、詩音はこの人に一生を捧げようと誓ったのだ。
その後、姉の玲奈がことあるごとに彼を誘惑しようとしたが、樹は決してなびかなかった。
一度など、きっぱりと姉を拒絶してくれたこともある。「玲奈。俺は詩音の恋人で、君の義理の弟になる人間だ。少しはわきまえてくれ」
何度も失敗した玲奈は、悔し紛れに詩音にこう言ったものだ。「男なんてみんな一緒よ。私の魅力に勝てる男なんていないんだから。樹だって、遅かれ早かれ私のものになるわ」
詩音はいつも一言だけ返した。「樹を信じてる」
そう、信じていたのだ。心の底から。
――今日、隣の試着室での出来事を聞いてしまうまでは。
結局、彼は姉の執拗な誘惑に屈し、堕ちてしまった。
あんなに綺麗だった思い出も、今ではすべてが嘘のように色褪せて見える。
その時、置きっぱなしにしていた携帯電話が振動した。
樹がドア越しに声をかける。「詩音、電話が鳴ってるよ」
詩音は涙を拭い、呼吸を整え、靴を履き替えてからドアを開けた。
電話を受け取る。
「もしもし?」
「江原詩音様でしょうか」
「はい、そうです」
「こちらは国家AIロボット開発計画・人事部です。一週間後、極秘のチャーター機でお迎えにあがります。必ず時間通りに空港へお越しください」
詩音は静かに答えた。「分かりました。必ず向かいます」
通話を切ると、樹が不思議そうな顔で尋ねてきた。「空港?詩音、どこかへ行くのかい?」
第3話
詩音は彼と目を合わせようともせず、俯いたまま淡々と答えた。「新婚旅行の準備よ」
樹はほっとしたように表情を緩め、軽やかに笑った。「ああ、そういうことか。やっと一緒になれるんだ、盛大に行かないとな。そういえば、行き先は聞いてなかったけど、もう決めたのかい?」
「ええ」
「俺へのサプライズってこと?いいよ、詩音が行きたいところなら、地の果てまでついていく」
詩音は口元だけで笑った。
ええ、もちろんサプライズだわ。
一週間後、私はあなたの世界から永遠に消えて、あなたとお姉ちゃんを結ばせてあげるんだから。これ以上のサプライズはないでしょう?
樹が後ろから詩音を抱きすくめ、首筋に顎を乗せて甘えた声を出した。「さっきは焦ったよ。俺を置いてどこかに行っちゃうのかと思った」
詩音はさりげなく身をよじり、彼を遠ざけた。「このドレス、あまり気に入らないわ。触らないで、汚れるから」
樹はすぐに機嫌を取るように言った。「構わないよ。気に入らないなら次のを着てみよう。君が気に入るまで何度でも変えればいい」
「どれも気に入らなかったら?」
「その時は有名なデザイナーに頼んで、君の理想通りのフルオーダーメイドを作らせるよ」
「それだと、かなりお金がかかるんじゃない?」
「君が喜んでくれるなら、いくらかかっても惜しくないさ」
そばで控えていた店員たちが、一斉に羨望の眼差しを向けた。「奥様は本当にお幸せですね。お姉様も付き添ってくださるし、旦那様にはこんなに愛されて……まさに人生の勝ち組です!」
「私、ここで働いて八年になりますけど、こんなに仲睦まじいご夫婦は初めて見ました……」
「本当ですよね。今着てらっしゃるドレスだって二億円もするオートクチュールなのに、奥様が気に入らないと言えばすぐに変えてくださるなんて。溺愛されすぎですよ!」
樹は満更でもない顔で、微笑みながら言った。「詩音は俺の最愛の人だ。彼女には、この世で最も美しいものが相応しい」
そう言って、彼は情熱的な瞳で詩音を見つめた。
まるで本当に彼女に夢中で、他の何者も目に入らないといった様子だ。
詩音は周囲の羨望と、樹の熱っぽい視線を受けながら、心の中で冷ややかに嘲笑うことしかできなかった。
樹が店員を急かした。「次のドレスはまだかな?」
「はい、ただいま!奥様、こちらへどうぞ」
詩音はドレスを受け取ると、釘を刺すように言った。「『奥様』じゃなくて、江原さんと呼んで」
店員がきょとんとする。「どうしてですか?藤堂様とこんなに愛し合っていらっしゃるのに……」
「聞き慣れないから」
樹がすぐにフォローに入った。「いいじゃないか。詩音がそう呼んでほしいなら、そうしてあげてくれ。『奥様』と呼ばれるのは、式が終わってからでも遅くない」
「は、はい。かしこまりました、江原様」
詩音は新しいドレスを抱え、再び試着室へ向かった。
その背中に、姉の玲奈が声をかけた。「詩音、ドレスって着るのが大変だし、補聴器つけてると邪魔になるでしょ?私が持っててあげるわ」
詩音は振り返り、姉を見て、それから樹を見た。
樹の視線はすでに詩音にはなく、玲奈の豊満な胸元に釘付けになっていた。
彼の喉仏が、ゴクリと上下するのが見て取れる。
詩音は微笑んで補聴器を外し、玲奈に手渡した。「じゃあ、お願いね。お姉ちゃん」
再び試着室に入り、ドアを閉める。
だが今回聞こえてきたのは、二人の慌ただしい足音が遠ざかっていく音だった。
しばらくして、外から店員たちの話し声が聞こえてきた。
「……ねえ、旦那さんとお義姉さん、トイレに入っていかなかった?あんなに堂々と?」
「いいのよ。花嫁さんは補聴器がないと聞こえないんだから。さっきだって隣の試着室であんだけ激しくやってたのに、全然気づいてなかったじゃない」
「はあ……花嫁さん、可哀想……」
「無駄な同情はやめなさいって。ドレスさえ売れれば誰が着ようが関係ないの。藤堂様が支払ってくれれば、私たちのノルマは達成なんだから」
「そういえば藤堂様、この前もここでドレスをオーダーしてたわよね。世界的デザイナーのマリーに特注したやつ。あれ、お義姉さんのサイズだったんでしょ?一着で20億円以上よ!花嫁さんのドレス十着分じゃない。あれ一着売れただけで、私たちの三年分の売り上げになったんだから」
「お義姉さんに20億円のドレス?一体どういうつもりなの?美人姉妹とも美味しくいただきたいってわけ?」
「そういうプレイなんでしょ。どうせ式で着るわけじゃないし……」
ドア一枚隔てた内側で、詩音はすべての会話をはっきりと聞いていた。
ああ、そうだったのか。
彼と姉の関係は、周知の事実だったのだ。
私だけが騙されていた。全員が、私を嘲笑っていたのだ。
詩音はドレスを着るのをやめ、自分の服に着替えた。
試着室から出ると、たむろしていた店員たちがぎょっとして飛び上がった。
彼女たちは顔を見合わせ、慌てて取り繕う。
「奥様……いえ、江原様!今の話は全部デタラメです、どうか気になさらないでください!」
「申し訳ありません、私たち口が滑って……」
別の店員が、開き直ったように鼻を鳴らした。「何謝ってんのよ。彼女の補聴器、お姉さんが持っていったじゃない。今の彼女はつんぼよ」
謝っていた二人が、安堵の息を吐く。「なんだ、そうだった。びっくりさせないでよ」
「ふふっ、何焦ってんの。ただの壊れたお人形さんじゃない。旦那と姉が浮気してるのすら気づかない鈍感女なんだから、私たちがこれくらいの声で噂話したって聞こえるわけないでしょ?」
「だよね、焦って損した……」
その時、詩音が静かに口を開いた。「続けて。もっと聞かせてくれる?」
店員たちの顔色が、一瞬にして真っ青に変わった。
「え……江原様、聞こえるんですか?」
「ええ。サプライズでしょう?」
「じゃあ、さっき私たちが話してた、藤堂様とお姉様のこと……全部?」
詩音は冷ややかな目で彼女たちを見据え、人差し指を唇に当てた。「聞こえていることは、あの二人にはまだ内緒にしておいて」
第4話
ブライダルショップを出た後、詩音は一軒のタトゥースタジオに入った。
店主が愛想よく声をかけてくる。「いらっしゃいませ。今日はどんなデザインを?こちらのカタログから選べますよ」
「彫るんじゃありません。消したいんです」
樹と最も愛し合っていた頃、二人は一緒にタトゥーを入れたことがある。
詩音の手首の内側には、アルファベットの列が刻まれていた。
「S&I」
詩音と樹。二人のイニシャルだ。
樹も同じ場所に、同じタトゥーを入れている。
彼は言ったものだ。これは婚約指輪の代わりだよ、と。指輪は簡単に外せるけれど、タトゥーは一度刻めば一生消えない。これで君は永遠に俺のものだ、と。
あの頃の詩音は、その言葉を甘い愛の囁きだと信じていた。
けれど今となっては、この「愛の証」も笑い話でしかない。
店主は彼女の手首を覗き込み、眉を寄せた。「タトゥー除去はかなり痛いですよ。それにこれくらいの大きさなら、長袖を着れば隠せますし、無理に消す必要はないんじゃありませんか?」
「消してください。お願いします」
「……分かりました」
腕の内側にはワンポイントのタトゥーが入っていた。彫るのは二時間ほどで終わったのに、除去には午後いっぱいかかった。
詩音が帰宅したのは夜だった。
除去した皮膚をアイスパックで冷やしながら玄関を入ると、待ち構えていた樹が血相を変えて飛び出してきた。
「詩音!一体どこに行ってたんだ!?心配してたんだぞ!」
彼は詩音を力強く抱きしめるが、詩音は反応せず、冷ややかに彼を突き放した。
樹はハッとして、慌てて彼女の耳に補聴器をつける。それから、改めて言った。「詩音、街中を探し回ったんだぞ。耳も聞こえないのに一人で出歩くなんて、どれだけ危険か分かってるのか?」
詩音は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見据えて尋ねた。「私が試着室を出た時、あなたの姿がなかったわ。どこに行っていたの?」
樹の視線が泳いだ。彼は鼻の頭をこすり、あからさまに動揺しながら答える。
「ト、トイレに行ってたんだよ」
「私が三十分も待っている間、ずっとトイレに?」
「それは……」
樹は言葉に詰まった。
「……」
詩音は鼻で笑った。「あら、便秘かしら?大変ね」
樹は慌てて再び彼女を抱きしめた。「詩音、そんなことで怒ってたのか。実は、会社から急用で電話が入って、外で話してたんだ。内容が複雑で、つい長電話になってしまって」
「本当に?」
「本当だ。俺が君に嘘をつくわけないだろう?」
詩音は彼を見つめ、凛とした、迷いのない声で告げた。「樹。もし、あなたが他の誰かを好きになったのなら、正直に言ってちょうだい。私は身を引くし、二人の幸せを祝福するわ。でも、耳が聞こえないからって私をバカにして、適当に騙そうとするのはやめて。私の愛は、嘘や隠し事で汚されるほど安くないの」
樹は自信満々に誓って見せた。「俺が他の女を好きになるなんてありえない。俺はこの先も一生、詩音だけを愛してる」
「そう」詩音は試すように聞いた。「もし、お姉ちゃんの方からあなたに言い寄ってきたとしても?あなたは拒めるの?」
樹は愛おしそうに彼女の鼻先を指で弾いた。「玲奈は俺にとって義理の姉さんだよ。それに、俺が好きなのはずっと君だ。以前、彼女をきっぱり振ったこと、君も知ってるだろう?」
詩音は適当に「うん」と相槌を打った。
樹は続けた。「確かに玲奈の方が色っぽくて魅力的かもしれないけど、君には君の良さがある。単純で可愛いところとかね。何もかも彼女と比べる必要はないよ」
単純で可愛い。今の詩音にとって、その言葉はもはや嘲笑いにしか聞こえなかった。騙しやすい、扱いやすい女だと言われているのと同じだ。
「詩音、これからは黙っていなくならないでくれよ。本当に気が狂うかと思ったんだ」
二人が話していると、奥の部屋から玲奈が出てきた。
彼女は皮肉たっぷりの笑みを浮かべて言った。「そうよ、詩音。樹ったら心配のあまり、ご飯も喉を通らなかったんだから」
続いて出てきた両親も、口々に詩音を責めた。「樹くんは探偵を雇おうとしたり、警察に連絡したり、大変だったんだぞ。お前のわがままのせいで家じゅう大騒ぎだ。玲奈のテレビ収録の時間まで遅れてしまったじゃないか」
樹が詩音を庇うように前に出た。「おじさん、おばさん。詩音も少し気分転換に出かけたかっただけです。そこまで責めないでやってください」
母親が呆れたように言う。「他のことはともかく、玲奈のテレビ出演がどれだけ大事か分かってるの?この子は私たちが甘やかしたせいで、他人への配慮が足りないのよ。詩音のせいで、玲奈はもっと早く局入りできたはずなのに」
両親の偏愛には慣れっこになっているつもりだった。
けれど、母親の言葉はやはり鋭い刃となって詩音の心を抉った。
「お母さん、安心して。これからは二度と、あなたたちに迷惑はかけないから」
あと一週間の辛抱だ。
一週間後には、私はここから永遠にいなくなる。
私を本当に必要としてくれる場所へ行き、自分の人生の価値を実現するのだ。
部屋に戻った詩音は、久しぶりにパソコンを開き、専門のプログラミングソフトを立ち上げた。
そして、開発中のロボットに対する最初の命令コードを打ち込んだ。【指令1:生涯、江原詩音ただ一人を愛すること】
ふと、さっき樹がまったく同じことを言っていたのを思い出した。
詩音は自嘲気味に唇の端を歪め、二つ目の命令を書き加えた。【指令2:私に対して、永遠に嘘をつかないこと】
第5話
ブブブ……
テーブルに置いたスマートフォンが振動した。玲奈からだ。
【詩音、あんた耳聞こえるようになったんでしょ?店のスタッフから聞いたわよ】
【私と樹のこと、バレちゃったならそれでもいいわ。言ったでしょ、あんたは私には勝てないって。彼は遅かれ早かれ私の魅力にひれ伏す運命なの】
【あんたは大人しく私の引き立て役をやってなさい。それが『妹』としての運命なんだから】
LINEのメッセージに続いて、一本の動画が送られてきた。
再生ボタンを押すと、冒頭に映し出されたのは女性用トイレのマークだった。
続いて、見覚えのある男女がもつれ合うようにして中へ入っていく。
床には脱ぎ捨てられた服が点々と散乱していた。
アングルは計算され尽くしていた。樹の顔がはっきりと映り込んでいる。
快楽に歪んだ、だらしのない表情。
【彼は私といる時だけ、こういう顔を見せるの。あんたは見たことないでしょ?】
詩音は無表情のまま、スマホ内のメッセージと動画データをすべてパソコンに転送した。
そして、キーボードを叩いて短いプログラムを組み上げた。
樹が部屋に入ってきた時、いつも通り百合の花束を抱えていた。
「詩音、久しぶりにプログラムを書いてるのかい?結婚式で使うもの?」
詩音はふっと微笑んだ。「ええ、そうよ」
彼女は完成したプログラムをUSBメモリに保存し、彼に手渡した。「結婚式当日、司会者にこれを流してもらって」
樹は感激したようにUSBを受け取った。「もう出来たのか!詩音、最高のサプライズだよ!中身はなんだろう、俺たちが歩んできた愛の軌跡かな?二人の思い出の写真とか?」
「それは当日までのお楽しみよ」
「今見ちゃだめかい?」
「だめ。それじゃサプライズにならないでしょ。式で初めて見るからこそ感動するのよ」
樹は嬉しそうに頷き、USBを大切そうに胸ポケットにしまった。「君の言う通りだ。結婚式当日、すべてのゲストの前で一緒に見よう。俺たちの幸せをみんなに見届けてもらうんだ、最高に意義深い瞬間になるよ」
詩音はにっこりと頷いた。ええ、本当に楽しみだわ。
いつも自信満々で勝ち誇っているお姉ちゃんや、誠実ぶった偽善者のあなたが、どんな顔をするのかしら。
そして、長女ばかりを溺愛してきた両親は、あんなスキャンダルを目の当たりにしてどう反応するのかしら。
樹は詩音の手を取り、胸元に引き寄せた。「試着室の一件以来、君はずっと元気がなかったから心配してたんだ。そうだ、気分転換にドライブにでも行こうか?結婚式用に新しく買ったリムジンがあるんだ、乗り心地を試してみないか?」
詩音が答える前に、彼のスマホが鳴り響いた。
着信音が部屋の空気を切り裂く。
樹は画面をちらっと確認して、眉をひそめて拒否ボタンを押した。
だが、電話はしつこく鳴り続けた。
三度目の着信が鳴った時、詩音は言った。「出たら?この前、会社で緊急のトラブルがあるって言ってたじゃない」
樹は少しためらった。「……外で話してくるよ」
「会社の機密情報なんでしょう?大丈夫、私は聞かないから」
そう言って、詩音は自分の耳から補聴器を外し、テーブルの上に置いた。
それを見た樹は明らかに安堵の表情を浮かべ、電話に出た。「もしもし、子猫ちゃん。どうしたんだ?」
受話器の向こうから、玲奈の甘ったるい声が漏れてくる。「樹、私いまガレージにいるの」
「ガレージ?そんなところで何をしてるんだ?」
「あんたたちのウェディングカー、私が先に試乗してあげようと思って」
「キーなら一階のリビングにあるよ。勝手に乗ればいい」
玲奈の言う「試乗」が、運転することではないのは明らかだった。
彼女は声をさらに、とろけるように甘くして囁いた。「樹も試してみたくない?リムジンってばすごく広いのよ。それに私、今日はバニーガールのコスプレしてるの……」
樹の瞳が、一瞬にして理性の光が消え、欲望の色に染まった。喉がごくりと鳴る。「……バニーガール?」
「うん。前に樹が見たいって言ってたやつ……」
「待ってろ。すぐ行く」
電話を切ると、樹は詩音に近づき、親切そうに補聴器をつけ直してくれた。そして早口でまくし立てる。「詩音、ごめん。会社でトラブルが起きたみたいだ、今すぐ行かないと。ドライブはまた今度にしよう、いいかな?」
すべて聞こえていたけれど、詩音は従順に頷いてみせた。「分かったわ」
「ああ。うちの詩音は本当に物分かりが良くて助かるよ」
樹は愛おしそうに彼女の頭を撫でると、慌ただしく部屋を出て行った。
足音が遠ざかると、詩音はすぐにパソコンに向かい、ガレージの監視カメラにハッキングを仕掛けた。
画面が切り替わり、ガレージ内部の映像が映し出される。
樹がリムジンのドアを開けた瞬間、中から伸びてきた華奢な腕が彼のネクタイを掴み、強引に車内へと引きずり込んだ。
すぐに車体が激しく揺れ始める。
パソコンのスピーカーからは、二人の荒い息遣いと会話が鮮明に聞こえてきた。
「次は詩音と一緒にいる時に電話してこないでくれ」
「あら、スリルがあって興奮するじゃない?」
「っ……確かに、興奮したけどな。あいつが補聴器外してくれて助かったよ。じゃなきゃバレるところだった」
玲奈が甘えるように言う。「私と一緒にいる時は、あの子の話なんかしないで」
詩音は冷ややかに鼻で笑うと、キーボードを叩いてある指令を送信した。
第6話
監視カメラの映像はすべて録画された。
詩音はそれを添付し、時限送信メールをセットした。
送信日時は一週間後。結婚式の当日だ。
すべての親族、友人、招待客全員に、あの一斉メールが届くことになる。
樹と玲奈へのプレゼントは、式場のスクリーンで流すサプライズ映像だけではない。参列者全員の手元にも、この決定的なビッグプレゼントを届けてあげるのだ。
すべての準備を終えると、詩音はパソコンを閉じ、荷物の整理を始めた。
もともと私物は多くない。必要なものはすでに分類され、寝室の壁際に整然と積み上げられていた。
樹が帰ってきた時、詩音は時計を見た。
午後11時45分。
彼が出て行ったのは午後6時過ぎだったから、二人はあの狭いリムジンの中で5時間近くも過ごしていたことになる。
体の相性だけは抜群にいいらしい。
樹は少しバツが悪そうに説明した。「詩音、ごめん。会社のトラブル処理に手間取って、こんな時間になっちゃった」
詩音は淡々と笑った。「大丈夫よ。お仕事ご苦労様」
「……荷造りをしてたのか?」
「ええ」
樹は急に不安に駆られたのか、詩音の手を掴んだ。「詩音、何をしてるんだ?これ、君の服全部だろう?どうして全部片付けてあるんだ?」
詩音は静かに言った。「手を離して」
「離さない!」樹は恐怖に駆られたように早口でまくし立てた。「最近、なんだか変だよ。俺に対してもすごく冷たいし……詩音、俺が何か悪いことしたなら言ってくれ。直すから、お願いだからいなくならないでくれ……」
詩音は重い溜息をついた。「そんなに私がいなくなるのが怖いの?」
「当たり前だろ、愛してるんだから」
「樹。私が言ったこと覚えてる?もしあなたが裏切ったら、私は身を引いて二人を祝福するって」
樹の体が強張った。「……詩音、まさか何か誤解してるんじゃ?」
「私が何を誤解してるの?」
「……」
「樹、私を裏切った?」
樹は即座に否定した。「そんなわけないだろ!」
「じゃあ、何をそんなに怯えているの?」
詩音は彼を突き放し、荷造りを再開した。
樹は喉を鳴らして唾を飲み込み、必死に弁解した。「俺は他の女なんて好きになってない。俺が愛してるのは君だけだ。心を取り出して見せてやろうか?」
「それなら、一つ質問に答えてくれる?」
「なんだ?」
「男の人にとって、セックスと愛は別物なの?」
樹はきっぱりと首を横に振った。「他の奴は知らないけど、俺は無理だ。愛のないセックスなんてできない」
「そう」詩音は短く答えた。
「で、この荷物はどうするつもりなんだ?」
詩音は淡々と言った。「もうすぐ結婚するでしょう?この部屋を片付けておけば、お姉ちゃんが使えると思って」
樹はあからさまにほっとした顔をした。「なんだ、そういうことか。確かに結婚したら君の荷物は全部俺の家に移すことになるしな。明日業者を呼ぼう、全部俺の家に運ばせるよ」
「いいえ、必要ないわ。これらの服はもう古いし、全部慈善団体に寄付することにしたの」
樹は目を細め、優しく言った。「うちの詩音は本当に優しいな。いいよ、これからは俺が新しい服をいくらでも買ってやる。好きなものを好きなだけ買えばいい」
これからなんて、もうない。
服を買う必要もない。
基地では支給される制服を着て過ごすのだから、私服なんて必要ないのだ。
ふと、樹の視線が詩音の手首に留まった。
彼は詩音の手を掴み、裏返して驚きの声を上げた。「詩音、手首のタトゥーは?」
「消したわ」
「どうして!?あれは俺たちの愛の証じゃないか!」
タトゥーごときが、どうして愛の証になるというのか。
それはただ、当時の自分がどれほど愚かだったかという証にしかならない。
「一生一緒だ」なんていう戯言を信じていた、若気の至りの傷跡だ。
「ウェディングドレスを着る時に、手首にタトゥーがあると見栄えが悪いから」
樹は納得して頷いた。「そうか。確かに女の子だし、一番完璧な姿でドレスを着たいよな」
詩音はさりげなく彼の手から自分の手を引き抜いた。「もう遅いわ、早く帰って休んで」
「ああ、分かった。君も片付けが終わったら早く寝るんだよ」
「ええ、分かったわ」
樹はドアノブに手をかけ、出て行こうとした。
だが、ふと足を止めた。
「何か?」
樹が振り返る。その瞳には、疑念の色が濃く浮かんでいた。「詩音。君がこの前、急に店からいなくなったのは、タトゥーを消しに行ってたからなのか?」
「ええ、そうよ」
「……君が出て行った時、補聴器をつけてなかったはずだ。どうやってタトゥースタジオの店主と会話したんだ?」
「……」
「詩音、まさか君……耳が聞こえるようになったのか?」
第7話
詩音は顔色一つ変えずに答えた。「私は二十年以上も耳が聞こえないのよ。どうして急に聞こえるようになるの?」
「じゃあ、どうやって一人でタトゥーを消したんだ?」
「お店の壁に料金表が貼ってあったからよ。『タトゥー除去』の文字を指差したら、店主が頷いたの。あとはお金を払って施術を受けただけ。会話なんて一言もしてないわ」
樹は少し考え込み、やがて納得したように頷いた。
確かに以前、二人でタトゥーを入れに行った時も、店には大きな料金表が貼ってあった。デザインの大きさや複雑さ、除去費用まで一目瞭然だったはずだ。
指差しだけで注文は可能だ。
それに詩音の言う通り、二十年来の聴覚障害が、何の前触れもなく突然治るなんてことはあり得ない。
樹の胸から疑念の重石が取れた。
彼は機嫌を直し、笑顔で提案した。「そうだ、詩音。結婚式までの残り一週間、あえて会わないようにしないか?『会えない時間が愛を育てる』って言うだろう。寂しさを募らせておいて、久しぶりに顔を合わせるのがバージンロードの上なんて、最高にドラマチックじゃないか。当日は最高に格好良く迎えに行くから」
詩音にとっても好都合だった。
この家を出て行く準備をするのに、彼にうろつかれては邪魔になる。
もっとも、この「古い言い伝え」を持ち出したのは、十中八九、姉の玲奈の差し金だろうけれど。
案の定、樹が帰った直後に玲奈からLINEが届いた。
今回は画像だ。
拡大してみると、それは産婦人科のエコー写真だった。
診断書には【妊娠十週・発育順調】の文字。
【樹との赤ちゃんができちゃった。彼、お祝いにハワイへ連れて行ってくれるって】
【どっちに似るかな?樹に似ればいいけど、私に似たらあんたにも似ちゃうから最悪よね。ほんと不吉だわ】
【どうしよう、また私の『勝ち』が決まっちゃったみたい】
詩音は動じることなく、一言だけ返信した。
【お姉ちゃんは結婚式に来てくれるの?】
返信はすぐに来た。
【当たり前でしょ。今の樹は私と一時も離れたくないんだから。あんたとの結婚式でも、私のことは一番目立つ席に座らせてくれるはずよ。彼は片時も私を離したがらない人なの】
【なら、よかった】
あなたが会場に来てくれさえすればいい。
私が用意した特大の舞台装置を、一番いい席で見届けてもらえるのだから。
結婚式まで、あと三日――
詩音はNPO法人のスタッフを呼び、自分の衣服をすべて貧困地域への支援物資として寄付した。
寄付できない細々とした日用品や思い出の品は、ゴミ処理場へ持ち込み、金を払って跡形もなく焼却処分してもらった。
結婚式まで、あと二日――
指定していた「荷物」が届いた。
司令官に頼んでおいた、詩音と瓜二つの外見を持つ身代わり用ロボットだ。
詩音は手際よくロボットを起動し、ある特定のプログラムをインストールした。
【指令:明日の結婚式、会場が満席になった時点で、スクリーンに藤堂樹と江原玲奈の不貞動画を再生すること】
設定を終えると、ロボットにウェディングドレスを着せた。
さらに、ネット掲示板で募集した「ブライズメイド」たちに高額の報酬を前払いし、明日の式でロボットの花嫁をサポートするよう手配した。
これで準備は整った。
明日の会場がどんな地獄絵図になるのか、想像するだけで胸がすく思いだ。
結婚式まで、あと一日――
今日は、基地からの迎えが来る日だ。
詩音は久しぶりに熟睡し、清々しい気分で目覚めた。
約束の時間より早めに空港へ向かい、待機している間に最後の身辺整理を行う。
SNSのアカウント、メールアドレス、連絡先。
ネット上に存在する「江原詩音」という人間に関するすべてのデータを、完全に削除した。
これで、この世から江原詩音という人間はいなくなった。
午後9時。司令官から着信が入った。
「江原、迎えの機体が到着した。第五滑走路へ急げ」
「了解です!」
夜の闇に紛れるように、第五滑走路には一台の小型ヘリコプターが駐機していた。
機体のそばに立つ人影に向かって、詩音は敬礼した。「司令官!江原詩音、ただいま到着しました」
司令官は厳格な眼差しで彼女を見つめ、告げた。「今日から、江原詩音という名は捨ててもらう。君の新しいコードネームは『リリィ』だ」
詩音は眉をひそめた。「司令官。コードネームの変更を希望します」
「理由は?」
「百合の花は嫌いです」
「……ならば、君のコードネームは『アイリス』とする」
「了解です!」
司令官はニヤリと笑い、機体を指し示した。「搭乗する前に、あと3分だけ時間をやろう。今ならまだ引き返せる。このヘリに乗れば二度と戻れない。後悔しないよう、自分で選べ」
言い終わるが早いか、司令官は身を翻して機内へと乗り込んだ。
だが、彼が席に着くよりも早く、背後から凛とした声が響いた。「報告します!アイリス、搭乗準備完了!いつでも出発できます!」
漆黒の闇の中、黒塗りのヘリコプターが轟音と共に浮上し、彼方へと飛び去った。