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今世はもう誰にも縛られずに、私らしく輝く
かつての西園寺真由(さいおんじ まゆ)は、街で一番輝いていた。風のように自由で、火のように情熱的。思うままに生きていた。 けれど真由は...
Chương (1)
第1章
かつての西園寺真由(さいおんじ まゆ)は、街で一番輝いていた。風のように自由で、火のように情熱的。思うままに生きていた。
けれど真由は、深津市でも一目置かれる厳格な経営者、伊藤秀明(いとう ひであき)と結婚することになった。
秀明はまるで精密な機械のように冷徹で、自分自身に厳しく、妻である真由に対しても同じ完璧さを求めた。
遊びたがりの真由がクラブでホストたちと過ごそうとすると、秀明は街中の遊び場に連絡を回し、彼女を出入り禁止にさせた。
真由は自由を愛し、海外で楽しむのが好きだった。カーレースやスカイダイビングもお手のもの。だが、秀明はパスポートを取り上げ、行動を制限した。
第1話
かつての西園寺真由(さいおんじ まゆ)は、街で一番輝いていた。風のように自由で、火のように情熱的。思うままに生きていた。
けれど真由は、深津市でも一目置かれる厳格な経営者、伊藤秀明(いとう ひであき)と結婚することになった。
秀明はまるで精密な機械のように冷徹で、自分自身に厳しく、妻である真由に対しても同じ完璧さを求めた。
遊びたがりの真由がクラブでホストたちと過ごそうとすると、秀明は街中の遊び場に連絡を回し、彼女を出入り禁止にさせた。
真由は自由を愛し、海外で楽しむのが好きだった。カーレースやスカイダイビングもお手のもの。だが、秀明はパスポートを取り上げ、行動を制限した。
カメラや絵画を愛する真由から、秀明は大切な趣味の道具を奪い、一生使えないように封印した。
真由は発狂しそうになりながらも、秀明が決めた厳しいルールを守る「完璧な妻」になろうと必死だった。
しかし、そんな努力も虚しく、ある時パーティで「品がない」と陰口を叩く女たちと言い争い、掴み合いの喧嘩をしてしまった。
噂を聞きつけて現れた秀明は、冷ややかな視線を浴びる真由をかばうどころか、冷たく言い放った。
「教育が行き届いておらず、申し訳ありません。妻は、まだ社交の場での振る舞いを知らないもので」
その瞬間、真由の体中の血液が凍りつくのを感じた。
真由は、一生をかけてようやく分かった。秀明は自分を愛していない、という残酷な現実を。
その後、交通事故で、短く窮屈な人生は幕を閉じた……
はずだった。しかし、目を開けると、真由は時を遡っていた。
秀明と結婚する、その前だった。
鏡に映る輝きを失っていない自分を見て、自由を求める心の鼓動を感じ、真由は深く息を吸った。
もう二度と、息の詰まるような秀明の愛になんて振り回されない。
ただ、自分らしく、自由で気ままな真由として生きていく。
真由はすぐさま階段を駆け下り、朝食をとっていた父・西園寺大輝(さいおんじ だいき)のもとへ向かった。
「秀明との婚約を白紙にしたい!」
スプーンを止めた大輝は、信じられないと顔を紅潮させて叫んだ。「何を言っているんだ!?今まで好き勝手させてきたが、伊藤家との縁談は誰もが欲しがるものだぞ!能力も家柄も一流の秀明以上の相手がどこにいる?」
自分を無理やり結婚させようとする大輝の顔を見て、真由は鼻で笑った。「それほど素晴らしい相手なら、お父さんの愛人の娘と結婚させればいいじゃない?この婚約、譲ってあげるわよ!」
愛人の娘と言うのは、腹違いの妹である西園寺咲和(さいおんじ さわ)のことだ。大輝は何か良いことがあると、決まって真っ先に咲和を贔屓にする。それを聞き、大輝は怒りから一転、驚きを隠しきれない顔つきになった。「お前、本気で……咲和に譲るつもりなのか?」
「そうよ。愛人とその娘が大好きなんでしょ?お上品でマナーの良いお嬢様になるようにって、散々お金をかけて育てた咲和なら、あの伊藤家のお嫁にふさわしいわよ!」
「お前!」大輝は青筋を立てて怒鳴り散らした。「愛人なんて言葉を軽々しく口にするな!
もともと決まっていた縁談なんだ。でも、どうしてもと言うなら……こちらで勝手に話をつけさせてもらう。すぐに伊藤家へ行って変更の相談をしてくるからな!」
そう言うと大輝は、朝食もそこそこに、上着をひっつかんで家を飛び出していった。
白々しい芝居で、嬉しさを隠せない大輝の後ろ姿を見送る。何と空虚な光景だろう。
真由は無言で二階に戻り、必要書類をカバンに入れると、すぐに家を出た。
そのまま急ぎで渡航の手配をし、親友の佐野真奈美(さの まなみ)を呼び出し、市内で一番騒がしいクラブへ向かった。
耳を打つ重低音と乱れる光、フロアを揺らす熱気……ようやく、自分を取り戻せたような解放感が胸を満たす。
真奈美と声を合わせて飲み踊り、ホストを誘って朝まで遊んだ。
縛られていた真由が以前よりずっと耀き、狂ったように笑っている姿を見て、真奈美は口を開けて驚いていた。
「真由、もうすぐ縁談がまとまるんじゃなかったの?あの堅物で有名な伊藤さんが知ったらどうなると思ってるの?伊藤家を怒らせたら、私の家なんて一瞬で潰されちゃうわよ!」
真由は酒を煽り、喉を焼くような感覚に快感を覚える。
そして、悪戯っぽく微笑んで囁いた。「大丈夫。婚約は、咲和にあげてやったから」
「譲ったの?」真奈美は呆然とした。「だって、ずっと憧れていたでしょ?慈善パーティーで見初めた伊藤さんに夢中で、『彼しか私の相手はいない』って泣いてたじゃん……」
真由は真っ赤な唇を曲げ、冷え切った眼差しで切り捨てた。「憧れと好きは別。あの人は私の運命の人じゃない。もう、あんな男は興味ないの。
恋も素敵だけど、やっぱり自由が一番よ。美人でお金持ちの私が相手に困るなんてことない。例えば……」
隣に座る恥じらうホストのあごを指でそっとすくう。真由の声はいたずらに満ちていた。「こういうタイプのほうが、ずっと楽しそうじゃない?」
言葉が終わるのと同時に、場違いなほど冷たく響く声が耳元に聞こえた。
「誰が良いって?」
第2話
真由の体がこわばり、ゆっくりと振り返った。
目の前には、いつの間に来ていたのか秀明が立っていた。
仕立ての良いブラックスーツを完璧に着こなし、その姿は凛々しい。静かで冷ややかな空気を纏った秀明は、騒がしく乱れたクラブの中ではあまりに異質で、周囲を圧倒していた。
真奈美は息をのんだ。一気に酔いが醒めた彼女は、真由に「あとは勝手にやって」という目配せをすると、カバンを掴んでそそくさと逃げ出した。
その場には、真由と秀明の二人だけが取り残された。
そして真由の手は、気まずそうにホストの顎に触れたままになっていた。
秀明が真由の手を睨みつけ、その瞳は怒りでどんよりと濁った。
彼は一歩詰め寄ると、真由の手首を力任せに掴み、そしてホストに向かって、氷のように冷たく「失せろ」と言い放った。
凄まじい威圧感にホストは青ざめ、他の連中もろとも這うようにして逃げ去った。
真由は勢いよく秀明の手を振り払い、赤くなった手首をさすりながら、腹立たしげに睨み返した。「秀明!何するの!」
「それはこちらの台詞だ」秀明の声は氷よりも冷たかった。「なぜこんな場所に来た?」
「来たかったから来ただけよ」真由は悪びれる様子もなく、挑発的に言い放った。「あなたに何の関係があるの?」
秀明は、反省の色すらなく強気な態度の真由を見て、さらに瞳を暗く沈ませた。
次の瞬間、真由の悲鳴とともに、秀明は躊躇なく腰をかがめて、彼女を肩に担ぎ上げた。
「秀明!何するの、降ろして!この最低男!」
驚きと怒りで、真由はバタバタと足を暴れさせ、秀明の背中を力いっぱい叩いた。
しかし、相手は動じることもなく、周囲の驚きの視線を無視してクラブから担ぎ出した。そして、そのまま待機させていた黒いロールスロイスに真由を押し込んだ。
「出発しろ」
「かしこまりました」
車が静かに走り出す。真由は腹立たしさからドアを開けて飛び降りようとした。
「真由!」秀明は真由の腕を掴み、座席に引き戻した。「一体いつまでそんな風に騒ぎ立てるんだ!」
秀明は真由をまっすぐに見据え、一語一句冷たく言い放った。「君はもうすぐ伊藤家に嫁ぐ身だ。伊藤家のルールを渡したはずだろう。夜10時以降の外出禁止、クラブなどの場所への出入り厳禁。目を通していないのか?
今後、二度とあのような場所へ行くことは許さん。今日の件について、帰ったら1万字の反省文を提出しろ!」
1万字の反省文?ルール?
真由は呆れて笑いそうになった。そして、怒りで胸が激しく上下する。
前世で、この3000にも及ぶルールに縛り付けられ、あやつり人形のように生きたのだ。
今世で、二度と同じ轍を踏むつもりはなかった。
「誰がそんなくだらない反省文を書くのよ!」真由は怒鳴るように叫んだ。「あなたの決めたルールなんて知ったこっちゃない!婚約なんて解消よ!」
言葉が響くと、車内にはしんと静寂が広がった。
秀明が激しく振り返った。その深い瞳は真由を逃がすまいと射抜き、信じがたいものを見る複雑な色が混ざっていた。
秀明はしばらく無言で見つめ、ようやく歯を食いしばるようにして聞いた。「どういうつもりだ?」
その姿を見て、全部ぶちまけてしまいたいという衝動に駆られたが、真由はなんとか理性を保った。
こんなにも自分という存在を嫌っている秀明だ。もし婚約者がすり替わっているとバレれば、それこそ伊藤家が望むような素晴らしい令嬢に彼が心を通わせてしまう。そんな結果は悔しすぎる。
前世の屈辱を思い出し、真由は深く息を吸い込む。
あえてこの期間、自分と婚約させられているという地獄を味わわせて、何日か苦しめてやる。
そう決意すると、あふれる感情を抑え込み、真由はわざと窓の外へ視線をそらした。「別に、深い意味なんてないわ。つい言ってしまっただけ」
秀明は少しの間真由を値踏みするように見つめていた。すると、その暗い瞳から殺気がわずかに薄れたようだが、口調は依然として妥協を許さない。「おとなしく座っておけ」
激怒してもなお背筋を伸ばし、一糸乱れぬ秀明を見ていると、前世の息苦しい記憶が次々と甦り、怒りが込み上げてきた。
絶対に従ってなるものか。
真由はわざと座席にだらしなく崩れ落ちると、ヒールを脱ぎ捨て、裸足で高級なマットの上に足を伸ばした。それから車の窓を開け、夜風に乱れ髪を晒した。
こうやって自由奔放に、自分らしく、品位など構わずにいる。
これこそが、本当の真由なんだから。
秀明は、車内の厳格で洗練された空気とは真逆の真由を見やり、眉間に皺を寄せていたが、最終的に何も言わなかった。
車は西園寺家の邸宅の前に到着し、真由はドアを開けようとした。
「真由」背後から秀明の冷淡な声がかかった。「1万字の反省文、明日の朝までに提出するように」
そう言い捨て、運転手に車を出すよう命じた。
遠ざかる車のテールランプを眺めながら、真由は路端の小石を力いっぱい蹴飛ばした。
第3話
真由は裏庭を通り過ぎて邸宅に入った。ドアを開けると、父の大輝、継母の西園寺梓(さいおんじ あずさ)、そして咲和が、まるで待ち構えていたかのようにリビングのソファに並んで座っていた。
酒臭く、服も乱れた真由の姿を見た大輝は、みるみるうちに表情を険しくした。「どこをほっつき歩いてたんだ?こんな時間まで何をしている!それにその格好は何だ、はしたないにもほどがあるぞ!」
真由は大輝との会話を早々に切り上げ、階段へと向かった。「秀明との縁談はもう断ったの。どこで何をしようと私の勝手でしょ」
すると咲和が立ち上がり、真由の前に立った。隠し切れないほどの笑みを浮かべて。「お姉ちゃん、お父さんから聞いたの。婚約を譲ってくれるって本当?」
その白々しい態度に吐き気がした真由は言い捨てた。「そうよ、あげるわ。どうせ、人が捨てたゴミを拾うのが好きでしょ?」
「真由、なんてことを言うんだ!」大輝が激昂する。
「秀明のような一流の婿など、そうそう巡り合えるものじゃない!あそこへ嫁ぐことは、わが西園寺家にとって名誉なことなんだ!もう伊藤家には婚約者を変える相談に行っている。伊藤家はお前よりも咲和の方を気に入っているくらいだ!後悔するなよ!」
真由は鼻で笑った。「ご安心を。私がやることすべて、後悔なんて微塵もしていないから」
それを聞いた梓は、わざとらしくため息をついた。「真由、私、心配してるのよ。そんなじゃじゃ馬な性格じゃ、婚約もなくなった今、誰がお嫁にもらってくれるのかしらね……」
真由の瞳から、冷徹な光が宿った。「私に説教できるような身分なの?愛人の分際で……自分の娘の心配でもしてたら?人の男を奪うのも、そう簡単に上手くいくとは限らないわよ!せいぜい頑張ることね!」
言い返された梓は言葉に詰まり、大輝は怒りのあまり震えていた。
相手にするのも面倒になった真由は、足早に自分の部屋へと向かった。
翌朝、真由が目を覚ますと、秀明が待ち構えていた。
相変わらず冷徹で、隙のない身なりだ。真由の姿を見るやいなや、秀明が放った言葉は「反省文」というものだった。
真由はドアにもたれかかり、ゆるんだパジャマの隙間から華奢な鎖骨をのぞかせていた。
あくびをしながら「書いてないわ。これからも書くつもりはないし」と呟く。
秀明の顔色が瞬時に冷え、露骨に苛立ちを露わにした。「いつになれば、君は言うことを聞けるようになるんだ」
「私はこういう人間なの」真由はまっすぐに見返した。その瞳には反抗の色が宿っていた。「言いなりになるなんて一生無理よ。誰かに管理されるなんて大っ嫌いだから」
「君は――」
二人の空気が一触即発の危機に陥ったとき、咲和が絶妙なタイミングで現れた。
清楚なワンピースに身を包み、品行方正で柔和な微笑みを浮かべている。
「秀明さん、お姉ちゃんを責めないで」と咲和は優しい声で話し、丁寧に書かれた反省文を秀明に差し出した。「お姉ちゃん、昨日は機嫌が悪かっただけだと思うの。だから私が代わりに書いておいたけど……これでどうかしら?」
それを受け取った秀明の表情は、一瞥した後に真由を見たことで、より深い落胆に染まった。
「咲和を見習ったらどうだ。同じ家で育ちながら、なぜこうも彼女のように謙虚で分別ができないんだ?
昨日の件はこれで終わりにする。反省の色がないのは困る。すぐに着替えて、一緒にビジネスパーティーに出席するぞ」
真由は迷わず首を振った。「行かないわ。咲和を連れて行けばいいんじゃない?彼女の方があなたの好みなんでしょ」
秀明が眉を寄せた。「真由!君は俺の婚約者だ」
その一言が、鋭いナイフとなって真由の胸に突き刺さった。
そう、自分である理由は「君じゃなきゃダメだから」じゃない。ただ昔決めた契約があり、家名として婚約破棄ができないからだ。
愛情など、ここには微塵も存在しない。
もし選択権があるのなら、秀明はずっと前に咲和を選んでいただろう。
それなら、この世で存分に成就させてやろうじゃないか。
咲和はすかさず言葉を挟んだ。「秀明さん、お姉ちゃんはこういう格式張った席は不慣れなのかもしれない。……それなら、私がお手伝いしようか?お姉ちゃんに足りない礼儀や作法があれば、横から私が教えるわ」
そう言って、真由の拒絶も聞かずにその腕を取り、強引に階段へと引っ張り始めた。「さあお姉ちゃん、似合う服を私が選んであげる」
部屋に入ると同時に、真由は咲和の手を振り払い、氷のような視線を向けた。「二人っきりになったんだから、そんな仲のいい姉妹を演じるのはやめて」
咲和の柔和な笑みは瞬時に消えた。しかし、冷淡な口調で返した。「お姉ちゃん、勘違いしてるみたいね。本当に仲良くなりたいだけよ」
「仲良くなりたい?一生無理。あなたなんか死ねばいいわ!ああ、死んだらあなたの墓の前で狂ったようにダンスして祝ってあげる!あなたの母親も連れて、二人仲良くあの世へ行きなさいよ!」
痛いところを突かれた咲和は顔色を悪くしたが、ついに牙を剥いた。「いい加減にしなさいよ!本当に仲良くしようなんて思うわけないでしょ?秀明さんに次の婚約者が私だって知られたら、あちらは大喜びよ!あなたみたいな無礼でだらしない人間は、秀明さんにふさわしくないんだから!」
「あら」真由は眉を上げて一歩近づき、嘲るような口調で放った。「それならどうしてさっき、秀明にその婚約者が変わったってことを自分から教えなかったの?怖いの?彼に全部バレたら逃げられるかもって、自信がないんでしょ?」
第4話
「でたらめ言わないで!」咲和は猫が尻尾を踏まれたように金切り声を上げた。「秀明さんが知ったら、むしろ婚約者が私に代わって大喜びするわ!隠しているのは、結婚式当日に彼を驚かせたいからよ!あなたも黙ってることね!」
「安心して。あなたたち婚約者の戯れには、興味ないから」
今世は、ただ自分らしく生きたかった。
結局、真由は強引にビジネスパーティーへ連れていかれた。
会場は煌びやかで、多くの人でにぎわっていた。
真由は、控えめで淡白な白のドレスを着た咲和と対照的に、真っ赤な背中の開いたドレスを選んだ。
オープニングダンスが始まると、秀明の視線が二人を行き交い、最終的に咲和に手を差し伸べた。
すると、周囲でひそひそと囁き声が上がる。
「あれ?婚約者は真由さんじゃないの?なぜ伊藤さんは妹さんを?」
「見れば分かるでしょ。どう見ても伊藤さんは咲和さんの方がお気に入りなのよ」
「それもそうだわ。咲和さんは物静かで上品だもの。真由さんは綺麗だけど、勝手気まますぎて伊藤家の厳しい女主人としては、少し無理があるかもね……」
秀明はその批判など聞こえないように真由を見て、淡々と告げた。「君、ワルツなんて踊れないだろう。ちょうど今夜、咲和にでも教えてもらうんだな」
そう言うと、秀明は咲和の手を引いてダンスフロアの中央へと踏み出した。
美男美女の息の合った踊りで、周囲は二人に釘付けになった。
眩い光の中、優雅に舞う二人を遠目に、真由は嫉妬どころかひどく冷めた気分だった。
見るのも嫌になった真由は、軽食コーナーで適当に何かをつまむと、人目を避けてテラスへ出た。
夜風の冷たさが、胸の内の苛立ちを少し和らげてくれた。
だがそれも束の間、後ろから誰かが付いてくる気配がした。
それは、咲和だった。
高揚感で頬を赤くした咲和は、勝ち誇ったような勝ち気な視線を真由に向けた。
「ねえ、お姉ちゃん。独りで何隠れてるの?私と秀明さんのダンスを見るのが耐えられなかった?言ったよね。たとえ秀明さんでも、あなたと私だったら絶対、身分をわきまえてる大人しい私を選ぶんだから」
咲和は一呼吸置いて、底意地の悪い響きを含ませた。「可哀想よね。あなたのお母さんは私のお母さんに負けて、今度はあなたまでも負けた……やっぱり、失敗っていうのは血筋なのかもね?」
単なる嫌がらせなら、無視すればいいだけのことだった。
だが、咲和だけは絶対に許さない。底線を越えてしまった――亡き母を侮辱したからだ。
真由の表情から笑みが消え、その瞳が鋭く氷ついた。振り返るなり、予兆もなく咲和の頬に容赦なく平手打ちを食らわせた。
勢いよく横を向いた咲和の頬には、鮮明な叩いたあとが浮かんだ。
咲和は自分の顔を押さえ、信じられないという目で真由を睨みつけた。「今、私を殴ったの!?」
「それが何」真由は一歩ずつ歩み寄り、冷気をまとって相手を威圧した。「今度は突き飛ばすから覚悟して!」
真由は咲和の襟元を掴んでテラスの際へと押しやった。「二人の時なら何をしてもいいとでも?私、空手道習ってたの。あなたみたいなブリっ子を片付けるなんて、どうってことないんだけど?」
下層の地面が見える恐怖と怒りで、咲和は悲鳴のような声を上げた。「真由!よくもこんなこと!」
「さっさと落ちろ!」
言葉と同時に、ヒールを履いた足が咲和の腹部を蹴り抜いた。
「あッ!」
咲和の悲鳴が夜空を裂き、バランスを崩した彼女は脆い柵を壊して暗闇へと転落していった。
第5話
下の階からは、悲鳴がすぐに響き渡り、騒動になった。
テラスの端に立つ真由は、冷ややかに芝生に横たわる咲和を見下ろしていた。それは生きた心地のする様子ではなかったが、心は少しも揺らがなかった。
乱れた服の裾と髪を整え、手すりに掛けていたショールを手に取った。真由は静かに振り返ると、波乱の場を後にしようとした。
だが、出口の門をくぐろうとしたその瞬間、後ろからぐいと腕を掴まれた。
振り返った先には、怒りと疑念に満ちた秀明の暗い瞳があった。
急いで駆けつけたのか、荒い息をつく秀明が睨みつける。その声は、まるで氷のような冷たさを帯びていた。
「咲和がテラスから落ちた……君の仕業か?」
真由は秀明の手を振り払い、堂々と言い放った。「そうよ。だから何?」
秀明の表情は恐ろしいほど険しくなった。「咲和に作法を学ぶように言っただろ、君はなんてやつだ!いい加減にしろ!帰って、今すぐ咲和に謝れ!」
「謝れって?」真由は、可笑しなものでも聞いたかのように鼻で笑った。「彼女の自業自得よ!私に謝らせるなんて、百年早いわ!」
「君はもう救いようがないな!」
秀明はそれ以上言い合わず、後ろのボディーガードに冷たく命じた。「謝る気がないなら、痛みで教えてやれ!この池に放り込め!俺の許可なく、パーティーが終わるまで絶対に出すな!」
「秀明!あなた何様よ?触らないで!」真由は必死に抗った。
秀明は真由の手首を骨が痛くなるほどの力で締め上げた。彼女の目を見つめ、一語一句噛みしめるように告げる。
「俺は君の婚約者だ!君は咲和が死にかけたって分かってるのか!今俺が罰を与えなければ、君のお父さんならもっと酷い罰を与えるだろう!いい加減、現実を見ろ!」
「何が婚約者よ!私たちはずっと……」
真由は婚約解消の事実を叫ぼうとしたが、ボディーガードたちが彼女を組み伏せた。怒号を上げて抵抗する真由は、そのまま氷のような水の中へと投げ込まれた。
初春の夜、池の水は骨まで染みる冷たさだった。
何度か水を飲んで溺れかけ、なんとか浮上して上がろうとした。
しかし、端に手が届くたび、ボディーガードに無慈悲に押し戻されてしまう。
何度トライしても、同じように冷たく水の中に押し戻された。
「秀明!このクズ男!放しなさいよ!」
真由の絶叫が虚しく響く。答えの代わりに、息を呑む窒息感が何度も襲ってきた。
繰り返される攻防に体力が奪われ、極寒で全身の感覚が麻痺していった。
最悪なことに、下腹部がいつもの痛みを告げた……
生理が来てしまったのだ。
鮮血が清らかな池の水に混ざり、少しずつ赤く染まっていく。それが徐々に広がり、ボディーガーもようやく気づいた。
真由の顔は青ざめた。冷たさだけではなく、激しい腹痛のためだった。
朦朧とする意識の中、近くでボディーガードが誰かと電話している声が聞こえた。「社長……真由様に生理が来たようで、出血がひどいようですが……まだ続けますか?」
数秒の沈黙の後、聞こえてきた秀明の声は、水越しの騒音さえ断ち切るほど決然としていた。「続けろ。でないと、あいつは学ばない」
学ばない?
秀明の目には、自分の反抗も苦痛も、全ての理由さえ、どうでもいいのだ。
ただルールを守り、思い知らせることだけが望みらしい。
冷たかったはずの水が、いまはまるで滾る溶岩のように肌を、そして心臓を焼き付けた。
肉体的な苦痛を遥かに凌ぐ絶望感が、この水面のように真由を深く、深く覆いつくした。
涙と混ざり合い、視界が滲んでいく。
もう一分も耐えられなかった。目の前が真っ暗になり、真由は自分の血で染まった池の底へとゆっくり沈んでいった。
第6話
真由は再び目を覚ますと、鼻先に病院特有の消毒液の匂いが漂っていた。
目を開けると、病室のベッドの上に寝かされていた。
誰かに手を握られているのを感じ、横を向くと、秀明がベッドのそばに座り、目を閉じていた。彼の目元には、うっすらとクマができている。
秀明はこちらの気配に気づいたのか、すぐに目を開いた。
視線が交差すると、彼はさっと手を離した。目元にあった疲労感や、どこか切なげな感情が瞬く間に消え去り、いつもの冷ややかな表情に戻る。
「君のお父さんのところへは、俺から詫びを入れておいた」秀明は感情を抑えた、平坦な声で続けた。「彼は君をこれ以上責めないと約束した。だが真由、約束してくれ。今後は咲和を傷つけるな。君の妹なんだからな」
「誰が詫びを入れろと言ったの?」真由は声をかすれさせ、皮肉たっぷりに言い放った。「それに、表舞台にも出られない隠し子ごときが妹?昔だったら、そんな身分、公にすらできないわよ!」
秀明は眉をひそめ、何か言い返そうとした。その時、病室のドアがそっと開き、看護師が顔を覗かせた。
「伊藤さん、隣の病室の方ですが、精神的に不安定になられていて、ずっと伊藤さんを呼んでおられます」
秀明は立ち上がり、乱れのない袖口を直しながら、真由に言った。「咲和を見てくる。彼女は君との件で怪我をしたんだ。君の婚約者として、見舞うのが筋だろう」
真由は口角をひきつらせ、窓の外に顔を向けた。「さっさと行けば?そっちこそが本当の婚約者でしょ」
秀明は立ち止まり、真由の方を振り向いて眉をひそめた。「今、何と言った?」
繰り返す気にもなれず、真由は掛け布団を頭までかぶり、会話を拒絶する姿勢を示した。
対話を拒む真由を見て、秀明は困ったようにこめかみを押さえたが、結局は看護師に従って病室を後にした。
その後、真由は数日間、病院で静養することになった。
点滴の交換や巡回でやって来る看護師たちの会話から、秀明と咲和についての話を嫌でも耳にすることになった。
「伊藤さん、本当に西園寺さんに夢中ですよね。毎日お見舞いにいらしてるわ」
「そうよ。西園寺さんは苦いのが苦手らしくて、わざわざ輸入品のお菓子まで取り寄せて差し上げていたわ」
「あの方たちって、本当に美男美女でお似合いだと思わない?」
誰もが、温厚で従順な咲和こそが、秀明の正真正銘の婚約者だと思っていた。
それを聞きながらも、真由の心は少しも揺るがなかった。それどころか、滑稽で笑いそうになるほどだ。
みんなにそう思わせておけばいい。
退院当日、秀明がやって来た。
看護師から退院証明書を受け取ると、待合室のソファーに寄りかかってスマホを触っていた真由に向かって秀明は言った。「準備しろ。送っていく」
「西園寺家には戻らない」真由はスマホから目を逸らさずに言った。
秀明の顔つきが険しくなり、拒否を許さない響きで言った。「真由、いい加減にしろ」
反論の余地も与えず、秀明は歩み寄って手首を掴んだ。力任せではないが、強い支配力を感じさせる手つきで真由をベッドから引き起こし、そのまま強引に待合室から引きずり出して車に押し込んだ。
車は西園寺家の邸宅へと向かった。家に着くや否や、真由は秀明の手を振り払ってまっすぐ自室へと向かった。
しかし、部屋のドアを開けた瞬間、背筋が凍りついた。
咲和がドレッサーの前に座り、きらめくブルーサファイアのネックレスを首にあてがっていた。
それは、真由の母親が残してくれた唯一の形見だった。
「誰の許可を得て、私のものに触っているの?」氷のように冷たい声で、真由は言い放った。「それを置いて、すぐに出て行って!」
咲和は突然現れた真由に驚いたようだったが、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべ、ネックレスをわざと指先でひらひらさせた。「これがあなたのものって?真由、教えてあげる。この家のものは全部、じきに私のものになるのよ!」
「前回、蹴り落とされたのがまだ足りないみたいね?」真由はゆっくりと近づき、獲物を狙う目で睨んだ。
「あれは不意を突かれただけよ!」咲和は強気に鼻で笑う。「今回もまた怯むとでも思った?」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、咲和は目つきを変え、ドレッサーの上にあったアンティークの花瓶を掴み取ると、地面に思い切り投げつけた。そのまま自分も破片の中に崩れ落ち、わざとらしく悲鳴をあげた。
轟音を聞きつけて、すぐに大輝と梓が駆け込んできた。
「何事だ!」大輝が飛び込んできて、散乱した破片と、その中に座り込んで涙を流す咲和を見ると、表情を青ざめさせた。
咲和はすぐさま涙ぐんだ瞳で真由を指さし、いじらしく泣きじゃくった。「お父さん……私……ただ、お姉ちゃんのネックレスが綺麗だから少し見ていただけなのに……突然押されて……」
「真由!」大輝は怒りに燃え、真由の説明を聞くこともなく、力いっぱい彼女をひっぱたいた。
部屋の中に、鋭い平手打ちの音が響き渡った。
頬が瞬時に赤く腫れあがり、ヒリヒリとした痛みが走る。
真由は首を傾げ、口の内側が切れて滲んできた血を飲み込んだ。泣くどころか、低く笑い声を上げた。
第7話
「なにがそんなにおかしいんだ!」大輝は気味悪げに問い詰めた。
真由は顔を上げ、氷のように冷たい眼差しを向けて、芝居がかった様子の咲和を一瞥した。「演技が得意ね。だったら最後まで演じさせてあげる」
真由がドレッサーにあった金属製のペンを手に取る。次の瞬間、咲和が手をついていた場所に容赦なく突き刺した。
「きゃあ!」
咲和の悲鳴が響き渡った。ペンの先端が手のひらを貫き、その手を床に縫い留めた。赤い鮮血が勢いよく飛び散った。
「なんてことだ……狂ってる!」大輝は全身をわななかせて激昂した。「出て行け!うちの敷居を二度とまたぐな!」
大輝は使用人を呼ぶと、真由を無理やり邸宅から引きずり出し、小さなスーツケースと一緒に大門の外へ投げ捨てた。
真由はよろけながらも必死に足を踏ん張った。
表情を殺したまま、引きちぎられたように痛む腕をさすり、荷物の中から母親の形見のブルーサファイアのネックレスを拾い上げて強く握りしめた。
華やかで冷酷な邸宅を最後に見やり、未練なく背を向けた。
しかし、歩き出すとすぐに、前触れもなく空から激しい雨が降り出した。
大粒の雨が真由を襲い、あっという間にびしょ濡れになった。
初春の冷気が体に染み入る。震えが止まらず、道の脇にある小さな店の軒下に駆け込んだ。
雨が髪から滴り落ちる中、腕を抱きしめて朧気な街の景色を眺めた。心の中には広大な虚無だけが残っていた。
そのとき、見覚えのある黒いロールスロイスが静かに止まった。
ウィンドウ越しに見えたのは、秀明の毅然とした横顔だ。
びしょ濡れで、うなだれる真由の姿を目にした瞬間、秀明の眉が険しくひきつった。
彼はドアを押し開けて降り、数歩で駆け寄った。「乗れ」
「あなたには関係ない」真由は顔を背けた。
秀明は問答無用で真由の腕を掴むと、力ずくで助手席へ押し込んだ。
暖房が効いた車内に救われたのか、真由の体の震えが少し和らいだ。
秀明は黙ってタオルを差し出すと、真由を自分の住む屋敷へと車を走らせた。
自分用のシャツとパンツを投げ渡して着替えさせると、救急箱を持ってきて、真由の腫れた顔に薬を塗った。
「いったい何があった?」秀明は沈んだ声で問いかけた。顔の腫れや弱々しく濡れた髪から目を逸らさない。
真由は口を結び、答えを拒んだ。
その時、部屋のインターホンが鳴った。
秀明がドアを開けると、そこには厚い包帯を巻いて青ざめた顔をした咲和が立っていた。
「秀明さん……」咲和は秀明を見ると涙ぐんだ。「お姉ちゃんがお父さんに追い出されたと聞いて。心配で……この前ひどい目に遭わされ、今回はペンで……でも姉妹だし、連れて帰りたくて……」
リビングでそれを聞いていた真由は、耐え難いほどの吐き気を覚えた。
ドアの前へ行き、咲和を睨みつける。「いい加減にして。次もまた気持ち悪い演技をするなら、その口を引き裂くわよ?」
「真由!」秀明が険しい声で制した。「いつまで狂った真似をするつもりだ?人を殴る、押す、刺す。令嬢がするようなことじゃないぞ!咲和は気遣って迎えに来ているというのに、なぜ感謝すらできない?」
咲和は秀明の袖を引くと甘えた。「秀明さん、いいの。お姉ちゃんが戻って来てくれば」
「謝れ」秀明が冷ややかに命じた。
「嫌よ」
言い争いの最中、秀明が真由を捕らえようとし、真由がそれを振り払った。
もみ合ううちに秀明の手がカウンターのケトルにぶつかった。
バシャーン。
熱湯がこぼれ、一気に広範囲に飛散した。
咄嗟の反応で秀明は近くにいた咲和を抱き寄せ、自らの背中で熱湯のほとんどを受け止めた。
一方の真由は逃げきれず、熱湯が体に降りかかった。すねから腕にかけて、肌を引き裂かれるような灼熱の痛みだ。
激痛で座り込み、顔は死人のように真っ青になった。
秀明は咲和を確認した。手元に少し熱湯がかかった程度で済んでいるようだ。
咲和を放してようやく、床に丸まっている真由の方を見た。
あらわになった皮膚がみるみる腫れあがっていく様は、凄惨としか言えない。
秀明の瞳孔が縮み、手を伸ばそうとする。
「秀明さん!」咲和が腕に縋りついた。「私は大丈夫、ちょっと痛いだけ。でも、お姉ちゃんの方は……重症かも……」
秀明の足が止まった。真由の表情と、懸命な咲和の顔を見て、真由の以前の「悪行」を思い返し、表情が固まった。
秀明は真由を一瞥もせず、咲和を抱き上げ冷徹に言った。「放っておけ。一度痛い目を見たほうが、誰かを傷つけるような真似もしなくなるだろう」
そう言って、秀明は咲和を抱いたまま大股で立ち去った。
第8話
真由は冷たい床に崩れ落ちた。体は火がついたように痛むのに、心には大きな穴が開き、冷たい風が吹き荒れているようだった。
激痛と目眩をこらえながら、震える手でポケットからスマホを探り出し、救急にかけた。
……
退院して再び戻ったその日は、ちょうど咲和の誕生日会だった。
西園寺家の邸宅は、まるでお祭りのように飾りつけされ、華やかな雰囲気に包まれていた。
形式上の「長女」である真由は、どうしても顔を出さなければならなかった。
人目に付かない隅で立っていると、大輝が咲和の肩を抱き寄せ、皆に「最高の娘だ」と自慢しているのが見えた。大輝は自分の持つ財産の大部分を、咲和の名義にするという。
周りからは、祝福の声や羨望の溜息が漏れ聞こえてくる。
そんな光景を眺めながら、真由の心は冷え切っていた。
これまで、心からお祝いしてもらった誕生日なんて一度もなかった。
母は早くに亡くなり、父は無関心だった。誕生日といっても、いつも一人でケーキを囲み、人知れず願い事をするだけだったのだ。
パーティーが盛り上がる中、一人また一人と贈り物を差し出す。
大輝が贈った額だけでも驚きだが、秀明がベルベットの小箱を取り出し、眩いダイヤモンドのネックレスを咲和に着けた瞬間、会場は歓声に包まれた。
咲和は幸せそうに勝ち誇った笑みを浮かべ、時折ちらりと真由の方を眺める。
これ以上見ていられず、真由は静かに飲食エリアへ移動し、酒を煽って無理やり心を麻痺させようとした。
しかし、それすらも難しいようだ。
咲和の友人グループが、嫌味なほど楽しげに真由のそばへ寄ってきて、わざと体をぶつけてきた。
「あら、真由さんじゃない?今日は咲和のお祝いなのよ?なんでそんな暗い顔してるの?もしかして、彼女が幸せなのが面白くないのかしら?」
もめごとを起こしたくない真由は、黙って立ち去ろうとした。
「ねえ、聞いてるの?耳が聞こえないフリ?なんとか言いなさいよ!」もう一人が真由の腕を乱暴に掴む。
もう、我慢の限界だ。
真由が勢いよく腕を振り払うと、その反動で相手はよろめいた。
真由はテーブルの上に置かれた酒瓶を掴むと、挑発してくる相手を射るような目で睨みつけた。
「私はチャンスをあげたはずよ。それを捨てたのはあなたたちよ!」
言い終わるか終わらないかのうちに、真由は迷わず酒瓶を相手の頭へと振り下ろした。
パリーン。
瓶が割れ、アルコールと鮮やかな血が混ざり合って流れた。
「ぎゃあ!」
悲鳴が響き渡り、みんなはパニックに陥る。
真由は周囲の声など聞こえていないかのように、容赦なく襲いかかる。数人に同じ仕打ちを食らわせたところで、駆けつけた秀明に手首を掴まれて止められた。
「真由、一体何を考えているんだ!」秀明は散らかった現場と流血した女たちを見て、険しい表情で言い放った。
真由は鼻で笑った。「言ったでしょ。相手が先に手を出したから、お返しをしただけよ!」
「お返しだと?」秀明は失望と怒りに震える。「これは傷害事件だ。彼女たちが何か言ったなら、君に悪いところがあるからだろう!反省して謝るのが普通だろう!」
「お断りよ!」
反抗的な態度の真由を見て、秀明の我慢が限界に達した。
彼はずっと真由が密室と暗闇を極端に怖がることを知っている。
「間違いを認めないなら、反省させてやる!」秀明はボディーガードに命じた。「こいつを地下室に連れて行け。俺が許可するまで一歩も出すな!」
真由を見下ろし、冷たい声で付け加える。「君は、痛い目を見ないと分からないのか」
無理やり連れ出され、真由は窓一つない暗い地下室へと放り込まれた。
ドアが閉まった瞬間、冷たい潮流のように真っ暗な闇が押し寄せ、真由を飲み込んでいく。
子供の頃に閉じ込められた時の恐怖が鮮明に蘇り、真由は隅で丸まって震えるしかなかった。
暗闇の中では、時間がやけに長く感じる。
空腹、渇き、寒さ。そして暗闇への恐怖が、絶え間なく神経を追い詰める。
3日目、もう限界だというその時、急に扉が開け放たれた。
差し込む光と共に咲和が現れ、勝ち誇ったような笑みを向けた。
「秀明さんがどうお仕置きするのかと思ったら、ただの監禁なの?全然生ぬるいじゃない」咲和が指を鳴らすと、屈強な男たちが後に続いた。
「何をするつもり?」真由の声は極限の疲労で掠れていた。
「お仕置きの続きよ」咲和が酷薄に微笑む。「電撃椅子に縛り付けてあげて」
第9話
「咲和!いい加減にして!ここを出たら、絶対に許さないから!」真由が必死に抵抗するが、二人の男に簡単に押さえつけられた。
「私を許さない?そんなの聞いて呆れるわ」咲和は面白そうに笑った。「あなたと私の間には、秀明さんが壁になってくれるのよ。彼がいつもどっちの味方をしてきたか、忘れたの?」
その言葉は、まるで刃物のように、真由の心を深く切り裂いた。
その通りだった。誰が正しかろうと、秀明はいつも咲和を信じ、かばい続けてきたのだから。
何も言い返せないほどの絶望が、真由を襲った。
冷たい金属の椅子に乱暴に座らされ、ベルトで手足を拘束される。続いて、冷たい電極シートが肌に張り付けられた。
咲和は残酷な笑みを浮かべ、手元のスイッチを入れた。
「ああああっ!」
強烈な電流が体中を駆け巡り、耐え難い痛みと痺れが襲ってくる。真由は悲鳴を上げ、体は自分の意志に反して大きく痙攣した。
視界が真っ暗になり、あまりの痛みに意識が遠のいていく……
どれくらい時間が経ったのか、目を覚ますと、そこはいつものおどろおどろしい地下室ではなく、ふかふかのベッドの上だった。
ベッドサイドには秀明が座っていた。蒼白く弱り切った真由を見て、彼は眉間に皺を寄せる。「ただ3日間反省させろって言っただけのに、どうしてこんな姿になってるんだ?」
真由は秀明を見たくも話したくもなくて、そっと目を閉じた。
秀明が自分の言葉を信じてくれるなんて、もうこれっぽっちも期待していなかった。
「真由」秀明の声には、かすかな戸惑いが混じっていた。「俺は君の婚約者なんだ。何かあるなら隠さず教えてくれ」
婚約者?真由は心の中で冷ややかに笑った。
ゆっくりと目を開け、真由は静まり返った声で言った。「分かったわ、じゃ教えてあげる。この傷は、あなたの大切な咲和がやったのよ。3日目に誰かを引き連れて押し入ってきて、私を電撃椅子に縛り付けて、こうなったの」
秀明の瞳が揺れ、言葉を失った。「電撃椅子だと?そんな……嘘だ!咲和がそんなことをするわけがない……」
「ほらね。やっぱり、私より咲和を信じるのね」真由は鼻で笑った。
信じないのなら、別にそれでいい。やられた分は自分でやり返せばいいだけのこと。
必ず実行してみせる。
その夜、真由は知り合いを頼り、ひどい高所恐怖症である咲和を拉致して服を剥ぎ、伊藤グループ本社の屋上の縁に吊り上げた。吹き荒れる冷たい風の中、咲和を朝まで一晩中さらしておいたのだ。
翌日、激昂した秀明がやってきた。「真由!いくらなんでもやりすぎだ!咲和を屋上で一晩吊るすなんて!彼女が恐怖で暴れて転落したらどうするんだ!命拾いしたのは奇跡だぞ!」
窓辺に座る真由は、秀明が何と言おうと無表情のまま、他人事のように窓の外を眺めていた。
言うことを聞かない真由の態度に、秀明はさらに苛立ちを募らせた。「数日後には俺たちの結婚式があるんだ。両家ともそう簡単に許したりしないぞ。もう式まで大人しく家にいろ。絶対に騒ぎを起こすな、いいな!」
真由は一言も返さず、まるで秀明を透明人間のように扱った。
その強情さに腹を立て、秀明は激しい怒りを残して部屋を飛び出していった。
結婚式の前夜、咲和はようやく青ざめた顔で帰宅した。
大輝は真由を見るなり怒鳴り散らし、その卑劣さを責め立てた。
真由は言い放った。「私が悪魔だとしたら、咲和はとっくに何度か地獄に行っていたわよ」
大輝は怒りのあまり震えた。「この薄情なやつめ!一体いつまで騒ぎを起こすつもりだ!」
「愛人を連れ込み、私生児を正当な家族として居座らせている家が、私にとって居心地がいいはずないでしょ。それとも何、夕飯でも作って歓迎しろと?」
「お前……」大輝は怒りで卒倒しそうだった。「明日には咲和と秀明の結婚式があるんだ、お前は来るな!二度と俺たちの前に出るな!」
真由はクスリと笑った。「ご安心を。あんな窒息しそうな窮屈な結婚式、土下座されても願い下げよ」
第10話
言い終えると、真由は踵を返して自室へ戻った。
翌朝、夜が明け始めた頃、真由のスマホの画面が明るく光り、待ちわびていたメッセージが届いた。
出国ビザが無事に下りたのだ。
真由は手際よく荷造りしておいたスーツケースを手に取ると、迷わずドアを開けた。
階段を降りていくと、そこには凛々しい姿の秀明が、迎えの行列を引き連れて入ってくるところだった。
咲和のたっての希望で、今回は神前式を選び、彼女は気品ある白無垢に身を包み、綿帽子に顔を伏せ、付き添いの方に支えられていた。
秀明には、綿帽子の下の顔は見えない。ただ、そこにいるのが真由だと思い込んでいる。
彼が近づき、花嫁の手を握った。今日は結婚式ということもあってか、普段の冷ややかな口調が少しだけ柔らかくなっていた。「大丈夫だ、怖がるな。俺がいる」
階段の陰からその様子を見ていた真由の心は、不思議と穏やかだった。
ねぇ秀明、自分を厳しく律する跡取りには、慎ましい家柄の優しい令嬢がお似合いね。
綿帽子をめくって花嫁が違う人と気づいたら、きっと喜ぶはずよ。
これは私からの贈り物よ。お礼には及ばないけど。
秀明が滞りなく花嫁を連れ去り、大輝と梓も大はしゃぎで結婚式の会場へと向かうと、邸宅には静寂が訪れた。
真由はスーツケースを抱え、ゆっくりと階段を降りて玄関から外に出た。
一台のタクシーを止め、後部座席に乗り込んだ。
「どちらまで?」運転手は気さくに声をかけたが、真由はすぐには答えなかった。
ポケットから手のひらサイズの装置を取り出し、窓の外に映る、朝日に輝く豪華な邸宅を見つめた。
あそこは、母が自らの手で設計した思い出の場所だ。
けれど母は若くして亡くなり、そこは今や父と愛人、そして腹違いの妹に汚され、吐き気がするような牢獄と化した。
真由の瞳が冷たく凍りつくと、躊躇することなくその小さなボタンを押した。
ドカーン――
耳をつんざくような凄まじい爆発音。
邸宅の周囲に仕掛けた火薬が一度に起爆し、巨大な爆裂音が響き渡った。
猛烈な煙が、苦痛に満ちた思い出が詰まったあの建物を瞬く間に呑み込んだ。吹き荒れる熱波で、離れた場所にいるはずのタクシーさえもかすかに揺れた。
あまりのことに腰を抜かした運転手は、ハンドルを握り損ねそうになり、顔面蒼白でどもりながら叫んだ。「あ、あれって……お家ですよね!?ば、爆発しましたけど?!」
真由は穏やかな顔で振り返り、シートベルトを締めながら、まるで今日の天気の話でもするように淡々と答えた。「ええ、私がやりました。
母が作った家なのに、父が愛人を囲う場所にするなんて、我慢ならなかったので、全部なかったことにしてあげただけですよ」
呆然とする運転手に向かって、真由ははっきりと言った。「空港へ向かってください」
運転手はバックミラーに映る、美しいながらも異様なほど冷徹な顔と、遠くで燃えさかる炎の残骸を交互に見てごくりと息を呑んだ。そこには、信じられないという驚きと、どこか未知の畏敬の念が混ざっていた。
「は、はい、承知いたしました!」
気を取り直して、アクセルを踏み込む。タクシーは空港に向けて猛スピードで走り出した。
窓の外では、過ぎ去る街の景色が、どんどん小さくなる空を焦がす炎と共に、過去のものとなって消えていった。