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偽りの愛はいらない。天才医師はクズ夫を捨てる
木村真奈美(きむら まなみ)は、妊娠4ヶ月の時、夫である木村翔太(きむら しょうた)が書いた遺書を見つけた。 手紙の日付は3日後になってい...
Chương (1)
第1章
木村真奈美(きむら まなみ)は、妊娠4ヶ月の時、夫である木村翔太(きむら しょうた)が書いた遺書を見つけた。
手紙の日付は3日後になっていた。3日後といえば、翔太が危険な任務に向かう日だった。
【この手紙をお前が読んでいるということは、俺はもうこの世にいないのだろう。でも、泉……どうか悲しまないで】
真奈美の指は震え、妊娠中の腹部がぎゅっと締め付けられるように痛んだが、ひたすら続きに目を通す。
【俺の遺産は、すべてお前に受け取って欲しい。もし真奈美から何か言われたら、こう伝えて。真奈美と結婚したのは、ただ責任を取るためだった、と】
一枚ずつ遺書を捲る真奈美の指先は、すっかり冷えきっていた。
彼女が幸せだと信じていた日々は、この一通の遺書によって容赦なく切り刻まれたのだった。
第1話
木村真奈美(きむら まなみ)は、妊娠4ヶ月の時、夫である木村翔太(きむら しょうた)が書いた遺書を見つけた。
手紙の日付は3日後になっていた。3日後といえば、翔太が危険な任務に向かう日だった。
【この手紙をお前が読んでいるということは、俺はもうこの世にいないのだろう。でも、泉……どうか悲しまないで】
真奈美の指は震え、妊娠中の腹部がぎゅっと締め付けられるように痛んだが、ひたすら続きに目を通す。
【俺の遺産は、すべてお前に受け取って欲しい。もし真奈美から何か言われたら、こう伝えて。真奈美と結婚したのは、ただ責任を取るためだった、と】
一枚ずつ遺書を捲る真奈美の指先は、すっかり冷えきっていた。
彼女が幸せだと信じていた日々は、この一通の遺書によって容赦なく切り刻まれたのだった。
翔太がプロポーズしてくれたから、願書提出の前日だったにも関わらず留学は諦めた。
海外の有名な病院からの誘いだって、翔太に「近くにいてほしい」と言われたから断った。
リスクが高いと知りつつ妊娠したのも、翔太が子供を欲しがっていたから。それが二人の愛の証だと思っていたのに……
結局、真奈美がこれまで翔太のためにしてきた人生の選択は、すべて長谷川泉(はせがわ いずみ)という女のためにすぎなかったのだ。
翔太は特殊部隊の指揮官で、冷静かつ勇敢だと、部下からの信頼も厚かった。なのに、そんな翔太が自分の妻の人生を犠牲にしてまでも、別の女を幸せにする計画を立てていたなんて。
激しい吐き気と共に、下腹部に引き裂かれるような激痛が走った。
生暖かい液体が、足の付け根を伝って流れる。
意識が遠のく中、散らばった遺書の最後の一行が目に飛び込んできた。【泉。俺の一番の後悔は、お前を妻にできなかったこと……】
真奈美が次に目を覚ますと、そこは病院だった。
もう何度も嗅いでいた消毒液の匂い。そして、腹部の鈍い痛みが、もうそこには何もないことを真奈美に告げていた。
すると、泣いている泉と翔太が話している声が聞こえてきた。
「私のせいだ。昨日の演習の時……あなたが私のミスをかばって怪我なんかしなければ、もっと早く帰って真奈美の異変に気づけたはずなのに……」
真奈美は目を閉じた。胃がひっくり返るような不快感がする。
自分が子供を失ったまさにその時、翔太は別の女を守って怪我をし、その女も医師という立場で堂々と彼のそばにいたというのだ。
「そんなこと言うなよ。泉」
翔太の声はかすれ、ひどく疲れているようだった。
「俺は指揮官なんだ。部下を守るなんて、当たり前のことだろ?それに、俺は困っている奴を見たら、ほっとけない性分なんだよ。真奈美には、辛い思いをさせてしまったけどな……」
真奈美がやっとの思いで横を向くと、翔太が泉の背中を落ち着かせるように優しく摩っているのが見えた。なんだか、彼らの方が本当の夫婦であるかのようだった。
下唇を強く噛んだ真奈美の口の中に、鉄さびのような血の味が広がる。
泉を落ち着かせた翔太が、ベッドの方へ振り向いた。
真奈美はとっさに目を閉じ、息を殺した。
翔太がベッドの脇に座り、真奈美の冷たい手を握る。銃を握ってできたタコのある硬い手で。
かつては安心させてくれたその感触が、今はただただ冷く感じるだけだった。
「真奈美」翔太は真奈美の手の甲に自分の額を押しつけ、声を詰まらせた。「すまない、お前たちを守ってやれなかった……」
翔太から溢れた熱い雫が、真奈美の肌を焼く。
この男は、誰のために涙を流しているのだろう?この世に生まれてこれなかった子供?それとも泣いている泉?それとも、自分で仕組んだこの嘘が、収集つかなくなったから?
翔太と泉が手続きのため看護師に呼ばれ病室からいなくなると、真奈美はゆっくりと目を開けた。力のない瞳で、ぼんやりと天井を見つめる。
真奈美自身も医者だからこそ、痛いほど分かっていた。今回子供が流れてしまった自分は、もう二度と母親になれないかもしれない、と言うことを。
そしてこの悲劇のすべては、自分の夫が自分ではない他の女に向ける歪んだ「愛」が原因なのだ。
真奈美はベッドサイドのスマホを手に取った。画面の明かりが、血の気のない彼女の顔を青白く照らす。
ロックを解除してメールボックスのゴミ箱を遡った。探すのは、国境なき医師団からのメール。愛美は彼らから、これまで三度にわたり、紛争地域での救援プロジェクトへの参加を打診されていた。
最初の二回は、翔太が「そばにいてほしい」「そんなところに行くのは心配だ」と言うので、断った。
三度目は、妊娠がわかった日だった。だから、幸せな未来を思い描きながら、そのメールを削除したのだ。
しかし今、真奈美は迷いのない指つきで画面をタップし、返信を打ち始める。
【ご担当者様。お世話になっております。木村真奈美です。以前いただいた派遣依頼の件ですが、まだ枠がございましたら、ぜひ参加したいと考えております】
第2話
病室のドアが、再び開いた。
入ってきた翔太が保温ジャーをそっとサイドテーブルに置く。
真奈美が目を覚ましたことに気づいた翔太は、嬉しそうな表情を浮かべ、優しく真奈美に話しかけた。「真奈美、気分はどう?どこか痛むところはあるか?消化にいいものをって思ってスープを作ってみたんだが、どうかな?」
そう言いながら翔太は真奈美の額にそっと手を伸ばした。しかし、真奈美はさっと顔を背けてそれを避ける。
翔太の手が宙で止まった。数秒の沈黙の後、ゆっくりと腕を下ろした。
「先生が安静にしているようにって言ってた。あんまりストレスを溜め込むなよ」
その口調は優しかったが、どこか緊張のようなものを感じる。「子供は……また作ればいいからさ」
真奈美は身動きひとつせず、ただ虚ろな目で天井を見つめていた。
また作ればいい?まるで任務みたいな言い方をする。翔太の「計画」のために、また道具となる子を産めってことなのだろうか?
彼女は自嘲気味に口の端を吊り上げた。カサカサに乾いた唇が、ピリッと痛む。
「あなたの遺書」真奈美の声はひどく掠れていた。「ずいぶん、細かく書いたんだね」
翔太が息をのむ。
彼の瞳に一瞬、動揺が走ったが、それはすぐに秘密を知られたことへの怒りへと変わった。
「勝手に見たのか?俺のものなのに?」
その時、また病室のドアが開いた。
百合の花束を抱えた泉が、心配そうな顔をして入ってくる。
「真奈美、少しは良くなった?」
しかし、部屋の重い空気を察したのか、泉が目を赤くした。「全部私のせいだよね……」
そんな泉を庇うように翔太は立ち上がると、早口で言った。「泉、ちょっと外に出ててくれるか?」
しかし泉が部屋を出ることはなく、むしろ涙を浮かべながら、一歩前に進み出てきた。「真奈美、ごめん……翔太はただ、私のことを心配してくれただけで……それに、あの時は緊急事態だったから、彼も深くは考えていなかったと思う。だから、彼を責めないであげて。責めるなら私を……」
真奈美は泉を冷静に見つめながら、静かな声で言った。「長谷川先生。ここにあなたの三文芝居を見る人はいないよ」
泉は泣き声を詰まらせると、気まずそうに翔太へ視線を向けた。
「真奈美!」翔太が怒鳴る。「なんてことを言うんだ!泉は、お前のことを心配してくれてるんだぞ?それに、流産は事故だった。少しは冷静になれよ。勝手な憶測で、他人に八つ当たりするなんて」
「勝手な憶測?」
真奈美は翔太を見つめた。「私が勝手に言ってるのって、遺産はすべてこの女に渡すって、遺書に書いてあったこと?それとも、最初から私がこの女の踏み台だったこと?」
「あれは、万が一のために作ったものなんだよ!」
翔太はこめかみに青筋を立て、真奈美にぐっと近寄る。「俺の仕事はいつ死んでもおかしくないから、ああいう書類を作るのが決まりなんだ。それに、泉は信頼できる友人だから、彼女に遺産を託すのが一番だと思ったんだよ。なのに、お前はどうしてそんなに心が狭いんだ?話にならない」
泉がすすり泣きながら、翔太の袖を引いた。「翔太、もういいよ……真奈美だって辛いんだから。きっとかっとなって、言っちゃっただけだと思うよ……」
翔太は深く息を吸うと真奈美に向かって言った。「お前は今、精神的に不安定なんだよ。とにかく休んだ方がいい」
少し間を置くと、翔太は声のトーンを和らげた。「スープ、ちゃんと飲むんだぞ。また後で来るから」
そう言うと、翔太は泉の肩を抱き、足早に病室を出ていった。
ドアが閉まると、病室には静寂が訪れた。百合の甘い香りが消毒液の匂いと混じり合って、吐き気がする。
体が固まったように動かなくなっていた真奈美は、ただそこに座っていた。心臓が針で刺されたように痛んでいたが、やがてその感覚も麻痺していく。
横向きになってえずいたが、出てきたのは胃液だけだった。
えずいた拍子に腹部の傷が引きつり、激痛で体を丸めた。冷や汗で服がぐっしょりと濡れていく。
スマホもない。誰もいない。
ただ、雪だけが降り続いている。
ずいぶん経ってから、ドアが静かに開いた。
お椀を持った食堂のスタッフ・石田理恵(いしだ りえ)が入ってきて、真奈美の姿を見て驚いている。
「木村先生、どうして一人なんですか?」
理恵は急いで駆け寄ってくると汗を拭いてくれた。「旦那さんが長谷川先生と一緒に出て行ったのを見たから、木村先生はもしかしたら一人なんじゃないかって思って来てみたら……はぁ、大変だったでしょうね。雑炊を作ってきたから、温かいうちに食べて」
理恵からお椀を受け取ると、雑炊はまだ湯気を立てていた。
真奈美はその湯気をただ黙って見つめる。
心の中に少しだけ残っていたなにかが、完全に冷え切ってしまった気がした。
退院の日、翔太が迎えに来た。少し疲れているようで、目の下にも隈ができていたが、それでもアイロンのかかった制服を身にまとい、背筋を伸ばして立っていた。
彼は手続きを済ませると、乾いた声で言った。「手続きも終わったし、家に帰ろう」
真奈美は翔太を見ることも、返事をすることもせず、黙って彼の後をついて病院を出た。
初冬の冷たさを帯びた風が吹きつけてくる。真奈美は着ているコートをきつく引き寄せた。このコートは以前、翔太が買ってくれたもので、質がよくとても暖かいものだった。
しかし今は、温かみを感じることはなく、骨の髄まで凍えるように冷たい。
車内の空気は凍りついていた。何か言いたいことがありそうな翔太だったが、結局は「まだ……完全に良くなったって感じじゃない。家に着いたら、ゆっくり休め」と言うだけだった。
それは彼の命令するような、それでいて気遣っているようないつもの口調だった。
以前は、それを男らしいとか、心配してくれているんだなと思っていた。しかし今となっては、一言一言がまるで任務を伝える命令のようにしか聞こえなかった。
真奈美は窓の外を過ぎ去っていく枯れ木を、ただ黙って見つめていた。
3年間暮らした基地の敷地内に建てられた家は、相変わらずきれいに片付いていた。
ここは真奈美が愛情を込めて作り上げた、二人だけの居場所で、様々なところに、彼女のこだわりが詰まっている。
だが今では、ただ精巧に作られた舞台セットのようにしか見えなく、その嘘っぽさに、息が詰まりそうだった。
第3話
「俺は職場に行ってくるから、お前は休んでろ。夜には戻るよ」
この重苦しい空気に耐えられなかったのか、翔太は荷物を置くと、それだけを言い残して足早に立ち去っていった。
ドアは特に強く閉められたわけではなかったが、その音はしんと静まり返った部屋に、まるで雷が落ちたかのように響いた。
真奈美は足が痺れるほどの長い間、玄関に立ち尽くしていた。
寝室には行かなかった。そこには、二人で過ごした思い出が多すぎたから。
真奈美はゆっくりと書斎に向かう。そこは翔太が家で仕事をする時に使う場所で、彼女が立ち入ることはほとんどなかった。
書斎の作りはシンプルで、本棚とデスク、椅子があるだけ。
デスクの上にもパソコンが一台だけで、他には何もなかった。
本棚は、ほとんどが勲章や表彰状で埋め尽くされている。
ぼんやりと視線を動かしていると、本棚の一番下の目立たない隅に、紺色の箱が置いてあるのが目に入った。箱の縁は少し擦り切れていて、かなり年季が入っているようだった。
何かに引き寄せられるように、真奈美はその箱へ向かって歩いていくと、しゃがみ込んで箱を手にとってみた。
箱にはなんのラベルも無く、うっすらと埃を被っている。
真奈美は蓋を開けた。
中に入っていたのは重要な書類などではなかった。
初期訓練の頃のバッジが数個、壊れた古い万年筆が一本、端が丸まった理論ノート……物はそこまで多くなく、無造作に放り込まれている。
時の流れを感じさせる品々を指でなぞると、心が冷たく麻痺していくのを感じた。
これらはすべて翔太の過去。自分とは関係のない過去のもの。
すると突然、指先に硬くて滑らかな角が触れた。
ノートと箱の側面の隙間に何か挟まっている。真奈美はそれをそっと引き出した。
一枚の写真だ。
しかも、ウェディングフォトだった。
パリッとした黒のタキシードを着こなし、微笑んでいるのは紛れもなく翔太だった。珍しく優しい目つきまでしている。今よりも少し若く、顔立ちにもまだどこかあどけなさが残っていた。
そして彼の隣で、花のような笑顔を浮かべながら純白なウェディングドレスに身を包み、寄り添っている女性は泉だった。
真奈美の呼吸がぴたりと止まる。
全身の血が瞬時に凍りついたかと思うと、一気に逆流し、耳の奥でゴウゴウと鳴り響いた。
彼女は床にうずくまった。写真の角を握る指が、まるで氷水にでも浸したかのように冷たくなり、震えが止まらない。
満開な花畑を背景に、柔らかな光に包まれながら見つめ合う二人からは、この上ない幸福感が溢れている。翔太を見つめる泉の幸せと信頼に満ちた、全てを委ねるような笑顔が、真奈美の心を鋭く突き刺した。
こんなまっすぐな愛情表現を、真奈美は一度も翔太にしたことがなかった。そして、翔太から受け取ったことも、同じく無かった。
真奈美は、自分たちのウェディングフォト撮影のことを思い出す。
翔太が、「仕事が立て込んでいて時間がない」と言ったので、真奈美は一番シンプルなプランを選び、写真館で数枚撮っただけだった。
ウエディングフォトの中の真奈美は、無理に作った引きつった笑顔をしていたし、翔太も直立不動で、まるで任務をこなしているかのように、規律正しいだけで、ロマンチックなどというものは微塵もなかった。
カメラマンも冗談めかして言っていた。「もっとリラックスしていいんですよ。こんなに綺麗な花嫁さんなんだから、もっと嬉しそうに笑って、笑って!」
しかし翔太は口角を少し引きつらせただけで、出来上がった写真の笑顔は、いかにも作り笑いという感じで、とてもぎこちなかった。
真面目な人だから、こういうのは慣れていないのだろうと、真奈美は自分に言い聞かせていた。
だが、そうではなかったのだ。翔太は笑えないわけでも、優しくできないわけでもない。ましてや、カメラの前で愛情だってしめせたのだから。
翔太はただ、そのロマンチックな一面も、心のこもった配慮も、優しい微笑みも、すべて……別の女性に捧げていただけだった。
決して公にすることはできないかもしれないけれど、彼が心の底で大切にしていた「結婚式」。
ポタッ。
熱い雫が一滴、写真の中の泉の輝く笑顔の上に落ちた。瞬く間に小さなシミとなって広がっていく。
真奈美ははっとした。頬に手をやると、ひんやりと濡れていた。
自分は、まだ涙を流せたのだ。
もう何も感じないと思っていたのに。この写真によって、心の最も深いところをこじ開けられ、裂けるような痛みに襲われる。
遺書を見た時よりも、ずっと痛い。
遺書は心のない、打算的な計画書だった。しかしこの写真は、かつて確かに存在した、燃えるような愛情の証。
そして自分は、最初から最後まで、「替え玉」ですらなかったという証拠でもある。
自分は彼らを隠すための、ただの隠れ蓑にすぎなかった。
写真の中できらきらと輝く泉と、窓に映る自分の姿を見比べる。幽霊のように青白く、目の落ち窪んだ姿。
太陽の下で咲き誇る薔薇と嵐に打たれて枯れた枝。
なんて皮肉なんだろう。
真奈美はゆっくりと写真を元の場所に戻し、箱の蓋を閉めると、本棚の一番下へと押し込んだ。
自分の身体なのに、まるで映画のスローモーションのように見えた。関節の一つ一つが錆びついてしまったかのように、ぎこちない。
立ち上がると、一瞬目の前が真っ暗になった。本棚に手をついてなんとか体勢を立て直す。
下腹部の鈍い痛みが、さらに増している気がして、全身の神経もその痛みに引っ張られていった。
椅子までなんとか移動して座ると、虚ろな目で前方の壁を見つめた。
そこには、幸せな二人が手を取り合う様子が描かれた一枚の絵が飾ってあった。それは数年前に、真奈美が自ら描いたものだった。
今となっては、その幸せそうに笑うその二人が彼女の愚かさと惨めさを嘲笑っているかのように見える。
この家は、最初から自分の家ではなかったのだ。
「都合のいい妻」である自分を飼っておくためだけの、念入りに準備された鳥籠。
本当に翔太が心を奪われ、家庭を築きたいと願った相手は、ずっと外の世界にいて、秘密のウェディングフォトを撮り、仕事も未来も共にしていた。
喉の奥からまた生臭いものがこみ上げてきた。今度は抑えきれず、真奈美は身をかがめて激しくえづいた。だが、何も吐き出せない。ただ、焼けつくような痛みが胃から全身に広がるだけだった。
どれくらい時間が経っただろうか。やっと吐き気が収まった。
彼女は椅子にぐったりともたれかかる。全身に力が入らない。
窓の外は、すでに暗くなっていた。
書斎の電気はついておらず、暗闇が真奈美を飲み込んでいく。
しかし、あのウェディングフォトの泉の眩しい笑顔が脳裏に焼き付き、いつまで経っても忘れられなかった。
第4話
ウェディングフォトが真奈美に与えた衝撃は、かなりのものだった。まるで心に「代替品」と焼き印を押されたような痛みが走り、今まで見過ごしてきたたくさんの些細なことが、一気に繋がっていく。
真奈美は、自分の結婚式のことを思い出した。
「派手にしたくない」という翔太の考えと同じく、真奈美もそこまで盛大にしなくてもいいと思っていたので、本当に親しい職場の仲間と、ごく一部の親戚だけ呼んだこじんまりとしたものだった。
結婚式の前の晩、翔太は「緊急の任務が入った」と言い、朝まで帰ってこなかった。
真奈美は一人、新居でウェディングドレスを眺め翔太の帰りを待っていた。少し寂しかったが、それ以上に、彼の仕事を支える者としての覚悟を決めたのだった。
結婚式当日、翔太は時間通りに現れた。タキシード姿はいつも通りかっこよかったが、その表情には拭いきれない疲れと……どこか憂いを帯びた影が差していた。
司会者に挨拶の言葉を促された翔太は、マイクを受け取り、数秒黙ったあと口を開いた。「真奈美の、俺の仕事への理解と協力に感謝しています。これからは……夫としての責任を果たしていくつもりです」
その言葉はとても堅く、まるで業務報告のようだった。
しかし参列者は皆「翔太さんは真面目すぎる」なんて言って、会場からは温かい笑い声と拍手が起こった。
真奈美もつられて笑った。心によぎった小さな違和感は、新婚の恥ずかしさと周りの賑やかさにかき消されたのだった。
今思えば、あの疲れと憂いは、前の晩、別の女のために「出動」していたからだったのではないだろうか?
あの「責任を果たす」という言葉は、初めからこの結婚の本質を物語っていたのかもしれない。
それに、自分たちの結婚式に泉は参列していなかった。
泉は大事な出張があって間に合わないのだと、翔太が言っていた。
だから真奈美はわざわざ泉に電話までして、「仕事は大事だから、気にしないで」とフォローをいれたぐらいだった。
電話の向こうの泉の声は少しかすれていて、「真奈美、本当にごめん。一生に一度の結婚式なのに……絶対に幸せになってね。翔太は……あなたのことすごく大事に思ってるから」と言った。
あの時は、親友からの祝福と謝罪の言葉だとしか思わなかった。しかし今、改めて思い返すと、一言一句が偽りと残酷さに満ちている。
あのかすれた声は、泣いた後だったのでは?
翔太の隣に、堂々と立つことができなくなったから?そして、泉が言った「翔太も大事に思ってる」なんて言葉にも、やはり別の意味があったのだろう。
この結婚は、最初から三人の喜劇だった。しかし、台本を知らされていない自分だけが、全てうまくいっていると思い込み、一人芝居を演じていただけで……
夜が更けた頃、鍵が回る音がした。
翔太が帰ってきた。外の冷たい空気と、かすかなタバコの匂いをまとって。
真奈美がもう寝ているとでも思ったのか、忍ばせた足音がリビングへと向かって行く。
真奈美は書斎の暗闇の中に座ったまま、特に立ち上がることもしなかった。
しばらくして、寝室のドアが静かに開けられる音が聞こえた。翔太が自分の様子でも見にいったのだろう。
また少しすると、足音がゲストルームの方へ向かった。翔太は残業で遅くなった時、真奈美を起こさないようにとゲストルームを使うのだった。
家の中が、再び静けさを取り戻す。
しかし、その静寂はすぐに破られた。
押し殺したような、かすかな話し声が、階下から真奈美の耳に届く。
どうやら、家の中からではなく、下の庭のようだ。
まるで魂を抜かれた抜け殻のように、彼女は見えない力に引っぱられるまま、ゆっくりと立ち上がると、庭に面した小さな窓辺へと近寄った。
窓の外は深い夜の闇に包まれ、庭には薄暗い街灯がひとつ灯っているだけ。
その明かりがちょうど途切れたあたりの暗がりに、二つの人影が寄り添うように立っている。
翔太と泉だった。
翔太はこちらに背を向け、泉が彼に向き合うようにして、少し顔を上げていた。
距離があるので、何を話しているかは聞こえない。ただ、泉の肩が小刻みに震えているのが見える。どうやら泣いているようだった。
翔太の手が動いた。少し戸惑うように、その手は泉の肩に置かれ、優しくさすっている。なぜだか、慣れた手つきで慰めているようにも見えた。
しかし次の瞬間、泉が不意に一歩踏み出し、その顔を翔太の胸にうずめた。
翔太の体は明らかにこわばった。泉の肩をさすっていた手は止まり、宙に浮いたまま……だが、すぐに彼女を突き放そうとはしなかった。
街灯が、寄り添う二人の影を長く伸ばす。冷たい地面に映ったその影は、ぴったりと一つに重なっていく。
真奈美は、二階の窓の暗がりから、ただ静かにその光景を見つめていた。
荒れ果てた心に残っていた翔太への最後の期待の灯火も、完全に吹き消されてしまった。
怒りも、嫉妬も、痛みでさえも何も感じることはなかった。ただ、すべてが凍り付いたような、完全な静寂だけが心を支配している。
子供が流れてしまい入院し、心も体もボロボロだった時も、自分の人生がとても滑稽なものだと知った時も……この二人は、こんなにもお互いに惹かれ合っていたなんて。
遺書だって、泉の将来を保証する内容だった。
だとしたら今、翔太はその温もりと腕で本当に愛する女性を慰め、彼女が悲しまないよう、そして、将来に傷がつかないよう守っているということなのだろうか?
なんて責任感のある男なのだろう。
「責任」だけで一緒にいる妻には氷のように冷たく、「責任」のない愛する人には、この上なく優しい。
やがて翔太が、ほんの少しだけ身を引き、泉と距離をとった。そして、また何かを小声でささやく。
泉もこくりと頷き、手の甲で目元を拭った。
それから二人は、前後に並んで、静かに庭の外の小道の先に消えていった。
おそらく、翔太は彼女を寮まで送っていくのだろう。
真奈美は窓から離れた。明かりはつけず、手探りで書斎のデスクまで行くと、パソコンの電源を入れた。
画面の冷たい光が、血の気のない彼女の顔を照らし出す。その瞳は、底知れない闇のように漆黒で……
真奈美は職場のシステムにログインした。キーボードの上で一瞬指を止めたが、驚くほど落ち着いた手つきでタイピングを始める。
題名の欄は「退職届」。
本文はまるでカルテの要約を書いているかのように、至ってシンプルだった。
真奈美は一度見直す。誤字脱字はなく、文体も客観的。感情的な非難は一切なく、遺書やウェディングフォト、先ほどの庭での出来事、そして、流れてしまった子供のことにも触れていない。
なぜなら、これらのことは自分の恥であり、傷だ。だから他人に見せて、とやかく言われる必要はない。
真奈美が望むのは、ただ一刻も早く、この吐き気のするような関係を断ち切ることだけだった。
全てを終えると、彼女はパソコンを閉じた。書斎が再び暗闇に沈む。
リビングに行き、ソファに腰を下ろした。果てしない夜の闇を見つめながら、ただひたすら夜明けを待った。
この夜は、ひどく長く感じられた。
第5話
真奈美が退職届を提出してから3日後、職場の上司は真奈美の夫である翔太を呼び出したらしい。
青ざめた顔の翔太が、慌てて家に帰ってきた。リビングのソファに無表情で座る真奈美を見るなり、その目には驚きと怒り、さらには暗い感情など複雑な色を浮かべる。
「真奈美、一体どういうつもりだ?」
翔太はなんとか怒りを抑え、できるだけ冷静に尋ねた。「仕事辞めるのか?子供が死んだからか?でも、あれは事故だっただろ?お前が辛いのは分かる。でも、また……」
「子供のせいじゃないよ」
真奈美は翔太の言葉を遮る。その声は波一つない湖面のように静かだった。彼女はまっすぐに翔太を見つめていたが、その視線は彼を通り抜け、まるで何もない空間を見ているようだった。
「翔太、理由は分かっているでしょ?退職届に書いた理由だって、言葉通りの意味。もう芝居はやめて。疲れたの」
翔太は言葉を詰まらせた。目の前の女は長年連れ添った妻のはずなのに、まるで知らない人ように思えるのだ。
真奈美の瞳に宿る、氷のような静けさと揺るぎない決意は、翔太が用意していた言葉をすべて喉の奥に押しとどめた。
彼は気づいた。もはや「責任」や「償い」「お前のためだ」といった言葉では真奈美を言いくるめられないことを。それどころか、彼女の本当の感情にさえ触れることができなくなった。自分と真奈美との間には、分厚い氷の壁がそびえ立っていた。
「もしかして……泉から何か聞いたのか?」
最後の望みを託して、翔太は苦しげに尋ねた。
しかし、真奈美はその言葉を嘲笑うかのように、ほんの少しだけ口の端を上げた。「彼女が何か私に言わなければならないことでもあるの?あなたたちは、すべて抜かりなく準備したんでしょ?」
翔太の顔からさっと血の気が引き、その屈強な体が微かに揺れた。
リビングが息が詰まるような沈黙に包まれる。
それからの数日間、翔太は真奈美となんとか話をしようとしたが、彼女は一切応じずに、必要最低限の用事以外はゲストルームに篭り、出てくることはなかった。
この家は、彼女の滑稽だった過去数年間の人生を葬る墓場のように、静まり返っていた。
こんな状況でも、サプリメントや果物を手に、いかにも心配していますよといった表情の泉が、二度ほど家を訪れた。
「真奈美。身体は大事なんだから、いつまでも意地張ってないでさ……翔太との間に何か誤解でもあるんじゃない?翔太は口下手なだけで、真奈美のことを大切に想ってるのは本当なんだから……」
泉は二人の仲を取り持とうとする言葉を口にしながらも、その視線は時折、翔太に向けられていた。それも、何かを言いたげな、甘えるような眼差しで。
取り繕う気力さえ、もう残っていなかった真奈美は、ただ淡々と帰ってほしい旨を伝えた。
泉の芝居を見ていると、吐き気さえ覚えた。
週末、翔太は上司からの助言を受け入れたのか、あるいはこのままではいけないと思ったのか、気分転換に外出しようと真奈美を誘った。
「新しくできたお蕎麦屋さんに行こう。お前も前に行きたいって言ってただろ?」
翔太にしては珍しく、なんだか懇願するような響きがあった。
そばにいた泉も、すぐに話を合わせてくる。「そうだよ真奈美。ずっと家に閉じこもってるより、絶対外に出た方がいいよ。それに、あのお店、評判もいいし、お蕎麦だったら体に負担もないと思うしさ。私も一緒に行くよ。その方が賑やかで楽しいもんね!」
泉の態度は、親友を心から心配し、夫婦仲を取り持とうとする、気の利く友人そのものだった。
真奈美は本来行きたくなかった。だが、ふと思ったのだ。後悔しているように振る舞っている翔太と善人を演じている泉を、外の明るい日差しの下で見れば、今回のことを全てはっきりと受け止められるかもしれない、と。
そう思い、彼女は黙って頷いた。
三人で出かけるのは、なんとも気まずかった。
翔太が運転し、助手席には泉。真奈美は一人、後部座席に座った。
道中、泉が時々話題を作るが、翔太が短く答えるだけで、真奈美はずっと黙りながら、窓の外に流れる景色を見ていた。
蕎麦屋は、賑やかな商店街の近くにあった。
週末の午後ということもあり、道は車と人でごった返している。
車に鍵をかけた翔太は、真奈美に向かって歩いて行き、無意識に真奈美と腕を組もうとして手を伸ばしたが、彼女はさっと身をかわし、それを避けた。
翔太の伸ばされた手は宙で固まり、やがて力なく下ろされた。
三人は横断歩道の中ほどにある安全地帯まで来ると、反対側の車が途切れるのを待った。
真奈美は二人よりも少し後ろに立ち、うつろな目で周りの喧騒を眺めていたが、何を見ても心が動かなかった。
そして、翔太の後ろ姿を見つめる。彼の隣に立つ泉との、腕一本分もない、まるで何の隔たりもないかのような距離を。
その時だった。耳をつんざくような、鋭いタイヤの摩擦音が、突然鳴り響いた。
けたたましいエンジン音と共に、銀色のセダンがコントロールを失ったように道路脇から猛スピードで飛び出し、一直線に安全地帯に向かって突っ込んできたのだ。
人々が悲鳴を上げながら、一目散にその場から離れていく。
すべては一瞬の出来事だった。
しかし真奈美は、ただ牙を剥いて迫ってくる車を見ていることしかできなかった。
彼女の頭は真っ白になり、体は固まって、まったく動くことができない。
それとほとんど同時に、斜め前に立っていた翔太が、素早く動くのが見えた。
彼の反応は驚くほど速かった。だが、彼が守ろうと向かった人物は、恐怖に固まっていた真奈美ではなかった。
翔太はなんの躊躇いもなく、素早く腕を広げると、すぐ隣にいた泉を強く抱きしめ、車とは反対方向に転がる。
そして真奈美は……暴走する車の真正面に取り残されたのだった。
鋭いブレーキ音、衝突音、そして人々の悲鳴が一緒になって響き渡った。
しかし、真奈美も間一髪のところで、パニックになって逃げ惑う通行人の一人によって、横から強い力で突き飛ばされたのだった。
突き飛ばされた拍子に倒れ込んでしまい、後頭部を安全地帯の冷たく硬い縁石に強く打ちつけた。頭が激しい痛みに襲われる。
それと同時に、最後の最後で急ハンドルを切ったセダンが安全地帯の縁をかすめるようにして走り去っていった。その風圧で、頬もひりひりと痛んだ。
目の前の景色がぐるぐると回り、周りの騒がしい音も遠くなっていく。
意識が闇に沈む直前、真奈美のぼやけた視界に映った最後の光景。それは数メートル先で、翔太が泉をきつく抱きしめている姿だった。地面に倒れ込みながら、翔太は怯えたような、そして心底心配そうな顔で、泉の様子を窺っていた。
彼は、真奈美の方などちらりとさえ見なかった。
第6話
次に気がついた時、真奈美は病院のベッドの上にいた。
ツンと鼻をつく消毒液の匂い。見慣れた病室の天井。
頭が割れるように痛む。そっと触ると後頭部には、分厚いガーゼが巻かれていた。
左腕にはギプスがはめられていて、胸のあたりもズキズキと痛む。軽度の肋骨骨折と脳しんとう、そう医師から説明された。
看護師の話では、通りすがりの人が救急車を呼んでくれたらしく、もう一人の倒れていた女性と共に病院へ運ばれたということだった。
その女性はショックが大きかったものの、擦り傷だけだったのでもう手当ても済んでたいしたことはないという。
「旦那さん、確かその女性に付き添っていましたよ。さっきまで、廊下の外にいたんですけど……どこ行っちゃったんですかね?」看護師は何気ない口調でそう言うと、点滴の速度を調節した。
真奈美は、そっと目を閉じた。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、翔太は一瞬の迷いもなく泉を選んだ。
そして自分の命は運命に……いや、死神に委ねた。
あの退職届を出しておいて、本当によかった。
むしろ、出すのが遅すぎたくらいだ。
まさか自分は、こんな男と5年も同じ職場、同じ屋根の下で暮らしていたなんて。
おまけに、こんな男の子供を、このお腹に宿していたとは……
本当に馬鹿みたいだ。吐き気がするほど、気持ち悪い。
真奈美の怪我は、数日間入院して様子を見ることになった。
翔太は何度か病室に来たが、いつも黙ってしばらく立っているだけ。真奈美の冷たい横顔を見て、何かを言いたそうにしても、結局は口を開かない。
そして最後に、かすれた声で「ゆっくり休め」と言うだけだった。
それから、果物か何かお見舞いの品を置いて、部屋を出て行く。
翔太も、真奈美にどう接したらいいのか分からなかったのだ。あの時、とっさに泉をかばったことをどう説明すればいいのかなんて、尚更わかるわけが無かった。
説明?今さら、何を説明するというのだろう。
一瞬の決断。しかし、一瞬の決断にこそ、その人の本心が表れるというものだ。
泉も一度だけ見舞いにやって来た。ずっと泣いていたようで、彼女の目は真っ赤に腫れ上がっていた。
泉はベッドの横に座って、ギプスをしていない方の真奈美の右手を握る。そして、涙を流して言った。
「真奈美、ごめん、本当にごめん……私、あの時パニックになっちゃって……翔太をびっくりさせちゃったのかもしれない。きっと、翔太は二人とも助けようとしてくれたはずなのに……」
真奈美はそっと手を引いた。振り払うというようなことはしなかったが、はっきりと拒絶の意思を示す。
真奈美は泉の演技を、ただ黙って見ていた。涙ながらに、翔太が泉を助けたことを弁解する姿。一見真奈美のことを心から心配しているようだが、よくよく聞けば至る所で翔太をかばっているその姿を。
なんて健気で、悲劇的な二人なのだろう。そして自分は、そんな二人の間に割り込んで、おまけに車に轢かれそうになった、ただの邪魔者ってわけなのだ。
「長谷川先生」真奈美は口を開いた。衰弱と、久しぶりに声を出したせいで声はかすれていたが、はっきりとした口調で伝える。「私はもう大丈夫だから、早く帰ってもらえるかな?」
泉の泣き声が、ぴたりと止まった。気まずさと屈辱、そして、かすかな怒りが泉の顔をよぎる。
泉は唇をきゅっと結ぶと、立ち上がった。「じゃあ……お大事に。あまり考え込まないでね」
真奈美は目を閉じ、彼女の方を見ることはなかった。
ようやく、病室に静けさが戻った。
体がズキズキと痛む。だが、荒れ果て、氷のように冷え切った心の方が、ずっとつらかった。
ベッドに横になったまま、点滴の落ちるのを目で追いながら考えた。早く退院したい。早く、ここから完全にいなくなりたい。そればかりを願っていた。
その日の午後、薬が効いてきたのか、真奈美はうとうとしていた。
病室のドアがきっちり閉まっていなかったのか、少し開いた隙間から、廊下の声がかすかに聞こえてきた。
最初は、看護師たちが引き継ぎをしている小声だった。でもその直後、もう少しはっきりとした話し声が耳に入ってきた。
男と女が話している声。二人とも、病室のドアからそう遠くないところにいるようだった。
男の声は低く小さかったが、真奈美にはすぐ分かった。翔太の声だ。そして、泣いている女の声は泉だろう。
「……もうやめてくれ。今は、頭が混乱してるんだ」翔太の声は、ひどく疲れていて、苛立ちが感じ取れる。
「混乱?翔太、今更混乱してるとか言うわけ?」
泉が鳴き声まじりに声を荒げた。「あの夜、私は妊娠したの!翔太、私はあなたの子供を妊娠したの!」
ドアの外が、しんと静まり返る。
病室の中で、真奈美は息を呑んだ。全身の血が頭に上ったかと思うと、今度は一気に引いていった。残ったのは、氷のような冷たさだけ。
「確かなの。妊娠検査薬で反応が出たんだから」泉の悲痛な泣き声が聞こえる。「時期から考えても間違いないと思う。真奈美が流産で病院に運ばれた、あの前の晩……あの時、あなたは私のところにいたでしょ?」
真奈美の頭の中は、真っ白になった。
自分が子供を失ったあの前日、翔太が泉に新しい命を授けていたなんて……
ドアの外の声は、もうよく聞こえなかった。だが、これ以上聞く意味なんてない。
真奈美は布団を頭まで引き上げて、白い闇の中に自分を閉じ込めた。
もう十分だ。
退院の日、翔太は来なかった。
真奈美は一人で退院の手続きを済ませ、あの「家」と呼んでいた場所へ帰った。
まっすぐ寝室に向かい、スーツケースを取り出すと、淡々と自分の荷物を詰め始めた。
動作一つひとつはとてもゆっくりしたものだったが、迷いは一切なかった。
服、本、カード類。必要なものだけを詰めていく。それから、とっくに用意しておいた記入済みの離婚届。
離婚届は、リビングのテーブルの一番目立つ場所に置いた。
少し考えてから、真奈美はノートを一枚破る。そして、ペンで一言だけ書き添えて、離婚届の上に重しのように置いた。
そして、スーツケースの取っ手を握ると、5年間暮らしたこの部屋をぐるりと見渡す。その瞳に、未練の色は微塵もなかった。
ドアを開けて、外へ出る。一度も、振り返ることなく……