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色褪せた愛の果て、記念日に届いた離婚届
結婚3周年の記念日、九条澪(くじょう みお)は夫の九条慎也(くじょう しんや)への贈り物として、離婚届を用意した。 澪は、誰もいない向かい...
Chương (1)
第1章
結婚3周年の記念日、九条澪(くじょう みお)は夫の九条慎也(くじょう しんや)への贈り物として、離婚届を用意した。
澪は、誰もいない向かい側の席に目をやり、弁護士の岡本翔太(おかもと しょうた)に電話をかけた。
「岡本先生、離婚協議書の準備はできましたか?」
この時、澪は一人ダイニングテーブルに座っていた。揺れるキャンドルの炎が彼女の横顔を照らし、表情をぼんやりさせていた。彼女は離婚がスムーズに進められるよう弁護士に頼んで「離婚協議書」を用意させていたのだ。
「はい、もう準備はできていますので、書留で送りました」そう言って翔太は少しためらった後、戸惑ったように尋ねた。「ですが……今日はお二人の結婚3周年の記念日ですよね?そんな大切な日に、本当に離婚を切り出すおつもりですか?」
大切な日?
澪は、とっくに冷めてしまった料理に目を落とし、自嘲するように口元を歪めた。
夫婦がお互いに覚えていてこそ、記念日には意味がある。
言うまでもなく、慎也との間でこの日を覚えていたのは、自分だけだった。
そう思って彼女が電話を切ると、ちょうど玄関のドアが開く音がした。
慎也が、疲れきった顔でドアを開けて入ってきた。けれど、その声には喜びがにじみ出ていた。
「美羽の離婚裁判が終わったんだ。これでようやく、彼女はあのDV男から解放される」
1ヶ月ぶりに顔を合わせたというのに、慎也の口から出た最初の言葉。それは、彼の初恋の人がついに離婚した、という報告だった。
第1話
結婚3周年の記念日、九条澪(くじょう みお)は夫の九条慎也(くじょう しんや)への贈り物として、離婚届を用意した。
澪は、誰もいない向かい側の席に目をやり、弁護士の岡本翔太(おかもと しょうた)に電話をかけた。
「岡本先生、離婚協議書の準備はできましたか?」
この時、澪は一人ダイニングテーブルに座っていた。揺れるキャンドルの炎が彼女の横顔を照らし、表情をぼんやりさせていた。彼女は離婚がスムーズに進められるよう弁護士に頼んで「離婚協議書」を用意させていたのだ。
「はい、もう準備はできていますので、レターパックで送りました」そう言って翔太は少しためらった後、戸惑ったように尋ねた。「ですが……今日はお二人の結婚3周年の記念日ですよね?そんな大切な日に、本当に離婚を切り出すおつもりですか?」
大切な日?
澪は、とっくに冷めてしまった料理に目を落とし、自嘲するように口元を歪めた。
夫婦がお互いに覚えていてこそ、記念日には意味がある。
言うまでもなく、慎也との間でこの日を覚えていたのは、自分だけだった。
そう思って彼女が電話を切ると、ちょうど玄関のドアが開く音がした。
慎也が、疲れきった顔でドアを開けて入ってきた。けれど、その声には喜びがにじみ出ていた。
「美羽の離婚裁判が終わったんだ。これでようやく、彼女はあのDV男から解放される」
1ヶ月ぶりに顔を合わせたというのに、慎也の口から出た最初の言葉。それは、彼の初恋の人がついに離婚した、という報告だった。
澪はうつむいて、軽く嘲笑いを浮かべた。
「おめでとう」
すると、慎也は口角を上げ、満足そうにうなずいた。
「ああ。だいたい、お前さえいなければ、俺と美羽はとっくに結婚していたんだ。そうすれば、あの子も不幸な結婚生活を送らずに済んだ。やっと苦しみから解放されたんだから、お前も喜んでやるべきだ」
その心ない言葉は、重いハンマーのように澪の胸を打ちつけた。
そう、慎也の言う通りだ。もし自分がいなければ、彼と夏目美羽(なつめ みう)は結婚していたはずだ。
澪は幼い頃から、九条家の嫁として育てられてきた。
九条家の計らいで、幼い頃から互いが慣れ親しめるように、彼女と慎也は幼稚園の頃からずっと同じクラスだった。
そんな中、毎日、慎也の完璧とも言えるほどの整った顔を前にしていると、澪も当然のようにときめいてきたものだった。
大人になったら慎也と結婚すると分かっていたから、その日が来るのを心待ちにしていた。
そんな日々は、高校生の時、クラスに美羽という貧しい転校生がやってくるまで続いた。
美羽は貧しい家庭の出だったが、芯が強く、まるで高嶺に咲く気高い一輪の花のようだった。
そんな彼女の性格は、慎也の興味を引いた。
慎也は最初、お金をちらつかせて美羽をからかっていた。でも美羽はいつも、怒ってお金を地面に叩きつけ、彼を「親のスネかじり」だと罵った。
そして慎也は次第に、彼女の両親が病気で寝たきりであること、そして学費も生活費も、すべて彼女がアルバイトで稼いでいることを知るのだった。
すると彼は真剣に美羽へ謝り、放課後には彼女と一緒にアルバイトをするようになった。
そうして毎日一緒に過ごすうちに、二人は付き合い始めた。
そうなると、澪の立場は気まずいものになった。まるで、主人公たちを引き裂くために婚約者という立場に居座る悪役令嬢のようだった。
それから大学入学共通テストが終わると、慎也は澪との婚約を取り消したいと申し出た。彼は大学を卒業したら、美羽と結婚するつもりだったのだ。
けれど、九条家がそんな貧しい学生との結婚を許すはずもなかった。
そして絶え間ないプレッシャーに、先に耐えられなくなったのは美羽の方だった。
彼女は別れを告げ、別の街の大学へ進学した。
それ以来、慎也はすっかり落ち着き、言われるがまま大学へ進学し、卒業後は会社を継いだ。
彼は美羽のことも、そして澪との婚約のことも、口にしなくなった。
だから澪は、もう二人が結婚することはないのだろうと思っていた。
3年前、慎也が血走った目で彼女の前に現れるまでは。
「結婚しよう」
そう言って彼女の腕を掴む慎也の力は、痛みを感じるほど強かった。でも、当時の澪は長年の願いが叶った喜びに酔いしれ、そんなことは気にもせず、すぐに頷いた。
そして新婚の夜。慎也はひどく酔っぱらって帰ってきて、酒の匂いをさせたまま、彼女をベッドに押し倒した。
あの日、部屋の雰囲気が上り詰めるのにつれて、澪の心も甘い期待で満たされていった。
しかし、慎也は澪を強く抱きしめ、身を沈めると、彼女の耳元でささやいたのは、美羽の名前だった。
「美羽、どうして待っていてくれなかったんだ?もう少しで、会社を完全に手に入れてお前を迎えに行けたのに。どうして……他の男と結婚なんかしたんだ?」
その瞬間、澪の心は凍り付いた。
なるほど。慎也が結婚を言い出したのは、美羽が他の男と結婚して、絶望したからだったのか……
そう思うと澪の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それが体の痛みからなのか、心の痛みからなのか、彼女には分からなかった。
だが、翌朝、澪は何事もなかったかのように振る舞った。慎也もおそらく、自分が言ったことなど覚えていないようだった。
ただ、彼が責任感のある夫であることは、認めざるを得なかった。
結婚後、慎也は「九条夫人」としての体面を十分に保ってくれた。パーティーへの同伴はいつも澪にさせていたし、新作の宝飾品も季節ごとに家に届けさせていた。
あの頃、誰もが澪は愛されて結婚したのだと言った。
けれど、彼女自身だけは慎也とはまるで、同じ家に住む他人同士のようだと感じていた。
肌を重ねる時だけは慎也のぬくもりを確かに感じられたが、それ以外の時間に、澪が面と向かうのはただガランとしている部屋だった。
もともと、澪は気にしていなかった。
これから一生一緒にいるのだから、いつか慎也も自分を愛してくれるようになるだろう、と思ったからだ。
けれど、1か月前の澪の誕生日、事件は起きた。一緒に食事をすると約束していた慎也が、その夜、一向に姿を見せなかったのだ。
そして、翌日になって、彼女はようやくその理由を知った。美羽がDVを受けており、離婚するつもりらしい。
その知らせを聞いた慎也は、弁護団を連れて、夜のうちにプライベートジェットで美羽の住む街へと駆けつけ、離婚裁判を手伝っていたのだ。
そしてこの1か月、慎也は会社と美羽の街とを行き来するばかりだった。
一方、澪との「家」だけは彼に取り残されてしまったかのようだ。
孤独な夜をいくつも過ごすうちに、澪はようやく悟ったのだ。
愛があるのと、そうでないのとでは、大きく違っているのだ。
たとえどれだけ長く慎也のそばにいても、彼が自分を愛してくれることはない。慎也の心の中から、美羽の存在を消すことなんてできないのだ。
だから二人の関係にとって、離婚こそが最良の選択だろう。
「お前は、まさか美羽を追い出そうなんて考えてないだろうな?彼女はもうバツイチになって、何もかも失ったんだぞ。だけど、お前はまだ俺の妻でいられるじゃないか。これ以上なにを望むんだ?」
想いを巡らせていると慎也の、警告をにじませた声が、澪を現実に引き戻した。
胸がずきりと痛み、彼女は虚しく笑って、首を横に振った。
慎也の目には、自分はそんな、目的のためなら手段を選ばない女に映っているのだろうか。
「そんなつもりはないわ」
自分はただ離婚して、彼と美羽を一緒にさせてあげたいだけなのに。
だけど、慎也は明らかに信じていなかった。何か言いかけたが、インターホンの音に遮られた。
澪がドアを開けると、配達員が彼女に一つの封筒を差し出した。
中身は、作成を依頼していた離婚協議書だ。
それに気づいて慎也は眉をひそめて尋ねた。
「何だ?」
澪は静かに答えた。
「結婚記念日のために用意した贈り物よ」
そう言われ慎也はきょとんとして、ようやくダイニングテーブルに並んだ料理に気づいた。それはすべて彼の好物で、キャンドルまで灯されているのだった。
すると慎也の顔から冷たさが少しずつ消えていき、目には申し訳なさが浮かんだ。
「すまない。最近、美羽の離婚裁判で忙しくて、忘れていた」
だが、澪は封筒を開け、署名欄のあるページを開いて、彼に差し出した。
「もう気にしなくていいのよ。ここにサインして」
第2話
彼女がそう言いかけていると慎也のスマホに、メッセージの着信の知らせがあった。
彼は画面をスワイプすると、目元に笑みを浮かべた。
一方、澪は離婚の書類を握る手に、思わず力を込めた。
その表情を見れば、誰からのメッセージなのかはすぐに分かったから。
慎也は片手でスマホを操作しながら、もう片方の手でそれらを受け取ると、彼女に視線を向けることなく離婚協議書と一緒に離婚届にもサインしてしまったのだった。
そしてサインをし終えると、澪は彼の力強い筆跡を見つめ、静かに口を開いた。
「離婚の手続きは成立したら、九条家を出ていくね」
でも慎也の意識は、完全に美羽とのラインのやり取りに集中していて、澪の言葉に返事をしなかった。
しばらくして、彼はやっとスマホをしまうと、いつもの冷たい表情に戻った。
「これから欲しいものがあるなら、秘書の内田に言えばいい。わざわざ記念日まで待つことはない」
そう言い、澪は一瞬きょとんとして、思わず尋ねた。
「ねえ、さっきの話、聞いてた?」
だが、慎也は面倒くさそうにネクタイを緩め、ソファに体を預けた。
「記念日の贈り物に、物件を購入したいから契約書にサインさせたんだろう?他に何か用か?」
それを聞いて澪の胸に、切ない痛みが広がった。
この人は家に帰ってきても、心は美羽のところに残ったまま。妻である自分のことなど、少しも気にかけていないのだ。
でも、そんな虚しい毎日も、もうすぐ終わる。
そう思うと彼女は首を振って、離婚の書類をしまった。
すると慎也は立ち上がって2階へ向かった。ダイニングを通り過ぎる時、とっくに冷めきった料理を一瞥して、彼は珍しく約束の言葉を口にした。
「来年の記念日は、一緒に過ごそう」
だが、澪は彼の後ろ姿を見ながら、自嘲気味に口元を歪めた。
来年?
慎也、「来年」はもう記念日なんてないのよ。
翌朝、澪はもうわざわざ早起きをして、慎也のために胃に優しい食事を用意することはなかった。
前日の夜に、作り方を使用人の谷口恵(たにぐち めぐみ)に伝えておいたのだ。
だから、澪が階下へ降りると、テーブルにはすでに朝食が並べられていた。
すると、恵は、不思議そうな顔で尋ねてきた。
「奥様、旦那様のお食事はご自分が用意してあげたいと仰っていたのに、どうして昨夜、私に作り方を……奥様がもうお作りにならないのですか?」
しかし、澪は、まだ湯気の立つ食事を見つめ、「ええ」とだけ答えた。
慎也は大学時代から会社の仕事を手伝うようになり、すっかり仕事人間になってしまった。学校と会社を行き来する生活で、食事も不規則だったから、彼の胃腸はいつも弱かった。
慎也が胃の痛みを薬で抑えているのを、澪は何度も見てきた。
そのたびに彼女は慎也の体を心配して、仕事より体が大事よ、と説得した。
けれど慎也は、ただ黙って痛み止めを飲むだけだった。
「一日も早く、会社を掌握しないといけないんだ」
当時彼がそういう理由は分からなかったが、それ以来、澪はいつも彼の体を労わって、毎日いろいろと工夫をしながら手料理を用意してきたのだ。
結婚してからも、その習慣はずっと続いていた。
澪のそんな気遣いのおかげで、慎也が胃の痛みを訴えることはほとんどなくなった。
でも今になって思えば、彼があれほど急いで会社を掌握し、九条家での主導権を握りたがったのは、美羽と結婚するためだったのだろう。
それから、テーブルにつくと、慎也はいつものように朝食に手をつけた。
しかし、味噌汁を飲んだ途端、彼は眉をひそめて澪を見た。
「なんだ、いつもと味が違うな」
「今日は谷口さんが作ったのよ」
慎也は思わず言った。「いつもお前が作っていただろう?なぜだ?」
澪は静かな口調で答えた。
「疲れたの」
どれだけ尽くしても、慎也に振り向いてもらうことはない。
そんな生活には、もう疲れ果ててしまった。
第3話
食事の後、澪は役所へ向かって離婚届を提出した。
「手続きには1ヶ月かかります」役所の職員は書類を受け取るとそう告げた。
そして、手続きを終えて役所から出てくる彼女は久しぶりに将来への期待に心を躍らせていた。
それから数日、澪は友人たちと一人ずつ食事の約束を取り付けた。ここを離れる前に、みんなと最後に会っておきたかったのだ。
慎也もまた、この1ヶ月でたまってしまった仕事の処理に追われていた。
二人は朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる生活だった。だから、ここ数日はほとんど会話がなかった。
そんな生活が1週間ほど続いたある日、秀林館高校の創立100年記念式典が開かれた。
名の知れた卒業生である慎也と澪のもとへも、当然のように招待状が届いていた。
だが、車が校門の前でちょうど止まると、澪は白いワンピース姿の美羽の姿を見かけた。
慎也は美羽がそこにいることに驚いた様子もなく、車を降りるとまっすぐ彼女の方へ歩いて行った。
そして慎也は美羽の腕にまだらに残る青あざに気づくと、眉間にしわを寄せ、自分の上着を脱いで彼女の肩にかけた。
美羽はきょとんとした顔になった。でもすぐに上着を脱いで返そうとしながら、瞳をうるませた。
「慎也、離婚のことで、あなたにはもう十分すぎるほど助けてもらったわ。これ以上迷惑はかけられない」
だが、慎也は有無を言わさず彼女の手首を掴んだ。その声は、めずらしく優しさを帯びていた。
「お前のことを、面倒だなんて思ったことは一度もない」
すると二人のそばに歩み寄った澪はちょうど、慎也の愛情のこもった告白を耳にしてしまった。そして、踏み出そうとした足をその場に止めると、彼女はふと思い出した。
あれは2年前に、急な盲腸で病院に運ばれ、手術の同意書にサインが必要になった時のことだった。
今でもはっきりと脳裏に焼き付いていた。激しい腹痛をこらえながら慎也に電話をかけた時、受話器の向こうから聞こえてきた、氷のように冷たい声だった。
「たいしたことじゃないなら、俺を煩わせるな」
本当に誰かを愛しているなら、1ヶ月もの間、複数の街を飛行機で何度も行き来したって、面倒だとは思わないのだ。
そして、愛していない相手なら、たとえその人が死にかけていたとしても、気にも留めないのだろう。
「澪さん、誤解しないでください。慎也は昔のよしみで気を遣ってくれて、このアザを隠してくれようとしただけなんです」
視界の端に澪の姿を捉えた美羽は、慌てて慎也の腕の中から離れると、おどおどした様子で彼女を見た。
そう言われ澪は我に返ると、美羽に向かって微笑んでみせた。けれど、その瞳にはなんの感情も浮かんでいなかった。
「説明しなくていいですよ。全部わかっていますから」
結婚して3年経っても、慎也は美羽のことしか思っていないことを。
そして、妻である自分は、永遠に彼の心に入り込むことはできないということも分かっていたのだ。
こうして慎也と美羽が二人で並んで前を歩いていると、澪はつかず離れずの距離を保ってその後ろを歩きながら、美羽が語る二人の青春時代の思い出話に耳を傾けていた。
「あ、人工池だ。慎也、私たちが初めて手をつないだ場所よ。覚えてる?」
「あそこはバスケットコート。高校2年生の時、あなたが試合に勝って、みんなの前で私を抱き上げてくるくる回ったわよね」
「校舎は昔のままだね。大学入学共通テストが終わった後、ここで一緒に写真を撮ったじゃない。あれからもう10年も経っちゃったんだ」
……
澪は、記憶の中にある懐かしい風景を一つ一つ目で追った。
実際のところ、二人が過ごしてきた青春の日々の中には、いつも彼女という、誰にも気づかれない存在があった。
慎也と美羽が手をつないだ時、澪は人工池の向こう側に立っていた。そして、まだ渡せていなかったプレゼントを、カバンの奥深くにしまい込んだ。
慎也がバスケの試合に勝ち、興奮して美羽を抱き上げた時、澪は人ごみの外にいた。そして、用意していた飲み物をそっと背中に隠した。
大学入学共通テストの後、慎也と美羽が一緒に写真を撮っていた時、澪はお似合いの二人の後ろ姿を見つめていた。そして、黙って背を向けて学校を去った。
だけど、10年前に二人が愛を育む過程を目の当たりにしただけでなく、今になってまた、彼らの思い出話を聞かされることになるなんて、澪にとってはなんとも皮肉に思えた。
でも、一つだけ違うことがある。10年前の澪は、胸が締め付けられるほど切なかった。
今の彼女は心の中で、波風が立つことはもうないのだ。
第4話
しばらくして美羽は、まるで今になって澪がそばにいることに気づいたかのように、慌てて口をつぐみ、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、澪さん。ただ、学生時代の思い出に浸っちゃって、悪気はなかったんです」
それを聞いて澪は、心の中で鼻で笑った。
もし美羽が言うように本当に悪気がなかったのなら、どうして慎也との二人だけの話ばかりするのだろうか。
要するに、慎也の気持ちを引き寄せたいだけ。そして、妻である自分に、彼女が慎也にとって特別な初恋の人なのだと、見せつけたいのだろう。
まあ、美羽が何を考えていようと、もう自分には関係ないことだけど。
「大丈夫ですよ、気にしていませんので」
澪の声には、何の感情もこもっていなかった。
美羽は、彼女の反応があまりにも穏やかだったので、わざと浮かばせた悲しげな表情が一瞬固まった。
一方慎也は、二人の間の妙な雰囲気には気づいていないようだが、ふと目に入った澪の冷めた表情を見て、彼は眉間にしわを寄せた。
以前、美羽の話題が出たとき、澪は口には出さなかった。それでも、瞳の奥に隠された寂しさを、彼はいつも感じ取っていた。
しかし今日の彼女はずっと平然としていて、まるで何も気にしていないかのようだった。
理由は分からない。それは望んでいたはずのことだった。なのに、慎也の心には妙な不快感がこみあげてきたので、彼は澪をじっと見つめてしまった。
だが、澪はそんな彼の視線に気づいていないかのように、まっすぐ前だけを見て歩いていた。
記念式典の会場に着くと、昔の同級生たちが次々と集まってきた。
「慎也さん、久しぶり!あ、いや、今は九条社長って呼んだ方がいいのかな」
「こっちは……もしかして美羽さん?やっぱり二人は結婚したんだな!」
「そりゃそうだろ。学生の頃、この二人が学校一のお似合いカップルだったのは、みんな知ってるじゃないか。結婚しない方がおかしいって」
「だよな。慎也さんがどれだけ美羽さんのこと好きだったか、俺たちは知ってるからな。やっと結ばれたんだ、おめでとう!」
……
周囲は好き勝手に囃し立てた。
そんな中慎也は、無意識のうちに隣で平然としている澪に視線を向け、何かを言おうと口を開いた。
しかし、美羽が彼の袖を軽く引っぱった。
「慎也、あそこに記念写真が展示してあるわよ。私たちも見に行こう?」
そう言って美羽は懇願するような瞳で慎也を見つめた。
すると慎也は訂正しようとしたが、その言葉をぐっと飲み込んだ。
まあ、いいか。普段はろくに連絡もとらない同級生だ。わざわざ説明する必要もないと彼は思った。
一方澪はその一部始終を見て、嘲るように口元を歪めた。
美羽がいると、本物の妻である自分の目の前で夫婦だと勘違いされても、慎也は一言の否定すらしようとしないんだな。
どうやら、彼は本気で美羽を妻に迎えたいと思っているようだ。
第5話
そう思うと澪はなんだか会場の空気が息苦しくなって、その場を離れた。そして一人、あてもなく学校の敷地を歩き回った。
いつの間にか、彼女は裏山の雑木林に足を踏み入れていた。
その時、ふと思い出した。高校生の時、この雑木林にあるガジュマルの木に、願い事を書いた札を掛けたことを。
10年が経っても、あのガジュマルの木は変わらず青々と葉を茂らせていた。
澪はさんざん探して、やっと昔自分が書いた札を見つけて木から外した。
札に書かれた文字はかすれていたが、まだなんとか読み取ることができた。
澪は、その少し幼い文字をそっと指でなぞった。【慎也と結婚できますように】
顔を赤らめながら、乙女心いっぱいにこの願い事を書いた当時のことを、今でもはっきりと思い出せる。
このガジュマルの木は、噂通り本当にご利益があった。
自分の願いは、本当に叶ったのだ。
でも、慎也は妻である自分のことを好きではなかった。結局この結婚は、最初から最後まで自分の独りよがりだった。
そして会場近くまで戻り、澪がドアを押そうとした時、見慣れた二人の姿が目に入った。
彼女は思わず手に力が入った。でも、結局二人の後をつけていくことにした。
この時の美羽は、さっきまでの落ち着きをなくしていた。目を真っ赤にして慎也を見つめ、途切れ途切れの声で話し始めた。
「慎也、あなたが今、澪さんと夫婦だってことは分かってる。でも、クラスのみんなが昔の私たちのことを話しているのを聞くと……もし私があなたの妻だったらどんなに幸せだっただろうって、つい考えちゃうの」
彼女は途切れ途切れに言葉を続けた。
「こんなこと言いたくない……でもあなたへの気持ちを抑えようと必死で、好きでもない人と結婚もしたの。そうすればあなたを忘れられると思ったから……でも、彼が隠していたあなたの写真を見つけて、私に暴力を振るうようになったの。もしあなたが助けてくれなかったら、私は……」
興奮のあまり、感情的に話す美羽の言葉を聞いて、慎也は両手のこぶしを固く握りしめた。でも結局、美羽の涙に抗えず、彼女を腕の中に抱き寄せた。そして、彼の声には、抑えきれない苦しみが滲んでいた。
「美羽、もう大丈夫だ」
美羽もまた涙で潤んだ目で慎也を見上げ、声を詰まらせていた。
「慎也、もしあなたが今、澪さんと結婚していなかったら……まだ私と結婚してくれるかな?」
慎也は一瞬黙り込んだ。彼の瞳には複雑な感情が渦巻いていたが、やがて目を閉じ、かすれた声で答えた。
「ああ。
あの頃、早く会社を自分のものにしたかったのは、お前と結婚するためだったんだ」
それを聞いて、曲がり角に立っていた澪の胸が、ずきりと痛んだ。
大学生だった慎也が会社に入ってがむしゃらに働いていたのは、美羽と結婚するためだろうと薄々感づいていた。でも、こうして本人の口から直接聞くと、やはり息が詰まるようだった。
澪は、二人がこれ以上愛を語り合うのを聞きたくなくて、その場を離れた。
そしてゴミ箱のそばを通りかかった時、彼女は手のひらを開いた。例の札は、爪の跡がつくほど強く握りしめられていた。
ごとん――
澪は何の未練もなく、その札をゴミ箱に投げ捨てた。
慎也、安心して。もうすぐ、あなたの望み通り美羽と結婚できるから。
第6話
そして、記念式典の後、慎也は美羽を家まで送ると申し出た。
美羽が言いにくそうに何度もちらちらと自分に視線を送っては、返事をためらっているのを見て、澪は淡々と言った。
「行きましょう。こんなに遅いと、慎也も心配でしょう」
その言葉を聞いた途端、遠慮し合っていた二人はぴたりと動きを止めた。
美羽は慌てて手を横に振って、弁解した。
「澪さん、変なふうに考えないでください。慎也は、ただ私を昔のクラスメートだと思って気を遣ってくれているの……」
慎也は何も言わなかった。でも、澪をじっと見つめるその目の奥には、彼自身も気づかない焦りの色が浮かんでいた。
しかし澪は、美羽のいつもの言い訳を聞き流し、シートに体を預けて静かに目を閉じた。
結局、美羽は唇をきゅっと結ぶと、車に乗り込んだ。
どれくらいたっただろう。澪は、ふと車が止まったことに気がついた。
ドアが開く音がした、と思った次の瞬間。車の外から甲高い悲鳴が響いた。
澪がはっと目を開けると、帽子をかぶった男が美羽を捕まえていた。男の手には、鋭く光るナイフが握られていて、美羽の背中に突き立てていたのだった。
こんな緊急事態だ。澪はなんとか冷静さを保ち、こっそりと警察に通報した。
一方、男の目には狂気が宿り、興奮した口調でまくしたてた。
「九条、ずっとこの日を待っていたぞ!あの時、お前が警察に通報しやがったせいで、俺は刑務所行きだ!そしたら妻も子供も俺のもとを去っていった!調べはついてるんだ。この女は、お前が忘れられない初恋の相手だろ。今日という日を、お前に一生後悔させてやる!」
それを見た慎也は目を見開き、すぐに車から飛び出した。彼は冷静な声で男をなだめようとしたが、強く握りしめられたこぶしには青筋が浮き出ていて、その動揺を隠しきれずにいた。
「俺と彼女は、もうとっくに関係ない!復讐したいなら俺を狙え。罪のない人を巻き込むな!」
それを聞いて男は歪んだ笑みを浮かべ、慎也に向かって叫んだ。
「関係ない、だと?俺をなだめているのか?関係ない女のために、お前がわざわざ時間を割いて家まで送り届けるかよ!
今日、この場で、お前の目の前でこいつを殺してやる!」
男はそう言い放つと、ためらうことなくナイフを振り上げ、突き刺そうとした。
まさにその瞬間、慎也が身を投げ出して、その刃を素手でつかんだ。
それを見て澪は思わずドキッとして、止めようとした声は喉につかえ、息が苦しくなるほどだった。
慎也は……彼自身の命を犠牲にするほど、美羽を愛しているなんて……
すると鋭い刃が、瞬く間に慎也の手のひらを切り裂く。真っ赤な血が、刃先からぽたぽたと滴り落ちた。
そこへ、ようやく駆けつけた警察たちがなだれ込み、あっという間に男を取り押さえた。慎也もすぐに保護された。
ようやく危険が去ったと分かると、美羽は慎也の怪我をした手を痛ましそうに握り、涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちた。
「慎也、なんて馬鹿なことするの!あなたに何かあったら、どうするつもりだったの?」
一方、痛みで顔は真っ青になっているのに、慎也は無理に笑みを作り、怯える美羽をなだめた。
「お前が、無事でよかった」
それから救急車が到着すると、慎也は手当のために病院へ搬送された。美羽は泣きながら付き添った。
そして澪は、事情聴取のためにその場に残された。
それから澪が病院に駆けつけると、ちょうど廊下で看護師たちが噂話をしているのが耳に入った。
「九条さんの傷、骨が見えるほど深かったらしいわよ。なんでも、一緒にいた女性をかばって、暴漢のナイフを素手で受け止めたんだって!」
「まるでドラマみたい!九条さんはきっと彼女のことをすごく愛してるのね。じゃなきゃ、自分の命もかえりみずに助けたりしないもの!」
「でも、九条さんって結婚してたはずよね?じゃあ、きっとあの方が奥さんなのね。あんなに一途な人、今時なかなかいないわよ」
看護師たちは口々に、慎也がどれだけ美羽を愛しているかを語り合っていた。その話をそばで聞いている澪こそが、彼の本当の妻だとも知らずに。
すると、澪は口の端を歪め、静かに笑みを浮かべた。
第7話
そして、澪が病室のドアを開けると、ちょうど手当てを終えた慎也と美羽に鉢合わせした。
「美羽はこんな目に遭うのは初めてだから、怖がっていると思うから、しばらくうちに泊まらせようと思っているんだ」
それを聞いて澪は一瞬、言葉を失った。
自分がまだいるのに、そんなに慌てて美羽を家に連れてくるなんて。
だが、彼女は結局何も言わずに、ただ頷いて、「わかったわ」とだけ言った。
どうせ自分が出て行ったあと、いずれ美羽は住み着くことになるのだ。それが数日早まっただけの話だ。
夜、慎也の手のひらの傷口が不意に開いてしまい、包帯が血で滲んでいた。
医師に確認した後、澪は新しい包帯を持ってきて、彼の手当てをし直した。
この時二人の距離はとても近く、慎也が息をするたびに、澪から漂うほのかな香りが鼻をかすめた。
真剣に手当てをする澪の横顔を見ていると、なぜだか彼の呼吸は少し荒くなった。
そして手当てが終わり、澪は凝った首を軽く動かした。
顔を上げると、深く吸い込まれそうな瞳と目が合った。
澪は一瞬きょとんとしたが、反応する間もなく、慎也はもう片方の手で彼女をぐっと抱き寄せた。
その瞬間、雰囲気は高まり、少し、甘い空気が部屋中に広がっていった。
しかし、次の瞬間――
バンッ。
何かが零れ落ちる音に、二人ははっと我に返った。
すると美羽がドアのところに立って、呆然と立ち尽くしていた。足元にはこぼれた飲み物が散らばっている。
彼女は唇を噛みしめ、赤くなった目で慎也をじっと見つめると、何も言わずに駆け足でその場を去った。
それを見て慎也は慌てて澪を抱いていた腕を解くと、「彼女に説明してくる」とだけ言い残して後を追った。
説明?自分たちは法律上の夫婦なのに、赤の他人である彼女に何を説明する必要があるというの?
慎也が心配しているのは、美羽にこの場面を見られて、彼が自分を好きだと誤解されることだけだ。
そう思って大きな窓から、庭で揉めている二人を見下ろしながら、澪は自嘲気味に笑った。
その後の数日間、澪は友人たちと食事の約束を入れ、あの二人のことはもう気にしないようにした。
どうせ離婚が受理されれば、この街を離れるつもりだ。そうなれば友人と会う機会も少なくなるから、どうでもいい人たちのために時間を無駄にしたくなかった。
その日、澪が会食を終えて家に帰ると、美羽がソファに座ってジュースを飲んでいた。
澪は気にも留めず、まっすぐ寝室へと向かった。
彼女が荷造りをしていると、階下から騒がしい声が聞こえてきた。
リビングに着くと、顔中に赤い発疹が出た美羽が、慎也の腕の中にぐったりと倒れているのが見えた。
澪が眉間にしわを寄せ、何があったのかと尋ねようとしたその時、慎也の怒りを押し殺したような非難の声が飛んできた。
「どうしてわざとジュースにマンゴーを入れたんだ?美羽はマンゴーアレルギーなんだぞ、お前のせいで死ぬところだったじゃないか!」
そして澪が何かを説明する前に、美羽が弱々しい声で口を開いた。
「慎也……澪さんを……責めないで……彼女も……わざとじゃないのよ。私がお二人の家に住むべきじゃなかったの……」
その一言で、澪の「罪」は確定したようなものだった。でも、彼女は最初から最後までそのジュースに触れてさえいないし、美羽がマンゴーアレルギーだということすら知らなかったのだ。
「私はそんなことしてない……」
「もういい!」慎也は美羽を抱き上げると、氷のように冷たい表情で澪の言葉を遮った。
「お前がこんなにも根性の悪い人間だとは思わなかった」
彼は失望したように澪を一度だけ見ると、美羽を抱いたまま、振り返りもせずに立ち去った。
一方、慌てて立ち去る慎也の後ろ姿を見ながら、澪は、ふっと笑いがこみ上げてきた。
なるほど、3年間ずっと一緒に暮らしてきたのに、自分は彼からの信頼をひとかけらも得られなかったのだ。
その時、スマホがポロンと鳴った。市役所からのメッセージだった。
離婚が受理されたのだ。
澪はぎゅっと目を閉じ、込み上げてくる涙を堪えた。
でも、これでようやく、全てが終わる。
……
離婚が受理された後、澪は残りの荷物をまとめ始めた。
自分のものをすべてスーツケースに詰め終えると、ベッドサイドに置かれた結婚写真に目が留まった。
写真の中の女は幸せそうに微笑んでいるのに、隣に立つ男の顔に笑顔はなかった。
それはまるで、この結婚生活の最初から最後まで彼女の独りよがりだと語っているようだった。
澪はその写真を手に取ると、ビリビリに引き裂いた。
そして階下に下りてゴミ箱に捨てようとした時、美羽の着替えを取りに帰って来た慎也と出くわした。
「今から一緒に病院へ行って、美羽に謝れ」
すると澪はぴたりと足を止め、彼の目を見てふっと笑った。
「どうして私が謝らないといけないの?やってもいないのに」
一方、澪がなおも頑なな態度を崩さないのを見て、慎也は顔を曇らせた。
「まだ反省していないようだな。ここ数日は俺が美羽に付き添っているから、お前は家で頭を冷やせ!」
そう言われ澪はためらうことなく、破いた結婚写真をゴミ箱に捨てた。
一方、そばにいた執事の佐々木大輝(ささき だいき)が、なだめるように言った。
「奥様、旦那様もかっとなってああおっしゃっているだけです。どうか追いかけて、ちゃんと説明なさってください。夏目さんのアレルギーが奥様のせいだなんて、ありえませんから」
大輝でさえ信じてくれるのに、慎也はためらいもなく美羽の方を信じた。
澪は静かに笑って首を振り、「もうその必要はない。私と慎也は、もう離婚したから」と言った。
そう言うと、彼女は呆然としている大輝を気にも留めず、寝室へ戻っていった。
それから澪は3年間住んだこの場所を、ぐるりと見渡した。
3年前に越してきた時と同じように、そこは冷え冷えとしていた。
それから澪は離婚届のコピーをベッドサイドテーブルの上に置いた。
そしてスーツケースを手にドアを閉め、澪は背を向けて去っていった。
空港に着くと、彼女は慎也の連絡先をすべてブロックした。
3年間の結婚生活でも、他の女に思いを寄せる慎也の心を温めることは、ついにできなかった。
これからは、お互い元いた人生の道に戻るだけ。もう二度と会うことはない。