これが、妻が選んだ家族か

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これが、妻が選んだ家族か

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妻の幼なじみが、子どもを連れて帰国した。 彼の体面と、その子の将来を守るために、妻は自分がその子の母親だと言い張った。 その代わりに、...

Chương (1)

第1章

妻の幼なじみが、子どもを連れて帰国した。 彼の体面と、その子の将来を守るために、妻は自分がその子の母親だと言い張った。 その代わりに、僕たちの子どもは、僕が外で女を作ってもうけた、ろくでもない私生児だと蔑まれることになった。 取り乱して、問いただす僕に、彼女はどこまでも冷静だった。 「恒一(こういち)は、ずっと家族に恵まれずに生きてきたの。 彼の子には、母親が必要よ。 だから私が、あの二人を支えなきゃいけないの」 その言葉を聞いた瞬間、七年間愛し続けた女の姿が、ひどく遠く感じられた。 そして僕は、もう二度と彼女を愛すまいと心に決めた。 第1話 妻の沢村文香(さわむら ふみか)が、三日後に幼なじみの高橋恒一(たかはし こういち)と旅行へ出かけるつもりだと知った。 恒一の子こそが、自分の実の息子だと周囲に印象づけるために。 僕は義母に電話をかけた。 「お義母さん。離婚したいです」 受話器の向こうで、義母は小さくため息をついた。 「……文香が、あなたに申し訳ないことをしたわね」 ある日突然、文香が外に向かって、デタラメな噂を流し始めた。 僕たちの子どもを、僕が外で不貞を働いてもうけた私生児だと言い張った。そして、僕がその子を家に連れ帰って無理やり彼女に育てさせているのだと。 僕たちは、この七年でいちばん激しい口論をした。 それだけでなく、僕が子どもを連れて出て行こうとすると、彼女は人を使って僕を別荘に閉じ込めた。 子どもを健診に連れて行くときでさえ、背後には十人以上のボディガードがついてくる。 彼女は言った。 「この子は私たちの子よ。 手放せるわけがないでしょう」 ――ちゃんと分かっているくせに。 なんて皮肉だろう。彼女の偽りの言葉ひとつで、僕とこの子の人生は壊された。 僕たちの子こそが、彼女の本当の子で、恒一の子のほうこそ、素性の知らない子だということを、彼女は知っているはずなのに。 眠っている子どものやわらかな頬に触れながら、僕は思った。 これが最後の機会なのだと。 幼い頃から母親の愛情を知らずに育つことを思えば、不憫でならない。 それでも、生まれたばかりのこの子に、他人のために心ない言葉を浴びせられるような人生を背負わせたくはなかった。 僕の手のぬくもりを感じたのか、子どもが小さく身じろぎした。 眠ったまま、ふっと笑みを浮かべる。 まるで、つらい気持ちを見透かして、僕を慰めてくれているようだった。 その瞬間、涙がこぼれた。 僕はそっと手を引き、立ち上がってベランダへ向かった。 「ごめんな。こんな父さんで」 ようやく気持ちを落ち着かせた頃、別荘の扉が外から開いた。 文香は僕の前まで来ると、少し赤くなった目元を見て、淡々と言った。 「子どもの前でそんな顔をしないで。笑っていて」 簡単に言ってくれる。 もし自分の感情を思いどおりにできるのなら、僕は最初から目の前のこの女を愛したりしなかった。 彼女の心の中にはずっと恒一の存在があったことも、彼女が僕に向けていたものは本当の愛ではなかったことも……僕は最初から分かっていたのに。 深く愛した相手ほど、いちばん深く人を傷つける。 「これだけ僕を傷つけておいて、閉じ込めて、自由まで奪っておいて―― どうして、悲しむことすら許されないんだ?」 彼女はただ僕を見つめていた。どこか後ろめたそうな表情を浮かべながらも、何ひとつ言葉にできない。 数か月前のことを思い出す。 彼女が子どもを産んで間もない頃、僕は息子を予防接種に連れて行った。 そこで偶然、恒一の子を連れて予防接種に来ていた文香と鉢合わせた。 彼女はその子を大事そうに抱き、少しも目を離そうとしなかった。 どこかにぶつけはしないか、痛い思いをさせはしないかと、細やかに気を配っていた。 「沢村さん、この子、本当にあなたにそっくりですね」 その言葉に、文香の表情がふっと和らいだ。恒一は彼女の手を取り、子どもの小さな頭にそっと触れさせる。 次の瞬間、彼女は顔を上げ、曲がり角に立っていた僕を見つけた。 けれど、何ひとつ言い訳もしなかった。 ただ呆然と、その場に立ち尽くすだけだった。 なんて幸せそうな三人家族なのだろう。 もし僕が文香の夫でなかったなら、きっと心から羨ましいと言えたはずだ。 だが、僕には言えない。 そして彼女にも、その言葉を受け止める資格はなかった。 目の前の女はしばらく黙り込んだあと、ようやく何かを思い出したように―― 第2話 彼女は取り繕うように、そっけなく言った。 「明日はあなたの誕生日でしょう。 お祝いの席を用意するわ。 それから、お母さんが子どもの面倒を見るために帰国するって言ってたの。 子どもを見てくれる人がいれば、私も安心できるし」 ――安心できる、か。 恒一と一緒に海外旅行へ行って、何か月も戻らずにいられるからだろう。 けれど彼女は知らない。ずっと海外で穏やかな老後を過ごしていた両親が、なぜ急に帰国することになったのかを。 そして、自分が僕にしてきた人でなしの仕打ちを、両親がすべて知っていることも。 僕は冷たく笑ったが、反対はしなかった。 義母に帰国を頼んだのは、僕だ。 今の自分ひとりでは、文香の手のひらから逃げ出すことなど到底できないと、分かっていたからだ。 僕が何も言わないのを見て、彼女はどこか愛情のこもった目で僕を見つめた。 「直哉、私はあなたを愛してるわ。 恒一のことが落ち着いたら、必ずあなたのところへ戻るわ」 そんな言葉は、僕は一ミリも信じてない。 たとえ今この瞬間、彼女が本気でそう思っていたとしても。 恒一がひと言口にすれば、彼女は僕への約束など何のためらいもなく捨てるだろう。 だから、もう二度と彼女の言葉を信じることはない。 あと三日。 そうすれば彼女は、ようやく僕から完全に自由になり、何の気兼ねもなく、恒一の子の母親として生きていけるのだろう。 その夜、文香は家に帰ってこなかった。 恒一が、子どもが少し風邪気味だと言っただけで、彼女はすぐに理由をつけて会いに行ったのだ。 四年の交際を経て結婚して三年。 僕はずっと、文香は自分を愛しているのだと思っていた。 けれど恒一が帰って、彼女が別の子どもに惜しみない愛情を注ぐようになってから、まるで何もかもが一変してしまった。 かつては少なくとも僕を愛していたはずの妻が、今では心を奪われたように、別の男のために尽くしている。 僕は陽の差さない檻のようなこの家に閉じ込められたまま、少しずつ、彼女への愛を削り取られていった。 失望は積もり積もって、やがて何も残らなくなった。 だからもう、離れるべき時なのだ。 翌日の誕生日の席には、一緒に行くと文香は電話で言っていた。 だが、いざ家を出ると、門の前にいたのはボディガードの車だけだった。 「直哉(なおや)、こっちで少し片づけなきゃいけないことがあるの。 先に行っていて。私もあとで向かうから」 もともと期待などしていなかった。ならば、失望する理由もない。 真冬の風が鎌のように頬を切りつけていく。それでも、痛みは少しも感じなかった。 文香への気持ちも同じだ。 失望が絶望に変わったその先では、もはやどんな傷も、僕を痛めることはできなくなった。 車はひとつのクラブの前で止まった。 僕は眉をひそめたが、それでも車を降りた。 ボディガードに先導されて個室へ入る。 だが、そこにいる人間に見覚えはひとりもなかった。 向けられる視線はどれも異様で、まるで僕の内側まで見透かそうとするようだった。 その奥にあるのは、あからさまな嘲りと軽蔑。 まるで僕が汚らわしいものにでもなったかのように、皆、遠巻きにこちらを見ていた。 「浮気しておいて、まだ文香に誕生日まで祝ってもらう気なの?」 「文香も気の毒よね。外でつくった子まで押しつけられて」 「文香も、こんな男のどこがよかったのかしら。高橋さんの足元にも及ばないのに」 わざと聞かせるような声量だった。 これが、文香のやり方だ。 恒一の子に母親がいないままなのを、彼女は見ていられない。 そのくせ、僕と子どもが彼らのせいで受けてきた傷が、恒一の何倍、何十倍にもなることには、思い至りもしない。 自分ひとりなら耐えられる。 だが、自分の子どもがこんなふうに大勢から指をさされることだけは、どうしても耐えられなかった。 僕は立ち上がり、この場を去ろうとした。 どうせこの誕生日の席に、居場所など最初からなかったのだ。 だが、個室の扉を開けた瞬間―― そこには文香と恒一が立っていた。 ひとりは後ろめたさに目をそらし、もうひとりは、思惑どおりにことが運んだとでも言いたげに笑っていた。 第3話 二人が店の前にいて、すべて聞いていただろう。 個室の中で、僕がどんなふうに罵られ、どんなふうに笑いものにされていたのかを。 それなのに文香は、何ひとつ口を挟まなかった。 ただ、恒一が再び僕を中へ引き戻すのを、黙って見ていただけだった。 「主役が先に来てたなんて、ごめんね。子どもが心配で、ベビーシッターが寝かしつけるのを待ってからじゃないと来られなくて。俺がタクシーだとつらいだろうって、文香はわざわざ迎えに来てくれたんだ」 恒一は得意げに文香を抱き寄せ、それから僕を見た。 まるで、お前は彼女の夫だから何だ、そう言いたげに。 その言葉に、周囲から囃し立てる声が上がる。 「昔から文香は、恒一のことだけは特別だったもんな」 「子どもがもう少し大きくなったら、ちゃんと招待しろよ。祝い酒くらい飲ませてくれ」 祝福めいた声が飛び交うなかで、誰もかもが忘れているようだった。 僕がまだ文香の夫であることを。 そして、ここが婚約の席でも何でもないことを。 これは本来、文香が埋め合わせのつもりで用意した、僕の誕生日会だったが、その場に並ぶ顔を見ているうちに、込み上げる吐き気を抑えきれなくなった。 立ち上がって出ようとしたそのとき、なぜか文香の目がこちらを向き、彼女は眉をひそめ、冷たく言った。 「あなたの誕生日会なのよ。あなたが先に帰ってどうするの。お腹の調子が悪いだけでしょう。少し我慢すれば治るわ」 けれど次の瞬間、恒一がひとつ咳払いをしただけで、彼女はたちまち顔色を変え、慌てて彼を座らせた。 水を注ぎ、そのまま手ずから飲ませる。 周囲からまた囃し立てる声が上がり、僕はそっと目を閉じた。 僕の誕生日会は、いつの間にか、文香と恒一が仲睦まじさを見せつけるための場に変わっていた。 二人はまるで本当の夫婦のように、共通の友人たちと笑い合い、楽しげに言葉を交わしている。 その一方で、僕は隅に置き去りにされ、誕生日につきもののケーキすら、用意されていない。 なんと滑稽で、馬鹿げた話だろう。 これが、文香が僕のために用意した誕生日会だった。 怒りを必死にのみ込み、胸の内の苦さごと、腹の底へ押し込める。 彼女とはあと二日なのだから、彼らを祝ってやるべきなのかもしれない。 二日後には、僕は完全に彼女の前からいなくなり、夫という立場も、彼女が本当に大事にしているその人に譲ればいい。 そしてあの夜、僕は帰らなかった。 ただひとり隅に座ったまま、この滑稽な誕生日会が終わるまで見届けた。 お開きになるころになって、ようやく文香は隅にいた僕に気づき、自分が送っていくと言い出した。 彼女は間違いなく僕の妻なのに、その態度を見ていると、僕たちの家をまるで自分の家だとは思っていないかのようだった。 彼女が言い終えるより先に、あとから来た恒一がその腰に手を回した。 「文香、俺疲れた。早く帰って休みたい」 文香は、いとおしむように彼の頬をつまむ。 「昨日も子どもの世話で、ちゃんと眠れなかったの?じゃあ先に帰りましょう」 彼女は恒一の手を引いて去っていき、僕だけがまたボディーガードの車に乗るしかなかった。 まるで、道化になった気分だった。 そっと頬に触れてみたが、流れると思っていた涙は、とうとうこぼれなかった。 痛みが極まると、本当に何も感じなくなるのだ。 そこまで幼なじみを大切に思っているのなら、なぜ僕と結婚し、子どもまで持ったのか、どうしてもわからなかった。 あれほど必死に、自分が恒一をどれだけ特別に思っているかを見せつけたいのなら、なぜ僕と離婚しないのか。 なぜ僕と子どもを無理につなぎ止め、一緒に罵られ、嘲られるままにしておくのか。 その夜、ほとんど眠れず、翌日の昼近くになって、ようやく眠りを破ったのは、玄関のベルだった。 恒一が、彼の両親を連れて、突然家にやって来たのだ。 彼の母親は僕の顔を見るなり、さっそく嫌味をぶつけてきた。 第4話 「外でできた私生児まで連れてきて、そのうえでまだ文香の夫の座に居座るつもりなの。親の顔が見てみたいわ。一体どんな人間なら、これほど恥知らずな息子を育てられるのか」 傍らでは、恒一の父親も、軽蔑を隠そうともせず僕を見ていた。 「もういい。こんな奴に何を言ったところで無駄だ。顔を見るだけで汚らわしい」 そう吐き捨てると、二人は大きなスーツケースをいくつも抱え、そのまま二階へ運び上げていった。 階段を上がっていく背中を見送り、僕は何も言わなかった。 リビングに残ったのが自分ひとりになると、恒一は子どもを抱いたまま、口元に嘲るような笑みを浮かべて近づいてきた。 「お前たちが結婚していようが、彼女がお前との子どもを産んでいようが、そんなのどうでもいい。結局、俺と俺の子どもには勝てないんだよ。 そうそう、文香が言ってたよ。旅行から帰ったら、この子の戸籍は彼女の名義に入れて、長男にするって。でもお前の子は、養子として置いてやるだけ。戸籍からは追い出されるよ」 恒一のあの鼻につく笑みを見ても、もう白けるばかりだった。 ああいう見え透いたやり口なら、もう嫌というほど見せられてきた。 僕は彼を避け、そのまま立ち去ろうとしたが、次の瞬間、恒一はわざとらしく二歩ほど後ずさりし、突然大声を張り上げた。 「ごめんなさい、全部俺が悪かった。でも子どもを抱いてるのに、突き飛ばすなんてひどいじゃないか」 その叫び声に、彼の両親が駆けつけてきた。 恒一の父親は気でも狂ったように僕へ飛びかかってくる。 ちょうどそのとき、別荘の扉が開き、文香が慌てて駆け込んできた。 事情を説明しようと口を開きかけたその瞬間、恒一の父親に押し倒され、頬を平手で打たれ、口汚い罵声が容赦なく浴びせられる。 「おじさん……」 文香が止めに入ろうとした、その目の奥には、かすかに痛ましさの色がよぎっていた。 けれど彼女が何か言うより先に、恒一が目を赤くして彼女の腕をつかんだ。 「文香、旅行に行くあいだは、うちの親に子どもの面倒を見させるって約束してくれたよね。 今の住まいは環境がよくないから、この子にはもっといい場所で過ごさせてあげたいんだ。俺はただ、江口さんに一緒に住むのを気にしないか聞いただけなのに、急に突き飛ばされて……」 彼は慌ただしく子どもの体を確かめながら、わざと子どもを泣かせた。 騒ぎ立てる声に、僕はくらくらした。 打たれた頬は痛みを通り越してしびれ、もう腫れているのだろうと思えた。 それなのに、恒一もその子どもも、かすり傷ひとつ負ってはいない。 文香が向けてくる困りきった視線を感じながら、僕は小さく嗤って、黙って立ち上がった。 かつて、一生愛し、ずっとそばにいると、そう言った僕の妻は、僕が濡れ衣を着せられたその場で、別の男が好き放題に振る舞うための拠りどころになっていた。 たぶん、僕たちの結婚は最初から間違いだったのだ。 彼女は幼なじみを手放せない。だから、僕たちの結婚を手放すしかない。 ――もっとも、あと一日で、僕は彼女のもとを去るのだけれど。 恒一は子どもに何かあったかもしれないと騒ぎ立て、病院へ行くと言い張り、父親は僕に謝罪しろと怒鳴り散らす。 文香はその板挟みになりながら、すでに赤く腫れ上がった僕の頬を見つめていた。 それでも最後に彼女が選んだのは、やはり手放せない幼なじみのほうだった。 「直哉、先に恒一と子どもを病院へ連れていくわ。両親も海外から帰ってきたばかりだし。私が戻ったら、あなたと子どもを両親のところに送る。 恒一には約束したの。私のことを理解していほしいの。約束を破るようなことはしたくないのよ」 三年間、夜を共にしてきた女が、目の前で、よその男との約束ばかりを口にする。 彼女はもう忘れているだろう。僕と結婚したとき、永遠に愛すると言ったことも。僕に向かって、固く誓うように約束した一つひとつを守れなかったことも。一度は守ろうとして、結局は途中で投げ出したことも。 第5話 恒一が戻ってきてからは、結局ひとつとして果たされなかった。 胸の底に沈む痛みを押し込み、僕はただ、この茶番を一刻も早く終わらせたかった。 「直哉、私はあなたを愛してる」 僕が無表情のままでいると、文香は焦ったように言葉を継いだ。 「あなたが信じてくれなくてもいい。でも、あなたと子どもへの愛だけは、一度だって変わったことはないの」 その言葉を聞いて、僕は心の底から可笑しくなった。 「僕たち父子への愛は変わっていない?」 僕は一歩近づき、低い声で問いかけた。 「君は嘘をつきすぎて、自分の子どもが誰なのかまでわからなくなったのか?」 文香は息をのんだが、恒一の一家がまだそこにいることを思い出すと、すぐに僕を問い詰めようとした。 けれど僕は軽く手を上げ、その言葉を遮った。 「安心して。今すぐ出ていく。君たち家族の団欒を邪魔するつもりはないから」 文香が僕を送り出すつもりだとわかると、恒一は突然、子どもはもう大丈夫だと言い出した。 病院へ行くとも騒がなくなった。そのうえ妙に気遣うふりまでして、文香に僕の荷物をまとめるよう促した。 僕は冷ややかに笑い、寝室のほうを指した。 「荷物ならもうまとめてある。今すぐ出られる」 文香は、信じられないものを見るような顔で僕を見た。 だが僕はすでに上着を羽織り、寝室へ入って子どもを抱き上げ、そのまま外へ向かった。 「ちょうど、お義母さんに少し子どもを見てもらえたらと思ってたんだ」 彼女はあからさまに安堵したようで、慌ててあとを追い、気を利かせたつもりなのかタクシーまで手配してくれた。 おそらく彼女の車には、もうとっくに恒一の私物が積み上げられていて、僕の入る余地など、どこにもなかったからだ。 タクシーの中で、三年間暮らしたあの別荘が少しずつ遠ざかっていくのを見つめた。 もう、未練は欠片もなかった。 車内は静まり返っていて、僕は目を閉じた。ただ、ひどく疲れていた。 長い夢を見ていたような気がした。長すぎる夢だった。 まるでもう一度、自分の半生を最初からなぞり直したかのように。 彼女を愛することに、僕は人生の三分の一を費やした。 彼女の本当の姿を見切るのに必要だったのは、たった三か月。見切ってしまえば、もう愛することはできなくなった。 やがて車は、彼女の母親の家の前に静かに止まった。 ドアを開けて降りようとしたとき、文香からメッセージが届いた。 【直哉、もう少しだけ待って。数か月したら、必ず迎えに行くから。恒一のことが片づいたら、あなたと子どもの名誉はちゃんと取り戻す。そのときは、私たち三人、もう二度と離れない】 固く誓うようなその文面を見て、僕は小さく笑った。返事はしなかった。 片手で子どもを抱き、もう片方の手でスーツケースを引いて、僕は彼女の母親の家へ向かった。 そこにあったのは、もう失望でも妥協でもない。 ただ、静かな解放感だけだった。 さよなら、文香。これが、僕たちの最後だ。この瞬間から、君と僕はもう何の関わりもない。 翌日、僕は飛行機に乗った。 いったん離れれば、もう二度と戻ってくることはないだろう。 そのころ、同じく空港で搭乗を控えていた文香のもとへ、一本の電話が入った。 相手は友人だった。 「文香、おめでとう。ようやく家の厄介者を切り離せるんだね」 文香の表情が揺れ、眉が寄る。 「……どういう意味?」 電話の向こうで友人は一瞬言葉に詰まった。まさか彼女が聞き返してくるとは思っていなかったのだろう。 「知らないの?さっき空港で直哉を見かけたの。例の子どもを連れて、今まさに搭乗しようとしてたわ」 その瞬間、文香の全身から血の気が引いた。頭から冷水を浴びせられたように、身体が凍りつく。 彼女は震える手で電話を切った。 考える暇もないまま、搭乗を急かす恒一をその場に置き去りにして、空港の中を狂ったように走り回り、僕の姿を探し始めた。