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遅れてきた春と、開けないままの手紙
その日、中絶手術を受けた葛城優里(かつらぎ ゆり)なのだが、手術が終わっても夫である葛城純一(かつらぎ じゅんいち)は姿を見せなかった。...
Chương (1)
第1章
その日、中絶手術を受けた葛城優里(かつらぎ ゆり)なのだが、手術が終わっても夫である葛城純一(かつらぎ じゅんいち)は姿を見せなかった。
優里はベッドに横たわったまま、スマホを見たが純一からの連絡はない。ちょうど彼にどういうことか聞いてみようと思った、その時だった。ネット記事のタイトルが、ふと目に飛び込んできたのだ。
【男の愛にも、差別はあるものなのか?】
その記事で、1万以上の「いいね」がついてトップに上がってきたコメントは、衝撃的な内容だった。
【もちろんよ。私の彼は私のことも、彼の妻のことも愛してる。でも、その愛情の深さは、ぜんぜん違うの】
このコメントには、非難する内容の返信がたくさんついていた。
けれど、コメント主はまったく気にしていない様子で、非難に勝ち誇ったように返信していた。
【去年、私が病気になった時、彼は、私を心配して付きっ切りで看病してくれたの。そのせいで彼は帰ってから何日も高熱を出してたわ。まあ、結局彼を看病したのは彼の妻みたいだけどね。
それに何より、私が、『私たちの子どもに会社を継がせたい』って言ったら、彼はすぐにあの女の子どもをおろさせたのよ】
第1話
その日、中絶手術を受けた葛城優里(かつらぎ ゆり)なのだが、手術が終わっても夫である葛城純一(かつらぎ じゅんいち)は姿を見せなかった。
優里はベッドに横たわったまま、スマホを見たが純一からの連絡はない。ちょうど彼にどういうことか聞いてみようと思った、その時だった。ネット記事のタイトルが、ふと目に飛び込んできたのだ。
【男の愛にも、差別はあるものなのか?】
その記事で、1万以上の「いいね」がついてトップに上がってきたコメントは、衝撃的な内容だった。
【もちろんよ。私の彼は私のことも、彼の妻のことも愛してる。でも、その愛情の深さは、ぜんぜん違うの】
このコメントには、非難する内容の返信がたくさんついていた。
けれど、コメント主はまったく気にしていない様子で、非難に勝ち誇ったように返信していた。
【いつも祝日や記念日にはそばにいてくれて、私が欲しいものはいくら高くても、真っ先に買ってくれるの。
去年、私が病気になった時、彼は、私を心配して付きっ切りで看病してくれたの。そのせいで彼は帰ってから何日も高熱を出してたわ。まあ、結局彼を看病したのは彼の妻みたいだけどね。
それに何より、私が、『私たちの子どもに会社を継がせたい』って言ったら、彼はすぐにあの女の子どもをおろさせたのよ。
ウケるよね……彼ったらわざわざ妻が流産するようにいろいろ目論んだらしい。それで彼の妻は、お腹の子に問題があるんだって本気で思い込んでたみたいよ。
まあ、当然だけどね。あの女は彼と同じくらいの年でしょ?昔、彼が会社を立ち上げた時は一緒に苦労したみたいだけど、もう若くないし。20代前半の私と比べられるわけないじゃない?】
この返信には、ツーショット写真が添えられていた。
鏡に映った姿を撮ったもので、二人の顔は見えなかった。
ただ、男性は上半身裸で、彼の前にはキャミソール姿の女性が立っていて、その日に焼けた肌と引き締まった筋肉で、前に立つ女性の華奢で白い肌が一層際立って見えた。
写真の中で男性は女性の腰を抱き寄せていて、なんとも艶めかしい姿が写っていたのだった。
【ね?ベッドの中でも外でも、彼にお似合いなのは私だけでしょ】
これにはネット上の非難が一層激しくなった。でも、優里だけは、スマホを握りつぶしてしまいそうな勢いで、そのツーショット写真を食い入るように見つめていた。
この男は……
左肩にははっきりと歯形が残っている。それは、純一の肩にあるものとまったく同じだった。
見間違えるはずがない。だってそれは、3年前、彼女自身がつけたものだから。
コメント欄は非難の嵐だったが、コメント主に羞恥心などまるでないようだった。
【私は自分が悪いとは思わないな。だって、先に声をかけてきたのは彼のほうだし。それに、彼はもう自分の妻のことなんて大して愛してもいないのに、贅沢な暮らしはさせてあげてるんでしょ?それだけでも十分じゃない?
そういえば3年前も、彼の妻は一度流産してるらしい。ちょうどその時が、私と彼の出会い。彼は火傷した私の手を手当てしてくれていて、彼女からの電話に出なかったの。それで病院に行くのが遅れて、赤ちゃんはダメになっちゃったんだって。
今と同じ。あの女が一人で病院で中絶してる間に、彼は私と一緒にいてくれてたの。
これが、男にとっての『好き』と『愛している』の違いってわけ】
この書き込みは、たった2分前のものだった。
それを見た優里は全身の血の気が引くのを感じ、もうそれ以上は読んでいられなかった。
スマホを閉じると、彼女はこの2週間の出来事が頭の中を駆け巡った。それは、あの女の書き込みと、すべてが一致していたのだった。
2週間前、純一はつわりがひどい優里を気遣い、わざわざ栄養がつくからと言っていろいろサプリを買ってくれていた。
おかげで、たしかにつわりは治まったが、それと同時に不正出血が始まったのだ。
何度も検査をしたが、医師からは、「少し不安定だけど、大きな問題はないから安静にしていれば大丈夫です」としか言われなかった。
しかし、出血はどんどんひどくなり、その回数も増えていった。
体を心配して、純一は悲痛な面持ちで優里を抱きしめた。「優里、この子は、諦めないか?先生にも相談したんだ。こういう場合、赤ちゃんに何か問題があることが多いらしい。お前の体が回復したら、また元気な子を産めばいい」
そう言われ優里は彼を疑うこともなく、自分の体に問題が起きたのだと信じていた。だから、中絶することに同意したのだ。
しかし手術の直前になって、純一は、「会社で急用ができたから、少し遅れて行く」と言ってきた。まさか……
他の女と一緒にいたなんて。
それに、3年前のあの子も……
あの時、純一がすぐに駆けつけてくれていたら、あの子は助かったはずなのに。
あれは二人にとって、初めての子供だったのに。
そう思って優里は手のひらを強くつねり、無理やり冷静さを保った。そして、純一に電話をかけた。
電話はすぐにつながったが、電話口で純一の息は少し乱れていた。「……優里、手術は終わったのか?」
優里は、「うん」と返事をした。「あなたはまだ仕事中?」
「ああ、まだ会社だよ」
そう言って純一は少し間を置いてから、優しく続けた。「もうすぐ終わるから。病室で少し休んでな。後で何か美味しいもの、持っていくから」
以前の優里なら、純一の優しい言葉を聞いて、それだけで舞い上がってしまいただろう。
でも、今は違う……彼女は冷たい表情で、「わかった」とだけ答え、電話を切った。
そして点滴が終わるのも待たず、優里は針を引き抜くと、タクシーに乗り込んで会社へと向かった。
会社では社員たちはそれぞれの持ち場で忙しく働いていて、彼女の存在に気づく者はいなかった。優里はふらつく体に鞭を打ち、社長室へとまっすぐ向かった。
すると純一の秘書の松尾颯太(まつお そうた)がドアの前に立っていた。彼女の姿を見ると、明らかにぎょっとした顔になった。
「奥様、どうされましたか?」
「純一はどこ?」
「社長は、その……」
彼の泳いでいる視線と、歯切れの悪い口ぶりから、明らかに何かを隠しているのは目に見えていた。
すると、優里は閉ざされたドアに冷たい視線を送った。「中にいないの?なら、入るのはやめておくわ。代わりに、あなたが企画部から書類を一部持ってきてちょうだい。ここで待ってるから」
「奥様……」
「急いでるの。今すぐよ!」
普段の優里は穏やかだが、本気になるとその迫力は誰にも劣らなかった。
そう言われ颯太は戸惑いながらも、頷くしかなかった。「かしこまりました。すぐに行ってまいります」
そして颯太が去った後、優里が目の前の固く閉ざされたドアを見つめながら、その瞳は、次第に赤く潤んでいた。
その瞬間、様々な思いが胸をよぎったが、彼女は迷った末、結局ドアを開けたのだった――
第2話
オフィスには誰もいなかった。ほっとすべきか、呆れるべきか、優里の心は痺れきったかのように、なんの感情も湧かなかった。
見回すと、純一のデスクはいつも通り綺麗に片付いていた。そして、デスクの上には、去年海外旅行に行った時の二人の写真が飾ってあった。
優里はゆっくりと奥へ進んだ。部屋の中を見回す視線が、やがてトイレのドアで止まった。
ドアは閉まっていたが、中からかすかな声が漏れ聞こえてきた。
それは甘えたようでありながら、得意げな女の笑い声だった。
優里は一歩、また一歩とドアに近づいていく。やがて、中の会話がはっきりと聞こえるようになった。
「で、優里さんってほんとにおバカさんね。まんまと信じちゃったの?」そう言う若くて、甘ったるい媚びるような声がそこから漏れて聞こえた。「少しは疑うかと思ったけど」
「あいつは、いつも俺を信じているからな」
続いて聞こえてきたのは、慣れ親しんだ純一の低く、魅力的な声だった。
「付き合い始めた時から、あいつは一度も俺を疑ったことがない」
「それはあなたの演技が上手だからよ」
女は笑った。「でも正直な話、いつ彼女に本当のことを言うつもり?私、いつまでも日陰の女でいるのは嫌よ」
「焦るなよ」純一の声は、優しくなだめるようでありながら、有無を言わさない響きがあった。「まだその時じゃないんだ。会社は今、大事なプロジェクトをいくつか抱えてる。あいつは株主だから、下手に離婚すれば会社のイメージや株価に影響する」
「結局、あなたは自分の利益が惜しいだけでしょ」
「これも、全部俺たちの将来のためだろ?」
そう言って、純一の声はさらに和らいだ。「あいつの体がもう少し回復したら、ゆっくり話をする。心配するな。お前との約束を、俺が破ったことがあるか?」
「それはそうね」女はくすくす笑い、急に色っぽい声になった。「あなたもひどい人よね……優里さんは今頃、病院で一人ぼっち。可哀想にあなたを待ってるのに、あなたはここで……あっ、やだ、やめてったら」
男は低く笑った。「お前がしがみついてくるからだろ?わざとやってるくせに」
「そんなことないもん。ただ……こうしていると、なんだか秘密の恋人みたいで、すごくドキドキするなって」
「お前も物好きだな」
そして、衣擦れの音が続いた。
女の忍び笑いと、男の次第に荒くなる息遣いが混じり合う中、優里の顔から血の気が引いた。
爪を掌に食い込ませながら、彼女は見えない手に心臓を鷲掴みにされたようで、息をするたびに鋭い痛みが走った。
けれど不思議なことに、涙は一粒も出なかった。
怒り、悲しみ、裏切り、あらゆる感情が、この瞬間、凍りついたかのようだった。
頭の中は異常なほど冴えわたり、トイレのドアの木目の一つ一つまで数えられそうだった。
こうして優里はぼうっとしたまま振り返り、一歩、また一歩と部屋を後にした。
その間彼女は物音ひとつ、立てなかった。
そして背後でオフィスのドアが静かに閉まり、中の耳を覆いたくなるようなすべてを遮断したかのようだった。
それからエレベーターホールまで来ると、優里はスマホを取り出し、秘書の安藤葵(あんどう あおい)に電話をかけ、かすれた声で言った。「安藤さん、腕のいい弁護士を探して。離婚協議書を作ってもらって」
「今、ですか?」
すると自分でも驚くほど落ち着いた声で、優里は答えた。「ええ、今すぐお願い。
財産分与は法律で定められた通りに。多くは望まないけど、1円だって少なく受け取るつもりはないわ。できたら直接私に持ってきて。純一には知らせないで」
こうして電話を切ると、彼女はエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの金属製のドアが閉まると、そこには一人の女の顔が映っていた――
血の気なくやつれてはいるが、その瞳には、今までにない冷たい光が宿っていた。
……
そして、夕方になって、純一はようやく病室に姿を現した。
大きなピンクのバラの花束を抱え、もう片方の手にはしゃれた重箱を提げていた彼の顔には、心配と疲労の色が絶妙に浮かんでいた。
「優里、待たせたな」
純一は手慣れた様子で、持ってきた花を花瓶に生けた。
「会社で急用ができてしまってな。どうしても手が離せなかったんだ」
優里はベッドに体を起こしたまま、静かに彼の芝居を眺めていた。
「頼まれていた書類だ」純一はカバンからファイルを取り出し、ベッドサイドのテーブルにそっと置いた。「電話してくれれば、俺が持ってきたのに。わざわざお前が来る必要なかっただろう?先生もおとなしくしてろって言ってたはずだ。無茶するなよ」
彼の優しい瞳は心配の色で満ちている。もし、あの会話をこの耳で聞いていなければ、優里はまたその優しさに溺れてしまうところだった。
「ちょっと息抜きがしたかっただけ」優里は抑揚のない、静かな声で言った。
何かを察したのか、純一が顔を近づけてくる。彼女の頬に触れようと手を伸ばしながら、尋ねた。「どうした?手術、大変だったか?痛むのか?」
だが、優里は顔をそむけて彼の手を避けた。「大丈夫」
そのわずかな仕草に、純一はきょとんとした。
しかし、彼はすぐに表情を戻すと重箱を開いた。「ここの料理長にお前の好物を作らせたんだ。鯛の塩焼きと茶碗蒸し、それから特製のお雑炊だ。さあ、温かいうちに食べろ」
すると料理の香りがふわりと広がり、そのどれも文句のつけようがないほど、手が込んでいるように見えた。
優里は箸を手に取ると、機械的に一口、また一口と口に運んだ。
料理は美味しいはずなのに、彼女は味気なく感じていた。
「ゆっくり食べろよ」
純一はベッドのそばに腰掛け、愛おしそうに優しい眼差しを向けた。「退院したら旅行に行こうか。お前はずっと雪山を見たいって言ってたろ?元気になったら、すぐに行こう」
そう言われ、優里は顔を上げ、純一の目を見つめた。
見慣れたその瞳の中に、偽りの綻びを見つけようとした。しかし、どこにもない。彼の演技は完璧で、些細な表情の一つまで、非の打ちどころがなかった。
「純一」
優里は不意に口を開いた。「私たち、ずいぶん一緒に散歩してないわね」
楽しかった昔の記憶が、あまりに鮮やかすぎるからだろう、もうすぐ終わってしまうとわかっていても、彼女は思い出さずにはいられなかった。
純一は一瞬きょとんとして、それから笑顔で言った。「そうだな、最近忙しかったからな。お前が元気になったら、毎日散歩しよう。な?」
「今すぐは?」優里は箸を置いた。「外を歩きたいの。この病院の庭でいいから。付き合ってくれる?」
そう言われ純一は腕時計に目をやり、気づかれないほどわずかに眉をひそめた。しかし、すぐにその表情を消した。「もちろんいいさ。でも、ちゃんと暖かい格好をしないと。外は少し冷えるからな」
そう言って純一は立ち上がると、クローゼットから優里の上着を取り出し、自ら広げてみせた。
そして、彼女に着せてやった。
さらに、床にかがみこんで、靴まで履かせてあげた。
そのすべてが、あまりに自然で、思いやりに満ちていた。まるで、本当に非の打ちどころのない夫であるかのように。
一方うつむいた純一の横顔を見つめていると、優里の胸の奥が鈍く痛んだ。
まだ起業したばかりで、狭いアパートに住んでいた頃を思い出すと、自分が39度の熱を出した時も、純一はこうしてベッドのそばにかがみこんで靴を履かせてくれた。そして、病院までの2キロの道のりを、ずっとおぶって歩いてくれたのだ。
あの頃の彼の瞳には、自分しか映っていなかった。
靴を履かせ終え、純一が優里を支え起こそうとした、その時。突然、彼のスマホが鳴った。
純一はスマホを取り出して画面を一瞥すると、その表情が瞬時に変わった。
そこには、優里が今まで一度も見たことのない、焦りと緊張が浮かんでいた。
「ちょっと、電話に出てくる」
純一は優里の手を放すと、足早に窓際へ向かった。そして彼女に背を向け、声をひそめて話し始めた。「もしもし……ああ、わかってる。すぐに行くから……落ち着いて」
第3話
片や優里は、黙って純一の後ろ姿を見つめていた。窓の外は日が落ちかけていて、夕暮れの光が彼の輪郭を金色に縁取る。それなのに、純一の姿はなぜか、どんどん知らない人のように見えてくるのだった。
電話は1分もかからずに終わった。
純一は振り返ると、申し訳なさそうに困った顔をしていた。
「優里、すまない。会社で急用ができてしまった。取引先の担当者が急にフライトを変更して、今夜会わないといけなくなったんだ。家の使用人に来てもらうように頼んでおくから、それでもいいかな?」
優里はすぐには返事をしなかった。
彼女は純一の目を見て、かすかな声で尋ねた。「行かなきゃだめなの?」
純一は、引き留められるとは思っていなかったのか、一瞬、表情をこわばらせた。「この提携は……本当に大事なんだ。下半期の大きな契約がいくつか、これにかかってる」
「私よりも大事なの?」
優里は、落ち着いた声で、そう重ねて聞いた。
すると純一はそばに歩み寄ると、優里の顔を両手で包み込み、額にキスをした。「バカだな。もちろん、お前が一番大事に決まってるだろ。でも仕事で稼がないと、お前にいい暮らしをさせてやれないだろ?だから、わかってくれよ。話が終わったら、どんなに遅くなっても必ず戻ってくるから」
優里は、潤んで赤くなった目で純一を見つめると、彼の手を掴んだ。
「もし私が、今日はどうしても、ここにいてほしいって言ったら、どうする?」
純一は掴まれた自分の手に目を落とした。そして、優しく、しかし有無を言わせぬ強さでその手を振り払った。「優里、困らせないでくれ。本当に行かないといけないんだ。ゆっくり休んでて。明日の朝一番で、また来るから」
そう言って彼は財布からクレジットカードを一枚抜き取って、ベッドサイドのテーブルに置いた。「欲しいものがあったら、これで何でも買うといい。遠慮はいらないから……じゃあ、行ってくる」
病室のドアの前まで来ると、純一はもう一度振り返った。
そして、優里に優しい笑顔を向けて、「愛してるよ」とつぶやいた。
だが、ドアが閉まった瞬間、二人はまるで二つの世界が完全に隔てられてしまったかのようだった。
優里はベッドの縁に座ったまま、身じろぎ一つしなかった。
窓の外はすっかり暗くなっていた。病室の明かりは消えていて、医療機器のランプだけが、かすかな赤い光を放っていた。
しばらくして、優里はスマホを手に取り、メールの受信ボックスを開いた。
そこには、一通のメールが静かに届いていた。添付ファイルの名前は、【離婚協議書――葛城優里・葛城純一】と、ごくシンプルだった。
優里はそのファイルを開くことなく、ただファイル名をじっと見つめていた。
それから、彼女は別の番号に電話をかけた。
「ある人を調べてほしいの。その人に関する情報を、全部」
1週間後、優里は退院して家に戻った。
純一が自ら迎えに来て、帰り道もずっと優しく、体調を気遣ってくれた。
そして、家の前に車が停まると、純一は助手席側に回り込み、ドアを開けて優里を支えようと手を差し伸べた。
しかし、優里はその手を避けるように、自分で車から降りた。
純一の手は宙で一瞬止まったが、彼は何も言わなかった。ただ笑顔で優里の後ろをついて歩きながら、「食事をもう用意させてあるから、栄養をつけてね」と言った。
だが、優里は何も答えず、目の前に建つ邸宅を、ただ複雑な思いを込めた目で見つめた。
その見慣れた家はこれまでと変わらず、同じ我が家のはず。
内装も、家具や飾ってある絵も、すべて彼女が一つ一つこだわって選んだものだった。
なのに、今日この家に入ると、優里は今まで感じたことのない違和感を覚えた。
空気に、知らない香水の香りが混じっている。彼女のものではない、甘い香りだ。
リビングのテーブルにはファッション雑誌が置かれていた。開かれたページには、ある高級ブランドの新作バッグが載っていて、ページの角が折られている。その横には口紅でハートマークが描かれていた。
優里はそんな些細な変化を見逃さなかったが、表情には一切出さなかった。
「先に休んでて。俺は書斎で少し仕事をしてくる」
純一は彼女をソファに座らせ、頬に軽くキスをすると、階段を上がっていった。
一方優里はソファに座ったまま、部屋の中をゆっくりと見渡した。
そして、彼女の視線は隅に置かれたゴミ箱に吸い寄せられた――
それはデザイン性の高い革製のゴミ箱で、いつもは書斎に置いているはずなのに、なぜかリビングに移されていた。
優里は立ち上がってゴミ箱に近づき、中を覗き込んだ。
一番上にあったのは、彼女が去年の誕生日に純一へ贈ったプレゼントだった。
それは、手編みしたマフラー。
灰青色のカシミヤの毛糸で、3ヶ月もかけて一目一目、心を込めて編んだものだ。
あの時、純一は優里を抱きしめて、こんなに温かいプレゼントは初めてだと喜んでくれた。「この冬は毎日つけるよ」と、そう言ってくれたのに。
今、そのマフラーはゴミ箱の中に無造作に捨てられていた。端の方には、口紅かジュースのような、赤黒いシミまでついているのだった。
そして、マフラーの下には、使い終わったコンドームの包みがいくつか押し込まれていた。
それを見て優里は、ぐっと目を閉じ、息を深く吸い込んだ。
震える体を必死に抑えながら、彼女は階段を上った。主寝室ではなく、まっすぐ書斎に向かって。
書斎のドアは少しだけ開いていた。中からは、今まで聞いたこともないような優しい声で話す、純一の声が漏れてくる。「いい子だから、拗ねないで。今夜は必ず行くからさ。プレゼントも買ってきたんだ。きっと気に入るよ……」
そんな中優里は、そっとドアを押して開けた。
だが、純一はドアに背を向け、窓際に立っていたから、優里が入ってきたことには全く気づいていないのだ。
彼は電話口で話し続けていた。「あいつ、今日退院したんだ。だから、一応は体裁を整えないとだろ?つらい思いをさせてるよな、ごめん。でも、もう少しだから。な?」
そこまで聞くと優里は音を立てずに部屋を出て、主寝室へと戻った。
すると、彼女のスマホが一度震え、知らない番号からメッセージが届いた。
【優里さん、今日退院されたそうですね。お加減はいかがですか?純一が、あなたは物分かりが良くて、困らせるようなことは絶対しないって、うらやましいですね。私みたいに、いつも彼を困らせちゃう子とは大違いですね】
そのメッセージに続いて、もう一通。
それは、一枚の写真だった――
写真には、眠っている純一の端正な横顔が写っていた。枕元には、女の人のものらしい、茶色い長い髪が散らばっている。そして、ベッドサイドのテーブルには、優里が彼にプレゼントした腕時計が置かれ、冷たく光を放っていた。
第4話
優里はその写真を数秒見つめたあと、何事もなかったかのようにメッセージを削除した。
彼女はカバンからファイルを取り出した。中には弁護士の松井正人(まつい まさと)から送られてきた離婚協議書の最終稿と、探偵に依頼して集めた資料が入っている。
写真の女は野口玲奈(のぐち れな)、25歳のダンス講師。純一とはもう3年も付き合っていた。
玲奈は都心の一等地にあるマンションに住んでいて、その部屋は純一の名義で契約されていた。
この半年間で、純一は彼女の名義で企画会社を設立し、2000万円を出資している。
さらに皮肉なことに、玲奈は現在妊娠12週だった。
優里はこれらの資料をめくりながらも、心は驚くほど穏やかだった。
かつては心をズタズタに引き裂かれたであろう光景や事実も、今ではただただ不快で、鬱陶しくさえ感じるようになっていた。
彼女が望むのは、ただ一日でも早く、すべてを終わらせることだけ。
その日の夕方、純一が珍しく家で夕食をとった。
食事中、純一のスマホが何度も鳴ったが、そのたびに彼は着信を切り、少しイライラした表情を見せていた。
「仕事のこと?」優里はさりげなく尋ねた。
「ああ、ちょっと面倒なことになっててな」純一は彼女の皿に魚を取り分けた。「でも大丈夫、なんとかする。お前はもっと食べろ、痩せすぎだ」
食後、優里はひとつのファイルを差し出した。「そうだ、これにサインしてほしいの」
「何の書類だ?」純一はそれを受け取ると、無造作にページをめくった。
「以前、私が持っている会社の株を信託にしたいって話したでしょ?松井先生が契約書を準備してくれたから、目を通してみて」優里の声は落ち着いていた。「来月から新しい制度が始まるから、早めにサインした方がいいって。そうしないと、手続きが面倒になるらしいわ」
そう言われ純一は眉をひそめて書類に目を通した。たしかに株式信託に関する内容で、複雑な条項と法律用語がびっしりと並んでいる。彼は最後のページをめくり、署名欄にすでに優里の名前が書かれているのを確認した。
「どうしてまた急に?」と純一は尋ねた。
「急じゃないわよ。先月、話したじゃない」
優里はお茶を一口飲んだ。「その時、あなたがいいって言って、私に任せるって言ったわ」
それを聞いて純一は記憶をたどった。たしかに、そんな話があったような気もしたのだ。
あの頃は玲奈を産婦人科に連れて行くので忙しく、仕事すらままならなかった。だから優里が何を言っても、彼は適当に相槌を打つだけだったのだ。
そこで純一は署名欄に目をやり、また前のページに戻ってざっと条項を流し読みしたが、特に問題はなさそうだった。
「ペンを貸してくれ」彼は手を差し出した。
優里は万年筆を一本抜き、純一に手渡した。
それは何年も前に彼女が誕生日プレゼントとして贈ったもので、軸には純一のイニシャルが彫られているのだった。
純一はペンを受け取ると、優里の署名の隣にある空欄に、自分の名前を書き込んだ。
こうして静まり返ったダイニングに、ペン先が紙の上を滑る音だけがやけにはっきりと響いた。
優里は純一が最後の画を書き終えるのを見届けると、書類を受け取って署名を念入りに確認し、ファイルを閉じた。
「ありがとう」と彼女は言った。
その声には、ほっとしたような響きが、かすかに混じっていた。
「こういう細かいことは、今度から松井先生から直接俺に連絡させろ。お前が気を遣うことはないさ」純一は立ち上がり、優里の髪を優しく撫でた。「今夜はちょっと出かける。会社で処理しないといけないことが残ってるんだ」
「わかった」優里は頷いたが、彼の顔は見なかった。
純一は上着を羽織ると、玄関先で振り返った。「先に寝てろよ。待たなくていいから」
それから、優里はダイニングテーブルに座ったまま、しばらく動かなかった。
窓の外はすっかり夜の闇に包まれ、ガラス越しに庭のガーデンライトが柔らかな光を放っているのが見えた。
彼女は立ち上がって書斎に入ると、シュレッダーの電源を入れた。そして、さきほど純一がサインした『株式信託契約書』を一枚ずつ差し込んでいく。紙は細かく裁断され、もう二度と元の形には戻せない破片となった。
それから、彼女はファイルの最も下に挟まっている離婚協議書を取り出した――
そこにはすでに純一の名前が記されている。彼自身、何にサインしたのか分かっていないだろう。
優里はペンを取り、妻の署名欄に、自分の名前を丁寧に書き込んだ。
その文字はきちんとしていて、筆跡は力強く、微塵も歪まなかった。
すべてを終えると、彼女は2階へ上がり、荷造りを始めた。
持っていくものは多くない。数枚の着替え、大切な証明書類、そして思い出の品が少しだけ。
ほとんどの物は新しく買えばいい。この家にあったものは、もう何もいらないから。
すると、荷造りの途中で、スマホが鳴った。
純一からだった。
優里は画面で点滅する名前を見つめたが、電話には出なかった。
着信音は鳴りやんではまた鳴り、それを数度繰り返したあと、ようやく静かになった。
続いてメッセージが届いた。【優里、どうして電話に出ないんだ?今夜は戻れそうにない。心配しないで、先に寝てくれ】
それを見た優里はわけもなく笑みを浮かべ、スマホを置いた。
返信はしなかった。
それから、深夜2時、彼女は小さなスーツケースを引きずりながら、5年住んだこの邸宅をあとにした。
振り返ると、建物は夜の闇の中に静かにそびえ立っていた。かつては我が家だった場所も、今では裏切りと嘘に満ちた監獄のようにしか思えなかった。
タクシーはすでに家の前で待っていた。
運転手が荷物をトランクに入れてくれると。優里は車に乗り込み、空港近くのホテルの名前を告げた。
そして車は発進し、住宅街を離れていった。
優里はバックミラーで、あの邸宅がどんどん小さくなり、やがて角を曲がって見えなくなるのを、ただ見つめていた。
涙は出なかったし、振り返りもしなかった。
スマホが震え、正人からメッセージが届いた。
【葛城さん、協議書は公証役場に提出しました。手続き通りにいけば、約1ヶ月後に審理が終わります。また、野口さんと旦那さんとの間の金の流れについても、詳細なデータが揃っています】
優里は返信した。【ありがとうございます。予定通り進めてください。彼女には1円たりとも残さず返してもらいます。それと、この1ヶ月、面倒は起こしたくありません。特に、純一に居場所を知られることのないようお願いします】
【承知いたしました。手配済みです。ご安心ください】
こうして車は空港高速道路に入り、窓の外を街のネオンが流れていった。
優里は背もたれに寄りかかり、静かに目を閉じた。
純一、さようなら。