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秋風に消えた想い
「霞さんの病気は、とっくに手術で治せたはずなのに、どうして治せないなんて嘘をついたんだ? 霞さんはとっくに普通の人と同じ生活ができたは...
Chương (1)
第1章
「霞さんの病気は、とっくに手術で治せたはずなのに、どうして治せないなんて嘘をついたんだ?
霞さんはとっくに普通の人と同じ生活ができたはずなのに。お前は彼女の苦しみを長引かせたんだぞ。心不全の患者が毎日どれだけ苦しんでいるか分かってるのか?」
しかし、「生涯愛するのは霞だけ」そう公言していた男は、悪びれる様子もなく答える。
「夏美が我儘なんだから、仕方ないだろ?それに、夏美は俺が他の人に触られるのを嫌がるし、自分のものだって印までつけるんだ。そんなんじゃ、霞の病気が治ったら、隠し通せなくなる」
新井要(あらい かなめ)の言葉は、鋭いナイフとなって新井霞(あらい かすみ)の心を突き刺した。
街の誰もが、要は「色欲とは無縁な男」だと思っていた。
なぜなら結婚してから5年、要は霞に指一本触れていなかったから。それに、霞の生まれつきの病気を気遣って、負担をかけたくないからだと言っていて、霞自身でさえその深い愛情に涙したこともあったのに。
しかし、その「色欲が無い」というのが、自分に対してだけのものだったなんて。
こんな男、もういらない。
第1話
「6億円賭けるわ。私と要が離婚することに」
新井霞(あらい かすみ)が静かに賭け金を置くと、そばにいたカジノ責任者は冷や汗を流した。
これは、令嬢たちが嫉妬まじりに暇つぶしで仕掛けた戯れにすぎなかったのに、まさかそのせいでこんな大物を怒らせてしまうとは、夢にも思わなかったのだ。
新井要(あらい かなめ)が霞を骨の髄まで愛していて、霞のためなら命まで捨てかねないほどだということは、誰もが知っている。
以前、霞が身をかがめたときに胸元を覗こうとした男がいた。その男は数日も経たずに交通事故に遭い、二度と光を見ることはなかったという。
また、酒に酔ったふりをして彼女の腰に手を回した男もいた。翌日、その男の両手は勤め先の会社のドアに吊るされていたらしい。
霞は孤児で、先天性の心臓病を抱えていたから、子どもも産めないし、激しい運動もできない。ましてや、要に男としての喜びを与えてあげることだってできなかった。
それでも、要は霞をこれでもかというほど溺愛していた。
だから霞の体を気遣い、要は決して関係を持とうとはしなかった。いつもキスやハグだけで終わらせて、自分は冷たいシャワーを何度も浴びていたそうだ。
そんな要を見かねた親友が気を利かせて女をあてがったが、要はその女を布団ごと部屋から叩き出したという。
さらには、親戚たちが子供を産むようどんなに必死に説得しても、彼の決意は変わらず、こう言い切ったのだ。
「この生涯で俺が愛するのは霞だけだ。これ以上、彼女を諦めろと強要するなら、お前達の前で死んでやる」と。
また、霞は表舞台に立つことをあまり好まなかったので、要はわざわざ霞とよく似た替え玉を用意し、面倒な場にはその女を代わりに行かせていた。
……
こんな幸せが永遠に続くと思っていた。しかし、ある事件が起きた。
1年前、薬を盛られた要は替え玉の女を霞だと思い込んでしまい、関係を持ってしまったのだ。
正気に戻った要は、霞の前で額を床に擦り付けた。
さらには、ナイフで自らの胸に霞の名前を刻み、許しを求めたのだった。
「霞、信じてくれ。あの時は薬のせいで、あの女をお前だと思い込んでしまったんだ。
俺が愛しているのはお前だけだ。あの女はもう遠くに行かせる。二度と俺たちの前に現れないようにするから」
霞は要の言葉を信じて許した。
要に満足な夜の営みをしてあげられないのは、自分のせいだという負い目もあったから。
しかし、次第に……
霞は、何かがおかしいと感じ始めた。
要は自分といても、誰かからのラインを待っているかのように、常にスマホを気にするようになった。
自分の誕生日の時、要は海外出張だと言っていたのに、スマホの位置情報を見てみると、彼はすぐ近くのホテルにいたのだ。
また、霞が体調を崩して電話したときも、要の態度はそっけなかった。
「霞、まだ会議中なんだ。悪いけど、一人でなんとかしてくれ」
霞が不満を口にしても、要はいつもこう言った。
「親戚連中はお前のことを快く思っていない。だから俺がもっと頑張って、あいつらを黙らせないといけないんだ」
そんなある日、霞は発作を起こした。50回以上電話をかけたのに繋がらず、要が入院先に見舞いに来たのは、結局4日も経ってからだった。
要の鎖骨には、生々しいキスマークがついていた。
そのとき霞は初めて知った。要が橋本夏美(はしもと なつみ)とずっと関係を続けていたことを。
退院したその足で、霞は要の会社へ向かった。すると偶然、オフィスで要が親友と口論しているのを目にする。
「霞さんの病気は、とっくに手術で治せたはずなのに、どうして治せないなんて嘘をついたんだ?
霞さんはとっくに普通の人と同じ生活ができたはずなのに。お前は彼女の苦しみを長引かせたんだぞ。心不全の患者が毎日どれだけ苦しんでいるか分かってるのか?」
その言葉を聞いた霞は、まるで氷の穴に突き落とされたような衝撃を受けた。
世界で自分を一番愛してるといつも言ってくれていた人が、自分が病気で苦しむ姿を、ただ黙って見ていただけだったなんて。霞は信じられなかった。
……
「霞さんを一番愛しているんじゃなかったのか?なんで彼女にこんな酷いことをするんだよ?」
「夏美がすごく我儘なんだから仕方ないだろ?」
困っているような表情を浮かべている要だったが、その声はどこか楽しそうだった。
「俺が他の人に触られるのを嫌がるし、自分のものだって印までつけるんだ。そんなんじゃ、霞の病気が治ったら、隠し通せなくなるだろ?
それにこの間、俺が霞を抱きしめているところを夏美に見られたんだ。そしたら泣き喚いて大変でさ。惑星を99個も買ってあげて、やっと機嫌が直ったんだ」
「惑星を99個?一体いくらかかったんだよ?昔、お前が霞さんにプロポーズした時は、たった1個だったじゃないか。
一生、霞さんだけだって言ってたのに、なんであの女にそんなに尽くすんだよ?まさか、本気で好きになったんじゃないだろうな?」
その問いに、要は答えなかった。
長い沈黙の後、要は困ったようにため息をつく。「俺だって、好きでこうなったわけじゃない。
最初はただ、夏美の体に興味があっただけだった。でも、いつの間にか……」
霞は胸を押さえ、唇をきつく噛みしめた。
「気づいたら、もう夏美なしじゃいられなくなっていた。起きてるときも、夢の中でも、あの子のことばかり考えてる……」
そして要は、一度息を深く吸った。
「霞と一緒にいるときでさえ、心の中は夏美のことでいっぱいなんだ」
「じゃあ、心変わりしたってことなのか?本当に夏美って女を愛してるなら、早く霞さんに本当のことを言ってやれよ。下手に隠してると、二人とも傷つけることになるぞ。
結婚式の時、霞さんは言ってたじゃないか。『一途な愛だけが欲しい』って。もしこのことがバレたら、霞さんは絶対にお前と別れるぞ。その時になって後悔しても遅いからな!」
「馬鹿なこと言うな。俺は霞のことも愛してるんだ。お前達が黙っていれば、霞にばれる事はないんだからさ」
要は有無を言わさぬ冷たい声で続ける。
「それに霞は体が弱いし、俺が長年甘やかしてきたから、もう一人ではまともに生活できない。身寄りのないあいつが、俺から離れていけるわけないだろ?」
第2話
「夏美は公にできない関係で我慢してもらっているから、もう十分辛い思いをさせているんだ。だから、こんなささやかなプレゼントでは、とても埋め合わせにならないよ。
できることなら、彼女とだって式を挙げたいんだから」
オフィスの外で、霞は必死に正気を保とうと自分の腕をつねっていた。
かつて自分と結婚するためなら、家族全員を敵に回すことも厭わなかった要が、まさか他の女を愛しているなんて、信じられなかった。
ありえない。
10年前、霞が病で倒れ、病院から要に何度もかなり危ない状況であるという連絡が来た時、海外にいた要はすぐにチケットを取り帰ってきてくれた。そして、山奥にある神社に毎日通っては祈りを捧げてくれたのだった。
二人で交通事故に遭った時も、要は迷わず霞を庇い、意識不明の時でさえ、霞の名前を呼び続けていたし、家族に結婚を反対された時は、すべてを捨てて霞と心中しようとまでした。
そして、やっとのことで霞と結ばれた日、要は誓った。
「何度生まれ変わっても、俺はお前だけを愛し続ける。もしこの誓いを破るようなことがあれば、望んで天罰を受けるよ」
……
あれから長い月日は経っていないというのに、要は心変わりしている。それどころか、夏美を愛してしまったのは仕方なかったなんて言っているのだ。
なんて愚かなのだろう。二人の女を同時に手に入れようとするなんて。
しかし、霞は最初からはっきりと要に伝えていた。二股なんて絶対に許さない、と。
中途半端な愛情なんていらない。もし心変わりしたら、きっぱりと別れると決めている。
その時、オフィスの中から要の苛立った声が聞こえてきた。
「霞が来てること、なんで前もって報告しなかったんだよ!それに、どうして彼女をここまで上らせたんだ?」
中の様子に気づいた霞は、素早く涙を拭うと、平静を装ってドアを開けた。
霞の姿を見るなり、要の目に明らかな動揺が走る。
「霞、いつ来たんだ?」
全部聞こえていたよ、と本当は言いたかった。
でも、それを言って何になるというのだろう?たとえ言ったとしても、自分の立場が不利になるだけだ。
下手すれば逆ギレされて、あれこれとこちらの非を責められるかもしれない。
そう考え、霞は問い詰めたくなる気持ちをぐっとこらえた。
「今来たとこ。どうしたの?何か私に何か隠しごとでもあるの?」
霞は明るく笑ってみせる。
要の友人たちはそんな霞の様子を見て不憫に思ったが、それでも要に協力して取り繕った。
「そんなわけないだろ?要は君に一筋なんだから」
「ああ、そうだよ!君を喜ばせたくて、サプライズを準備してるんだって。俺たちにもずっと相談してきてさ」
霞は彼らの言っていることが全て嘘だと知っていたが、何も言わずに持ってきたお弁当を広げ、みんなに勧める。
要の友人たちは笑顔で手を伸ばしたが、その手が弁当に届く前に要は彼らを追い出した。
要はぐっと手を伸ばして霞を抱き寄せると、霞が少しでも疲れてしまうことを心配し、肩を揉んだり足をさすったりした。
「こんなことは他の人に任せればいいんだ。お前はもっと休んで。お前が疲れている姿を見ると、俺が辛くなるからさ。
体調は良くなった?この前電話をくれた時、すごく焦ってるみたいだったけど」
霞の手がぴたりと止まる。「なんでもないよ。たいしたことじゃないから」
霞はうつむくと、すぐに話題を変えた。
「そういえば、橋本さんは今どうしてるの?」
要は一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐに嫌悪感を露わにして言った。
「なんであんな女の話を?あいつは恥知らずな女だ。海外に追い出すだけで止めてやったのも、俺の慈悲ってもんだよ」
霞はそれ以上追求せずに、ただ早く食べるように促す。
しかし霞の顔色が悪いのに気づいた要は、すぐに彼女を抱き上げ、病院へ連れて行こうとした。
道中、要はずっと霞を強く抱きしめ、甘い言葉を囁き続ける。
霞が寒くないようにと服をかけ、暑くないかと団扇で扇ぎ、喉が渇いていないかと水を飲ませようとする。
霞は黙ってそれを受け入れていたが、特に返事をすることはなかった。
次第に、要も違和感に気づきはじめる。
「霞、どうかしたか?なんでそんな急に冷たくなったんだ?」
霞は深く息を吸い込み、口を開こうとした。
しかしその瞬間、間の悪いことに要のスマホが鳴った。霞は横目でスクリーンに表示された名前を見た。
【夏美】
体を強張らせた要だったが、メッセージの内容を見た瞬間、みるみるうちに耳の先まで赤くした。
要は困ったように霞を見つめる。
「霞。ごめん、急に思い出したんだけど……今から大事な海外との会議があったんだ……
だから、その……」
霞は強く拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。
しかし、表情は平静を保ったまま言った。「行ってきて。私は一人で大丈夫だから」
要が車を降りた後、霞は車内のパーティションを上げる。
スマホであるアプリを起動すると、二人のやり取りがはっきりと表示された。
【生理終わったよ。だから、会いに来ても大丈夫だよ!】
【この小悪魔め、待ってろよ】
霞の胸は締め付けられた。要が自分の潔白を証明するために用意したものが、まさか彼の不貞の証拠になるなんて、思いもしなかっただろう。
目にゴミが入ったわけでもないのに、霞の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
しばらくして、霞はかけ慣れている番号に電話をかけた。
「お兄ちゃん、家に帰りたい」
第3話
電話の向こう側からは、兄・小山亮太(こやま りょうた)の喜びを爆発させた声が聞こえた。
「本当か!ならよかったよ、霞。やっと決心してくれたんだな。お父さんとお母さんも、ずっと霞のことを心配してたんだから。何年も待ってたんだぞ、やっと帰ってきてくれるのか」
久しぶりの温かい言葉に、霞は声を詰まらせる。
「こっちのことが片付いたら、すぐに帰るから。これからは家族みんなで、ずっと一緒だよ」
なんだか妹の言葉に違和感を感じ、亮太は心配になった。
「もしかして、要に何かされたのか?もしそうだったら、俺に言ってみろ。俺の妹に何かしてたら、あいつ……絶対タダじゃおかないから」
霞は慌てて亮太を宥める。「お兄ちゃん、私は大丈夫。自分でなんとかするから」
少し声が震えた。「1ヶ月で片付けてみせる」
霞の強い決意を感じ、亮太はそれ以上何も言わなかった。
「わかった。じゃあ、1ヶ月後に迎えに行くから。何かあったらいつでも連絡しろよ」
霞は孤児で、要以外に頼れる人がいないと要は思い込んでいたので、霞を蔑ろにしてもそんなに問題はないと勘違いしていた。
しかし実際は、霞の家族が何年も前に霞を見つけてくれ、家に連れて帰ろうとしていたのだ。当時の霞は、要のためにすべてを断固として拒否していたのだが、今になって考えれば、自分は本当に愚かだったと思う。
電話を切ってしばらくすると、霞はふと思った。1ヶ月後には、もうあの人とは何の関係もなくなるのか……
これからは、本当の家族のもとへ帰り、要の世界からは完全に姿を消す。
霞は要と暮らしていた家に帰ると、これまでの自分の痕跡を消し始めた。
子供の頃に作ったミサンガ、着ていた服、手描きの絵。それらはすべて要が大切に保管し、専用の部屋に飾られていた。
昔は数日おきに彼女をその部屋へ連れてきては思い出に浸っていたのに、今ではすべてが埃をかぶっている。
霞の視線が、洗いすぎて色落ちしているワンピースに止まった。
それは7歳の時、孤児院で初めて要に会った時に着ていた服。その時の要は霞を一目見ただけだったのに、家に連れて帰ると言って聞かなかったのだ。
18歳の時、要は長年大切に保管してきたそのワンピースをバラの形に折りたたみ、その上にダイヤモンドの指輪を置いて、彼女の前に片膝をついた。
「霞、愛してる。お前を初めて見た瞬間、俺は完全に心を奪われたんだ。どうか、永遠にお前のそばにいさせてくれないか?」
しかし、今となっては部屋中にあふれる高価なプレゼントの数々を見ても、霞はただ滑稽に感じるだけだった。
かつて誓った永遠の愛も、結局はただの笑い話に過ぎなかったのだから。
霞はそれらをすべて使用人に運び出させると、まとめて火をつけた。
炎の光が、彼女の青白い顔をぼんやりと照らす。
これまでの思い出が、映画のように目の前を通り過ぎていった。
かつては命がけで自分を守ってくれた少年が、今では別の誰かを愛してしまったと、その口で言っていた。
結婚式で生涯愛するのは一人だけと誓っていた完璧な夫は、自分が死にかけている時に、他の女と体を重ねていた。
それに、新しい恋人を安心させるためなら、自分が一生病気に苦しむことさえ厭わないらしい。
霞の心は、まるで燃え盛る炎に焼かれ、血が滲むほどに傷つけられたかのように痛んだ。
深夜帰宅した要は、がらんとした家の中を見て呆然とした。
「霞、どうしたんだ?急に部屋の雰囲気が変わったな」
「前のにはちょっと飽きちゃって。誰だって、古いものより新しいものの方が好きでしょ?違う?」
霞は皮肉な笑みを浮かべて要を見た。近づかなくても分かる。彼の体から甘いストロベリーのボディソープの匂いが香ってくるのは。
手首には、所有権を主張するかのような口紅の跡までついている。
要は何のことかさっぱり分からなかったが、それでも笑顔で霞を抱きしめた。
「はいはい、お前の言う通りにするよ。お前が好きだって言うなら、何にしたって構わないさ」
「それなら、この契約書にサインして」
霞は要の腕から抜け出し、用意しておいた離婚協議書を渡す。
「これは何だ?」
第4話
「いいリフォーム会社を見つけたの。これ契約書だから、サインしてくれる?」
要は何も疑わず、すぐに名前を書いた。
サインされた離婚協議書を素早くしまい、霞はホッと胸をなでおろす。
「今日は俺たちの記念日だろ?お祝いしに行こう」
霞が断る間もなく、要は彼女の腕を引き外に出た。
霞は抵抗するのをやめた。要がどこまで真実を隠し通せるのか、見てやろうと思ったのだ。
着いてみると、そこは二人が学生の頃に一番好きだったレストランだった。
驚いたことにレストランは10年前の内装のままで、細かいところまで、何もかもが当時と変わっていない。
しかし、思い出に浸る間もなく、見覚えのある姿が目に入った。
夏美。
髪をポニーテールに結び、その店の制服は彼女のしなやかな体のラインを際立たせていた。清純そうでありながら、どこか色っぽい。
ちょうどその時、夏美が酔っ払った客に絡まれた。
霞に気づいたらしい夏美は目をうるませ、わざとらしく慌てたような表情を見せる。
そんな表情の夏美を見た要は思わず、助けようと前に出た。
しかし、霞は手を伸ばして彼を制す。
「どうして彼女がここにいるの?海外に行かせたって言ってなかったっけ?」
「海外生活が合わなかったみたいなんだよ。でも、こっちに戻ってきても仕事がないから、バイトでもしてるんだってさ。でも、心配するな。面倒は起こさないようにって、ちゃんと釘を刺してあるから」
そう早口で言うと、要は霞の返事を待たずに、大股で夏美を助けに向かった。
二人の親密な様子を見て、霞は心臓を鷲掴みにされたかのように、痺れるような痛みを感じた。
ことが落ち着くと、要は振り向きもせず霞の元へ戻ってきた。
そして手慣れた様子で霞に水を注ぎ、料理を取り分けては温度を確かめる。スープを飲ませる時も、フーフーと冷ましてから彼女の口元へと運んだ。その様子に、周りの客も感心して目を細めていた。
店員までもが要の優しさを褒めたたえていたが、霞は何を食べても砂を噛むような味しかしなかった。
要は自分に優しくしているように見せかけて、心はとっくにここにはないのだから。
突然、着信音が鳴ると、要が申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、霞。会社で急用ができたから、ちょっと行かなきゃなんだ」
そう言うや否や、要は慌てて席を立った。
霞はふと思い立って、久しぶりにインスタを開いてみる。
開いた途端、街灯の下で男女が熱いキスを交わしている写真が目に飛び込んできた。
コメント欄は、祝福の言葉の嵐。
【新井社長、超ラブラブじゃん。奥さんがつけてるヘアピン、オークションで数千万円もしたアンティークのやつなんだって。こんな物を私が買えるようになるのはいつの話やら】
【私その場にいたけど、本当に甘すぎてやばかった。美男美女ってだけで目立つよね。しかも、すっごい長いキスしてたの!色気が凄すぎて、見てるだけでこっちがどうにかなっちゃいそうだったよ】
【まじ幸せそう。新井社長ってイケメンでお金持ちで、彼女を溺愛してるなんて。ベッドでもすごそう。前にホテルに泊まった時は、一晩で何箱も使ったって噂だよ。それで、翌朝奥さんは抱っこされて出てきたんだって】
コメント欄にはさらに様々な写真が投稿されていて、まるで二人の日常を覗き見しているかのようだった。
要が膝をついて夏美に靴を履かせている写真や、深夜に屋台で一緒に串焼きを食べている写真。
夏美の口元にタレがついていると、要はキスでそれを拭い、愛に溢れた表情を向ける。
いつもは子供っぽいと言っているジェットコースターやメリーゴーランドも、夏美と一緒なら楽しそうに遊園地で乗っていた。
……
何万件ものコメントを一つ一つスクロールしていくうちに、霞は目の前が暗くなるのを感じた。
体は強張り、顔からすうっと血の気が引いていく。
まさかこんなにも前からだったなんて。自分が愛されていると信じ込んでいた頃から、永遠の愛を誓ってくれた男は、別の女と色んな所へ出かけていたのだ。
昼も夜も求め合い、愛を囁き合っていたのなら、要が夏美から離れられないのも当然のことだろう。
気づけば霞の頬は涙で濡れていた。霞は逃げるようにトイレへ駆け込み、崩れた化粧を直そうとした。
しかし、直そうとすればするほど、涙の跡は増えるばかりで、一向に綺麗にならなかった。
極限の悲しみを感じると、涙は止められないものなのだと思い知った。
なんとか気持ちを落ち着かていると、どこからか、か細い喘ぎ声が聞こえてきた。
声のする物置の方まで歩いていくと、霞の体は一瞬で凍りついた。
ドアの隙間から、要が服の乱れた夏美を壁に押しつけているのが見えたのだった。
要の声は掠れている。
「なんでこんなところに来たんだ?俺の嫁にそっくりな顔で、ウェイトレスなんかして、ん?」
第5話
罰を与えるかのように、夏美に激しく腰を打ちつける。その目元には、霞が今まで見たことのない悦びと満足感が浮かんでいた。
夏美は唇を軽く噛み、妖艶な声で答える。
「ねぇ、制服ってそそるでしょ?外にだってあんなに人がいる……興奮しない?」
要は低く笑うと、夏美の柔らかな体に手を添わせた。
「お前のその格好、たまらない。このままお前の中で果てたいくらいにな」
「そんなことばっか言って……」夏美は甘えるように彼の耳を噛む。
「どうせ霞さんのベッドでも、同じこと言ってるんでしょ?」
「やきもちか?」要はからかうように言った。
「俺をこんなに興奮させられるのは、お前だけだ。お前じゃなきゃ、俺は満足できないんだから」
要は夏美の顎を持ち上げると、指の腹でみずみずしい唇をなぞった。
「あいつには一度も触れていない。確かめてみるか?」
すると二人はすぐに体勢を変え、2戦目を始めた。
彼らの甘い喘ぎ声を聞きながら、霞の心は引き裂かれるような痛みを感じていた。
ずっと、要は自分の体を気遣ってくれているのだと思っていた。でも、本当はただ、自分と肌を重ねるのが嫌だっただけなのだ。
霞は力なくその場にへたり込んだ。息が詰まるほどの絶望感に、内臓が抉られるように熱い。
なんとか気持ちを落ち着けて席に戻ると、要が涼しい顔で人だかりの中に立っているのが見えた。
少し離れたところにいる夏美は、うっとりした目つきで、顔をほてらせていた。
要はダイヤモンドのネックレスを手に片膝を地面につける。
「霞、愛してる。この輝くダイヤモンドに、俺たちの永遠の愛を誓わせてほしい」
周りの人たちが囃し立てる。しかし、霞の心は少しも動かなかった。なぜなら、さっきまでこの男は別の女の体の上で、自分には興味がないと言っていたのだから。
それなのに今は、公の面前で自分だけを愛しているなんて芝居をうっている。
なんて皮肉なんだろう。
どうやってこの場を乗り切ろうかと苛立っていると、夏美が目をうるませながら近づいてきて、霞にバラの花を差し出した。
さっきの吐き気を催すような光景を思い出し、霞は思わず後ずさった。
しかし、その拍子に足元の床板がぐらりと傾いき、霞は反射的に目の前にいた夏美に掴みかかってしまった。
悲鳴が響き渡る中、二人はもつれ合うように階段を転げ落ちた。
霞は地面に強く体を打ち付けられた。全身を突き抜けるような痛みに、しばらく言葉が出なかった。
霞が目を開けると、要が躊躇うことなく夏美に駆け寄り、腕の中に抱き抱えていた。
「怪我は?」
「ふくらはぎが……ううん、大丈夫」夏美は震える声で答えた。
「要さん、霞さんを責めないであげてね。たまたまこうなっちゃっただけなんだから」
その言葉が終わるや否や、要が霞に向ける視線が急に冷たくなった。
「霞、最初に言っただろ。彼女とは偶然会っただけだって。くだらない嫉妬に狂うから、結局、自分も周りも傷つけることになるんだ」
要は夏美を横抱きにすると、地面に倒れている霞に目を向けた。
要の目には一瞬、躊躇いの色が浮かんだが、腕の中の女を見た瞬間、もう振り返ることもなく去って行った。
愛と永遠を誓ったはずのダイヤモンドのネックレスが、ゴミのように地面に転がっている。その輝きもすっかり色あせていた。
バラの花は踏みにじられて泥だらけになり、さっきまでの豪華で温かいサプライズ会場は、まるで廃墟のように変わり果てていた。
霞はなんとか体を起こし、足を引きずりながら、この屈辱的な場所から抜け出す。
要に電話をかけたが、一向につながる気配はなかった。
結局、親切な中年夫婦が、霞を病院まで送ってくれた。
この中年夫婦の奥さんは、思ったことをすぐに口にする人だった。
「こんなひどい怪我なのに、一人なんて危ないじゃない。旦那さんはどうしたの?ついてきてくれなかったの?」
霞は黙って結婚指輪を外すと、悲しそうな声で言った。「彼は……もう、亡くなったんです」
入院中の数日間、霞は毎日、看護師たちの会話から要らの近況を知ることになった。
「本当羨ましい。怪我をした奥さんのために、新井社長はすぐに全国の専門家を呼び集めたんだって」
「それだけじゃないよ。寝ずに看病して、食事やトイレの世話、薬の交換まで、全部つきっきりでやってるんだって。まさに理想の夫だよね」
本物の妻である霞は、苦々しい思いでいっぱいだった。夏美が自分の名前をかたって、堂々と愛をひけらかしているなんて。
本当に笑わせてくれる。
霞は拳を強く握りしめた。爪が手のひらに深く食い込む。
昔、霞が顔に怪我をして落ち込んでいた時、要は自分を慰めるために、彼自身の顔が腫れ上がるまで殴ったこともあったのに。
自分が歯の痛みで眠れない夜は、要も徹夜で付き合ってくれて、物語を話してくれたり、冗談を言ったりして笑わせてくれた。
かつて、ありったけの優しさと愛を自分にだけ注いでくれた人。その人は今、その特別なものを、他の女に与えている。
霞はポケットから指輪を取り出すと、排水口に投げ捨てた。
もう、こんな汚れた結婚生活なんていらない。
第6話
それから間も無くして、霞の元に友達申請が届いた。
承認した途端、その相手からは要とのラブラブなやり取りが、何百件も送りつけられてきた。
夏美の気晴らしのためだけに、要は大事な契約を断り、映画や食事に付き添ったり、夏美が隣の市のスイーツが食べたいと何気なく言っただけで、要は夏美の笑顔のためだけに、車を何百キロも走らせて買いに行ったりしているようだ。
さらには、夏美のために自らキッチンに立って料理をし、手にやけどをしても、まったく気にしないらしい。
夏美が要のUSBを排水溝に落としてしまい、数百億円ものプロジェクトを台無しにした時だって、ベッドに押し倒して三日三晩ひどいことをしただけだった。
……
退院の日、霞が足を引きずりながら病院から出ると、すぐに要が駆け寄ってきた。
「霞、この間はわざと怒鳴ったり、置き去りにしたわけじゃないんだ。大勢の人が見てたし、夏美はお前のせいで怪我したからさ。あそこで夏美を放っておいたら、会社に悪影響が……」
霞は心の中で冷たく笑ったが、落ち着いた声で「大丈夫。仕事が大事なのはわかってるから」とだけ言った。
その言葉を聞いて、要はすっかり安心したようだった。
「お腹すいただろ。お前が行きたがってた、あの湖畔にあるレストランに行こう」
霞はこれ以上彼と関わりたくなかったが、結局は上手く言いくるめられ、無理やり車に乗せられてしまった。
ドアを開けると、自分の指定席であるはずの助手席に夏美が座っていた。
「霞さん……」夏美が霞の機嫌を伺うように、おそるおそる声をかけてきた。
要は思わず夏美を庇うように言い訳を始める。
「この前のことを夏美がずっと気にしててさ。俺たちの関係にひびが入いったら嫌だから、食事に誘ってお詫びしたいんだって」
必死に夏美をかばう要の姿は、ひどく滑稽に見えた。
結局、霞は何も言わず、静かに後部座席に乗り込んだ。
席に着くとすぐ、要は手慣れた様子でたくさんの料理を注文し始めた。
煮込みハンバーグに豚の角煮、それに麻婆豆腐。案の定、すべて夏美の好物ばかりだった。
霞の体では、油や塩分の多い食べ物は口にできない。要はそのことをずっと覚えていてくれたはずなのに、今ではすっかり忘れてしまったようだ。
立ちのぼる油の匂いで息が苦しくなり、霞は急いで席を外した。
新鮮な空気を吸い込むと、少しだけ不快感が和らぐ。
しかしそれも束の間、夏美が指をもじもじさせながら近づいてきて、気まずそうに口を開いた。
「霞さん。もしかして私のこと嫌いですか?なんだか、すごく冷たい気がして……」
「そんなことないわ。私はもともとこういう性格なの」霞は、なんとか笑顔を作った。
真実を知った今、夏美に対する憎しみはもうなく、心には虚しさだけが広がっていた。
すると夏美はぱっと顔を輝かせ、プラスチックビーズでできたお揃いのブレスレットを取り出して、霞の腕につけようとした。
「安心しました。私、嫌われてるのかと思っていました。
これ、私が作ったんですけど、お揃いなんですよ。気に入ってくれると嬉しいです」
しかし、その瞬間さっきの鼻をつく油の匂いが霞を襲う。
霞はとっさに身を引いた。その瞬間、振り払われたブレスレットが湖に落ちてしまった。
夏美はたちまち目を赤くする。
「霞さん、謝罪を受け入れてくれないのは全然気にしませんが、どうしてプレゼントまで捨てるんですか」
いつの間にか背後に立っていた要の顔は、氷のように冷え切っている。
「何をまた騒いでいるんだ?」
霞はとっさに言い返す。「違う、私はそんな……」
要は眉を顰めた。
「お前が無くしたんだろ。だったら自分で拾ってこい」
後ろにある湖は、岸に立っているだけで凍えるほど寒かった。
しかし、断る間もなく、霞は冷たい湖の中へと突き落とされた。
湖はそれほど深くなく、水は腰のあたりまでしかないし、それに夏だから、水もそこまで冷たいわけではなかった。
だが、彼女の体では冷たい水に触れることさえかなり厳しい物だった。だから、水の中に一秒いるだけ、それは拷問のように過酷なのだ。
すぐに霞の体はふらつき、今にも倒れそうになる。
なんとか岸までたどり着いたものの、ボディーガードに止められて上がらせてもらえなかった。
「社長のご命令です。橋本さんのブレスレットが見つかるまで、上がるな、と」
一人で湖に立ち尽くす霞は、胸が張り裂けるような思いだった。
霞は何度も息を止めては湖の底に潜り、2時間もかけてようやくブレスレットを見つけ出した。
その時の霞の顔は青ざめ、全身は焼けつくように熱く、今にも風に散ってしまいそうなほど儚かった。
その時、夏美を抱きかかえて出てくる要の姿が霞の目に映った。
「要さん、私は本当に大丈夫だよ。ちょっと擦りむいただけだから、平気……」
「だめだ、ちゃんと病院で診てもらおう。そうしないと俺が安心できないから」要の声には、明らかに焦りがにじんでいる。
要は夏美をそっと助手席に乗せると、エンジンをかけて走り去っていった。
最初から最後まで、視線を一度も霞に向けずに……
霞はふと昔のことを思い出した。
彼の家に引き取られて2年目のこと。要に動物園へ連れて行ってもらった時、暴れ出した動物が襲いかかってきた。
その時、要は躊躇うことなく自分の前に立ちはだかってくれた。
「大丈夫だよ、霞。俺がずっと守ってあげるから」
しかし今、彼が守ろうとしているのは、もう自分ではない。
心の中で張り詰めていた最後の糸が切れ、霞は力なく後ろに倒れた。
結局、また親切な通行人が霞を病院に運んでくれた。
……
病院に着いて分かったのだが、すべての医師が夏美の傷の処置のために呼び出されているというのだ。
その様子を見た看護師が、不憫に思ったのか声をかけてきた。
「申し訳ありません。医師は全員、新井社長の奥さんの診察にあたっておりまして……もしあれでしたら、新井社長に電話して先生を一人こちらに回してもらうようお願いしてみてはどうでしょうか?」
以前は、霞が少しでも体調を崩せば、要はどんなことよりも優先して、そばにいてくれたのに。
しかし今、要の愛情は全て、他の誰かに向けられている。
霞は十数回電話をかけたが、要が出ることはなかった。
絶望の淵で、霞は親友・木下陽菜(きのした ひな)の父親が退職したばかりの内科医だったことを思い出した。
「陽菜、私……」霞は声を振り絞る。「あなたのお父さんを連れてきてもらえないかな?早く……手術して……もう、だめ……」
そう言うと、霞は意識を失った。
再び目を覚ました時、手術はすでに終わっていた。
陽菜が心配そうに、泣きながらベッドのそばに座っている。「最近のこと、聞いたよ。要ってひどすぎるでしょ。人の心変わりって、どうしてこうも早いんだろ?」
霞は陽菜を見て、虚しい気持ちになりながらも声をかけた。
「泣かないで。もう踏ん切りはついたから」
しばらくして、泣き止んだ陽菜が尋ねてきた。「本当にいいの?外国に行って、もう二度と帰ってこなくて……」
「うん。もう二度と帰ってこないよ」
その時、要が突然現れた。要の声は、これまでにないほど狼狽していた。
「誰が二度と帰ってこないって?」
第7話
その声はひどく冷たくて、陽菜は思わず体を震わせた。彼女の言葉を遮るように、霞が口を開く。
「陽菜が海外に移住するの。もう国内には戻ってこないつもりなんだって」
そう聞いた途端、要の険しい顔つきがふっと和らいだ。
それどころか、次の食事会の計画を嬉しそうに立て始め、霞の顔が真っ青なことには、全く気づいていない。
しかし、霞はあえて何も言わなかった。こうすれば、要はまた後ろめたさを感じることなく、夏美と会えるのだから。
要は身を屈め霞の額にキスをし、反省するような口調で言った。
「霞、さっきはごめん。焦ってて、お前のこと考えてやれなかった。もう機嫌を治してくれるか?」
自分が夏美を気にかけたばかりに、霞は怒ったのだと要は思っていた。
霞は自嘲気味に笑ったが、まだ何も言わずにいた。
すると突然、大きな着信音が鳴り響く。要が通話ボタンを押すと、霞にも夏美の声が微かに聞こえてきた。
「要さん、どこにいるの?すごく痛い。
そうだ、要さんにいい知らせがあるの。私、妊娠してたみたい。要さんはパパになるんだよ」
要はすぐさま顔色を変え、複雑な表情で霞の方を振り返る。
「霞、会社で急用ができた。それが終わったらまた顔を出しに来るよ。いいかな?」
そう言うと、要は足早に去っていった。
すると何を思ったのか、霞は何かに操られるように要の後を追いかけた。
病室では、夏美がベッドの上で幸せそうに自分のお腹を撫でていた。
興奮した様子の要は、夏美のお腹に耳をあてている。
「パパだよ、分かるかな?いい子にしてるんだぞ。ママを困らせちゃだめだからな」
傍では、要の母親・新井洋子(あらい ようこ)が夏美の口に入るものを一つ一つ、念入りにチェックしていた。
栄養士や産後ケアの専門家も、夏美のために念入りに選んでいるようだ。
霞は爪が肉に食い込むほど、強く手のひらを握りしめる。
そうだったのか……みんな、夏美の存在を知っていたのだ。何も知らなかったのは、自分だけだったなんて。
その場を離れようとした時、夏美がドアの外にいた霞に気づいた。
「あら、霞さん。どうしてこんな所に?」
その言葉に、その場にいた全員が唖然とした。
複雑な表情を浮かべた要は、「霞。彼女が妊娠したのは、本当に予想外のことなんだ。信じてくれ」と言う。
しかし、真実を知ったことで、霞はかえって気が楽になった。
これで、少なくとも二人の関係は、きれいさっぱり終わりにできる。
霞の青ざめた顔を見て、要は口調を和らげた。
「霞、俺が愛してるのはお前だけだから。この子を認知するのは、仕方のないことなんだ……俺の気持ち、分かってくれるよな?
それに、お前がこの子の母親になるんだ。夏美に産ませたら、金を渡して縁を切るから」
すると背後で突然、何かが割れる音がした。
夏美は信じられないという顔で、さっきまで愛を囁いていた男を見つめ、泣きながら走り去っていく。
要は迷わず夏美を追いかけた。そして、慌てたのか霞にぶつかり、霞は突き飛ばされた。
「きゃっ――」
割れた破片が、深く肌に突き刺さる。霞は痛みで体を強張らせたが、それでも要は足を止めなかった。
結局、またもや親切な通りすがりの人が霞を助け起こし、病室まで連れて行ってくれた。傷の手当てが終わった時、霞のスマホに突然動画が送られてきた。
動画の中では、要が腕の中の女と夢中でキスを交わしている。
「この薄情者!」
夏美が目を真っ赤にしながら、要を突き放した。
「霞は心臓が悪いから、刺激しちゃいけないんだ。さっき言ったのは、ただその場しのぎだ。
霞にはどこかから別の赤ちゃんでも見つけてきて育てさせる。お前たち親子を引き離したりは、絶対にしないから」
要は夏美の顔にのこる涙の跡を、優しくキスで拭う。
「これからも俺のそばにいてくれ。家族三人、ずっと一緒だ」
要の言葉に、夏美はくすりと笑った。しかし、まだ甘えるように拗ねた声で言った。
「じゃあ、私のこと愛してるって言って?」
第8話
要も口の端を上げて、優しく笑う。
「馬鹿だな。愛してなかったら、毎日お前とあんな気持ちいいことするわけないだろ?
それに、もしお前を愛してなかったら、どんな時も迷わずお前を選ぶわけないじゃないか」
……
動画はまだ再生されている。しかし、霞は涙を流しながらも、それを止めることはできなかった。
霞がスマホを思い切り投げると、画面はクモの巣のようにひび割れた。
唇を強く噛みしめる。
そして、涙を流しながら笑った。
動画の言葉一つひとつが、ナイフのように霞の胸に突き刺さる。
次に目を覚ました時、霞は家のベッドに寝かされていた。
全身に力が入らず、少し動いただけでも引き裂かれるように痛い。すると、頭上から要の優しい声が聞こえてきた。
「霞、目が覚めたのか。さあ、このスープを飲んで」
要の目は心配の色で満ちている。
「どうしてこんなに痩せてしまったんだ?」
霞は要を視界に入れることさえしたくなかった。その時、突然ドアが乱暴に開けられる。
使用人が慌てた様子で言った。「外の雷が怖いようで、橋本さんが泣きながら旦那様を呼んでいるのですが……」
その言葉を聞くや否や、要は慌ててスープの皿を置くと、一度も霞の方を振り返らずに部屋を出ていった。
要はどうやら忘れているようだ。霞も雷が大の苦手だということを……
外では稲妻が光り、雷が鳴り響いている。霞は布団の中で震えていたが、何だか熱っぽくなってきたため、水を飲もうと階下へ降りた。
要の部屋を通りかかると、中からは甘い喘ぎ声が聞こえてきた。
夏美の声は、男を惑わすように甘い。
「これからはあの女と距離を置いてくれる?じゃないと、私……やきもち焼いちゃうもん」
男の掠れた声が続く。
「分かった。お前がいい子でいてくれるなら、なんだって聞いてやるさ」
翌日、まだ衰弱していた霞だったが、使用人に無理やり起こされ、夏美の誕生日パーティーに参加させられた。
内輪だけの簡単なパーティーだったけど、とても気配りがされているものだと見てとれた。
参加者達が夏美に豪華なプレゼントを贈る。要は手ぶらの霞を見て、フォローしようと口を開きかけたが、霞がすっと立ち上がり、腕にはめていたブレスレットを外した。それは洋子から譲り受けた、家に代々伝わる真珠のブレスレット。しかし、霞はそれを夏美の前に差し出した。
「あなたと赤ちゃんが、健やかであることを願っているわ」
要は何だか違和感を感じたが、特に気にはしなかった。
スープを飲ませてやったり、エビの殻をむいてやったりなど、要は至れり尽くせり夏美の世話を焼いていた。
霞は部屋の隅に立ち、その光景を静かに見ていた。
本来であれば、胸が締め付けられるはずなのに、心はとっくに麻痺していて、目の前にいるのが、長年愛した夫ではないかのように感じられるのだった。
パーティーは深夜まで続いた。すでに体力の限界だった霞は薬を取りに部屋へ戻ったのだが、夏美がそっと後をつけてきていた。
夏美は手にした真珠のブレスレットをもてあそびながら、得意げな口調で話し出す。
「霞さん、あなたも見たでしょう?要さんはもうあなたを愛していないんです。さっさと元の兄妹みたいな関係に戻ったらいいんですよ。そうしたら、これ以上みじめな思いをしなくてもいいじゃないですか」
霞は、目の前で幸せそうな顔をしている女を静かに見つめた。「時が来たら、私の方から出ていくつもりだから」
しかし、その言葉の意味を誤解した夏美は、憎しみを込めた目で霞を睨みつける。
そしてドアの外の足音に気づくと、夏美はとっさにナッツを掴み、口に詰め込んだ。
そして被害者面をする。
「私が嫌いなのは分かりますが、私のお腹には要さんの赤ちゃんがいるんです。なのに……どうして無理やりナッツを食べさせようとするんですか?私がナッツアレルギーだって、知っているのに!」
すると、ドアが勢いよく蹴り開けられた。凍てつくように冷い顔をした要が立っている。
要は手に持っていた食事を床に叩きつけた。
割れた陶器の破片が霞の肌に突き刺さり、血が流れた。しかし霞は痛みを感じていないようで、無表情のまま。
「霞、お前がこんなにひどい女だとは思わなかったよ。
夏美はもう十分に大人な対応をしてくれているのに。名前も金もいらない、ただ俺との子供を産みたいだけなんだよ。なのに、お前はまだ彼女にこんな仕打ちをするのか?」
その瞬間、霞の胸に突然激痛が走った。霞は痛みのあまり冷や汗を流しながら、よろめく体でテーブルの上の薬瓶に駆け寄る。
しかし、蓋を開けようとした瞬間、要にひったくられた。
霞は胸を押さえながら懇願する。「お願い……その薬を返して」
「芝居はやめろ。もうずいぶん薬も飲んでないくせに。何かしくじるたびに、病気を言い訳にしやがって」
要が冷たい顔で、薬瓶を窓の外へ投げ捨てた。
そしてそのまま夏美を抱きかかえ、振り返りもせずに部屋を出ていった。
「こいつが自分の過ちを認めるまで、部屋から出すな」
去っていく男の後ろ姿を見ながら、霞は目を閉じた。涙が静かに頬を伝っていく。
それからの数日間、霞は死ぬほど辛い思いをした。
まるで冷たい大きな手に心臓を無慈悲に握りつぶされ、引き裂かれるような感覚。
そんな長く続く痛みの中、霞は意識を失ったり、取り戻したりを繰り返した。
夜が明け始めた頃、霞は再び目を覚ました。まるで水から揚げられた魚のように、全く生気が感じられない。
その時、スマホに役所からの通知が届いた。
【新井さん、離婚届が受理されましたのでお知らせします。また、その他の必要な書類もございますので、営業時間内に役所までお越しください】
メッセージを見た途端、涙がどっと溢れ出す。
やっと、もうすぐ終われるんだ。
外ではたくさんの人が賑やかに旅行の準備をしていた。霞はまるでこの部屋の隅に忘れ去られたようで、いくらドアを叩いても叫んでも、誰も気づいてくれなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。世界は静まり返り、最後の光さえも消え去ってしまったかのようだった。
霞は最後の力を振り絞り、かけ慣れた番号に電話をかける。
「お兄ちゃん……助けて……」か細い声でそう言うと、相手の返事を待たずに再び意識を失った。
それからしばらくすると、ヘリコプターの轟音が響き渡り、あっという間に家を包囲する。
そして、すぐに亮太がドアを破って入ってきた。
床に倒れて意識を失っている霞を見て、亮太は胸が締め付けられた。
「行こう、霞。家に連れて帰ってやるからな」
意識を取り戻した霞は、亮太の袖を掴んで懇願する。
「待って。まだやらなきゃいけないことが二つあるの」
霞は何人かに付き添ってもらいながら役所へ行き、念願の全ての離婚手続きを終えた。その後、霞はカジノへと向かい、マネージャーが信じられないといった顔で見つめる中、莫大な賞金を受け取ったのだ。
カジノから出ると、外は快晴だった。
そして、霞は振り返ることなくプライベートジェットに乗り込み、人生の半分を過ごしてきたこの街を去った。
さようなら、自分の馬鹿げた半生。
さようなら、要。