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灰燼の先に咲く、私の夏
婚約から七日目、恋人の高橋悠真(たかはし ゆうま)はガンを患う忘れられない人である伊藤美咲(いとう みさき)と結婚すると言い出した。 私...
Chương (1)
第1章
婚約から七日目、恋人の高橋悠真(たかはし ゆうま)はガンを患う忘れられない人である伊藤美咲(いとう みさき)と結婚すると言い出した。
私、浅野夏美(あさの なつみ)が首を縦に振らないでいると、彼は毎日のように私に身を引くよう説得してきた。
結婚式の前日になってようやく、一通の結婚招待状が届いた。
私たちの結婚計画は、新婦をすり替えて予定通りに進められていたことに、私はそこで初めて気がついた。
彼は最初から、私の気持ちなどこれっぽっちも考えていなかったのだ。
この瞬間、彼への思いは完全に冷めきった。
だから私はプロポーズの指輪を投げ捨て、連絡先から彼に関するすべてを完全に消去して一切の繋がりを断った。そして彼の結婚式当日、国際航空プロジェクトへと参加した。
それ以来、二度と会うことはなかった。
第1話
婚約から七日目、恋人の高橋悠真(たかはし ゆうま)はガンを患う忘れられない人である伊藤美咲(いとう みさき)と結婚すると言い出した。
私、浅野夏美(あさの なつみ)が首を縦に振らないでいると、彼は毎日のように私に身を引くよう説得してきた。
結婚式の前日になってようやく、一通の結婚招待状が届いた。
私たちの結婚計画は、新婦をすり替えて予定通りに進められていたことに、私はそこで初めて気がついた。
彼は最初から、私の気持ちなどこれっぽっちも考えていなかったのだ。
この瞬間、彼への思いは完全に冷めきった。
だから私はプロポーズの指輪を投げ捨て、連絡先から彼に関するすべてを完全に消去して一切の繋がりを断った。そして彼の結婚式当日、国際航空プロジェクトへと参加した。
それ以来、二度と会うことはなかった。
……
「何度も言ってるだろ、美咲はガンなんだ。末期なんだよ!
俺が彼女と結婚式を挙げるのは、彼女を喜ばせて、願いを叶えてやりたいからだけだ」
悠真はまたしても、美咲と結婚したいと私に要求してきたが、私は相変わらず首を横に振って同意しなかった。
彼は箸をテーブルに叩きつけ、ひどく失望したような顔で私を見た。
「夏美。どうしてそんな風になっちゃったんだ?」
失望と非難の入り混じった彼の言葉が、すでに傷だらけの私の心に深く突き刺さった。
私は呆然と顔を上げて悠真を見た。私と言い争ったせいで、彼の目にはまだ怒りの色が残っていた。
悠真がここまで感情をあらわにするのを見るのは珍しかった。
私の記憶の中の悠真は、どんなことに対しても冷静で、自制心のある人だった。
父が亡くなった日、途方に暮れる私に寄り添い、葬儀の手配を一緒に手伝ってくれたのは彼だった。
悠真の心の中の悲しみも、私に劣らないくらい深いことは分かっていた。
私の父は彼の恩師だった。彼は心の中でどれほど悲しんでいても、ただ涙を堪えて目を赤くするだけだったのだ。
彼はいつもとても理性的だった。
しかし、そんな彼の理性も、美咲のこととなるとすべて消え失せてしまうのだ。
初めて美咲に会った日のことをふと思い出した。それはとても穏やかな朝で、悠真はキッチンで私のためにみそ汁を作ってくれていた。
彼の幼馴染の高木辰哉(たかぎ たつや)が美咲を連れて私たちの家にやって来た。
美咲を見た瞬間、悠真の顔色は一気に曇った。
「彼女を連れてきて、何をするつもりだ?
お引き取り願いたい。彼女を歓迎する気はないんだ」
悠真のあんなに尖った声を聞いたのは初めてで、私は無意識に物陰に身を隠した。
辰哉は低い声で釈明した。
「そんなにきつい態度とるなよ。みんな長年の友達じゃないか。美咲が昔海外に行ったのも自分を磨くためだったし、悪気があったわけじゃないんだから。
わだかまりがあるなら、ちゃんと言葉にして解決すればいいだろ?恋人に戻るのは無理でも、友人としてならやり直せるはずだ」
悠真の口調は依然として冷ややかだった。
「俺はもう夏美と婚約した身だ。今の俺にとって、美咲は平穏をかき乱す火種でしかない。夏美に余計な誤解をさせたくないし、不安にさせるような真似はしたくないんだ」
私の心は温かくなった。
外に出ようとしたその時、美咲の泣きそうな声が聞こえてきた。
「悠真、ごめんなさい……もうあなたの邪魔はしないわ」
そう言い残し、彼女は背を向けて立ち去った。
辰哉は不満げに彼を責めた。
「その言い方はあんまりだろ!美咲がガンだってこと知ってるのか?末期なんだぞ!
彼女が帰国したのは、残された最後の時間を、お前と一緒に過ごしたかったからだ。お前の心には夏美しかいないだろうけど、美咲はどうなるんだ?あれほど愛し合っていた仲じゃないか!」
辰哉は冷ややかな視線を投げつけ、そのまま立ち去った。
悠真は長い間、キッチンに立ち尽くしていた。
みそ汁は真っ黒に焦げ付き、塩もぶちまけたように入りすぎていた。
しかし彼は何も感じていないようだった。
その日から、悠真は変わってしまった。
美咲はまるで執念深い亡霊のように、私たちの生活に執拗に付きまとって離れなくなった。
私が少しでも不機嫌な態度をとるたびに、悠真はいつも失望したように私を見た。
「夏美、美咲は病気なんだ。
少しでも長く一緒にいてやりたいと思うのは、間違っているのか?」
そして、私の誕生日に、悠真は美咲と一緒に日の出を見に行った。
私たちの記念日には、悠真は美咲と一緒に映画を見に行った。
父の命日でさえ、美咲からの電話一本で、悠真は私を霊園に置き去りにした。
美咲の病状が悪化するにつれ、悠真は生活の拠点を完全に病院へと移し、片時も彼女のそばを離れなくなった。私がこの愛に絶望し、すべてを諦めかけていたその時、悠真は突然私にプロポーズしてきた。
会社のビルの入り口を埋め尽くすほどの、見渡す限りのバラの花。その中心に立ち、悠真は私に優しく微笑みかけた。
「夏美、俺と温かい家庭を築いてくれないか?」
不意に目頭が熱くなった。
悠真の手から花束を受け取り、力強く頷いた。
しかし思いもよらないことに、私たちが婚約してから七日目、悠真は突然私にこう告げた。
「夏美、俺たちの結婚式は一旦延期しよう。美咲と結婚式を挙げると、彼女に約束したんだ」
第2話
「夏美」
悠真が苛立たしげに私を呼んだ。
私は我に返り、悠真の顔に浮かぶ苛立ちを見て、首を横に振った。
「悠真、それは承諾できないわ」
悠真は煩わしそうに髪を掻きむしった。
「夏美、美咲は病気なんだ。もう先が長くないのに、彼女の最後の願いすら叶えてやれないのか?
あの時、美咲がいなかったら……」
悠真の言葉が終わらないうちに、彼のスマホが鳴り出した。
電話の向こうからは、美咲の泣きじゃくる声が漏れ聞こえてくる。
「悠真、注射がすごく痛いの……ねえ、そばにいてくれない?」
悠真の顔から不機嫌な色は一瞬で消え去り、その表情は目に見えて和らいだ。彼は慈しむような声で、優しく美咲をなだめた。
「今すぐ行く。だから、怖がらないで」
私は彼の去っていく後ろ姿を見つめた。
そして、何かに取り憑かれたかのように、その後を追ってしまった。
鼻を突くような消毒液の匂いが漂う病院内で、私は悠真の足跡を追うようにして特別室の前までたどり着いた。ドアの隙間から中を覗き見ると、美咲が悠真の胸に顔を埋めているのが見えた。
美咲のすすり泣く声が、静かな廊下にまで漏れてくる。
「悠真の生活を邪魔しちゃいけないって分かってるわ。あなたはもう、夏美さんの隣で生きていくと決めた人なんだもの……でも、どうしても、自分を抑えきれなくて……
夏美さんに本当に申し訳ないと思ってるの。私のせいで、あなたが彼女と喧嘩することになっちゃったから」
悠真は愛おしそうに美咲の髪を撫でた。
「美咲、大丈夫だ。謝る必要なんてない。むしろ彼女が君に感謝すべきだよ。君があの時、いなくなっていなければ、彼女にプロポーズするつもりなんてなかったんだから」
美咲はさらに哀しげに泣き声を上げ、悠真の袖をぎゅっと掴んだ。
「後悔してるの。悠真、私って本当に最低な女ね。夏美さんがあなたの妻になるなんて、嫉妬で狂いそうになるの。
でもね悠真、夏美さんは何も悪くないわ。だから、もう私のことは放っておいて。あなたと結婚したいだなんて、所詮は分不相応な、ただの叶わぬ夢なんだから」
美咲がそう言い終わるか終わらないかのうちに、悠真は彼女を強く抱きしめた。
「夏美なら、きっと分かってくれる」
彼は一呼吸置いて、静かに付け加えた。
「……それに、それは俺にとってもずっと追いかけていた夢なんだ」
脈絡のない言葉だったが、私にはその意味が痛いほど分かったし、美咲も理解していた。
彼女は顔を上げ、涙を溜めた瞳で悠真を見つめると、その唇にそっと口づけを落とした。
「私、もうすぐ死ぬの……今だけは、わがままを許して」
悠真は彼女の後頭部を引き寄せ、そのキスをより深く、激しいものへと変えた。
胸が締め付けられ、息をすることさえ苦しい。美咲が現れるまで、私は彼からの愛を疑ったことなど一度もなかった。
理系人間の悠真は、一日の大半を研究室で過ごすような男で、気の利いたロマンチックな演出などとは無縁だった。
それでも彼は、私がマンゴーアレルギーであることを覚えていてくれたし、雷が怖いことも知っていてくれた。魚を食べる時は、いつも一番柔らかいお腹の身を私の皿に取り分けてくれた。
私が病に倒れた時は、寝る間も惜しんでずっとそばに寄り添ってくれた。
いつか、なんてことない平穏な朝に、彼が淡々とした口調で「夏美、そろそろ籍を入れに行こうか」と言ってくれるものだとばかり思っていた。
まさか悠真が、あんなに盛大なプロポーズをしてくれるとは思ってもみなかったのだ。
その喜びにすっかり舞い上がっていた私は、多くの細かな違和感を見落としていた。
私はバラが好きではないこと。
婚約指輪のサイズも、私の指には全く合っていなかったこと。
どうやって家に帰り着いたのか、記憶さえおぼつかない。
ローテーブルの上には、一通の招待状がひっそりと置かれていた。また悠真と口論になる直前にプランナーから届いたもので、まだ中を確認する余裕もなかったのだ。
明日は、私たちの結婚式だというのに。
それでも彼は、美咲の願いを叶えるために私に身を引かせることを諦めていなかった。
それどころか、今この瞬間も、彼は美咲のそばに寄り添っている。
頬は濡れていた。私は麻痺したように涙を拭い、招待状を手に取って開いた。
新郎――高橋悠真。
けれど、新婦の名前の欄には、あろうことか美咲の名前が記されていた。
手の中で羽を広げた蝶のような美しい招待状。それは、私が心を込めてデザインしたものだ。
記された式場も、私が悩み抜いて選んだ場所だ。
そしてこの結婚式は、私が悠真と付き合い始めてからずっと企画してきたものだった。
なのに、主役は私ではなかった。
第3話
悠真が帰宅したとき、私は彼と美咲の名前が記された結婚招待状を、そっとローテーブルの上に戻しておいた。
ソファーに呆然と座り込んでいる私を見て、彼の瞳に一瞬だけ罪悪感がよぎった。そして私に近づき、手を伸ばして抱き寄せ、キスをしようとしてきた。
彼の体から消毒液の匂いだけでなく、甘ったるい薔薇の香水の匂いが漂ってきた。今日、病院で彼と美咲が情熱的に唇を交わしていた光景が脳裏に蘇り、ふいに激しい吐き気を覚えて、私は慌てて彼を突き飛ばした。
悠真の顔は途端に険しくなった。
「また始まったのか。いい加減にしてくれよ。
夏美、こっちは病院から帰ってきたばかりでひどく疲れてるんだ。わがままを言うのも大概にしろ」
行き場のない悲しみが胸を押し潰しそうで、呼吸をすることさえままならない。
そのあまりの息苦しさに、目頭が熱く焼けるようだった。
悠真はため息をつき、それ以上は何も言わなかった。
彼は書斎に長い間こもっていた。私はいつもなら、彼のためにみそ汁を作って届けていたが、その夜はそんな気にもなれず、ただベッドで固く丸まっていた。
翌朝、目が覚めると、悠真がコップ一杯のぬるま湯を運んできた。その口調は、何事もなかったかのように穏やかだった。
「君がどうしても嫌だと言うなら、この話はもうおしまいだ。ほら、温かいものでも飲んでシャキッとしなよ」
私は少し驚いた。
あの招待状にはもう美咲の名前が記されていたというのに、彼は彼女と結婚するのを諦めたのだろうか。
冷え切っていたはずの胸の奥に、ふと、場違いな期待が芽生えてしまった。
しかしその微かな期待は、私がぬるま湯を飲み、耐え難い睡魔に襲われた瞬間に跡形もなく消え去った。
悠真は水に細工をしていたのだ。
完全に意識を失う直前、悠真が私を抱き上げ、いたわるようにベッドへ横たえるのを感じた。
私の頬を伝う涙に気づいた彼は、それを丁寧に拭い去り、唇に軽くキスを落とすとため息をついた。
「夏美、君なら分かってくれるはずだ。この先……必ず君に償うから」
私はそのまま、深い闇の底へと沈んでいった。
鼻を突く焦げ臭い匂いで、ようやく朦朧とした意識が戻った。
炎の海はすでにキッチン全体に広がっていた。私は力が入らない体を必死に支え、水でずぶ濡れにした布団を被ると、鉛のように重い足を引きずり、ふらふらと部屋のドアへと向かった。
ドアノブを回す。
――開かない。
火災の熱のせいで、ドアノブはかなり熱くなっていた。
しかし、私の心は氷のように冷え切っていた。絶望と苦痛が、胸の内で狂ったように暴れ回っている。
悠真は、ドアを外から施錠していた。
心臓を締め付けるような痛みがじわじわと広がり、やがてそれは、完全な死の静寂へと変わった。
火の勢いは凄まじく、意識は遠のいていく。私はついに力尽き、その場に崩れ落ちた。サイレンの音、人々の悲鳴――そのすべてが真っ赤な炎の海に飲み込まれ、私の耳にはただ、パチパチと無情に燃え盛る火の音だけが響いていた。
第4話
悠真は突如として胸を締め付けられるような痛みを覚え、強烈な不安が波のように押し寄せてきた。
「どうしたの、悠真?」
耳元で美咲の甘く柔らかな声が響き、彼は彼女へと視線を向けた。
美咲の瞳には満足げな喜びが溢れ、その口角は幸せそうに上がっている。
本来なら、悠真は有頂天になるほど嬉しいはずだった。美咲は彼にとって忘れられない人であり、若い頃から想い続けてきた女性だ。あの頃、二人はもう少しで結ばれるところだった。
だが、美咲は何も告げずに海外へ発ってしまった。
友人たちは皆、彼女が金持ちの御曹司と駆け落ちしたのだと噂した。だから悠真も彼女を憎んだことがあったし、美咲への当てつけとして、恩師の娘である夏美と付き合い始めたほどだ。
夏美と一緒に過ごす日々は、ひどく気楽なものだった。
毎日美咲の機嫌をとるように夏美をなだめる必要はなく、夏美はとても素直で、聞き分けが良かった。
彼はもう過去を吹っ切れたと思い込んでいた。しかし、美咲が再び目の前に現れたその瞬間。
彼女が末期ガンだと泣きながら訴えかけてきたその瞬間。
彼の理性は、跡形もなく吹き飛んでしまった。
この結婚式もそうだ。
これは美咲の夢であるだけでなく、彼自身の長年の夢でもあったのだ。
それでも、胸のざわつきはますます激しくなっていく。悠真は自分を納得させるように心の中で繰り返した。
大丈夫だ。夏美はあんなにも俺を愛しているんだから。きっと、今回も許してくれるはずだ――と。
結婚式が終わると、美咲は柔らかい手で彼を握り、柳のようにか弱い体を彼の胸に預けた。
悠真は彼女の頭を撫で、優しい声で言った。
「美咲、夏美がまだ家に閉じ込められているんだ。もう目を覚ましている頃だろうから、一度帰らなきゃいけない。彼女の機嫌をとってくるよ」
美咲は胸を押さえた。
「悠真、お願い……そばにいて。なんだか、すごく苦しいの……」
彼女は縋り付くように、悠真の手を離そうとしなかった。
ウェディングドレス姿の美咲を見つめていると、悠真の脳裏にふと、夏美がこのドレスをデザインした時の喜びに満ちた笑顔がよぎった。
だが、美咲の少し青ざめた顔色を見ると、彼はやはり彼女に付き添ってホテルに戻ることにした。美咲がシャワーを浴びている間、彼はスマホを取り出し、友人にメッセージを送った。
【あのウェディングドレスのデザイナーに連絡を取ってくれないか。夏美のために、彼女だけのウェディングドレスをデザインしてやりたいんだ】
友人から返信が来た時、美咲は彼にまとわりつき、一緒にお酒を飲んでいた。
悠真は眉をひそめた。
「君の体、お酒なんて飲んで大丈夫なのか?」
美咲は少し寂しげな顔をした。
「でも、今夜は私たちの初夜だもの。少しだけでいいから飲みたいの。悠真……私にはもう、残された時間がないわ。今夜だけは、少しだけ羽目を外させて」
そんな美咲を見て、悠真の心はまたしても絆されてしまった。
悠真が火災のニュースを目にしたのは、すでに翌日のことだった。
火の勢いは凄まじく、すでに二人の消防士が殉職したという。
目の前が真っ暗になり、悠真の心臓は凍りついた。昨日、夏美のコップに睡眠薬を入れ、さらにドアを外から施錠したことを突然思い出した。
彼は生まれて初めて美咲の哀願を冷たく振り切り、足をもつれさせながら、なりふり構わず家へと駆け戻った。
現場では、まだ火の手が上がっていた。
はしご車が空高く伸びている。
規制線の外は、家族を案じる人々の泣き叫ぶ声で埋め尽くされていた。
悠真は震える手で、そばにいた消防士を掴んだ。
「中にいた人は全員助け出されたんですか?浅野夏美という女性はいませんでしたか?身長は170センチくらいで、痩せていて、髪が長くて……」
悠真はしどろもどろになりながら、夏美の写真を取り出して見せた。
消防士はそれを見ると、沈痛な面持ちでゆっくりと首を横に振った。
「火の勢いが強すぎて、まだ救出されていない人がたくさんいます。まずは近隣の病院を当たってみてください。もし、そこにもいなければ……我々も全力を尽くしてはいますが……どうか……」
消防士の瞳に宿る、真実を飲み込むような重苦しい陰りを、彼が見逃すはずもなかった。
悠真は絶望のあまり地面にへたり込み、髪をむしり取るように掻きむしりながら、口からは獣のような悲痛なうめき声が漏れ出た。だが彼の悲痛など、この地獄絵図の中では決して特別なものではなかった。
夏美の親友である中村真緒(なかむら まお)が悠真を力ずくで引きずり起こし、彼の顔を何度も殴りつけた。
「悠真、全部あんたのせいよ!あんたさえいなければ、夏美がこんな目に遭うはずなんてなかった……なんで生きてるのよ、死ねばいいのに!」
第5話
次に意識が戻ったとき。
そこが三途の川などではなく、消毒液の匂いが立ち込める病室だと気づいた。
真緒は魂が抜けたような顔で寄り添っていたが、私の目が開いたのを見るなり、わっと泣き出した。
「よかった……本当によかった、死んじゃったかと思ったんだから……」
私の視線は、彼女のそばに立つ男性に向けられた。
上の階に住む元戦士で、何度か見かけたことのある渡辺海斗(わたなべ かいと)だ。
悠真はずっと彼のことを嫌っていた。陰気で、どこか精神を病んでいるようだと言い、粗野で声が大きく、言葉遣いも乱暴だと決めつけていた。
けれど今、彼の逞しい背中を眺めていると、不思議と震えが止まり、深い安心感が胸に広がっていくのを感じた。
海斗は私が目を覚ましたのを見て、照れくさそうに頭を掻き、屈託のない笑みを浮かべた。
「俺は耳が良くてな、人より聴力が優れてるんだ。お前の助けを呼ぶ声が聞こえたから、チェーンソーを取りに戻ってドアを切断したんだよ。頑丈な鉄扉じゃなかったのが不幸中の幸いだな、じゃなきゃ今頃、お前は灰になってたところだ」
私は涙を浮かべながら彼に微笑みかけた。
そして、包帯が巻かれた彼の腕に視線を落とす。
「……ありがとう」
海斗の髪は炎に舐められ、無残に焼け焦げていた。
真緒はそばで沈黙しており、何か言いたそうにしていたが、どう切り出せばいいのか分からないようだった。
しばらくして、彼女はようやく口を開いた。
「夏美、落ち着いて聞いてね。あのね……」
彼女は目をギュッと閉じ、早口で言った。
「あなた、妊娠してたの。でもまだ初期だったから……お腹の子は、助からなかった……」
私は呆然とした。
ここ最近は悠真と口論が絶えず、生理不順も重なっていたから、自分が妊娠しているとは思いもよらなかったのだ。
無意識に下腹部を撫で、最後に無理やり真緒へ笑顔を見せた。
「……そう、よかったわ」
平らな下腹部にそっと指先を這わせる。そこにはかつて一つの命が宿っていた。私はその存在を知る間もなく、失ってしまった。
身をよじるような苦しみは訪れなかった。ただ、ぽっかりと空いた心の穴を、ひどく冷ややかな虚無が満たしていく。
本当に、これでよかったのだ。悠真と美咲が繰り広げる、自分勝手な悲恋ごっこに、子供まで巻き込んで苦しむ必要はない。産むべきか否かと独りでもがき、冷え切った家庭や、父親の裏切りにこの子を直面させる必要もないのだから。
海斗はベッドの脇に腰を下ろしていたが、その逞しい体を持て余すように縮こまらせ、節くれ立った指で服の裾をぎゅっと握りしめていた。まるで、取り返しのつかない過ちを犯した子供のように。
「すまねえ。お前も、あの子も、守りきれなかった」
私は静かに首を振った。声は、今にも消えてしまいそうなほど頼りない。
「お礼を言わなきゃいけないのは、私の方よ。あなたがいなければ、私は今頃……ただの灰の山になっていたんだから。
悠真とはもう別れるつもりだったし、この子のことで思い悩む必要もなくなったわ。結局、私たちには縁がなかったのよ。だから、自分を責めないで」
海斗の腕に巻かれた包帯からは、まだ血が滲んでいた。外側から施錠されたあのドアを切り裂くために、凄まじい熱気の中で負った火傷の痕だ。
口を開けば私を愛している、一生大切にすると誓っていた男は、忘れられない人のためにプロポーズし、結婚式までもその女と挙げていた。
私が逃げ場のない炎に焼かれ、絶望の淵にいたその時に、彼は幸せそうに彼女と結婚式を挙げていた。
それなのに、ほんの挨拶を交わす程度の隣人が、命がけで私を地獄から救い出してくれた。
なんて皮肉なのだろう。
海斗はしばらく沈黙し、低く短い声を漏らした。
「すまねえ」
真緒は心配そうな顔で尋ねた。
「これからどうするつもり?」
私は真緒からスマホを借り、記憶の底に刻み込まれた番号に電話をかけた。電話の向こうから、聞き慣れた、けれどどこか疲れの滲む声が響いた。
「もしもし、どちら様でしょうか?」
「鈴木さん、浅野夏美です」
鈴木健一(すずき けんいち)の声が弾けたように上ずった。
「夏美、君……無事だったのか!」
私は目頭を熱くした。
「はい、大丈夫です。鈴木さん……以前お話しされていたプロジェクト、まだ欠員はありますか?私、参加させていただきたいんです」
「よしよし、国は君のような優秀な人材を求めているんだ。ようやく踏ん切りがついたんだね。私はとても嬉しいよ。でも何より嬉しいのは、君が無事だったことだ」
私は声を潜めて言った。
「鈴木さん、この件は、どうかまだ誰にも言わないでください」