あの日の想い、どうか届きますように

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あの日の想い、どうか届きますように

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吉田彩花(よしだ あやか)が医師から末期がんだと告げられた日。夫の吉田健太(よしだ けんた)は、ベッドの前でひざまずき、気を失うほど泣き...

Chương (1)

第1章

吉田彩花(よしだ あやか)が医師から末期がんだと告げられた日。夫の吉田健太(よしだ けんた)は、ベッドの前でひざまずき、気を失うほど泣きじゃくっていた。 彩花の両親は、震える手で治療同意書にサインした。ショックのあまり、一夜にして白髪が増えてしまったかのようだった。 彩花は恐怖と悲しみに耐えながら、亡き後の事を整理していた。しかしその時、夫と医師のひそひそ話が聞こえてきた―― 「先生、角膜移植手術の件、準備はどうなっていますか?美羽が待っているんです」 健太の声は冷たくて、張りついていた。さっきまでベッドのそばで泣き崩れていた時の、かすれた声とはまるで別人だった。 藤堂美羽(とうどう みう)?自分の実家、黒崎家で亡くなった使用人の娘? 続いて、主治医の小林直樹(こばやし なおき)が媚びるような声で話すのが聞こえた。 「吉田社長、ご安心ください。すべて手はず通りです。奥さんのほうは……問題ないですよね?」 健太は声をひそめた。「彼女はサインします。診断書は完璧に偽造してありますからね。今は完全に信じています」 診断書? 完璧に、偽造? その時、別の泣きじゃくるような声が割り込んできた。 「彩花は優しい子だから……美羽ちゃんを助けるためなら、きっと同意してくれるわ……」 それは、彩花の母親・黒崎千佳(くろさき ちか)の声だ。 彩花の父親・黒崎学(くろさき まなぶ)の声も続いた。「彩花は小さい頃から何不自由なく育った。これから目が見えなくなっても、健太が一生面倒を見てくれるんだ。生活に大きな影響はないだろう」 何不自由なく育った、だって?大きな影響はない? つまり、あの人たちにとっては、自分が暗闇の中をもがきながら生きる未来になったとしても、「影響は大きくない」ということなのね。 彩花は壁に寄りかかった。足の裏から頭のてっぺんまで、冷たいものが突き抜けるような感覚に襲われた。 第1話 吉田彩花(よしだ あやか)が医師から末期がんだと告げられた日。夫の吉田健太(よしだ けんた)は、ベッドの前でひざまずき、気を失うほど泣きじゃくっていた。 彩花の両親は、震える手で治療同意書にサインした。ショックのあまり、一夜にして白髪が増えてしまったかのようだった。 彩花は恐怖と悲しみに耐えながら、亡き後の事を整理していた。しかしその時、夫と医師のひそひそ話が聞こえてきた―― 「先生、角膜移植手術の件、準備はどうなっていますか?美羽が待っているんです」 健太の声は冷たくて、張りついていた。さっきまでベッドのそばで泣き崩れていた時の、かすれた声とはまるで別人だった。 藤堂美羽(とうどう みう)?自分の実家、黒崎家で亡くなった使用人の娘? 続いて、主治医の小林直樹(こばやし なおき)が媚びるような声で話すのが聞こえた。 「吉田社長、ご安心ください。すべて手はず通りです。奥さんのほうは……問題ないですよね?」 健太は声をひそめた。「彼女はサインします。診断書は完璧に偽造してありますからね。今は完全に信じています」 診断書? 完璧に、偽造? その時、別の泣きじゃくるような声が割り込んできた。 「彩花は優しい子だから……美羽ちゃんを助けるためなら、きっと同意してくれるわ……」 それは、彩花の母親・黒崎千佳(くろさき ちか)の声だ。 彩花の父親・黒崎学(くろさき まなぶ)の声も続いた。「彩花は小さい頃から何不自由なく育った。これから目が見えなくなっても、健太が一生面倒を見てくれるんだ。生活に大きな影響はないだろう」 何不自由なく育った、だって?大きな影響はない? つまり、あの人たちにとっては、自分が暗闇の中をもがきながら生きる未来になったとしても、「影響は大きくない」ということなのね。 彩花は壁に寄りかかった。足の裏から頭のてっぺんまで、冷たいものが突き抜けるような感覚に襲われた。 彼女は最後の力を振り絞って病室まで這って戻り、めちゃくちゃに涙を拭うと、ベッドに横になった。 健太が入ってきた。彼の顔は青白く、目は充血していて、目の周りは真っ赤に腫れていた。 その痛々しいほどの赤さを見て、彩花の心はぎゅっと締め付けられた。 抑えきれない記憶のかけらが、次々とよみがえってくる―― 大学のキャンパス。並木道で、健太は土砂降りの中、燃えるような赤いバラを抱えて彼女を待っていた。 結婚式では、健太は片ひざをついて指輪を取り出し、声を詰まらせて言った。 「彩花、俺のこれからの人生は、すべてお前に捧げるよ」 結婚してからも、健太は彩花の細かい好みまで全部覚えていて、どんな小さなわがままも受け入れてくれた。 彩花が夜中に街の南側にある老舗の和菓子が食べたいと言えば、健太は車を飛ばして街を横切り、買いに行ってくれた。 彩花がぽろっと「仕事が疲れた」とこぼせば、次の日に、健太は退職届を彼女の前に差し出した。 「家にいていいんだ。俺が養うから」 健太は誰もが認める完璧な「愛妻家」で、彩花の人生を照らす光であり、ぬくもりだった。 いつからだったのだろう。その光は少しずつ向きを変え、最後には別の人を照らすようになってしまったのは。 黒崎家で20年以上も真面目に働いてきた使用人が亡くなる前、一人娘の美羽を彩花の両親に託した。 そのおどおどした目つきの女の子は、こうして彩花の生活に入り込み、健太との間に割り込んできた。 その子は「妹」として、頻繁に吉田家の屋敷に顔を出すようになった。 健太が何気なく口にしたバンドを覚えていては、次の日には廃盤になったサイン入りCDを探し出してくる。 彼が残業で遅く帰ってきた時には、「ちょうど」胃に優しい温かいうどんを作って、書斎まで運んできた。 健太が美羽を見る目つきは、だんだんと変わっていった。 かつては手の中の宝物のように彩花を可愛がっていた両親も、小さい頃に父親を亡くし、母親までいなくなってしまった美羽を不憫に思うようになった。 その同情心は少しずつふくらんでいき、しまいには実の娘である彩花への愛情を上回ってしまったのだ。 現実と思い出が、頭の中で入り乱れる。 彩花は、健太の顔に浮かぶ、胸が張り裂けそうなほどの悲しみを見つめていた……そして、何かにとりつかれたように尋ねた。 「健太、もし私が本当に死んだら……あなたは他の人を好きになったりするの?」 健太の目には、心を見透かされたような動揺が走った。しかし、それはすぐに「悲しみ」で覆い隠された。 「彩花!死ぬなんて、許さない!」 彼の目は熱っぽく、声は詰まらせていた。「もし本当にそんな日が来たとしても……俺はお前だけを想って、他の誰とも付き合ったりしない。俺の心には、お前一人しかいないんだ!」 一瞬、あの残酷な会話は幻聴だったのではないかと、信じそうになってしまった。 しかし―― 「でも、彩花……」 健太の口調が、急に変わった。「人間はいつか死ぬ。大切なのは、生きている人のために、どれだけ貢献できるかなんだ」 彩花の心臓が、ずしりと重くなった。 健太はポケットから一枚の紙を取り出した――角膜提供の同意書だった。 さっきの愛の誓いは、彩花が喜んで、そして「存在意義」を感じながらこの同意書にサインさせるためのものだったのだ。 健太はペンを取り出すと、彼女の冷たくこわばった手のひらに押し付けた。「これにサインしてくれ。お前の目は、お前の代わりにこの美しい世界を見続けてくれるんだ。なんて意味のあることだろう。お前はきっと、意味のある死を迎えられる」 意味のある死だって? 心が、完全に死んだ。 第2話 健太に手を握られたまま、彩花は一文字ずつ自分の名前を書いていった。 健太は身を乗り出すと、彩花を抱きしめようとした。「そうだ!彩花」 彼女はぷいっと顔をそむけた。「疲れたわ。休ませて」 健太は自分の喜びが顔に出すぎていることに気づいた。そして、気まずそうに手を引っ込めた。 「じゃあ、俺は小林先生のところへ移植手術の段取りを……いや、今後の治療について相談しに行く」 彼は慌ててそう言い直し、同意書を手に病室を足早に出ていった。 彩花は、虚ろな目で白い天井を見つめていた。彼女は病衣のポケットからスマホを取り出し、国際電話をかけた。 プルルル―― 受話器の向こうから、聞き慣れた女性の声がした。「彩花?」 彩花の声は、ひどく震えていた。「私のがんは嘘だったの。健太と、両親がグルになって私を騙してた。美羽に角膜を移植させるために。 あの人たちの計画を逆手にとって、死んだことにして逃げる……彼らの前からは、完全に消えてやるんだから!」 電話の向こうで、親友の村上玲奈(むらかみ れな)が息をのむ音が聞こえた。「あの人たち、人でなしだわ!よくもそんなことができるわね! 仮死状態になる薬と、新しい身分を用意してあげる。5日だけ時間をちょうだい、必ずなんとかするから。それまで自分の身は自分で守って。連絡を待ってて!」 ぎゅっと閉じていた目から、熱い涙が堪えきれずに溢れ出した。「うん、わかった。5日間ね」 彩花はベッドの上で、まるで本物の死体のように、静かに身じろぎもせず横たわっていた。 彼女は、自らが計画した「死」を待っていた。「愛」という名の、地獄よりも冷たい檻から完全に逃げ出す、その時を。 翌日、彩花は直樹の診察室へ向かった。「退院します」 直樹は視線を泳がせながら、彼女を止めようとした。「吉田さん、それは無理ですよ。ごの病状では……」 彩花は、サイン済みの退院に関する同意書をデスクに叩きつけ、振り返ることなく病院を後にした。 慣れ親しんだ家のドアを開けると、朝食の香りと安っぽい香水の匂いが混じった空気が、ぷんとしてきた。 彼女は玄関で足を止めた。視線の先は、リビングの中央にある大きなソファに向けられた。 健太は部屋着姿でゆったりとソファにもたれかかっていた。その腕の中には、美羽が猫のように甘えて寄り添っている。 美羽の手には一枚の紙が握られていた。それは、彩花がサインした角膜提供の同意書のコピーだった。 「健太さん、なんてお礼を言ったらいいか。おじさんやおばさんにも…… この恩は、一生忘れない……」 健太は低く優しい声で言った。「バカだな、お礼なんていいんだ。俺たちがやるべきことをしただけだから。 安心して手術を待ってればいい。全部、段取りはつけてあるから」 彼の口調は、自信に満ち溢れていて、まるで当たり前のことのように聞こえた。 この瞬間、健太は「末期がん」の妻である彩花が、まだ「生きている」ことを完全に忘れていた。 昨夜の、胸が張り裂けそうな悲劇のヒーローを演じたことも、彼女だけを愛すると誓ったことも、すっかり忘れていた。 彩花の出現が、リビングの甘い雰囲気を打ち破った。美羽は慌てて同意書を背中に隠した。 健太はさっと前に出て、自分の体で彼女が同意書を隠すのをかばった。 彼の顔から、優しさと得意げな表情は消え失せた。代わりに浮かんだのは、驚きと後ろめたさだった。 「彩花?なんで退院したんだ?お前の体は……」 健太の顔に浮かぶ偽りの「心配」に、彩花は吐き気をもよおした。 「病院は、寒々しくて嫌だったの」 彼女は健太の肩越しに、美羽を見つめた。「美羽もいたのね。何をそんなに楽しそうにしてるの?」 美羽の体は明らかにこわばった。そして、慌てて健太に助けを求めるような視線を送った。 健太が、ごく自然に話を継いだ。「たいしたことじゃないんだ。美羽が大学に受かったのはおめでたいことだって、ご両親が言っててな。それで、入学祝いのパーティーを開いてやろうって話になったんだよ」 入学祝いのパーティー? 彩花の瞳が、きゅっと目を細めた。なんて馬鹿げてる。皮肉にもほどがある。 先週は、自分の誕生日だったのに。花も、ケーキも、お祝いの言葉ひとつもなかった。 それなのに、美羽の入学祝いは、一流ホテルで盛大に開くっていうの? 美羽は媚びるような笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には得意げな色が隠されていた。「彩花さん、絶対に来てね。おじさんとおばさんが、あなたは私にとって一番大切な家族だって……」 その言葉は、一言一言が、まるで蜜を塗った毒針のようだった。 美羽からの、まるで施しのような「招待」に、彩花は冷たい拒絶の言葉を口にしかけた。 しかしそれを遮って、健太が先に口を開いた。「もちろん、行くさ」 彼は美羽に優しい眼差しを向けた。「彩花は体が弱いからこそ、おめでたい席で元気をもらわないと。そうだろ?」 そして、彩花の方へ顔を向けた。その瞳の奥には、隠すことのない警告と威圧が宿っていた。 元気をもらう? ええ、もちろん行く。 自分の健康と、この目を引き換えに開かれる「お祝いの席」とやらを、この目に焼き付けてやる。彼らの喜びに満ちた顔を、決して忘れないために。 「ええ」 第3話 五つ星ホテルのパーティー会場は、目がチカチカするほどキラキラしていた。 美羽は、細かなダイヤモンドが散りばめられた真っ白なドレスを着て、彩花の両親と腕を組んでいた。 健太は少し離れた場所に立ち、その視線はキラキラと輝く美羽をずっと追いかけていた。 千佳は美羽の手をぎゅっと握り、目じりが下がっていて、とても可愛がっている様子だった。 学は司会者からマイクを受け取った。「今日は、我が家の美羽ちゃんが難関大学に合格したお祝いの日です。そして、私たち黒崎家にとっては、もう一つおめでたいことが重なった日でもあります!」 もう一つおめでたいこと? 不吉な予感がして、彩花は思わず拳を握りしめた。 千佳がマイクを受け取り、隣にいる美羽を愛おしそうに見つめた。 「美羽ちゃんは本当に不憫な子で、小さいころに父親を亡くし、母親にも早くに先立たれてしまって……」 彼女の声には、どうしようもないほどの同情がこもっていた。「でも、この子は本当に聞き分けが良くて優しく、実の娘よりも優しいくらいですよ! 今日、私たちは美羽ちゃんを正式に義理の娘として迎えることにしました。これからは、この子は私たち黒崎家の子です!」 ガーン―― 彩花の頭は一瞬で真っ白になった。義理の娘として迎えるだって? 自分に一言の相談もなく、彼らは大勢の前で美羽を義理の娘として迎え入れた。 自分の未来を奪おうとしている、そんな義理の娘を。 スポットライトの下、美羽は泣き声をまじえて甘えるように叫んだ。「おじさん!おばさん!」 「おお!良い子だ!」 学と千佳は彼女をぎゅっと抱きしめ、声をあげて泣いた。 健太は口元に笑みを浮かべ、この「感動的な」場面を優しい目で見つめていた。周りからは、次々とお祝いの言葉が聞こえてくる。 彩花は冷たい隅の暗がりに立ち、まるで世界から忘れ去られた部外者のようだった。 続いて、健太が大きな赤いバラの花束を美羽の手に渡した。 「美羽、志望大学合格おめでとう。これからはずっと元気で幸せに、素晴らしい未来を歩めることを願ってるよ」 司会者が元気いっぱいに声をかけた。「さあ!大切な記念すべき時ですよ、家族写真を撮りましょう」 次の瞬間、彩花の心は凍りついた。 ステージの上の四人は、ごく自然に並んで立った。黒崎家にもう一人、実の娘がいることなど、誰も思い出さなかった。 カメラがカシャッ、と軽快なシャッター音を立て、一枚の仲睦まじい「家族写真」が誕生した。 彩花が呆然としていると、美羽が人混みを抜けて、跳ねるようにこちらへやって来た。 「彩花さん!見て、これ健太さんがくれた指輪なの」 なんと彼女はその指輪を、結婚を意味する左手の薬指にはめていた。 彩花はハッと顔を上げた。「美羽、これはどういうつもり?」 美羽のうるんだ大きな瞳の奥に、一瞬だけ、意地の悪い嘲笑が浮かんだ。 「彩花さん、怒ってるの?さっき写真撮る時に呼ばなかったから?」 彼女は少し間を置いて言った。「だって彩花さん、あなたはもうすぐ死んじゃうんでしょ?家族写真に写ってたら、縁起が悪いじゃない、ね?」 「どいて!」 彩花は歯を食いしばり、そう吐き捨てると、さっと身をかわしてパーティー会場を出ようとした。 しかし、彼女の腕が美羽の体の横をかすめた、その瞬間―― 「きゃあ!」 甲高い悲鳴とともに、美羽が派手に後ろへ倒れた。 倒れた先には、まるで示し合わせたかのように、ウェイターがシャンパングラスを並べたトレイを運んでいた。 ガッシャーン―― グラスは床に叩きつけられて粉々に割れ、破片とシャンパンが飛び散った。 美羽は苦しそうに叫び声をあげた。左手で右手首を押さえており、その指の間からは血があふれ出していた。 パーティー会場は、一瞬にして静まり返った。 全員の視線が、床に倒れている美羽と、その前にこわばった体で立ち尽くす彩花に、一斉に突き刺さった。 第4話 「美羽!」 「美羽ちゃん!」 黒崎夫婦の悲痛な叫び声が同時に響き渡った。 「美羽ちゃん、大丈夫?」 「医者だ!誰か医者を呼んでくれ!」 健太は床に片膝をつき、ぐったりとした美羽を抱きかかえていた。 彼はバッと顔を上げ、憎悪を隠そうともしない目で彩花を睨みつけた。 「彩花!なんてことをしてくれたんだ!」 彩花は思わず言い返す。「私じゃない!彼女が自分で……」 千佳は彼女の言葉を遮った。「彩花、いつからそんなに根性悪い子になったの?美羽ちゃんはまだ子供なのよ、こんなひどいことするなんて!」 その時、倒れていた美羽が真っ青な顔を上げた。「彩花さんはわざとじゃないです……私がうっかり……彩花さんを責めないでください」 千佳は彼女を抱きしめ、むせび泣いた。「なんてお人好しなの、こんな時まで彩花を庇うなんて!」 学は心を痛めながら言った。「彩花!お前には本当にがっかりしたぞ!」 健太は血を流し続ける美羽を横抱きにすると、少しだけ横を向いた。 「彩花、美羽の腕に少しでも傷跡が残ったら、お前を死ぬほど辛い目にあわせてやる」 そう言うと、彼は美羽を抱きかかえ、憔悴しきった黒崎夫婦に付き添われながら、パーティー会場の入り口から姿を消した。 彩花は、めちゃくちゃになった会場で、数え切れないほどの軽蔑の視線を浴びながら、ゆっくりとパーティー会場を後にした。 彼女は顔を上げ、藍色の夜空を見上げた。あと、6日。 彩花は、人気のない道をふらふらと歩いていた。 美羽の偽善的な顔、健太の悪意に満ちた警告、両親からの冷たい非難……それらが何度も、彼女の頭の中を駆け巡った。 彩花がちょうど角を曲がった、その時―― キーッ。 黒いワゴンが目の前に停まり、黒服のボディーガード数人が彼女の手首と足首を縛り上げ、後部座席に押し込んだ。 どれくらい時間が経ったのか、車のドアが乱暴に開けられた。 彩花は引きずり出されて腕を掴まれ、長い病院の廊下を通って「献血室」と白く光るプレートの前に放り出された。 ぴかぴかに磨かれた黒い革靴が、彼女の目の前で止まった。 彩花の視線は、アイロンのかかった黒いスラックスの折り目に沿って、ゆっくりと上へと移動した。 健太だった。 健太はロープで赤くなった彩花の手首に目をやった。「美羽が出血多量で、緊急の輸血が必要だ。O型の血液が足りない」彼は少し間を置いて、氷の錐のように冷たい言葉を続けた。「お前はO型だ。お前の血を抜け」 彩花は信じられないとばかりに目を見開き、目の前にある、よく知っているはずなのに今はまるで別人のような顔を見つめた。 健太は知っているはずなのに。自分が血液の病気で、採血すると内出血を起こすってことを、分かっているはずなのに。 「健太、気は確かなの?私は……」 健太は彩花を無視して焦ったように救急治療室に目をやると、そばにいたボディーガードに冷たく命じた。 「こいつを押さえつけろ!血を抜け」 ボディーガードたちは彼女の体を無理やり床から引き起こすと、有無を言わさず献血室へと引きずっていった。 彩花は絶望して顔を背けた。彼女の視線が捉えたのは、開け放たれた献血室のドアの向こう側だった。 両親が美羽を取り囲み、心配と恐怖を隠そうともしない顔で付き添っている。 彼らには、自分の実の娘が、いかつい男たちに椅子へ無理やり押さえつけられ、血を抜かれている姿は全く見えていないようだった。 冷たい針が、的確に彩花の血管へと突き刺さった。 健太は献血室の入り口に立ったまま、だんだんと満たされていく血液バッグをじっと見つめていた。 血液バッグが満杯になると、看護師が針を抜く間も惜しいとばかりに、彼はそのずっしりと重い血液バッグをひったくり、救急治療室に向かって走り出した。 「美羽、血を持ってきたぞ!」 救急治療室から、美羽のか細い声が聞こえてきた。「健太さん、彩花さんは大丈夫?あんなにたくさん血を抜いて、体は平気なのかしら?」 それほど離れていない場所から、健太のこの上なく冷酷な答えが、彩花の耳にはっきりと届いた。 「大丈夫だ!あいつのがんは嘘なんだ。これっぽっちの血で死ぬもんか」 黒崎夫婦も口をそろえて同意した。「そうそう、彩花がしでかしたことなんだから、罰を受けて当然よ!これくらいの血、なんてことないわ」 とてつもない理不尽さが押し寄せ、心臓を形のない手に鷲掴みにされたかのようだった。 抑えきれない鉄の味がこみ上げ、彩花の口と鼻から勢いよく血が噴き出した。 「ゴフッ――」 真っ赤な血が、つるつるの床にも、血の気のない彼女の腕にも飛び散った。 意識を失う直前、霞む視界に映ったのは、自分の血で美羽の命を繋ごうとしている両親と夫の姿だった。 耳元では、健太の骨の髄まで凍るような声が響いていた。 「これっぽっちの血で死ぬもんか……」 死なないだって?なら、本当に死んで見せてやる。 第5話 翌日の明け方、彩花は看護師に起こされた。 彼女は重い体を引きずって家に帰り、見慣れたドアを開けた。リビングからは両親が心配そうに話す声が聞こえてきた。 「先生が言ってたわ。早く病院に運んでよかったって。傷の手当てもちゃんとしてもらったから、跡は残らないそうよ。 でも、すごく怖かった。顔が真っ青で、見てるこっちが辛かったわ」 健太はソファの後ろに立っていた。彼はうつむいて、美羽の青ざめた顔をじっと見つめている。 なんて心温まる、感動的な光景だろう。 最初にドアのところに立つ彩花に気づいたのは、健太だった。彼は鼻で笑って、馬鹿にしたように言った。 「ふん、帰ってきたのか?病院が大げさに電話してきて、お前が血を吐いて倒れたなんて言うからさ。本当に死ぬのかと思ったよ」 学と千佳も同時に振り向いた。「彩花、美羽ちゃんはあんなに怖い思いをした。お前はわざと俺たちを困らせたいみたいだな」 三人の顔には、まるで申し合わせたかのように、うんざりした表情と、非難の色が浮かんでいた。そして彼らの後ろでは、美羽が勝ち誇ったように口の端を吊り上げている。 もう、疲れた。 彩花は、ただただ、本当に疲れたと感じた。 彼女は目の前の人を無視して、くるりと背を向けた。そして二階の寝室の方へ歩いていった。 後ろから千佳の不満そうな声が聞こえる。「あの態度、なんなのかしら。本当にどうしようもなくなってきたわ!学、なんとか言ってやってよ」 彩花はウォークインクローゼットへ行くと、隅にあった木の箱を引っ張り出して開けた。 中に入っているのは、宝石でもなければ、通帳でもない。あるのは、いくつかの「思い出の品」だけだ。 健太がプロポーズしてくれた時の花束。もうすっかり枯れてしまっている。 新婚旅行の時のツーショット写真。写真の中の健太は彩花の額にキスをしていて、彼女の顔は幸せでいっぱいだ。 それから、綺麗に並べられたビロードの小箱。箱には【彩花、お誕生日おめでとう。愛するお父さんとお母さんより】と書かれたラベルが貼ってあった。 中身は、両親が毎年誕生日に贈ってくれたプレゼントだ。ブレスレット、ブローチ、髪留め……どれも高価なものばかり。 彩花はそれらの品々を、まるでゴミでも捨てるかのように、すべて火鉢の中に放り込んだ。 「あら、彩花さん。これは遺品の整理でもしてるのかしら?死ぬ準備?」 美羽が、いつの間にか彼女の後ろに現れていた。ドアの枠に寄りかかりながら、その両目を欲深そうに輝かせている。 「本当にかわいそうねえ。あなたはかつて、たくさんの綺麗な服や高価な宝石、あなたを愛してくれる夫にかわいがってくれる両親……全部持っていたのにねえ……」 美羽は首を振りながら言った。「でも、それが何だって言うのかしら?」 彼女は少し顔を上げ、見せびらかすような、そして挑発的な表情を隠そうともしなかった。 「あなたが20年以上も守ってきたものを、私は2年足らずで全部奪ってやったわ。 あなたの負けよ。完膚なきまでにね」 美羽の胸はかすかに上下していた。彩花が取り乱し、絶望し、ヒステリックに叫ぶ姿を期待しているかのようだ。 しかし、彼女はがっかりすることになった。 彩花は美羽を見つめ、ゆっくりと口を開いた。「それなら……おめでとう」 そして、口の端を歪めて言った。「あなたが必死になって奪っていったものなんて……私が捨てたゴミよ」 美羽の顔色が一瞬で険しくなった。彩花の無関心な態度が、彼女に敗北感を与えたのだ。 美羽は燃えている火鉢を思い切り蹴り飛ばした。「まだあの人たちが心変わりするとでも思ってるの?あなたがこれ以上、私のものを壊すなんて絶対に許さない!」 ガシャーン―― 炎が周りの燃えやすいものに舐めるように燃え移り、パチパチと音を立てる。ウォークインクローゼットは、あっという間に黒い煙でいっぱいになった。 彩花は黒煙に包まれた美羽に駆け寄り、彼女を炎の中から引きずり出そうとした。「死ぬ気?」 しかし、煙で涙を流す美羽の瞳には、狂気じみた憎しみと決意が宿っていた。彼女は彩花を突き飛ばす。「触らないで!」 そして、笑いながら、甲高い悲鳴をあげた。「きゃあ、助けて!」 慌ただしく重い足音と共に、健太が黒煙をものともせず、炎の中へまっすぐ突っ込んできた。 「美羽!」 健太は美羽の服についた火を叩き消すと、彼女をさっと横抱きにしてウォークインクローゼットから飛び出した。 火が消し止められた後、リビングの空気は重苦しく、息が詰まるようだった。 健太の腕の中では美羽が声を殺して泣いていて、学と千佳は心配そうに彼女の怪我の様子を確かめている。 「彩花!美羽を焼き殺すつもりだったのか?この子を道連れに死のうとしたのか?この悪女が!」 彩花はもがきながら顔を上げた。「違う……火鉢を蹴り飛ばしたのは彼女よ。私を陥れるつもりなの!」 健太の目は激しい怒りで真っ赤に充血していた。「いいだろう。火遊びがしたいなら、望み通りにしてやる!」 彼は外にある焼却炉を指さした。「こいつを中に放り込んで、ドアに鍵をかけろ。生きたまま焼かれるのがどんな気分か、味あわせてやれ!」 彩花は信じられないというように目を見開いた。「健太、あなた狂ってる!」 彼女はもがきながら立ち上がろうとした。「離して!火なんてつけてない!」 学と千佳の目に、一瞬だけ哀れみの色が浮かんだ。「やめ……」 美羽は絶妙なタイミングで二人の手を掴み、か細い声で言った。「おじさん、おばさん、私の手……すごく痛いです……頭もクラクラします」 二人はすぐさまきっぱりと考えを改めた。「少し懲らしめるくらいは、仕方ないのかもしれないわね。じゃないと、彩花はいつまでも分からないままだから」 最後の希望は、完全に打ち砕かれた。 彩花は焼却炉の中に放り込まれた。背中と腕が焼けるように熱い金属に触れ、ジュッと音がした。 焼却炉の扉は固く閉ざされ、鍵がかけられた。彼女の苦痛に満ちたうめき声は、外には聞こえない。 少しでも身じろぎするたびに、焼け焦げた皮膚が引きつれて、身を引き裂かれるような激痛が走る。 脱水症状でめまいがしてきて、意識がだんだん朦朧としてきた。 彩花は焼却炉の一番奥でうずくまった。激しい痛みと高熱で、体は抑えようもなく震えている。 あと3日……仮死計画。 その時まで、自分はもつのだろうか?彼女はそう思い始めていた。 第6話 彩花はゆっくりと目玉を動かした。全身が包帯で巻かれていて、身動きが取れない。 「彩花さん、目が覚めたの?」 美羽はベッドのそばの椅子に座り、少し身を乗り出した。 「暖炉の中で、すごい悲鳴をあげてたわね。もし私が健太さんにお願いして助けてもらわなかったら、今ごろはもう真っ黒こげになってたわよ」 彩花は指を動かし、呟いた。「消えろ……」 美羽は立ち去るどころか、長く伸ばした爪で、火傷が一番ひどい彼女の腕を思いっきり突き刺した。 目の前が真っ暗になり、彩花は悲鳴ひとつあげられなかった。 美羽の目には、意地の悪い喜びが浮かんでいた。「もう限界?楽しいのはこれからなのに」 その時、寝室のドアが開けられた。 健太は眉間にしわを寄せた。「美羽、そんなに彩花に近づいてどうするんだ?こっちへ来い!」 彼は美羽を自分の後ろに隠すようにして、低い声で言い聞かせた。「こいつは精神が不安定なんだ。いつ発作を起こして人を傷つけるか分からない。だから離れて!」 彩花は冷たいベッドの上で体を丸め、声もなく笑った。 その時、健太のポケットのスマホが鳴った。 彼は電話に出ながら廊下へと歩いていった。寝室には、彩花と美羽だけが残された。 空気が一瞬にして張り詰めた。 美羽は声を潜めて言った。「見た?彼が私を守る姿、よほど大事にされてるって分かるでしょ。 これはほんの始まりよ。私は、みんながあなたを心底嫌って、死ねばいいと願うようにしてやるから!」 廊下の向こうから、健太の足音がだんだんと近づいてきた。 美羽はドアの方へちらりと目をやり、口の端に不気味な笑みを浮かべた。 彼女は突然手を伸ばすと、包帯だらけの彩花の腕を掴んだ。そして、ベッドから引きずり下ろし、窓の方へと引っ張っていった。 健太が寝室のドアに姿を現した、まさにその瞬間―― 美羽の顔は一瞬にして恐怖と絶望の色に変わった。「あ!彩花さん、やめて!」 彼女の体は、まっすぐに窓から落ちていった。ドンッ―― 健太の顔からサッと血の気が引いた。彼は狂ったように階段を駆け下りていった。 「美羽、大丈夫か?お医者さんを!早く救急車を呼べ!」 健太は美羽を抱きかかえ、リビングのソファにそっと寝かせた。彼女の腕や脚には、いくつかの深い切り傷ができていた。 かかりつけの医師と使用人たちが、慌てて美羽の周りに集まった。 美羽の目は怯えと無力感に満ちていた。そして、その細い指は、まっすぐに彩花を指差していた。 「健太さん……うっ……彩花さんが私を殺そうとしたの。私があなたや、おじさんもおばさんも奪ったからって……だから、死ねって……」 健太は勢いよく顔を上げ、叫んだ。「彩花!」 彩花はかすれた声を、必死に絞り出した。「私じゃない……」 健太は弁解に耳を貸そうともせず、包帯が巻かれた彼女の襟首を乱暴に掴んだ。 「お前のような根性の悪い女は、生きてるだけで周りの迷惑なんだ!」 そして健太は、彩花を裏庭にあるプールの消毒槽のそばまで引きずっていった。 「こいつを放り込め。その根性の悪さを、しっかり『消毒』してやれ」 彩花の体は木の葉のように震え、途切れ途切れに懇願した。「やめて、健太、やめて!」 だが、彼女の懇願は、健太のさらに嫌悪のこもった視線を誘うだけだった。 ザブンッ―― 大きな水しぶきと共に、骨まで凍みるような冷たさと身を引き裂かれるような激痛が、一瞬にして彩花を飲み込んだ。 「あああああっ!」 もはや人間のものとは思えないほどの凄まじい悲鳴が、彼女の喉から迸った。 消毒液は一瞬で包帯に染み込み、腐食性の強い液体が皮膚を焼く音が聞こえるようだった。 固まりかけていた脆い傷口が、強烈な消毒液に溶かされていくようだった。彩花は必死にもがき、なんとか水面から顔を出して這い上がろうとした。 「助け……て……」 健太の感情のない声が、プールの縁から聞こえてきた。「こいつを押さえつけろ。しっかり浸からせておけ。美羽を突き落としたことを認めて謝ったら、引き上げてやれ」 「はい!」 黒い革靴を履いた二つの大きな足が、彩花の肩を容赦なく踏みつけ、再び水の中へと沈めた。 濃い血の匂いと、鼻をつく塩素の匂いが当たりに立ち込めた。プールの水は、次第に目に痛いほどの暗い赤色に染まっていった。 屋敷の中からは、学と千佳の心配そうな声が聞こえてくる。それに混じって、美羽を気遣い、慰める健太の声も聞こえた。 彩花は血の混じった水の中で拳を固く握りしめた。爪が手のひらに深く食い込む。 全ての細胞が、狂ったように叫んでいた。 耐えろ。 彩花。 耐えるんだ。 こんなところで死ぬわけにはいかない。こんな汚くて臭い消毒槽の中では、絶対に。 あと2日、この2日間さえ耐え抜けば。 第7話 彩花が、拳を握りしめる力さえ失いかけた、その時だった。 低い声が響いた。「もう、いいだろう」 肩を押さえつけられていた重みが消え、彼女は無理やりそこから引きずり出された。 健太が高そうな黒いコートを羽織り、数歩離れた場所に凛と立っていた。 黒崎夫婦は彼の少し後ろに立ち、おずおずと言った。「この子……こんな状態で。まずは病院で手当てを受けさせたほうが……」 健太は顔を向けた。「父さん、母さん。今、情けをかける時ではない」 彼は地面でうずくまり痙攣する彩花を指差した。「感情をコントロールできず、行動は過激すぎる。放火に、殺人未遂。今のこいつは、ただの狂人だ」 健太の視線が、千佳の顔に一瞬浮かんだ心配の色を捉えた。「母さん、美羽が生死の境をさまよったことを忘れたのか」 黒崎夫婦の彩花を見る目に残っていた最後の躊躇いは、嫌悪へと変わった。 健太は言い聞かせるような口調に変わった。「市郊外で一番良い精神リハビリセンターに連絡済みだ。あそこに彩花を送って、2、3日頭を冷やさせよう。気持ちが本当に落ち着いたら……」 彼は一瞬言葉を切り、声を潜めた。「我々は安全に角膜の移植手術ができる。 手術さえ終われば、彼女がこれまで何をしたかは一切問わない。昔のように大切にし、愛するよ」そして、三人にしか聞こえないような囁き声で付け加えた。「その時になれば、がんは病院の誤診だったことにすればいい。そうすれば、皆ハッピーだ。美羽は光を取り戻し、彩花も『回復』する。全て元通りだ」 彩花は尊厳を奪われた囚人のように、白い救急車の後部座席に乱暴に押し込まれた。 そして彼女は、牢獄のような狭い個室に閉じ込められた。 口に詰められていた布が引き抜かれ、手首と足首の拘束も解かれた。でも、スマホはとっくに奪われていた。 ドン。ドン。ドン。 彩花は血と膿にまみれた手のひらで、固い壁を絶望的に叩き続けた。 「助けて……ここから出して……」 真っ白な壁に、赤黒い手形が次々とついていく。 ギィ―― 重い鉄の扉の鍵が開く音がした。 大柄な男の看護師が入ってきた。彼はもがいたせいで乱れた彩花の服と体を、いやらしくなめ回すように見た。 「ちっちっちっ……新人かな?可愛い子じゃないか」 男は一歩ずつにじり寄ってきた。「俺が傷をみてあげようねぇ……へへ……」 汗と口の臭いが混じったひどい悪臭が鼻をついた。「あっちへ行って!来ないで!」 彩花はかすれた声で叫び、必死に部屋の隅へと後ずさった。 男の看護師は下品な笑みを浮かべ、もともとボロボロだった患者衣をビリっと引き裂いた。「怖がらないで……俺が、優しくしてあげるからさ」 「ああっ!」 彩花はありったけの力で蹴ったり、ひっかいたりした。「離して、このケダモノ!あっちへ行って!」 その汚れた手が、彼女の最後の衣服を剥ぎ取ろうとした、その瞬間だった。 ドンッ―― 男の看護師は棒のようなもので殴られて気を失い、床に倒れ込んだ。 白衣にマスク姿の女が部屋に現れた。「吉田さんですね?怖がらないで、私は村上先生に頼まれて、あなたを助けに来ました」 玲奈。 親友の名前を聞いた途端、彩花の緊張の糸がぷつりと切れ、涙が堰を切ったように溢れ出した。 女の声には、人を安心させる響きを帯びていた。「計画が早まりました。これから特別な薬を注射します。あなたは深い仮死状態になり、モニター上の生命反応は少なくとも24時間、完全に消えます。 いいですか、何があっても意識ははっきりと保っていてください。私たちがうまく『処理』しますから。2日後、あなたは公海のクルーズ船の上で目を覚ますはずです。分かりましたね?」 第8話 彩花はおびえながらも頷いた。「わかりました」 女は医療キットから注射器を取り出すと、淡い青色の液体がゆっくりと彩花の血管に注入された。 彩花は、心臓の鼓動がだんだん遅くなって、呼吸も浅くなっていくのをはっきりと感じた。 体の力は抜けていくのに、意識だけは妙にはっきりしていて、周りで起きていることのすべてを感じていた。 女は男性看護師を隅っこまで引きずっていくと、病室のナースコールを押した。 「誰か来て、302号室の患者さんが急変して、もう危ないんです!」 遠くから、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。 白衣を着た医師と看護師が駆け込んできた。「自発呼吸なし!脈拍消失! 急いで!ストレッチャーに乗せろ!救急治療室へ!心肺蘇生の準備!」 彩花は救急治療室に運ばれ、冷たい電極パッドが胸に貼られると、ピリッとした痛みが走った。 「アドレナリン、静注! 除細動器、充電!200ジュール!」 反応はなかった。 「血圧測定不能、血中酸素濃度も低下! 瞳孔が開いてる!光に反応しません!」 そして、ついに―― ざらっとした白い布が、そっと彩花の顔にかぶせられた。 疲れきって感情のこもらない医師の声が、彼女の頭上で響いた。「午前3時17分、死亡確認」 午前3時過ぎ、吉田家の屋敷に、甲高い電話のベルが鳴り響いた。 ジリリリリン―― 健太ははっと目を開けた。わけもなく胸騒ぎがして、心がずしりと重くなった。 腕の中から、美羽が不満そうに呟く声がした。「だれよ……こんな真夜中に……」 健太が布団をめくって電話に出ようとしたが、美羽が一足先に駆け寄って受話器を取った。 「もしもし?」 電話の向こうから、感情のこもらない事務的な男性の声が聞こえた。「吉田彩花さんは午前3時17分に死亡が確認されました。ご遺体の処置について、ご家族のご指示をいただけますか」 健太はズキズキと痛むこめかみを押さえながら尋ねた。「美羽、誰からだ?」 美羽は健太に背を向けたまま、受話器を握る指に力が入り、関節が白くなっていた。 彼女は込み上げてくる興奮と喜びを必死に抑え、少し不満そうな声で言った。 「もう、うるさいわね!ただのいたずら電話よ」 美羽はイライラした様子で受話器に向かって呆れた顔を見せた。「はいはい、わかりました。そちらで好きに処理して、もうかけてこないでください!」 そう言って、彼女はガチャリと電話を切った。 美羽は長いため息をつくと、軽い足取りで健太の元へ戻ってきた。 「もう大丈夫よ、健太さん。さ、お休み」 その頃、精神リハビリセンターの冷たい霊安室では、「好きに処理して」という一言が、彩花の仮死計画を後押しすることになった。 面倒な家族の確認も、詳しい死因の再調査もなかった。 一枚の冷たい死亡診断書がすぐに発行され、引き取り手のない女性患者の遺体として、慌ただしく火葬炉へと送られた。 数時間後、安っぽい真っ白な骨壷が、隅の目立たない棚に置かれた。 骨壷にはラベルが貼られていて、そこには冷たい文字が印字されていた。 「吉田彩花」 夜が明ける前の一番暗い時間、一台の黒いワゴンが精神リハビリセンターの裏口から出て、埠頭へと向かった。 車内では、彩花が蒼白な顔で、静かに目を閉じていた。 彼女はそっと船室に運び込まれ、船は静かに出航した。 船は広大な海原を、丸一日かけて航行した。 朝、最初の日の光が船室の小さな窓から差し込み、彩花の静かな寝顔を照らした。 長いまつげが、かすかにぴくりと震えた。 彼女はゆっくりと目を開いた。「彩花、あなたは、逃げ切ったんだわ」