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月明かりの下、君はもういない
結婚して5年。安西彩葉(あんざい いろは)は、ようやく夫である安西勲(あんざい いさお)が、自分のことを愛し始めてくれている、そう感じて...
Chương (1)
第1章
結婚して5年。安西彩葉(あんざい いろは)は、ようやく夫である安西勲(あんざい いさお)が、自分のことを愛し始めてくれている、そう感じていた。
最初は他人行儀な勲だったが、時間の経過と共に、自分のアレルギーの薬を覚えてくれたり、手料理も食べてくれるようになった。それに、友人にも自分のことを「妻」として紹介してくれるようになったのだから。
一緒に過ごしていく中で、氷のようだった勲の心もようやく溶けたのだと、信じていた。そして、自分の亡き姉である入江柚葉(いりえ ゆずは)への想いも、勲は断ち切り、やっと自分のことを見てくれるようになった……そう思っていた。
そんなある日、諦めの悪い幼馴染みの中島英樹(なかじま ひでき)によって彩葉は役所の前まで連れ出され、彼からプロポーズを受けた。
彩葉が、自分は既婚者だと断ろうとした、まさにその時、職員の言葉が聞こえてきた。
「安西彩葉様。3日前、ご主人の安西様よって、すでに離婚届が提出されています」
その日の夜、勲は柚葉にそっくりな女性を家に連れてきて、笑いながらこう紹介した。
「彼女は山口渚(やまぐち なぎさ)。これから、うちで一緒に暮らすことになったから」
彩葉はついに悟った。どんなに頑張っても、決して届かぬ想いというものがあるのだと。
そして、毎年彩葉が離婚するのを待っていた英樹が、10回目のプロポーズに現れる。
「これで安西との関係も終わったんだ。今度こそ、俺のこと見てくれるよな?」
彩葉は英樹の手からバラの花束を受け取ると、二度と振り返ることなく、勲のいない新しい人生へと歩み出したのだった。
第1話
結婚して5年。安西彩葉(あんざい いろは)は、ようやく夫である安西勲(あんざい いさお)が、自分のことを愛し始めてくれている、そう感じていた。
最初は他人行儀な勲だったが、時間の経過と共に、自分のアレルギーの薬を覚えてくれたり、手料理も食べてくれるようになった。それに、友人にも自分のことを「妻」として紹介してくれるようになったのだから。
一緒に過ごしていく中で、氷のようだった勲の心もようやく溶けたのだと、信じていた。そして、自分の亡き姉である入江柚葉(いりえ ゆずは)への想いも、勲は断ち切り、やっと自分のことを見てくれるようになった……そう思っていた。
そんな日々の中で、毎年ある日には、諦めの悪い幼馴染みの中島英樹(なかじま ひでき)によって彩葉は役所まで連れ出され、彼からプロポーズを受けるのだった。そして、英樹の手には彼の欄が記入済みの婚姻届が握られているのだ。
彩葉は毎年のように、自分はもう既婚者なのだと断ろうとした。
そんな彩葉に構わず、英樹は記入済みの婚姻届を手に、市民課の受付へと進む。「すみません、婚姻届を提出したいのですが……」毎年この日になると強引に自分を役所に連れてくる英樹を、彩葉は呆れたように見つめた。
こんな毎年の茶番に、彩葉が付き合っているのには訳があった。5年前、彩葉が車に轢かれそうになった時、身を挺して車から守ってくれたのが英樹だったのだ。その後、彩葉の代わりに大怪我を負った英樹が、病院のベッドに横たわりながら、か細い声でこう言った。
「彩葉、もし今回のことで負い目を感じているなら、これから毎年、この日になったら、俺と一緒に役所に行ってくれないか?10分だけでいい。少しでいいから、チャンスが欲しいんだ」
「申し訳ありません。安西様は現在、離婚届受理中ですので、受理されてからでないと、婚姻届を受け付けることができません」と、パソコンでシステム検索をかけたらしき役所の職員が、不思議そうな顔で言った。
「ほら、だから私は結婚してるって言ったで……え?離婚届受理中?」彩葉は唖然として、職員の方を見た。
職員は事務的な口調で答えた。「はい。配偶者の方が、数日前に離婚届を提出されておりますが。何か、問題でもございましたか?」
彩葉はその場で固まってしまった。隣にいた英樹も驚いた様子だったが、すぐに彼女の方を向き直ると、希望を隠せない様子で言う。「じゃあ今度こそ、俺にもチャンスはあるってことだよな?」
彩葉は呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。職員に無理を言って見せてもらった、パソコンの画面には、確かに『離婚届受理中』の文字があった。
役所を出ると、英樹はポケットから携帯を取り出し何かを確認した。「彩葉」彼の声のトーンが少し真剣になる。「俺、ちょっと用事があって、少しの間海外に行かなきゃいけないんだ」
英樹は一瞬言葉を切り、彩葉の真っ青な横顔を見た。そして、優しい声で続ける。「もしだよ?もし、離婚届が受理されても、お前が家庭裁判所に協議離婚無効確認調停の申立てをしないつもりであれば……」
彼は言葉を選ぶようにゆっくりと、一つ一つの言葉に探るような響きを乗せた。「帰ってきたら、チャンスが欲しいんだ。いいかな?」
チャンス?彩葉は口の端を歪めて自嘲したが、声が喉から出てくることはなかった。
その後、彩葉はどうやって自分が車を運転して家に帰ったのか、全く覚えていない。
ただ、前方車両に続き走るロボットのように、赤信号と青信号をぼんやりと見送ってきただけ。
頭の中には、ただ「離婚」という言葉だけが漂うだけで、その他には何もなかった。
家に帰ると、案の定、勲の姿はない。
彩葉は部屋の電気もつけず、靴を脱ぐと、冷たいフローリングを素足で歩いた。冷たさが、足の裏から頭を貫く。
鞄の中で携帯が一度、そしてまた一度と震えた。
彩葉はゆっくりと携帯を取り出し、画面を確認する。すると、知らないアドレスからのメッセージが2件、届いていた。
1件目は、一枚の写真。
少し薄暗い、どこか高級な会員制のバーの廊下のような場所で撮られたもの。
その中の勲はある若い女性に顔を寄せていて、女性も勲を見上げてにこやかに笑っている。とても親密そうな様子だ。
写真は少し画像が荒かったが、彩葉はその女性の顔立ちをはっきりと認識することができた。
彩葉の指がぴたりと止まる。
その顔をじっと見つめ、思わず息を飲んだ。
あまりにも似すぎている。
笑った時の口元、少しつり上がった目尻。それは、勲が書斎の引き出しに大切にしまっている、彩葉の姉である柚葉の写真にそっくりだった。
彩葉は、はっと思った。柚葉が亡くなってから、もう10年が経つ。
すぐに2件目のメッセージも開いた。それは、たった一文だけの短いメッセージ。【99人目にして、やっと柚葉に一番似た子を見つけた】
携帯が手から滑り落ち、カタンと音が響く。
結婚して最初の2年間、勲は彩葉に対して丁寧ではあったが、どこかよそよそしかった。
勲の誕生日に、彩葉は勇気を出して、腕によりをかけたご馳走を作った。しかし、彼はそれを一瞥し、「ありがとう」と言っただけで、テーブルの隅に置いた。そして、料理が冷めて固くなるまで、一口も手をつけなかったのだ。
あの頃の彩葉は、柚葉が亡くなってまだ数年しか経っていないのだから、勲にはまだ時間が必要なのだ、と自分に言い聞かせていたし、待つつもりだった。
その後、勲の態度は少しずつ柔らかくなっていった。
彩葉が風邪を引いた時には、何も言わずに薬と水をベッドサイドに置いてくれた。
彩葉が彼の好物を作ると、決して多くは食べなかったが、「美味しい」と頷いてくれるようにもなった。
勲の方から、寝室を一緒にしようと提案してくれたこともあった。
その時、彩葉は緊張と期待で胸がいっぱいだった。しかし、勲はただ、深夜に無意識に寝返りをうった時に、彩葉の腰にそっと腕を回すだけだった。
体が強張り動けなかった彩葉だったが、心の中には、小さな花が咲いたようだった。
勲は彩葉を友人との集まりに連れて行き、「妻の彩葉」と紹介して、ごく自然に肩を抱いてくれた。
友人たちが「勲も、奥さんができてから随分柔らかくなったな」と揶揄うと、勲はただ笑うだけで、特に否定することもなかった。
去年の彩葉の誕生日。この日は、彩葉の誕生日でもあり、柚葉の命日でもあった。
その日、彩葉が仕事から帰ると、ダイニングテーブルに綺麗なケーキが置いてあるのが見えた。そんなに大きくない、シンプルなショートケーキ。すると、エプロン姿の勲がキッチンから出てきた。手には彩葉の大好物であるエビ料理の皿を持っている。
「おかえり」勲はいつもと変わらない様子で言った。「手を洗ってきて。ご飯にしよう」
彩葉は玄関に立ち尽くしたまま、カバンの持ち手を強く握りしめた。声が震える。「今日って……」
「分かってるよ」勲は皿を置くと、彩葉のそばに来て、そっと髪を撫でてくれた。「命日は故人を偲ぶ日だけど、誕生日は誕生日で祝わなきゃ。そうだろ?彩葉」勲は彩葉の目をじっと見つめて言う。「君も、とても大切な人なんだ」
その夜、勲はケーキに蝋燭を立てて、彩葉に願い事をするように言った。
揺れる蝋燭の火を前に、彩葉は目を閉じて願う。これから先も、毎年勲と一緒に誕生日を過ごせるように、と。
勲の心が、やっと自分に開かれたのだと、そう思っていた。
しかし、そうではなかったらしい。
胃の奥から何かがこみ上げてきて、彩葉は慌ててトイレに駆け込んだ。便器に向かって何度もえずいたが、何も吐き出すことはできず、ただ涙で視界が滲むだけだった。
吐き気が収まると、冷たい洗面台のふちに手をついて、鏡に映る、目を真っ赤に腫らしたみじめな自分の顔を見つめる。
彩葉。
本当に救いようのない、馬鹿な女。
第2話
翌日、彩葉は勲から先に何かしらの連絡が来るのではないかと思っていた。だが、結局一切の連絡はないまま、当の本人が帰ってきた。
彩葉はリビングのソファに座り、水の入ったグラスを握りしめていた。その目は、どこか遠くを見ているようだった。
玄関の方から勲の優しい話し声がした。そして、もう一人、若い女性の楽しそうな声も聞こえてくる。
ドアが開いた。
勲の後に続き、女性が一人ついて入ってきた。
彩葉のグラスを握る指に、関節が白くなるほどの強い力が、ぐっと力が入る。
勲は彩葉に気づくと、ごく自然に声をかけた。「なんだ、彩葉。いたのか」そして、体をずらして後ろにいた女性を自分の前に出す。「彼女は山口渚(やまぐち なぎさ)。渚、こいつは俺の妻の彩葉」
渚は半歩前に進み出ると、ぺこりとお辞儀をした。「彩葉さん、こんにちは。お邪魔してしまって、すみません」
「渚はまだ住む場所が見つかっていないらしいから、しばらくうちに泊めることにしたんだ」勲が淡々とした口調でそう言う。
彩葉は、馬鹿げていると思った。
勲をまっすぐ見つめ、声を絞り出す。「勲。あの離婚届はどういうこと?」
勲は「ああ」と軽く声を上げると、口角を少し歪めて言った。「ああ、あれか。あれは、渚がちょっとご機嫌ななめだったから、彼女をなだめるための、ちょっとしたパフォーマンスだったんだ。だから、気にしないで」
勲は彩葉の目の前に立つと、見下ろしながら言った。「柚葉と約束したんだ。君のことは一生面倒見るってね」
なるほど、そういうことだったのか。
この5年間の結婚生活で、勲が急に優しくなったこと、時々見せてくれた温かい態度、初めて祝ってくれた誕生日。全部、彼が過去を乗り越えてくれたサインだと思っていた。だが、それは違ったらしい。ただ、柚葉との約束で、「面倒見る」ことになっていただけだったのだ。
胸の奥が、鈍く痛む。勲の顔を見ていると、もう口論する気力さえ失せてしまった。
何を言い争うことがあるのだろう?最初から、これはフェアな恋愛ではなかったというのに。
彩葉は俯いて、冷たくなった自分の指先を見つめると、小さく「わかった」とだけ答えた。
その夜、彩葉は寝室に閉じこもって、黙々と荷物の整理を始めた。
離婚すると決めたからには、先に荷物をまとめておいた方がいいだろう。
荷造りをしていると、リビングの方から突然、何か重いものが落ちたような激しい音が聞こえてきた。それと一緒に、渚の短い悲鳴も聞こえる。
彩葉は手を止めると、思わずドアを開けて部屋から出た。
リビングでは、棚の一番上に置いてあったクリスタルのオルゴールが床に落ちて、粉々に砕けていた。
それは、亡くなった柚葉が、生前一番大切にしていたもの。勲はそれを宝物のように扱っていて、彩葉も含めて誰にも触らせなかった。一度、掃除の時に彩葉がうっかり触れてしまったことがある。その時の勲は顔をこわばらせ、氷のように冷たい声で言ったのだ。
「触るな!君なんかが、柚葉のものに触っていいわけないだろ」その言葉は、今でもずっと胸に刺さっている。
今、渚は粉々になった破片のそばで、どうしていいか分からずに立ち尽くしていた。顔は真っ青で、今にも泣き出しそうだ。「ごめんなさい。勲さん、本当にごめんなさい。ちょっと見てみたかっただけで……わざとじゃないの」
彩葉は息を飲んで、勲の顔を見てみる。
激しく怒鳴りつけるか、少なくとも冷たい顔で睨みつけるだろう、と彩葉は思っていた。
ところが、勲は渚に駆け寄り、彼女をじっと見て心配そうに声をかける。「手に怪我はしてない?」
渚が首を横に振った。その目は、さらに赤くなっていく。
それから、勲は床の破片に目をやった。ほんの一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに表情を和らげると、渚の肩をそっと抱き、優しい声で言った。「心配するな。ただの古い置物だから。壊れてしまったものは仕方ない。君に怪我がなくてよかったよ。大丈夫だから、ね?」
寝室のドアの前に立っていた彩葉は、全身が冷え切っていくのを感じた。
彩葉にとって目の前の光景は、かなり刺激の強いもので、目眩がするほどだった。
渚を宥め終わった勲が、顔を上げて彩葉の方に目線を向ける。
そして、その視線は彩葉を通り過ぎ、後ろの寝室に移った。そこには、開けっ放しのスーツケースと、ベッドの上に散らかった服。
勲の顔に一瞬、怪訝そうな色が浮かぶ。「彩葉、旅行にでも行くのか?何で荷物なんかまとめてるんだ?」
彩葉の喉がぎゅっと詰まった。何とか言葉を発しようとしたが、その声は別の声にかき消されてしまう。
勲の隣にいた渚が勲の袖を軽く引っ張り、鼻にかかった小さな声で言った。「勲さん、何だか気分が悪くなっちゃった。外の空気を吸いに行きたいんだけど」
すると、勲の注意はすぐに渚へと引き戻された。彼は心配そうに渚の顔を覗き込む。「どうした?びくっりしちゃったかな?じゃあ、下の庭に散歩にでも行こうか」
勲は渚を抱きかかえるようにして、くるりと背を向けると玄関へ向かった。彩葉の横を通り過ぎる時も、足を止めることすらなかった。
ドアが開けられ、そして閉められる。
リビングは静けさを取り戻し、床には砕け散ったクリスタルの破片だけが残されていた。
彩葉はゆっくりとしゃがみ込む。鋭い破片の上に指先を近づけたが、それに触れることはなかった。
結婚して3年目の時のことを、ふと思い出した。自分がう誤って柚葉の物を壊してしまった時、勲は一言も口を開かずに、ちらりと自分を見ただけだった。しかし、その目に宿っていた不快感と冷たさは、今でもはっきりと覚えている。
愛しているか、愛していないか。ふさわしいか、ふさわしくないか……その違いは、こんなにもはっきりしていて、とても残酷なものだったのだ。
第3話
週末、勲は渚を友人たちとの集まりに連れて行こうとしていた。
出かける前に、勲はソファで本を読んでいた彩葉に声をかける。「彩葉も一緒に行こう。いつもの仲間だし、君も知ってる人たちだからさ」
彩葉は断ろうと思ったが、ふと考え直した。これが勲の妻として、彼の友人たちの中に足を踏み入れる最後の機会かもしれない。そう思い、彩葉は頷く。「わかった」
集まりは、会員制バーの個室で行われた。
照明は落とされ、静かな音楽が流れている。勲が渚と彩葉を連れて入ると、それまで賑やかだった部屋が一瞬、静まり返った。
親しい友人たちが、渚の顔を少し見てから、さっと彩葉に視線を移すと、お互いに何かを察したように目配せした。彼らは小声で話し始める。
「おい、そっくりすぎるだろ……」
「勲のやつ、ついに『最終版』を見つけたってわけかよ?」
「しーっ、静かにしろって」
彼らの会話が聞こえてきた勲だったが、気づかないふりをし、渚の肩を自然に抱き寄せ、友人たちに紹介する。「山口渚だ」その口調は気心の知れたもので、ふとした瞬間にこぼれる、さりげない親しさがにじんでいた。
渚は恥ずかしさと不安が入り混じったような表情を浮かべながらも、勲に寄り添い、彼の服の裾を軽く握っていた。
勲が渚に何かささやくと、彼女はすぐに顔を上げて甘く微笑む。
彩葉はそれを見ているだけで、胸がえぐられるような痛みを感じた。
場のノリで、誰かが『真実か挑戦か』を提案した。最初に、ジャンケンで負けたのは彩葉だった。
「真実か挑戦、どっちにする?」と、誰かが囃し立てる。
彩葉は唇をきゅっと結んで答えた。「真実」
そして、質問者は渚だった。
「彩葉さんのお姉さんって、彩葉さんを助けようとして事故に遭ったと伺いました。それに、お姉さんのものだったはずの人生と恋人を横取りして、もう何年も経つそうですが、今はどんな気持ちなんですか?」
その言葉が響いた瞬間、部屋は水を打ったように静まり返る。
彩葉は全身を激しく震わせ、信じられないという顔で渚を見つめた後、すぐさま勲に顔を向けた。
このことは、彼女の心の奥底にある最も深く、最も痛ましい傷跡だった。そして、幾度となく夜中に夢から覚めるたび、罪悪感に呑み込まれる、そのすべての根源でもあった。
そしてこれは、どうしようもなく苦しくて辛かった日に、勲にだけ打ち明けた話だった。二人の関係が少しは良くなるかもしれない、そんな哀れな希望を抱き、自分のすべてを理解してほしいと願って……
だからこれは、二人だけの秘密のはずだった。
だが今、その傷は、生々しく引き裂かれ、皆の前にさらされてしまった。
彩葉は考えずにはいられなかった。勲がいったいどんな状況で、この出来事を……物語のように、あるいは新しい恋人をあやすための話の種のようにして、渚にそっと語って聞かせたのかを。
それは、肌を寄せ合って、甘い時間を過ごしている時だったのか。
それとも、渚が些細なことで機嫌を損ね、彼女をなだめるために、自分の悲しい過去を話して笑わせでもしたのだろうか?
彩葉の唇は震え、顔からは血の気が引いていく。彼女は勲を見つめながら、彼が否定してくれることを待った。もし否定してくれなくとも、せめてこの場を何とかしてくれることを必死に願った。
渚の隣に座っていた勲は、顔をこわばらせ、眉を顰めている。
だが、何も言わなかった。
ただ、複雑で何を考えているのか分からない目つきで彩葉を見ていた。その瞳の奥には緊張の色も浮かんでいるようで、まるでこの質問にどう答えるのが正解なのか、見極めようとしているかのようだ。
彩葉は全身が冷え切り、指先の感覚がなくなるのを感じた。
何か言おうと口を開くが、彩葉は声が出せなかった。
「ちょっと、さすがにその質問はあれなんじゃないか……」雰囲気の悪さに気づいた友人の一人が、ようやく場を何とか和ませようと口を開く。
しかし、その隣にいた女性がにやにやしながら口を挟んだ。「ただのゲームじゃん。まっ、答えられなかったんだから、罰ゲーム受けなきゃだよね?ショット3杯!」
彩葉は考える間もなく、テーブルに並ぶショットグラスに手を伸ばす。
ここに一秒でもいるくらいなら、酔いつぶれたほうがましだった。
だが、彩葉がショットグラスに口をつける前に、大きな手によって力強く掴まれた。
勲が、いつの間にか立ち上がっていたのだ。彩葉の手から強引にグラスを奪い取ると、彩葉を見て、苛立ちを声に滲ませた声で言った。「君はアルコールアレルギーだってこと、自分で分かってないのか?ふざけるのもいい加減にしろ」
そして、勲は彩葉から視線を外すと、近くにいた店員らしき人に声をかける。「悪いけど、ホットミルクを一杯もらえるかな?」
再び彩葉に向き直った勲は言った。「あっちのカウンターで待ってろ」
彩葉はうつむいたまま、誰の顔も見ずに黙って向きを変え、部屋の隅にある小さなカウンターへと歩いていった。
牛乳を受け取りに行った彩葉が個室に戻ろうとすると、半開きのドアの向こうから、またゲームが始まったらしい声がはっきりと聞こえてきた。
「勲さん!勲さんの番よ。本当のことを言ってよね?」それは、渚の甘えたような声。
「分かった。質問は?」勲の声にも、渚を甘やかすような響きが含まれている。
少し黙って考えていた渚だったが、ふとドアの外にいる彩葉に気づくと、わざと声のボリュームを上げた。「勲さん。彩葉さんのこと、愛したことはある?ほんの少しでも……」
ドアの外で、彩葉は思わず息を止め、冷たい壁に強く指を這わせる。
ほんの少しでもいい。ほんの一瞬でもいい。夫としての責任とは別に、自分という個人に向けられた、ほんのわずかな温情が欲しかった。
彩葉はまるで、最後の審判を待つ囚人のように、その心臓は静寂の中で狂ったように波打っていた。
個室の中が数秒静まり返る。
そして、ついに勲が口を開いた。
「ない」
たった二文字。しかし、そこにはきっぱりとした、有無を言わせぬ響きがあった。
ドアの外に立っていた彩葉の頭の中で、ずっと張り詰めていた糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
第4話
彩葉は個室の中には戻らず、隅のボックス席に座った。強い酒を頼み一気に飲み干すと、焼けつくような熱さが喉から胃まで広がっていく。あまりの強さにむせて涙が出たが、その痛みは不思議と心の感覚を麻痺させてくれた。
さらに自分をごまかそうと、2杯目のグラスに手をかけたその時だった。カウンター席の向こう側から、突然激しい言い争いの声が聞こえてきた。
酔っ払った男たちが数人で揉み合っているらしい。罵声もどんどん大きくなっていく。
その周りにいた人たちも慌てて逃げ出し、その場は一瞬で騒然となった。
ガシャン、と甲高い音と共にビール瓶が彩葉のすぐそばの壁に叩きつけられた。ガラスの破片と酒が辺りに飛び散る。
彩葉はビクッと体を震わせた。何が起きたか理解する前に、また別の空き瓶がまっすぐ顔めがけて飛んできた。
彩葉はその場で固まってしまった。瓶がぶつかると思った瞬間、斜め後ろからものすごい力で腕を引かれた。
目の前がぐらりと揺れ、近くのソファ席に思いきり引き倒されたおかげで、飛んできた瓶からはかろうじて避けることができた。
状況が分からぬまま、顔を上げると、怒りに満ちた瞳と目が合う。
勲だった。
恐ろしいほど険しい顔つきの勲が、肩で息をしている。「死ぬ気か?」と、彩葉は低い声で怒鳴られた。その声は喧騒の中でもはっきりと聞こえるぐらいの大きさで、普段の勲からは想像もつかないほど感情的なものだった。
勲の怒鳴り声で、彩葉は耳がキーンとなった。死ぬ気なのかって?彼女はぼんやりと思った。もしかしたら、そうだったのかもしれない。なぜなら、さっきは本気でもうどうなってもいいと思っていたのだから。
アルコールと、先ほど頂点に達した絶望が混ざり合い、最後の理性が吹き飛ばされる。
彩葉は目の前にいる、長年愛し、恋焦がれてきた勲の顔を見つめた。ふっと笑みがこぼれたかと思うと、涙が溢れ出す。そして、かすれた声で言った。「そうね、もうどうだっていいの。ねえ、勲。結婚して今まで、本当に一瞬だけでも私のこと愛してくれたことなかったの?」
彩葉は目を逸らさずに、見つめ続ける。答えを彼の口から直接聞きたかった。たとえ答えが分かっていたとしても、どうしても諦めきれなかったのだ。
勲は不意の問いに一瞬虚をつかれたようだが、すぐに眉をひそめる。そして、口を動かし始めた勲だったが、言葉とはなっていなかった。
「キャー!」少し離れた場所から甲高い悲鳴がした。渚の声だ。勲を探しに来たのだろうが、騒ぎに巻き込まれてよろめき、暴れる男の腕が当たりそうになっている。
勲の意識は、一瞬でそちらに向いた。
視界の端におびえる渚の顔を捉えると、勲の顔色が変わった。そして答えを求めて袖を掴む彩葉の手を、力任せに振り払う。
お酒と昂った感情で体に力が入らなかった彩葉は、容赦なく振り払われたことにより、バランスを崩した。数歩よろめき、ドン、と鈍い音を立てて床に強く尻もちをついてしまった。
「いっ……」突き刺すような痛みが、下半身と床についた手のひらに走る。
シクリとした痛みと共に、じわりと何かが滲み出すのを感じた。
しかし、勲が彩葉に視線を向けることはなかった。
彼は怒る獅子のように走っていくと、酔っ払いを突き飛ばした。そして、恐怖で顔が青ざめている渚を、強く抱きしめて守る。
床に座り込んだままの彩葉は、耳鳴りが収まらないでいた。頭の中では、さっき勲が自分に叫んだ言葉が何度も繰り返されている。
「また10年前と同じように、人を危険な目に遭わせるつもりか?なんて残酷な女なんだ!人の命を奪った君なんかを、俺が愛せるわけがないだろう?」
心を抉られるような痛みとは、まさにこのことをいうのだろう。
誰かが警察と救急車を呼んだようで、この騒ぎはやがて収まった。
散らかった店内の中、勲は心配そうに渚に怪我がないか確認している。髪が乱れ、汚れた服で泣いている渚の涙は恐怖からくるもので、特に外傷はない。それなのに、勲は彩葉が一度も聞いたことのない不安と優しさに満ちた声で、渚を慰めていた。
彩葉は自力で立ち上がろうと床に手をついたのだが、手のひらに鋭い痛みが走り思わず息をのむ。血が指を伝って滴り落ちた。
しかし、誰も彩葉には気づかない。
やっと、通りかかった友人が「彩葉!その手どうしたの!ひどい血じゃない!」と悲鳴をあげる。
その声を聞いて、勲がようやく振り返った。
彼の視線が、彩葉の血だらけの手のひらと青白い顔に注がれ、一瞬動きが止まる。
だが次の瞬間、さっきの口論を思い出したのだろう。彩葉の言葉、そして渚が怯えていたこと……わずかに見えた動揺は、すぐに冷たい苛立ちの色に変わっていった。
勲は、彩葉に歩み寄ることさえしなかった。
ただ眉を顰めただけで、まだしくしくと泣いている渚を抱き寄せ、医療スタッフとともに、振り返ることなく外へ出て行ってしまった。
彩葉は、バーの出口に消えていく勲の背中を、ただ立ち尽くして見ていた。手からは血が流れ続けていたが、胸の痛みは、もう麻痺して何も感じなくなっていた。
病院に着くと、彩葉と渚は隣同士の診察室に通された。
渚の方には勲がずっと付き添い、優しく声をかけている。医者が「患者さんは驚いただけです。かすり傷一つありませんよ」と説明しても、勲は心配そうに何度も確認していた。
一方、彩葉は手のひらと足に刺さったガラスの破片を取り除いてもらっていた。消毒液が傷口に沁み、冷や汗が出る。だが彼女は、歯を食いしばって声一つ漏らさなかった。
手の傷の痛みよりも、隣からかすかに聞こえてくる勲の優しい声の方が、彩葉の心をじわじわと切り刻む。
「勲さん、怖かった……」
「もう大丈夫。俺がいるから。これからは、あんな場所に行かないようにしような」
傷の手当が終わると、その場にいた者たちは事情聴取のため警察署へ向かうことになった。
事情聴取が終わって警察署から出ると、もう深夜だった。
肌を刺すな冷たい風が吹きつける。
警察署の前で、勲は渚の肩を抱きながら車のドアを開けた。そして、彼女が乗り込むのを優しくエスコートする。
ドアが閉まり、エンジンがかかった。
勲は彩葉を待ってはくれなかった。
それに、振り返って一目見ることさえしなかったのだ。
黒い車はすぐに走り去り、あっという間に見えなくなった。
彩葉は一人、警察署の前の薄暗い街灯の下で、車が消えた方をじっと見つめていた。
彼女はゆっくりとその場にしゃがみ込み、腕の中に顔をうずめた。
第5話
彩葉は家に帰らず、その足はいつの間にか郊外の墓地へと向かっていた。
姉の柚葉の墓を見つけた。墓石の前には、柚葉が生前好きだった花が供えられていた。
彩葉は墓石に縋り付く。もう溢れる感情を抑えることができず、声を上げて泣きじゃくった。
10年前、彩葉の誕生日の前日のこと。
彩葉は勲がずっと柚葉に思いを寄せていることを知っていた。そして彩葉自身も、密かに勲に対して恋心を抱いていたのだった。
そしてその嫉妬と自分勝手さは、誕生日に頂点に達した。
彩葉は駄々をこね、勲も呼んで、家でささやかなパーティーをしてほしいと柚葉にせがんだ。根負けした柚葉は、それを了承してくれた。
薄暗いリビングには、バースデーケーキのろうそくの光だけが揺れていた。
願い事を終えた彩葉が、蝋燭の火を吹きけそうとしたその時、なぜだかきちんと閉まっていなかった窓から風が吹き込み、蝋燭の炎が勢いよくカーテンの飾りに燃え移ったのだ。
火は驚くほど速く、瞬く間に燃え広がった。
煙が充満する中、最も早く反応したのは勲だった。彼は窓際に駆け寄り、椅子でガラスを叩き割った。割れたガラスで腕を切ったが、そんなの構っていられなかった。
勲は振り返ると、濃い煙の中で必死に柚葉の姿を探し、真っ先に彼女を外へ出そうとした。「柚葉!こっちだ!」と叫ぶ。
しかし柚葉は、恐怖で立ち尽くしていた彩葉の背中を強く押し、勲に向かって叫んだ。「先に彩葉を出して!この子はまだ小さいから!」
彩葉は柚葉に窓際まで押された。勲がちらりと柚葉を見る。まだ幼かった彩葉だったが、その眼差しに宿る焦りと心配は、彩葉の胸を締め付けた。しかし、その躊躇は一瞬だけで、勲は歯を食いしばると、震えている彩葉を抱き上げ、割れた窓枠から力づくで外へと押し出した。
彩葉は階下のベランダの屋根に落ち、そこから芝生へと転がった。極度の恐怖から、彼女は無意識に顔を上げ、窓から身を乗り出している勲に手を伸ばして泣き叫んだ。「助けて!怖いよ!」
しかし、そのわずか数秒の間に、すべては起きたのだ。勲が再び振り返って柚葉を助けようとしたとき、部屋の中から鈍い衝突音と何かが崩れ落ちる轟音が響き、炎が窓を完全に飲み込んだ。
その日から、彩葉は毎日自責と後悔の念に苛まれた。もし自分がわがままを言って勲を呼ばなければ。もしあの忌まわしい蝋燭を吹き消さなければ。もし火が出た時にもっと落ち着いていたのならば。もし最後に、勲に手を伸ばさずに、命を救うための貴重な数秒を奪っていなければ……
両親も悲しみに打ちひしがれ、元々口数が少なかった勲はさらに寡黙になり、暗い雰囲気をまとうようになった。勲が彩葉に向ける眼差しからはかつての優しさは消え、底知れない冷たさと憎しみだけが宿っていた。
「どうして死んだのが私じゃなかったんだろう?」彩葉は息もできないほど泣きながら言った。「お姉ちゃん、私もそっちに連れて行ってよ」
その時、背後からかすかにカサリという音が聞こえた。彩葉は泣くのをやめ、涙でかすむ目で振り返ろうとしたが、次の瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。
再び意識を取り戻したときには、硬い木の椅子に縛り付けられていた。「下手に動くなよ。痛い目を見るのはお前だからな」拉致犯が近づいてきて、彩葉の携帯を手にしながら言う。
「親にビデオ通話をかけて、今の様を見せてやる。いいか、おとなしく2000万円、現金で要求しろ。金を受け取ったら解放してやる。だが、変な真似をしたら……」犯人は手に持ったナイフをちらつかせた。
彩葉は恐怖で全身を震わせながらも、必死に首を横に振り抵抗する。
しかし、犯人は彩葉を無視し、彼女の携帯から母親の入江穂花(いりえ ほのか)へとビデオ通話をかけた。
コール音が長く続く。犯人がしびれを切らし始めた頃、ようやくビデオ通話がつながった。
画面の向こうには、眠りを妨げられて不機嫌そうな穂花の顔が映し出されている。
「彩葉?こんな夜中に、一体何なの……」しかし、穂花の言葉はそこで遮られた。
犯人が彩葉の首にナイフを突きつけ、カメラに向かって凄む。「見えるか?お前の娘を拉致した!こいつの命を助けたいのなら、2000万円現金で用意しろ。明日の昼までに、取引場所を連絡するから。もし、警察にでも知らせてみろ。娘の死体を受け取る覚悟をしておくんだな!」
だが、彩葉が予想もしなかったことに、穂花の顔に浮かんだ恐怖は一瞬で消え、すぐにうんざりとした非難の表情に変わった。
穂花は画面の向こうの彩葉を睨みつけ、怒りと失望を露わにした声で怒鳴りつける。「彩葉!またこんなことをするなんて。おかしいんじゃないの?それに、そんなみっともない姿までして、また何かするつもりなの?同情でも引こうと?それとも、これ以上に家をめちゃくちゃにしたいわけ?」
彩葉は呆然とし、抵抗することさえ忘れた。
彼女は信じられない思いで、画面の中の母親を見つめた。見慣れているはずなのに、どこかよそよそしく、嫌悪に満ちたその顔を。
「言っておくけど、自分の命で遊ぶのはやめなさい。そんなことをして、すごいとでも思ってるの?」穂花の声は甲高く耳に突き刺さった。「どうしてあなたは、おとなしくしていられないの?なんでいつも問題を起こすの?柚葉を死なせただけじゃ、まだ足りないって言うの?」
そう言うと、穂花は一方的にビデオ通話を切った。
画面がぷつりと暗くなる。
犯人も悪態をついていた。これほど価値のない人質を捕まえるとは、思ってもみなかったようだ。
犯人は諦めきれないのか、彩葉の通話履歴を開き、トップに表示されていた勲の名前を見つけた。
「こいつはどうだ?旦那か?」犯人がにやりと笑う。「こいつが金を出すかどうか、見てみようぜ!」
電話はすぐに繋がった。
勲の顔が画面に映し出される。「彩葉、君はまた……」その言葉が、途中で止まった。画面に映るみすぼらしく、絶望的な目をした彩葉と、その首筋に光るナイフを見た瞬間、勲の瞳がわずかに見開かれる。
その瞬間、彩葉の鼓動がかすかに速くなった。
勲は少なくとも自分の身を案じてくれるのではないだろうか?
しかし、勲の顔はすぐに険しくなり、眉間の皺が深くなる。「彩葉、一体何の芝居だ?そんな手で俺を騙そうなんて。これで何回目だと思ってるんだよ?」
激しく首を振る彩葉の目からは、涙が堰を切ったようにあふれ出た。「違う!今回は本当なの」と叫びたかったが、それは声にならず、くぐもったうめき声しか出なかった。
犯人は彩葉の首にナイフを押し付け、勲に怒鳴る。「ごちゃごちゃうるせぇな!お前の女は俺たちが拉致した!2000万円だ!明日の昼までに用意しろ!さもなきゃ死体を受け取ることになるからな!」
勲は画面上の、彩葉の首筋からにじむ血を見て、数秒間黙り込んでいた。
しかし、彩葉の耳に届いたのは、勲の氷のように冷たい声だった。「そんな風に自分を傷つけて人の気を引いたり、同情を誘って人を従わせたりする芝居は、もう何度も見てきた。次はもっとましな手を考えろ」
ビデオ通話は、あっけなく切られた。
犯人は完全に逆上し、携帯を床に叩きつけた。
「くそっ!とんだハズレくじを引いちまったみてぇだな!一体何なんだよこいつは?!親にも愛されず、夫にも死ねと願われるなんて」犯人はそう吐き捨てると、彩葉に嫌悪と暴力に満ちた目を向ける。「生かしておいても何の役にも立たねぇな!」
犯人はもう何も言わず、抵抗もせず虚ろな目をしている彩葉を椅子から乱暴に引きずり下ろすと、再び手足と口をガムテープで縛り、生臭い匂いのする麻袋に押し込んだ。
彩葉は抵抗しなかった。どれくらいの時間が経ったのだろうか。自分が強くどこかに放り投げられるのを感じた。
すると、骨まで凍みるような冷たい海水が、一瞬にして四方から押し寄せ、口と鼻に流れ込んできた。麻袋はすぐに水を吸って重くなり、彩葉を海底へと引きずり込んでいく。
彩葉は目を瞑らなかった。その目には、10年前のあの火事が映っていた。柚葉が最後に、自分を突き飛ばした時のあの優しい眼差しが……
勲、あなたの望み通りになったよ。
海水が全身を覆い、意識が少しずつ暗闇に飲み込まれていく。
そして、彩葉の目はゆっくりと閉じられていったのだった。
第6話
彩葉は生きていた。
運が良かったのか、それとも天国の姉が守ってくれたのだろうか。
彩葉が捨てられた場所は、岸からそれほど遠くはなかったらしく、夜中の満ち潮で浅瀬に打ち上げられたのだった。そして早朝、貝拾いをしていた老人に発見され、虫の息だった彩葉は救急車で運ばれたのだ。
彩葉は病院で丸2日間、目を覚まさなかった。その間、見舞いに来てくれる人は誰もいなかった。
退院した日、彩葉は慣れた手つきで家のドアを開ける。
リビングのカーテンは半分ほど閉められ、スクリーンには有名な恋愛映画が映し出されていた。
ソファには勲と渚が寄り添って座り、一枚の柔らかいウールのブランケットを一緒に掛けている。
渚は勲の肩にそっと頭を乗せ、両手でホットミルクの入ったマグカップを抱えていた。
勲はそんな渚の肩を自然に抱き、指先で彼女の髪を弄んでいた。
ドアが開く音に気づいた二人が、同時に音のした方を振り向く。
勲の視線が、ドアのそばに立つみすぼらしい姿の彩葉に注がれた。一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに片眉をくいと上げ、冷たく口の端を吊り上げる。
「戻ったのか?」彼の声は低く、あからさまな軽蔑を含んでいた。「今回はずいぶん本格的なんだな。また海にでも飛び込んだのか?それとも、狂言拉致でも頼んだ?」
しかし、彩葉はただじっと勲を見つめるだけ。
違う、今回は本当なの。そう言いたかった。
本当に死にかけたのだと、言いたかった。冷たい海水の中でもがき苦しんで、病院で生死の境をさまよったのだと。
少しは心配してくれた?そう聞きたかった。
だが、言葉は喉の奥に詰まって出てこない。彩葉は急に疲れに襲われ、もう何も説明する気になれなかった。
そしてふと、以前、役所で見たあの離婚届を思い出した。
あれからかなりの日数が経っている。もう受理されてもいい頃だろう。
勲も、もう彩葉を見ようともしなかった。「帰ってきたんだったら、ちょうどいい。明日から渚とS国へ旅行に行ってくるから。まあ、2週間くらいだな」彼はそこで言葉を切り、彩葉の惨めな姿を一瞥する。その目にあるのは同情ではなく、更に深まった軽蔑の色だけだった。
「その間、家でしっかり反省してろよ。柚葉の代わりに生きてるんだから命を大事にしろよな。そんな人を試すような真似ばかりして、もううんざりなんだよ」
彩葉は俯いて、小さく頷いた。
翌朝早くに、リビングからは物音が聞こえてきた。勲と渚が出発の準備をしているのだろう。
玄関のドアが閉まる音がした。車のエンジンがかかり、その音がだんだんと遠くなっていく。
家の中は、しんと静まり返った。
しかし、そんな静かな家の中にインターホンの音が響き渡った。
ドアまで行きのぞき窓から外を見ると、宅配便の配達員がいたので、彩葉はドアを開ける。
「安西様でしょうか。お荷物です。こちらにサインをお願いします」そう言って、配達員が薄いファイルのようなものを差し出した。
それを受け取った彩葉は、指先に触れた紙の感触で、中身が何かを察した。感情のこもらない手つきで受け取りサインをし、ドアを閉める。
リビングに戻り、明るい朝の光の中で、封筒を破り開けた。
中には、1通の書類が入っていた。
【離婚届受理証明書】
離婚届が勲によって提出されてから、かなりの日数が立っているし、彩葉自身も無効調停の申立てをしなかったから、離婚が成立したのだ。
テーブルの上に置いていた携帯が鳴ったのは、ほとんどそれと同時だった。
携帯を手に取り、耳に当てる。
電話の向こうから聞こえてきたのは、どこか緊張しているような、硬い響きのある英樹の声だった。
英樹が言った。「彩葉、戻ってきたよ。
今、お前の家の前にいる。
迎えに来たんだ」
彩葉は電話を切り、書類をテーブルの上に置くと、もう振り返らなかった。スーツケースを引いて家を出て、待っていた車に乗り込んだ。