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クチナシが咲く頃に
夜中、松本凛(まつもと りん)の子宮口が3センチも開いたのに、胎児の首にへその緒が三重に巻き付いてしまっていることが分かった。 「ご家族...
Chương (1)
第1章
夜中、松本凛(まつもと りん)の子宮口が3センチも開いたのに、胎児の首にへその緒が三重に巻き付いてしまっていることが分かった。
「ご家族の方は?いったいどこに行っちゃったんですか!」
さっきまで分娩室のドアの前で待っていたはずの松本翔平(まつもと しょうへい)が見つからなく、看護師長は焦りで泣き出しそうだった。
看護師長は凛に同意書を差し出す。
「すぐに帝王切開をしないといけないのですが、ご主人と連絡がつかないんです。なので、ご自身でサインしていただけますか?」
第1話
夜中、松本凛(まつもと りん)の子宮口が3センチも開いたのに、胎児の首にへその緒が三重に巻き付いてしまっていることが分かった。
「ご家族の方は?いったいどこに行っちゃったんですか!」
さっきまで分娩室のドアの前で待っていたはずの松本翔平(まつもと しょうへい)が見つからなく、看護師長は焦りで泣き出しそうだった。
看護師長は凛に同意書を差し出す。
「すぐに帝王切開をしないといけないのですが、ご主人と連絡がつかないんです。なので、ご自身でサインしていただけますか?」
「そんな遠くへ行くはずはないと思います!わ……私、電話しますね!」
5回連続で電話をかけた。しかし、聞こえてきたのは冷たく耳障りな呼び出し音だけ。凛の心は、底なし沼に沈んでいくように、どんどん重くなっていく。
23時58分。どんどん激しくなる陣痛のなか、凛は面倒を見ている女子大生、入江百合(いりえ ゆり)が更新したインスタの投稿を目にした。
【彼氏が成人のお祝いをくれるんだって】
23時59分。百合が再び投稿をする。
【もう我慢できないって言われた】
凛は携帯に向かって必死に叫ぶ。「翔平、どこにいるの……」
0時1分、携帯の画面が光った。
【彼氏とひとつになれた。一緒にお風呂にも入って……大人の世界ってすてき】
激しい痛みの中、凛は震える手でサインし終えると、麻酔で意識を失った。
しかし、この翔平に電話をかけたり、サインをしたりしていた僅か数分の遅れのせいで、胎児は臍の緒が絡まったことにより窒息死し、凛自身も出血多量で命の危機に瀕したのだった。
夜が明ける頃、麻酔から覚めた凛は、空っぽになった腹部と麻痺するほど痛む傷口から、赤ちゃんがいなくなったことを感じた。
一方、百合のインスタでは、ある男とキスしている写真をぼやかすように加工したものが、嫌でも目に入るようトップに固定されていた。
【大人の『お』は、堕ちるの『お』。一生忘れられない、7回の『大人への階段』をありがとう】
どんなにぼやけていても、凛にはそれが翔平だと分かった。
「その有名な弁護士先生、奥さんが裏社会の人たちに襲われた事件の裁判で勝つために、色々してたらもう少しで殺されるところだったんだって!」
「赤ちゃんも体外受精を6回もしてやっと授かったらしいのにね。すごい大切にしているように見えたけど、なんで肝心な時に連絡がつかなかったんだろう?」
そんな噂話が聞こえる中、目を真っ赤に泣き腫らした翔平が飛び込んできた。子供が亡くなったことは、もう知っているようだった。
しかし、彼の首筋に残る乱れたキスマークは、昨夜の7回にわたる情事をはっきりと物語っている。
凛は虚ろな目で翔平を見つめた。何度か口を開こうとしたが、痛みで一言も声が出せない。
「凛!ごめん、明け方にすごく急な案件の電話が入ってしまって……それに、君なら自然分娩でいけると思ってから……
子供はまた作ればいい。これからはずっと傍にて、もう君から絶対に離れないから」
翔平は嘘をついているのに、そこからは何の後ろめたさも感じられず、彼の悲しみは本物のように見えた。
その偽りの仮面に、凛は吐き気を催し、目の前がぐるぐると回るような感覚に襲われた。
凛には理解できなかった。あんなに自分を愛してくれていた翔平が、どうして出産を控えた自分を放り出して、18歳になったばかりの人と一晩に7回も体を重ねることができたのだろう?
翔平の浮気のせいで、自分が9ヶ月もの間お腹で守ってきて、もうすぐ会えるはずだった我が子が、今頃は冷たい霊安室で小さな体を丸めて横たわっているのだと思うと、凛は胸に無数の棘が突き刺さるような痛みを感じた。
吐き気がこみ上げてきたが、看護師がお腹を押さえつける激痛で、意識が遠のきそうだった。
「少し我慢してくださいね。子宮の底を押すのは、悪露を早く出すためですから」看護師は、まるでお腹を突き破るかのような力で押した。
「すみません、もう少し優しくはできませんか?妻は痛みに弱いので」と、翔平が言う。
凛の手を固く握りしめ、目に涙を浮かべる翔平のその表情は、痛みは全部、自分が代わってあげたいとでも言いたげだった。
しかし次の瞬間、凛はありったけの力でその手を振り払った。
そして、まるでシーツを引き裂いてしまいそうなほどの力で、シーツを固く掴む。
翔平は一瞬、表情を強張らせた。もう一度凛の手を握ろうとしたその時、不意にドアが開き、大きなジャスミンの花束が人の姿より先に凛の視界に飛び込んできた。
「凛さん。さっき、赤ちゃんが亡くなったって知って……」そう言いながら花を置く百合の首筋には、翔平とお揃いのキスマークがあった。「この白い花、ちょうど今の状況にぴったり」
凛は激しく咳き込み、ベッドの脇にあった花束を力任せに床へ叩き落す。
「出ていって!」凛は低く唸るように言った。
「凛!」翔平が顔色を変える。「何するんだよ!せっかく百合が見舞いに来てくれたのに。それに、今回のことは、何も知らないんだから!
早く百合に謝れ。君は産後でホルモンバランスが崩れてるんだろう。百合はまだ子供だけど、きっと分かってくれるから」
「子供?」凛は真っ青な顔で、力なく笑った。
人の旦那のベッドに転がり込んでくる女が子供だって?
結局、凛はその場で二人を問い詰めることはせずに、ただ涙をこらえてこう尋ねた。「翔平。私がジャスミンの花にアレルギーがあるってこと忘れたの?」
百合を宥めようとしていた翔平の動きが、ぴたりと止まり、その手が宙に浮いたままになった。
「ご家族の方、サインをお願いできますか?」
外から看護師の声が聞こえてくると、翔平は逃げるように足早で部屋を出ていった。
百合はドアを閉めると、それまでのおとなしい態度を一変させ、不気味な表情で一歩ずつ凛に近づいてきた。
「凛さん。全部知ってるくせに、どうして何も言わないの?
まあ、翔平さんは素敵な人だもんね。あの人と別れたくないんでしょ?
大丈夫。凛さんのために、まだまだたくさんサプライズを用意してあるからさ!これから……じっくり楽しみにしててね!」
そう言うと、百合は「パァンッ」と自分の頬を叩き、ジャスミンの花束を拾い上げると、泣きながら部屋を出て行った。
ドアの外から、翔平の優しい声が聞こえてきたが、凛の病室のドアが再び開かれることはなかった。
日が暮れる頃、翔平からメッセージが届いた。
【凛、数日間出張になったんだ。だから、君の体調が回復したら、一緒に赤ちゃんのお葬式をあげてあげよう】
凛はそのメッセージを読むと、そのまま削除し、ある番号に電話をかけた。
「法律事務所でお世話になる話、受けさせてもらうわ。1ヶ月後、時間通りに出勤するから」
決意はもう固まっていた。
1ヶ月あれば、できることはたくさんある。
子供の事を済ませて、離婚し、自分の身の回りを整理する。
そして――
翔平は絶対に許さない。
社会的に抹殺してやる。
第2話
翌朝、凛はたった一人で胎児の亡骸を抱え、葬儀場へと向かった。
腕の中の青紫色になってしまった小さな体を抱きしめ、声を詰まらせながら語りかける。
「あなたを見送るのはママ一人でやるからね。パパは汚すぎる。きれいなあなたにはふさわしくないもの」
小さな体が火葬炉へと送られるとき、凛はついに堪えきれず、声を上げて泣き崩れた。
「ママが馬鹿だったせいで……守ってあげられなくて、ごめんね」
そのとき、携帯が不意に震えた。
百合から送られてきた写真が、涙でぼやけた視界に突き刺さる。
豪華なクルーズ船の上で、ドレスを着た百合がバースデーケーキを前にお願いごとをしていた。
そして、そんな百合を翔平がとろけるように甘い目で見つめている。
【凛さん。私が何をお願いしたか分かる?】
【凛さんが一生、子供の産めない体でいますようにってお願いしたんだ】
凛は指の関節が白くなるほど携帯を強く握りしめた。
職員の人が出てきて、猫の足跡が描かれた骨壺を凛に手渡す。その声は、少し震えていた。
「まだとても小さなお子さんでしたから……火の温度と時間を調整したのですが、それでも残ったのは、僅か4グラムでした」
4グラム。
それは、ほとんど重さを感じられない。
そのあまりの軽さに、凛は押しつぶされそうで今にも倒れそうだった。
胸に走る激痛をこらえながら、凛は「松本光(まつもと ひかり)」と言う名前が刻まれたお守りをそっとその中に入れる。
骨壺の口が閉じられた瞬間、まるで自分の心も一緒に封じ込められてしまったかのように感じた。
凛は携帯の電源を切ると、まっすぐC市にあるお寺へと向かった。
そこに5日間泊まり込み、位の高い僧侶に頼んで、光のために供養のお経をあげてもらった。
5日後、凛は自宅へ戻った。
ドアを開けた瞬間、その場に凍りついてしまった。
青色だったカーテンはピンク色に、シルクのカーペットはウールのものに変わっていた。そして、部屋には濃厚なジャスミンの香りが立ち込めている。
「凛さん?」
驚いたように振り返る百合の手には、凛が一番気に入っているアンティークのコーヒーカップが握られていた。
凛は冷たく言い放つ。「どうして私の家にいるの?」
「凛?」
普段は料理などしない翔平が、エプロン姿で出てきた。その声には、どこか慌てたような響きがある。
「産後でまだ体力が回復してないから、入院してなきゃだめなのに、なんで勝手に帰ってきちゃったんだ?君のためにスープを作って、病院に届けてあげようと思ってたのに」
翔平はさすがこの辺りで最も有名な弁護士なだけあった。
ほんの数秒で表情を切り替え、心から凛を気遣っているかのように振る舞う。まるでそのスープが、本当に凛のために作られたものであるかのように……
凛は変わり果てた家の中を見回し、激しく胸を上下させた。
「もし帰ってこなかったら、家がこんな風になって、他の女が住み着いているなんて、分かんないでしょ?」
「何馬鹿なことを言ってるんだ!」翔平が眉間にしわを寄せる。「君は百合を小さい頃から、面倒見てきたし、あんなに可愛がってただろ?なのに、一体どうしたんだよ?」
凛はピンク色のカーテンを指さし、震える声で答えた。「どうしてだと思う?」
すると、百合が不満そうに口をはさんできた。「凛さん、誤解しないで。翔平さんがカーテンを替えたのは、私がピンク好きだからじゃなくて、あなたが退院した時に、気分が明るくなるようにって」
「じゃあカーペットは?それに、この花は?」凛は翔平を睨みつけ、厳しく問い詰める。「ウールもジャスミンも、私がアレルギーだって知ってるよね?翔平、まさか忘れたなんて言うわけ?」
翔平はくるりと背を向けると、引き出しからアレルギーの薬を箱ごと取り出した。
「アレルギーなんか薬を一錠飲めば済む話だろ?なのに、何をそんなにキリキリしてるんだ?それに、百合が法律の知識を学びたいっていうから、うちの事務所の受付で研修させてやることにしたんだ。だから、部屋を変えたのは俺が執事にやらせたことで、百合は関係ない」
薬を一錠飲めば済む?
翔平が手に持った薬の箱を見つめながら、凛は心の底から冷えていくのを感じた。
「凛さん、まずはお薬を」百合が薬を受け取り、水を持って近づいてきた。
そして、百合は翔平に背を向けたまま、凛の手首をつかみ、わざともう片方の手の力を抜いた。
ガチャン。
グラスが床に落ちて砕け散る。
百合はしゃがみ込むと、素早くガラスの破片を拾い上げた。そして凛が反応するより前に、凛の足首をつかみ、その破片を自分の手のひらに強く押し付け、甲高い悲鳴を上げる。
「百合!」翔平が駆け寄ってきた。その目には、凛の足元で血を流している百合の手が映っている。
翔平の目が瞬時にして血走った。
「凛!いい加減にしろ!」
翔平は手を振り上げ、凛の頬を激しく張り飛ばす。
凛は腫れ上がった頬を押さえ、信じられないという顔で翔平を見つめた。
他の女のために、翔平は自分を殴った?
「おい!
こいつを部屋に閉じ込めておけ。俺が戻るまで、一歩も外に出すな!」
翔平は凛に弁解の機会を一切与えなかった。彼の目には、か細くすすり泣く百合の姿しか映っていない。
寝室に閉じ込められて初めて、凛は気づいた。部屋の中もジャスミンの花だらけで、その匂いに息が詰まりそうになる。
凛は窓際に駆け寄った。すると、翔平が百合を抱きかかえて車に乗せ、走り去っていくのが見えた。
慌てて走り寄るその後ろ姿が、凛の記憶を瞬時に5年前へと引き戻す。
あの頃、凛はまだ法律事務所のただの雑用係で、翔平も一介の弁護士にすぎなかった。
翔平の代わりに原田グループへ書類を届けに行った先で、凛は裏社会にも通じる原田正人(はらだ まさと)に辱められたあげく、その部下たちに次々と蹂躙されたのだ。
絶望の淵にいたとき、飛び込んできたのが翔平だった。翔平は自分のスーツを脱いで凛の体に巻きつけると、夢中で走り、病院まで運んでくれた。
事件の後、翔平は凛のために、たった一人で巨大な原田グループに立ち向かった。
何度も暗殺されそうになりながらも、決して諦めなかった。
そしてついに裁判に勝ち、正人たちは刑務所へ送られ、原田グループは破産した。
裁判が終わった日、翔平が凛にプロポーズした。
そして、自分のために全てを懸けて戦ってくれた翔平が、実は松本グループの御曹司だったということを、凛はその時初めて知ったのだった。
翔平は原田家の何倍もの力を持っていたのに、それを一度も使わずに、ただ彼自身の力と自分を愛する心だけで、裁判を戦ってくれた。
凛はこれこそが全ての苦しみの果てに手に入れた、幸せな終着点なのだと信じていた。
けれど今、別の女を抱いて去っていく翔平の後ろ姿が、その信じる心を跡形もなく打ち砕いた。
意識が少しずつ遠のいていき、窓を開ける間もなく、凛は気を失った。
第3話
「凛!目が覚めたのか!」
凛が目を覚ますと、翔平の心配そうな顔が最初に目に飛び込んできた。
翔平は焦ったように凛の手を握りしめ、不安げな声で話しかける。
「往診の先生に注射を打ってもらったから、もう大丈夫だ。
俺がどんなに心配したか!帰ってきて君が倒れているのを見た時……子供を失ったばかりなのに、君まで失ってしまうのかと思ったよ……」
しかし、凛は勢いよくその手を振りほどき、顔をそむけた。
翔平は百合のちょっとしたかすり傷には慌てふためいて、自ら病院に抱えていったのに、自分がアナフィラキシーショックで倒れた時には、翔平は往診の医者を呼ぶだけで済ませようとしたのだ。
昔の翔平は、自分が咳を一つしただけで、心配して入院させようとするほど、あんなに大事にしてくれていたのに。
いったい、いつから翔平の心は離れてしまったのだろう?
必死に思い出そうとすればするほど、頭がズキズキと痛む。
翔平は凛の青ざめた横顔を見つめ、困ったような声で言った。
「寝室までやるなんて、あの気の利かない使用人は……でも、凛。もうあんな使用人なんてクビにしたからな!」
その時、百合が入ってきた。
「凛さん、ごめんなさい!ウールのカーペットとジャスミンの花はもう片付けたから。アレルギーがそんなにひどいとは知らなくて……本当にごめんなさい」
凛は冷たく百合を睨みつける。
「本当に申し訳ないと思っているなら、今すぐ私の家から出て行って。それと、あなたはもう成人したんだから、支援はこれで終わり。最初の契約通り、就職したら今までの支援金を分割で返してもらうから」
しかし、百合はたちまち目を赤くした。「研修中の給料なんてたったの10万円なのに?そんな大金、返せるわけないよ。
凛さん、もしかして翔平さんが私によくしてくれるからって、やきもちを焼いて意地悪してるの?」
百合はどさっと床に崩れ落ち、すぐに涙を流してみせる。
「凛さん、安心して。翔平さんが愛しているのはあなただけ。それに、私もあなたの助けには感謝してる!お金が貯まったら必ず返すから、いいでしょ?」
見るからに不憫に思った翔平は、さっと百合を引き起こすと、凛を咎めるように見た。
「凛!百合を脅してどうするんだよ?そのくらいのお金、百合が貯められるようになってから返してもらえばいいだろ?」
翔平が百合の背中を優しくさする。「先に書斎で待ってて。すぐに教えに行くから」
「うん。ありがとう、翔平さん」素直に頷いた百合だったが、背を向けた瞬間、挑発するように凛に向かって口の端を上げた。
凛は怒りをこみ上げさせながら、冷たい声で翔平に尋ねる。
「法律事務所の受付の研修なんて、ベテランの誰かに任せればいいでしょ?山ほど案件を抱えているあなたに、百合を教える時間なんてあるの?」
翔平が一瞬視線を泳がせた。「受付は会社の顔だから、俺が直接見ておいた方が安心なんだよ」
そう言いながらも、修平の視線は書斎の方へしきりに向けられ、心はすでに上の空のようだ。
凛は用意しておいた書類を取り出し、翔平の前に差し出す。
「赤ちゃんのお墓、いい場所を見つけたの。夫婦の署名が必要らしいから、サインしてくれる?」
翔平はそれを受け取ると、中身も見ずにさっさとサインした。
「産後の体が完全に回復したら、赤ちゃんのこと色々一緒にやろうな」
凛は墓地購入書類に紛れ込ませてあった離婚届を抜き取ると、翔平が持ってきたスープを静かに手に取った。
「うん。スープは自分で飲めるから、あなたは仕事に戻って」
翔平は待ってたとばかりに立ち上がる。「ゆっくり休めよ。なるべく早く戻るからさ」
くるりと背を向け、足早にドアへ向かう翔平のうしろ姿を見送りながら、凛は低く呟いた。
「翔平、チャンスをあげたのに。でも、それをいらないって言ったのは、あなた自身だからね」
凛は手を上げ、スープを全てゴミ箱に流し込んだ。
すると、携帯の画面が光り、百合からまたメッセージが届いた。
【翔平さんがどうやって私に『教えて』くれるか、知りたくない?】
【途中で切っちゃだめだよ。すごい秘密を教えてあげるんだからさ】
音声通話のリクエストがポップアップで表示される。
凛は深呼吸をひとつし、通話ボタンを押すと同時に録音を開始した。
部屋の鍵がかかる音がはっきりと聞こえてくる。
翔平の優しい声がした。「支援金は給料で返せばいいから。だから、このブラックカードは君が持ってて、好きなものを買えばいいよ」
「もう!翔平さん最高!一生翔平さんに抱かれるから!」
聞くに堪えないセリフ。それはまるで、切れ味の悪いナイフで、凛の心を何度も切り刻むようだった。
どれくらいの時間が経っただろうか。息を切らした百合が翔平に尋ねる。
「ねえ、もし私が正人の隠し子だって知ったら、凛さん、怒りで私を殺したくなるかな?」
翔平は一瞬言葉を詰まらせたようだったが、すぐに重々しく答えた。
「凛が知ることは絶対にないよ」
「でも、もし凛さんに知られちゃって、私か凛さんを選べってなったらどうする?翔平さんは私を選ぶ?それとも、凛さん?」
翔平に躊躇う様子はなかった。「選ぶまでもないだろ?君は若くてベットの上でも最高だし、子供も産める。馬鹿でもできる選択だよ」
「もう!」百合が甘えた声で笑う。
「早くしろ、もう一回するぞ……」
凛の震える手から携帯が滑り落ちた。
自分が4年間も面倒を見てきた子が、まさか正人の隠し子だったなんて。
どうりで、正人が刑務所に入ったばかりのころ、翔平が自分を児童養護施設に連れて行って百合に会わせたわけだ。「この裁判の勝利を記念して、何か意義のあることでもしようか。君が新たな人生を得るという意味も込めて」と言って……
あの時の自分は、何の疑いもなく頷いた。
今思えば、あの時の百合の視線には、確かによそよそしさと冷たさが混じっていた。
自分はそれを、長い貧乏暮らしが生んだ劣等感からくるものだと思っていたのだが、まさかそれが憎しみからくるものだったなんて。
凛は床に落ちた携帯を拾い、荷造り済みのスーツケースを引いて、振り返ることなく家を出た。
「病院へ」
車の窓の外、流れる光が涙を飲み込んでいってくれるのだった。
第4話
1週間後。
病室で、凛は探偵から届いた封筒を開けた。指先は氷のように冷たかった。
刑務所に入る前、正人は翔平が松本家の人間だとは知らなかったらしい。
しかし、何という運命のいたずらか、正人は一族の権力と引き換えに、松本家に対して自分の隠し子である百合を探し出し、面倒を見てほしいと頼み込んだのだった。
そういうことだったのか。
凛は指先が白くなるほど力を込めて書類を握りしめる。
きちんと法の裁きが下ったのだと思っていたのに、その裏ではただ取引が行われていただけだった。
なんてことだろう……自分はこの手で、4年間も憎い敵の娘の面倒を見ていたなんて。自ら災いを招き入れ、自分の子供を死なせてしまった!
激しい吐き気に襲われ、凛はトイレに駆け込んでえづいたが、出てきたのは胃液だけだった。
トイレの床にうずくまりながら、5年前に病室で目覚めた時のことを思い出す。
翔平はうさぎのように目を真っ赤にして、自分の手を握り、「絶対、奴らに法の裁きを受けさせてみせるから」と言っていた。
そして、翔平は証拠集めや裁判に奔走する以外、全ての時間を看病に費やしてくれた。
あの事件で負った、酷くただれてしまった傷の手当ても、看護師には任せずに、「凛は痛みに弱いから、他の人が優しくやってくれなかったら困るだろ?」そう言って、いつも翔平が自ら薬を塗ってくれたのだった。
「凛は痛みに弱いから、他の人が優しくやってくれなかったら困るだろ?」
結婚してからの1年間、翔平は辛抱強く傍にいてくれ、凛が少しずつトラウマを乗り越えるのを助けてくれた。
周りの友人は皆、翔平のことを「最高の旦那さん」だと言っていた。
しかし、その優しさの裏には、こんなにもたくさんの事情が隠されていたなんて。
凛はふらつきながら階段を駆け下りた。爆発しそうな自分を、冷たい風で少しでも落ち着かせたかった。
その時、忘れもしないあの男の姿が目の前を横切った。
正人だ!
正人は全身をブランド物で固め、煙草をくわえたまま、これ見よがしに凛を触ってきた。
「お前のガキ、死んだんだって?でもな、俺はまた父親になるんだぜ!早めにシャバの空気も吸えたしな!」
凛は全身が震え、血の気が引いていくのが分かった。
正人が出所した?また、父親になる?
じゃあ、自分の赤ちゃんは?
生まれてすぐに息絶えて、たった4グラムの灰になってしまった、あの子は何だっていうの?
理性は吹き飛び、抑えきれない憎しみが凛を突き動かす。彼女は正人に向かって飛びかかった。
しかし、後ろから伸びてきた手が凛の口を強く塞ぎ、無理やりエレベーターの中に引きずり込んだ。
それが翔平だと分かった瞬間、凛はまるで氷の底に突き落とされたような気分になった。
凛が車に押し込まれ、ドアがロックされると同時に、車は猛スピードで走り出す。
凛は激しく息をしながら、翔平を睨みつけた。
「どうして、原田さんがここにいるの?」
翔平はハンドルを握る指に力を込め、しばらく黙り込んだ後で答えた。「模範囚で減刑になったから、刑期より早く出所したんだ」
模範囚?減刑って?
凛はとんでもない冗談を聞いたような気分だった。
「あの人は大勢の男に私を好き放題させたんだよ?それに、懲役15年だったのに、まだ5年しか経ってないじゃない!
絶対に許さない!もう一度、刑務所に戻してやるんだから!」
凛は震える手で携帯を取り出し、警察に通報しようとした。
しかし、凛が口を開いた瞬間、翔平が凛の手から携帯をひったくり、電源を切ると後部座席に放り投げた。
「何するの!」凛は叫んだ。
翔平も声を荒げる。「凛。もし今この事件を蒸し返したら、弁護士としての俺の評判はどうなる?やっとここまで来たんだぞ。全部、俺が自分の力で築き上げてきたものなんだ!なのに、お前は俺の人生をめちゃくちゃにする気か?」
車が急ブレーキをかけ、邸宅の前に止まると、凛は、翔平によって車から引きずり出された。
しかも、もみ合っているうちに、お腹の傷口が開いてしまい、激痛と共に傷口から生温かい血が滲み出てきてしまった。
手に血が付いたことに気づいた翔平が顔色を変え、慌てて救急箱を探し始める。
翔平は凛の足元にひざまずき、みるみるうちに目の縁を赤くした。
「ごめん、凛」翔平の声は掠れ、ガーゼを持つ手は震えていた。
「痛めつけようって思ったわけじゃないんだ。ただ、君が衝動的になってしまうんじゃないかって……」
凛はそんな愛情深いふりをする翔平の姿を見て、ただ恐ろしいと感じるだけだった。まるで、見知らぬ人のようだ。
「あなた自身と家の名誉がそんなに大事なの?じゃあ、私が受けた屈辱なんて、どうでもいいってこと?翔平、絶対にあの男たちを許さないって言ったのは、あなただよね?」
翔平は必死に頷く。「分かってる!だから俺は、この数年間ずっと君に尽くしてきたじゃないか!」
「どうしたの?」
二人が言い争っていると、百合が眠そうな様子で階段を降りてきた。
凛のネグリジェを着ている自分を、凛が怒りに満ちた目で見ていることに気づくと、百合は口元を覆って驚いたふりをする。
「ごめんなさい、凛さん。昨日、雨が降ってて、乾いたネグリジェがなかったから、凛さんのをお借りしちゃった。もしかしてだめだった?」
凛は傷口を押さえながら、ゆっくりと翔平に尋ねた。「翔平、これがあなたの言う『私に尽くす』ってこと?」
翔平は顔を強張らせる。「俺たちの問題に百合を巻き込むなよ。まだ子供なんだから……」
凛の心は完全に冷え切ってしまった。
凛は翔平を突き飛ばし、もう一度警察に電話しようとした。
その時、百合がのんびりとした口調で、ふたたび口を開いた。
「凛さん。これ見て。何だと思う?」
振り返った凛の顔から一瞬で血の気が引く。
第5話
百合の手には、なんとあの猫の足跡が描かれた骨壺があったのだ。
凛は目を見開き、金切り声をあげて飛びかかる。「返して!」
翔平は凛の腕を掴んだ。その声は氷のように冷たい。
「どうして俺が帰ってくるのを待たずに、光を火葬したんだよ?その上、遺骨をあんな遠いお寺に納めるなんて。一体、何を考えてるんだ?」
凛は全身を震わせた。「自分の子なのに、私がお葬式する権利もないの?」
翔平は声を荒げた。「自分の子?君は松本家に嫁いできたのは、跡継ぎを産むためだろ!だから、この子は松本家の子だ!
君はこの子を産むための道具にすぎないんだから、もちろん、勝手にお葬式をあげる権利なんてないんだよ!」
凛はまるで雷に打たれたかのように感じた。翔平がまさかそんな冷たい言葉を吐くなんて信じられなかった。
お腹の子が動き始めた頃、翔平はいつもお腹の小さな命に優しく話しかけてくれていたのに。
「君の名前は光だよ。パパはママを愛してる。だから君は、パパとママの愛の結晶なんだ」
あの頃の翔平の眼差しは、とても優しくて、希望に満ちていたし、その温かさに心はとろけそうだった。
しかし今、翔平は言った。自分はただの「産むための道具」だと……
凛は、はっと我に返ると、再び骨壺を奪おうと手を伸ばす。
「もう訴えないと約束するなら、返してやる」翔平は、凛の腕を力ずくで押さえつけた。
「絶対に訴えてやる!原田さんが刑務所で一生を終えるまで!」凛は憎しみに歯を食いしばった。
すると、翔平は苛立ちを隠さず、百合に目配せをする。
百合が鼻で笑うと、骨壺の蓋を開けた。そして、汚いものでも触るかのように、指先で中の小さなお守りをつまみ上げる。
お守りには、白っぽい粉が付いていて、百合が手を揺らすと、遺灰がはらはらと舞い落ちた。
「やめて、やめて!」凛は泣き叫びながら前に出ようとしたが、お腹の傷が痛み動けなかった。
翔平は、そんな凛を冷静に抑えつける。
「もう訴えるのはやめろ。原田さんは、二度と君の前に現れないと約束したから、昔のことは事故にでも遭ったと思って忘れろ」
「忘れる?」凛は怒りでどうにかなりそうだった。来る日も来る日も、自分を苦しめたあの憎い顔を、忘れられるわけがない。
凛は歯を食いしばり、叫んだ。「あなたたち……裏で繋がってたの?翔平、あなたに人の心ってものはないの?絶対に言うことなんか聞かないから!」
「あら、凛さん。それなら私を恨まないでね」
百合はクスクス笑うと、そのお守りを飼っている犬の首輪につけた。
犬の首で揺れるお守り。「松本光」の三文字が、ひどく凛の胸に突き刺さる。
これは、翔平と一緒に心を込めて選んだ、子供のための特別なお守りだったのに、今は犬の首に無造作にぶら下げられている。
これは侮辱だ。光に対してだけでなく、自分に対する侮辱でもある。
それなのに、父親であるはずの翔平は、この一連の全てを冷たい目で見ているだけで、彼の瞳には、何の感情も浮かんでいない。
翔平は、彼自身と百合の父親を守るためなら、亡くなった子供のたった一つの形見さえも、取引の道具にするのか……
途方もない無力感が押し寄せてきて、凛は全てがどうでもよくなった。
もう抵抗せずに、顔の涙を拭うと、掠れた声で言った。
「分かった、諦める。だから、私の子を返して」
こんなにも絶望しきった凛の姿を、翔平は今まで一度も見たことがなかった。心が一瞬揺れ、目には微かな罪悪感がよぎる。
翔平は百合に低い声で言った。「返してやれ」
百合は骨壺を持って近づいてきたが、凛が受け取ろうとしたその瞬間、その手を離した。
ガチャン、という音と共に骨壺が砕け散った。
たった4グラムの軽い遺灰は、まるで一筋の煙のように空中に舞う。
そして、地面に落ちると、それはただの小さな埃くずにしか見えなかった。
凛は悲鳴をあげて地面に這いつくばり、その灰をかき集めようとした。
しかし、百合の犬が突然駆け寄ってきて、地面に残った灰を興奮した様子で舐め始めた。
あっという間に、そこからは何もなくなってしまった。
「光――」凛が身を引き裂かれるような悲鳴をあげた。
翔平の目にようやく痛みの色が浮かび、凛を支えようと前に出た。
しかし、凛はふいに立ち上がると、一歩また一歩と百合に向かって歩き始めた。
「何をする気だ?」翔平は手を引っ込め、警戒しながら百合を背後に庇う。「百合はわざとやったんじゃない!もし怒るなら、俺に向けろ。百合を傷つけるな!」
凛は足を止め、翔平を見て悲しげに笑った。
「光が生まれた時の体重、知ってる?」
翔平は困惑したように首を振った。
「3500グラムよ」
凛は続ける。「じゃあ、火葬した後、どれくらいになったか知ってる?」
拳を握りしめる翔平の顔は、苦痛に歪んだ。
凛が独り言のように呟く。「4グラム。
他に遺骨なんてない。あれが光の全てだったんだよ」
翔平は完全に固まった。
彼は震えながら犬に近づき、犬の口の中から何かを取り出そうとしたが、何も見つからなかった。
泣くよりもつらそうな笑みを浮かべる凛のその瞳は、まるで死んだように光を失っていた。
「私が怒る?何に対して怒れっていうの?」
その声はとても静かだったが、骨の髄まで凍りつくような冷たさを帯びていた。
「ただ、百合に光の道連れになってほしいだけなの」
そう言って、凛はポケットから取り出したナイフで、百合に容赦なく突きかかった。
第6話
凛の刃が百合の腕に数センチの切り傷をつけた。
血が噴き出した瞬間、凛は翔平によって地面に強く押さえつけられた。
お腹の傷がまた引っぱられ激痛が走り、目の前が何度も真っ暗になる。
「わざとやったわね!警察呼ぶから!」百合は泣き声で携帯を手にした。
翔平は百合を止めなかったどころか、一言も口を開かなかった。
警察はすぐにやって来た。
凛が両腕を後ろ手に縛られて連行されるとき、百合が凛の耳元に近づき、声を潜めて言った。
「あなたの両親のお墓がどこにあるか、知ってるんだから。もし警察で余計なことでも話してみなよ。あなたの両親の遺骨も、さっきみたいに全部撒き散らしてあげるんだから」
凛は激しく体を震わせた。まるで喉を締め上げられたようで、息がほとんどできない。
自分が4年も面倒を見てきた、か弱い花のような百合を見て、凛は心の底からぞっとした。
何も言い返すことができなかった凛は、なされるがままに警察署へと連れて行かれた。
結局、百合の怪我が軽かったため、凛は10日間の拘留だけだった。
面会に来た翔平の瞳には、複雑な感情が渦巻いていた。
「君にとって一番軽い罪になるよう、手を尽くしたよ」
凛は顔を上げ、苦々しく笑う。
「レイプ事件だって減刑を勝ち取って、5年足らずで釈放させられるくせに、百合にほんの少しの怪我をさせた私は、あなたの力で10日間もここに居られるわけね?」
翔平は眉間にしわを寄せ、慌てた様子で言い繕った。
「精一杯やったんだ。前科はつかないから安心してくれ。まあ……産後の体を休める期間だと思ってさ」
産後の体を休める……か。
この言葉が、凛の心を深く抉る。
凛は無意識にお腹を押さえた。ずっと癒えない傷跡がずきずきと痛み、自分がまだ産後間もない体であることを絶えず思い出させてくる。
どうして翔平は、「留置場で産後の体を休めろ」なんて言葉を軽々しく口にできるのだろう?
心の奥にあった最後の希望が、完全に打ち砕かれた気がする。
「もう行って。二度とあなたの顔なんて見たくないから」凛は背を向け、疲れが滲んだ声で言った。
翔平は少し黙った後、低い声で話し始めた。
「凛。君は昔、優しくて思いやりがあったのに。今はカッとなりやすくて嫉妬深い。中でしっかり反省してこい。これからも人生は続くんだ。出てくる頃には、ちゃんと考えを改めてくれるって信じてるからさ」
凛は呟く。「とっくに決めてあるよ。あなたと離婚して、永遠に離れるって」
「なんて?」聞き取れなかった翔平は、訝しげに尋ねた。
まさにその時、翔平の携帯が鳴った。
翔平が電話に出ると、受話器から百合の甘ったるい声が聞こえてきた。
「翔平さん、ケーキが食べたいな。いつ帰ってくるの?」
翔平は慌てて携帯の受話口を塞ぎ、声を潜める。「すぐ事務所に戻る。この件は必ず君を勝たせるから」
彼は携帯を下ろし、凛の背中をちらりと見ると、冷たい口調で言った。
「仕事があるから、もう行くよ。出所の日には迎えに来るから」
凛は振り向き、翔平を睨みつけながら鼻で笑った。「仕事って何?ケーキを買いに行く仕事?それとも、もうすぐ治りそうな百合の傷に薬でも塗ってあげる仕事なの?」
隠していた嘘を暴かれた翔平は、顔を真っ赤にすると、看守を無理やり呼びつけた。
「妻は自分勝手で手に負えず、刃物で人を傷つけました。どうか、厳しく指導してやってください。自分の過ちをしっかり自覚させ、社会に出てから二度と人に迷惑をかけないようにお願いします」
翔平の目配せで、看守はすぐに意図を察し、「必ず、手厚く『お世話』させていただきますね」と力強く返事をした。
翔平は「せいぜい、反省するんだな」と冷たい言葉を残し、ドアから出ていった。その背中が二度と振り返ることはなかった。
翔平のせいで、凛は特別な「お世話」をされることになった。
シャワーを浴びていた時、お湯を突然冷水に変えられた凛は、産後すぐの体では耐えきれず、高熱を出してしまった。
弱った体を引きずって一日中内職作業をした後、食堂へ行くと、残っていたのは冷え切ったパンが一つだけだった。
それに、些細なことで留置場にいる女たちのボスに目をつけられ、リンチまでされた。
凛が血を流すまで殴られた頃、ようやく看守がのろのろとやってきて、女囚たちを追い散らした。
……
「お世話」は、丸10日間続いた。
運動の時間、凛は数人の看守が正人について雑談しているのを耳にした。
「原田には変な癖があるらしくてさ。なんだか、赤いドレスの女がことのほか好きだとか。なんでも、赤いドレスが似合う初恋の彼女にフラれたのがショックだったらしい」
赤いドレス。
血が瞬時に凍りついたように、凛の全身が固まった。
翔平に言われて原田グループへ書類を届けに行ったあの日、自分は偶然にも翔平から贈られた赤いワンピースを着ていた。
しかし今、全ての疑問が一本の線でつながり、心臓を締め付け、呼吸すらできなくさせた。
まさか、あの時からもう翔平は自分を陥れようとしていたのか?
その考えは、体の芯から凛を凍えさせた。
凛は硬いベッドの上で体を丸め、声を押し殺して泣いた。
全部嘘であってほしい。二人の関係は、こんなにも惨めなものではなかったはずだと、心の底から願った。
「翔平、もし証拠を見つけたら、絶対にあなたを許さない……」
第7話
拘留期間が終わった日、留置場の外には誰もいなかった。
翔平は来なかったのだ。
凛はどんよりとした空の下に立ち、深呼吸を一つしてタクシーを止めた。家に荷物を取りに戻ったら、すぐにこの街を出るつもりだった。
車はすごいスピードで走っていく。窓にもたれていると、どっと疲れが押し寄せてきた。
次に目を開けた時、凛は鉄の椅子に縛りつけられていて、動かせるのは頭だけだった。
周りを見渡すと、そこはどうやら廃倉庫のようだった。
少し離れた場所に、百合も同じように縛られているようだが、どんな表情をしているのかはよく見えない。
「目は覚めたか?」聞き覚えのある声がする。
マスクをつけた男が、鞭を手に持って現れた。
男は凛の前に立つと、鞭を容赦なく振り下ろした。
焼けるような痛みが全身に広がる。凛は奥歯を強くかみしめ、うめき声を飲み込んだ。
この声は……
脳の奥深くにしまい込んでいた記憶が、無理やりこじ開けられる。
5年前のあの夜、耳元で何度も聞いたいやらしい欲望と残忍な笑いが混じったこの声……
あの時の男たちの一人だ。
「ちっ、相変わらず強情な女だな」
男はあざ笑い、もう一度鞭を振り下ろす。
「お前があの時、俺たちを訴えたり、話を大ごとにしなけりゃ、うちのボスの会社が潰れることもなかったし、俺たちがこんな風に落ちぶれることもなかったんだ!」
凛は叫ぶ。「もう一度訴えられるとは思わないの?」
「それがどうした?」
男は凛の言葉を遮り、ふてぶてしい態度で言い放った。
「一度やったんだ。一度も二度目も同じことだからな!
あのクソ弁護士だってそうだ。最初はお前をエサにしてうちのボスを誘惑してきたくせに、すぐお前の味方になって執拗に追い詰めてきた。結局、原田家の資産を横取りするのが目的だったんだよ!
今日は見ものだな。あの偽善者の二枚舌が、お前を選ぶのか、それとも他の女を選ぶのかがな!」
凛は全身の血が一瞬で凍りついたように感じた。
全てのピースが、今この瞬間に一つの真実を形作った。
やはり……翔平が自分を地獄に突き落としたのだ。
そして、その後は救世主気取りで颯爽と現れ、原田家を手に入れた。名誉も資産も手に入れた挙げ句、自分に感謝させ、心の底から彼に惚れ込ませていたなんて。
心臓がずたずたに引き裂かれ、痛みで気を失いそうだった。
自分の悪夢は、百合が現れてから始まったのだと思っていた。
しかし本当は、翔平と出会ったあの日から、この罠は仕掛けられていたのだ。
凛が苦痛に顔を歪めるのを見て、百合は不意に笑い出した。
「もう分かってると思うけど、この拉致は私が自分で計画したの。今の翔平さんの心の中にいるのが、一体誰なのか、あなたにはっきり見せてあげようと思ってね!」
すると、廃倉庫のドアが、勢いよく蹴り開けられた。
現金の入ったアタッシュケースを手に飛び込んできた翔平が叫ぶ。「金は持ってきたぞ!彼女たちを放せ!」
犯人はナイフを凛と百合に向け、陰湿な声で言った。
「『彼女たち』だと?贅沢言うな。どっちか一人だ!連れて帰るのを一人選べ!
さあ言え!どっちを選ぶんだ?」
翔平の視線が、躊躇うように二人を行き来する。
血の気を失い真っ青になった凛の顔を一瞬だけ見つめたが、翔平は全く躊躇うことなく百合を指さした。
「百合を連れて帰る」
百合が前に突き出された。
翔平は一歩前に出ると、百合の腕を強く掴み、自分の後ろへと庇った。
凛の方を向き、翔平は早口で言う。「凛。百合はまだ若いんだ。だから、こんな目に遭わせるわけにはいかない。待っててくれ、すぐに金を用意して、必ず助けに来るから!」
妻である自分よりも体の関係を持った女の方が大事だなんて。
犯人の笑い声が聞こえる中、凛は渦巻く暗闇に飲み込まれそうで、震えながら翔平に叫んだ。
「翔平、よく見て!この男は、あの時私を傷つけた男たちの一人なの!私をここに残て、あなたは後悔しないの?」
翔平は振り返りもせず言った。「百合を送ったらすぐ助けに来るから。俺を信じろ!あんなことは二度と起こさせない!」
翔平は犯人の方を向き、厳しい声で言う。「金を取りに行ってくる。もし凛に指一本でも触れてみろ、ただじゃおかないからな!」
しかし、翔平が背を向けた瞬間、犯人の冷たくざらついた手が、凛の下着の中に忍び込んできた。
凛は崩れ落ちるように叫ぶ。「翔平、警察を呼んで――」
しかし、翔平は何も聞こえないのか、百合を庇いながら足早に廃倉庫の出口へと向かっていってしまった。
だが、凛は見逃さなかった。百合が唇の動きだけで[誰にも相手にされない、このできそこない!]と言ったのを……
ガチャンと音を立てて廃倉庫の扉が閉まり、凛は底なしの絶望へと突き落とされた。
にやにや笑いながら凛の服を破る犯人の手が、どんどん下へと伸びてくる。
凛は口を大きく開け、その手に力いっぱい噛みついた。
次の瞬間、顔面に強烈な平手打ちを食らい、口の中に血の味が広がる。
凛はそれでも負けじと血の混じった唾を犯人に吐きかけ、椅子ごと体当たりした。
二度も同じ思いをするぐらいなら、死んだ方がましだ。
凛の態度に完全に逆上した犯人が、その目に殺意を宿らせた。ナイフをちらつかせながら大声で怒鳴る。
「このクソ女が!死にてえのか?死にてえなら、望み通りにしてやるよ!」
凛はよろめいた。何が起きたか分かった時には、冷たい刃がまっすぐに腹部へと突き刺さっていた。
肉が引きつり、身を抉られるような激痛が走る。下を見ると、傷口からどくどくと血が流れ出ていた。
視界がぼやけ始める。耳鳴りがする中、目の前の世界がだんだんと暗くなっていく。
脳裏に浮かぶ最後の光景は、庭で自分のために桜の木を植えながら、優しく約束してくれた翔平の姿だった。
「もう、あんな辛いことは二度と起きないから。
一生、君を愛するよ」
翔平、あなたとの「一生」は、こんなにも短かったんだね。