風のように君を離れ、幸せへと駆け出す

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風のように君を離れ、幸せへと駆け出す

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神谷迅(かみや じん)のそばにいるために、私という「海外帰りの名家の令嬢」が彼のそばで二年間、秘書として働き、仕事も生活も丁寧に支えて...

Chương (1)

第1章

神谷迅(かみや じん)のそばにいるために、私という「海外帰りの名家の令嬢」が彼のそばで二年間、秘書として働き、仕事も生活も丁寧に支えてきた。 取締役会での地位を確立したその日、彼は私に深い想いを込めてプロポーズし、結婚後の三年間、私に対して至れり尽くせりだった。 私は、この夢のような日々は揺るがないものだと思っていた。 あの夜、彼と彼の親友の口から、最も残酷な真実を聞くまで。 「迅、葉山の芝居、本当に入り込んでるよな。あいつ、まだ知らねぇだろ。お前がとっくに、あいつが『詐欺師』だって分かってたってさ!」 「あいつが芝居を演じたいのなら、付き合ってやるさ。どうせ、まだ利用価値はある」 ――ああ、危うく忘れるところだった。 私はただの詐欺師なの! それに、駒として使われていた、愚かな詐欺師だった! 第1話 ビジネス界の天才である神谷迅(かみや じん)のそばにいるために、私、葉山雪乃(はやま ゆきの)は家柄を捏造し、馬術やゴルフを必死に学び、自分を海外留学帰りの名家の令嬢に仕立て上げた。 彼の秘書として二年間働き、数えきれない大口契約をまとめ上げた末、私は望みどおり、彼と結婚することができた。 結婚後の三年間、私に対して至れり尽くせりだった。私は、この夢のような日々は十分に揺るがないものだと思っていた。 あの夜、彼と彼の親友の口から、最も残酷な真実を聞くまでは。 「迅、葉山の芝居、本当に入り込んでるよな。あいつ、まだ知らねぇだろ。お前がとっくに、あいつが詐欺師だって分かってたってさ!」 「あいつが芝居を演じたいのなら、付き合ってやるさ。どうせ、まだ利用価値はある」 その瞬間、私はようやく知った。彼はとっくに、私が詐欺師だということを知っていた。 最初から最後まで、私はただ、彼のビジネスの盤面に置かれた駒に過ぎなかった。 …… 夜更けまで迅のために海外の大口顧客と連絡を取っていたとき、突然電話がかかってきて、急いでバーに来るように、迅が人を殺しかけていると言われた! 私が駆けつけたとき、迅は一人の男を床に押さえつけ、拳を何度も何度もその男の顔に叩きつけていた。 彼の両目は真っ赤に染まり、理性を失った野獣のようだった。 そして彼のそばに立っていたのは、バニーガールの衣装を着た若い女の子で、その体には彼の仕立ての良いスーツジャケットが掛けられていた。 その女の子は泣きじゃくりながら迅の腕を引き、「やめて、迅、もう殴らないで。これ以上殴ったら、死んでしまう」と叫んだ。 「死ねばいい。俺の女に手を出した時点で、死んで当然だ」 彼が制御を失った姿を目にして、私はその場に立ち尽くし、一歩も動けなくなった。 なぜなら今日の迅は、私たちが初めて出会った日の彼と、あまりにもよく似ていたから。 あの日の彼も、今日と同じように、汚れて腐りきった私の人生に降臨し、最も暗いときに私を泥の中から引き上げてくれた。 私が来たことに気づいた誰かが、慌ててこちらへ駆け寄ってきた。 「雪乃、やっと来たか。早く迅を止めろ。これ以上続けたら、本当に人が死ぬぞ」 「そうだ、分かってるだろ、迅のじいさんの性格!こんなこと大事になったら、迅がタダで済むわけない!」 「この世で迅を止められるのは、お前しかいないんだ!早く!」 我に返った私は、迅の前に歩み寄り、彼の手首を掴んだ。 「迅、自分が何やってるか分かってる?いい加減目を覚まして!」 名門神谷家の御曹司が、一人の店員のために大騒ぎを起こすなど。 この噂が広まれば、神谷家の名声は失墜し、私が神谷家で過ごす立場も、決して安泰ではなくなる。 「さっきから言ってるだろ、消えろ!」 迅は完全に我を忘れていて、相手が誰かなど意にも介さず、乱暴に手を振り払って、私を押し出した。 私はよろめきながら数歩後退し、背後の酒棚にぶつかり、並んでいた酒瓶が一斉に崩れ落ちて、すべて私の体に降りかかった。 その瞬間、強烈な酒の匂いと血の生臭さが、バーの中に広がった。 大きな音に迅は少し正気を取り戻し、振り返って全身にガラス片を浴びた私を見ると、すぐに駆け寄ってきた。 「雪乃、大丈夫か?怪我してないか?」 「私……」 彼がようやく手を放したのを見て、私は少しだけ安堵したが、言葉を発する前に誰かが叫んだ。「迅、早く来い!雫が気を失ってる!」 「雫!」 迅は私のほうへ数歩駆け出したが、すぐに引き返し、その女の子を腕の中に抱き寄せた。 意識が遠のく直前、私はかすかに、迅がその女の子を抱え、私の前を通り過ぎていくのを見たが、彼は私を一瞥することすらしなかった。 どれほど横になっていたのかは分からないが、目を覚ましたとき、耳元で誰かの話し声がしていた。それは迅と、先ほどバーにいた彼の仲間たちの声だった。 「迅、あの店員の女に、マジで本気なのか?」 「……ああ。雫は境遇がきつい。守らなきゃいけないんだ」 「本気かよ?お前の家族が許すわけねぇだろ」 「バカだな。迅が雫と結婚するわけねぇだろ。もう一人の詐欺師と結婚したぞ。それで足りない?」 「だよな。たとえ迅が雫を外に囲っても、葉山は何も言えねぇよ。 最初から最後まで迅を騙してきたんだぜ。田舎出身の女が、迅みたいな高嶺の花にしがみついて、離婚なんて言い出せるわけない。 神谷家の奥様って立場、手放す気なんてないだろ」 「そうそう。あいつ、まだ本気で信じてるんだろ?迅が結婚したのは、愛だって。 実際は、仕事で使えるし、じいさんの婚活命令かわすのに都合よかっただけなのにな」 「葉山が必死に上品ぶってる顔見るたび、マジ笑える。迅、ほんと大変だったな」 迅の声は、冷え切っていた。「別に。今は雫がいる。雫は名家のお嬢様じゃないけど、少なくとも雪乃みたいに、嘘だらけの女じゃない」 その言葉を聞いた瞬間、私の顔から血の気が引いた。布団の中で、私は手を強く握りしめた。 偽りの身分で彼に近づき、彼は何も知らないのだと、彼が私を娶ったのは愛ゆえだと、私は信じていた。 だが、最初から最後まで、彼が注目しているのは、私が弱みを握られ、仕事に全力で尽くす存在であるということだけだった。 「いよいよ結婚三周年の記念日だろ。こいつは偽の両親まで連れて来るつもりなんだって?その日、また一つ見ものが増えるな!」 「楽しみで仕方ねぇよ、雪乃が必死に嘘ついてるの見るたび、なんかスカッとするんだよな…… 肝心なところでさりげなく『助けて』やりゃ、そのあと三か月は必死に媚びてくるしな」 第2話 「神谷さん、水野さんが目を覚ましました」 看護師がドアをノックし、迅はすぐに振り向いて離れた。「雫はどうだ?」 「驚いて気を失っていただけです。それから、ガラスの破片がいくつか水野さんの脚に飛んでしまって……幸い、大事には至っていません」 迅は一瞬で取り乱し、声を荒げた。「今すぐ皮膚科の医者を全員呼べ、雫の体に一本でも傷を残すな!」 「はい。でも、奥さんのほうは……お体にかなりの破片が……」 「構わない。もともと、そんなに大事な人間じゃない」 そう言い捨てて、一行はぞろぞろと立ち去っていった。 私はゆっくりと目を開き、天井を見つめながら、涙が頬を伝って落ちていった。 私は、暴力と嘘に満ちたスラム街で生まれた。 父は酒に溺れ、酔うたびに家で暴れ、母は物乞いや盗みで日銭を稼いでいた。 二人は私が十五歳の年、強盗に失敗して人を殺し、揃って刑務所に入った。 そのあと、私は親戚に押し付けられた。 親戚は私の面倒など見ず、学校を辞めて働けと迫ってきた。 私は拒み、親戚と縁を切り、奨学金を頼りに大学へ進学した。 大学に入ってからは、働きながら学び続け、経営管理学の修士号まで取得した。 それでも社会は、私の努力に応えてはくれなかった。 両親のせいで、経歴がどれほど優れていても、大企業の審査を通れなかったから。 ようやくいい仕事を見つけた。 しかし上司が日常的に私にセクハラをしていた。 ある宴会で、上司と取引先に無理やり酒を飲まされ、意識が朦朧とする中、私は連れ去られた。 そのとき、迅が現れ、私を救った。 「大丈夫ですか?」 彼は私に手を差し伸べ、漆黒の瞳にははっきりとした心配の色が浮かんでいた。 その一瞬で、私は誓った。いつか必ず、彼と肩を並べると。 その日から、私は自分の人生を書き換え始めた。 私は家柄を偽り、海外帰りの名家の令嬢だと名乗った。 両親に頼りたくないから、秘書として働きたいのだと。 彼の立場に合わせるため、社交マナーを学び、馬術やゴルフにも通った。すべては、迅のいる世界に入り込むためだった。 五年もの間、私は完璧にやっていると思っていた。だが、迅はとっくに、私の正体を知っていた。 それなのに私は、愚かにも毎日彼の前で芝居を続け、彼が何も知らないことを喜んでいた。 思考は次第に澄んでいったが、目はすでに真っ赤だった。 彼が私を愛していないのなら、この芝居を続ける意味はない。 私は携帯を取り出し、偽の両親に電話をかけた。 「七日後の宴会、あなたたちは出席しなくていい。もう、私の両親を演じる必要もないよ。今使ってる番号も、解約して」 「葉山さん、もう私たちは不要なんですか?それなら、前に約束した一生分の報酬は……」 「安心して。約束どおり支払うよ。すぐ口座に振り込むから」 「ありがとうございます、葉山さん。あなたは本当に、私たちの恩人ですよ!」 電話を切ったあと、私は送金した。 一千万円。長い時間をかけて、ようやく貯めたお金だった。 この数年、迅は何度も私に金を渡してきたが、私は一切無駄遣いせず、すべて貯めていた。 もともとは、いつか迅にサプライズをするつもりだった。それが今では、自分が身を引くための資金になっている。 送金を終え、私は迅の会社の案件を処理している弁護士に電話をかけた。 「信頼できる離婚弁護士を探して。離婚協議書を作ってほしい。迅と離婚したい」 「奥様、本気ですか?」 「ええ。今は迅には伝えなくていい。そのまま進めて。それと、彼の財産はいらない。一円も」 弁護士は戸惑った様子だった。「ご結婚されて三年間、仕事の面でも多く支えてこられました。 法的には、かなりの財産分与を受け取れますが……」 「言ったとおりにして」 最初から最後まで、私が欲しかったのはお金でも名誉でも地位でもなかった。 ただ、人生で一番暗かったあのとき、援助の手を差し出してくれた彼を、愛していただけだ。 携帯が震え、探偵から資料が届いた。 水野雫(みずの しずく)の身の上は、私よりもさらに過酷だった。 両親は彼女が娘であることを嫌がり、幼い頃から他人に売った。 幼い頃から盗みや騙しを覚え、高校も同級生を傷つけて中退し、そのまま素行の悪い女の子になった。 やがてバーに入り、それだけでなく、体まで売っていた。 だが、そんな過去を迅は知らない。 窓の外で、明るくなったり暗くなったりする月明かりを眺めながら、私は小さく笑った。 ――迅。私は必死になってあなたと肩を並べようとしているのに、あなたは、かつての私よりもさらに惨めだった雫を愛した。 それなら、望み通りにさせてあげよう。 第3話 私は病院に一日だけ入院し、翌日退院したとき、迅は迎えに来なかった。 私はそのまま車を運転し、会社へ向かった。 私が到着したころ、ちょうど弁護士が作成済みの協議書を会社に届けてきた。 会議室で、私は協議書の内容に目を通し、これでいいと伝えた。 「よし」 私はペンを取り、そこに自分の名前を書き入れた。 署名を終えた直後、ドアをノックする音がした。 「……奥様」 私は無表情のまま離婚協議書をしまい、顔を上げて彼女を見た。「会社では、葉山秘書と呼んで」 相手はうつむき、小さな声で言った。「葉山秘書、社長が急に新しい服をオフィスに持ってくるよう言われて……私たち、ちょっと……」 「女性の服?」 「はい」 「分かった」 服を準備してオフィスに入る前、私はついでに退職届を印刷した。 どうせ離婚したら、もう彼のもとで働くことはない。 ドアをノックするとき、私はいくつもの可能性を想定していた。 取引先の服が濡れたのかもしれない。 取引先の服が汚れて、迅に助けを求めたのかもしれない。 ドアを開けた瞬間、それでも目の前の光景に私は驚いた。 ブラインドの下りたオフィス。薄暗い室内で、私ははっきりと見てしまった。 椅子にもたれかかる迅と、その膝の上に跨がり、夢中で体を動かす雫の姿を。 「ん……迅、気持ちいい……」 迅の声は必死に抑えられていて、彼の大きな手は女の腰を掴み、低く掠れた声で言った。 「雫、いい子だから、ゆっくり……初めてなんだ、痛くしたくない」 雫は唇を噛みしめた。「迅、こんなに優しくしてくれるなんて……私の全部あなたにあげる。 何度でも……たとえ、将来私を妻にしなくても……だって分かってるもの。私、あなたに釣り合わない。 あなたの奥さんは名家のお嬢様で、しかもあんなに優秀で……」 「違う。あいつはただの詐欺師だ。お前みたいに素直で可愛い子とは比べものにならない」 言い終えると、彼はうつむいて彼女の唇を塞ぎ、二人は情熱的に何度も繰り返した。 私は入り口に立って見ていると、心が裂けるような痛みを感じた。 窓から冷たい風がまっすぐに吹き込み、手にした退職届もオフィスの中に舞い込んだ。 やがて二人は私に気づき、同時に振り返った。雫は悲鳴を上げ、怯えたように迅の胸に飛び込んだ。 迅は咄嗟にそばの上着を取り、雫の露わになった体を覆った。 「いつからいた?病院にいるんじゃなかったのか?」 彼の顔をよぎった動揺は一瞬だったが、雫を庇う腕は、迷いなく強かった。 私は答えず、ただ屈んで床に落ちていた退職届を拾い上げた。 「もう大丈夫だったから退院しました。サインしてもらいたい書類が二つあります」 私は離婚協議書と退職届の署名欄を彼の前に差し出し、ついでにペンも手渡した。 私の平静な様子を見て、迅は言いかけて口を閉ざした。彼が書類をじっくり見ようとした瞬間、腕の中の雫がすすり泣いた。 「ごめんなさい……雪乃さん……わざとじゃないんです、私……」 彼女は身を縮め、小さな体を震わせながら、彼の胸にすがった。 男なら、誰でも抗えないだよね。 私は小さく笑った。「大丈夫。私が来るタイミングが悪かっただけよ。神谷社長、早くサインしてください。終わったら、私は先に出ます」 迅は結局、その二枚の書類に署名した。ペン先が紙を離れた瞬間、私の心臓は胸を突き破りそうになった。 五年かけて手に入れたすべてが、わずか数十秒で消え去った。 書類を握りしめたまま、私はとうとう泣いてしまった。 私が泣くのを見て、迅は眉をひそめ、私が不倫の現場を見て傷ついたのだと思ったのか、声まで柔らいだ。「雪乃、先に外で待っててくれ」 「うん」 私はうなずき、目尻の涙を拭い、買ってきたばかりの新しい服を机の上に置いた。 「これ、頼まれていた服です」 床一面に散らばった衣服が、さっきまでの激しさを物語っていた。だが、もう何も感じなかった。 私は引き裂かれた服を踏みながらオフィスを出た。 窓の外の陽光はまぶしいが、私の体に降り注ぐと、それはこの上なく温かい。 この時、私はついに勇気を出して携帯電話を取り出し、あの人に電話をかけた。 「黒崎社長、まだ秘書をお探しでしょうか……」 第4話 デスクの上の私物を片づけ終えたあと、私は洗面所へ行き、手を洗った。 鏡の中の自分はもう以前のようではなく、青白い顔にはすっかり血の気が失せていた。 私は何気なくリップを取り出して塗り直していたが、その時、私が買ったばかりの新しい服を着た雫が入ってきた。 私を見るなり、さっきまでの怯えた様子は消え、その目には露骨な得意と挑発が浮かんでいた。 「雪乃さん、身だしなみ直してるの?正直、感心するわ。 自分の旦那がオフィスで他の女とやってるのを見ても、平気な顔できるなんて」 私は蛇口を止め、顔を上げて彼女を見た。「いくつ?」 「は?」雫は一瞬きょとんとしたあと、鼻で笑った。 「二十一よ。でも雪乃さんはもう三十でしょ?年には勝てないわよ。 どれだけリップ塗っても、迅はあなたのこと、もう見もしないと思うけど」 「忠告しとくけど、男と寝るのが早すぎるのって、ろくなことにならない」 「私はそう思わないけど」雫は派手なリップを取り出して唇に塗った。 「知ってる?迅、この色も匂いも大好きなんだって。あなたのリップの色、嫌いだって言ってなかった? 古臭くてダサいって。あなた自身と一緒、って!」 言いたいだけ言うと、彼女は腰を振りながら奥へ入っていった。 私は視線を落とし、隅に置かれたバケツとモップを見て、口元に小さく笑みを浮かべた。 席に戻ると、同僚が近づいてきて、迅がオフィスで待っていると告げた。 中に入った瞬間、あの匂いがまだ残っていて、吐き気がこみ上げた。 私は無表情のまま窓際へ行き、窓を開けた。冷たい風が流れ込み、ようやく少し楽になる。 私の動きを見て、迅は少し不満そうだった。 「こっち来て、座れ」 「座る?どこに?」 この部屋の隅々まで気持ち悪くて、どこにも腰を下ろしたくなかった。 「さっきのことで腹立ってるのは分かる。でも雪乃、俺は三年の間も他の女に手出してなかった。 それだけでも十分だろ。雫はただのガキだ。約束する、これはただの遊び。家に連れて帰ることはない」 落ち着き払ったその口ぶりは、さっきとは別人みたいだった。 自分の目で見ていなければ、さっきの出来事が夢だったと思ったかもしれない。 迅は不倫なんてしていない、だからこそ、こんなにも堂々としていられるのね? 私は冷たく笑い、彼を見た。「私が嫌だって言ったら?」 「お前が断るわけない」 彼は引き出しを開け、分厚い書類と写真の束を私の前に放り投げた。 ――十歳の頃、親に無理やり物乞いをさせられた時の写真。 十五歳の時、親が服役し、嘲笑われ、泥水に押し倒されて虐められた写真。 十六歳で制服を引き裂かれ、その上に「売女」と書かれた時の写真。 そして、バーでバイトしていた写真や、駅前でチラシを配っていた写真…… どの写真も、真っ赤に焼けた鉄のように、私の体に深く刻み込まれていた。 彼が全部知っていることは分かっていた。それでも、現実を突きつけられたその瞬間、体の震えは止まらなかった。 必死に隠し、逃げてきた過去は、どれだけ時間が経っても、私を逃がしてはくれなかった。 「葉山雪乃、偽の身分で俺に近づいたのは、金と地位のためだろ。金も手に入れた、社長夫人って肩書きもある。 俺はばらさない代わりに、外で女と遊ぶ。それだけだ。お前に拒否権はない、分かるよな?」 迅は上から見下ろすように私を見た。その瞬間、彼に残っていた最後の感情も、完全に消えた。 彼の影に覆われ、息が詰まるような感覚に襲われ、意識が遠のきそうになる。 しばらくして、かすれた自分の声が聞こえた。 「どうしてほしい?」 第5話 迅は椅子に腰を下ろすと、冷たい口調で言った。 「雫のバーの仕事は辞めさせた。お前と彼女に俺の専属秘書をしてもらいたい。お前は分かってることが多い、雫を指導してくれ」 「分かった」 私はうなずいた。どうせ、長くはいられない。 「他には?」 「外では、特にじいさんの前では、俺たちは相変わらず仲のいい夫婦だ。 じいさんに少しでも違和感を持たせたくない。だから、五日後の結婚記念日の宴会、ちゃんとやれ」 迅は私を見て、施しでも与えるみたいに言った。「正直、お前が用意した偽の両親、芝居が下手すぎる。来る前に映画でも何本か見せて、勉強させとけ」 脇に垂らした指先が強くこわばったが、私はうなずいた。「分かった。もう用はない?なければ出るから」 「いい子だ。それでこそ、俺が愛した雪乃だ」 彼は立ち上がり、私の前に来て、額に軽くキスした。 でも私は気持ち悪いだけで、吐き気が込み上げた。 私はオフィスを飛び出し、トイレへ駆け込んで吐いた。 吐きながらふと気づく。生理が、もう二か月近く遅れている。 今日はこんなに吐いてる。私は、もしかして妊娠してる? 「出して!早く出してよ!誰か!」 個室から声がして、私はようやく気づいた。雫がまだ中に閉じ込められていた。 こんなに時間が経ってるのに、誰も助けに来なかったのか? 私は鼻で笑い、扉の前へ行って開けた。 扉が開いた瞬間、雫が中から飛び出してきた。全身びしょ濡れで、髪は乱れ、ひどくみじめな姿だった。 トイレの扉につっかえているモップを見て、彼女は憎しみの目で私を睨んだ。 「あんたでしょ!閉じ込めて、水ぶっかけたのは!」 彼女は興奮して飛びかかってきて、私の首を絞めようとしたが、私はほんの少し身をかわしただけで、彼女はそのまま地面に倒れ込んだ。 大きな音に人が集まり始めた。私は床に伏せた雫を見下ろし、人混みを抜けようとした、そのとき正面から迅が歩いてきた。 「お前ら、仕事もしないで何してる。さっさと散れ」 「うぅ……迅、痛い……!」 迅を見た瞬間、雫はさらに激しく泣き出した。 全身びしょ濡れで床に倒れている雫を見て、迅の顔が沈んだ。「誰がやった?」 「雪乃さんなのよ。私を閉じ込められて、上から水をかけた。寒くて……!」 雫は震えながら言った。迅は上着を脱いで彼女の肩にかけ、そのまま私を見た。 「雪乃、お前がやったのか?」 「私よ」私は顔色一つ変えずに言った。「失礼なこと言われたから、少し教えてあげただけ」 迅は歯を食いしばって言った。「謝れ」 「嫌だ」 私は背を向けて歩き出そうとした。次の瞬間、頭の上から冷たい水が一気に浴びせられた。 冷たい水に、体が震えた。私は信じられない思いで目の前の男を見つめ、悔しさに涙がこぼれた。 「迅……」 彼は私の目をまっすぐ見て、一語一語言い直した。「もう一度言う、雫に謝れ」 「嫌だって言ってる!」 「雪乃!」迅は怒りを露わにし、私の手首を強く掴んだ。 「俺が何を言ったか忘れたのか?神谷夫人をやめたいのか?それとも、ここで全員にお前の正体をばらしてほしいのか?」 「ばらせばいいじゃない。私はもう気にしない!それに神谷夫人だって、私はとっくにやめたい。 どうせ私たち、もうすぐ離婚……」 胸の奥で怒りが渦巻き、まだ言い返そうとしたが、息が続かず、視界が暗くなった。 私はそのまま意識を失った。 第6話 再び目を覚ましたとき、私は病院の個室のベッドに横たわっていた。 医師は検査を終えたばかりで、穏やかな声で言った。 「奥さん、ご懐妊されていますよ。もう二か月を過ぎています。おめでとうございます。 先ほどご主人は電話を受けて急いで出て行かれましたが、きっと知ったらとても喜ばれたでしょう」 医師の笑顔を見つめながら、私は何も答えず、ただそっとお腹に手を当てた。 本当に、妊娠しているの? 迅と離婚すると、もう決めていたのに。この子は、こんなタイミングでやってきた。 正直、産みたくなかった。 「奥さん、ご主人と何かありましたか?」 私は瞬きをして聞き返した。「どうしてそう思うんですか?」 「どこか、嬉しそうじゃないように見えたので。 でもね、何があっても、子どもができた以上、まだ愛が残っているなら、もう一度向き合ってみるのも大事ですよ。 結婚してから三年過ぎって、ここまでやってきたのも簡単じゃなかったはずです」 医師は再びエコーを当てながら言った。 「ほら、ここ。動いているでしょう。これが赤ちゃんの心臓です。まだ、とても小さいですけどね」 モニターに映る小さな影を見つめながら、私は決めた。迅にも、自分自身にも、これで最後のチャンスを与えようと。 その夜、私は珍しく迅を誘った。 【昨日のことは私が悪かった。大事な話があるの。今夜、早く帰ってきてくれる?】 返信はすぐに来た。【分かった。仕事終わりに戻る】 【待ってる】 返事を確認してから、私は家を丁寧に整え、自分でキッチンに立ち、彼の好物だったステーキを焼いた。身支度も整え、食卓の前で彼を待った。 時間は、容赦なく過ぎていく。私は、三時間も待った。 ステーキは、温めては冷め、冷めては温めを繰り返したが、彼は帰ってこなかった。 九時半、私はメッセージを送った。 【まだ?もう料理、冷めちゃった】 返事はない。 十時になっても、迅は戻らなかった。 私はソファに身を縮め、テーブルに置かれたツーショット写真を見つめ、寂しそうに笑った。 十一時、ようやく携帯が震え、私は反射的に飛び起きてチェックした。 でも、届いたのは、雫からの自撮り写真だった。 安っぽい賃貸の一室。迅はエプロンを着け、キッチンで雫のためにインスタント麺を作っていた。 続けて、メッセージが届く。【もう待たなくていいよ。迅が言ってた、今夜は私のところに泊まるって。 夜食作ってくれてるの。私がカップ麺食べたいって言ったら、一緒に食べるって。 雪乃さんの料理は、ご自分でどうぞ】 写真の中の迅を見た瞬間、全身の血が頭に上ったような気がした。 あの人は潔癖症だったのに!狭くて古い賃貸なんて大嫌いだったのに!カップ麺なんて、口にすることすらなかったのに! それなのに、雫のためならここまでできる。 じゃあ、私は何?この数年間、必死に作り上げてきた自分は、一体何だったの? 私は乾いた笑いを浮かべ、食卓の前に立った。 腕を振り払うようにして、テーブルの上の料理をすべて床に落とした。 皿が割れる音が響き、床は一瞬でめちゃくちゃになった。 分かった、迅。最後のチャンスはあげた。それを無駄にしたのは、あなただから。 私はこれで離婚に決心した。お腹の中の子どもは、私一人で育てる。 壁にもたれながら、そのまま床に座り込む。呼吸が乱れ、こらえようとしても、涙が止まらなかった。 どれくらいそうしていたのかは分からない。泣き疲れたのか、私はそのまま眠ってしまった。 目を覚ましたとき、私はベッドに寝かされていた。 迅は窓際に立ち、片手にタバコを挟み、もう一方の手には、昨日見せるつもりだったエコーの検査報告書を握っていた。 彼の背中は、ひどく物寂しげで、どこか孤独そうに見えた。 私は唇を噛みしめ、声をかけようとしたが、喉が詰まって、言葉にならなかった。 やがて、彼は私が目を覚ましたことに気づき、振り返って、手にしていたタバコを消した。 「起きた?」 私は彼を見つめ、淡々と言った。「……もう、知ってるんでしょ」 「ああ」 迅は短くうなずき、歩み寄って私の手を取った。 「いつのことだ。どうして、もっと早く言わなかった?」 その視線は優しく、声も穏やかで、私は一瞬だけ思ってしまった。この子のために、彼は雫と関係を断ってくれるのではないか、と。 けれど、その直後、ドアが勢いよく開いた。 第7話 雫が熱々の粥を器に盛って入ってきた。「雪乃さん、目が覚めたんですね。お粥を炊いてきました。 少しお召し上がりください。妊娠してますし」 彼女を見るなり、腹が立ってたまらなくなった。 「迅、約束したでしょ。彼女を家に連れてこないって」 「雫は俺と一緒に物を取りに戻っただけだ。 たまたまお前が床に倒れてるのを見て、何か食わせようと思っただけだろ。 それだけのことで、何キレてるんだ?」 雫の話を出すと、彼の口調はたちまち圧迫感に満ちたものになった。 「お粥も作ったし、私はもう帰ります」 雫は目を潤ませた。「雪乃さんが妊娠してるなら、私が迅のそばにいるのはよくないですよね。 将来、子どもに誤解されるのも嫌ですし。私、出ていきます」 彼女が立ち去ろうとした瞬間、迅が彼女の腕を掴んだ。 「俺は、この子を産んでいいなんて言ってない」 「……え?」 頭の中が、一瞬で空っぽになった。 この言葉が、迅の口から出たなんて、信じられなかった。 結婚したあの日、彼は言っていた。子どもが欲しい、男でも女でもいい、私たちの子ならそれでいいと。 私は、この子のためなら、彼は雫と関係を切ると思っていた。 ところが彼はなんと、この子を産ませるつもりはないと言った? 雫は、わざとらしく目を見開いた。「迅、何言ってるの?その子、あなたと雪乃さんの子でしょ」 「雪乃、この子はタイミングが悪い。中絶しろ」 彼の口調は冷たく、微塵の温もりも感じられなかった。私は呆然とこの男を見つめ、涙で視界がぼやけた。 「迅、これは私たちの子だよ。ずっと子ども欲しいって言ってたじゃない?」 「子どもは欲しい。でも、詐欺師は俺の子の母親にはなれない。 本気で子どもが欲しいなら、雫に産ませればいい。産んだら、お前が育てろ」 彼は振り返り、見下ろすように私を見た。その口元に浮かんだ嘲るような笑みは、刃みたいに、私の胸の奥に突き刺さった。 「手術はすぐ手配する。終わったら、早めに本家に戻れ。じいさんから宴会のことで、まだ色々言われるだろ。 分かってるな、二日後の宴会、何一つミスは許されない」 そう言い捨てて、迅は雫を抱き寄せ、そのまま出ていった。 雫だけが振り返った。彼女は口元をわずかに歪め、声もなく言った。「あんたじゃ、私には勝てないよ」 私は布団の中で体を縮め、震えが止まらなかった。 どうしてあのとき、あんなにも必死になって、彼のそばに行こうとしたのよ。 雫は何もしなくても、簡単に彼の心を手に入れる。 そのために、彼は私の子どもまで切り捨てた! 涙は、昨夜で全部流れ切ったのか、もう一滴も出なかった。 この子は、もう守れない。 でも、それでいい。この子いなくなれば、ようやく彼と完全に別れる。 午後になると、迅はボディガードを手配し、私を病院へ向かわせた。 おそらく私が逃げ出すのを恐れて、わざわざ何人ものボディーガードを私のそばに付け加えた。 私は、処刑場に連れていかれる囚人みたいに、屈辱のまま病衣に着替えさせられ、手術室へ連れていかれた。 手術前、雫からメッセージが届いた。相変わらず、迅のスマホからだった。 送られてきたのは一本の動画。遊園地の音楽がやけに耳につく。 雫は迅の腕に絡みつき、二人で一つの綿あめを食べている。 メリーゴーラウンドに乗ったり、ジェットコースターに乗ったり、プリクラを撮ったりする。 屋台に並んで、迅が昔は嫌っていた串揚げを食べ、安っぽいジュースを飲んでいる。 雫が自撮りをすると、迅は嫌な顔一つせず、アイスを買うために列に並んでいる。 医師の声が、私の思考を遮った。 「葉山雪乃さんですね。手術を始めます、こちらに横になってください」 「……分かりました」 私はスマホを置き、言われるまま手術台に横になった。 「足を開いてください」 冷たい台の感触に、恐怖で体が震える。それでも唇を噛みしめ、足を開いた。 私の様子を見て、麻酔医が低い声で言った。「大丈夫ですよ、すぐ終わります」 針が皮膚に刺さった瞬間、私はゆっくり目を閉じた。 意識が遠のく直前、いくつもの光景が頭をよぎった。それでも最後まで消えなかったのは、彼が私を見た、あの一瞬の眼差しだった。 ――あの綺麗な目に、私が知らなかったほどの優しさを宿していたのに。 たった五年で、すべてが変わった。 今この瞬間、彼は遊園地で新しい恋人と過ごしている。 一方、私は手術台に横たわり、冷たいメスに私たちのたった一人の子を奪われるままにしている。 第8話 手術を終えたあと、私は病室へ運ばれた。 最初から最後まで、迅の姿は一度も見えなかった。 ベッドに横になってから二時間も経たないうちに、海外の取引先から電話が入った。 取引先は、案件を神谷グループに任せると決めたという。理由は、私を信頼しているからだと。 私は、もうすぐ退職する予定で、この案件も自分の担当ではなくなると伝えた。 すると取引先は、私がどこへ行くなら、自分もそこについて行くと言った。 その瞬間、ようやく報われたような気がした。これまでの努力が、無駄じゃなかったのだと。 「分かりました。私はこれから黒崎グループへ移ります。もし私を信じてくださるなら、そちらに案件を出してください」 取引先は迷いもなく、すぐに了承した。 電話を切った直後、今度は迅の祖父からの連絡が来た。 「雪乃、迅から聞いてないのか?今日は一度戻る予定だろう。 お前はどこにいる?いつまで経っても姿を見せないとは、だんだん我々を軽く見るようになったな……」 「分かりました。すぐ戻ります」 弱った体を引きずるようにして本邸へ戻ると、迅の母は私を一瞥しただけで鼻で笑った。 「何その顔。呼ぶたびに仏頂面して。死人みたいじゃない」 迅の祖父も眉をひそめた。「神谷家はお前に何一つ後ろめたいことはしていない。 名家の娘として嫁いで三年も経つのに、どうしてそんなに分別がないんだ」 屋敷の使用人たちまで、どこか見下すような視線を向けてきた。 以前の私は気にしなかった。努力すれば、いつか認めてもらえると思っていたから。 でも今は、はっきり分かる。 迅の母が私を迅の妻として認めたのは、私が社交界の奥様をうまく捌けたから。 迅の祖父が私を必要としたのは、私が仕事で迅を支えられたから。 最初から最後まで、彼らは私を家族として受け入れたことなどなかった。 今日こんなに顔色が悪いのに、誰一人、気遣いの言葉すらかけてくれない。 お金のある家とは、こんなにも冷たいものね。ここまで自分を押し殺して、一体何のためだったの? 私が黙っていると、迅の母が苛立ったように言った。「何か言いなさいよ。黙っていたままどういうつもり?」 私は深く息を吸い、ゆっくり顔を上げた。「……お義母さん、おじいさん。今日は、何の用で呼ばれたんですか?」 「宴会の段取りをスタッフと確認してもらわないと。座席の配置もね。 庭の金木犀、今年はまだ咲かないけど、どうなってるのかしら。 あなたが育ててた無農薬野菜、もう食べ切ったわ。おじいさんが好きなの。 茶の木もそうよ、嫁なんだから、もう少し気を配りなさいよ。 それと、最近使用人を二人辞めさせたから、人手が足りないの。早く何人か、使えそうなのを探しなさい!」 細々とした用事が、次から次へと押し寄せる。 けれどこの三年間、私はずっとこうだった。 本邸には住んでいなくても、屋敷の雑事は、ほとんど私が引き受けていた。 私はこういうことが上手だから、何かあれば、迅の母と祖父は真っ先に私に頼む。 以前は、それが嬉しかった。自分は役に立っていると思ったから。 でも今は、ただ疲れた。 「分かりました。私がやります」 これが最後だ。 青白い顔でうなずき、私は一つ一つ処理を始めた。 外が暗くなる頃、ようやく宴会の席順をすべて整え終えた。 何も口にしていなかったせいか、椅子から立ち上がった瞬間、目の前がぐらりと揺れた。 私はそのまま倒れた。次に目を覚ますと、迅が目の前で雫と電話をしていた。 「迅、明日本当に私を家に連れて行くの?明日は、あなたと雪乃さんの結婚三周年記念日だよ?」 迅の声は驚くほど優しかった。「うん。約束しただろ、家族に会わせるって。 うちの嫁にはやれないけど、他で嫌な思いはさせない」 「おじいさんやお母さん、私のこと嫌わないかな。追い出されたりしない?」 「大丈夫だ。雪乃が了承したって言えば、何も言わない」 「じゃあ、雪乃さん怒らない?」 「詐欺師のくせに、何を怒るんだ?」 その言葉を聞いても、もう何も感じなかった。 私が目を覚ましたことに気づき、迅は電話を切ったが、顔は一気に不機嫌になった。 「言ったはずだろ。じいさんや母さんに、少しでも異変を悟らせるなって。 わざと倒れて、じいさんに電話させたのか?お前、なかなかやるな」 言い返そうと口を開いたが、やめた。 「好きに思えばいい」 「明日の宴会、もう二度とミスするな。分かったな?」 私はうなずいた。「うん」 「家に送っていく」 最初から最後まで、彼は私の手術のことには一切触れなかった。 私も、話す気はなかった。 家に着くと、迅は私を置き去りにした。「雫が待ってる。明日の夜は本邸で待ってるから、早めに来い」 彼が去ったあと、私は携帯を手に取った。「黒崎社長、明日の朝七時、予定どおり御社に伺います」 「分かった。こちらから時間通り迎えを出す」 私は荷物をまとめ始めた。 荷物は多くなかった。不要なものは、すべて使用人に処分させた。 身につけていた高価な宝石類も、すべて外した。 迅がくれたものは、何一つ持っていかない。 スーツケースに残ったのは、この家に来たときに持ってきた、数着の服だけだった。 翌朝七時、黒崎誠(くろさき まこと)は約束どおり迎えを寄こした。 私はスーツケースを引き、振り返ることなく、三年間住んだこの家を後にした。 車が別荘を離れると、私は携帯を取り出し、迅の電話番号とラインをブロックして削除した。 五年間、機種を変えなかったのは、二人のチャット履歴を消したくなかったから。 それなのに今は、迷いなく消せた。 別荘から走り出し、窓の外の景色が次第に見知らぬものへ変わっていく。私の心も、少しずつ静かになっていった。 ――迅、結婚三周年おめでとう。 そして、離婚も、おめでとう。