彷徨う夜は終わり、笑い者の妻は全てを捨てる

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彷徨う夜は終わり、笑い者の妻は全てを捨てる

GoodNovel Hoàn thành

新港市では、こんな話が昔から語り継がれてきた。 「言うことを聞かない嫁がいたら、酒井家の嫁さんに会わせるといい。旦那さんが毎晩違う女を...

Chương (1)

第1章

新港市では、こんな話が昔から語り継がれてきた。 「言うことを聞かない嫁がいたら、酒井家の嫁さんに会わせるといい。旦那さんが毎晩違う女を連れて帰ってきても、子供のためならと我慢できるのは、後にも先にも彼女くらいだろうから」 だから、セレブ妻の集まりでは決まって、誰かが冗談めかしてこう言うのだ。 「うちの嫁も、酒井家の嫁さんの半分でも心が広ければね」 でも、彼女たちは知らなかった。 彼女たちが「もっとも従順で我慢強い」と思っていた人が、ごくありふれたある日、夫に離婚を切り出したことを。 子供さえも、いらないと言って。 私が離婚を切り出した時、誰もが信じてくれなかった。 私の夫、酒井朔也(さかい さくや)でさえも。 第1話 新港市では、こんな話が昔から語り継がれてきた。 「言うことを聞かない嫁がいたら、酒井家の嫁さんに会わせるといい。旦那さんが毎晩違う女を連れて帰ってきても、子供のためならと我慢できるのは、後にも先にも彼女くらいだろうから」 だから、セレブ妻の集まりでは決まって、誰かが冗談めかしてこう言うのだ。 「うちの嫁も、酒井家の嫁さんの半分でも心が広ければね」 でも、彼女たちは知らなかった。 彼女たちが「もっとも従順で我慢強い」と思っていた人が、ごくありふれたある日、夫に離婚を切り出したことを。 子供さえも、いらないと言って。 私がそう切り出した時、誰も信じてくれなかった。 私の夫、酒井朔也(さかい さくや)でさえも。 …… 「何のつもりだ?」 私が離婚を切り出した時、朔也は顔も上げなかった。 ただ、指先にたまったタバコの灰を落とすのを、忘れただけだった。 「だから、離婚したいって言ってるの」 朔也は眉をひそめて腕時計に目を落とすと、的外れな答えを返した。 「あと17分で、勲が学校から帰ってくる」 分かっていた。朔也は息子の酒井勲(さかい いさお)をダシにして、私にプレッシャーをかけているのだ。 でも、朔也は知らない。昨日の酒井家の食事会で、いつものように朔也が嫌いなネギを私が取り除いているのを、8歳の勲が見ていた時のことを。 勲は不意に顔を上げて、私にこう言ったのだ。 「ママってさ、本当にみっともないよね」 私はその場で凍りつき、お箸を床に落としてしまった。 でも勲は、その音にも気づかないふりで、自分勝手に言葉を続けた。 「だからみんな、ママのこと馬鹿にしてるんだ。おばあちゃんでさえ、ママのこと嫌ってるもん。 それに、パパが連れてくる人のほうが、ママよりずっと面白いし」 その言葉に、その場にいた酒井家の親戚たちはみんな、口を覆ってクスクス笑い始めた。 私だけが、たまらず泣き出してしまった。 勲は私が傷ついていることに気づいていた。それでも、眉をひそめてこう言った。 「ママ、いちいち僕がママをいじめてるみたいな雰囲気にしないでよ。 すぐに子供みたいにめそめそ泣いてさ。恥ずかしくないの?」 その瞬間、私は8年間育ててきた息子の姿に、夫の面影が重なって見えた。 ちょうどその時、朔也がその日のパーティーの相手の女性を連れてやってきた。 相手は人気女優の、金田凛音(かねだ りんね)だった。 それを見て、ようやく姑の酒井紬(さかい つむぎ)が場をとりなすように口を開いた。 「まあまあ、勲はまだ子供なんだから。母親のあなたが、自分の息子と本気で張り合ってどうするの?」 周りにいた人たちも、次々に口をはさんできた。 「そうよ、子供の言うことなんだから、本気にすることないわよ」 「それに、新港市じゃ加奈子(かなこ)さんの評判はみんな知ってるわ。勲くんも周りの真似をしてるだけ、悪くないわ」 私はただ黙って見ていた。さっきまで私にうんざりした顔を向けていた勲が、ぱあっと顔を輝かせると、朔也と凛音のもとへ真っ直ぐに駆け寄っていくのを。 勲は凛音の右腕に抱きついて、甘えるように体を揺すった。 凛音は楽しそうに笑って、背中に隠していたプレゼントを取り出した。それは、最新のゲームだった。 勲がたちまち満面の笑みを浮かべる。その様子は、凛音と初めて会ったかのようには見えなかった。 二人にはもう、私だけが知らない秘密があったのだ。 朔也は私の視線に気づいたようだった。けれど、ちらりと一瞥をくれただけで、すぐに私などいないかのように目をそらした。 きっと朔也は、私の涙を、またみんなに笑いものにされて悔しくて泣いている、いつもの涙だと思ったのだろう。 彼にとっては、見慣れた光景だったから。 でも、今回はちがう。私を笑いものにしたのは、他の誰でもない。 私がお腹を痛めて産み、この8年間、手塩にかけて育ててきた息子だったのだ。 第2話 「本当に離婚する気か?」 私が黙り込みすぎたせいだろうか。いつの間にか、朔也が顔を上げて私を見ていた。 私は彼の顔を見つめ、静かに口を開いた。 「はい」 私と朔也は、家柄、社会的地位、それに見た目、お世辞にも釣り合っているとは言えなかった。 それでも朔也が私を妻に選んだのは、私が従順で、物分かりが良かったからに他ならない。 この数年間、朔也に気に入られようと必死だった。 だから、私はずっと、二つのルールを守ってきた。 朔也を怒らせるようなことは言わない。 朔也を怒らせるようなことはしない。 「お前……」 朔也が言い終わる前に、社長室のドアが不意に開けられた。 予想外のことなことに、そこに立っていたのは凛音だった。 朔也には、家に連れ込んだ女を会社に連れてこないという、妙なこだわりがあったからだ。 でも、凛音は例外だった。 「酒井社長、お邪魔だったかな?」 凛音の顔を見ると、朔也の目つきが少しだけ和らいだ。 「大したことじゃない。少し待っていてくれ。お前と勲との約束は忘れてない」 凛音はにっこり笑って言った。「覚えててくれたならよかったわ」 笑えてくる。私が離婚を切り出しているというのに、朔也の目には取るに足らない「大したことじゃない」用事らしい。 普段は決して頭を下げない朔也が、凛音に急かすような視線を送られると、仕方なく私に折れた。 「昨日の食事会で、酒井家の連中に嫌な思いをさせられたのなら謝る。もう二度とあんなことはさせないと約束する」 凛音も話に乗ってきた。 「加奈子さん、もうすぐ遊園地の開園時間なの。勲くんが車で待ってるよ。 お願いだから、酒井社長を解放してあげてくれないかな?」 指先が微かに震えた。これまで数え切れないほど、勲を遊園地に連れて行こうと提案してきたのに。 勲はいつも、鼻で笑ってあしらうだけだった。 「ママ、いい大人がさ、そんな子供みたいなこと言わないでよ。あんな所に行ったって、時間の無駄だよ」 今、私はこみ上げてくる惨めさをぐっとこらえ、何度も修正を重ねた離婚協議書を指さした。 「サインして。そうすれば、すぐにここからいなくなるわ。もう二度とあなたたちの邪魔はしないから」 そこで凛音は、机の上の離婚協議書に初めて気づき、ぱっと目を輝かせた。 「酒井社長、私、席を外した方がいい?」 口ではそう言いつつも、その場を離れようとする素振りを少しも見せなかった。 朔也は眉をひそめ、タバコの火を消した。 「いや、いい」 それが、彼が本気で怒り始めたときのサインだと分かっていた。 以前の私なら、朔也の顔色をうかがってすぐに謝っていたはずだ。でも、今の私はもう何も感じない。もう、どうでもよかった。 「酒井社長、加奈子さんが離婚したいって騒いでるのって、もしかして私のせいなの?」 凛音は急に悲しそうな顔で唇を噛み、慌てて謝ってみせた。 「ごめんなさい、昨日の夜、私が連絡もなしに酒井社長の家に行ったから……加奈子さんを怒らせてしまったのね。全部、私のせい」 凛音はうつむいて私の手首を強く握りしめ、申し訳なさそうに涙をこぼした。 でも、手首に走る鋭い痛みは、あまりにも強烈だった。 朔也には見えない角度で、凛音は唇の動きだけで挑発してきた。 [夫にも息子にも捨てられたのね、ざまあみろ] 怒りは全く湧いてこなかった。ただ、おかしくて仕方なかった。 凛音の指を一本ずつ剥がしていくと、彼女は突然よろけて床に倒れ込んだ。 こんな下手くそな芝居でも、朔也は信じた。 そして、ちょうどドアを開けて入ってきた勲も。 「いい加減にしろ!」 「ママ、どうかしてるよ!なんで凛音さんに手を上げるんだよ!」 その瞬間、私の夫と息子は、二人そろって別の女のために私を責め立てていた。 第3話 「凛音さん、安心して。僕が絶対に、もう誰にも凛音さんをいじめさせたりしないから」 勲は、心配でたまらないといった表情で凛音に駆け寄り、彼女を慰めた。 8年前、私は命がけで勲を産んだ。 生まれたばかりの勲は手のひらに乗るほど小さくて、保育器の中で弱々しく息をしていた。 病院からは、何度も容態が急変したという連絡が入った。 医者からは、たとえ助かったとしても5歳までは生きられないだろうと言われた。だから、ほとんどの人が勲の命を諦めていた。 でも、私だけは諦めなかった。医者にはもちろん、神様にも祈りを捧げ、助けてくれる可能性があるすべての人に頭を下げて、やっとのことで勲の命をつなぎとめた。 だから、ここ数年の間。勲にどんなに無視されて、冷たい態度をとられても、耐えることができたのだ。 朔也にとって、勲の存在こそが私を意のままに操るための弱点だった。 そして今、朔也はとうとう開き直って私を脅してきた。 「加奈子、本気で離婚したいと言うなら、もう二度と勲には会えないと思え!」 「離婚」という言葉を聞いた勲は、ぴたりと動きを止め、冷たい顔で私を責めた。 「ママ、凛音さんのことで、離婚するつもりなの? 言っとくけど、もし離婚しても僕は絶対にママについて行かないから。ママみたいな鈍臭い人は、パパには釣り合わないんだよ。 みんながママのことを笑いものにしてるし、おばあちゃんたちだってママのこと嫌いだよ。少しは自分のこと、反省したらどうなの?」 私を見る勲の瞳には、引き留めるような気持ちは一切なく、ただ嫌悪の色が浮かんでいるだけだった。 そんな勲に、もう何の未練もなかった。そして、私はただ淡々と告げた。 「ちょうどよかった。私の方こそ、あなたなんかいらないから」 勲はその場で凍りついた。驚いて大きく目を見開き、その瞳はみるみるうちに赤く潤んでいった。 もちろん、勲も昔からこんな子だったわけじゃない。 5歳になるまでは、私が誰かに笑われた時、ぎゅっと私の手を握って「ママには僕がいるよ」と言ってくれる子だった。 私が感情を抑えきれずにいると、その小さな手で不器用に涙を拭ってくれた。「ママ、泣かないで。僕がいるから」 あんなにも、この酒井家での、私のたった一つの支えだったのに。 それなのに今では、なにもかもが変わってしまった。もう、泣き寝入りの日々には、耐えられない。 朔也は万年筆を手に取ると、離婚協議書に流れるような筆致でサインした。 「後悔するなよ!」 やっと解放される。私は大きく息を吐いた。長年、私の肩にのしかかっていた重荷が、ついに下りたのだ。 「後悔なんて、するわけない」 朔也との馬鹿げた結婚生活は、こうしてようやく終止符を打った。 子供の頃からずっと、私は朔也の後を追いかけていた。でも、彼が私に目を向けてくれることは一度もなかった。 朔也と結婚できたことだって、まったくの偶然だったのだ。 朔也の婚約者が結婚式の当日に逃げ出したのだ。「急に目が覚めたの。結婚より自由の方が大切だって」と言って。 恥をかかされて激怒した朔也は、その場で花嫁を私にすり替えた。 周りの人たちは、私のことを幸運な人だと思っただろう。 私もそう思っていた。なにしろ、朔也が気づかないところで、青春のすべてをかけて彼に片思いをしていたのだから。 でも、酒井家の人たちは激怒した。家柄の良くない私が、朔也と釣り合うわけがない、と。 もちろん、そんなことは分かっていた。だから、この数年間、私は細心の注意を払って、酒井家の全員のご機嫌を取ってきた。 でも、私の考えが甘かった。そこは、努力だけでは決して溶け込めない世界だったのだ。 そして今、私は完全に諦めた。 この場所の、すべてを。 第4話 私はきれいにたたんだ離婚協議書をバッグに入れて、時間を確認した。 「遊園地に行くんじゃなかったの?今から行けば、まだ間に合うわよ」 昔、何度も計画を立てたから、遊園地の営業時間はすぐに言えるくらい覚えている。 それから私は勲の方を向いて、優しく言い聞かせた。 「あなたはマンゴーアレルギーなんだから、もう隠れてマンゴーが入ってるものを食べちゃダメよ」 そういえば一時期、勲は毎晩泣きながら朔也に会いたいと騒いでいた。 でも、朔也からはいつも「忙しい」の一言が返ってくるだけだった。 だから勲はこっそりマンゴー味のグミを食べて、全身にじんましんが出て息もできなくなってしまった。 私は怖くなって、泣きながら朔也に帰ってきてほしいと頼み込んだ。 その後、酒井家の人たちから代わる代わる責められた。私のせいで酒井グループは数億円の契約を逃したって。 ちゃんと見ていなかったから、勲の背中にじんましんの跡が残ってしまったんだと。 当時の私は自分をすごく責めたけど、勲はまるで弱みを見つけたかのように、朔也に会いたくなると家中マンゴーが入ったものを探し回るようになった。 勲の中では、アレルギーさえ起これば、朔也が会いに帰ってきてくれる、そう信じていたのだ。 そのせいで、私の心が何度もズタズタに引き裂かれていたなんて、知るよしもなくて。 「勲、あなたは今年で8歳。もうすぐ小学三年生になるんだから、自分のことは自分でできるようにならないと」 私が見ていると、勲は口をへの字に曲げ、そっぽを向いて凛音にしがみついた。 「パパと離婚したら、もう僕のママじゃないんだから。心配なんかしなくていいよ!」 勲が歩き始めたばかりの頃、私の後ろを一生懸命ついてきて「ママ」と呼んでいた光景が、ふと頭をよぎった。 ツンと鼻の奥が痛くなり、声がかすれた。 「わかったわ。もう何も言わない」 私の気持ちの変化に気づいたのか、朔也はあざ笑うように言った。 「こんな状況にして、満足か?」 凛音は朔也の前に割り込むと、なだめるフリをして口をはさんだ。 「酒井社長、そんなこと言わないであげて。加奈子さんだって、きっと今つらいはずよ。 きっとカッとなって言っただけよ。お二人とも少し冷静になって、またちゃんと話し合ったらどうかしら。 だって、加奈子さんが勲くんを手放せるわけないもの。絶対、怒りに任せて言ってるだけよ」 まっさきに反論したのは勲だった。彼は敵意をむき出しにして言った。 「僕をいらないって?ふん、こっちから願い下げだ!」 朔也は冷たく言い放った。「俺は何度もチャンスをやった。こいつが自分で台無しにしたんだ。誰だって、自分の軽はずみな行動の責任は取らなきゃならない」 でも、離婚を切り出した時から、もう後戻りする気なんてなかった。 それを聞いた凛音は、目にパッと喜びの色を浮かべた。「それは…… 加奈子さん、それでもやっぱり、もう一度考え直してみて。私たちは先に遊園地に行ってるから。勲くんのことは安心して、私がちゃんと面倒を見るからね」 朔也は、鼻で笑いながら私を見た。 「お望み通りになったのに、まだここにいるのか? まさか俺が引き止めるとでも思ったか?」 私は何も言わずに、さっさとその場を離れた。 「じゃあ、さようなら。どうぞ、楽しんできてね」 第5話 酒井家に戻って、私は荷物をまとめ始めた。 長年暮らしたのに、荷物はたったのスーツケース一つだけだったなんて。 テーブルの上に、首にかけていたネックレスを置いた。ペンダントトップには、勲が3歳の時に、私が朔也に3日間も頼み込んで、やっと撮ってもらった家族写真が入っている。 ちょうどその時、スマホにニュース速報が届いた。 芸能ニュースで、朔也たちが遊園地にいるところを撮られた写真だった。 写真に写る三人は、とても仲が良さそうで、まるで本当の家族のようだった。 もう、未練なんてない。 家を出る前に、私はこれまでの貯金を執事に渡して、こう言いつけた。 「このお金を、勲の養育費にして」 執事が何か言いかけたその時、紬がいきなりドアを押し開けて入ってきた。彼女は私の横にあるスーツケースを見て、少しきょとんとしていた。 「勲から聞いたわよ。どうしても朔也と離婚するって騒いでるんだって?」 私はしばらく黙ってから、首を横に振った。 「騒いでいるんじゃなくて、もう離婚しました」 紬は言葉に詰まり、怒りのあまりテーブルの上のものをすべて床に叩き落とした。 「加奈子!誰があなたにそんな度胸を与えたの!この卑しい女め!なんであなたの方から朔也に離婚を突きつけるわけ! 言っておくけど、離婚するなら一文無しで出ていくのよ!勲も置いていきなさい!もう二度と勲には会わせないから!」 酒井家に嫁いでから、紬に最初に言われたのは「お母さんと呼ぶな」ということだった。 勲が少しでも怪我をしたり、朔也の体調が少しでも悪かったりすると、全部私のせいにされた。 これまでの罵声は、我慢できた。だって、私は昔から紬の八つ当たりの対象だったから。 でも、これまですべて我慢してきたのは、勲のためだった。今はその勲さえ手放したのだから、もう我慢する必要なんてない。 だから、紬が平手打ちをしようと振りかぶってきた時、私はその手首を強く掴んで、突き飛ばした。 「朔也が離婚協議書にサインした時から、私は酒井家とは何の関わりもなくなったんです」 私が抵抗するとは思わなかったのか、紬は体勢を崩して床に倒れ込んだ。 その時、聞き覚えのある声がドアの方から聞こえた。 「加奈子!いい加減にしろ!母さんに手を上げるなんて!」 凛音もすぐ後ろにいて、驚きに目を大きく見開きながら、慌てて紬を助け起こした。 「加奈子さん、いくら腹が立ったからって、酒井社長のお母さんにあたるなんて!」 同時に、物音を聞きつけた使用人たちが集まってきて、陰でひそひそと噂話を始めた。 「奥様のこと、可哀想だと思ってましたけど、今見てみると、あれは全部演技だったのかもしれませんね」 「ほんとですね。弱々しくていじめられてるっていう噂とは、まるで別人じゃないですか。大奥様にまで手を上げるなんて」 勲は紬の前に立ちはだかり、私を睨みつけて言った。 「ママは悪い人だ!おばあちゃんをいじめるなんて!もうママの顔なんか見たくない!僕、凛音さんにママになってほしい!」 まだ8歳の息子には、この言葉がどれほど母親を傷つけるか、分かっていなかったのだろう。 とっくにズタズタになった私の心でも、この言葉はじくじくと痛んだ。 「彼女が私を叩こうとしたから、私は……」 朔也は私の言葉を遮ると、冷たく笑って問い詰めてきた。 「母さんがお前を殴っただと?それを、ここにいる誰かが見たか?でも、お前が母さんを突き飛ばしたのは、ここにいる全員がはっきりと見たんだ。まだ何か言い訳するつもりか! 加奈子、お前が騒ぐのはいつものことだが、今回は母さんを傷つけたんだ。すぐに謝れ」 私は紬に謝りたくなかった。 この家に来てから、私はずっと謝ってばかりだった。 勲が学校に行きたがらなければ、私が先生に頭を下げて謝る。 朔也のネクタイの組み合わせが悪ければ、私が彼に謝る。 紬がパーティーで恥をかけば、私が招待客に詫びなければならない。 「朔也、もういいのよ。私は大したことないから。こんなことで怒る必要ないわ」 紬はいつも朔也の前でだけ寛大なふりをして、裏では私を召使いのようにこき使っていた。 もう、この家の誰の顔も見たくなかった。だから、私は執事に直接言った。 「まだ片付けていない私の荷物は、全部捨てて。このまま出て行くから」 でも、勲が私の行く手を阻んだ。彼は目を真っ赤にして私を見ていたが、口から出たのは引き止める言葉ではなかった。 「おばあちゃんと凛音さんをいじめて、このまま出ていけると思ってるの? ママを罰してあげる!ママが前に僕にしたみたいにね。そうすれば、何をしてよくて何をしちゃダメなのか、ちゃんと覚えるでしょ!」 信じられない思いで勲を見つめた。いくら私のことが嫌いでも、ここまで私を憎んでいるはずがない。 「武田(たけだ)さん……ママを屋根裏部屋に閉じ込めて」 酒井家の屋根裏部屋は、ルールを破った者を閉じ込めるための、いわば「お仕置き部屋」だった。 以前、勲を一度だけそこに閉じ込めたことがあった。食事会で好きなメニューがないことに腹を立てて、箸を投げつけたからだ。 二度としないように、お仕置きとして一度だけそこに入れたのだ。 それから半年も経たないうちに、まさか自分の産んだ息子に、同じ方法で「罰して」もらうことになるなんて。 朔也たちは、勲が私にする仕打ちを、無表情のまま黙って見ていた。 命令された使用人たちが、私を床に押さえつけた。必死に抵抗する私の目には涙が溢れ、勲の顔が滲んで見えた。 「勲、私、あなたの母親よ!どうしてこんなひどいことができるの!」 勲は冷ややかに私を見つめた。その表情は、朔也と瓜二つだった。 「パパと離婚した時から、もうママじゃない」 私がこの手で育てた息子が、今ではあちら側について、一緒になって私をいじめている。 私の心は、本当に、完全に壊れてしまった。 屋根裏部屋に閉じ込められた、その夜。 私は最後に、窓から勲の部屋を見つめた。 かつて、勲はこの部屋で私とかくれんぼするのが大好きだった。 でも、今、勲にはもっと大好きなママができた。だから私は、それを叶えてあげることにした。 私は最後に一度だけ電話をかけると、屋根裏部屋のガラクタに火をつけた。 炎は、あっという間に屋根裏部屋全体を包み込んだ。 燃え盛る炎の中で、私は力なく笑った。「何もかも、これで終わり」 第6話 窓から飛び降りる直前、本館の寝室のほうから、誰かの悲痛な叫び声が聞こえた気がする。 …… 一番初めに様子がおかしいと気づいたのは、勲だった。 加奈子を屋根裏部屋に閉じ込めた瞬間、その表情は驚き、悲しみ、そして最後には生気を失った顔へと変わっていった。 まるで魂を抜かれて、抜け殻だけが残ったようだった。 だからか、勲は言いようのない不安を感じていた。寝る前には、執事に屋根裏部屋の見張りを頼んでいたほどだ。 そして、その嫌な予感は的中した。真夜中、眠れずに体を起こした勲の目に飛び込んできたのは、屋根裏部屋から上がるまばゆい炎だった。 その瞬間、体は震えが止まらなくなり、何もできなくなった。ただ、屋根裏部屋に向かって何度も叫ぶことしかできなかったのだ。 「ママ、ママ!」 次にそのことを知ったのは朔也だった。彼は使用人からの報告でそれを聞いた。 「旦那様、大変です!屋根裏部屋が、原因もわからず突然火事に…… 奥様はまだ中に……私たちが気づいたときには、もう火の回りが早くて」 朔也は上着をひっつかむと、よろけながら部屋を飛び出した。 だが、肌にいくつも赤い痕をつけたままの凛音が、涙目で彼を引き止めた。 「酒井社長、どこへ行くの?私、一人じゃ怖いわ」 朔也は、引き止める凛音のことをうっとうしく感じた。以前なら凛音が泣けばすぐに心配したのに、今は違った。 「屋根裏部屋が火事なんだ。様子を見に行かないと」 しかし凛音は、朔也が加奈子の元へ行こうとしていると察し、彼の手首を掴む力を強めた。その声は不安と焦りで震えている。 「酒井社長、行っちゃだめ!まだ火は消えてないのよ。あなたまで怪我したらどうするの? それに、どうして屋根裏部屋が急に火事になんてなるのかしら。もしかして、加奈子さんがわざと火をつけて、みんなの気を引こうとしたんじゃない?」 朔也が俯いて、何も言えずにいると、勲が走ってきた。 勲は、凛音を思い切り突き飛ばした。 「ママは火が何より怖いんだ!子供の時、火事に遭って、腰に火傷の痕が残ってるって言ってたんだ!自分で火をつけるわけがない!ママを悪く言うな!」 勲の言葉で、朔也は思い出した。加奈子も同じことを自分に話していたのを。 意図的に無視してきた些細な出来事が、今この瞬間に一気によみがえってきた。 結婚した日、加奈子は感動のあまりその場で涙を流し、20年以上も身につけていたお守りを自分にくれた。 結婚してからというもの、夜中に帰ってきても、加奈子はいつもソファでうたた寝をしながら自分の帰りを待っていた。 朔也と勲が急いで屋根裏部屋の外に着いたときには、すでに使用人たちが火をほとんど消し止めていた。 ついに平静を失った朔也は、目を充血させながら、そばにいた使用人の一人を掴んで問い詰めた。 「加奈子は見つかったのか?」 おびえきった使用人は、震えながら答えた。 「旦那様、中から、黒焦げのご遺体が見つかりました。ですが、身元の確認が……」 その言葉が終わらないうちに、勲はとうとう堪えきれずに泣き出した。 「パパ、ごめんなさい。僕はママを殺そうとしたんじゃない、わざとじゃないんだ……」 その時、凛音と紬が駆けつけた。 使用人の報告を耳にした凛音は、形ばかりの涙を浮かべて勲を慰めようと近づいた。 「勲くん、そんなに悲しまないで。勲くんのせいじゃないわ」 だが、勲に触れた瞬間、彼は凛音を力いっぱい突き飛ばした。 「凛音さんのせいだ!さっきママが火をつけたって嘘ついただろ!」 凛音は不意を突かれ、地面に強く叩きつけられた。腕からは血が滲んでいた。 「きゃっ、痛い。酒井社長……」 凛音はボロボロと涙をこぼし、朔也がいつものように自分の味方をしてくれることを期待した。 しかし今回は、朔也は凛音を気遣うために歩み寄ることはなかった。彼はすぐに、その焼死体が加奈子のものか鑑定するように手配したのだった。