風花と散る思い出

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風花と散る思い出

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坂本恵美(さかもと えみ)は、信じられなかった。もうすぐ終わるはずの遠距離恋愛が、こんなにも惨めな結末を迎えるなんて。 だって、森田暁...

Chương (1)

第1章

坂本恵美(さかもと えみ)は、信じられなかった。もうすぐ終わるはずの遠距離恋愛が、こんなにも惨めな結末を迎えるなんて。 だって、森田暁(もりた あきら)ほど自分を愛してくれる人は、他にいないはずだったから。 暁は忙しい病院の院長なのに、恵美に会うためだけに数えきれないほど飛行機に乗り、何千時間もかけて海外まで来てくれた。 毎回ほんの少しの時間しか会えなかった。でも、初雪のなかで恵美を抱きしめ、「このくらい、なんてことないよ」と低い声で言ってくれたんだ。 暁から贈られてきたプレゼントも、数えきれないほどだった。 手書きの長いラブレターから、オークションで競り落とした十億単位の値がつくネックレスまで。 恵美を笑顔にできるものなら、暁はなんだって手に入れようとした。たとえそれが空にうかぶ星だって、きっと命がけで取ってきてくれただろう。 そんな骨の髄まで染み込むような深い愛情が、3年間、一日だって変わることはなかった。 しかし、恵美が徹夜のフライトで帰国したときのことだった。友人たちは暁の変わらない愛をうらやましがっていたのに、当の暁本人が、かすれた声でそれを否定したのだ。 その言葉を聞いて、恵美は認めざるを得なかった。心臓が、まるでじわじわと切り刻まれていくような、耐えがたい痛みに襲われていることを。 第1話 坂本恵美(さかもと えみ)は、信じられなかった。もうすぐ終わるはずの遠距離恋愛が、こんなにも惨めな結末を迎えるなんて。 だって、森田暁(もりた あきら)ほど自分を愛してくれる人は、他にいないはずだったから。 暁は忙しい病院の院長なのに、恵美に会うためだけに数えきれないほど飛行機に乗り、何千時間もかけて海外まで来てくれた。 毎回ほんの少しの時間しか会えなかった。でも、初雪のなかで恵美を抱きしめ、「このくらい、なんてことないよ」と低い声で言ってくれたんだ。 暁から贈られてきたプレゼントも、数えきれないほどだった。 手書きの長いラブレターから、オークションで競り落とした十億単位の値がつくネックレスまで。 恵美を笑顔にできるものなら、暁はなんだって手に入れようとした。たとえそれが空にうかぶ星だって、きっと命がけで取ってきてくれただろう。 そんな骨の髄まで染み込むような深い愛情が、3年間、一日だって変わることはなかった。 しかし、恵美が徹夜のフライトで帰国したときのことだった。友人たちは暁の変わらない愛をうらやましがっていたのに、当の暁本人が、かすれた声でそれを否定したのだ。 その言葉を聞いて、恵美は認めざるを得なかった。心臓が、まるでじわじわと切り刻まれていくような、耐えがたい痛みに襲われていることを。 暁の声は大きくなかったけど、個室の中は水を打ったように静まり返った。 しばらくして、ようやく誰かが凍りついた空気を破った。「暁、冗談だろ? 恵美とは、大学でも有名なお似合いのカップルだったじゃないか。恵美を見送った後、一人で子供みたいに泣いてたくせに。この3年間、どんなに無理しても海外まで会いに行ってたし……」 友人は気まずそうに笑いながら、わざと大げさな口調で聞いた。「愛してないなんて、ありえないだろ?」 「俺にも分からない」暁は淡々と答えた。 いつもは冷静な暁が、どこか途方に暮れた様子で言った。「ただ、この3年間、すごく疲れたんだ。 時間を作って恵美に会いに行くのは、もちろん嬉しい。でも、それ以上に、十数時間のフライトを往復する孤独と疲れの方が大きかった。 プレゼントを贈るにも、いつも違うものを考えなきゃいけなかった。恵美は気に入ってくれるだろうか、喜んでくれるだろうかって、いつも気にしてた」 暁は、いつもメスを握っている節くれだった手でグラスを持ち、中のきらめきを眺めながら、低い声で呟いた。「今でも恵美を愛している。でも、その愛情が、もう燃え尽きそうなんだ」 友人たちは顔を見合わせ、ぎこちなく話題を変えた。 一方、恵美は頭が真っ白になり、耳鳴りが止まらなかった。 サプライズにするはずだったのに。恵美は、自分がどうやってこっそりとその場を離れたのか、よく覚えていない。 早く帰ってこなければよかった、とさえ思った。 そうすれば、二人の関係は今も完璧なままだって、自分に嘘をつけたのに。 でも、現実はそんな「もしも」を許してはくれなかった。 呆然としていると、マナーモードにしていたスマホが不意に震えた。 顔を上げると、いつの間にか店の外に出てきた暁が、眉をひそめて辺りを見回していた。 恵美はどきりとして、慌てて暗い木陰に身を隠した。画面をしばらく見つめた後、声を詰まらせながらなんとか電話に出た。 暁の少し焦ったような声がした。「恵美、ごめん、今メッセージに気づいた。早く帰って来たのか?今どこにいるんだ、店に来てるのか?」 聞き慣れた声が電話越しに響くと、恵美は鼻の奥がツンとして、涙が出そうになった。 聞きたいことは山ほどあったのに、結局、嗚咽をこらえて絞り出したのは、こういう言葉だけだった。「急に気が変わって、先に家に帰ったの……あなたはいつ帰ってくるの?」 それを聞いて、暁はほっとしたように、優しい声で言った。「今から帰るよ……」 彼が言い終わらないうちに、赤いマフラーをした女性が駆け寄ってきて、暁の胸に飛び込んだ。 恵美は見てしまった。暁がとっさにスマホのマイクを塞ぎ、優しい笑みを浮かべて、親しげにその女性の髪を撫でるのを。 そして、暁は不自然に言葉を変えた。「ごめん、今ちょっと急用ができた。待ってて」 その女性の白い頬が、ぽっと赤く染まっているのが見えた。 その瞬間、目の前が真っ暗になり、冷たい海の底に突き落とされたような衝撃が恵美を襲った。 第2話 その女性の名は高木佳奈(たかぎ かな)。暁の病院で研修医をしていた。 最初、暁が恵美に佳奈の話をした時は、「ドジで気弱で、しょっちゅう薬を間違える」と、かなり呆れている様子だった。 その後、暁は恵美の誕生日を祝いに海外まで来たが、その夜は佳奈と一晩中、症例研究をしていた。 電話を切った暁は、恵美の前で佳奈を「勉強熱心で成長したし、人柄も素直で面白い」と笑顔で褒めたたえた。 恵美は燃え尽きたロウソクを見つめながら、小さな声で「もうその話、やめてくれないかな」と頼んだ。 すると暁は、途端に笑顔を消した。一瞬黙り込んでから、素っ気なく「わかった」とだけ答えた。 さらにその後、恵美が何気なく佳奈のことを尋ねると、暁は佳奈とはもう連絡を取っていないと言った。 でも、暁が嘘をついているのは明らかだった。 夜は小雪が舞っていた。恵美は家にたどり着くと、服が濡れて肌に張り付いていた。 指が覚えている暗証番号を入力した。それは、暁と付き合い始めた日だった。 暁は番号を変えていなかった。ドアはすぐにカチリと開いた。 部屋の中は床暖房で暖められていた。恵美はリビングの中央にあるガラスケースに目をやった。 瞬きもせず、じっとそれを見つめているうちに、心臓がぎゅっと縮こまり、涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちた。 ガラスケースの中は温かみのあるオレンジ色のライトで照らされ、そこには分厚い航空券の束が置かれていた。 一枚一枚に番号が振られていて、合計で988枚もあった。 暁はかつて、誇らしげにその写真を撮って、「これが君を愛している証拠だ」と言っていた。 そして、「この航空券が千枚貯まる頃には君もきっと国内に帰ってくるから、すぐにプロポーズする。そうすればもう一生、離れ離れにならずに済むのだ」と。 心臓の鼓動が一つ、また一つと重くなる。恵美は、異国の地で過ごした辛い日々を思い出していた。 予定より早く卒業するため、四六時中、図書館にこもりきりだった。 友達を作る時間もなく、周りの学生から「つまらない人」と笑われたこともあった。でも、そんなことは気にも留めず、ひたすら早く暁の元へ帰ることだけを考えていた。 卒業論文の執筆中、あまりの疲労で熱を出したこともあった。でも暁には隠して、解熱剤ばかり飲んでいた。そして、何でもないふりをして笑いながら「私も会いたい、すごく会いたいよ」と伝えていたのだ。 それなのに。ようやく願いが叶って国内に戻ってきたというのに、目の前の現実はあまりにも残酷だった。 暁の愛は、結局、色褪せてしまっていたのだ。 …… 暁が家に帰ると、床に膝をついた恵美が、体を震わせて泣いていた。 暁はすぐに眉をひそめると、恵美を抱きしめようと駆け寄り、「どうしたんだ」と焦って尋ねた。 しかし、恵美に突き放された。 恵美はぐっと目を閉じ、爪が食い込むほど強く拳を握った。必死に理性を保ちながら言った。「さっきの電話、高木さんの声がしたみたいだけど」 たったこれだけの言葉を絞り出すのに、まるで全身の力を使い果たしたかのようだった。震えながら何度か息を吸い、やっとの思いで続けた。「あなたたち、どうしてこんな遅くまで会ってたの?」 そう言って、恵美は暁の漆黒の瞳を覗き込んだ。 そこには、今まで一度も見たことのない冷たさと、拭いきれない疲れの色が浮かんでいた。 「なんで今、そんな話をしなきゃならないんだ?」 暁はすっと立ち上がると、恵美から少し距離をとった。その声は冷たかった。「たまたま会っただけだ。俺たちはただの同僚で、君が想像してるような汚い関係じゃない」 ただの同僚だというのなら、どうしてあんなに親しげに抱き合っていたの? 恵美がそう言い返すより早く、暁は体をずらした。彼の後ろには、アクセサリーケースと、ビロードの箱に入った美しいケーキが置かれていた。 雪の降る中、わざわざ取りに行ってくれたものだった。 恵美は言葉を失った。心臓を何度も強く叩かれたような衝撃。切なさと嬉しさが、同時に胸にこみ上げてくる。 だが、そんな恵美に聞こえてきたのは、氷のように冷たい、男の声だった。 「高木さんは良い子だ。そんな風に悪く言うもんじゃない。 彼女は自立している。研究室に一日中こもることもある。君みたいに、勉強が大変だなんて弱音を吐いたりしない。 そして理性的で、感情的になることがない。君みたいに、開口一番、人を疑うような真似はしない。 俺と彼女は、息もぴったりなんだ。手術の時も、彼女は俺の考えを完璧に理解してサポートしてくれる」 最後に、暁は唇をぎゅっと結んだ。「恵美、今も君を愛してる。でも、これ以上訳のわからないことで騒ぐなら、俺だって人間だ。うんざりする」 暁はプレゼントをまとめてゴミ箱に投げ捨てた。 おとぎ話に出てくるような真っ白なクリームケーキが、ぐちゃりと潰れる。 それはまるで、ボロボロになってしまった二人の愛の、哀れな姿そのものだった。 第3話 恵美は感情的になるのが好きではなかった。いつでも理知的で、冷静なのだ。 でも、夢の中ではいつもの自分らしくもなく、ヒステリックに暁と口論した。 「『疲れた』って言ってたけど、私が会いに行くって言ったわ。なのにあなたは怒って断って、『愛があれば、これくらいなんともない』なんて言ってたじゃない? 私が留学したのを恨んでるけど、これは二人で話し合って決めたことよ!あなたは『君の人生は、恋愛だけがすべてじゃない』って言った。だから私も、卒業したら必ずあなたの元へ帰って、もう離れないって約束したでしょ? あなたが疲れているのは分かってた。だから理由も聞いたわ。でもあなたは『心配かけたくないから』って、はぐらかした」 恵美は狂ったように暁を問い詰めた。でも夢の結末は、現実と同じように、気まずいまま終わってしまった。 翌朝、恵美は割れるような頭の痛みで目が覚めた。顔を上げると、暁と視線がかち合った。 しばらく気まずい沈黙が流れた。暁は、血の気を失った恵美の顔を見て、とうとうため息をついた。 「仲良くしよう。もう騒ぐのはやめてくれないか?」 白いシャツの上に膝丈の黒いコートを羽織っていて、とても様になっている。暁は跪くようにして、恵美に暖かいブランケットをかけた。 その鋭く精悍な横顔が、記憶の中のあどけない少年の顔と重なる。でも、恵美の心はもうときめかなかった。ただ、苦さと冷たさが広がるだけだ。 「高木さんと俺は、ただの上司と部下の関係だ。信じられないなら、今日、病院に連れて行ってやるよ」 「ええ」恵美はうなずいた。少し間を置いて、消え入りそうな声で言った。「あとで、私からも話があるの」 昨夜、研究を続けることを決めた。知らない大学を選び、1週間後に出発する航空券も迷わず予約したのだ。 これは意地を張っているわけではない。むしろ、たくさん考えた末の決断だった。 暁が一時的な怒りで言ったのだとしても、あの言葉は砕けた石のように、心に突き刺さっていた。じくじくと痛んで、無視なんてできなかった。 恵美が求めていたのは、いつだって純粋な愛情だけだった。もしそうでないなら、胸が張り裂けそうになっても、いっそ捨ててしまいたい。 ただ、暁への敬意から、きちんと伝えようと思った。せめて、円満に別れるという体裁は保ちたかったのだ。 車の中では会話もなく、やがて病院の前に着いた。 暁が車を停めていると、一本の電話がかかってきた。微かに、泣きじゃくる女の声が聞こえる。 向こうが何を言ったのか、暁は急用ができたと言った。恵美に、先に診察室で待っていてくれと告げた。 道がわからない、と恵美は言おうとした。でも暁は慌てて車のドアを閉めてしまい、恵美は急いで去っていく彼の背中を見送るしかなかった。 だだっ広くて少し不気味な駐車場に、恵美は一人取り残された。 病院はとても広くて、方向を見つけるのにかなり時間がかかった。 エレベーターで10階まで上がると、ナースステーションへ向かった。診察室の場所を尋ねるつもりだった。 すると、若い看護師たちが興奮した様子で話しているのが聞こえてきた。「だから言ったでしょ!高木先生が患者さんにちょっと文句を言われてしょげてたら、電話一本で院長が飛んできたのよ!」 恵美はその場で足を止めた。 なるほど、これが暁の言う「急用」だったのか。自分のことなんて、ためらいもなく置き去りにして。 「どう見ても、院長は高木先生のこと、彼女みたいに可愛がってるよね! 診察でも手術でも、手取り足取り教えてるし、もう完璧な彼氏って感じ!この間なんて、患者さんのご家族に『いつ結婚するの?』ってからかわれてたんだから!」 ある看護師が小声で尋ねた。「でも、院長には婚約者がいるんじゃなかった?」 別の看護師が「ちぇっ」と舌打ちした。「海外にいる彼女なんて、会えなきゃ意味ないでしょ。それに比べて、可愛い高木先生はどう?にっこり笑ったら、院長はもうメロメロよ!」 恵美はしばらくその場に立ち尽くした。自嘲の念が、ゆっくりと彼女を飲み込んでいく。 振り返ると、廊下の突き当たりに暁と佳奈が立っているのが見えた。 佳奈が羽織っている大きなコートに、恵美は見覚えがあった。自分が暁に贈った、記念日のプレゼントだ。 以前、なぜ着てくれないのかと暁に尋ねたことがあった。彼の答えは「大事すぎて、しまい込んである」だった。 まさか、あれも嘘だったなんて。 この3年間で、暁は一体いくつの優しい嘘を重ねてきたのだろう。その嘘が暴かれるたび、それはまるで緻密に編まれた網のようだった。恵美の全身を縛りつけ、傷だらけにしていく。 佳奈は目を真っ赤にして、いかにも可哀想な様子で泣いていた。 暁は優しく佳奈の頬の涙を拭う。その目は、溢れんばかりの愛情で満ちていた。「もう泣くな。俺が仕返ししてやっただろ? 俺がいる限り、誰も君をいじめたりはさせない」 権力のある男に優しく慰められ、佳奈は涙を拭いながら、笑顔を見せた。そして、唇をとがらせて甘えた声で尋ねる。「じゃあ、教えてくれます?昨日の夜、院長に電話してきた女の人は誰ですか?」 暁は押し黙った。 ほんの数秒だったはずだ。でも、恵美にとっては、一年もの時間に感じられた。 静まり返った後、暁の低い声が聞こえた。「ただの友達だ。親しくない」 第4話 「親しくない」 たったひと言が、鋭い刃となって恵美の胸に突き刺さった。心はズタズタに引き裂かれた。 恵美は、ふっと笑った。 そうね、親しくなんかじゃ、ないよね。 たかが10年そばにいて、一生一緒にいようって誓い合っただけの、赤の他人なんだから。 でも、その答えを聞いた佳奈は、ものすごく嬉しそうだった。キラキラした瞳には、暁への強い想いと、恥じらいが浮かんでいる。 佳奈はそっとつま先立ちして、甘い香りのする唇を暁に寄せた。 恵美は、その様子をはっきりと見ていた。 暁は、一歩下がる必要なんてない。ただ少し顔を横に向けるだけで、スマートに佳奈を止められたはずだった。 でも、彼はしなかった。 佳奈の唇は、暁のシャープな顎のラインに、そっと触れた。 それは、とても甘くて、意味深なキスだった。 その光景は、まるで恵美の心を無残にかき乱すように、彼女を地獄の底へ叩きつけた。 どうやってその場を離れたのか、自分でも分からなかった。 やがて暁から電話がかかってきた。珍しく、彼の声は少し乾いていた。「もう着いた?さっきは……その、何も見てないよな?」 「私に見られたら、何かまずいことでもあった?」 恵美が静かに問い返すと同時に、涙がすっと頬を伝い、唇の端に流れた。 しょっぱくて、苦い。大嫌いな味だった。 本当に分からなかった。暁は、自分のことを心配しているの?だったら、どうして裏切ったりするの? 「いや、そんなことはない」 暁はほっと息をついた。後ろめたさと焦りで、恵美の声に感情がこもっていないことには気づかなかったようだ。「なら、早く上がってこいよ。話したいことがあるんだろ?」彼は軽い口調で言った。 「もう行かない」吐く息が白く立ち上る。恵美はぼんやりと呟いた。「あなたにとって、もう大事なことじゃないみたいだし」 恵美はそう言うと、電話の向こうで暁が驚き、怒る声も無視して、一方的に通話を切った。 …… 10年という長い付き合いを終わらせるには、かなりの労力が必要だった。 高価なジュエリーやペアの洋服、それにインスタントカメラだけでも、大きな箱、数箱がいっぱいになった。 期待に胸を膨らませ、海外から持ち帰ってきた新生活のための品々も、今はすべて慈善団体に寄付してしまった。 笑顔の収集員たちを見送ってから、恵美はガラスケースを開けた。 ガラスには埃ひとつついておらず、持ち主がどれだけ大切にしていたかがよく分かった。 恵美は、ゆっくりと中から航空券の束を取り出した。 一枚目は、三年前の春。 初めて「少し会わないでいると、初めての時よりかえって燃え上がる」という言葉を実感した夜。異国情緒あふれるマンションで、暁と初めて結ばれた。 暁の体は熱く、額に汗を浮かべるほど我慢しているのが分かった。それでも必死に欲を抑え、優しい声で気遣い続けてくれた。 10枚目は、その一ヶ月後。 たった一ヶ月の間に、暁は10回も飛行機に乗った。自分が慣れない土地で体調を崩した時、暁はひどく心配してくれた。同僚とシフトを交代してまで、何度も海外に会いに来てくれたのだ。 あの頃、潔癖症の暁の顎にはうっすらと髭が伸び、目はいつも充血していた。それでも彼は、一度も疲れたなんて言わなかった。 450枚目は、二年前の冬。 二人で海外で過ごした、初めてのお正月。 大晦日の夜。外は雪、部屋には燃える暖炉の火。窓の外にはネオンが街の景色を飾り、部屋の中では二人が寄り添い、愛を語り合っていた。 700枚目…… 思い出が次々によみがえり、恵美ははっとした。自分は、何一つ忘れてなんていなかったのだ。 10年という歳月は、とっくに骨の髄まで染み込んでいた。それなのに今、そのすべてを血肉から無理やり引きはがさなければならないなんて。 思い出の詰まった航空券の束が、炎の中に投げ込まれる。 やがて炎は消え、部屋の暖かさもすっと引いていった。 床に散らばる灰を見つめると、燃え残った紙片に、二つの都市の名前がかろうじて読み取れた。 A市、M国。 それは、天と地ほども離れた場所。 恵美の心臓は、ごっそりとえぐり取られたようだった。喉の奥に何かが詰まって、叫びたいのに声が出ない。 暁。 あなたとの関係は、これできれいさっぱりおしまい。もう、何の貸し借りもない。 第5話 「なんでこんなことに……」 恵美が静かに話し終えると、親友の西村杏(にしむら あん)は憤慨してテーブルを叩いた。そして心配そうに顔を近づけて、恵美をなぐさめた。「恵美、そんなに気を落とさないで」 恵美の心はもう空っぽだった。彼女は静かに首を振り、「もう悲しくなんかないから」とささやいた。 むしろ杏のほうが、泣きながらお酒をあおっていた。「森田さんはなんで、恵美が絶対に出て行かないなんて思えたわけ? あなたの性格は、私だって知ってるわ。中途半端な妥協なんて、絶対できない人だもの。 あのクズ男には、あなたを完全に失うってことがどんなことか、思い知らせてやらなきゃ!新しい大学のことは知らないんでしょ?見つけられなくて、絶対に胸が張り裂けるほど後悔するに決まってるわ!」 言い終わるやいなや、杏はカウンターに突っ伏してしまった。恵美は呆然としていた。 暁が、本当にそんなふうになるかしら? 結局、杏は彼氏が迎えにきて、恵美が会計を済ませた。 その時、振り返った拍子に、暁の幼馴染とぶつかってしまった。 幼馴染は、恵美の顔を見るとぱっと明るくなった。そして、いきなり恵美の腕を掴む。「恵美さん!暁をなんとかしてよ、あいつ、酔っ払って大変なんだ!」 恵美が抵抗する間もなく、個室の中に引きずり込まれてしまった。 中はみんなの笑い声で盛り上がっていた。「高木さんがまた負けだ!今回の罰ゲームは、ここにいる男の誰かにキスすること!一体、誰がその幸運を手にするのかな!」 佳奈は、うるんだ瞳で、助けを求めるような、甘えるような視線を暁に向けた。そして、甘ったるい声でささやく。「院長、お願い、助けてくれませんか?」 暁はシャツの襟元を少し緩めていた。目じりは酒でほんのり赤らんでいる。アルコールで思考が鈍っているのだろう、「何だ?」と聞き返した。 ようやく状況を理解した暁は、友人に「ふざけるな」と首を振ろうとした。 しかし、ピンクに染まった佳奈の横顔は、もう目の前にあった。その柔らかい手のひらが、頬をそっと撫でる。 暁の瞳がすっと暗くなった。喉をごくりと鳴らし、深く佳奈に口づけた。 暁はドアに背を向けていた。だから、恵美の瞳から急速に光が失われていくのには気づかなかった。 一方、佳奈は、息を切らしながらも恵美にちらりと視線を送った。そして得意げな笑みを浮かべ、挑発するように唇だけでこう動かした。[お、ば、さん] 恵美の目つきが冷たくなった。彼女は暁の幼馴染に向かって、鋭い声で「放して」と言った。 幼馴染は謝ったり、暁をかばったりしてもたもたしている。その間に、佳奈が静かに近づいてきた。 佳奈はにこりと目を細めた。「院長、すごく激しくて、舌も入れてきたんですよ……恵美さんは、やきもちなんて焼かないですよね?」 「若いのに、恥ずかしげもなく愛人をやってることにですか?」恵美は鼻で笑った。 佳奈は途端に顔色を変え、逆上して言い返した。「愛されてない方が、邪魔者でしょう! もうアラサーのくせに、私と張り合う資格なんてあると思ってるんですか?」 佳奈は自分のキャミソールの細い肩ひもをくいっと引っぱった。そして恵美の地味な服装を軽蔑するように一瞥し、クスっと笑った。「どうりで院長に相手にされないわけですね。年増なだけじゃなくて、色気もまったくないんですから。 海外研修に行けたんですって?まさか、教授の前で服でも脱いで、片っ端から外人にでも抱かれて、その資格を手に入れたんじゃないんですか?」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、恵美は手を振り上げ、佳奈の頬をひっぱたいた。 パシッ! 乾いた音が、あたりに響いた。 平手打ちをくらって顔を背けた佳奈は、信じられないというようにゆっくりと振り返った。そして、ヒステリックに叫んだ。「よくも私を叩きましたね!?」 「なぜだめなんですか?」恵美は冷たい視線を向けた。「トイレより汚いその口を閉じてください」 口論の声が大きくなり、酒の匂いをさせた暁が、ついに薄暗いその一角に気づいた。 第6話 恵美の姿にまずきょとんとしたが、すぐに佳奈の赤く腫れた頬に目を落とすと、暁は途端に怒りが込み上げてきた。 周りの目も気にせず、足早に佳奈の前に立ち、彼女を背後にかばった。そして、問答無用で怒鳴りつけた。「恵美、頭がおかしいんじゃないか!? 高木さんが君に何をしたっていうんだ!なんでこんな理不尽なことをする!」 かつて目を潤ませながら、一生愛すると誓ってくれたはずの男が、今は別の女だけを信じ、かばっている。 恵美はふっと笑った。「彼女は恥知らずの泥棒猫よ。これだけじゃ理由にならない?」 恵美は顔を上げて、詰め寄るように尋ねた。「暁、高木さんはあなたのことが大好きなのね。で、あなたは?どうなの、彼女を愛してるの?」 「何を馬鹿なことを言ってるんだ」暁は一瞬視線をそらし、気まずそうに言った。「もういい。ここでそんな話はするな」 「そっちはここで高木さんと熱烈にキスしてもいいのに、私は本当のことを言っちゃいけないわけ?」 恵美はぷっと吹き出した。でも、その笑いがいかに悲痛なものか、彼女自身にしか分からなかった。 その言葉に、暁はすっかりぽかんとしてしまった。 まさか、恵美に見られていたなんて。 酔いが一気に覚めた暁は、恵美を引き止めようと一歩踏み出した。あれは一時の気の迷いだったと説明したかった。でも、自分を頼るように見つめてくる佳奈の視線のせいで、ためらってしまった。 「家で話そう……な?」 「もう話すことなんて何もないわ」 恵美は暁の手を思い切り振り払った。その力はとても強く、彼女自身のてのひらまでジンジンと痛んだ。 彼女は大股で外へ向かった。後ろから暁が慌てて追いかけてくる足音と、佳奈の悔しそうに詰まった声が聞こえた。「院長……」 結局、恵美は一人でバーを出た。月明かりが、その寂しげな影を長く長く伸ばしていた。 …… 恵美は、急いで家に帰った。 荷物はもうまとめてある。今すぐにでも、この家を出ていくつもりだった。 しかし、暁もまた、車を飛ばして帰ってきた。 彼は恵美のすぐ後ろで家に入ってきた。まだ息を切らしながら、まばゆいばかりの指輪を取り出し、恵美の指にはめようとした。 「恵美、約束しただろう。君が戻ってきたら結婚するって。 最近、色々なことがあったけど……この気持ちはずっと変わらなかったんだ。これからは、二人でうまくやっていこう。な?」 ダイヤモンドは透き通るような光を放ち、指輪の内側には二人のイニシャルが刻まれている。 暁の表情は真剣そのもので、恵美は一瞬、二人が永遠の愛を誓ったあの頃に戻ったような錯覚を覚えた。 しかし、薬指に感じた冷たさが恵美を現実に引き戻した。彼女は二歩後ずさり、無情にも指輪を外して力いっぱい投げ捨てた。 「暁、まだ私の質問に答えてないわ。 高木さんは、あなたにとって一体何なの?」 こだわってデザインされたはずの指輪は床に落ち、なんと、いくつかのひびが入ってしまった。 暁は一瞬呆然とし、すぐに怒りを爆発させた。「恵美、いつまで騒ぐつもりだ!?」 彼はぐっと歯を食いしばり、顔を恐ろしく曇らせた。「何をそんなに意固地になってるんだ?なんでいつも高木さんのことで突っかかってくるんだ? 本当のことを教えてやる!彼女はうちの病院の研修医であるだけじゃない。研修期間が終わったら、正式に職員として採用するつもりだ! 君の言い分なんて無駄だ」 暁は氷のように冷たい声で、きっぱりと言い放った。「恵美、よく聞け。この関係で、俺から離れられないのは君のほうだ」 「本当に、そうかしら?」 恵美は、冷たい声で暁の言葉を遮った。 暁の目つきがどんどん険しくなっていくのを見て、恵美は口の端を吊り上げた。「確かに、この10年、あなたは私にとって一番大切な人だった。でも、私には学問も仕事もあるの。あなたに寄生しないと生きていけないような女じゃないのよ! 暁。私があなたから離れられない理由なんて、どこにあるの?」 暁の呼吸が、無意識に荒くなった。 恵美が、自分から離れるはずがない。ありえない、ただの強がりに決まってる。 心の中で否定を繰り返していると、玄関に置いてあった恵美のスマホの画面が光った。 それは、フライトの搭乗時刻を知らせる通知だった。 暁は目を細め、長い腕を伸ばしてそれを奪い取ろうとした―― 第7話 「院長、いらっしゃいますか?」 佳奈の、子猫みたいなか細い声が突然響いた。 恵美は呆然として、そちらに目を向けた。 そこには、当たり前のようにオートロックの暗証番号を押して、中に入ってくる佳奈の姿があった。 その手慣れた様子から、ここに来たのが一度や二度ではないことは明らかだった。 なんて馬鹿げてるの。恵美は、あまりのことに言葉を失った。 ここは、自分と暁だけの、二人の家なのに。 「どうして、急に来たんだ?」 暁は少し驚いたように、佳奈の方へ注意を向けた。 佳奈は鼻をすすり、深々と頭を下げた。そして、しゃくりあげながら言った。「謝りに来たんです、恵美さん、すみません! さっきのはただの罰ゲームです。みんな酔ってたし、キスしただけだから平気かなって、恵美さんがそんなに気にするなんて、思わなくて……」 佳奈はペアの可愛らしい粘土の人形を差し出し、唇をきゅっと結んで言った。「これ、私が手作りしたんです。ペアになってるんですよ。恵美さんと院長が、末永くお幸せでいられますように!」 その言葉は、暁の心にすっと染み入った。 恵美と比べると、佳奈の素直で健気な態度が際立った。暁は、さらに不機嫌な表情になった。 佳奈は恵美の前に駆け寄ると、「恵美さん、許してください」と言いながら、プレゼントを受け取るようにしつこくまとわりついた。 そのあざとい態度に、恵美は吐き気をもよおした。彼女を振り払い、身をかわそうとする。 ところが、佳奈はまるで力いっぱい突き飛ばされたかのように、後ろへ大きく倒れ込んだ。 「きゃっ……」 悲鳴とともに、粘土の人形が床に叩きつけられて砕ける音が響いた。 佳奈は、ガラス棚の角に腰をぶつけた。涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちる。「痛い……」 まるでひどい仕打ちを受けたかのように、佳奈は声を上げて泣き始めた。「恵美さん、私、あなたが叩いたことも責めずに、謝りに来たのに、どうしてまだ手を出すんですか……」 暁は固く拳を握りしめると、すぐに佳奈を抱き起こしてなだめた。そして、心底がっかりしたという目で恵美を睨みつけ、歯を食いしばって言った。「恵美、君はひどすぎる! 高木さんが君に何をしたっていうんだ?彼女に八つ当たりするなんて!」 腕の中で泣く佳奈の涙が、暁の心をえぐるようだった。彼は息を吸い込むと、有無を言わさぬ口調で命じた。「高木さんに謝るんだ!」 「お断りよ」 恵美はすっと顎を上げた。その氷のように冷たい瞳には、親密に寄り添う二人の姿が映っている。「私がそんな卑怯な真似をするはずないでしょ。それより問題なのは、あなたたちの曖昧な関係よ。婚約者の私に、説明の一つもないなんて。 その上、彼女に謝れって?笑わせないで。 もう、はぐらかすのはやめて、暁」 恵美は聞いた。「高木さんを愛しているの?」 恵美の力強く、はっきりとした声が、暁の鼓膜に突き刺さるようだった。 カッとなっていた感情が、冷水を浴びせられたように一瞬で冷めていく。これ以上ごまかせば、完全に恵美を失ってしまう。そんな不安が急にこみ上げてきた。 そんなことは絶対に許せない。だが、腕の中の佳奈に目を落とすと、言葉に詰まってしまう。しばらくためらった後、ようやくためらいがちに口を開いた。「俺は……」 「あっ!」佳奈が暁の後ろを指差した。その声は、むせび泣きながらも、わざとらしく驚いた調子だった。「こ、これ……恵美さん、この航空券、どうして燃やしちゃったんですか!?」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、暁は息を呑んだ。そして、体ごと固まったように、ゆっくりと振り返った。 第8話 さっきは恵美のことばかり考えていて気づかなかった。でも今は違う。自分が3年間、心血を注いできたものが、すべて台無しにされてしまったのだ。 この光景を目の当たりにして、心の中にあったためらいや罪悪感はすべて消し飛んだ。代わりに、抑えきれないほどの怒りが湧き上がってきた。 暁は、恵美の帰りを待ちわびていた日々のことを思い出した。一枚一枚のチケットが、恵美への想いを募らせ、待ち続けるための希望だったのだ。 それなのに今、恵美の身勝手な振る舞いのせいで、すべては価値のない灰になってしまった。ただの邪魔なゴミくずに。 「君がやったのか?」暁の声は淡々としていた。しかし頭の中では、とっくに理性の糸が切れていた。殺気にも似た怒りが全身から溢れ出している。 恵美は自分のやったことを隠すような性格ではなかった。「ええ、そうよ」 「なぜだ?」暁は矢継ぎ早に問い詰める。 恵美は静かに繰り返した。「なぜって?」 ひどく傷ついたような暁の顔を見て、恵美は急に唇の端を吊り上げて笑った。「暁、あなたって本当に偽善者ね。そんな顔をして、誰を騙すつもり? 心変わりしたくせに、それを認めようとしない。でも、私が何も気づいていないとでも思った? もう私のことなんてどうでもいいくせに。こんなものを残して、誰に見せつけるつもりだったの?」 目頭が熱くなるのを感じながら、恵美は唇の内側を強く噛んだ。そして、一語一句、絞り出すように言った。「見ているだけで、虫唾が走るわ!」 「もういい!」暁は肩で大きく息をしながら、そばにあった椅子を掴み、ガラスケースに叩きつけた。 けたたましい音を立ててガラスが砕け散る。暁はこめかみに青筋を立てた。「恵美、君はつけあがりすぎだ! 地下室にはゴキブリもネズミもいる。本当の『気持ち悪さ』ってやつを、じっくりと教えてやる!」 暁が手を振ると、数人の使用人がすぐに恵美を捕まえ、地下室へと引きずっていった。 「暁!どうしてこんなひどいことをするの?離して!」 恵美は信じられない気持ちで必死にもがいた。しかし、振り返った暁の背中は、氷のように冷たかった。 使用人たちは力が強く、恵美はなすすべもなかった。そのうちの一人が恵美の顔を平手打ちし、声を潜めて吐き捨てる。「喚かないでください!この3年間、本当の女主人は高木さんだったんです!」 そのうちの一人がピンク色の錠剤を取り出すと、問答無用で恵美の顎をこじ開け、それを口の中に押し込んだ。 「ゲホッ!」平手打ちされて耳鳴りがする頭で、恵美は喉に押し込まれた異物を吐き出そうと激しく咳き込んだ。「何を飲ませたのよ!」 「もちろん、高木さんから頂いた、いいものですよ!」使用人は恵美の髪を力任せに掴むと、彼女を蹴りつけた。「さっさと飲み込んでください!」 地下室の重い扉が、大きな音を立てて閉められた。月の光さえ届かない、息が詰まるほどの暗闇だ。カサカサとネズミや虫が走り回る音が聞こえる。 しかし、恵美にそれを怖がっている余裕はなかった。 彼女の息は荒くなり、体中には赤く腫れた発疹が広がっていく。狂おしいほどの痒みに、痛みで床を転げ回った。そして突然、息が詰まるような感覚に襲われた。 「暁……」 恵美はなんとか力を振り絞ってスマホを取り出した。背中はびっしょりと冷や汗で濡れている。 しかし、聞こえてくるのは無機質な呼び出し音だけ。やがて電話が繋がったが、暁は冷たく言い放った。「高木さんに謝れ。そうしない限り、君をそこから出すつもりはない」 「高木さんに、薬を盛られたの……」恵美は床に崩れ落ち、震える唇で訴えた。 しかし、暁は信じなかった。その声には何の感情もこもっていない。「もう彼女を陥れるのはやめろ」 電話が切られる直前、恵美の耳に佳奈の甘えるような声が届いた。「院長、もう服、脱ぎましたよ。早く薬を塗ってください」 「ツーツー……」 恵美の手から力が抜け、スマホが滑り落ちた。 意識が薄れていく中で、ふと昔の記憶が蘇る。暁が心配そうに自分を抱きしめ、優しい声で慰めてくれた、あの日の光景。 フルーツナイフでほんの少し指を切ってしまっただけなのに、暁は自分より慌てていた。薬を塗ってくれるその手は、小刻みに震えていた。 そして暁はかすれた声で「ごめんな、恵美」と謝った。「もう二度と、痛い思いはさせないから」 瞳の焦点が合わなくなり、まぶたが閉じる。その時、一筋の涙が静かに頬を伝っていった。 第9話 消毒液の匂いが鼻をついた。 看護師が呆れたように言った。「やっと目が覚めましたね。どうしてアレルギーの薬を間違えて飲んだりしたのですか?しかもあんなにたくさん。発見が遅れて、運ばれてきた時はショック状態だったんですよ! もう少し遅かったら、死んでましたよ!」 恵美は疲れきっていて、力なく笑いながらお礼を言った。 看護師の向こう、部屋に入ってきた暁の姿を捉えると、恵美の表情からすっと笑みが消えた。 暁は立ち止まり、少し黙ってから、責めるような口調で言った。「電話でちゃんと言うべきだったろ」 「高木さんの仕業よ」恵美は、暁の目をまっすぐ見て言った。 「ああ、知ってる」恵美の予想に反して暁はうなずき、こう続けた。「でも、わざとじゃないんだ。 君が感情的になってるのを見て、落ち着かせようとしただけなんだ。善意からだったんだよ。ただ薬を間違えただけだ。 でも、罰は与えておいた」 恵美は目をそらさず、かすれた声で尋ねた。「どんな罰を?」 暁は眉をひそめた。「半日分のバイト代を減給にした」 暁が佳奈をひいきするのは分かっていた。でも、ここまでひどいなんて、呆れてしまう。 「それで十分だと?」恵美は嘲るように笑った。肌はアレルギーで黄色い水ぶくれに覆われている。「暁、私がちょっと身をかわしただけで、謝罪を要求したじゃない? それなのに、高木さんにそそのかされた使用人に殴られて、薬まで飲まされて、地下室で死にかけたのよ!それら全部を、たかが半日分のバイト代でチャラにするつもり? ねぇ暁、聞くけど、それって本当に罰なの?ただ甘やかしてるだけじゃないの!」 「先に手を出したのは君だろう」暁は感情のこもらない目で恵美を見下ろした。「高木さんは可哀想だよ。君にしつこく絡まれて。 俺は彼女を信じている。あんなに心優しい子が、わざと君を傷つけるなんてありえない。自業自得だ。 前にも言ったはずだ。高木さんに謝れ」 恵美は、その言葉を拒んだ。 だから、その後の数日間、たった一人で入院生活を送ることになった。 暁の姿を次に見かけたのは、佳奈のインスタだった。 投稿されていたのは、可愛らしいネイルをした手が、男性ものの黒いスーツの腕に絡んでいる写真だった。 写真には、文章が添えられていた。【私が傷ついてるのを知って、わざわざ休みを取って気晴らしに連れ出してくれました】 二人は見渡す限りのお花畑へ行き、夜空いっぱいの花火の下を散歩した。 豪華なクルーザーパーティーを楽しみ、夜には流れ星に願い事をしていた。 まるで恋人同士みたいに、ロマンチックで贅沢な時間を過ごしていた。 二人が旅行を終えようとしていた頃、恵美はスーツケースを引いて、搭乗口に立っていた。 アナウンスが流れる中、スマホが鳴った。暁からのメッセージだった。 【明日、国内に戻る。ちゃんと話し合おう】 謝ってくるつもりなのかもしれない。あるいは、また言い争いを続けるだけかもしれない。 でも、恵美にはもうどうでもよかった。 恵美は暁の仕事用のメールアドレスに、一通のメールを送った。 メールには、この数日で調べ上げた、佳奈の本性を暴く証拠を添付した。 そしてスマホからSIMカードを取り出すと、二つに折ってゴミ箱に捨てた。 暁、もうこれで終わりよ。 さようなら。