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月が照らす帰り道
伊藤弘樹(いとう ひろき)は、子供のころから天才だった。小中高と何度も飛び級し、16歳で大学の特進クラスに入学。大学院を出てからは、法医...
Chương (1)
第1章
伊藤弘樹(いとう ひろき)は、子供のころから天才だった。小中高と何度も飛び級し、16歳で大学の特進クラスに入学。大学院を出てからは、法医として働くことを選んだ。
弘樹が法医になってからの3年間、警察に協力して多くの事件を解決に導き、彼の前では、どんな犯人も逃れることはできなかった。
誰もが言うように、生きている人間も亡くなった人も、弘樹の前では何も隠せない。
しかし、よりにもよってそんな彼が、義理の父が毒殺された事件で、妻の継母である酒井佳奈(さかい かな)をかばったのだ。
第1話
伊藤弘樹(いとう ひろき)は、子供のころから天才だった。小中高と何度も飛び級し、16歳で大学の特進クラスに入学。大学院を出てからは、法医として働くことを選んだ。
弘樹が法医になってからの3年間、警察に協力して多くの事件を解決に導き、彼の前では、どんな犯人も逃れることはできなかった。
誰もが言うように、生きている人間も亡くなった人も、弘樹の前では何も隠せない。
しかし、よりにもよってそんな彼が、義理の父が毒殺された事件で、妻の継母である酒井佳奈(さかい かな)をかばったのだ。
……
「検死の結果、死因は急性心筋梗塞であり、中毒ではありません。体内から毒物はいっさい検出されませんでした」
解剖室から出てきた弘樹は、集まった報道陣に真剣な表情でそう告げた。
弘樹の妻である伊藤結菜(いとう ゆいな)は、彼の堂々とした表情を見て、取り乱したように駆け寄り、その手をつかんだ。
「嘘よ、嘘でしょ?父がここに運ばれてきた時、唇は紫色で口から血の泡を吹いていたわ。あれは明らかに毒を飲まされた症状よ!」
結菜は顔を真っ青にしながらつぶやいた。「それに、理恵の母親が父に毒を盛った水筒をあなたに渡したはずよ。絶対に証拠が残ってる!その水筒はどこ?返して、私がもう一度鑑定に出すから……」
「水筒の水は、捨てた」
弘樹は結菜の肩をつかみ、眉をひそめた。
「いい加減にしろ。お義父さんは心筋梗塞で亡くなったんだ」
「信じない、信じないわ!」
結菜は弘樹を突き飛ばすと、報道陣をかき分けて解剖室に駆け込んだ。
父は、冷たい解剖台の上で上半身を裸にされていた。白熱電球の光が彼の体を浴びせ、かつて優しく穏やかだった顔を、青じみて恐ろしいものに映し出していた。
「父さん……」
結菜は一歩ずつ近づきながら、声にならないほど泣いた。
近くで見ると、父のお腹は切り開かれ、無造作に縫い合わされていた。周りには点々と血痕が飛び散っていて、それはそばのゴミ箱の中にまで続いていた。
そして、そのゴミ箱の中には……何かを燃やした跡があった。
その瞬間、結菜は悟った。弘樹が、父が毒殺された証拠を消し去ったのだと。
「弘樹、本当にありがとう。あなたがいなかったら、私は今頃捕まっていたわ。私と理恵は二人きりなの。もし私が刑務所に入ったら、理恵はどうなるか……」
解剖室の外から、佳奈の安堵と得意が入り混じった声が聞こえてきた。
続いて、義理の妹の酒井理恵(さかい りえ)も甘えるような声で言った。「弘樹さん、ありがとう。このご恩は絶対に忘れないわ」
「いいんだ。二人ともゆっくり休んで。今回のことで、君たちも大変だったろうから」
弘樹の普段の冷たい口調とはうってかわって、その声はとても優しかった。「怖がらなくていい。あとは全部、俺がなんとかするから」
その言葉を聞いた結菜は、もう我慢できなかった。勢いよくドアを開けて外に飛び出した。
報道陣はすでにいなくなっていて、外には弘樹と、佳奈親子だけがいた。
「どうしてその二人をかばうの?」
結菜は悲しみと怒りに震えながら、弘樹を見つめた。社会的に成功し、誰もが知る天才法医である、この男を。
「父の援助がなかったら、あなたは今頃どうなっていたか分からないわ。法医になんて、絶対になれなかった!それなのに、命の恩人に、こんな仕打ちをするなんて!」
結菜は取り乱しながら泣き叫んだ。「その親子が二人きりだから可哀想って?私と父だってずっと二人きりだったじゃない!母が早くに亡くなってから、父は男手ひとつで必死に私を育ててくれたのに。なのに、こんな謎のまま死なせなければならないの?」
「理惠の母親は君の継母で、理恵だって君の妹だ。そんなに二人を追い詰めて、何の得がある?」
弘樹は目を伏せ、冷たく結菜を見下ろした。
「確かにお義父さんには世話になった。でも、その恩は今まで返してきたつもりだ。それに、俺は君と結婚してやっただろ?」
結菜は力なく笑った。「私と結婚したことが、恩返しだって言うの?」
彼女はそばにいた佳奈親子を指さした。「この二人が私の家族ですって?冗談じゃない!父が遺産をすべて私に残すと知って、殺したのよ!このことは、あなたにも話したでしょ?!」
「それなら、お義父さんのやり方がひどすぎただけだ」
弘樹は結菜の手を振り払い、彼女を地面に突き倒して、冷たく背を向けた。
「理恵と理惠の母親にあんな仕打ちをするべきじゃなかった。あれは、お義父さんが彼女たちに負っていた当然の報いだ」
第2話
佳奈親子が結菜の家にやってきたのは、結菜が高校生の時だった。
理恵の父親は、結菜の父親である酒井誠(さかい まこと)のかつての同僚だった。誠をかばって大怪我を負い、退職して地元に戻ったが、数年後に亡くなってしまった。
誠はひどく悲しみ、人を遣って佳奈親子にお金を送った。でも、まさか佳奈親子が住所を頼りに訪ねてくるとは思ってもいなかった。
「夫はあなたを助けるために死んだのですよ。私たち母娘を見捨てるなんて、ひどいではありませんか?」
佳奈は、まだ幼い理恵を抱きしめながら酒井家の玄関の前でひざまずき、泣きじゃくった。
「酒井さん、多くは望みません。私と結婚して、娘をあなたの籍に入れてくれるだけでいいんです」
誠はもちろん断った。愛する妻が亡くなってまだ間もないのに、他の女性と再婚などできるわけがなかった。
しかし、佳奈は理恵を抱いて屋上へとのぼった。「もし夫が生きていたら、こんな恥を忍んでお願いしたりはしないんです。ただ娘に良い教育を受けさせてあげたいだけです。私になんの間違いがあるって言うのですか?」
誠は青ざめて恐れおののき、二人が本当に飛び降りるのを防ごうと慌ててこう言った。「どうか考え込まないでくれ。俺がきちんと面倒を見てやるから」となだめた。
佳奈は泣きながら首を横に振った。
「夫が死んでから、私は義実家から追い出されて、路頭に迷っているんです。酒井さん、あなたを追い詰めたいわけじゃありません。ただ娘に、あたたかい家庭をあげたいだけなのです。私が何か間違っていますか?
もし夫が生きていたら、今頃家族三人で幸せに暮らしていたはずですよ。こんなふうに、娘の将来のために、家庭のために、死ぬ思いで人にひざまずくこともなかったのです!」
そう言うと、佳奈は顔を覆って泣き崩れた。
誠はどうしようもなく、結局佳奈と再婚して酒井家の戸籍に入れた。
その頃、弘樹はまだ結菜のことだけを思っていて、彼女のために正義を求めようと憤っていた。
理恵が彼らと同じ学校に転校してくると、弘樹は結菜のうっぷんを晴らすため、仲間を連れて何度も理恵をいじめた。
「安心して。あいつを絶対にこの学校にいられなくしてやる!転校させられなくても、大学入学共通テストが終わったら、酒井家の戸籍から追い出してやるからな」
結菜は泣きながら弘樹に抱きつき、罪のない人を傷つけないでと彼を諭した。
でも弘樹は聞かなかった。理恵の椅子に接着剤を塗りたくったり、彼女が削った鉛筆を全部窓から捨てたりした。
そんな時、理恵はいつも目を赤くして彼を見つめ、何も言わずに結菜にお辞儀をするのだった。
「結菜、ごめんなさい。あなたの父親のせいで父は死んだけれど、私があなたの父親を奪うべきじゃなかった」
そう言うと、理恵は泣きながら走り去った。
最初、弘樹はまだ結菜を慰めていた。理恵の言っていることは全部嘘だと。しかし、いつからか弘樹は変わり、理恵を見る目に憐れみが混じるようになった。
「理恵と理恵の母親は身寄りがなくて、何もないんだ。君がもう少し理解してやれよ。
それに、君の父親のせいで彼女の父親は死んだんだ。償いをするのは当然だろう」
弘樹は理恵をいじめるのをやめた。そして放課後には彼女の勉強を見たり、朝にはついでだと言って朝食を買ってきたりするようになった。
理恵が大学に合格すると、誠はようやく佳奈と離婚する口実ができた。
しかし、弘樹は結菜を激しく問い詰めた。「ひとり親家庭になったら、理恵がどれだけ辛い思いをするか分からないのか?」
弘樹は自分のコネまで使って、誠の離婚を阻止しようとした。
結菜が誰にも助けを求められずにいると、勝ち誇ったように現れた理恵にばったり会った。
「いじめ? 弘樹さんは私をいじめてなんかないわ。喧嘩するほど仲がいいって、知らないの?」理恵は得意げに笑った。
「転校初日に、あなたたち家族にいじめられているって弘樹さんに打ち明けたの。そしたらすごく同情してくれた。でも、あなたのことも簡単には見捨てられなかったから、私をいじめるフリをして、二人で芝居を打ったのよ。
でも、お芝居を続けるうちに、弘樹さんは本気で私のことを可哀想に思うようになって、あなたとの表面的な付き合いすら面倒になったのよ」
結菜は信じられなかった。しかし、その言葉を証明するかのように、弘樹は主寝室を譲れ、コンクールの出場枠を譲れと、結菜にもっと多くのものを理恵に譲るよう要求し始めた。
「彼女たちはあんなに可哀想なのに、君はまだ理恵と争うのか?」弘樹は結菜を痛ましげな目で見つめた。「高校の時、俺は君の理不尽なわがままのせいで何度も理恵をいじめてしまった。なのに、どうして君は満足できないんだ?
もとの話を言えば、君の父親が彼女たちに申し訳ないことをしたんだろう。理恵が何をしたとしても、謝るべきは君のほうだ!」
その頃、結菜はまだ弘樹を愛していた。彼との関係をこじらせたくなくて、彼はただ父親を亡くした理恵を哀れんでいるだけだと思い、何度も譲歩を重ねた。
だが、もうこれ以上譲れないところまで追い詰められた。佳奈親子が父を毒殺したのに、弘樹はまだ彼女たちをかばおうとしているのだ。
結菜は泣きながら弘樹に叫んだ。「父が彼女たちに借りがあるって? そんなわけないじゃない!
確かに、昔、理恵の父親は父をかばって大怪我をした。でも、父はもう1千万円の慰謝料を渡してる!その後、彼が退職したのは、勤務先に隠れてギャンブルをして処分を受けたからよ!父が裏で手を回さなかったら、退職金ですらもらえなかったはずなんだから!
それに、退職した後も何度もギャンブルに手を出して、一度はヤミ金に半殺しにされたのよ。それを知った父が、また大金を出して助けてあげたのに!結局、彼はまたヤミ金に手を出して、それで殺されたのよ!」
結菜は佳奈親子を指さした。憎しみのあまり声から血が滴り落ちそうだった。
「理恵を戸籍に入れてあげたことまで、父はやれるだけのことは全部やった。本当は彼女たちがうちの財産を狙って父を殺したのに、あなたはその犯人をかばうなんて!それでもあなたは法医なの?」
弘樹は冷たい声で彼女の言葉を遮った。
「どれだけ尽くそうが、理恵の父親が君の父親が原因で死んだという事実は変わらない。結菜、理不尽なことを言うのはやめろ」
第3話
弘樹は顔を覆って泣いている理恵に、可哀想なものを見るような目を向けた。「彼女たちは、ただ幸せになりたかっただけなんだ。何か悪いことでもあるのか?」
結菜の心は、完全に冷え切ってしまった。
理恵の父親が亡くなったのは、ギャンブルにのめり込んで借金取りに殺されたからなのに。自分の父と何の関係があるという?
そもそも、父をかばって撃たれたのだって、うちのお金が目当てだったからじゃない?
理恵の父親が酔った勢いで本音を漏らさなかったら、誰にも分からなかっただろう。ギャンブルのためなら命さえ惜しまない人だったなんて。
結菜は、もう弘樹に助けを求めるのはやめた。でも、父をこんな形で死なせたままにはできないし、犯人を逃がしたりするわけにはいかない。他の人に鑑定を頼まなければ……
そう思うと、結菜は解剖室に飛び込んだ。誠の体を運び出そうとしたのだ。
結菜の動きはとても素早かった。それでも、弘樹は一目で彼女の考えを見抜いた。
弘樹は結菜の両腕を掴み、その体を胸に強く押さえつけた。
「離して!」結菜はもがいた。
「落ち着け。お義父さんはもう亡くなったんだ。死んだ人のために、生きている人間を困らせるな」
「早く葬儀社に連絡して火葬の準備をしろ!」弘樹は佳奈親子に叫んだ。
「ええ、弘樹。安心して、もうとっくに連絡済みよ」
佳奈は我に返ると、にやりと笑って手を叩いた。すると、黒服の葬儀社職員が数人入ってきて解剖室へ向かう。そして、結菜の目の前で、誠の遺体を運び出してしまった。
「離して、離してよ!父に触らないで!お金ならいくらでも払うから、10倍でも払うから」
結菜はパニックと絶望に襲われた。彼女はもがき叫び、職員たちに引き止めてもらおうとしたけれど、どうしても弘樹の腕の中から抜け出すことはできなかった。
「お金?あなたにもうお金なんてないでしょ」
理恵が不意に結菜の方を向いて言った。「だって、今となってはあなたが父親を殺した唯一の犯人なんだもの。そして、うちの母こそが被害者なのよ」
「なにって?」結菜は自分の耳を疑った。
理恵は続けた。「あなたに全遺産を残したのは、全部あなたの策略だったんじゃないの?毒を盛って殺して、遺言書を書き換えて、財産を独り占めするつもりだったんでしょ。私は訴えるわ。あなたを法廷に引きずり出してやる」
結菜はばかばかしくて笑ってしまった。「証拠でもあるの?」
理恵は何も言わず、ただ片方の眉をくいっと上げた。そして、なまめかしい視線を結菜に向けた。
でも、結菜には分かっていた。理恵が見ているのは自分ではない。自分を抱きしめている弘樹だと。
弘樹が結菜の耳元で囁いた。「結菜、これは埋め合わせなんだ。彼女たちも、本当に君を刑務所送りにするつもりはないと約束してくれた。ただ、正当な財産が欲しいだけなんだ。君に前科がついても、俺が一生面倒を見るから安心していい」
結菜は信じられなかった。
弘樹が、彼女たちのために証言するつもりだなんて。犯人たちの肩を持って、自分を陥れようとしている。
その事実に、結菜は全身が震えた。
佳奈親子を逃がすわけにはいかない。必ず父の無念を晴らすから!
結菜はさらに激しく抵抗したので、弘樹ももう少しで彼女を抱えきれなくなるところだった。
「離して!」
結菜は口を開けると、弘樹の腕に思いきり噛みついた。
あまりの痛みに、弘樹の手が緩んだ。
結菜はすぐさま葬儀社の職員たちの方へ駆け出した。遺体を奪い返すためだ。だが、彼女の手がストレッチャーに触れる寸前、首の付け根に強い衝撃を受けた。
目の前が真っ暗になり、結菜はそのまま意識を失った。
結菜が次に目を覚ました時、自宅の部屋のベッドに寝かされていることに気づいた。
遅かった……もう遅い……すべて手遅れだ。
結菜はベッドの上で涙を流した。しばらく呆然としていたが、やがて涙を拭い、ある番号に電話をかけた。
「以前お話しいただいたプロジェクトの件、お受けします。父がやり残した仕事を、私が代わりにやり遂げます」
「本当ですか?でも、以前は旦那さんのそばにいたいと仰っていたはずではありませんか?今回のプロジェクトは、一度行くと3年はかかります。ご夫婦の関係に影響が出るのではないかと思います」
「大丈夫です。離婚しますから。ただ、まだ片付けなければならないことがあります。少しだけ待っていただけますか?」
「もちろんです。どのくらいの日数が必要ですか?」
「1週間です」
「問題ありません。参加を心よりお待ちしております」
第4話
「弘樹さん、スープ作ったの。少し飲んで? お仕事大変だったでしょ。今回は弘樹さんのおかげよ。
明後日の裁判でも、協力して証言してほしいの」
明後日に、裁判?
その言葉を聞いて、部屋を出ようとしていた結菜は、ぴたりと動きを止めた。
裁判の日程がおかしいわ。民事裁判の呼び出しは、普通は2週間、早くても1週間はかかるはず。どうして明後日か?
でも、次の瞬間、その理由を知ることになった。
「もしあなたが先に裁判所からの通知を受け取って、それを隠してくれてなかったら、こんなに早く裁判を起こして、結菜に遺産を請求するなんてできなかったわ」
結菜は、まるで冷水を浴びせられたようにその場に立ち尽くした。
全身がわなわなと震え、胸が張り裂けそうだった。
弘樹は、佳奈親子の企みをずっと知っていた。知っていて隠し、彼女たちが父の死を招くまで見過ごしていたんだ。
父は、死ななくて済んだはずだった。全部、弘樹が彼女をかばったせいだ。 彼も共犯者。
結菜は苦しみのあまり、吐きそうになってうずくまった。自分が……自分が弘樹と結婚することを固執し、ずっと彼を好きでいたせいで、父は害されてしまったんだ。
もはや我慢の限界だった。結菜はドアを押し開けて飛び出すと、まっすぐ理恵のところへ向かい、その頬をひっぱたいた。
「この悪魔! あなたたちみたいな人、絶対にろくなことにならないから! 許さない、絶対に許さないんだから!
1円たりとも渡さない! 人殺しには、命で償ってもらうんだから!」
結菜は叫びながら、理恵に掴みかかった。
理恵はわざとらしくソファに倒れ込み、顔を覆ったまま抵抗せず、嗚咽を漏らした。
「やめろ! 気でも狂ったか!」弘樹は結菜を後ろから羽交い締めにして、引き離した。
「私が狂ったって? あなたたちが、私をおかしくさせたんじゃない!」結菜は金切り声をあげた。
理恵は泣きながら言った。
「弘樹さんはあなたに譲ったじゃない。なのにお金は譲ってくれないの? 私は勉強が苦手だから留学したいのに。あなたは仕事もできて、いい大学を出てて、素敵な旦那さんもいる。私はただ、少しでもあなたに近づきたかっただけなのに。姉妹でこんなに差が開いちゃうなんて嫌なの」
「誰が姉妹よ!」結菜は再び理恵に掴みかかろうとした。しかし、それより先に弘樹の平手が飛んできた。
「騒ぐのもいい加減にしろ!」弘樹は怒鳴った。
「私が、騒いでる?」
結菜は悲痛な面持ちで弘樹を見つめた。「私が騒いでるって」
「君は多くを持ちすぎている。理恵はただ、少しお金が欲しいだけなんだ。君が姉さんなんだから、譲ってやれないのか?」弘樹は冷たく言い放った。
「どうして私が譲らなきゃいけないの?」
結菜は憎しみを込めて弘樹を睨みつけた。
「私たち、これだけ長い間一緒に過ごした感情が、彼女の一言によりも軽かったの?」
「比べものにならない」
弘樹は理恵をかばうように前に立ち、結菜を真っ直ぐに見据えた。その視線は、一歩も引く気配がなかった。
「理恵のためなら、俺はすべてを捨てられる」
胸が張り裂けるような痛みをこらえ、結菜はかろうじて床から立ち上がった。
「そう。よく分かったわ。もうあなたとは終わり。父を手にかけた人間は、一人残らず、絶対に許さないから」
結菜は背を向け、ドアへと向かった。しかし、家を出ようとしたその瞬間、弘樹の声が聞こえた。「それなら、おばあさんのこともどうでもいいんだな?」
結菜は、信じられないという顔で、勢いよく振り返った。
「おばあさんを盾に、私を脅す気?」
「おばあさんは体が弱い。先月手術したばかりで、田舎で一人暮らしだ。もし彼女が息子が死んで、孫が刑務所に入ったと知ったら……どうなるか」
弘樹はそれ以上は言わなかったが、結菜にはその言葉の意味が痛いほどよく分かった。
今の結菜にとって、身内は祖母ただ一人。もし祖母の身に何かあれば、結菜は死ぬほど辛い思いをすることになるだろう。
「もし理恵と理恵の母親に遺産を渡さないと言うなら、このことを全部、おばあさんに話す」
「あなたを、憎むわ」
結菜は奥歯をきつく噛み締める。その目からは涙がこぼれ落ちたが、弘樹は気にも留めない。
彼はただ視線を落とすと、愛おしそうに理恵の頬の傷を撫でるだけだった。
第5話
結菜は家を出て、通りを歩きながら弁護士に電話をかけた。
結菜は冷静な口調で言った。「父が残してくれた遺産は、すべて寄付しようと思います」
電話の向こうで、弁護士は驚きの声をあげた。
「本当によろしいのですか?」
「ええ、よく考えました。あの親子にお金を渡すくらいなら、全額寄付して父の供養に当てた方が、心が安まります」
弁護士は複雑な心境だったが、結菜の決意が固いと分かると、ため息をついて言った。「わかりました。都合のいい時に、事務所へ署名しに来てください」
「今日の午後でも大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
電話を切ると、後ろから足音が聞こえてきた。
結菜は振り向かなかったけど、足音の主はとうとう彼女のすぐそばまでやって来た。
弘樹が結菜の手を掴もうとすると、彼女はそれを激しく振り払った。
「私に触らないで」
弘樹は眉をひそめた。「いつまでそうやってるつもりだ?もう終わったことなのに。亡くなった人のために、あの母娘を追い詰めるのか?彼女たちは身寄りもなくて、少しお金が欲しいだけなんだ。君には全部あるじゃないか」
「私に何があるっていうの?」結菜は嘲るように言った。
「俺がいる」
「そうかしら?私にはとてもそうは思えないけど」
「明後日には裁判が開かれる。法廷では、理恵に財産を分けるよう協力してほしい。埋め合わせは後できっとするから」
「埋め合わせ?何で埋め合わせるっていうの?命で?このお金は父が私に残してくれたものなのよ。なのに今、それを人殺しに渡しなさいって言うの?」
「理恵の母親は、ただ魔が差しただけなんだ。君は父親を亡くしたけど、理恵まで母親を失うところを見たいのか?」
結菜は冷ややかに言った。「あなた、どうかしてる。本当に人を見る目がなかったわ」
弘樹は何も言わず、突然話題を変えた。「君の父親の遺骨は、まだ俺が持っている」
結菜は、はっと目を見開いた。
「父の遺骨で、私を脅すつもり?」
「俺はただ、君に協力してほしいだけで……」
弘樹は言葉を切り、続けた。「明後日の裁判に出て、理恵と理恵の母親に全財産を譲ることに同意してくれれば、君の父親の遺骨を返してやる」
彼は結菜を見つめた。「今晩、よく考えて、明日答えを聞かせてくれ」
弘樹は背を向けたが、その足取りはゆっくりとしたものだった。
結菜が彼のことを知り尽くしているように、彼もまた結菜をよく理解していた。結菜が断れないことを、弘樹は分かっていたんだ。
案の定、弘樹がその場を去る前に、結菜の苦しげな答えが聞こえてきた。
「わかったわ」
「今日はもうゆっくり休んでくれ。すぐに終わるさ。これからは、俺たちで穏やかに暮らしていこう」
弘樹は結菜に微笑みかけたが、彼女にはその顔がひどく醜悪に見えた。
これまで、自分は一体どんな男を愛してきたのだろうか。
結菜の嫌悪に満ちた表情に、弘樹の笑みが一瞬固まった。しかし彼は、理恵の声に呼ばれると、すぐに背を向けて去っていった。
結菜はその場に立ち尽くしたまま、息を深く吸い込んで、空を見上げた。
心の中で彼女は誓った。「父さん、私は必ず死の真実を明かすから」
翌日、結菜は弁護士のもとを訪れ、財産寄付の契約書に署名した。
そして後日、結菜は裁判所から召喚状を受け取った。
結菜は弘樹と佳奈親子の思惑通りに出廷し、法廷で誠の遺産のすべてを彼女たちに譲渡することを、自ら申し出た。
裁判所を出る前に、結菜は弘樹のところへ向かった。
弘樹は、骨壷を結菜に手渡した。
結菜はその骨壷を受け取ると、胸に抱きしめ、涙を流し続けた。
第6話
結菜は骨壺を抱えて家に帰ると、スーツケースを取り出して荷物をまとめ始めた。
彼女が荷物を片付け、スーツケースを引いて家を出ようとした時、キッチンで忙しくしている佳奈親子の姿が目に入った。
鍋からは肉の煮える匂いが漂ってきたが、そこには何か不気味な匂いが混じっていた。
「あら、やっと空気を読んだのね。自分から出ていくつもり?」
理恵は結菜が引いているスーツケースに気づくと、笑いながら言った。「あなたさえいなければ、弘樹さんはとっくに私と付き合ったのに」
「どうせこの家も、いずれは私たちのものになるんだから。とっくに出ていくべきだったのよ」
佳奈はスープをダイニングテーブルに置きながら、ちらっと視線を動かし、不意に意地の悪い笑みを浮かべた。
「でも、その前にこっちに来てスープを飲んでいきなさいよ。それを飲んでから出ても遅くはないわ。今朝出廷する前からずっと煮込んでたから」
結菜は、何かがおかしいと感じたが、それが何なのかははっきりしなかった。
彼女は眉間にしわを寄せ、冷ややかに佳奈親子を見つめた。
「気をつけた方がいい。私はあなたたちを絶対に許さない。他人を傷つける者は、いずれ報いを受けるから」
そう言うと、結菜はスーツケースを引き、骨壺を抱えて家を出ようとした。しかし、玄関にたどり着いたとき、佳奈の奇妙な笑い声が聞こえてきた。
彼女は言った。「本当に飲まなくていいの?後悔するわよ。だってこれ、あなたの一番大切な人で作ったスープなんだから」
「どういう意味?」
結菜の心臓が、どっきりと大きい音がした。
彼女は振り返って佳奈親子を、鋭い視線で睨みつけた。
理恵はダイニングテーブルの席に着き、スプーンでスープをかき混ぜている。スープの表面には油の層が浮かんでいて、かすかに灰色の粒が浮かんでいるように見えた。
彼女は口元に手を当てて笑い、結菜を見つめている。その表情は、嘲りと哀れみのようでもあった。
一方、佳奈はこらえきれずに笑い出し、その笑いには快哉で意気揚々な気持ちが込められていた。
「あなた、父親のことが大好きだったんでしょ?それなのに、わからないの?」
佳奈の目に悪意がひらめいた。「このスープにはね、あなたの大好きな父親の遺骨が入っているのよ」
結菜の頭の中が、ブーンという音と共に真っ白になった。
彼女は震えながら首を横に振った。「そんな……父は、この腕の中にいるのに、そんなはず……」
結菜はそれ以上言葉を続けることができなかった。残酷な真実が、頭の中をよぎってしまったからだ。
そもそも、なぜ佳奈親子が、こんなにもあっさりと父の遺骨を渡してくれたのだろう?
遺骨を鑑定されたら、父が生前に毒を盛られていたことが分かってしまうかもしれないのに。
「嘘よ、あなたたちの嘘に決まってる!」
結菜は狂ったように駆け寄り、佳奈の肩を掴んだ。そのいきよいで誤ってテーブルの上のスープ皿が床に落ちてしまった。
スープが床に飛び散り、中に入っていた肉が転がり出る。灰色の粒が油に混じって、ぬらぬらと光っていた。
「父が何をしたって言うのよ!毒を盛って殺しただけじゃなくて、死んでまでこんな辱めを受けさせるなんて……遺骨をスープに入れるなんて……あなたたち、それでも人間なの?」
大きな音とともに、結菜の顔が横にビンタされ、彼女は地面に倒れた。
床の惨状を前に、結菜はもう立ち上がることができなかった。涙が止まらずに次々とこぼれ落ち、床に染み込んでいった。
結菜は床に散らばった灰を両手ですくおうとしたが、油まみれの灰が、ぬめぬめと両手にべたつくだけだった。
「あなたに父親の遺骨なんて渡したくなかったのよ。ただ、あなたを苦しめてやりたかったの」
理恵は、みじめに打ちひしがれる結菜を見下ろしながら、唇の端を吊り上げて言った。
「どうせあなたの周りにはもう誰もいない。父親も死んだし、弘樹さんも私の味方よ。おとなしく離婚届にサインしなさい。さもないと、あなたもお父さんと同じ目にあうことになるわよ」
その言葉が終わるのうちに、ドアがガチャリと音を立てて開いた。結菜が涙に濡れた顔を上げると、そこに弘樹が入ってくるところだった。
第7話
「一体どうしたんだ?」
目の前の光景に、弘樹は呆然としていた。
彼は数歩駆け寄り、思わず結菜を助け起こそうと手を伸ばした。でも、その瞬間、強く突き飛ばされてしまった。
「触らないで!あっち行って!」
結菜は叫び、その憎しみに満ちた目に弘樹は思わず立ちすくんだ。
床にこぼれたスープは、口論のあいだにすっかり冷めてしまっていた。弘樹は、結菜が涙を流しながら、汚れるのも構わずに床に散らばった遺骨をかき集め、手のひらに乗せるのを見て、何が起きたのかすぐに理解した。
その動きで、彼女の頬には真っ赤な平手打ちの跡が見えた。
弘樹は眉をひそめて、理恵の方を見た。
「君がやったのか?」
「弘樹、全部私が悪いの。結菜が出て行くっていうから、謝りたくてスープを作ってあげようとしたのよ。その時に遺骨も返そうとしたんだけど、うっかり中にこぼしちゃって……」
佳奈は一歩前に出て、涙をぬぐいながら声を詰まらせた。「結菜が怒って、私を叩いたりなじったりするのは仕方ないわ。でも、理恵まで傷つけるなんて……見てちょうだい、理恵は手をやけどしているのよ!」
理恵は手を後ろに隠し、目を赤くしながら言った。「私は平気。全部私が良くなかったの、私たちのせいで……」
それを聞いた弘樹は、すぐに理恵が隠していた手を引き出した。手には、スープがはねた火傷の跡があった。
彼の表情が少し和らいだのを見て、理恵はその機会を捉えて、悲しそうな声で言った。「あまりの痛みに、もがいているうちに結菜の顔を叩いちゃったみたい……」
「君のせいじゃない。わざとじゃないんだろ」
弘樹はため息をつき、結菜の方を向いた。何か言いかけたが、結局こう言った。「理恵を責めるな。君がお姉さんなんだから、譲ってやれよ」
結菜は聞く耳を持たなかった。
湿ってべとつく遺骨をすべて集め終わると、彼女はスーツケースの取っ手を引き出した。
その様子に、弘樹ははっと我に返った。彼はとっさに理恵の手を振り払い、結菜の前に立ちはだかる。
「出て行くのか?」
弘樹の声には、自分でも気づかないほどの焦りと不安がにじみ出ていた。
「理恵の母親もわざと遺骨をスープに入れたわけじゃないんだ。それに、そもそもこの遺骨は君が持ち出すべきものじゃないだろ……」
その言葉を聞いた結菜は、勢いよく顔を上げた。その目は充血し、真っ赤だった。
「前に渡された遺骨が偽物だって、あなたも知ってたんでしょ?最初から、父の遺骨を私に返すつもりなんてなかったんだ!」
弘樹はどっきりとして、思わず視線をそらした。
彼は重い口調で言った。「分かってるだろ。遺骨を調べれば、生前に毒を盛られたかどうかも分かる。君に理恵を傷つける隙を与えない」
「ええ、そうね。あなたは私があの親子を傷つけるのは許さないくせに、彼女たちのために私を傷つけるのは平気なのね?弘樹、あなたって本当に最低」
憎しみと痛みで胸が張り裂けそうだった。結菜は涙を拭うと、冷たく言い放った。「あなたと結婚なんて、するんじゃなかった」
昔、弘樹と結婚するためなら、学業も将来有望な仕事も、全部捨てる覚悟だった。結婚してからは、彼のために毎日食事を作り、専業主婦として尽くしてきた。
なのに、弘樹はどうだ?義理の妹である理恵といい仲になって、あげくの果てには、自分の父まで危害を加えた。
「償いはするって言っただろ」
結菜が本当に出て行こうとするのを見て、弘樹はたまらず彼女の肩を掴んだ。彼は身をかがめて結菜の目をまっすぐ見つめ、真剣な声で言った。「信じてくれ、結菜」
「どいて!」
結菜は、いきなり弘樹の頬にビンタした。
ビンタの音が響き、その場にいた全員が固まった。
弘樹は思わず力を抜き、信じられない表情で結菜を見つめた。
以前の結菜なら、自分に辛い思いをさせることなど決してしなかったのに。
結菜は彼を突き飛ばし、鼻で笑った。「これで痛いの?まだまだこれからよ。弘樹、これで終わりだなんて思わないで」
そう言うと、結菜は片手にスーツケース、もう一方の手に骨壺を持ち、出て行こうとした。
彼女が部屋のドアから出ようとしたその瞬間。弘樹が突然口を開いた。「そもそも、全部君のせいじゃないか」
結菜は足を止めた。
弘樹はこわばった顔で、冷たく言い放った。「5年前、もしあの夜に理恵が高熱を出した俺を助けてくれなかったら、俺はとっくに死んでいた。なのに君は、父親とパーティーに行って、俺からの電話まで無視したじゃないか」
「彼女があなたを助けたって?」結菜は振り返り、複雑な表情を浮かべた。
本当は、弘樹を助けたのは自分だったのに。そのためにパーティーを抜け出し、どしゃ降りの雨の中で走って家に帰り、ずっと彼を看病していたのだ。
スマホをなくしたのは、ちょうどその時だった。
その後、弘樹がまだ目を覚まさないうちに、今度は自分が倒れてしまった。雨に濡れたことと徹夜の看病のせいで、高熱を出して肺炎になったのだ。父に病院へ運ばれ、丸1か月も入院することになった。
退院して家に帰ると、弘樹は結菜を心配するどころか、理恵と前よりもずっと親しげにしていた。
「理恵じゃなかったら、まさか君だとでも言うのか?」
弘樹は唇を固く結んだ。「理恵が徹夜で俺の体を拭いて、薬を飲ませてくれたから、俺は助かったんだ。彼女は命の恩人なんだよ」
結菜が悲しげに笑みを浮かべた。しかし、理恵が焦ったようにその言葉をさえぎった。
「弘樹さん、私はやるべきことをしただけだから」
理恵は、自分が弘樹にしてあげたことを、彼女の手柄にしていたのだ。
でも、もうそんなことはどうでもよかった。
結菜は息を深く吸い込んで、涙をぐっとこらえた。
彼女は口の端をゆがめ、冷たく言い放った。「そういうことなら、二人で幸せに暮らせばいいわ」
そう言うと、結菜はスーツケースを引き、ためらうことなくその場を去った。