あの日、君と共に白髪を誓った夕暮れ

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あの日、君と共に白髪を誓った夕暮れ

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信号無視をした配達員の女性を避けようとして、菅原菖蒲(すがわら あやめ)と寄り添うように暮らしていた祖母の藤原睦月(ふじわら むつき)は...

Chương (1)

第1章

信号無視をした配達員の女性を避けようとして、菅原菖蒲(すがわら あやめ)と寄り添うように暮らしていた祖母の藤原睦月(ふじわら むつき)は、トラックに撥ね飛ばされてしまった。 菖蒲は泣きながら夫の菅原啓太(すがわら けいた)に十数回も電話をかけて、ようやく繋がった。 「今、大事な接待中なんだ。何か用があるなら家に帰ってからにしてくれ!」啓太は、いら立ちを隠そうともせずに言った。 電話は一方的に切られた。どうしようもない無力感に襲われ、菖蒲は、もう睦月が死んでしまうとしか思えなかった。 医者が焦った様子で救急処置室から出てきて叫んだ。「患者さんが出血多量です!」 第1話 信号無視をした配達員の女性を避けようとして、菅原菖蒲(すがわら あやめ)と寄り添うように暮らしていた祖母の藤原睦月(ふじわら むつき)は、トラックに撥ね飛ばされてしまった。 菖蒲は泣きながら夫の菅原啓太(すがわら けいた)に十数回も電話をかけて、ようやく繋がった。 「今、大事な接待中なんだ。何か用があるなら家に帰ってからにしてくれ!」啓太は、いら立ちを隠そうともせずに言った。 電話は一方的に切られた。どうしようもない無力感に襲われ、菖蒲は、もう睦月が死んでしまうとしか思えなかった。 医者が焦った顔で救急処置室から出てきた。「患者が大出血を起こしています! しかも、Rhマイナスの血液型なんです。血液バンクのストックだけでは、とても足りません!」 その時、隅の方でおどおどしていた配達員の女性が言った。「私……Rhマイナスの血液型です……」 菖蒲は飛び上がりそうなほど喜んで、その女性の手を引いて看護師を探そうとした。 でも、一人の男が大股で近づいてきて、それを止めた。「だめだ!」 男の口調は断固としていた。「結衣、お前は先週、栄養失調で倒れたばかりじゃないか。献血なんて無理だ!」 菖蒲は呆然とした。 配達員の女性を優しく抱きしめているこの男は……大事な取引先と一緒だと言っていた、夫の啓太じゃないの? 啓太は真剣な顔でその女性を見つめた。「結衣!前に俺と約束しただろ? お金に困ったら俺に言えって言っただろ!どうしてまた俺に隠れて、こっそり配達のバイトなんてしてるんだ? 今のお前に一番必要なのは、休むことだって分からないのか?」 近藤結衣(こんどう ゆい)は意地っ張りな様子で俯いた。「啓太さん、私、あなたに迷惑かけたくないの! 自分のことは、自分でちゃんとできるから!」 啓太はため息をついた。「おバカだな、お前がそんなんじゃ、心配で仕方ないだろ?」 菖蒲は、まるで雷に打たれたかのような衝撃を受けた。 自分の夫が、本気で心配している顔で、他の女を見つめている。 二人の会話の一言一言が、まるで毒を塗った針のように、菖蒲の心をチクチクと刺して、ひどく痛んだ。 もう立っていられなくて、菖蒲は思わず金切り声をあげた。「啓太!」 啓太は全身をこわばらせた。そしてようやく、少し離れた場所に立っている菖蒲の姿に気づいた。彼女は顔面蒼白で、全身を震わせている。 啓太は慌てて結衣の肩を抱いていた手を引っ込め、動揺を隠せない様子で言った。「菖蒲?どうしてここに? 聞いてくれ、説明させてほしい。結衣は、ただの友達なんだ。 最近、彼女はご両親とちょっとうまくいってなくてね。友達として、相談に乗ってやってただけで…… だから、絶対に誤解しないでくれ!」 「友達?誤解?」菖蒲は、啓太の下手な言い訳を聞いて、あまりのバカらしさに呆れるしかなかった。 でも、今は夫が浮気しているのかとか、裏切ったとか、そんなことを追求している場合じゃない。 菖蒲の心は、睦月が死んでしまうかもしれないという恐怖で、いっぱいだった。 菖蒲は救急処置室を指さし、震える声で言った。「啓太、あなたの言い訳を聞いてる暇なんてないの! おばあちゃんが、ひどい事故に遭ったの!今、あの中で処置を受けてるのよ!」 啓太はきょとんとした顔になり、すぐに焦りを浮かべた。「どうして、そんなことに? おばあさんは無事なのか?ひどい事故だったのか?」 菖蒲は必死に冷静さを保とうとした。「先生が、おばあちゃんがひどく出血してるって。 啓太、あなたも知ってるでしょ。おばあちゃんはRhマイナスの血液型なの。病院にあるストックだけじゃ、全然足りないのよ!」 菖蒲は結衣を指さした。「彼女も、Rhマイナスの血液型なんだって。 だから今一番いいのは、献血してもらうことなの!」 「だめだ!」啓太は考える間もなく、再び断った。 彼は一歩前に出て菖蒲をなだめようとした。「結衣は子供の頃から体が弱いんだ。 それに、先週も栄養失調で倒れたばかりなんだ。献血なんてさせられない。 菖蒲、少し落ち着いてくれ! すぐに友達全員に電話する。近くの血液バンクにも全部連絡するから。必ず血液は見つかる。おばあさんの治療が遅れるなんてことは、絶対にさせない!」 第2話 「落ち着けって?どうやって落ち着けっていうのよ!中にいるのが、あなたのおばあちゃんじゃないからそんなことが言えるのよね?」菖蒲は啓太を見つめた。その目には、皮肉と絶望の色が溢れそうになっていた。 彼女は泣きながら啓太に懇願した。「啓太、中にいるのは私たちのおばあちゃんなんだよ! 私にとって、たった一人の家族なの! お願いだから、おばあちゃんを助けて。お願い……」 啓太は眉をひそめた。「菖蒲、大声を出したって何も解決しない! 俺だって、おばあさんを助けたい。でも、結衣の命を危険に晒すわけにはいかないんだ!」 菖蒲は、ぐっと拳を握りしめた。「人をこんな目に遭わせたら、一生をかけて償うべきでしょ! 彼女がおばあちゃんを事故に遭わせたのよ。おばあちゃんに命で償うのだって、当たり前のことじゃない!」 その時、そばにいた結衣が、たまらず泣き声まじりに反論した。「私があなたのおばあさんを事故に遭わせたわけじゃない! トラックの運転手よ!あの人がはねたの! 私がおばあさんを病院に運んだのよ!」 結衣の言い訳を聞いて、菖蒲が今まで溜め込んでいた怒りが、ついに爆発した。 菖蒲は結衣のもとに駆け寄って、問い詰めてやりたかった。もし、そっちが信号無視をしなければ、トラックの運転手は避けるために、急にハンドルを切ったりしただろうか、と。 ちゃんと歩道を歩いていた睦月が、こんな災難に遭うことなんてあっただろうか、と。 だが、菖蒲が結衣の方へ一歩足を踏み出しただけで、結衣をかばう啓太に、ぐいっと突き飛ばされた。 「いい加減にしろ!菖蒲、よく聞け! おばあさんの事故の件で、結衣に落ち度なんて一つもない! 結衣が優しいからって、それにつけこむような真似は許さない!」 菖蒲は不意をつかれ、地面に強く打ち付けられた。 肘と膝に、焼けるような痛みが走る。 だがそれ以上に菖蒲を不安にさせたのは、下腹部から突き上げるような、鈍い痛みだった。 啓太は、まさか他の女のために、自分に手を上げたというのか? 菖蒲は信じられない思いで、顔を上げた。 啓太は、地面に倒れた菖蒲を見て、一瞬、戸惑いと申し訳なさそうな表情を浮かべた。 しかし、その感情はすぐに、結衣を不憫に思う気持ちへと変わっていった。 啓太は唇を固く結んだ。「菖蒲、落ち着け!おばあさんは運の強い人だ。絶対に大丈夫だから! まず結衣を家に送って休ませる。すぐに戻ってお前のそばにいるから!」 そう言って、啓太は結衣の手首を掴み、その場を去ろうとした。 「だめ!行かないで!」菖蒲は起き上がろうともがいたが、お腹の痛みで力が入らなかった。 ちょうどその時、救急処置室のドアが再び、勢いよく開かれた。 医者が焦ったように顔を出した。「ご家族の方!Rhマイナスの血液型はまだ見つかりませんか?患者さんがもう持ちませんよ! このまま血がなければ、本当に手の施しようがなくなります!」 その言葉はまるで死の宣告のようで、菖蒲の最後の意地とプライドを粉々に打ち砕いた。 彼女は痛む体を引きずり、みっともなく啓太と結衣の足元まで這っていった。 菖蒲は啓太のズボンの裾を掴み、最後の力を振り絞って懇願した。「啓太、お願い…… おばあちゃんを助けてくれるなら、私、なんだってするから……」 菖蒲の無様な姿を見て、啓太の目に一瞬、ためらいの色が浮かんだ。 しかし、結衣が弱々しい声で言った。「啓太さん、私、ちょっと頭が痛くて……」 啓太の注意はすぐにそちらへ移り、彼はためらうことなく菖蒲を蹴り飛ばした。「菖蒲、立て! まるでこっちがいじめてるみたいじゃないか!」 この一撃で、ついに菖蒲の心の糸が切れた。 菖蒲はもう耐えきれず、目の前が真っ暗になり、意識を失った。 第3話 菖蒲は、消毒液のツンとした匂いの中で目を覚ました。 目に入ったのは、真っ白な天井だった。 一瞬、意識がもうろうとした。今までのことは全部、苦しい悪夢だったんじゃないか、と。 睦月は今も家でご飯を作って待っていて、啓太は相変わらず、仕事で忙しくても優しくて思いやりのある夫のままだ。 しかし、ベッドのそばにいる山下優香(やました ゆうか)の顔を見た途端、菖蒲は嫌な予感がした。 優香は、「ひだまり子供の家」のベテラン保育士で、睦月とは20年来の同僚だ。 この時間は、施設で子供たちの面倒を見ているはずなのに。どうしてここにいるんだろう? 優香の唇は震え、言葉を発する前に涙がこぼれ落ちた。 菖蒲の心臓がどくんと大きく鳴って、優香の腕を強く掴んだ。「山下さん、教えて……おばあちゃんは?」 「菖蒲ちゃん……」優香は、みるみる青ざめていく菖蒲の顔から目をそらした。「藤原園長は、出血がひどくて、助からなかったの…… もう……逝ってしまったの……」 「逝ってしまった?」菖蒲は呆然とその言葉を繰り返した。 大きな悲しみに、目の前が真っ暗になった。 でも菖蒲は弱った体のことなど構わず、布団をめくりあげてベッドから降りようとした。「そんなはずない!嘘だ!おばあちゃんに会いに行く! きっとまだ救急処置室にいる!出てくるのを待つ!」 菖蒲を止められず、優香は彼女がベッドから降りるのを、そっと支えるしかなかった。 霊安室は、人の温もりがまったくない、氷のように冷たい場所だった。 職員が冷たい安置台を引き出し、そこに横たわる睦月の生気のない姿を見た瞬間、菖蒲は膝から崩れ落ちた。 「おばあちゃん――」菖蒲はベッドに駆け寄り、震える手で睦月の冷たくこわばった頬にそっと触れた。その冷たさが、刃物のように菖蒲の心を突き刺した。 菖蒲に父親はいなかった。母親の藤原直美(ふじわら なおみ)も、菖蒲が7歳のときに病気で亡くなった。 菖蒲は、睦月に一人で育てられたのだ。 睦月は、この世でたった一人の身内だった。 睦月がこんなに早く自分のもとを去ってしまうなんて、菖蒲は考えたこともなかった。 「ごめんなさい……おばあちゃん……ごめんなさい……私が不甲斐ないばかりに、助けてあげられなかった……」菖蒲は睦月の冷たい手に頬を寄せ、倒れそうになるまで泣きじゃくった。 優香が菖蒲を必死に抱きしめた。「菖蒲ちゃん!しっかりして! 藤原園長は亡くなってしまったけど、今のあなたを見たら、きっと悲しむわ! 元気を出して、ちゃんと生きるのよ。それが園長への一番の供養になるんだから!」 菖蒲は絶望して首を横に振った。「おばあちゃんはもういないのよ。たった一人の身内がいなくなってしまったの! この世界に、私は一人ぼっちになっちゃった。どうやって元気を出せばいいの……」 優香は急いで菖蒲の手を握った。 「一人ぼっちだなんて、誰が言ったの? あなたには啓太くんがいるじゃない!それにお腹の赤ちゃんも!」 啓太? 菖蒲の心は張り裂けそうだった。意識を失う直前、啓太に無情にも蹴られたことを、まだ覚えていた。 あのひと蹴りで、啓太への期待も幻想も、すべてが粉々に砕け散った。 それに、赤ちゃんって? 「赤ちゃん?」菖蒲はぽかんとした。「何のこと!」 優香は愛おしそうに菖蒲の頭をなでた。「おばかさんね、自分が妊娠してることも分からなかったの?」 そしてこう続けた。「先生が言うには、もう妊娠2ヶ月だって! 菖蒲ちゃん、お腹の赤ちゃんのためにも、自分の体を大切にしなきゃだめよ!」 菖蒲はその場で固まり、信じられないという思いで、まだ平らな自分のお腹を見つめた。 赤ちゃん? 自分と啓太の、赤ちゃん? 結婚して7年。二人はずっと子供を望んでいたけれど、なかなか授からなかった。 検査の結果、菖蒲の体に少し問題があり、自然に妊娠する可能性はとても低いと分かった。 医者からは体外受精を勧められた。 でも啓太は、治療が菖蒲の体に負担をかけることを心配していた。 啓太はかつて菖蒲を抱きしめて、優しくこう言った。「菖蒲、子供は諦めてもいい。お前の体を危険に晒すくらいなら、そのほうがいい。 俺たちには、お互いがいればそれで十分だよ」 菖蒲はもう、一実の母親にはなれないかもしれないという現実を受け入れていた。 なのに今、優香は、自分が妊娠したと言うの? 菖蒲がその知らせをまだ飲み込めないでいると、啓太が慌てて駆けつけてきた。 第4話 「菖蒲、遅くなってすまない」啓太が沈んだ顔で言う。 「おばあさんがこんなに急に逝ってしまうなんて……思ってもみなかった」 優香は啓太が来たのを見ると、気を利かせて部屋を出て行った。睦月との別れの時間を二人きりにしてくれたのだ。 部屋を出る前、優香は啓太に釘を刺した。「菖蒲ちゃんはいま体が弱っているから、しっかり面倒を見てあげてね」 啓太は真剣な顔で約束した。「ご心配なく、山下さん。必ずそうする」 優香がいなくなると、菖蒲は冷たく言い放った。「出ていって。あなたの顔なんて見たくない。 おばあちゃんだって、きっとあなたに会いたくないわ!」 菖蒲の、人を寄せ付けないような態度を見て、啓太は深いため息をついた。 「菖蒲、俺を責めてるんだろう。でも、俺にも事情があったんだ。 この間、会社が経営危機に陥ってね。それを救ってくれたのが、結衣のお父さん、B市の近藤グループの近藤健二(こんどう けんじ)さんなんだ」 健二? 菖蒲はきょとんとした。その名前にどこか聞き覚えがあるような気がした。どこで聞いたんだろう? 啓太は続けた。「近藤会長には、結衣という一人娘しかいないんだ。しかも彼女は、小さい頃から体が弱くて病気がちで。 そんな結衣に、おばあさんのために献血させるなんて、できるわけないだろう?」 「近藤会長って?」 心によぎったかすかな既視感を無視して、啓太の説明を聞きながら、菖蒲は鼻で笑った。 「結衣さんはただの配達員じゃなかったの?それがどうして、急にどこかの会長の娘になるわけ?」 啓太は言った。「結衣は、子供っぽいところがあってね。 前にお父さんと喧嘩して、家を飛び出しちゃったんだ! それで、自分の決意を示すために、お父さんのお金は一切使わないって言って、配達員をやってたんだよ。 A市では知り合いもいないから、俺が面倒を見てやるしかなかったんだ!」 この説明は筋が通っているように聞こえた。しかし菖蒲には、啓太が結衣の話をするとき、目が優しくなり、口元の笑みが隠しきれていないのがはっきりと見えた。 菖蒲は何も言わなかった。 啓太は、菖蒲の態度が和らいだと勘違いしたらしい。彼は一歩前に出て菖蒲を抱きしめ、誓うように言った。「菖蒲、前の俺の態度がお前を傷つけたことは分かってる。 埋め合わせをするチャンスをくれないか?」 啓太が真剣に言うのを見ながら、お腹の中にいる7年間待ち望んだ子供のことを思った。 菖蒲の心は揺れた。もう一度、啓太を信じてみようか? …… 退院後、菖蒲は啓太と一緒に家に帰った。 しかし、玄関のドアを開けた瞬間、目の前の光景に菖蒲は凍りついた。 結衣が、自分のシルクのネグリジェを着て、寝室から出てきたのだ。 濡れた髪、お風呂上がりの火照った頬。その態度はあまりにも自然で、まるで結衣がこの家の主であるかのようだった。 菖蒲は勢いよく振り返り、後ろにいる啓太を睨みつけた。「どうしてこの人がここにいるの?」 啓太は当然といった様子で前に出た。「菖蒲、言っただろう? 結衣は知り合いがいないんだ。俺が面倒を見てやらなきゃ!」 「面倒を見るって?」菖蒲の声は震えていた。 「だからって、私の家に住まわせて、私の服を着せるわけ? じゃあ次は、私の夫も譲れって言うつもり?」 その言葉に、結衣は瞬く間に目に涙を溜め、気まずそうな表情を見せた。 そしておどおどと啓太の服の裾を掴んだ。 「啓太さん、ごめんなさい。私が悪いの、菖蒲さんを怒らせちゃって…… この服はすぐ着替えるし、私もすぐに出ていくから……」 しかし啓太は、またしても結衣の前に立ちはだかった。彼は眉をひそめて言う。「菖蒲!いい加減にしろ! 結衣は今、頼れる人がいないんだ。俺はただ、助けてやってるだけだ! お前はもっと心の広い人間だったはずだ。どうして今は、そんなに人を追い詰めるようなことばかり言うんだ?」 啓太の心底がっかりしたような顔を見て、菖蒲はたまらなく皮肉に思えた。 ついさっきまで自分を熱く抱きしめていた夫が、今は別の女を庇っている。 もう一度啓太を信じようと思ったさっきまでの自分が、馬鹿みたいだと思った。 菖蒲は疲れていた。「分かったわ。もう何も言わない。 今はただ休みたいだけなの。そこをどいてくれる?」 結衣は唇を噛んで道を譲ろうとしたが、啓太にぐっと腕を引かれた。 啓太の口調は氷のように冷たかった。「結衣は体が弱いんだ。寝室じゃないとゆっくり休めない。 菖蒲、今夜は家政婦部屋で寝ろ。 冷静に話せるようになったら、また話をしよう」 その瞬間、菖蒲の中で、心が粉々に砕け散る音がした。 菖蒲は啓太を見た。その瞳にもはや愛情はなく、底なしの悲しみと絶望だけが宿っていた。 「いいわ、家政婦部屋に行く」菖蒲は、驚くほど静かにそう言った。 背を向け、一歩、また一歩と、狭く冷たい部屋へと向かった。 ドアを閉めると、こらえていた涙がついにあふれ出た。 菖蒲はスマホを取り出した。待ち受け画面は、6歳の菖蒲と直美、そして睦月が一緒に写っている写真だった。 直美が病気で亡くなった後、幼い菖蒲は睦月の温かい腕の中で思う存分泣くことができた。 でも今は、睦月も逝ってしまった。この苦しみを、誰に打ち明けたらいいのだろう? 菖蒲は直美と睦月の写真を見つめ、つぶやいた。「お母さん、おばあちゃん、私どうしたらいいの?」 写真の中の直美は、か弱さの中にも芯の強さを感じさせた。 睦月の眼差しは優しく、それでいて賢明だった。 菖蒲は、子供の頃、直美に「パパは?」としつこく聞いていたことを思い出した。 すると直美はこう答えた。「パパは悪いことをしたの。だから、ママはもう一緒にいたくないのよ。 菖蒲、大丈夫よ。パパがいなくたって、菖蒲は元気で幸せに大きくなれるわ!」 菖蒲の中で、答えが見つかった気がした。彼女は歯を食いしばって涙をぬぐうと、スマホで検索を始めた。「A市の離婚弁護士」と。 もう、全てを終わらせる時が来たのだ。 第5話 睦月の葬儀は、どんよりと曇った日の午後に行われた。 「ひだまり子供の家」の先生や子供たち、それに、睦月に助けられたたくさんの人たちも参列してくれた。 小さな告別式場は、すすり泣く声でいっぱいだった。 菖蒲は喪服に身を包み、大きな悲しみをこらえながら、弔問客の対応をしていた。 優香がずっとそばにいてくれて、時々小声で尋ねた。「菖蒲ちゃん、大丈夫?少し座って休んだら?」 菖蒲はただ首を横に振るだけだった。でも、ついドアの方に視線を送ってしまう。 施設の子供たちが何人か、菖蒲の服のすそを引っ張って、無邪気に聞いた。「菖蒲姉ちゃん、啓太兄ちゃんは?」 優香は心配そうな顔をした。「菖蒲ちゃん、啓太くんと喧嘩でもしたの? だって……そうでなきゃ、藤原園長の葬儀のことを、どうして私に知らせに行かせたりするの?」 菖蒲はうつむいたまま、何も言わなかった。 優香は、言い聞かせるように続けた。「菖蒲ちゃん、あなたと啓太くんは、二人とも私が小さい頃から見てきた子なのよ。 二人が結婚した時は、施設の皆が本当に喜んだんだから。 夫婦なんて、喧嘩しない方が珍しいわ。 でもね、啓太くんがあなたを想う気持ちは本物だって、私には分かる……」 優香が語る啓太との子供の頃の思い出話を聞いていると、菖蒲は鼻の奥がツンとして、涙がこぼれそうになった。 啓太はもう他の人を好きになってしまったなんて、優香にどうやって伝えればいいんだろう? その時、告別式場の入り口に二人の姿が現れた。啓太と、彼のすぐそばに寄り添う結衣だ。 なんてこと。睦月の葬儀に、この女を連れてくるなんて。 菖蒲の顔から、さっと血の気が引いた。 菖蒲は足早に近づくと、啓太を無視して結衣を睨みつけた。そして、氷のように冷たい声で言った。「ここはあなたが来ていい場所じゃない。帰ってちょうだい」 結衣はびくっとして、啓太の後ろに隠れるようにしながら小声で言った。「菖蒲さん、私、あなたのおばあさんをお見送りしたくて……」 「お見送り?」菖蒲は心底馬鹿らしくなった。「いったいどういう立場で? おばあちゃんが事故に遭う原因を作った加害者として?それとも……」 菖蒲は周りを見渡すと、怒りを必死に抑え、声を潜めて続けた。「その孫から夫を奪った、泥棒猫として?」 「違う……そんなことしてない……」結衣は、みるみるうちに目を赤くした。 今にも泣き出しそうな結衣の様子を見て、啓太はたまらなく可哀想に思った。 彼は不快感をあらわにして、菖蒲を見た。「菖蒲、言い過ぎだぞ! 結衣はおばあさんが亡くなったと聞いて、わざわざ弔問に来てくれたんだ。善意で来てくれたんだよ。 どうしてそんなひどい言い方ができるんだ?」 「啓太!」菖蒲は、こぶしを固く握りしめた。 啓太に言い返したかった。でも、周りの人たちの目があって、ぐっとこらえた。 睦月の葬儀で醜い騒ぎを起こしたくない。睦月を、安らかに見送りたかった。 でも、菖蒲が我慢すればするほど、相手はつけあがるだけだった。 すると、結衣が突然苦しそうに胸を押さえ、顔をしかめた。 啓太はすぐに駆け寄って、心配そうに尋ねた。「結衣、どうしたんだ?」 結衣は弱々しく言った。「啓太さん、私、菊の花粉アレルギーなの」 啓太は焦った。「なんだって!どうして早く言わないんだ!」 彼は式場のスタッフを呼びつけた。「ここの供花を全部片付けてください!」 スタッフはきょとんとして、信じられないという顔で聞き返した。 「供花を、片付けるんですか?」 「ああ、すぐに!」啓太の口調は、有無を言わせないものだった。 傍にいた菖蒲は、怒りで全身が震えた。声も、抑えきれない怒りでかすかに震えていた。 「啓太、気は確かなの! 今日はおばあちゃんの葬儀なのよ。それなのに、この女のために供花を片付けろって言うの! 葬儀を台無しにするつもり?」 啓太は眉をひそめた。「菖蒲、また訳の分からないことを言って。 結衣は花粉アレルギーなんだぞ!苦しそうなのが分からないのか? 死んだ人間より、生きてる人間の方が大事だろうが!」 菖蒲は唇を震わせた。結衣が花粉アレルギーだなんて、知ったことか、と叫びたかった。 でも、菖蒲が声を上げるよりも早かった。 この騒ぎに、優香や他の参列者たちが気づいたのだ。 優香がやって来た。「どうしたの?」 啓太に寄り添う結衣を見て、優香は尋ねた。「啓太くん、こちらの方は?」 啓太は紹介した。「俺の友人だ……」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、幼いけれどはっきりとした声が響いた。 「このお姉ちゃんだ!」 一人の小さな女の子が、優香の後ろから顔を出し、小さな指で結衣を指さした。その声には確信がこもっていた。 「私、見たの!あの日、このお姉ちゃんがバイクで信号無視したんだよ! トラックのおじさんがこのお姉ちゃんを避けようとして、園長先生にぶつかったんだ!」 その言葉は、まるで爆弾が落ちたかのようだった。 その瞬間、結衣に向けられる全ての視線が変わった。 「こいつが原因だったのか!」 「藤原園長を死なせたのに、よくもまあ葬式に顔を出せたもんだ」 「菅原さんもどうかしちまってるぜ。あんな女をかばうなんて!」 非難と叱責が、津波のように結衣と啓太に押し寄せた。 結衣の顔は、たちまち真っ青になった。 第6話 結衣はよろよろと崩れ落ちそうになりながら言った。「わざとじゃないの……本当にわざとじゃないの…… 本当にごめんなさい。この命でお詫びするから!」 そう言うと、結衣は興奮した様子で、柱に向かって頭を打ち付けようとした。 啓太は顔色を変え、慌てて結衣を強く抱きしめた。「結衣!バカなことはやめろ!」 啓太はわなわなと震え、涙にくれる結衣を強く抱きしめた。 そして菖蒲に顔を向けた時、彼の目からは罪悪感のかけらも消え、ただ怒りに燃える冷たさだけが残っていた。 「菖蒲!」啓太の声は氷のように冷たかった。「結衣を追い出すために、ずいぶんと手の込んだことをするじゃないか! あんな小さい子に嘘まで教え込むなんて。結衣の悪口を言わせるためか? いつからそんなに根性の悪い女になったんだ!」 「そんなことしてない!」 啓太が、自分のことをそんな風に思っていたなんて。 菖蒲は信じられない思いだった。 「もういい!」啓太は明らかに、どんな言い訳も聞く耳を持たなかった。 彼はそのままスマホを取り出して電話をかけると、冷たい声で命じた。「菅原だ。何人か西山葬儀場に寄こしてくれ」 電話を切ると、啓太は菖蒲を冷酷な目つきで睨みつけた。「菖蒲、今、最後のチャンスをやろう! 結衣に謝れ。 結衣がお前を許してくれるなら、これまでのことは全部水に流してやる!」 「謝る?」菖蒲は信じられないという顔をした。「啓太、私が謝るって?どうしてよ?」 菖蒲は全身を震わせた。「謝るべきなのは彼女の方でしょ!それに、あなたもよ!」 啓太の顔が険しくなった。 彼はもう菖蒲を見ようともせず、ただ冷たく二文字だけ吐き捨てた。「やれ」 すでに告別式場に駆けつけていた黒スーツの男たちが、すぐさま前に出て、弔問客を「退場」させ始めた。 「皆さん、出て行ってください! 葬儀は中止になりました! さあ、出てください!」 乱暴に追い立てる声が弔いの音楽に取って代わり、厳かだった告別式場は一瞬にして大混乱に陥った。 子供たちは怖がって泣き出した。 優香や「ひだまり子供の家」の職員たちが抗議しようとした。しかし、黒服の男たちに容赦なく突き飛ばされた。 「やめてください!手を離してください!」菖蒲は悲鳴を上げて止めようとした。 しかし、か弱い女一人で、屈強な男たち数人に敵うはずもなかった。 菖蒲はあっさりと突き飛ばされ、向きを変えて啓太に飛びつき、その腕を強く掴んだ。「啓太!狂ってるわ! この女のために、本当におばあちゃんの葬儀を台無しにするつもりなの!?」 彼女は涙を流しながら叫んだ。「啓太、忘れたの? あなたが8歳の時、ご両親が事故で亡くなって、親戚からゴミみたいに施設に放り込まれたでしょ!そんなあなたに、おばあちゃんが居場所をくれたんじゃない! 12歳の時に病気で熱を出したあなたを、一晩中寝ないで看病してくれたのもおばあちゃんよ! 大学を卒業して起業したいって言った時は、自分の家を売ってまで、あなたに資金を渡してくれたのよ! おばあちゃんは20年間、あなたのことを本当の孫みたいに可愛がってくれた! 20年間も育ててもらった恩を、こんな形で返すっていうの?自分の手でおばあちゃんの葬儀をめちゃくちゃにして! 啓太、あなたの良心はどこに行ったのよ!」 菖蒲は血を吐くような思いで訴えた。 しかし啓太は苛立ったように、菖蒲の手を強く振り払った。「もういい、菖蒲! おばあさんは『ひだまり子供の家』の園長だ。施設の子供たちの面倒を見るのは、仕事だろ! 起業資金だって、もし俺がお前と付き合ってなかったら、おばあさんが俺に金をくれたと思うか?」 啓太は冷たい口調で言った。「恩着せがましいのはもううんざりだ! こうなったのは、全部お前のせいだ!」 混乱の中、誰かが誤って睦月の骨壷と遺影を置いたテーブルにぶつかり、ひっくり返してしまった。 ガッシャーン。 ガラスが割れる甲高い音が、その場にいた全員の耳をつんざいた。 睦月の遺影が、テーブルから滑り落ちた。 額縁のガラスは一瞬で粉々に砕け散った。 そこに、洗練されたハイヒールを履いた足が、「ちょうど」砕けた遺影を踏みつけた。結衣だ。 結衣は混乱した状況に驚いたようで、「うっかり」一歩後ずさりした。すると、そのヒールの踵が、ちょうど睦月の微笑む顔の上を踏みつけたのだった。 「おばあちゃん!」菖蒲は激しい怒りで目が張り裂けんばかりだった。 菖蒲はなりふり構わず駆け寄り、睦月の写真を取り戻そうとした。 しかし啓太は、菖蒲が結衣に危害を加えようとしているのだと勘違いした。 彼は素早く再び菖蒲を捕まえると、力任せに後ろへ突き飛ばした。 「きゃっ!」 菖蒲は地面に強く叩きつけられた。 お腹に走る激痛が、まるで体を引き裂くかのようだった。 温かく、ねっとりとした液体が止めどなく下半身から流れ出し、菖蒲が着ていた黒い服に素早く染み込んでいった。 赤ちゃんが…… 冷たい床の上で体を丸め、お腹の中の小さな命が急速に失われていくのをはっきりと感じていた。 菖蒲は顔を上げ、衝撃に目を見開く啓太を見つめた。そして、唇をぱくぱくとさせながら言った。「啓太、離婚しよう」 第7話 菖蒲は、手術室の無影灯がこんなにも眩しいものだなんて知らなかった。涙が勝手にあふれてくるほど、目に突き刺さる光だった。 白衣を着た医者は菖蒲が泣いているのに気づくと、気を遣って慰めてくれた。「気を落とさないでください。手術は無事に終わりましたよ。 まだお若いんだから、また赤ちゃんは授かりますよ」 そばにいた若い看護師が、慌てて医者を隅へと引っ張っていった。 菖蒲の耳に、看護師の声がかすかに届いた。「この方の旦那さんが、浮気相手と一緒に来て…… ええ、彼女のおばあさんのお葬式の会場から救急車で運ばれてきたみたいで…… なんだか、すごくお気の毒で……」 菖蒲は、皮肉な笑みを浮かべた。 こんな人生、まるでとんでもない冗談みたいだ。 病室に運ばれた菖蒲の目に、最初に飛び込んできたのは、複雑な感情を浮かべた啓太の顔だった。 啓太はベッドのそばに座っていた。目の下にはクマができていて、声もかすれている。「菖蒲……大丈夫か?」 彼は一瞬ためらい、苦しそうに言葉を絞り出した。「すまない、お前が妊娠しているなんて知らなかったんだ」 「知らなかった?」菖蒲の声は、今にも途切れそうにかすれていた。 菖蒲は啓太の方を見ず、うつろな目で天井を見つめたまま言った。「知っていたからって、何か変わったっていうの?」 啓太はその問いに言葉に詰まり、気まずそうな表情を浮かべた。 答えることができなかった。 「啓太」菖蒲は顔を啓太に向けた。その瞳は、まるで光を失っているようだった。「離婚しよう」 啓太の体はこわばった。そして、とっさに拒絶した。「だめだ!」 そして説明した。「今はまだ体が万全じゃないだろ。離婚の話は……元気になってからにしよう」 そう言うと、ポケットからキャッシュカードを取り出し、ベッドサイドのテーブルに置いた。「ここに1000万入っている。俺からの……お前と……子供への、せめてもの償いだ」 菖蒲はカードには目もくれず、ただ口の端をかすかに、冷たく歪めた。 償い? たった1000万円で、あの子の命を買うつもり? その時、啓太のスマホが鳴った。 啓太は着信表示を一目見て顔色を変えると、すぐに立ち上がって窓際で電話に出た。 菖蒲の耳に、啓太の声がはっきりと聞こえてきた。その声色は、先ほどとは打って変わって優しく、焦っている。「結衣?どうしたんだ? 泣かないで、ゆっくり話して……わかった、すぐ行くから!」 電話を切ると、啓太は菖蒲に一瞥もくれず、「ゆっくり休んでろ」とだけ言い捨てて、振り返りもせずに病室を飛び出していった。 ベッドに横たわりながら、遠ざかっていく啓太の足音を聞いていた。菖蒲は、心にぽっかりと開いた大きな穴に、冷たい風が吹き込んでくるのを感じていた。 翌日の午前中、菖蒲のスマホがけたたましく鳴り響いた。 電話の相手は、優香だった。 電話に出ると、すぐさま優香の泣きそうな声が聞こえてきた。「菖蒲ちゃん!大変よ! 啓太くんが……啓太くんが、大勢の人を連れて、ショベルカーで施設に! ここを壊すって言ってるの!早く来てちょうだい!」 ガシャンという音を立てて、菖蒲のスマホが床に落ちた。 医者から絶対安静だと言われていたのも構わず、菖蒲は弱りきった体を引きずり、ふらつきながら病院を飛び出した。そして、タクシーを捕まえて「ひだまり子供の家」へと急いだ。 駆けつけた時、そこに広がっていたのは、心が張り裂けそうな光景だった。 巨大なショベルカーが、まるで鉄の獣のように施設の門の前に何台も停まっていた。 啓太は無表情で一番前に立っていた。彼が連れてきた男たちが、泣き叫ぶ子どもたちや、必死に懇願する優香たちを無理やり追い払っていた。 「啓太!」菖蒲は走り寄り、ショベルカーの前に立ちはだかった。「気は確かなの?」 弱っているせいと怒りのせいで、菖蒲の声は震えていた。「なんの理由もなく、どうして施設を壊したりするの!?」 啓太は菖蒲に気づくと、突き刺すように冷たい視線を向けた。 「なぜかって?」啓太は鼻で笑うと、菖蒲の顎を掴んだ。 「菖蒲、知っているか? 結衣が昨日の夜、手首を切って自殺を図ったんだ!」 顎の痛みに、菖蒲は顔をしかめた。 啓太の言葉に、菖蒲は少し驚いた様子だった。 「自殺?どうして自殺なんて?」 啓太は憎しみのこもった目で睨みつけた。「菖蒲、この期に及んでまだしらを切るつもりか! 結衣が自殺を図ったのは、全部お前のせいだ!」 第8話 昨日、葬儀で起きたことが、何者かによってネットに投稿されたらしい。 【#夫、愛人を連れ妻の祖母の葬儀を妨害】という見出しで、ネットのトレンドランキングに入っていたのだ。 ネット民たちは次々と情報を掘り起こした。睦月が「ひだまり子供の家」の園長だったこと、啓太がそこで育ったことだけじゃない。なんと、事故現場の監視カメラの映像までネット上に公開されたのだ。 監視カメラの映像には、結衣がバイクで信号無視をする様子がはっきりと映っていた。 結衣を避けようと、トラックの運転手は急ハンドルを切った。そして、歩道にいた睦月に衝突してしまったのだ。 事故を起こした後、パニックになった結衣は、真っ先にバイクに乗って逃げようとした。 トラックの運転手が結衣を必死に捕まえ、なんとかその場から逃がさなかった。 ネット民たちの手によって、事件の全貌はすっかり明らかにされていた。 結衣と啓太の行動に対し、ネット民たちの怒りは頂点に達していた。 【クズ男と悪女、ろくな死に方しないわよ!】 【トラックの運転手さんがかわいそう。ハンドルなんて切らなきゃよかったのに!あんな信号無視する迷惑女、はねられて死んでも自業自得だわ!】 【藤原園長、かわいそうにな。いい人ほど長生きしないんだな……】 【これって、考えすぎかな?奥さんのおばあさんが、愛人のせいで死ぬなんて偶然、ある?本当にただの偶然なの?警察には、あのクズ男と愛人を徹底的に調べてほしい!】 【みんなで呪おう!愛人の一家もろとも地獄に落ちろ!】 ネット上に溢れかえる自分への誹謗中傷に耐えきれなくなった結衣は、手首を切って自殺を図った。 啓太は目を真っ赤に充血させていた。「菖蒲、おばあさんの死はただの事故だったはずだ! なんでお前は、この一件を結衣のせいだって決めつけたがるんだ? 結衣は心優しくて、純粋な子なんだぞ。おばあさんの死で、もう何日も眠れてないんだ! なのにお前は、なんで結衣を追い詰めるようなことするんだ!」 「やってない!」菖蒲は、とっさに否定した。 確かに憎んではいた。でも、こんなやり方をするほど落ちぶれてはいない。 「まだ白を切るつもりか?」啓太は怒りに顔を歪めた。 「菖蒲、人は自分のしたことの代償を払わなきゃならないんだ! お前が結衣を傷つけるなら、俺はお前が一番大事にしているものを壊してやる! 『ひだまり子供の家』が、その代償だ!」 そう言うと、啓太は無情にも手を振り下ろした。 ショベルカーのエンジンが轟音を立て、巨大なアームが施設の塀に向かって、無慈悲に振り下ろされた。 「やめて!」菖蒲は危険も顧みず、その身でショベルカーのアームの前に立ちはだかった。 ショベルカーは、やむなく停止した。 啓太はかっとなって駆け寄った。「菖蒲、死にたいのか?」 菖蒲は涙を流しながら啓太に懇願した。「啓太、ここはおばあちゃんが生涯をかけて築いた場所なの。 私が子供のころから、ずっと育ってきた場所でもあるの。 お願い、壊さないで! ここに手を出さないでくれるなら、何でもするから!」 その言葉を聞いて、啓太は眉を上げた。「何でもする、だって?」 菖蒲はうなずいた。 「いいだろう!」啓太は菖蒲の腕をぐいと掴み、施設の中へずんずん歩いて行った。 プレイルームのドアが乱暴に開けられ、菖蒲は床に強く突き倒された。 菖蒲は、中絶手術を受けたばかりだった。半日以上も動き回ったせいで、体はもう限界に達していた。 足の力が抜け、ぐったりと床にうずくまった。 啓太は冷たくしゃがみ込むと、一枚の紙を菖蒲の前に投げつけた。「これにサインすれば、『ひだまり子供の家』には手を出さない」 菖蒲は震える手でその紙を受け取った。だが、それに目を通した瞬間、全身の血が凍りついたかのようだった! 彼女は信じられないといった顔で啓太を見上げた。「ネットの暴露は、全部私が仕組んだことだって言えと? しかも、おばあちゃんが事故に遭ったのは、自分から道路に飛び出したせいだって……そんな嘘を認めろっていうの?」 菖蒲は悲しみと怒りに打ち震えた。「啓太……それでも人間なの!? この声明書にサインしたら、私がどうなるか分かってるの?おばあちゃんが、どんな風に言われるか分かってるの?」 啓太の眼差しは鋭かった。「菖蒲、今ごろ怖くなったのか? お前がネットに情報を流させた時、こうなることは覚悟の上だったんだろう! 全部、お前の自業自得だ!」 第9話 菖蒲は震える唇で否定した。「ネット工作なんてしてないわ! ネットの暴露も私とは関係ない!」 それでも認めない菖蒲に、啓太の怒りは頂点に達した。彼は菖蒲の髪を掴みあげた。「お前じゃなきゃ、他に誰がいるって言うんだ?」 啓太は嫌悪感をあらわにした。「菖蒲、お前はただ嫉妬深いだけで、結衣のことが嫌いなんだと思ってた。 でも今は違う。お前は結衣を本気で陥れようとしてるんだな! なんて性悪なんだ! そこまでするなら、こっちも容赦しない!」 啓太は冷たい声で言った。「この声明書にサインしろ。お前に拒否権はない」 「サインなんてしない!」菖蒲は声明書を床に叩きつけた。 彼女は弱った体に力を入れて、啓太を憎々しげに睨んだ。「結衣さんに謝るわ。私の流産は彼女とは関係ないって、そう言ってもいい。 でも、おばあちゃんが自分の不注意で事故に遭ったなんて、絶対に言えない! おばあちゃんは、ずっと真面目に生きてきたの。死んだ後に、またこんな風に汚名を着せるわけにはいかない!」 「ほう、たいしたもんだな!」啓太は怒りのあまり、逆に笑みを浮かべた。「菖蒲、俺はチャンスをやったんだ。だがお前は、それを選ばなかった!」 啓太は立ち上がると、ドアの外に向かって命じた。「始めろ!このボロい施設を壊してしまえ!」 「やめて――啓太、ダメ!」菖蒲は止めようと飛びかかったが、啓太に乱暴に突き飛ばされた。 背中を机の角に強く打ち付け、息が詰まるほどの痛みが走った。 窓の外では、ショベルカーのアームが冷たく光っていた。 ゴォォッという音と共に、壁が崩れ落ちた。 「壊さないでください!お願い、やめてください!」 優香や子供たちが泣きながら止めに入ったが、啓太の部下たちに無理やり引き離されてしまった。 外から聞こえてくる泣き叫ぶ声に、菖蒲の心は痛みで麻痺していった。 「ひだまり子供の家」は、自分と子供たちの家だ。そして何より、睦月が一生をかけて築き上げた場所だった。 それを啓太に壊されるのを、黙って見ているわけにはいかなかった。 「サインする!サインするから!」菖蒲は、ついに泣き崩れた。 彼女の声は途切れ途切れだった。「声明書にサインするから……お願い……止めて……」 啓太は鼻で笑うと、床から声明書とペンを拾い上げ、菖蒲の前に放り投げた。 菖蒲の手はひどく震え、ペンが何度も指の間から滑り落ちた。 屈辱的な声明書を見つめていると、まるで睦月のがっかりした顔が目に浮かぶようだった。 一文字書くたびに、まるで心臓をえぐられるような痛みが走った。 ついに、震える手で自分の名前を書き終えた。 ペンを置いた瞬間、啓太は声明書をひったくった。 彼はそのサインを見て、満足そうな笑みを浮かべた。 「最初から素直にこうしていれば、面倒なことにならなかったんだ」啓太は声明書を丁寧に折り畳んでポケットにしまった。 ぐったりと床に崩れている菖蒲を一瞥すると、啓太は優しげなふりをして彼女の髪を撫でた。「安心しろ。今は壁が壊れただけだ。ちゃんと直させるから」 そう言うと、背を向けて大股で去っていった。 菖蒲はなすすべもなく床に突っ伏し、涙に濡れていた。 しかし、気持ちが落ち着く間もなく、ショベルカーの轟音がどんどん近づいてくるのが聞こえた。 窓の外では、現場監督がショベルカーに指示を出していた。「まず、この部屋からだ」 菖蒲は慌てて叫んだ。「やめてください!部屋に人がいるんです!」 だが、機械の轟音が、そのか細い叫び声をかき消してしまった。 立ち上がろうとしても、流産の手術をしたばかりの体は弱りきっていて、立つことさえできなかった。 菖蒲は震える手でスマホを取り出し、啓太に電話をかけようとした。「啓太、約束したじゃない……」 しかし、絶望的なことに、聞こえてくるのはツー、ツーという話し中の音だけだった。 その時だった。ガラガラガッシャーン。 菖蒲は、はっと顔を上げた。 レンガや瓦、木の梁が、まるで豪雨のように降り注いできた。 菖蒲は目を見開いた。 「助けて」と叫ぶ間もなく、体は暗闇の中に沈んでいった。