凍てつく愛、春風に溶けて

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凍てつく愛、春風に溶けて

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【星野さん、この離婚協議書は有効なものです。署名をすれば、一ヶ月後、自動的に婚姻関係が解消されます】 星野佳苗(ほしの かなえ)はパソ...

Chương (1)

第1章

【星野さん、この離婚協議書は有効なものです。署名をすれば、一ヶ月後、自動的に婚姻関係が解消されます】 星野佳苗(ほしの かなえ)はパソコンの前に座り、オンラインの法律相談チャットを利用していた。画面越しに望んでいた回答を得ると、彼女はとお礼のメッセージを打ち込み、そのままログアウトした。 足を引きずりながら部屋のドアを開けた途端、頭上から何枚もの写真が落ちてきた。鋭い縁が頬をかすめて血が滲んだが、佳苗は無表情のまま、その「家族写真」を見つめていた。 夫である黒川明彦(くろかわ あきひこ)は満面の笑みを浮かべ、結婚前すら見せたことのないような優しい表情をしている。 彼女が五年間育ててきた娘の黒川陽彩(くろかわ ひいろ)も、今にも溢れんばかりの幸せそうな顔をしている。 皮肉なことに、その「家族写真」の真ん中に収まっているのは佳苗ではなく、明彦の初恋の相手、白石美鳥(しらいし みどり)だった。 どう見ても陽彩の悪戯だ。半年前に美鳥が帰国して以来、佳苗はこの家において完全に「余計な存在」と化していた。 第1話 【星野さん、この離婚協議書は有効なものです。署名をすれば、一ヶ月後、自動的に婚姻関係が解消されます】 星野佳苗(ほしの かなえ)はパソコンの前に座り、オンラインの法律相談チャットを利用していた。画面越しに望んでいた回答を得ると、彼女はお礼のメッセージを打ち込み、そのままログアウトした。 足を引きずりながら部屋のドアを開けた途端、頭上から何枚もの写真が落ちてきた。鋭い縁が頬をかすめて血が滲んだが、佳苗は無表情のまま、その「家族写真」を見つめていた。 夫である黒川明彦(くろかわ あきひこ)は満面の笑みを浮かべ、結婚前すら見せたことのないような優しい表情をしている。 彼女が五年間育ててきた娘の黒川陽彩(くろかわ ひいろ)も、今にも溢れんばかりの幸せそうな顔をしている。 皮肉なことに、その「家族写真」の真ん中に収まっているのは佳苗ではなく、明彦の初恋の相手、白石美鳥(しらいし みどり)だった。 どう見ても陽彩の悪戯だ。半年前に美鳥が帰国して以来、佳苗はこの家において完全に「余計な存在」と化していた。 …… 今日は佳苗の誕生日で、結婚五周年の記念日だった。明彦は適当な口実をつけて腹を立て、彼女に家でしっかり反省しろと言い捨てて、娘を連れて出かけてしまった。 佳苗は美鳥のSNSで、三人が遊園地に行き、家族水入らずで楽しく遊んでいるのを見た。 写真には、極度の潔癖症である明彦が地面に片膝をつき、美鳥の靴紐を結んであげている姿が写っていた。まるで鋭い刃が心臓に突き刺さったかのようで、佳苗は息ができないほど心を痛めた。 自分がこの家のために全てを捧げてきたのに、結局は他人の幸せの踏み台にされただけなのだと思うと、底知れぬ悲哀が込み上げてきた。 佳苗はテーブルの前に座り、バースデーケーキのろうそくが徐々に燃え尽きていくのを見つめていた。やがて目の前の世界が真っ暗になった。 彼女はまるで彫像のように、冷たく無情な家の中に佇んでいた。 どれほどの時間が過ぎたのだろうか。突然リビングの明かりがつき、明彦と陽彩が帰宅した。佳苗の姿を視界に捉えると、二人の目には一瞬の嫌悪が走った。 明彦は手にしていたギフトボックスを佳苗に投げつけ、ひどく苛立った顔で言った。 「誰が料理にラードを入れろと言った?俺が薄味しか食べないのを知っているだろう。二度と同じ真似はするな。ほら、誕生日プレゼントだ」 そう言い放つと、彼は顎を上げ、佳苗からの感謝の言葉を待つような不遜な態度を見せた。 佳苗はギフトボックスをちらりと見て、心の中で苦笑した。 プレゼントと言っても、どうせ何かの景品の腕時計だろう。本物の、価値ある腕時計は――美鳥が以前SNSで自慢げに見せびらかしていた、有名ブランドの限定モデルの方だ。 佳苗が微動だにしないのを見て、明彦は途端に血相を変え、怒鳴りつけた。 「俺が外で身を粉にして働いて家族を養っているというのに、お前は役に立たないどころか、俺に不機嫌な面を見せるのか! お前のような役立たず、最初から娶るんじゃなかった。今夜は物置部屋で寝ろ。自分の過ちを認めるまで、俺に許しを乞うな!」 そう言い捨てると、彼は肩を怒らせて部屋へと戻っていった。 陽彩はくすくすと笑いながら、ケーキを佳苗の頭からひっくり返した。そして、得意げに言った。 「今日ね、私、美鳥さんと遊園地に行って、すっごく楽しかったんだから!あなたは私のお世話をするただの家政婦なんだから、早くパパと離婚して、出て行ってよ!」 5年間、指先に小さな擦り傷を作っただけでも死ぬほど心配し、手塩にかけて育ててきた娘が、自分への嫌悪感を微塵も隠そうとしないのを見て、佳苗は思わず悪寒を覚えた。 所詮、どれほど情を注ごうと、届かぬ相手には届かない。結局は恩を仇で返されるのがオチなのだ。 以前の陽彩は、こんな子ではなかった。わずか五歳の子供に、これほど残酷な振る舞いができるはずがない。半年前、美鳥が帰国してからというもの、彼女は裏で陽彩を唆し、佳苗をいたぶる術を教えていた。 だが、佳苗の心を根底から凍てつかせたのは、何よりも明彦の反応だった。 彼女がこの家のためにどれほど身を粉にして尽くしてきたかを知りながら、娘の暴言を野放しにしている。 陽彩は佳苗が無反応なのを見て、鼻で笑った。「美鳥さんが言った通り、あなたはやっぱり役立たずね。これでも怒らないなんて、自業自得だわ!」 そう言い終えると、陽彩はぴょんぴょんと跳ねるようにして、自分の部屋へと戻っていった。 リビングは再び静まり返った。佳苗は終始一言も発しなかった。恩知らずなこの父娘に対しては、もはや希望を抱く必要すらなかった。 彼女はゆっくりと立ち上がり、足を引きずりながら階段下の小さな物置部屋へ向かった。 そこは彼女にとって、この家で唯一自由になれる場所だった――とても汚れているため、あの父娘は絶対に入ってこないからだ。 佳苗は無表情のまま、明彦がくれたプレゼントを無造作にゴミ箱へ捨てると、引き出しから一通の書類を取り出した。 先週、美鳥の件で激しい口論になった際、明彦がその場に叩きつけていった離婚協議書だ。 明彦は、佳苗が自分なしでは生きていけないと高を括っている。だからこそ、執拗なまでに彼女を辱め続け、陽彩もまた、父のその残酷な振る舞いに呼応するように、一緒になって彼女を貶めてきた。 今回、佳苗はついに悟った。 どれほど情を注ごうと、決して温まることのない冷え切った心は、もはや棄てるべきガラクタに過ぎない。 恩を仇で返す者たちを慈しんできた歳月は、底の抜けた器に水を注ぎ続けるような、無意味な徒労だったのだ。 彼女はペンを手に取り、一切の迷いなく署名した。 夫も、娘も、そしてこの家も。 彼女はもう全ていらない。 第2話 深夜の風が窓の隙間から吹き込み、物置部屋の中は少し肌寒かった。 佳苗は服を着たまま横になった。七年もの間、彼女を縛り付けていた執念が消え去ると、驚くほど体が軽くなった。 かつては失うことを恐れて不眠に苛まれていたが、今は抗いようのない睡魔が押し寄せてくる。 だが、眠りに落ちようとしたその瞬間、腰のあたりに手が伸びてきて、ねっとりと撫で上げられた。 佳苗が目を開けると、そこには欲望をぎらつかせる明彦の瞳があった。彼が何を求めているのか、嫌というほど分かった。 以前はいつも佳苗の方から求め、明彦は煩わしそうに適当にあしらうだけだった。 彼から求めてきたというのに、佳苗の内心は凪のように静まり返っていた。体は微塵も反応せず、目の前の男がまるで氷の塊であるかのように感じられた。 明彦は眉をひそめ、不機嫌そうに言った。「どうしたんだ?」 佳苗はその手をどかし、再び目を閉じた。「疲れたの」 明彦は侮辱されたかのように怒りで全身を震わせ、声を荒らげた。 「まだ昼間のことで腹を立てているのか?説明しただろう、美鳥とは過去のことだ。なぜそうやって、いつまでも引きずっているんだ!」 返ってきたのは、佳苗の規則正しい、穏やかな寝息だけだった。 薄暗い物置部屋の中で、明彦の瞳が怒りに燃える。彼は歯を食いしばり、吐き捨てるように言った。「いい気になるな。次は泣きついてきても、もう絶対に相手をしてやらんからな」 荒々しくドアが閉まる音が響いたが、佳苗は気にも留めなかった。 以前の彼女なら、明彦が少しでも不機嫌になれば、恐れおののいて機嫌を取り、地に跪いて許しを乞うていただろう。だが、執着を手放した今、もはや彼の感情に振り回されることはない。 その夜、佳苗は泥のように深く眠った。七年という歳月の中で、ようやく訪れた安らかな眠りだった。 翌朝、目を覚ましても、あの父娘のために朝食を用意することはなかった。代わりに一杯の茶を淹れ、自分だけの自由な時間を心ゆくまで堪能する。 爽やかな風が吹き込み、窓の外では花が咲き誇っている。今日は、絶好の行楽日和になりそうだった。 佳苗はスマホを眺めながら、残りの二十九日間を穏やかに過ごそうと心に決める。もうあの父娘のために心を痛めることも、涙を流すこともない。 そんな折、美鳥のSNSが更新された。 【想い続ければ、願いは必ず届くもの。私が必要な時、彼はいつだって駆けつけてくれる。神様からの贈り物に感謝】 添えられた写真は、キッチンでみそ汁を作る後ろ姿。ご丁寧に、ハートのスタンプで加工まで施されている。 みそ汁を作っている男が明彦であることは、一目で分かった。パジャマの袖から覗く左手首の赤い痣、そして腕にはプラチナ製の高級ブランド腕時計。 結婚して以来、明彦は極度の潔癖症を理由に、キッチンに立つことさえ忌み嫌ってきた。佳苗のために食事を作ったことなど、ただの一度もなかった。 それが今では美鳥のためにみそ汁を作っている。その手慣れた様子は、まるで穏やかで幸せな日常を見せつけるかのようだった。 佳苗の心は、凪のように静まり返っていた。画面に一瞥をくれると、すぐにスマホを置く。 昨夜の拒絶に対する明彦なりの腹いせなのか、あるいは、一刻も早く初恋の相手と肌を重ねたいのか。 どちらにせよ、今の彼女にとっては、もうどうでもいいことだった。 「私の朝ごはんは?」 背後から不満げな声が聞こえた。寝室から出てきた陽彩は、テーブルの上にいつものように用意されているはずの朝食がないことに気づくと、小さな顔を怒りで歪ませ、佳苗に向かって叫んだ。「お腹空いた!早く作ってよ!」 佳苗は振り返り、冷淡な眼差しを向けた。五歳の子供が、父親そっくりな傲慢な態度をとっているのをはっきりと感じ取った。 この父娘は、彼女のことをこの家の「家政婦」か何かだと思い込んでいるのだ。 佳苗は冷蔵庫を指さし、淡々と言った。「自分で取りなさい」 陽彩は呆然と立ち尽くしていた。佳苗のこれほどまでに冷淡な一面など、見たことがなかったのだ。だが、すぐに自分たちの立場を思い出したのか、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。 「あなたは私のお世話をするただの家政婦でしょ!言うことを聞かないなら、パパに言いつけてお仕置きしてもらうからね!」 佳苗は陽彩を静かに見つめた。どれほど愛情を注ごうと、決して恩を感じない性分は変わらない。譲歩すればするほど図に乗るだけだ。 幸いなことに、自分はとうの昔にこの子への希望を捨てていた。 「食べたいなら、美鳥のところへ行きなさい」 せっかくの穏やかな気分を台無しにされ、佳苗は彼女の金切り声を相手にする気にもなれず、自室に戻って身辺整理を始めた。 自分に関するものは、すべて捨て去るつもりだ。あの女――美鳥に場所を明け渡すために。 この数年間、明彦から贈られた物など数えるほどしかなかった。それでも、たとえ価値のない安物であっても、佳苗は宝物のように大切に仕舞い込んできた。 だが、今となってはそれらを目にするだけで、虫酸が走る。 佳苗は思い出の品々をゴミ袋に詰め込むと、屋敷を出た。すると、外泊明けで帰宅したばかりの明彦と鉢合わせる。 明彦は一瞬立ち止まり、その瞳に気まずさと後ろめたさを滲ませた。何か言い訳でもしようとしたのだろう。 佳苗は彼を完全に無視し、真っ直ぐゴミ箱へと向かった。 明彦は眉をひそめ、不機嫌そうに言った。 「昨夜は美鳥のうつ病の症状が出てな。側にいて落ち着かせていただけだ。変な勘ぐりはよせ。こうして堂々と話しているんだ、やましいことなど何一つない。だからお前も……」 「別に、何も考えてないわ」 佳苗は彼の白々しい弁明など聞く耳持たず、手にしていた袋をゴミ箱へ叩きつけた。その衝撃で、中から一つのぬいぐるみが転がり出る。 明彦はそのぬいぐるみが自分が贈ったものだと気づき、顔色を悪くして、信じられないというように言った。「どういうつもりだ?」 どういうわけか、佳苗があまりに静かなせいで、彼の胸の奥に得体の知れないざわつきが芽生えていた。 佳苗は表情一つ変えず、ふっと笑って言った。「カビが生えていたの。家に置いておくと雑菌が繁殖して体に悪いでしょう?だから捨てただけよ」 明彦は怪訝そうに目を細めたが、それ以上深くは追及せず、頷いて家の中へと入っていった。 佳苗は門の外でじっと待ち続けた。やがてやってきたゴミ収集車が、それらの「思い出」をすべて回収し、二度と取り戻せないところへ運び去るのを見届けてから、ようやく背を向けた。 明彦がくれた贈り物も、そして彼という人間そのものも、佳苗の心の中ではとうにカビが生えて腐りきっている。 カビの生えたゴミは、遠くへ捨てれば捨てるほどいい。 第3話 佳苗が屋敷に戻ると、明彦は袋からみそ汁の入った容器を取り出し、無造作にテーブルへ放り出した。 「昨日は少し言い過ぎたが、お前が美鳥を困らせるのがいけないんだ。ほら、これは俺が直々に作ったみそ汁だ。これを食べたら、さっさと美鳥に謝りに行け」 これまで一度も包丁を握ったことさえない明彦は、今回ばかりは佳苗が感涙にむせぶに違いないと高を括っているようだった。 佳苗はただ、その冷え切ったみそ汁を見つめ、心の中で自嘲した。 ――一体どこまで卑屈になれば、これほどまでに尊厳を踏みにじられることを許してしまうのだろう。 これは美鳥の食べ残しに過ぎない。 それを明彦は「褒美」として彼女に与えようとしているのだ。 佳苗は静かに見つめるだけで、何の反応も示さなかった。 明彦は苛立ちを露わにし、怒鳴りつけた。 「お前、一体何が不満なんだ?これでも俺が折れてやってるんだぞ、いい加減にしろ。外で稼いでくるだけでも十分に神経をすり減らしているというのに、家でまで騒ぎを起こしやがって……少しは器の大きい女になれないのか」 佳苗は淡々と言い放った。「私、シーフードアレルギーよ」 明彦は言葉を失った。 ようやく思い出したのか、その顔に一瞬だけ気まずさがよぎる。だが、佳苗の冷ややかな表情を目の当たりにすると、途端に逆上した。 「たかがアレルギーごときで大げさなんだよ。死ぬわけでもあるまいし、いちいち注文をつけるな!」 佳苗が何度も自分に逆らい、一向に引き際をわきまえようとしないことに激昂した明彦はみそ汁の容器を掴み取ると、抗う佳苗の口内へと無理やり流し込み始めた。 まさか彼がこれほど狂った真似をするとまでは思わず、佳苗は避けようとしたものの、すでに何口か飲み込んでしまっていた。彼女は床に這いつくばり、激しく嘔吐した。 彼女のシーフードアレルギーはクラス5で、微量に触れただけでも命に関わる。 瞬く間に呼吸が困難になり、喉には水疱が広がり、皮膚には悍ましいほどの紅斑が浮かび上がった。 明彦は鼻で笑い、無惨に横たわる彼女を見下ろした。 「悲劇のヒロイン気取りか?毎日毎日、俺に小細工を仕掛けやがって。自分が美鳥みたいな美女だとでも勘違いしているのか?今のお前なんて、若さも美貌も失った、ただの足の不自由な出来損ないだ! こっちが歩み寄ってやってるうちにさっさと頭を下げろ。さもないと家から叩き出すぞ。後になって泣いてすがってきても遅いからな!」 「パパが美鳥さんの仇をとってくれた!すごい!」 陽彩は駆け寄ると、苦しむ佳苗を力任せに蹴りつけ、無邪気に残酷な笑い声を上げた。 「家でしっかり反省してろ。次にまた馬鹿な真似をしたら、容赦しないからな」 明彦は陽彩を連れてそのまま部屋を後にし、虫の息となった佳苗を一瞥だにしなかった。 屋敷は静まり返り、外から聞こえる車のエンジン音はまるで死の宣告のようだった。佳苗は窒息しそうになりながらも、最後の力を振り絞ってようやく119番に通報した。 そのまま十数分、地獄のような苦しみに耐え続けた後、彼女はついに意識を失った。 目を覚ますと、佳苗は病室のベッドにいた。鼻を突く消毒液の匂いを感じ、どうやら一命を取り留めたのだと悟る。 自分を床に転がしたまま、見殺しにして立ち去った明彦の冷酷さが脳裏をよぎる。 あの父娘にはとうに見切りをつけたはずなのに、それでも息ができないほど胸が痛んだ。 心の上に数千キロもの巨岩がのしかかっているかのように苦しい。 ふと、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえてきた。枝の上で軽やかに跳ねる小鳥の姿を、佳苗は激しい羨望の眼差しで見つめる。 ――あと二十八日経てば、本当の自由を手に入れられる。 あの無慈悲な父娘など存在しない場所へ。ただ青い海を眺め、春の陽だまりに咲く花々に囲まれながら、一人の人間として、平穏な幸せを掴むのだ。 主治医が病室に入ってきて、彼女の思考を遮った。医師は咎めるような口調で言った。「アナフィラキシーショックでした。救急処置が少しでも遅れていたら、命はありませんでしたよ」 佳苗が口を開く前に、医師は眉をひそめて続けた。 「スマホの緊急連絡先に電話を入れましたが……病院に駆けつけるどころか、あの方は『さっさと死ね』とまで言い放ちました。本当に、ご主人なんですか?」 佳苗は力なく首を振り、消え入りそうな声で答えた。「……あと二十数日ほどすれば、元夫になります」 医師は佳苗のひどくふさぎ込んだ様子を見て、夫婦の冷え切った内情を察したようだった。彼は重いため息をつき、声音を和らげた。 「夫婦仲がどれほど悪かろうと、命を粗末にしてはいけません。次からは十分に気をつけてくださいね」 佳苗は無理に口角を上げ、微かな微笑みを浮かべた。 ――ええ、もちろん。次はもう二度とないわ。 もう、明彦に自分を傷つけさせることなど、万に一つも許しはしない。 七年もの間、従順な飼い犬のように這いつくばって尽くしてきたが、それも今日で終わりだ。これからは、ひとりの人間として、尊厳を持って生きていく。 第4話 入院して三日が経っても、明彦からは一本の電話すらなかった。見かねた主治医が、やりきれないといった様子で溜息をつく。 「たとえもうすぐ離婚する仲だとしても、書類のサインくらいするのが筋というものですけれどね……」 佳苗は何も答えず、ただ黙って窓の外を見つめていた。 何度も裏切られ、絶望を繰り返すうちに、彼女の心はとうの昔に腐り落ちている。悲しむための気力さえ、もう残ってはいなかった。 主治医は首を横に振り、独り言のように吐き捨てて病室を後にした。 「まあ、それもそうだね。奥さんの入院を知って『死ね』なんて呪うような人なら、来ても来なくてもも同じだな」 佳苗に悲しみはなかった。むしろ、あの無情な父娘の世話を焼く必要もなく、吐き気のするような「家族ごっこ」の光景を見なくて済む今の状況を、清々しくすら感じていた。 退院の許可が下りた時、佳苗はひどく名残惜しかった。もしあと二十日ほどここに入院していられれば、退院と同時にこの街を去ることができるのに。 だが、病院の規則には逆らえず、彼女は大人しく荷物をまとめた。 屋敷に戻ると、家の中には誰もいなかった。床にこぼれた牛乳にはカビが生え、空気には異臭が漂っている。 そして、床に残された黒ずんだ血痕が、目を背けたくなるほど生々しかった。 佳苗は腑に落ちた。明彦は陽彩を連れ、美鳥に付き添って何日も外泊しているのだ。どうりで一切の連絡がないわけだ。 彼は昔からそうだ。佳苗が少しでも自分の意に沿わないと、こうして意図的に無視を決め込み、彼女がひざまずいて許しを乞うてくるのを待つのだ。 無理やりみそ汁を喉にねじ込まれた時の、あの男の鬼のような形相が脳裏に蘇る。人間とは、ここまで醜悪になれるものなのかと、彼女は静かに息を吐いた。 美鳥のSNSが再び更新され、一枚の写真がアップされていた。 海辺を散歩する三人の姿。三人の手が、しっかりと繋がれている。 添えられた一文はこうだ。 【穏やかで、満ち足りた日々】 以前の自分なら、嫉妬で正気を失っていただろう。だが、今の佳苗の心は凪のように静まり返っていた。 あの三人は、まさに「割れ鍋に綴じ蓋」。自分が立ち去った後は、どうか一生あの三人で縛り合い、二度と他人に害を及ぼさないでほしいものだ。 佳苗がスマホの画面をロックした瞬間、一通の音声ファイルが送りつけられてきた。 「ねぇ、陽彩ちゃん、私と一緒に海に気晴らしに来て、あなたのママが知ったら怒るかしら?」美鳥の声だった。その口調には、隠しきれない優越感が滲んでいる。 「あんな醜い家政婦、私に口出しする資格なんてないわ!幼稚園のお友だちのママはみんな優しくて綺麗なのに、私のママは足を引きずってて、本当に恥ずかしい!」 陽彩の幼い声は、はっきりとした憎悪と怒りに満ちていた。 美鳥が再び問う。「じゃあ、私とママ、どっちが好き?」 陽彩が興奮気味に答える。「絶対に美鳥さん!ママなんか早く離婚して、この家から出て行けばいいの。そうすれば、美鳥さんがパパと一緒にいられるでしょ?パパも美鳥さんのこと大好きだし、私も大好き!ねぇ美鳥さん、私の新しいママになってよ!」 美鳥はわざとらしく困ったような声を出した。「それはダメよ。もしママが聞いたら、ショックで死んじゃうかもしれないわ」 陽彩は鼻で笑い、冷酷に言い放った。「死ねばいいのよ!去年、私を助けるために片足を轢かれたくせに。いっそ、そのまま轢き殺されちゃえばよかったのに!」 すでに娘への期待などとうに捨てていた佳苗だったが、そのあまりに悪意に満ちた言葉に、全身の血が凍りつくのを感じた。 あんなにもあどけない子供の声で、どうしてここまで冷酷で薄情な呪いの言葉を吐けるのだろうか。 続いて、美鳥からもう一つの音声ファイルが送られてきた。 「明彦と陽彩ちゃんの心は、もうすっかり私のものよ。どの面下げてその家に居座っているのかしら。さっさと消えてちょうだい!」 佳苗の心は、すでに枯れ果てていた。だからこそ、美鳥の浅ましい挑発に対しても、何の感情も湧かなかった。相手が期待したような、ヒステリックに泣き叫ぶ無様な姿を見せることはない。 彼女は無表情のまま、陽彩への贈り物を一つ残らずまとめ、ゴミ箱へと放り込んだ。 夫は妻を危うく殺しかけ、その生死すら気にも留めず、初恋の女を連れて南国のリゾートへ気晴らしに行く。 五年間、手塩にかけて育ててきた娘は、新しい母親を迎え入れるために実の母の死を願う娘。 佳苗は自らの不自由な左足を一瞥し、自嘲気味に笑った。これはきっと、見返りも求めず犬のように尽くし続けた愚か者に対する、神様からの最大の罰なのだ。 彼女はカレンダーに目を向けた――解放されるまで、あと二十日。 この二十日間は、何よりも自分自身を慈しんで生きなければ。 結婚して以来、佳苗の毎日はあの父娘を中心に回っていた。彼女の人生は完全に奪われ、家の中で飼われる一匹の犬――いや、犬以下の扱いを受けてきた。 案の定、明彦はその後も冷戦状態を続け、佳苗が頭を下げるのを待っていた。 しかし佳苗は、その時間を利用して街の名所を気の向くままに巡った。滔々と流れる大河に小舟を浮かべ、古びた社の静寂に身を浸し、さらには険しい山頂へと足を運んで日の出を仰いだ。 川面を滑る遊覧船のデッキに立ち、雄大な自然の息吹を肌で感じる。 彼女はふと悟った。 これまで自分が生きてきた日々は、決して「生活」などと呼べるものではなかった。ただの奴隷だ。自分の時間はおろか、生死の決定権すら他人に握られていたのだと。 最高峰の山頂で、見知らぬ若者たちに混ざって東の空に昇る旭日を見つめながら、自分の存在がいかにちっぽけであるかを実感した。 いわゆる「愛情」や「親子の絆」など、この世で最も虚無な嘘に過ぎない。 人は何よりもまず、自分自身を愛すべきなのだ。 山から戻った佳苗は、湖畔に佇む最高級のレストランに足を運んだ。結婚してからの五年間、明彦は「足を引きずっている女など世間体が悪い」と彼女を疎んじ、一度たりとも外食に連れ出すことはなかった。 だが、明彦がどん底から這い上がるのを支えてきた佳苗には、十分な貯えがあり、彼の会社の株式も五パーセント保有している。 彼女は最も眺めの良い窓際の席を選び、湖の景色を楽しみながら、絶品の料理に舌鼓を打った。 ――ああ……これこそが、本当の生活というものなのね。 だが惜しいことに、その心地よい余韻は、レストランに入ってきた「あの三人」の姿を目にした瞬間、無残にも打ち砕かれたのだった。 第5話 明彦たち三人が姿を見せると、すぐに店内の多くの客の視線を集めた。美男美女の二人は実にお似合いで、その間には可愛らしくも利発そうな子供が立っている。 この高級レストランの常連なのだろう、顔見知りが多かったらしく、ほどなくして知人たちに囲まれ、賑やかな宴が始まった。 「明彦さん、奥さんめちゃくちゃ綺麗だな。普段連れ歩かないのは、他の男に目を付けられるのが怖いからか?」 友人の一人が冗談めかして笑う。 明彦はわずかに頬を染め、そっと美鳥を盗み見たが、否定することはしなかった。 美鳥もまた、淀みのない洗練された立ち振る舞いで皆と語らい、その美しい容姿も相まって、周囲にますます良い印象を与えている。 さらに陽彩が、「ママ、ママ」と無邪気に懐いて見せることで、彼らが「絵に描いたような幸せな三人家族」であるという事実は、その場の誰もが疑わないものとなった。 周囲からの賞賛に満ちたおだてにすっかり気分を良くしている明彦は、すぐ近くの席に佳苗がいることなど露ほども気づいていない。 佳苗は静かな眼差しでその光景を見つめていた。驚くほど感情の波立ちすらなく、ただ手にしたワイングラスを静かに揺らすだけだった。 南国のリゾートから帰ってきたばかりの彼らは、よほど楽しい時間を過ごしたのだろう。 佳苗は席を立とうかとも思ったが、妻である自分がコソコソと逃げ出しては、まるで自分の方が「愛人」であるかのように見えて癪なので、そのまま留まり、窓の外の景色を楽しむことにした。 一通り挨拶を終えた美鳥は、ふと佳苗の存在に気づいた。彼女はわざと明彦の耳元に顔を寄せ、甘く囁いた。 「この数日間、本当にありがとう。あなたがいてくれなかったら、私、どうしていいか分からなかったわ……」 明彦は慌てたように言葉を返す。「美鳥、そんな水臭いことを言わないでくれ」 美鳥はさらに意図的に距離を詰め、ほとんど頬が触れ合うほどの近さで、極めて親密な雰囲気を醸し出した。 明彦は心臓の鼓動を早め、照れ隠しのように俯いてグラスを見つめる。 周囲から歓声が上がった。二人の熱々ぶりを見た友人たちが、囃し立てる。「キス!キス!」 陽彩も小さな手を叩きながら、「パパ、キスして!」と無邪気に笑う。 明彦は困ったように美鳥を窘める視線を送るが、そのどこか煮え切らない、欲求を押し殺したような表情が、かえって美鳥の心を激しく揺さぶった。 何より、すぐ近くで佳苗が見ているという事実が、美鳥にこの上ない背徳的な刺激を与えていた。 美鳥はそのまま明彦の唇を塞ぎ、激しく、そして見せつけるように口づけを交わした。 明彦は驚愕に目を見開いた。最初は抗おうと彼女の肩を押し戻そうとしたものの、美鳥から放たれる熱い吐息と甘い香りに包まれるうちに、次第に理性が溶け出し、陶酔の中へと沈んでいった。 レストラン内の皆は、これ見よがしに睦まじい二人に拍手が送られる。 その喧騒の中で、ただ佳苗だけが、まるで別世界から迷い込んだ異分子のように静かに座っていた。彼らの三文芝居を冷ややかな目で見つめて、心の中には、微かなさざ波すら立たない。 明彦はとろんとした熱い眼差しで美鳥をきつく抱き寄せ、その顔には隠しきれない幸福の色が満ち溢れていた。 あんなにも甘く、とろけるような愛情に満ちた彼の表情を、佳苗は結婚生活で一度も見たことがなかった。 どうやら明彦は、生まれつき冷酷な人間だったわけではないらしい。ただ、相手が誰かによって態度を変えていただけなのだ。 自分の前では常に高圧的で慈悲を垂れぬ「傲慢な支配者」として君主のように振る舞い、美鳥の前ではこれほどまでに優しく温かい男になれるというだけの話だ。 あそこまで公に愛を見せつけているのなら、二人が結ばれる日も近いのだろう。離婚のために自分が色々と気を揉み、波風を立てまいとしていることが、なんだかひどく馬鹿馬鹿しく、無意味なことに思えてきた。 佳苗は静かに立ち上がり、出口へと向かった。今夜彼が帰宅すれば、きっと向こうから離婚を切り出してくるに違いない。 その時、ふと顔を上げた明彦は、店を去ろうとする佳苗の後ろ姿をまともに捉えた。彼の顔色が一瞬にして青ざめ、慌てて立ち上がろうとする――まさかこんな場所で佳苗と鉢合わせるとは。 明彦のその様子を、美鳥は見逃さなかった。彼がまだあの足の不自由な女を気に掛けていることに、腹の底で激しい苛立ちを覚える。 だが、表面上はわざとらしくため息をつき、可哀想な被害者を装って見せる。 「……今の人、佳苗に似ていたわ。きっと何か誤解されちゃったのね。私、行って謝ってくるわ」 明彦は露骨に不機嫌な顔をして、鼻を鳴らした。「家で大人しく反省もせず、嫉妬に狂ってうろつき回っているだけだ。あんな女、放っておけ。どう思おうと勝手だ」 そう言い捨てて、彼は再び席にどっかりと腰を下ろした。 だが、脳裏に焼き付いて離れない佳苗の寂しげな後ろ姿が、明彦の心を激しくかき乱していた。隣で美鳥が何かを囁きかけているが、今の彼の耳には一切届かない。 明彦の表情は歪み、たまらずスマホを取り出すと、佳苗に短いメッセージを送りつけた。 【今、どこにいる?】 自分こそが絶対的な勝者だと確信していた美鳥だったが、その後の会食の中で、明彦の心がここにあらずであることを痛いほど感じ取っていた。彼はしきりにスマホの画面を気にし、誰かからの返信をそわそわと待ち続けている。 結局、会食は早々に切り上げられることになった。 美鳥からの映画への甘い誘いもすげなく断り、明彦は不満げな陽彩を連れて、逃げるように家へと車を走らせた。 佳苗が屋敷に戻り、ソファに腰掛けて水を一杯飲み干した直後、明彦が慌ただしく玄関のドアを開けた。 二人の視線が空中でぶつかり合う。 明彦は深呼吸をし、佳苗がいつものように泣き喚き、ヒステリックに責め立ててくることを覚悟して身構えた。 だが、どれほど時間が経過しても、佳苗が口を開く気配はない。なじる言葉も、問い詰める声も、一向に聞こえてこない。 ただ一点を見つめ、底知れぬほどの静寂を保つ彼女の姿に、彼は不気味なまでの違和感を覚えた。 第6話 明彦の顔色はどす黒く沈んでいた。レストランから逃げるように立ち去り、美鳥の誘いを断ったのは、彼の胸の奥にわずかながら罪悪感が残っていたからだ。 しかし今、佳苗の能面のように冷え切った無表情を見た途端、猛烈な苛立ちが込み上げてきた。 彼は忌々しそうに眉をひそめ、鞄から一つのギフトボックスを取り出すと、ソファへと乱暴に投げ捨てた。 「お前のせいで美鳥の抑うつ状態が悪化したんだ。だから俺が気晴らしに付き合ってやったんだ。謝罪もしないばかりか、レストランまで尾行してくるとはな……本当に、吐き気がするほど卑劣な女だ」 佳苗は投げ出された贈り物に一瞥もくれず、ただ明彦の顔を静かに見つめていた。彼女の頭にあるのは、この男がいつ離婚を切り出すのか、その一点だけだ。 そうすれば、すぐにでも荷物をまとめてこの家を出て行ける。 だが皮肉なことに、明彦はレストランでの失態などなかったかのように振る舞い、それどころか見事なまでの逆ギレで全ての非を彼女に押し付けてきた。 佳苗は内心で深く溜息をついた。どうやら前倒しでの離婚成立は望めそうにない。やはり、あと二十日間は耐えるしかないのだ。 以前の佳苗なら、彼が声を荒らげるだけで狼狽し、無条件に折れていたはずだ。たとえ彼がどんなに理不尽な言いがかりをつけ、無茶苦茶な論理を振りかざしたとしても、彼女は反論ひとつせず、ただひたすら自分を責めて謝り続けていたのだから。 それなのに、目の前にいる佳苗は、まるで遠く離れた別の世界にいるかのように、その本心が全く読めない。 佳苗が自分の支配下から抜け出そうとしている感覚を、明彦は極度に嫌悪した。彼は不機嫌に言い放つ。 「何度も言っているだろう、俺と美鳥はただの友人だ。なぜお前はそうやってねちねちと執着するんだ?そんな暇があるなら、少しは自分磨きにでも時間を使ったらどうだ?」 佳苗はふっと笑い、静かに頷いた。「ええ、あなたの言う通りね。私……もっと自分を磨かなくちゃいけないわ」 予想外の肯定に、明彦は一瞬言葉を失った。てっきり嫉妬して食ってかかってくると思っていたのだ。 だが、自分からレストランの話題を持ち出すのも気まずく、彼は行き場のない怒りを爆発させ、テーブルの上の物を力任せに薙ぎ払った。 ガシャーンという激しい音とともに物が散乱したが、佳苗はただ静かに見つめるだけで、止めようともしなかった。 明彦はギリッと歯を食い縛り、怒鳴りつけた。 「その面をやめろと言っているんだ!こっちは毎日くたくたになって帰ってきているっていうのに、家でまでお前の顔色を窺わなきゃならないのか? よく考えろ。俺がいなければ、お前がこんな贅沢な暮らしをできるとでも思っているのか? 陽彩に免じて家に置いてやっているだけだ。俺がその気になれば、お前みたいな足の不自由な役立たず、いつでも家から叩き出してやる。道端で野垂れ死ぬのがオチだぞ!」 これほどの暴言を浴びせられても、佳苗は反論することなく、ただ力なく溜息をついた。「だから、本当に何とも思ってないって言ってるじゃない」 毒気を抜かれたように、明彦は言葉を失った。 彼は、佳苗が気を引くためにわざと反抗的な態度を取っているのだと決めつけていた。わざわざ帰宅して言い訳をしてやったこと自体、彼女に対する最大限の配慮であり、顔を立ててやったつもりだったのだ。 それなのに、なぜ佳苗はこれほどまでに頑ななのか。 「いいか、よく覚えておけ。お前は美鳥に謝罪しなければならない。謝る気がないなら、一生その物置部屋で腐ってろ!今の自分がどんな無様な姿か分かってるのか?まるでドブネズミだ!」 明彦は怒りに任せてそう言い捨て、二階へと上がっていった。 陽彩が佳苗をきつく睨みつけ、小さな顎をツンと上げて嫌悪感を露わにした。 「あなたは悪い人よ!美鳥さんとパパを怒らせたくせに、なんでまだこの家に居座っているの?さっさと離婚して出て行ってよ。私、美鳥さんにママになってほしいんだから!」 佳苗は陽彩の瞳を真っ直ぐに見つめ、穏やかな微笑みを浮かべた。「……安心して。美鳥は、もうすぐあなたの本当のママになるわ」 言い終えると、彼女は自ら物置部屋へと足を踏み入れ、静かにドアを閉めた。そして、この地獄から抜け出せるまでの日数を静かに数え始めた。 しばらくして、陽彩がドアを激しく叩き、「ミルクを温めなさいよ!」と命令してきた。 かつては自分の命を懸けて守ったこの恩知らずな娘に対し、佳苗はただ目を閉じ、冷淡に言い放った。「美鳥に頼みなさい」 陽彩は激怒し、ドアを蹴りつけながらありったけの罵声を浴びせてきた。 だが、今の佳苗にはすっかり免疫ができていた。もはや何の痛みも感じない。ただ一刻も早く、愛情も温もりも欠片もないこの家から去りたかった。 狭い窓から外の夜空を見上げ、彼女の心はすでにここから羽ばたいていた。 遠い故郷の景色が、ふと恋しくなる。 佳苗の「わきまえない態度」への罰のつもりか、明彦はその後数日間、陽彩を連れて家から姿を消した。行き先など、考えるまでもない。美鳥のところへ転がり込んだのだろう。 明彦は、自分の不在によって佳苗が絶望し、身を切られるような孤独に苛まれると信じて疑わなかった。家を出る際、彼は勝ち誇ったように警告した。 「美鳥に土下座して謝るまで、俺たちは二度と帰らないからな」 佳苗は危うく「それは願ってもないことね」と口走りそうになった。いっそ一生帰ってこない方が、どれほど清々することか。 だが、離婚成立を目前に控えた今、余計な波風を立てるのは得策ではない。彼女は静かに、彼らの背中を見送った。 家の中を徹底的に磨き上げ、不要なものを捨て去ると、澱んでいた空気までが澄み渡ったようだった。昼下がりには中庭の寝椅子で日向ぼっこを楽しみ、誰にも邪魔されない悠々自適な時間を満喫する。 深夜、スマホが震え、美鳥から一本の動画が送りつけられてきた。 そこには、三人がお揃いのパジャマに身を包み、枕投げに興じている姿が映っていた。二人の大人が陽彩の小さな頭を愛おしそうに抱きしめ、カメラに向かって弾けるような笑顔を向けている。 美鳥はこうして「幸せな家庭」をこれ見よがしに見せつけることで、佳苗を絶望の淵に突き落とし、一刻も早くこの家から追い出そうと躍起になっているのだ。 佳苗は一切の返信をせず、代わりに自分へのご褒美として、とびきり高級なデリバリーを注文した。 明彦は、いくら待っても佳苗から謝罪の連絡が来ないことに業を煮やし、ますます怒りを募らせていた。彼は美鳥の家に入り浸るだけでなく、彼女を自社の重役ポストにまで引き上げた。 さらにSNSでわざと二人の親密さを匂わせるような、挑発的な投稿を繰り返している。 佳苗はただただ滑稽に思えた。 ――そんなに愛し合っているなら、どうして堂々と交際宣言しないのかしら? ああ、そうだったわね。忘れていた。彼はまだ私の夫なんだもの。公表なんて、できるはずがないわ。 大丈夫よ。もうすぐ私が、あなたたちを自由にしてあげるから。 日を追うごとに、佳苗は明彦からの下劣な挑発に対して完全に無感情になっていた。陽彩が風邪を引いた時でさえ、明彦がわざと「薬を届けに来い」と命令してきても、彼女は黙殺した。 「病気なら、病院へ連れて行けばいいでしょう」ただそれだけを告げ、彼を冷たくあしらった。 電話の向こうで明彦が激昂し、口汚い罵詈雑言を吐き出すより早く、佳苗は通話を切った。 どうでもいい人間のために精神をすり減らすくらいなら、そのエネルギーを自分を労るために使ったほうが、よほど有意義だ。 自由へのカウントダウンは、残り三日。佳苗はその日が来るのを心待ちにしていた。 あの忌まわしい父娘が不在のこの数日間、彼女は七年間の結婚生活の中で最も快適で、安らぎに満ちた日々を過ごしていた。 彼女はすでに、手持ちの株式をすべて売却する準備を進めていた。これさえあれば、故郷に戻っても生活に困ることはない。 明彦は事あるごとに佳苗の能力を貶め、「役立たず」と罵ってきた。だが彼は完全に忘れているのだ。 かつて彼の会社が倒産の危機に瀕した時、喉を焼くような強い酒を何杯も飲み干し、命懸けで契約を勝ち取ってきたのが一体誰だったのかを。 そして、佳苗が今も会社の株式の五パーセントを保有しているという事実も。 彼女は毎年、その配当金だけでかなりの額の収入を得ていた。 佳苗はすでにこの株を売却する決意を固め、水面下で適切な買い手を探していた。 この街を去ると決めた以上、彼らとの繋がりを一切合切、断ち切るつもりだ。 今夜、彼女は残りの日数を祝うために、特別なヴィンテージワインを注文していた。外から足音が聞こえ、デリバリーが到着したのだと思った彼女は、弾むような足取りでドアを開けた。 だが、扉の向こうに立っていたのは――予想外にも、明彦と陽彩だった。 第7話 離婚が間近に迫っているという解放感のせいか、佳苗は彼らの顔を見ても以前ほど不快感を覚えなくなっていた。だが、その態度は相変わらず冷淡で、何の感情も宿っていなかった。 明彦は十日あまりも外泊を続け、佳苗が折れて頭を下げてくるのを傲慢に待ち続けていた。 しかし、佳苗はかつてのように「行かないで」と縋り付くこともなく、うってかわって底冷えのするような沈黙を貫いている。 どんなに鈍感な明彦でも、佳苗の変化には気づかざるを得なかった。なぜかは分からないが、胸の奥底から得体の知れない焦燥感が湧き上がってくるのを感じる。 従順すぎる佳苗を煩わしく思い、これまで何度も離婚を突きつけてきたのは彼の方だ。 だが、今の氷のように冷たい彼女の態度は、彼をひどく不安にさせた。 それは決して佳苗を愛しているからではない。ただの憐れみだ。 佳苗がどれほど自分を愛し、自分なしでは生きていけないかを熟知していたからこそ、彼はこれまで幾度となく、容赦なく彼女を傷つけ続けてきたのだ。 今回、予定より早く帰宅したのは、彼なりの「歩み寄り」であり、これ以上彼女が意地を張って当てつけをしないよう、折れてやるつもりだった。 娘を連れて帰れば、佳苗は感極まって涙を流し、これまでの態度を泣いて詫びるだろうと思い込んでいた。 だが、彼の目に映ったのは、佳苗の顔に浮かんだ、隠しようのない露骨な失望の色だった。 ――彼女は、俺たちの帰りを心待ちにしていたのではなかったのか? 明彦は顔を曇らせ、鼻で笑って皮肉を放った。「どうやら、俺たちの帰宅が歓迎されていないようだな。なんだ?留守中に別の男でも引き込んでいたのか?」 佳苗は肯定も否定もせず、無言のままきびすを返して物置部屋へと向かった。 不倫をしているのは彼の方だというのに、よくもまあ彼のゲスな勘繰りを人に押し付けられるものだ。 今の佳苗にとって、彼と一言でも言葉を交わすことすら時間の無駄でしかなかった。この家を出るまであと三日。これ以上、無意味な諍いを起こすつもりは毛頭ない。 明彦は去っていく彼女の後ろ姿を見つめながら、顔を歪ませた。 彼女を繋ぎ止めていた手綱が、指の間からするりと抜け落ちていくような感覚が強まった。 結婚して以来、一度も感じたことのない動揺が胸に込み上げてきた。特に彼女の足を引きずる痛々しい姿を見た瞬間、彼の脳裏に過去の記憶がフラッシュバックした。 ――黑川家が破産し、周囲の人間が潮を引くように去っていき、最愛の美鳥でさえ彼を見捨てたあのどん底の時代。唯一、佳苗だけが彼のそばに寄り添い続けてくれたのだ。 一方、明彦の内心などとうにどうでもよくなっていた佳苗は、夜まで物置部屋に籠もっていた。 そろそろあの父娘も美鳥の元へ出かける頃合いだろうと思い部屋を出た彼女は、テーブルに並べられた手料理を見て思わず足を止めた。 キッチンで立ち働いていた明彦が、手を止めずに声をかけてきた。「あとスープ一品で終わりだ。すぐできるから、そこに座って待っていろ」 佳苗はその場に釘付けになったように立ち尽くし、複雑な感情を瞳に宿らせた。 これこそが、彼女が長年夢見てきた情景だった。温かい家庭、何気ない日常。 だが、すべてはあまりにも遅すぎた。 佳苗は席についたものの、目の前の料理を見つめるだけで、箸を手に取ろうとはしなかった。 明彦はいつになく穏やかな声で気遣った。「どうした?」 佳苗は淡々と答える。「……シーフードアレルギーなの」 テーブルに並んでいたのは、美鳥の好物ばかりを揃えたシーフード尽くしの御馳走だった。彼は美鳥の好みなら毛羽立つほど繊細に記憶しているくせに、佳苗のこととなると、その体質すら忘却の彼方に追いやっているのだ。 明彦の顔がサッと険しくなり、いつものように激昂しそうになったが、彼は必死にそれを飲み込んだ。 わめくことも泣くこともしなくなった佳苗の底が全く見えず、今の彼女はまるで、強く握りしめるほど指の間からこぼれ落ちていく砂のようだ。 佳苗は冷静に分析していた。 ここ最近の仕打ちが行き過ぎたと少しは反省したのか、あるいはかつて苦楽を共にした過去への「同情心」が働いたのか。いずれにせよ、明彦がこの状況で激怒して料理を自分にぶちまけなかったのは奇跡に近い。 怒りを抑え込んだ明彦の姿に、佳苗は内心で皮肉な感慨を覚えていた。 こんな彼にはひどく違和感がある。 明彦はこれまでの傲慢さが嘘だったかのように、甲斐甲斐しく彼女の皿に料理を取り分けた。 「このところ、お前に辛い思いをさせたな」とまで口にした。佳苗は目の前の男が本当に自分の夫なのかと疑うほどだった。 傍らに座る陽彩も目を丸くし、自分の父親が「ただの家政婦」にこれほど優しく接する光景を信じられない様子で見つめている。 続いて明彦は、鞄から二枚のオペラのチケットを取り出した。それは佳苗がずっと見たがっていた演目だった。「この前のお前の誕生日、一緒に過ごせなかったからな。その埋め合わせだ」 佳苗はチケットを見つめたまま、受け取ろうとはしなかった。 ――これは、遅すぎた愛情表現とでも言うつもりなのだろうか? いや、違う。おそらく自分の演技が完璧ではなくなり、何らかの危機感を察知した明彦が、いつもの「飴と鞭」の手段を繰り返しているに過ぎないのだ。 明彦がさらに言葉を続けようとしたその時、玄関の方から足音が聞こえてきた。 美鳥が、おもちゃの入った紙袋を下げてずかずかと上がり込んできた。 陽彩は歓声を上げると、弾かれたように美鳥の胸へと飛び込んだ。「ママ、ありがとう!」 明彦はサッと顔色を変え、慌てて陽彩を窘めた。「陽彩、滅多なことを言うんじゃない」 しかし陽彩は不満げに鼻を鳴らした。「だって、私、美鳥さんにママになってほしいんだもん。あんな足を引きずってる家政婦なんか大嫌い!」 明彦は激昂し、顔をどす黒く染めた。彼は陽彩の腕を荒っぽく掴むと、説教のために奥の部屋へと力任せに引きずっていった。 リビングに取り残された美鳥は、テーブルの上に視線を走らせた。その目が、佳苗のために用意されたオペラのチケットを捉えた瞬間、彼女の瞳に怨嗟が渦巻いた。突然、底意地の悪い笑みを浮かべた。 「……自分が勝ったとでも思っているの?いいわ。これから見せてあげる。明彦が一番大切にしているのが、一体誰なのかをね!」 第8話 佳苗は静かに美鳥を見つめていた。相手から強烈な嫉妬心が向けられているのをはっきりと感じ取り、ゆっくりと首を横に振る。 「張り合う必要なんてないわ。私、もうどうでもいいから」 美鳥は冷笑を浮かべた。 「口では立派なことを言っても、結局は明彦のそばに居座り続けているじゃない。本当は贅沢な暮らしが手放せないんでしょう? この前、わざと明彦にみそ汁を作って帰らせて、あなたに無理やり食べさせたの。ねえ、どんな気分だった?」 佳苗は全身を震わせ、美鳥を凝視した。胸の奥底に冷たい悲しみが広がっていく。 美鳥でさえ自分がシーフードアレルギーであることを覚えているというのに。明彦は都合よく利用されていることにも気づかず、喜んで彼女の言いなりになっていたのだ。 あの男は、自分のことなど微塵も気にかけていない。 佳苗が口を開くより早く、明彦が陽彩を連れて部屋から出てきた。彼は厳しい口調で言った。 「佳苗、陽彩にはよく言い聞かせておいた。普段から甘やかしすぎだんだ……俺は着替えてくる。後で一緒にオペラを見に行こう」 美鳥が慌てて口を挟んだ。「明彦、私、あなたと映画を見に行きたくて来たのよ」 明彦は足を止め、困惑した表情を浮かべた。 彼は佳苗の様子が最近おかしいことに薄々気づいており、関係を修復しようと考えていたのだ。佳苗が自分を捨てきれるはずがないという絶対的な自負はあるものの、ここで再び美鳥を優先すれば、佳苗が本当に離れていってしまうかもしれない。 少し考えた後、彼は首を横に振った。「また今度にしよう。佳苗と先に約束してしまったからな」 そう言うと、彼は着替えのために二階へ上がっていった。 美鳥の顔色が険しくなり、怒りで拳を強く握りしめた。以前なら明彦は自分の言うことに何でも従っていたのに、今回は断られた。 強い危機感を覚えた彼女は、佳苗を憎々しげに睨みつけた。「あなた、一体どんな手を使ったの?」 佳苗は彼女と男を奪い合う気など毛頭なかった。あんな人間のクズのために、エネルギーを浪費する価値などない。 しかし、佳苗のその沈黙は、美鳥にとって明確な挑発と受け取られた。 美鳥の表情が狂気を帯びた。持ってきたおもちゃの紙袋から一つの容器を取り出す。それはみそ汁だった。佳苗が反応する間もなく、美鳥は狂ったように飛びかかってきた。 彼女は強引に佳苗の口をこじ開け、みそ汁を無理やり流し込んだ。 佳苗は床に這いつくばって激しく嘔吐した。しかし、重度のアナフィラキシーショックの進行は恐ろしく速かった。 喉は一瞬にして腫れ上がり水疱ができ、全身に赤い発疹が浮かび上がる。前回よりもはるかに深刻な症状だった。 呼吸ができなくなり、佳苗は床の上で激しく痙攣した。 美鳥は邪悪な笑みを浮かべた。「明彦が一番大切にしているのが誰なのか、しっかり見せてあげるわ」 そう言い捨てると、彼女は自ら床に倒れ込み、挑発的な視線を向けた。 明彦が二階から下りてきたちょうどその時、美鳥が悲鳴を上げ、床の上で転げ回った。 明彦は血相を変えた。床には二人の女が倒れている。一人は全身に発疹を出して呼吸困難に陥っている妻、もう一人は頭を抱えて泣き叫ぶ初恋の女。 彼はどちらを助けるべきか、一瞬判断に迷った。 佳苗はすでに窒息寸前だった。前回医師から「短期間で再びアレルギー反応を起こせば命の危険があります」と警告されていた。 彼女は力を振り絞って声を絞り出した。「明彦……早く病院へ……死んでしまう……」 明彦は慌てて頷き、スマホを取り出そうとした。しかし、それを遮るように美鳥の絶叫が響き渡る。「明彦!痛い、もう嫌……生きていたくない!頭が割れそうなの!」 陽彩が佳苗を指差して叫んだ。「パパ!さっき彼女が美鳥さんを挑発して、発作を起こさせたの!パパがどっちを大切にしているか試してるんだよ。その苦しんでるのも全部嘘だから!早く美鳥さんを病院に連れて行って!」 明彦の顔色が怒りに染まり、佳苗を氷のように冷たい目で見下ろした。「佳苗、お前にはがっかりだ!せっかく罪滅ぼしをしてやろうと思ったのに、今の様子を見るとその必要はなかったようだな」 弁明の余地も与えず、彼はすぐに美鳥を抱き起こして家を出て行った。 彼が佳苗に向けた視線は憎悪に満ちていたが、美鳥に向ける視線は愛情と心配に溢れていた。 佳苗は床に倒れたまま、ぼんやりと天井を見つめていた。底知れぬ絶望が押し寄せる。 実の娘である陽彩が美鳥のために事実を捻じ曲げた瞬間、佳苗の世界は完全な闇に包まれた。 明彦はまたしても自分を死の淵に置き去りにしたのだ。 佳苗は思わず自嘲した――どうして自分は、まだあの男にわずかな期待を抱いていたのだろうか? 彼女は這うようにして物置部屋へ向かい、医師から渡されていた緊急用の薬を取り出して急いで飲み込んだ。なんとか症状が和らぎ、命をつなぎとめる時間を作ることができた。 自ら救急車を呼んだ後、佳苗は限界を迎え、ついに意識を失った。 目を覚ますと、視界に飛び込んできたのは前回と同じ主治医の顔だった。呆れたように見下ろしてくる医師に対し、佳苗は苦笑するしかなかった。 医師は肩をすくめた。「最近の若い人は、そんなに命を弄ぶのが流行っているんですか?」 佳苗は反論することなく、窓の外に視線を移し、ゆっくりと目を閉じた。 一か月に及ぶ離婚の手続きがすべて完了したその日、佳苗は退院した。 明彦からの電話は一度もなかった。きっと美鳥の看病にかかりきりなのだろう。 家に戻ると、床には美鳥が自分を殺そうとして使ったみそ汁が残っていた。それはまるで、佳苗を嘲笑する醜い顔のように見えた。 彼女は無表情のまま物置部屋へ行き、あらかじめまとめておいた荷物を手に取った。そして、テーブルの上に離婚協議書を置き、玄関を出た。 門の外に立ち、佳苗は振り返った。七年間の想いと五年の結婚生活が刻まれたこの場所。今こそ、そのすべてを完全に断ち切る時だ。 朝の風が吹き抜け、黄金色の陽光が降り注ぐ。佳苗は両手を広げ、この七年間で最も新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 彼女は離婚し、ついに自由になったのだ。 佳苗はこの汚らわしい檻に一秒たりとも留まりたくなかった。明彦に最後の別れを告げる気すら起きない。 彼が躊躇なく美鳥を優先し、自分を二度も死の危険に晒したあの時。 佳苗は二度と彼に会うまいと心に決めていた。 彼女はすぐに駅へと向かい、あらかじめ買っておいた切符を握りしめて待合室に座った。 静かに座り、時間を数える。 あと十数分で改札が始まる。 これからは故郷へ帰り、新しい人生を始める。 その時、スマホが鳴った。 明彦からの電話だった。電話の向こうで彼が怒鳴りつけてくる。「佳苗、お前は本当に冷酷な女だな!お前のせいで美鳥のうつ病が再発したんだぞ。謝罪にも来ずにどこへ隠れた?いいか、今すぐ来て土下座して謝らないなら、お前とは離婚だ!」 佳苗はふっと笑い、短く答えた。「望み通りにしてあげるわ」 電話越しに、駅の構内アナウンスが響いた。 「……お前、今どこにいる?」 明彦の口調が急変し、声にわずかな焦りが混じる。 佳苗は迷わず通話を切り、SIMカードを抜き取ってゴミ箱へ捨てた。そして荷物を引き、改札口へと歩き出した。 今度こそ、彼女は二度と振り返らなかった。