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あなたが恥と呼んだ七年間
東堂澪司(とうどう れいじ)の目に、私・白川心(しらかわ こころ)との結婚は家族の政略に抗って敗れた後の、汚点だった。 私たちの子供・東...
Chương (1)
第1章
東堂澪司(とうどう れいじ)の目に、私・白川心(しらかわ こころ)との結婚は家族の政略に抗って敗れた後の、汚点だった。
私たちの子供・東堂律(とうどう りつ)でさえ、彼の人生の消し去りたい染みとなった。
結婚して七年、世間は私が彼の妻だと知らなかった。彼に息子がいることさえも。
彼が桐谷芽衣(きりたに めい)とその娘・桐谷詩(きりたに うた)のために、また私と息子を否定した時。
私は泣かなかった。騒ぎもしなかった。ただ静かに荷物をまとめて、息子を連れて出ていった。
彼はもうとっくに忘れているのだろう。
結婚したあの年に、彼は自らの手で離婚協議書にサインした。
私がサインすれば、その離婚協議書はいつでも効力を持つことを。
第1話
中村正一(なかむら しょういち)は私の退職願を見て、惜しそうな顔をした。
「白川さん、本当にもう一度考え直してくれませんか?
昇進の件なら、東堂社長にもう一度かけ合えます……副社長の席も、可能性がないわけじゃない」
私・白川心(しらかわ こころ)はただ静かに首を振った。
「中村さん、それは理由にはなりません」
あるいは、それだけが理由じゃない、というべきか。
今年で、東堂グループに入って十年目になる。東堂澪司(とうどう れいじ)と結婚して、七年目でもある。
私はプロジェクトをひとつひとつ取り、穴をひとつひとつ埋めてきた。
結婚後は、白川家から持ち込んだ人脈とリソースが、燃え尽きかけていた東堂家を蘇らせた。
会社では、彼の最も忠実な部下。
家では、彼の最も献身的な家政婦。
けれど、彼は人前で一度も、私を妻だと認めなかった。
七年かけても、彼の心の扉はついに開かなかった。
元々そういった事に無関心な性分な人なのだと思っていた。
ならばせめて自分の実力で、対等なパートナーとして彼の隣に立とう。そうして共に老いるまで歩き続けられるなら、それでいいと思っていた。
だが彼がずっと憧れていた人――桐谷芽衣(きりたに めい)が現れると、すべてが変わった。
芽衣といる彼は、私が一度も見たことのない柔らかさと安らぎをまとっていた。
彼はあらゆるリソースを彼女に捧げ、本来私のものだったマーケット部の本部長の席まで、彼女に捧げた。
彼は人を愛することを知っていた。ただ、彼の心の中にいる人が、最初から私ではなかっただけだ。
本部長になるのが芽衣だと知った時、確かに一瞬、落胆した。
だがそれ以上に、心が冷え切った。
積み重なってきた失望に、私は本当に少し疲れてしまった。
正一はしばらく黙って、静かにため息をついてから退職願にサインした。
「白川さん、あなたは本当にいい社員でした……」
私は何も返さなかった。
いい社員、いい妻、いい母。
どれも精一杯演じてきた役割だった。それをことごとく、澪司は軽々と否定してきた。
退職願を持って部屋を出ると、澪司と正面からぶつかった。
彼は私を見ても、表情ひとつ変えなかった。
喉まで出かかった言葉は、結局口から出なかった。
昇進していなくてよかった。今の役職なら退職に彼の承認はいらない。面倒が減る。
すれ違おうとした瞬間、彼は珍しく私を呼び止めた。
「白川部長、準備しておいてくれ。今夜一緒に食事だ」
どうして突然。
まさか澪司が、今日が結婚七周年記念日だと覚えているのだろうか。
胸の中に、みじめな感動がわずかに芽生えた。
だが次の瞬間に彼が発せられた言葉は、とても他人行儀なものだった。
「桐谷本部長が入社する。今夜は歓迎会だ、部署の社員は全員参加するように」
最後の希望に、冷水が浴びせられた。
私は薄く笑って、口の端を引いた。
「都合が悪いので行けません」
本来私のものだった本部長の席を芽衣に渡しておいて、今度はその歓迎会に出ろというのか。
七年の歳月も、結局「憧れの人」には敵わなかった。
彼の顔が曇った。
「お前が行かなければ、お前の部下は行くのか?」
私のことが心配なのではなかった。
私が行かなければ芽衣の今夜の席が冷えるのを、上から送り込まれた彼女の足場がまだ固まっていないのを、私の欠席で私のチームが彼女を充分に丁重に扱わないのを――恐れているのだ。
彼がすることはすべて、彼女のためのじならしだった。
私の部下を使って。私を使って。彼女のための道を。
私がまだ口を開く前に、芽衣がヒールの音を立てて歩いてきた。アイボリーのスーツ、隙のないメイク。
自然な仕草で澪司の腕に絡みついた。
「澪司さん、白川部長を困らせないでください。
今回昇進できなくて、少し気まずいでしょうから、来たらきっと気を悪くします」
そして私に向き直り、温かみのある笑顔を作った。
「白川さん、あなたもシングルマザーなんですって?
時間があれば、子供同士遊ばせましょうよ、友達を作るいい機会だもの」
私は何も言わず、踵を返した。
オフィスの入口まで来たところで、背後から芽衣の声がした。
私と芽衣以外には誰もいない状況で、彼女は鼻で笑った。
「あなたと仲良くしてる夏目陽菜(なつめ ひな)さん、お母さんが病気でお金が要るんでしょ?私が彼女の評価にDをつけたら、彼女の年末ボーナスはなくなるわね」
私は振り返った。
「脅しですか?」
「本部長として、ただ歓迎会にご招待したかっただけですよ、白川部長」
その表情は無邪気で、丁寧すぎるくらい丁寧だった。
あからさまな誇示と侮辱に、両手を思わず握りしめられた。
私の反応がよほど楽しかったのか、彼女は嘲りの表情を隠しもしなかった。
「来ますよね?」
第2話
結局、行った。
ただの歓迎会だ。
澪司が彼女のために用意した席は、私との結婚式より豪華だった。
もっとも私の結婚式の日、会場に座っていたのは両家の身内だけだったが。
あの頃の東堂家は破産寸前で、白川家との縁組でしか立て直せなかった。
悪いのは私だ。当時、澪司にひと目で心を奪われて、浮かれて承諾してしまった。
彼の心に、手の届かない憧れの人がいることも、私との政略結婚を拒もうとして、彼が必死に抗ったことも知らずに。
私が心待ちにしていたその結婚式は、彼にとってはただの取引であり、芽衣が他の人と結婚した後、やけになってした賭けでもあり、家の決めた縁組に負けた後の、屈辱の証でもあった。
結婚式の夜、彼はすでに離婚協議書にサインしていた。
あの時、彼は静かな顔で私を見て言った。
「家のために一生を縛られるつもりはない。だがお前のことは尊重するつもりだ。
この協議書にはもうサインしてある。お前が望むなら、いつでも離婚できる」
目の前に投げ出された紙を、私はしばらく動けずに見つめていた。
言いたかった。
あなたと結婚したのは、家のためじゃない――と。
だが喉元で言葉を飲み込んだ。
私一人が勝手に惚れたのだ。彼に重荷を背負わせることはできない。
結婚してからそこに愛情が芽生える、時間が経てば絆が育まれる。そんな展開は小説の中だけじゃないはず、と思っていた。
だから彼の近くにいるために、両親が用意してくれた道を捨てて、東堂グループの底辺から始めた。
彼と一緒に再起すれば、愛してもらえると思っていた。
七年の歳月があれば、愛してもらえると思っていた。
子供ができれば、愛してもらえると思っていた。
……全部、私の思い込みだった。
七年が過ぎ、白川家は徐々に陰り、東堂家は日の出の勢いで成長した。
それでも――澪司が私を愛していないという事実だけは、ずっと変わらなかった。
胸がじくじくと痛んだ。酒は飲んでいないのに、頭がぼんやりした。
澪司が壇上に立ち、芽衣を見る視線には柔らかさが満ちていた。
「これからは桐谷本部長が、マーケット部唯一のトップです」
言葉は短かったが、その場にいる全員が分かっていた。これは澪司が彼女のために権威を示し、彼女のこの先歩むのであろう道を整えているのだと。
壇上の照明がやけに眩しく、胸が重くなった。立ち上がろうとしたその時、芽衣が赤ワインを持って笑顔で近づいてきた。声は大きくもなく小さくもなく、その場の全員に聞こえるくらいだった。
「白川部長、一杯どうぞ。この十年間、マーケット部をしっかり守ってくれてありがとう。これからもよろしく」
私は彼女を見上げたまま、動かなかった。
別に意地を張ったわけではない。私は重度のアルコールアレルギーだ。彼女はグラスを的外れなところに向けてきた。
周囲がひそひそし始め、大半は見物するように待ち構えていた。
しばらくして、芽衣の作り笑いが崩れかけ、助けを求めるように澪司を見た。
私も澪司を見た。
どう言っても、私たちは戸籍上の夫婦だ。私の命をおもちゃにはすまいと、賭けてみた。
だが澪司は眉をひそめ、苛立った目を真っ直ぐ私に向けた。
「白川部長、桐谷本部長の杯を断るつもりか?」
思わず笑いそうになった。
私のアルコールアレルギーを、彼が覚えていないのは当然だった。
私は親指でゆっくりグラスを撫でながら、静かに息を吐いた。
「東堂社長、私はアルコールアレルギーです」
澪司は一瞬固まり、苛立ちを引っ込めて目をそらした。渋々、わずかな温情を施した。
「なら少しだけ飲め」
芽衣の口元に勝ち誇った笑みが浮かび、グラスを掲げた。
「これからどうぞよろしく、白川部長」
どうやらこの一杯は、飲まずには終われないらしい。
「桐谷さん、十年間の地道な積み上げでも、棚から落ちてきたぼた餅にはかないませんね」
堪え切れずに笑い声を漏らした社員が、慌てて下を向いた。
芽衣の顔色がわずかに変わったが、すぐに元に戻った。
「白川部長は冗談がうまいですね」
一歩近づいて、声を落とした。
「嫌みはよしなさい。澪司はあなたを愛していない、あなたはただの踏み台よ。
今回は本部長の席、次はあなたの東堂夫人の座よ」
グラスを持つ手がかすかに震え、胃の奥が気持ち悪くなった。
芽衣が晴れやかに笑い、一口飲んだ瞬間、澪司が彼女のグラスを制するように手で持った。
「もう十分飲んだだろ、これくらいにしろ」
澪司は前に出て、警告するような目を私に向けた。
「白川部長、この杯を飲んだら、桐谷本部長と仲良くやっていってくれ」
芽衣の手を包むように、そのまま私のグラスに軽く打ちつけた。
無言で促していた。
芽衣を庇うようにして抱き込む姿を見て、疲労感がどっと押し寄せた。
もういい。この感情はここで終わりにしよう。私たちにとっても、それが束縛からの解放かもしれない。
「分かりました」
手の中の酒を一気に飲み干した。澪司の目に、一瞬の驚きが過ぎったような気がした。
彼もここまであっさり飲むとは思わなかったのだろう。
澪司、この一杯で――私たちはおあいこよ。
第3話
芽衣が恥ずかしそうに澪司を見上げると、彼は優しく彼女の顔にかかった髪を払った。
「東堂社長と桐谷本部長、本当に仲がよさそうで、お式はいつになるんでしょうねえ」
空気を読むことに長けた社員たちが笑いながら、さっきまで凍りついていた雰囲気を溶かした。
澪司は無意識に私を一瞥して、すぐに目を逸らした。
「みんなには関係ない話だろう」
その一言で、場の空気に火がついた。
芽衣は頬を染めて俯き、ひっそりと澪司の胸元へ寄りかかった。男の目に灯った笑みは隠しようもなかった。
彼が何か言いかけたが、祝福の声とはやし立てる声にすっかり飲み込まれた。
私は賑やかさの外側に立って、二人の幸福を眺めていた。胸が苦しくてたまらなくなり、早々に席を立った。
彼の目的は既に果たされた。私がいようといまいと、誰も気にしない。
いつものように、澪司と帰宅時間をずらすために早めに車を呼んだ。
ホテルの玄関を出ると、風が服の中に入り込んで、震えるほど寒かった。
家に帰ると、息子の律(りつ)はまだ起きていた。
ぬいぐるみを抱えてソファに座っていた彼は、私を見るなり飛びついてきた。
「ママ、目と顔が真っ赤だよ、ぶつぶつもいっぱい出てる、病気?」
思わず手で頬に触れた。
たぶんアルコールアレルギーの反応だ。
屈んで、笑ってみせた。
「ママは大丈夫よ」
彼は二秒じっと私を見て、本当に病気じゃないと確認してから、ようやく安心した顔になった。
「ママ、明日学校で授業参観があるんだけど、ママとパパ、一緒に来れる?」
少し戸惑った。
律の転校手続きはまだ終わっていないから、今の学校にはまだ通わなければならない。
でも澪司はこういう行事に一度も来たことがなかった。
それでも律の期待に満ちた目を見ていたら、忍びなくて、スマホを取り出して澪司にメッセージを送ってみた。
【明日、律の学校で行事があるの。一緒に来られる?】
送ってから、律を寝かしつけ始めた。
うとうとしながらも、彼はまだ小声で聞いていた。
「パパ、来るかな?」
「来るよ」頭を撫でた。「早く寝なさい」
部屋を出て、スマホを手に取った。
返信はなかった。
一時間、二時間、三時間……
静かなトーク画面を見つめながら、苦笑した。
たぶん酔って、芽衣の家に行ったのだろう。
電気を消して寝ようとした時、スマホが振動した。
【いいよ、明日ちょうど少し時間がある】
その一行を見て、どんな顔をすればいいか分からなかった。
初めてだ。
彼が初めて、子供の学校に行くと言った。
遅れてやってきた父性のためじゃない。ちょうど少し時間があるから。
おかしいことに、私はそれでも一抹の安堵を感じてしまった。
たとえ本心だろうが義理だろうが、律は本当に彼と過ごすことを楽しみにしているのだから。
翌朝早く、澪司は帰ってこなかった。
私と律はリビングで待った。
朝食を何度も温め直し、律は窓枠にもたれて通り過ぎる車を一台ずつ数えていた。
「ママ、パパって今日は直接学校に行くのかな?」
「かもね」
嫌な予感がしたが、それでも彼の頬を撫でて安心させた。
「先に行きましょう、もう待ってるかもしれないし」
車に乗った時、澪司からメッセージが届いた。
【今日急用ができた、行けなくなった】
その一行を、しばらく見つめた。
こんな場面を、何度繰り返しただろう。
だが毎回それに慣れることはなく、高いところから突き落とされるような浮遊感が胸に直撃して、息が詰まるほど苦しかった。
学校に着くまでの間ずっと、律になんと説明しようかと考え続けた。
学校に着くと、律は窓から校門を穴が開くほど見つめていた。
「ママ、パパいつ来る?」
「もうすぐよ」
「なんでまだ来ないの?」
「道が混んでるのよ」
下手な嘘をついても、律は真剣に信じていた。
親子共同の作業が始まろうとした時、真実を告げようと口を開きかけて――見覚えのある後ろ姿に目が止まった。
澪司だ。
来たのか?
胸を撫で下ろした。
だが次の瞬間、顔の笑みが凍りついた。
芽衣が彼の後ろについてきていて、二人は楽しそうに話していた。
彼の手には小さな女の子が繋がれていた。律と同じくらいの年で、ピンクのプリンセスドレスを着ていた。
芽衣の子供だった。
第4話
澪司が来たのは、律のためではなかった。
芽衣の子供のためだった。
律には大人の複雑な事情など分からない。
パパが来たと分かった瞬間、目を輝かせて私の手を振り解き、駆け出した。
「パパ!ずっと待ってたよ!なんでこんなに遅いの!」
あんなに速く、あんなに嬉しそうに走る律を見たのは久しぶりだった。森の中を駆ける小鹿のようだった。
だが彼が近づく前に、芽衣の子供の桐谷詩(きりたに うた)が澪司の前に立ちふさがった。
「あんた誰?私のパパよ!」
よく通る声に、周りの親子が一斉に振り返った。
律はその場に立ち尽くし、顔を真っ赤にして、目に涙を溜めた。
顔を上げて、震える声で澪司を見た。
「パパ……パパ、僕のパパでしょ……そうでしょ?なにか言ってよ……」
手を伸ばして澪司に触れようとした。
澪司は半歩引いて、律と私を困ったように一瞥した。
「俺は詩ちゃんのパパだよ。坊や、人違いだろ」
人違い。
たった一言、軽く落ちてきた言葉が、私と律の胸に重く刺さった。
律の手が宙に止まり、頭を垂れた。目に涙が滲んでいた。
私は信じられなくて彼を見た。
「澪司!」
公の場で彼の名前を呼んだのは、これが初めてだった。
「パパ……」
律は小さな声でそう言いながら、じりじりと彼の方へ近づこうとした。
澪司は律を一瞥し、喉を動かしたが、何も言わなかった。
「来ないで!私のパパって言ってるでしょ!」
詩が怒って律を押した。律はよろけて後ろに倒れかけ、私は慌てて支えた。
「澪司、どういうつもり!?」
彼は私の一喝に固まった。私は怒りをぶつけた。
「律はあなたの……」
「保護者の方!」
私の怒りを彼の大きな声が遮った。眉をひそめて不満げに、「お子さんをちゃんと見ていてください。シングルマザーで大変なのは分かりますが、他の人のパパを勝手に呼ばせないでください」と言い放った。
詩は得意げに顎を上げた。
「聞いた?この人は私のパパよ!」
芽衣は柔らかい笑顔を浮かべて、柔らかく彼の腕に絡みついた。
「もういいよ、澪司、ちゃんと説明できたんだから。こんな人に怒らなくていい」
後ろでは子供たちがひそひそし始めた。
「だから言ったじゃん、律ってすぐ嘘つくって、パパいないのにいつも作り話するって」
「こんなに経っても一回もパパを連れてきたことないじゃん、絶対嘘だよ」
「今日なんてひどい、詩ちゃんのパパをパパって呼んでるし、笑えるー」
律は唇を噛んで、大粒の涙をぽろぽろと流した。
なぜパパが自分を必要としないのか。なぜパパが他の子を庇うのか。律には分からなかった。
これまで澪司が律に冷たいのは性格だと思っていた。ここまでするとは思っていなかった。
周りがあまりにも騒がしくて、怒りを抑えながらできるだけ冷静に口を開いた。
「澪司、少し話せる?」
すると律が突然涙を拭いて、くるりと走り出した。
「律!」
澪司が何か言いかけて、結局黙った。
「最低!」
私は律を追って駆け出した。
澪司は疲れたように眉間を押さえて、遠ざかる私の背中を見つめた。
しばらく動かない彼に、芽衣が袖を引いた。
「澪司、詩ちゃんのゲームが始まるよ」
彼は詩に視線を戻した。
「行こう」
あっという間に、律の姿が見えなくなった。
学校中を探し回ったが、どこにもいなかった。
校門の守衛も、子供が外へ出るのを見たと言った。
焦りがどんどん募って、心臓がばくばくした。どこへ行ったのだろう。
校門の外を一回りしたが見つからない。胸の中に嫌な予感がぐるぐると渦を巻いた。
道沿いの花壇の脇で見覚えのある小さなおもちゃを見つけた時、嫌な予感は頂点に達した。
律が今朝ずっと握っていた、パパに渡すつもりだったおもちゃだ。
真っ白だったおもちゃは踏まれて汚されていた。周りには大人のものらしき乱れた足跡が残っていた。
律は?なぜ子供の足跡がないの?
防犯カメラを、急いで確認しなければ。
澪司に電話した。この学校に出資している彼なら、一言言えばカメラの映像を確認できる。
手が震えてスマホを持つのがやっとだった。涙が込み上げてきた。
一回目、繋がらない。
二回目、繋がらない。
三回目、電源が入っていないか……
ブロックされていた。
画面が暗くなる直前、澪司からメッセージが一件届いた。
【今忙しい、帰ってから話す】
その一行を見て、胸が詰まって息ができなかった。涙がこらえきれず落ちた。
芽衣の子供がシングルマザーの子と馬鹿にされないように、その子のパパを演じた。
なのに自分の子供の存在を公然と否定して、笑われて、辱めさせた。
それとも――詩ちゃんは本当に彼の娘なのだろうか。
澪司と関わり続ければ律が傷つくだけだ。早く縁を切った方がいい。
顔の涙を拭いて、救助の電話番号を押した。
「もしもし、子供がいなくなりました」