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結婚記念日に、夫の秘書のために毒味をしろと?
結婚記念日、今まで一度も台所に立ったことのない夫の宮崎浩(みやざき ひろし)が、テーブルいっぱいの料理を作ってくれた。 私が一口食べる...
Chương (1)
第1章
結婚記念日、今まで一度も台所に立ったことのない夫の宮崎浩(みやざき ひろし)が、テーブルいっぱいの料理を作ってくれた。
私が一口食べるごとに、浩は細かく味を尋ねて、真剣にメモをとる。
途中、浩は寝室へ行き電話に出た。杉本瞳(すぎもと ひとみ)からの着信だ。
浩が席を外した隙に、何気なくノートを手に取った。そこには、私とは全く無関係なことがびっしりと書かれていた。
【いんげんは少し硬い。瞳はきっと好みじゃないな】
【きのこは少し塩辛い。瞳のために作る時は気をつけないと】
【羊肉はクセが強すぎる。瞳のために作る時は牛肉に変えよう】
戻ってきた浩がノートを取ろうとした時、私の動きを見て激昂した。「美希(みき)、お前は本当に教養のかけらもないな。勝手に触るなと言っただろう?」
反論しようと口を開くより先に、激しい頭痛に襲われた。目の前の浩の姿が揺らぐ。
「浩、なんだか気持ち悪いの……インゲンが生だったのかも……」
「だったら急いで書き留めないとな。瞳のために作る時は長めに火を通そう」
浩は私を一瞥もせず、メモをとりながら足早に玄関へ向かう。
「出かけてくる。お前は丈夫なんだから、つらいなら薬でも飲んでろ」
意識が遠のく中、もう一度電話をかけると、苛立った声が聞こえた。「そんな大ごとなのか?死ぬのか?死んだらまた連絡してこい!」
浩、もう二度と連絡はしない。
第1話
結婚記念日、今まで一度も台所に立ったことのない夫の宮崎浩(みやざき ひろし)が、テーブルいっぱいの料理を作ってくれた。
私が一口食べるごとに、浩は細かく味を尋ねて、真剣にメモをとる。
途中、浩は寝室へ行き電話に出た。杉本瞳(すぎもと ひとみ)からの着信だ。
浩が席を外した隙に、何気なくノートを手に取った。そこには、私とは全く無関係なことがびっしりと書かれていた。
【いんげんは少し硬い。瞳はきっと好みじゃないな】
【きのこは少し塩辛い。瞳のために作る時は気をつけないと】
【羊肉はクセが強すぎる。瞳のために作る時は牛肉に変えよう】
戻ってきた浩がノートを取ろうとした時、私の動きを見て激昂した。「美希(みき)、お前は本当に教養のかけらもないな。勝手に触るなと言っただろう?」
反論しようと口を開くより先に、激しい頭痛に襲われた。目の前の浩の姿が揺らぐ。
「浩、なんだか気持ち悪いの……インゲンが生だったのかも……」
「だったら急いで書き留めないとな。瞳のために作る時は長めに火を通そう」
浩は私を一瞥もせず、メモをとりながら足早に玄関へ向かう。
「出かけてくる。お前は丈夫なんだから、つらいなら薬でも飲んでろ」
意識が遠のく中、もう一度電話をかけると、苛立った声が聞こえた。「そんな大ごとなのか?死ぬのか?死んだらまた連絡してこい!」
通話が切れたスマホを手に、今さっき浩に言われた言葉が頭から離れない。
あふれ出しそうな感情を押し殺し、身体を奮い立たせて、最後の力で救急に連絡した。
皮肉にも、救急隊の方が浩よりもずっと頼りになった。
診断の結果、インゲンとキノコの同時食中毒だった。処置が早かったため、数分遅れていたらと考えるだけでぞっとする。
病室のベッドで点滴を受けていると、傍らのスマホが鳴り始めた。
見ると、浩からの着信だった。
「美希、カレーにはりんごを入れたほうが美味いと思うか?」
あまりの問いかけに絶句しながらも、声を絞り出す。「今、病院なの」
向こう側は不機嫌そうだ。「あー、そうか。適当に薬でも貰って帰れ」
浩はすぐさま話を戻した。「さっさと言えよ、どっちがいいんだ?」
口を開きかけた時、電話から別の女性の声が響いた。「浩、あなたの手料理なら、なんでも大好き」
その瞬間、プツリと通話が切れた。
呆然とスマホを見つめていると、立て続けにメッセージが届く。
【会社で急なプロジェクトが入ったから、明日まで戻れない】
【病院に行って、薬を余分にもらっておけ。足りないなら金を送る】
画面の文字を読み、胸が強く締め付けられた。
急な仕事?薬でも飲んでおけって?
人は、ここまで適当にあしらえるものなのだろうか?
今回は返信をせず、スマホをそのまま置いた。
ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見上げる。
隣のベッドの小さな女の子が、黙りこくる私を見て屈託のない笑みを向けてきた。「お姉ちゃん、一人なの?
お母さんが入院した時は、ずっとお父さんが側にいたよ。お姉ちゃんの旦那さんはどこ?」
純粋な問いに、私は小さく呟く。「旦那さん……か。
私には、そんな人なんていないのよ」
私の答えに女の子はカッと目を剥き、両手を腰に当てて頬を膨らませた。「お姉ちゃん、嘘つき!さっきスマホのケースに結婚写真が入ってるの見たもん!」
第2話
「嘘をついちゃダメだよ!嘘つきは泥棒の始まりだからね!
お姉ちゃん、旦那さんすごくカッコいいね!二人の写真見せてくれない?」
その言葉に、私は言葉を詰まらせた。浩と連れ添って何年もなるけれど、二人の写真はスマホケースに挟んだこの一枚しかないのだから。
浩は写真が苦手だと言っていた。だから、入籍した時の写真しか手元にはない。
異変を感じ取ったのか、女の子の母親が慌てて娘を引っ張り寄せ、気まずそうに笑った。「すみません、子供の言うことですから、気にしないでくださいね」
私は首を振って、何も答えなかった。
スマホを手に取り、画面をぼんやりとスクロールした。
インスタを開くと、ちょうど瞳が1分前に更新したばかりの投稿が目に飛び込んできた。
投稿には、浩のインスタのスクリーンショットが一枚。そこにはこう書かれていた。【愛してる。一緒に過ごす今が一番の幸せ】
その投稿を見た瞬間、全身から血の気が引いた。震える指先で、浩のアイコンをタップした。
ストーリーには何もない。インスタは相変わらず鍵垢のまま。
何かが胸に刺さり、いてもたってもいられなくなった私は、相互フォローしている、サブ垢でこっそり浩のアカウントを見た。
そして、すべてを悟ってしまった。
浩のアカウントには、10分前に投稿されたばかりの写真があった。
瞳と頬を寄せ合う親密そうな写真と、豪華な食卓の光景だった。
その写真の料理は、今日浩が私に作ってくれたものと全く同じだった。
そこには、【誕生日おめでとう。お前のためなら何だってするよ】という言葉が添えられていた。
浩のインスタの固定表示は、瞳との婚約フォトで、それは3年前から掲げられたままだった。
私はその画面を見ながら、自分の財布から出した二人の写真と見比べた。
その対比はあまりにも残酷だった。瞳との写真の中の浩は、優しさに満ちた穏やかな表情をしていた。
私たちの写真で浩は不機嫌そうで、実はあの日、些細なことで口喧嘩をしたばかりだったことを思い出した。
私は震える手で、浩のタイムラインを一つ一つ確認していった。
浩は毎日のように更新を重ね、日に何度も投稿することさえあった。
何気なく写真を開くと、きらびやかな夜景を背景に二人で熱く口づけを交わしている様子が映っていた。
その日は大晦日だった。私が寒空の下、花束を持ってずっと広場で待ち続けたのに、結局浩からは【残業だから先に寝て】という短いメッセージが届くだけだった。
あの時、私たちは同じ広場にいたのだ。片方で花束を抱えて震える私、もう片方では抱き合い熱烈に愛を確かめ合う浩たちが。
次に見つけた写真では、観覧車の頂上でキスをしている二人。
その日のことも鮮明に覚えている。高熱を出した私が薬をお願いしたら、浩は電話越しにため息をついて、帰り際にコンビニで買ってきた胃腸薬を投げてよこしたのだ。
そして、今この投稿を見て分かった。あの胃腸薬は、私のために買ってきたわけじゃなくて、瞳の分のついでに買ってきただけなのだ。
次に表示されたのは、ペットを病院に連れて行く二人のお出かけ記録だった。
私はあの一生忘れられない日を思い出した。祖母が危篤になり、最期に浩を見ておきたいと手を握った日のことを。
私が何度かけても無視されていた電話が、ようやくつながった時、浩の口からは不機嫌な声だけが返ってきた。「急に仕事が入ったんだよ。遠出しているんだから、帰れるわけないだろう?」
第3話
あの日、電話をしていた時、浩は病院向かいのペット病院にいたのだ。
いつまでも終わらないインスタの投稿を見ながら、私の心も冷めていくようだった。
これまで何度浩を信じて理解しようとしても、返ってくるのは裏切りだけだった。
瞳からラインが届いた。【美希さん、浩と食事中なの。浩が病院へ行ったことを思い出して、薬代を送金しろって言うから】
【浩は、送金しないとまた美希さんがわがままを言うだろうからって。さっさと受け取ってよ】
画面の200円の通知を見て、私は呆れてそれを即座に返金した。
【いらないよ。それ、あなたへの誕生日プレゼントにして】
【あなたにはその程度の価値しかないでしょから】
送信から1分もしないうちに、浩から電話がかかってきた。
出るや否や、怒鳴り声が耳に響いた。「美希、お前正気か?
瞳が親切で薬代を送ったのに、礼も言わずにそんな嫌味を言うのか?
今から瞳に代わるから、ちゃんと謝れ!今日は瞳の誕生日なんだ、台無しにするな!」
浩の一方的な言いがかりに、私は冷めた声で言った。「浩、私に謝る理由なんてあるの?」
「美希、また逆ギレするのか?
いつからこんな奴になったんだ。瞳の家の経済状況を知っていながら、お金で侮辱するなんて。
今すぐ、瞳に謝罪しろ!」
私が黙り込むと、浩はさらに逆上した。「分かった!お前がそこまで謝りたくないなら……
今後、俺の金は一銭も使うな!少額だと見下すくらいなら自分のお金でやりくりしろ!
瞳に謝る気になったら連絡してこい。頭を冷やして反省しろ!」
そう言うと、浩は私の返事も待たずに電話を切った。
10分後、私名義のカードがすべて利用停止になった通知が届いた。
病院のベッドに横たわり、窓の外を眺めながら私は心の中で苦笑いした。
隣のベッドの女の子が、じっと私を見つめていた。「お姉ちゃん、旦那さんと喧嘩しちゃったの?
何をしたの?相手はなんであんなに怒ってたの?」
私は弱々しく笑った。「誰にでも間違いはあるものよ。相手の機嫌次第で、白が黒にもなるの」
女の子は不思議そうに小首を傾げた。「分からないや。
でもママが言ってたよ。自分自身が自由でハッピーでいるのが一番大事なんだって!」
その言葉に、私はハッとさせられた。
そうだ、私自身が自由に幸せでいること、それが一番大切なはずだ。
病室で空を見上げながら、深い寂しさが込み上げてきた。
疲れのせいか、私はいつの間にかまどろんでいた。
看護師の声で目を覚ますと、入院費の支払いが必要だという連絡だった。
いつもの癖でカードを出そうとして、すぐに全て停止されていたことを思い出した。私は諦めて言った。「今日でもう退院します」
「あれ、お姉ちゃんもう退院なの?」
隣の女の子がドタバタと戻ってきた。手には見覚えのあるロボットの人形を持っている。
「そのロボット、どこで買ったの?」
第4話
「これのこと?あるお兄ちゃんの奥さんが入院しててね、そのお兄ちゃんが、子どもたちが騒がないで、静かに遊べるようにって、みんなに一人一つずつくれたんだよ。
お姉ちゃんもこれ好きなの?もしどうしても欲しいなら、あげてもいいよ!
あれ、不思議だな。さっきのお兄ちゃん、お姉ちゃんのスマホケースの写真の人と似てる気がする……」
女の子の言葉が進むにつれて、私の体温はどんどん冷めていった。
彼女が最後の言葉を口にした瞬間、私の膝から力が抜けてしまった。私はよろよろと後ろへ下がり、病室のベッドにへたりこんだ。顔から血の気が引いていくのが分かった。
目の前にあるこのロボット。見間違えるはずもない。浩と付き合い始めてから、私たちは二人で高敏感特種ロボットの研究に命を懸けていたのだ。
この高敏感特種ロボットを完成させることが、二人の長年の夢だった。
実は、私には遺伝性の希少疾患の恐れがあった。かつて浩は目を赤くして私に言ったのだ。「俺が会社を経営して、お前が技術を提供する。二人で精度の高い遺伝病検知ロボットを開発すれば、お前は絶対長寿できる」と。
ここ数年、数え切れないほどの失敗を重ね、ようやく一年前、ついにこのロボットの完成に漕ぎ着けた。
この高敏感特種ロボットは特殊な仕組みで、一度起動してしまえば、元の状態には戻せない仕様になっている。
これまで、私はこのロボットを試用するための最適なタイミングを慎重に計っていた。試作機は数台しかない。それなのに、浩はあろうことか全部配ってしまったのだ。
正気を取り戻し、私は震える手でスマホを掴み、浩に電話をかけた。
しばらくしてようやく繋がった先から、浩のうんざりした声が聞こえた。「何だ?考え直したのか?謝りに来たんだろ?
そうだ、美希。お前、わざとだろう?なぜ俺に、お前の食中毒がこれほどひどいって言わなかったんだ?お前のせいで、瞳がどれほど苦しんでいるか知っているのか!」
電話越しに浴びせられる責めと非難。私の胸の中は悲しみでいっぱいだった。「あの時、私が食中毒にかかって病院に連れて行ってと頼んだとき、あなたは何て言ったの?」
いつもは浩の言いなりになっていた私が、急に言い返したことに、彼は一瞬沈黙した。
しばらくして、また浩の無神経な声が響いた。「お前と瞳を一緒にするなよ。
瞳は生まれつき体が弱いんだぞ!食中毒で死ぬかもしれないんだ。お前は違うだろう?その頑丈な体で何ともないじゃないか?それに、お前は今だって元気そうじゃないか?
もう、いい加減にしろ。そんな話はどうでもいいんだ。美希、俺は忙しいんだ。謝らないなら切るぞ!」
私は目の前の女の子の手にあるロボットを見つめながら、静かに尋ねた。「私のロボット、全部配っちゃったの?」
「ああ、そうだ。それが、どうかしたか?
ロボットなんて、またいくつでも作ればいいだろう?」
浩のあまりに無頓着な口調を聞き、張り詰めていた感情が決壊した。「浩、分かってるの!?このロボットは特殊で、一度適当に起動したら二度と元に戻せないの!これまでの私の10年の努力が、全部台無しになったっていう意味よ!」
「美希、お前おかしいんじゃないか?何怒鳴り散らしてるんだ?ただのロボット一つで大げさすぎるぞ。
そうだ、ついでに伝えておく。今日からお前のロボットプロジェクトは中断だ。瞳が退院したら、全部引き継いでもらうことになった」
「どうして?」
私の崩れ落ちそうな感情を感じ取ったのか、電話の向こうの浩は大きくため息をつき、説得するように続けた。「瞳は新人だから、チャンスが必要なんだ。お前はもう10年近く会社にいるんだから、そんな機会なんて必要ないだろ」
第5話
「そろそろ、いい加減にしろ。そんなにやきもちを焼いて、大人げないぞ。少しは若手の面倒も見ろ。
もういい。話は終わりだ。こっちは忙しいんだ」
私が何かを言うより早く、浩は電話を切った。
病室のベッドサイドに座り、私は両手を固く握りしめた。込み上げてくる感情を必死に押し殺し、涙をこらえた。
まさか、これほどまでに人が変わってしまうとは。浩は、一体どこへ行ってしまったのか。
以前はあんなにも目を潤ませながら、命がけで私を守る、ロボット開発だって私のために……私に「長寿祈願」してくれていたあの男が、今は「それが、どうかしたか?」だなんて。
首を振って雑念を振り払い、荷物をまとめて病室を後にした。
病室を出ると、ちょうど浩の後ろ姿が見えた。彼は瞳を慎重に支えている。
顔は見えなくても、今の浩が瞳にどれほど気を遣っているのかは十分に伝わってきた。
視線に気づいたのか、突然振り返った浩と目が合った。
私を見た瞬間、彼の目に焦りの色が走った。
私は構わず、そのまま出口へと向かった。
しかし、まさか追ってくるとは思わなかった。浩は後ろから強引に私の腕をつかむと、皮肉混じりに言い放った。「なんだ?わざわざ病院まで来て、何も言わずに帰るつもりか?
どうせ、ロボットプロジェクトの話を聞きに来たんだろう?
それなら何度でも言うぞ。計画は瞳に引き継ぐ。お前の方は、家の警備員が休んでいるから、代わりに出てくれ」
黙り込む私を見て、浩は溜息をついた。「美希、最近ピリピリしすぎだぞ。更年期か?
まさか瞳のことで怒ってるのか?そんな必要はない。俺たちはただの仕事上の関係だ。一人で心細そうにしていたから、ちょっと気を遣っただけだ。
それの何が悪いんだ?」
理屈っぽく言い訳をする浩を眺めながら、私は記憶をたどった。彼はいつからこんな人間になってしまったのか?
すべては、瞳が会社にやってきた日を境に、静かに歪み始めたのだ。
「そうね。あなたが正しいわ」
適当に言葉を濁し、一刻も早くここを立ち去りたかった。
私の態度を見て、手を離すと、浩は疑わしそうに私を睨んだ。「本気でそう思ってるのか?」
私が頷くと、浩の表情が和らいだ。満足げな様子で私を見つめる。「それでいいんだ。いちいち勘ぐるなよ。
じゃあな。俺は、瞳の様子を見てくる。
先に戻って待っててくれ。あとで話がある」
そう言って、浩は私を振り返りもせず、病室の中へ戻っていった。
帰り道、窓の外を流れる景色を見つめながら、耐えがたいほどの虚しさが胸の奥で渦巻いた。あまりの苦しさに、息も詰まりそうだった。
帰宅後、ソファにぐったりと倒れ込んだとき、隅っこに置かれた一冊のノートが目に留まった。
気まぐれで手を伸ばし、ページをめくってみた。
読んでいくうちに、私は自然と背筋を伸ばしていた。
長年、浩は決してこのノートを見せてくれなかった。私たちの何気ない日常を記録して、老いた時に一緒に振り返るための宝物だと言っていたはずだったのに。
目の前の綴られた言葉を追いかけながら、もうそれ以上読み進める勇気が失われていくのを感じた。
【あの日、美希に聞かれた。もし他に自分よりも良い女性が現れて、その相手も俺を好きだとしたらどうするの、と。
俺は本能的に美希に向かって言った。一生愛しているのはお前だけだと!】
第6話
【でもその時、なぜか頭の中に瞳が浮かんだんだ】
たったそれだけの短い言葉なのに、私は涙が止まらなかった。
心変わりは人の本性だ。だから、誠実さこそが選ぶべき道。なのに、浩はその両者から前者を選んだのだ。
浩の日記の続きをもう読まなかった。読む必要なんて、本当にどこにもなかったから。
私は側にあったスマホを手に取り、親友の野村理恵(のむら りえ)に電話をかけた。
「あら!あの大忙しのあなたが、どうしたの?」
「理恵、お願い。離婚協議書を用意してくれる?」
私の真剣な口調を感じ取り、理恵は声色を落とした。「一体、何があったの?」
最近起きたことを全て話すと、理恵は長く沈黙した。
しばらくして、彼女は大きな溜め息をつき、静かに言った。「10年の付き合いが、こんな結末になるなんてね。ねえ、結局『愛』って何なの?」
私は唇を歪め、力なく笑った。「離婚、よ」
「そうよ、それがいいわ。自分を責めないで。あなたは悪くない。手続きは私に任せて」
電話を切り、ソファから立ち上がった。私は冷蔵庫からビールを何本か取り出した。
床に無造作に座り込み、窓の外のネオンを眺める。私の心も、その瞬間に消えた光のように冷え切っていた。
一本、また一本とビールを流し込み、頭をアルコールで麻痺させようとした。すると、意識がふらつき始めた。
浩が帰ってきたのは、その時だった。部屋の明かりがついた瞬間、視線が交差する。
赤く腫れた私の目を見ると、浩は少し戸惑った。ぐに私の手から酒を取り上げ、少し怒ったような口調で言った。「酒を飲むなと言っただろう?
お前、最近俺の言葉なんて気にもしてないだろ?
今回だけだぞ。二度とやるな!
早く顔を洗ってこい。話があるんだ」
そう言って浩は私を引っ張り起こし、洗面所の方へ追い立てた。
私は必死に足を踏ん張り、自分の頬を叩き、頭をすっきりさせようとした。
確かに目を覚ます必要があった。私も浩に、話さなければならないことがあったから。
洗面所から出ると、浩はソファに座り、何かを期待するような顔でこちらを見ていた。手には書類が握られている。
「美希、これを見てくれよ」
浩から名前を呼ばれて、私はその場に立ち尽くした。驚きで動きが止まる。
浩と付き合い始めてもうすぐ10年になるが、彼から嬉しそうに話しかけてきたのは、これが初めてだった。
「早くこっちに来いよ。一体何だと思う?」
我に返り、腑に落ちない気持ちを抱えたまま、私は浩の側へ歩み寄った。
近づくにつれ、鼻を突くほど甘ったるい香水の匂いが漂ってきた。
胃から込み上げる吐き気を押し殺し、私は静かな面持ちで浩を見た。離婚を切り出そうとしたその時、浩が手元の書類を差し出してきた。
その書類を見て、私はしばし呆然とした。なぜ、こんなことになるの?