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誰かと添い遂げる人生より、自由に羽ばたきたい
皮膚移植の手術が終わって、麻酔が完全に切れても、夫の佐野勇太(さの ゆうた)は現れなかった。 うつ伏せになって、体を動かせない佐野梓(...
Chương (1)
第1章
皮膚移植の手術が終わって、麻酔が完全に切れても、夫の佐野勇太(さの ゆうた)は現れなかった。
うつ伏せになって、体を動かせない佐野梓(さの あずさ)は、スマホを手に取った。一体何をしているのかと勇太に連絡しようとした、その時。あるトレンド記事が目に飛び込んできた。
【男にとって『愛』と『責任』は別物なの?】
梓は、なぜかそのタイトルに吸い寄せられるように、その記事をタップした。
最初のコメントは、まるで戦利品を自慢するかのような、率直な文だった。
【もちろん、全然ちがうに決まってる。彼が自分の妻に感じてるのは、ただの責任。でも私には愛情がある。その差は大きい】
コメント欄には非難が殺到していた。
しかしそのコメ主は、見下すような口調で一つ一つ返信していた。
高評価コメントの一つに、こんなものがあった。【どういう気持ちでそれを言ってるの?どうせ不倫相手でしょ?】
コメ主は返信した。【ううん、愛されてるってこと。あの男は毎年決まって2ヶ月間、私の家に来てくれるの。どんな時でも。妻の両親の命日ですら、私の隣にいてくれた。『お前の顔を見てると、ホッとできる』だって】
その文章を読んだ途端、梓は息ができなくなった。背中の手術痕がドクドクと脈を打つように痛みだした。
第1話
皮膚移植の手術が終わって、麻酔が完全に切れても、夫の佐野勇太(さの ゆうた)は現れなかった。
うつ伏せになって、体を動かせない佐野梓(さの あずさ)は、スマホを手に取った。一体何をしているのかと勇太に連絡しようとした、その時。あるトレンド記事が目に飛び込んできた。
【男にとって『愛』と『責任』は別物なの?】
梓は、なぜかそのタイトルに吸い寄せられるように、その記事をタップした。
最初のコメントは、まるで戦利品を自慢するかのような、率直な文だった。
【もちろん、全然ちがうに決まってる。彼が自分の妻に感じてるのは、ただの責任。でも私には愛情がある。その差は大きい】
コメント欄には非難が殺到していた。
しかしそのコメ主は、見下すような口調で一つ一つ返信していた。
高評価コメントの一つに、こんなものがあった。【どういう気持ちでそれを言ってるの?どうせ不倫相手でしょ?】
コメ主は返信した。【ううん、愛されてるってこと。あの男は毎年決まって2ヶ月間、私の家に来てくれるの。どんな時でも。妻の両親の命日ですら、私の隣にいてくれた。『お前の顔を見てると、ホッとできる』だって】
その文章を読んだ途端、梓は息ができなくなった。背中の手術痕がドクドクと脈を打つように痛みだした。
コメ主の文脈からは、得意げな様子が滲み出ていた。
【それにね、あの男は私にみじめな思いをさせたくないからって、彼の妻にはずっとピルをサプリに見せかけて飲ませてるの。長いこと飲んでるから、体はもうボロボロ。一生妊娠できないんじゃないかしら】
梓は無意識に下腹部をさすった。
【一番面白いのはやっぱり3年前のこと。私の卒業旅行で海にいたとき、あの女の両親が玉突き事故で即死したの。彼はスマホをマナーモードにしてて電話に出なかった。だから、これは一生かけて償うべきことなんだって言ってる。
でも、償いと愛とは別物でしょ?】
さらなる非難の声が殺到したが、コメ主はますます盛り上がり、最新の返信には画像を添付してあった。
鏡に映るのは、女の若く肌白でツルスベな背中。首から後ろにかけられたメンズネックレスが、腰のあたりまで垂れ下がっていた。それは見覚えのある……勇太がいつも肌身離さずに着けているものだった。
添え書きは次のように書かれている。【私の肌はミルクのようだって、いつも触ってて離さない。どこかの誰かさんみたいに、傷だらけで見るのも気持ち悪い肌とは違うってことね】
梓は全身の血の気が引くのを感じた。
そのなめらかな背中が、ガーゼの下にある自分の醜い火傷痕を、これでもかと見せつけてくる。8年前、火事の中で勇太を突き放したときにできたその傷は、何度も手術をしても醜いままだった。
3年前の事故で両親が亡くなった時も、勇太と連絡が取れなかったせいで、自分は死に目に会えなかった。
結婚してからずっと子供が欲しかったのに、妊娠することはなかった。勇太はいつも、「成り行きに任せよう」と言って、あらゆるサプリを用意してくれていた……
全て、辻褄が合った。
コメント欄の非難が激しくなる中、コメ主はさらに更新した。【雲嶺市に到着。今度こそ、あの女に自分の立場をわきまえさせて、さっさと出て行ってもらうわ!】
梓はハっとした。勇太が先週、今日は大事な取引先を空港に迎えに行くと言っていたのを思い出したのだ。
ああ、この女だったのか。
彼女は震える手で勇太に電話をかけた。
長いコール音の末にやっと繋がったが、電話の向こうは騒がしかった。
「梓?手術終わった?具合はどうだ?」
「どこにいるの?」
「空港だよ。大事な取引先を迎えに来てる」
勇太は少し間を置いてから、いつもの優しい声で言った。「ゆっくり休んでて。仕事が片付いたら、すぐお前のところへ行くから」
電話の向こうから、若い女性の甘ったるい笑い声がかすかに聞こえた。
梓の心臓は、まるで氷の錐で突き刺されたようだった。
昔なら、仕事で大変なんだなと思えただろうけど、今は吐き気がするだけだった。
梓は目を閉じ、電話を切った。
夜10時になって、ようやく勇太が冷たい空気をまとって病室に入ってきた。
「お待たせ。道が混んでてさ」彼はベッドのそばに寄り、梓の額に触れようとした。
梓はそれを避けて、尋ねた。「誰を迎えに行ってたの?」
勇太の動きが止まったが、表情は変えずに言った。「取引先の娘さんだよ。雲嶺市に遊びに来たんだけど、乗る車が見つからなくて、俺が乗せてやったんだ」
「どんな取引先なの?手術を終えたばかりの妻よりも大事なわけ?」梓の声は震えていた。
勇太はため息をつき、疲れた表情を浮かべた。「梓、少しは分かってくれよ?俺がこんなに大変な思いをしてるのは、誰のためだと思ってるんだ?
手術したばかりなんだから、変な考えごとはやめろ。体に悪いぞ」
またこれだ。
何か疑問をぶつけても、話し合おうとしても、結局いつも、「考えすぎだ」「理不尽なことを言うな」と片付けられてしまう。
その時、当直の医師が回診で入ってきて、気まずい空気を破った。
勇太はすぐに完璧な夫の顔に戻り、医師と小声で話し、注意事項などを尋ねていた。
その姿は、どこからどう見ても、思いやりのある優しい夫だった。
まるで、さっきの口論などなかったかのようだった。
医師が去ると、病室は再び静まり返った。
勇太はため息をつくと、梓の布団をかけ直した。
「とりあえず休んでろ。俺は一服してくる。何か話があるなら、また明日にしよう」
ドアが静かに閉まった。
梓はうつ伏せのまま、背中に走る無数の痛みに耐えながらも、頭は妙に冴えていた。
あの投稿の一つ一つが、自分の身に起きたことと一致していた。
両親の死。長年の不妊。夫の定期的で長期の出張。そして今日の、当たり前のような不在と嘘。
自分が神経質だったわけじゃない。疑い深かったわけでもない。
ただ自分が、長年、馬鹿だっただけだ。
梓はスマホを手に取り、ずっと前から登録してあったが、一度もかけたことのない番号に電話した。
「高田先生ですか?佐野梓です」彼女の声には、何の感情もこもっていなかった。「すみません、お願いしたいことがあります。離婚協議書を作成してください。夫の不倫の証拠はあるので、私に一番有利な条件でお願いします」
第2話
電話が切れると、ツー、ツーという機械的な音が、静かな病室にやけに空しく響いた。
梓はスマホを握ったまま動けずにいた。指先が氷のように冷たい。
もう本当に、勇太と離婚するんだ。
その思いは、錆びついた鍵のようで、記憶の奥にしまい込んでいた扉を、乱暴にこじ開けてしまった。
8年前の火事のあと、梓はもっとひどい状態でベッドにいた。全身に激痛が走り、意識も朦朧としていた。
勇太はベッドのそばにひざまずいていた。目は真っ赤で、彼女の手を握りしめながら、何度も何度も「ごめん」とか「元気になったら、結婚しよう」とか、そう言った。
梓は断った。こんな体じゃ足手まといになるだけだ。治療だって、いつ終わるか分からないし。
でも勇太は、どうしてもって譲らなかった。彼女がやっと歩けるようになった日には、消毒液の匂いがする廊下で片膝をついたんだ。指輪を差し出して、医師や看護師たちの前で、真剣にプロポーズしてくれた。
あの時の勇太は、心から梓を心配してくれていた。その目には迷いのない強い決意があったんだ。「梓、一生お前の面倒を見させてくれ。俺はお前に償わないといけない。それに、俺がそうしたいんだ」って。
その後、勇太は約束通り、梓の面倒をみてくれた。
必要のない付き合いはほとんど断って、色々な病院に付き添ってくれた。一番いい治療法を探して、あちこち回ってくれたんだ。
何度も手術をした。お金だってすごくかかったのに、彼は嫌な顔ひとつしなかった。
一度、勇太が電話で頭を下げてお金を借りているのを、聞いてしまったことがある。でも、病室に戻ってきた彼は、いつもみたいに穏やかだった。梓にスープを飲ませながら、「お金のことは心配しなくていいから」って、優しく笑うんだ。
あの時、梓は勇太に背を向けたまま、枕を濡らした。心の中は、ずっしり重い感謝の気持ちと、申し訳なさでいっぱいだった。
自分のせいで、彼に苦労をかけてるって思ったんだ。
結婚して最初の2年間、周りの人から見れば、勇太は完璧な夫だった。
定期健診の日も、薬を飲む時間も、全部覚えてくれていた。雨が降って古傷が痛む日は、一晩中寝ないで温かいタオルを当ててくれたりもした。
記念日も全部覚えてくれたし、高くはないけど、心のこもったプレゼントを用意してくれた。
梓が落ち込んでいる時は、優しく話を聞いて、抱きしめてくれた。「俺がいるから」って。
家事もほとんど勇太がやってくれて、水仕事は一切させてくれなかった。
一番の親友でさえ、羨ましそうに言っていた。「梓、勇太さんみたいな人、まるで罪滅ぼしみたいにあなたのことを愛してるわね」って。
自分たちは特別で、死にそうな目にあったからこそ、愛は誰よりも固いんだって。
この時までは、信じていた。
思い出が、冷たい波みたいに何度も打ち寄せてくる。そして、波が引いた後には、ごつごつとした岩みたいな事実だけが残った。
かつて疑いもしなかった勇太の優しさが、あの投稿の冷たい文字の前では、どんどん歪んで見えてくる。
梓は深く息を吸い込むと、もう一度スマホの画面をつけた。
例の投稿はまだ残っていて、返信はもう千件以上もついていた。
指先は冷え切っているのに、手つきは不思議なくらい落ち着いていた。スクリーンショットを撮り、画像を保存する。画面録画機能まで使って、投稿のページと目に痛いコメントを、一ページずつ、全部記録していった。
さっきよりも、ずっと念入りに見ていく。
全身が凍りつくような言葉の一つ一つが、今度は鋭いメスみたいだった。彼女の結婚生活を、隅々まで切り刻んでいく。
コメ主は自慢げに書いていた。【あの男、私が他の男とちょっと話しただけで、何日も不機嫌になるの。ヤキモチ妬いてる姿が、すごく可愛い】って。
梓は固まった。そういえば勇太は、いつから自分に何の感情も向けなくなったんだろう?
怒らない。言い争いもしない。イライラした様子すら見せない。いつも穏やかで、何でも受け入れてくれて、でも、どこか他人行儀な優しさ。
それが大人になるってことなんだ、思いやりなんだ、そう思ってた。
でも今ならわかる。ただ、どうでもよかっただけなんだ。
彼の感情も、本当の気持ちも、全部、他の女に向いてたんだ。
その女の前ではイライラしたり、怒ったりして、甘えてたんだ。でも自分に対しては、ただ責任を果たすための、穏やかな仮面をつけていただけ。
愛してないから、感情を出すのさえ面倒だったんだ。勇太の本当の顔は、彼が心から安らげる人のためにあった。
さらに読み進めると、ある一枚の写真に目が釘付けになった。
それは、象牙でできたピアスのアップ写真だった。繊細な作りで、凝ったデザインをしていた。
文がそえてあった。【あの男が手作りしてくれたの。今は象牙って売買禁止だけど、これは彼が子供のころから持ってた特別なものなんだって。私がつけると、綺麗だねって言ってくれた】
記憶のダムが、音を立てて決壊した。
梓ははっとした。確か4年前だ。勇太が急に彫刻にハマって、小さな書斎をアトリエに改造して、何時間もこもっていた時期があった。
ある時、自分がフルーツを部屋に持っていくと、確かに机の上に象牙と工具が散らばっていた。彼はその時、何か小さくて丸いものを磨いていた。
そばに寄って覗き込んで、冗談っぽく言った。「すごく綺麗。もしかしてピアス?残念だな、私、穴を開けてないの」って。
あの時、勇太はなんて答えたっけ?
彼は梓の髪をくしゃっと撫でて、笑って言った。「まさか。ただの趣味だよ。うまくできるかも分からないし」って。
その顔は、ごく自然で、嘘をついてるようには見えなかった。
そうか、あの時からもう、勇太の心の中には、心を込めてプレゼントを贈りたい相手がいたんだ。
あの時感じた、ほんの少しの違和感。勇太の優しい笑顔ひとつで、簡単にかき消されてしまった。
一瞬でも彼を疑った自分を、恥ずかしいとさえ思ったんだ。
なんて、バカみたい。
スクロールしていくと、コメ主が二人でディズニーランドに行った話が出てきた。メリーゴーランドに乗って、お揃いのぬいぐるみを買ったという。
梓は思い出した。去年、自分もディズニーランドに行ってみたいって言ったことがある。勇太は少し黙った後、「あそこは人が多いから、お前の体にはきついよ。体調が良くなったら、また考えよう」って言ってた。
完璧なまでに、自分を気遣う言葉だった。
彼の心配が嬉しくて、行きたい気持ちをぐっとこらえた。
そうか、人混みが嫌だったんじゃない。自分が疲れるのを心配してたわけでもない。ただ、楽しい時間を自分と過ごしたくなかっただけなんだ。
勇太が心からリラックスして楽しめるのは、別の女の子といる時だけだったんだ。
その自慢話の一つ一つが、鋭いメスみたいだった。優しい思い出だと思っていた記憶のヴェールを剥がしていく。その下には、とっくに腐りきった事実が隠れていた。
これは、突然の裏切りじゃない。何年もかけて、ゆっくりと、でも確かに、勇太の心は自分から離れていった。
自分の前では、完璧で、責任感の強い夫を演じていた。でも別の場所では、本当の気持ちをさらけ出して、恋のときめきを楽しんでいたんだ。
そして自分は、「責任」という名の神棚にまつりあげられ、お金と、形だけの優しさで飾られて、彼の本当の人生からは、とっくに追い出されていたんだ。
背中の傷跡が、まだじんわりと痛む。でもそれとは比べ物にならないくらい、鋭い痛みが胸の奥から広がっていく。手足の先まで凍りついていくみたいだった。
泣くと思っていたのに、涙が出なかった。目が乾いて、ひりひり痛むだけだった。
第3話
退院の日、勇太が車を運転して、梓を迎えに来た。
車は慣れ親しんだ民宿の前で止まった。看板の文字は、少し色褪せている。
ここは結婚してすぐに二人で始めたもので、梓が夢見た理想の家庭、そのもののようだった。
勇太は車を停めると、彼女を支えようと回ってきた。でも梓は、さりげなくそれを避け、自分の足でゆっくりと民宿の門へ向かった。
ここは彼女が自らデザインした場所だ。隅々まで知り尽くしていて、傷ついた自分を守ってくれる砦だと思っていた。
勇太が梓の後ろから何かを言おうとした時、突然、鈍い音が響き、庭の真ん中から明るい炎が勢いよく燃え上がったのだ。
オレンジ色の炎は瞬く間に闇をなめ尽くし、周りを真昼のように明るく照らした。
そして、若い人たちの歓声と拍手が響き渡った。
梓は、全身の血が逆流するかと思った。
8年前の、あの焼けつくような熱さと息苦しさ、皮膚が焦げる恐怖が、何の予兆もなく一気に蘇ってきた。
目の前が真っ暗になり、足元がふらつく。梓は思わず後ずさり、石段に躓きそうになった。
「危ない!」耳元で勇太の声がして、たくましい腕で素早く彼女の腰を抱きしめ、体を支えてくれた。
勇太の腕の中で、梓の体は堪えきれず震え始めた。心臓は胸の中で暴れ、肋骨が痛むほどだった。
「なんなの、これ?!」自分の声が、甲高く響いた。抑えきれない震えと怒りが混じっている。
「どうして庭で火が燃えてるのよ?!」
勇太が答えるより先に、軽やかな人影が焚き火のそばから走ってきた。
「勇太さん、おかえり!」甘く弾んだ、嬉しそうな声だった。
とても若い女の子だ。鮮やかなエスニック調のワンピースを着て、その上に洒落たショールを羽織っている。焚き火の光を浴びて、彼女の瞳はきらきらと輝いていた。
女の子は近くまで来ると、勇太が梓の腰に回している手にちらりと視線をやった。でもすぐに逸らし、梓のことだけをじっと見つめた。
「梓さんですよね?ごめんなさい!」女の子は両手を合わせ、しきりに謝った。
「私が悪かったです。今夜は星がすごく綺麗だし、庭も空いてたから、みんなで焚き火をしようって提案しました。勇太さんが、いいよって言ってくれたので、火をつけたんですけど、まさかこんなにびっくりさせちゃうなんて……本当にごめんなさい!」
梓は彼女を見ていた。この見知らぬ、若さにあふれた顔を見ていると、頭がガンとなった。
あのコメント。あの若くてすべすべした背中。そして、その背中で揺れている、あのメンズネックレス……
すべてのピースが、一瞬ではまった。
やっぱり、この女だったんだ。
勇太の手は、まだ梓の腕を支えていた。彼は、梓の体が瞬時にこわばったのを感じた。
勇太はいつもの穏やかな声で、その女に言った。「大丈夫だよ。お前のせいじゃない」
それから梓の方を向いて、小声で説明した。「梨花が休暇でスケッチに来てるんだ。何日か泊まるから、若い子もいるし、賑やかな方がいいと思って」
梓の視線は勇太の顔から離れ、パチパチと音を立てる焚き火へと移った。
炎が、まるで牙をむくように、彼女の瞳に映り込んでいる。
梓は火が怖かった。8年前のあの火事以来、ずっと。
一度、客が連れてきた子供が庭で線香花火をしていて、その火花が足元に飛んできたことがある。その時、彼女は取り乱して叫んでしまい、一晩中震えが止まらなかった。
それ以来、勇太はルールを決めた。この庭では、バーベキューはもちろん、焚き火なんてとんでもない。絶対に火を使ってはいけないと。
去年、常連客が友人を連れてきて、小規模なキャンプファイヤーをしようとした。それに気づいた勇太は、みるみるうちに顔をこわばらせ、珍しく声を荒げた。しまいには、警察を呼ぶ寸前の騒ぎになった。
この庭で火を使うことは、絶対に許されない。それが鉄の掟なんだ、と勇太は言っていた。
その鉄の掟も、破られることがあるんだ。
この「梨花」という女が言うなら、例外も許されるんだ。
「梓さん、本当に怒らないでください」松尾梨花(まつお りか)は一歩前に出て、真剣な顔で言った。「全部、私のせいですから。すぐに火は消します!だから、怒らないでください……よかったら、みんなと一緒に座りませんか?おしゃべりして、リラックスしましょう?」
一緒に座るだって?自分のトラウマだからとあれほど固く禁じられていた火のそばで、自分の夫とあんたが楽しそうにしているのを、横で見ろっていうの?
梓は、あまりに馬鹿馬鹿しくて、心が冷えていくのを感じた。
「いいんだよ」自分の声が驚くほど落ち着いている。「楽しんでるんでしょ。水を差すのはやめとくね」
梓は梨花も、勇太のことも見なかった。ただ、彼の手から力ずくで自分の腕を引き抜いた。
その動きで背中の傷が痛み、思わず眉をひそめた。それでも梓は足を止めず、母屋の横にある階段に向かって、一歩ずつ歩いていった。
勇太は、彼女の背中が階段の角に消えていくのを見つめ、気づかれないほど微かに、眉をひそめた。
第4話
次の日の朝、ノックの音がした時、梓は窓辺に座ってぼんやりしていた。
背中の痛みが神経をじわじわとすり減らす。めちゃくちゃな夢ばかり見ていたせいで、朝から気力もなかった。
梓は返事をしなかったが、ドアは静かに開けられた。
梨花がお湯と薬を手に、にこやかな笑みを浮かべて入ってきた。
「梓さん、起きてたんですね。勇太さんは朝早くに町へ行きましたよ。出かける前に、サプリを持ってくるようにと頼まれたんだ」
梓は、サプリと一杯のお湯に目をやった。
怪しいくらいの白色をしたカプセルが、梨花の手のひらに静かに並んでいる。
あのコメントの言葉が、脳裏に蘇る。【それにね、あの男は私にみじめな思いをさせたくないからって、彼の妻にはずっとピルをサプリに見せかけて飲ませてるの……一生妊娠できないんじゃないかしら】
冷ややかな悪意が、その白くて無垢な殻から滲み出てくる。
ケロイドを抑えるために摂っていたものだが、実は過量なピルだったなんて。しかも、それは今、夫の愛人が直に自分に飲ませようとしている。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、心臓を冷たい蔦で縛り付けられるようだった。
「そんなもんいらないわ」梓の声は、感情のこもらない平坦なものだった。「下げてくれない?」
梨花の笑顔が一瞬こわばった。しかし、すぐにまた、もっと優しげな笑みを浮かべる。「梓さん、わがまま言わないでくださいよ」
彼女は少し身を乗り出し、なだめるように声を潜めた。「早く傷が良くなってほしいから、ちょっと量が多いのも当然ですよ。あなたが早く元気になれば、勇太さんだって安心するじゃないですか、ね?」
梓は梨花の言葉を遮った。ベッドに手をついてゆっくりと上体を起こすと、背中の傷が引きつられ、痛みで顔は一層青ざめたが、その視線は凍るように冷たかった。
「あなたと勇太のこと、私に全部言わせるつもり?松尾さん、それとも……愛人さんって呼んだ方がいいかしら?」
梨花は凍りついた。まさか梓がこんなにもストレートに切り込んでくるとは、思ってもみなかったのだ。
数秒の沈黙の後、彼女の口元に、人を小馬鹿にしたような笑みが浮かんだ。
梨花はぐっと顔を近づけ、二人だけに聞こえる囁き声で早口に言った。「知ってて、どうするっていうんですか?今のあなたなんて、彼の重荷になるだけじゃないですか?この傷だらけの体を見て、勇太さんが興奮するわけないでしょう?」
彼女が言い終わる前に、梓は勢いよく腕を振り上げ、梨花のサプリでいっぱいの手を思い切り叩き落とした。
その勢いでお湯も手の甲にこぼれ、コップが床に落ちて粉々になった。
「きゃっ!」梨花は短い悲鳴をあげ、さっと手を引っ込めた。だんだん赤くなっていく手を見て、たちまち涙目になる。
ほぼ同時に、部屋のドアが乱暴に開けられた。
勇太がそこに立っていた。手にはレジ袋を提げていて、どうやら帰ってきたばかりのようだ。
「どうしたんだ?」彼は早足で部屋に入ってくると、低い声で尋ねた。
「勇太さん!」梨花の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。泣きじゃくりながら、涙声で訴える。「私、薬の時間になったから梓さんに持ってきて、『飲んでください』って言っただけなのに……きっとご機嫌が良くなかったのね、急に叩き落とされて……手が……痛い……っ」
彼女は真っ赤になった手の甲を差し出した。そこには、飛び散った粉末が微かに残っていた。
勇太は眉間にしわを寄せ、梓を睨んだ。その目には、明らかな非難と抑えた怒りがこもっている。「梓!何をしてるんだ!梨花は親切でやってくれてるんだぞ!彼女に八つ当たりするなんて、どうかしちまったのか?」
「私が、どうかしちまったの?」梓は笑った。だが、その目からは涙がこぼれ落ちていた。
「ええ、そうよ、私はどうかしちまったわ!どうかしてるから、あんたを何年も信じてきたの!気が狂ったから、あなたが罪悪感を抱いてるなんて、本気で思ってた!」
梓は、梨花の怪我をしていない方の手首を、ぐっと掴み上げた。「答えなさい!勇太に頼んで、私に飲ませようとしてるこのサプリは、一体何なのよ!」
梨花はきゃっと悲鳴を上げ、さらに涙を流しながら、助けを求めるように勇太を見た。「勇太さん!痛いっ……」
「梓!彼女を放せ!」勇太は一歩前に出ると、梓の腕を力ずくで掴み、引き離そうとした。
その力には、紛れもない怒りがこもっていた。
勇太は力ずくで梓の指を一本ずつ引き剥がし、彼女を後ろに突き飛ばした。それほど強い力ではなかったが、衰弱しきっていた梓をよろめかせるには十分だった。
鈍い音を立てて、梓の背中は硬いベッドのヘッドボードに叩きつけられた。
まだ治っていない傷口から引き裂かれるような激痛が走り、目の前が真っ暗になる。周りの音も景色も、全てがぼやけて遠ざかっていく。
彼女は体を丸め、唇を噛みしめることで、どうにか悲鳴をこらえた。
勇太は一瞬、はっとしたように動きを止めた。伸ばした手は、行き場をなくして宙をさまよう。しかし、梨花の赤く腫れた手と涙が目に入ると、そのわずかな躊躇は、すぐに苛立ちへと変わった。
彼は手を下ろし、今度は梨花の肩を支える。そして、少しだけ声を和らげた。「大丈夫だ。行こう、薬を塗らないと」
勇太は梨花の肩を抱き、急いで部屋を後にしていく。ベッドの上で痛みに震える梓のことは、一度も振り返らなかった。
第5話
午後になると、梓は熱を出し始めた。
背中の傷がズキズキと熱く痛み、体の中から込み上がる高熱と一緒になって彼女を苦しめた。
意識が朦朧とする中で横になり、眠っては目を覚ます。ドアの外からかすかな足音が聞こえ、階下からはぼんやりとした笑い声が届いた。でも、誰もこの部屋のドアを開けることはなかった。
再び夜がやってきた。
高熱で、梓は半分意識がないような状態だった。
五感が鈍って変な感じがする。声が遠くに聞こえたり、すぐそばで聞こえたりした。
うとうとしていると、誰かが部屋に入ってきて額に触れたのがわかった。そして、ため息が聞こえたような気もした。
それから、ごそごそという物音がして、額に冷たいタオルが当てられた。
声を潜めた話し声が、熱にうなされる彼女の耳に、途切れ途切れに聞こえてきた。
「なんでこんなに熱が高いんだ……」勇太の声だった。いら立っているようだ。
「ぜんぶ私のせい……」梨花の声はか細く、鼻声を帯びていた。
「私がいなければ、梓さんも怒らなかったし、けがをすることもなかったのに」
「お前のせいじゃない。梓が勝手にキレ出しただけだ」
勇太の声が少し近くなった。どうやらベッドのそばに座ったらしい。「薬は飲ませたから、熱はそのうち下がるはずだ。お前の手はまだ痛むか?」
「ちょっと痛い……ふーふーしてくれない?」甘えるような声だった。
短い沈黙の後、笑いを含んだささやき声が聞こえた。「静かにして。梓はまだ寝てるんだ」
「わかってる、でも痛いんだもん」梨花の声はさらに低くなり、ねっとりと絡みつくようだった。「梓さんのことは心配するのに、私のことは心配してくれないの?」
「……ばかなこと言うな」
男の声は低く、何を言っているのかはっきりしなかった。仕方ないな、というような甘さが混じっているようだった。
その後の言葉は、梓にはもう聞こえなかった。
ひどい頭痛と耳鳴りがほかの音を全部呑み込んでしまった。あのねっとりとからかうようなささやき声の断片だけが、毒虫のように混乱した脳みそに食い込んでくる。
すべてが高熱の中でゆがんで大きく見えた。それは梓を底なしの屈辱と絶望の中にがんじがらめに縛りつけ、決して逃がそうとはしなかった。
梓が次に目を覚ましたとき、すでに空は明るくなっていた。
部屋のドアが静かに開き、勇太が水と薬を持って入ってきた。
「起きたのか?気分はどうだ?」彼はコップをベッドサイドテーブルに置いた。
勇太は血の気のない梓の冷たい横顔を見て、口調を和らげた。「熱が下がったならよかった。とりあえず薬を飲みなよ。雑炊も作っておいたから」
梓は動かず、勇太を見ようともしなかった。
彼女の視線は向かいの白い壁に留まった。声は渇いてかすれていたが、不思議なほど穏やかだった。「勇太、私たち、離婚しよう」
部屋の中は、一瞬でしんと静まり返った。
勇太の顔から柔らかな表情がすっと消えた。
彼は梓をじっと見つめた。まるで聞き取れなかったかのように。あるいは、とんでもない冗談を聞かされたかのように。
数秒後、勇太は口元をつり上げた。その笑みには温かみなんて少しもなくて、見下すような不可解さと苛立ちだけが滲んでいた。
「離婚?」彼は語気を強めて聞き返した。
「梓、熱で頭でもおかしくなったのか?また何を拗ねているんだ?」
「拗ねてなんかないわ」梓は、ようやく顔を勇太に向けた。
彼女の瞳はとても澄んでいて、怒りも悲しみもなかった。そこには、ただすべてが燃え尽きた後の灰だけが広がっていた。
「言ったでしょ。離婚するって」
勇太は梓と目を合わせると、眉間に深くしわを寄せた。
彼は深く息を吸い込み、何かを必死にこらえているようだった。「俺のもとを離れるだと?どこへ行くつもりだ?お前に一体何がある?この宿だって俺のものだ。お前がこれまで着てきたもの、口にしてきたもの、その全部、誰が与えてやったと思ってるんだ?」
勇太の視線が布団の下の梓の体をするりと撫でた。その意味は言わなくてもわかった。「俺と別れたら、誰がお前なんて相手にする?どうやって生きていくつもりなんだ?」
彼の言葉は氷のように冷たい針となって、一本一本、梓の麻痺した心に突き刺さった。
勇太は怒鳴ることも引き止めることもしなかった。ただ静かな口調で残酷な現実を並べ立て、一人の人間としての梓の価値を完全に否定した。
それを聞きながら、梓の顔にうっすらと冷たい笑みが浮かんだ。
「ふふっ……」彼女は乾いた声で笑った。「私に何があるか、だって?ええ、そうね。今の私に何が残っているっていうのかしら?」
勇太は梓の視線の冷たさに、思わず息を呑んだ。
さっき自分が口走った言葉が部屋に響き渡り、耳障りで汚いものとして自分に返ってくるのを感じた。
梓の青白い顔に浮かんだ皮肉な笑みを見て、勇太の胸はわけもなく締めつけられた。後悔と苛立ちが入り混じった感情がこみ上げてくる。
彼は視線をそらし、ごくりと喉を鳴らして場の空気を和らげようとした。「梓……」
声がかすれていた。「熱が下がったばかりで、まだ弱っているんだ。怒りに任せてそんなことを言うな。離婚なんて簡単なことじゃない。カッとなっちゃだめだ。今は休んで、体を治すことだけを考えろ」
勇太はそこに立ち尽くしたまま、どうすればいいのか分からなかった。
これ以上ここにいても、この凍りついた空気がさらに気まずくなるだけだ。
「お前は……とにかく今はゆっくり休め」彼はついにそう言った。その声には、気づかれないくらいの焦りが混じっていた。「雑炊はキッチンで温めてある。腹が減ったら食べろ。俺はこれで」
そう言うと、勇太はどこか慌てた様子で踵を返し、ドアを開けて出て行った。
第6話
勇太が出ていくと、梓はベッドサイドのテーブルからスマホを手に取り、弁護士の高田拓也(たかだ たくや)に電話をかけた。
電話はすぐに繋がった。
「もしもし、高田先生、佐野梓です」彼女の声は驚くほど落ち着いていて、まるで自分とは関係のない仕事の話をするようだった。「離婚訴訟を起こすことに決めました」
電話の向こうの拓也は、特に驚いた様子もなく、ただ確認するように尋ねた。「佐野さん、本当によろしいのですね?旦那さんの方は……」
「彼は協議離婚に応じてくれません」梓は拓也の言葉を遮り、きっぱりとした口調で言った。「ですから、訴訟を起こすしかありません。財産分与は法律通りに、私が受け取るべき分だけでいいです。でも……」
彼女は一瞬言葉を切り、その瞳は冷たい光を宿していた。「ひとつ、訴訟内容を追加してほしいことがあります」
拓也は尋ねた。「何ですか?」
「傷害罪です」梓は、はっきりとそう口にした。
「勇太は真実を隠し、私に長期間、不妊になる薬を飲ませていました。これは私の心と体に対する、明確な傷害行為です。診断書を取って、彼に刑事責任を問う権利を主張します」
電話の向こうは、しばらく沈黙した。予期せぬ展開に、驚きを隠せないようだった。
「まず、この方向で準備を進めてください」と梓は言った。「向こうがそう出るなら、私も容赦はしません」
電話を切り、彼女は長いため息をついた。ずっと胸につかえていた重たい空気が、少しだけ晴れた気がした。
傷害罪で訴えるのは、難しいかもしれない。でも、自分はそうしなければならなかった。
これは単なる法的な反撃ではない。この8年間、奪われてきた子供を産む権利と、踏みにじられた尊厳を取り戻すための、厳粛な宣戦布告なのだ。
梓は布団をめくりあげ、背中の刺すような痛みをこらえながら、ベッドから起き上がった。
動きはいつもよりゆっくりだったが、その一挙一動に迷いはなかった。
彼女の荷物は、そう多くはなかった。
この形だけの「家」にある物のほとんどは、勇太が買い与えたものだった。それらはどこか、施しのような雰囲気をまとっていた。
梓はクローゼットの奥から、古いスーツケースを一つ取り出し、荷造りを始めた。
自分で買った普段着を数枚、お気に入りの本を数冊、両親の写真。それに、マイナンバーカードや銀行のカードといった、大事なものだけ。
高価な服やアクセサリーの数々には、目もやらなかった。
責任と罪悪感で塗り固められた品々なんて、ひとつもいらなかった。
荷造りはあっという間に終わり、20分もかからずにスーツケースの蓋を閉じた。
梓は長年住んだこの部屋を見渡した。見慣れているはずなのに、ひどく知らない場所のように感じた。
スマホを取り出し、チケット予約アプリを開いた。
ためらうことなく、この街を出ていくため、一番早い新幹線の切符を選んだ。
行き先は、隣の県にある、一度も行ったことのない街。
どこへ行くかは重要ではなかった。大事なのは、ここから離れることだった。
決済はすぐに完了し、切符の詳細が画面に表示された。
スーツケースのハンドルを引き上げ、梓はドアへと向かった。
最後に一度だけ部屋を振り返ると、もう迷わずにドアを開けて外に出た。
階下は静まり返っていた。勇太は書斎にいるか、また梨花のところへでも行っているのだろう。
梓はがらんとしたリビングをまっすぐに横切り、玄関のドアを開けた。
外はどんよりと曇っていて、冷たい風が顔を打ちつけた。
彼女はコートの前をかき合わせ、冷たい空気を深く吸い込んだ。スーツケースを引き、一度も振り返らずに通りの角まで歩いて、タクシーを一台止めた。
「新幹線の駅までお願いします」
車が走り出すと、窓の外の景色が後ろへ流れ始めた。
梓はシートに深くもたれかかり、目を閉じた。
背中の傷はまだ痛む。でも、不思議と心は落ち着いていた。