春の終わり、私はあなたを手放した

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春の終わり、私はあなたを手放した

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「私は魂の純度を求めている。だからこそ、私が相手に求めるものは、肉体ではなくイデアの領域なんだ。俗世にまみれた君は、その相手ではない...

Chương (1)

第1章

「私は魂の純度を求めている。だからこそ、私が相手に求めるものは、肉体ではなくイデアの領域なんだ。俗世にまみれた君は、その相手ではない」 大学教授の上杉悠真(うえすぎ ゆうま)が、初めて九条凛(くじょう りん)の告白を断った時のその声は、冷淡そのものだった。 凛の表情が一瞬にして強張る。しかし、すぐに笑顔を作り直して言った。「じゃあ、豪華な金縁の『恋愛哲学書』でもプレゼントしようか?」 「いらない。そんな低俗なもの」そう言うと、悠真は背を向けて去っていった。「これ以上、こんなくだらない事に時間を費やさない方がいい」 だが、簡単に諦める凛ではなかった。 高卒という肩書を持ちながらも、18歳で会社を興した凛。そんな彼女は、欲しいものは全て手に入れてきた。 寝る間も惜しんで哲学書を読み漁り、悠真の講義に通い詰めた。しかし、講義中に質問をした際、分かったふりをするな、と切り捨てられてしまった。 それでも、覚悟を決めた凛は、悠真の隙をついて、勢いよく背伸びをし、彼に口づけをしたのだった。 第1話 「私は魂の純度を求めている。だからこそ、私が相手に求めるものは、肉体ではなくイデアの領域なんだ。俗世にまみれた君は、その相手ではない」 大学教授の上杉悠真(うえすぎ ゆうま)が、初めて九条凛(くじょう りん)の告白を断った時のその声は、冷淡そのものだった。 凛の表情が一瞬にして強張る。しかし、すぐに笑顔を作り直して言った。「じゃあ、豪華な金縁の『恋愛哲学書』でもプレゼントしようか?」 「いらない。そんな低俗なもの」そう言うと、悠真は背を向けて去っていった。「これ以上、こんなくだらない事に時間を費やさない方がいい」 だが、簡単に諦める凛ではなかった。 高卒という肩書を持ちながらも、18歳で会社を興した凛。そんな彼女は、欲しいものは全て手に入れてきた。 寝る間も惜しんで哲学書を読み漁り、悠真の講義に通い詰めた。しかし、講義中に質問をした際、分かったふりをするな、と切り捨てられてしまった。 それでも、覚悟を決めた凛は、悠真の隙をついて、勢いよく背伸びをし、彼に口づけをしたのだった。 その瞬間、悠真は電気ショックでも受けたかのように、力いっぱい凛を突き放した。 凛は冷たい壁に叩きつけられ、ぶつかった肘がひりつくように痛む。 ハンカチを取り出し、力任せに口元を拭いながら、悠真は凛を睨みつけた。「凛。こんなこと二度とするな。吐き気がする」 「吐き気がする」その一言は、凛の心を凍らせるのには十分だった。 しかし、標的を定めれば、泥の中からでも這い上がり、一直線に突き進む、それが凛なのだ。 そんな中、ある事故が起きた。 その時、自分の危険も顧みず、炎の上がる車の中から悠真を救い出した凛の行動が、彼の心を動かし、念願の結婚を果たしたのだった。 だが、新婚初夜から彼女は一人きりだった。3年間、キスはおろか、同じベッドに入ることもなく、手さえ握ったことがなかった。 しかし、凛は自分に言い聞かせるしかなかった。悠真が望んでいるのは、全ての肉欲を排除した、精神的な愛なのだから、と。どちらにせよ、悠真が他の女に手を出すこともない。 肌の触れ合いがないということ以外は、とても魅力的で、優しい夫だった。 自分が残業で深夜遅くまで起きていると、悠真は家政婦に夜食を作らせ、書斎へ届けるように言ってくれたし、季節の変わり目に体調を崩しやすかった凛のために、前もって主治医に薬を用意させておいてくれたこともある。 何気なく話した宝飾品のことですら覚えていて、出張帰りにわざわざ買ってきてくれた。 日常に溢れる些細な優しさに、「きっと心の中では自分を大切に想っているはずだ」と凛は信じていた。 しかし、遠藤杏(えんどう あん)という悠真の教え子の登場によって、その淡い幻想は打ち砕かれる。 杏といる時の悠真の顔からはいつもの冷徹な面影が消え、凛が聞いたこともないほどの甘い声になっていた。 悠真は杏が彼に近づき、腕を組むことを許し、額にかかった髪を整えてやることまであった。 そこに、悠真が言っていた、しきたりや縄張りというものは、微塵も存在していなかった。 そして、規律を何よりも重んじていた悠真が、杏の研究を優先し、講義の時間になっても教室にいないなどということが何度も起こるという、前代未聞の事態になったのだ。 凛の心が、生まれて初めて木端微塵に砕け散る。 瞳を潤ませて悠真を問い詰めると、彼は不機嫌そうに眉を寄せた。「杏とは精神的な同志にすぎない。君のその低俗な考えで、私たちの関係を決めつけるな」 凛は杏にも一言言いに行ったのだが、その後1週間、悠真が家に帰ってくることはなく、弁明一つさえなかった。 やがて、杏が教授を誘惑し、不倫に発展したという噂がキャンパス中に広まると、自暴自棄になった杏は泣き叫び、自殺騒ぎを起こした。 真っ赤な目をした悠真が、凛の手首を骨が折れんばかりの力で掴みながら叫ぶ。「君がやったのか?」 悠真の取り乱す様子を見ても、凛は冷静だった。 「そうだよ」 悠真はさらに問い詰めた。一体どういうつもりなのだ、と。 凛はただこう答えた。「この結婚生活を蝕む害虫を駆除して、私のものを取り返そうと思っただけ」 「君のもの?」悠真はまるで、とんでもない冗談を聞いたかのように笑い出す。 「もし君が欲しいものがこれだと言うのなら……」悠真は自分自身を指さし、唇を震わせながら、一語一句絞り出した。「この命は、どうせあの時に無くなっていたものだ。君が欲しいと言うなら、くれてやる。だが、二度と杏には関わるなよ!」 その言葉を言い終わるや否や、悠真は車道へと飛び出していった。鈍い衝撃音が響く―― 「悠真!」 凛は叫びながら駆け寄る。悠真が杏のために死すらも選んだという事実が信じられなかった。 救急車で病院に運ばれ、すぐに、手術室の赤く不気味なランプが点灯する。 冷たい廊下、悠真の血で手が真っ赤に染まった凛は、震えていた。 その時、目を真っ赤にして、顔中を涙で濡らた杏が駆けよってきた。 杏は凛の前まで来ると、力なくその場に崩れ落ち、凛の足にすがりつく。 「凛さん、お願いです。もう悠真さんを追い詰めないであげてください。悠真さんは、あなたといても幸せになれないんです!」 足をかなり強い力で揺さぶられるのとともに、凛の胸に激痛が走った。 杏は泣きじゃくりながら、一枚の検査結果を凛の目の前に突き出した。 「ゆ、悠真さんとの子供がいるんです。2ヶ月の……だから、お願いします。私たちの邪魔をしないでください……」 その検査結果は凛にとって雷鳴のごとき衝撃だった。その紙から、目が離せない。 以前、何度も悠真に「子供はどうする?」と尋ねたことを思い出す。そのたびに彼は冷めた表情で「必ず子供を産まなければならないなんてことはない」と言っていた。 しかし、どうやら違ったようだ。子供の必要性を感じていなかったのではなく、ただ、自分との間に欲しくなかっただけなのだ。 何が魂の純度だ?何がイデアの領域だ? ただ、自分に欲が湧かなかっただけのくせに。 自分は悠真への執着のあまり、いつの間にか自分を完全に失ってしまっていた。 杏の泣き声と、手にした一枚の紙きれ。たった一枚の紙なのに、胸にのしかかる重さは計り知れない。それはまるで冷たい金槌のように、凛が自分を騙し続けてきた薄い殻も、すでに傷だらけだった心も、容赦なく打ち砕いた。 凛は杏の手を振り払うと、決意を固めたような背中で、病院の冷たいタイルの上を踏みしめながら、エレベーターへと向かって歩いていった。 病院を出ると、凛はすぐに弁護士に電話をかけた。 「離婚の書類の準備をお願いできますか?悠真に何も残らないように、離婚したいんです。 それと、彼の学校の研究費が出ているプロジェクト、全て停止させてください」 第2話 その後、凛が病院へ足を運ぶことは一度も無かった。 家中の家具をほとんど売り払った今、広い部屋はとてもがらんとしている。それはまるで、形はあっても、中身は何一つとして残らない、凛と悠真の結婚生活のようだった。 凛から悠真の状況を尋ねることはなかったし、悠真からも一切連絡は来なかった。 それでも、悠真に関する情報はなぜか色々な方面から耳に入ってきた。 一命を取り留めた悠真は、特別室へと移されたらしい。 付きっきりで看病をし、身の回りの世話を焼いている杏の姿は、まるで本当の妻のようだとも言われていた。 悠真の同僚や学生たちは杏の健気さを褒めちぎり、こんなにも優しくて尽くしてくれる生徒を恋人にした悠真は幸せ者だ口々に言う。 悠真の親族までが杏を絶賛し、凛よりも杏の方が悠真にふさわしいと言っていた。 そうした言葉が、ナイフのように凛の心を切り裂いた。だが、凛には悲しむ力さえも、もう残ってはいなかった。 しかし、凛が杏のインスタをブロックすることはなかった。悠真があらゆる信念を捨ててまで、選んだこの女が、一体どんな人物なのかを見てみたかったのかもしれないし、悠真が命をかけてまで、自分を捨てる理由が知りたかったのかもしれない。 このところ、杏のインスタ更新の頻度は、かなり多かった。 意識が戻った悠真の手を握って涙ぐむ写真には、【無事でよかった。これからはずっとそばにいるからね】というコメント。 手料理を差し入れては、【早く元気になってね。ずっと一緒だよ】と綴る。 病室で笑い合う二人のツーショット。そこには、凛には見せたこともない優しい眼差しの悠真。さらには、【運命の二人は、結局結ばれるもの】という文字が踊っていた。 杏の幸せそうな文章と、悠真の優しい笑顔を見て、凛の胸は息が止まるほどの激痛と冷たさに包まれた。 この3年間、凛は悠真のために自分を殺してきた。 昔の凛は、明るく奔放で、自分の意見をはっきりと言う性格だった。 しかし結婚後は、悠真の顔色を伺いながら遠慮がちに過ごし、自分の個性すら隠して、彼の好みに合わせようとした。 好物だった味の濃い料理もやめ、悠真に合わせて薄味の食事を作った。 クローゼットの中の鮮やかな服だってすべて捨て、悠真の好きな地味でシンプルな服を身に纏った。 友人の誘いもすべて断り、たとえ悠真が深夜になろうとも、帰ってこない日が続こうとも、毎日悠真の帰りを待っていたというのに…… 最初から対等ではなかった関係の中で、自分自身を見失ってしまっていた。 今、自分を取り戻さなければならない。 悠真が退院する日、凛は病院に訪れた。 黒のパンツスーツに身を包み、髪をまとめ、ハイヒールを履いた凛は、特別室の前の廊下を歩いている。 ドアを開けると、ベッドで半身を起こしている悠真に、杏がベッド脇の椅子に座りながら、剥いたオレンジを食べさせていた。 ノックの音で同時に顔を上げた二人。 来客が凛だとわかると、悠真の目に鋭い警戒の色が走る。 彼は少し痩せて顔色も優れないようだったが、あの独特な冷ややかな雰囲気は相変わらずだ。 悠真が眉間にしわを寄せて凛を見た。 杏もあわてて立ち上がり、悠真の後ろに隠れるようにして、凛におどおどと挨拶する。 凛は杏を無視して悠真にまっすぐ視線を向けた。「順調に回復してるみたいね」 掠れたような声で、悠真が答える。「なんで来たんだ?」 凛は冷たく笑って言い返した。「妻がお見舞いに来るのって、そんなにおかしいこと?」 そしてバッグから書類を2部取り出し、ベッドの横に置いた。 「サインして」 悠真は書類の表紙に書かれた「離婚協議書」の文字を見つめ、目を細めた。そして嘲るように口元を歪める。 「また何か始めようっていうのか?」 彼は凛の泣きわめく姿や縋るような態度を予想していたのか、あるいは自分への執着を当てにしていたのか定かではないが、凛があっさりと離婚協議書を突きつけたことは予想外だったらしい。 凛は表情を変えずに続けた。「ずっとあなたに振り向いて欲しいって思いながら、この3年間の結婚生活を送ってきたけど、策略なんてものは一度もしたことないよ。 私は、ただ心からあなたを愛していただけ。でも、あなたが目を向けてくれることは一度もなかった。だから、もう諦めることにしたの」 あまりに落ち着いた凛のその口調に、悠真はなぜか言いようのない苛立ちを覚えた。 「これは離婚に関する書類」と凛は指でファイルを軽く叩く。 「婚姻関係が続いている間に他の女性と関係を持ち、しかも妊娠させた。これは重大な過失に当たるの。だから、法律と契約の取り決めに従って、あなた名義の婚姻中の財産、あとは結婚後に購入した不動産も含めて、すべて私のものになる。あなたには……身一つで出ていってもらうから」 悠真は凛の表情に動揺や何か裏があるのではないか見定めたが、彼女の意志は硬そうだった。 「自分が何を言っているのかわかっているのか?」 凛は真っ直ぐに悠真の瞳を見つめた。 「私は本気だよ。全て真剣に考えてのこと。 あなたがサインしてくれたら、そのまま区役所に手続きに行く。今後は、もう一切あなたに関わらないから。お互い、好きに生きよう」 悠真のそばで服の裾を強く握りしめていた杏は、期待に満ちた目で悠真を見ている。 悠真は離婚協議書を手に取り、内容に目を通した。 読み進めるうちに、彼の顔色はみるみる険しくなっていく。 長い沈黙の後、悠真が書類を閉じた。 「準備万端って感じだな。それほど私を憎んでるのか?骨までしゃぶりつくされそうだよ」 「憎んでる?」 凛は小さく首をかしげ、その言葉を考えるかのように少しだけ黙った。やがて、ゆっくりと首を横に振る。 「別に、憎んでるわけじゃないよ。ただ、3年かけてようやく一人の人間を見極められたんだって、そう思っただけ。代償は少し大きかったけど、まったくの無駄ってわけでもない。だって、少なくとも……もう二度と、同じ間違いを繰り返すことはないから」 凛は少しだけ視線を下げて、杏の膨らんだお腹を見つめる。 「それとも何?あなたにとっての『魂の伴侶』って、その程度の存在だったの?こんなわかりやすい俗世的なものよりも、大切にする価値がないってこと?もしそうだというのなら、私は遠藤さんを過大評価しすぎていたみたいね」 悠真の顔色が一気に険しくなった。 「凛!」悠真の低い声が響く。 「サインして」 凛は鞄からペンを取り出し、悠真の手に握らせた。 「サインすれば、あなたは自由になれる。本当に愛する人と子供を大切にしてあげて。それに、俗世にまみれた私が嫌だったんでしょ?」 悠真はペンと凛を交互に見つめる。以前なら、凛の瞳は情熱で溢れていたはずなのに、今は虚無しか残っていなかった。 胸の奥が、何か焼かれるような痛みに襲われる。 「サインはしない」この言葉が喉元まで出かかった瞬間、杏がすがるように自分の袖を引き、瞳を潤ませている姿が目に入った。 そうだ。自分がずっと待ちわびていたのは、この瞬間じゃないのか? 間違いだらけの結婚生活から抜け出し、本当に自分を理解してくれる彼女と一緒になる。 凛の提案を断る理由は、もはやどこにもない。 悠真はペンを強く握り、署名欄にサインをした。 押し付けられたペン先によって、紙が破れそうだ。そんな、悠真の確固たる決意を目にし、凛の心はナイフで突かれたように痛んだ。 サインを終えた悠真が、書類を凛の方へ突き返す。「これでいいだろ?これからは、杏を悲しませるようなことはするなよ」 凛は離婚協議書を手に取り、サインを注意深く確認すると、大切そうにバッグにしまった。 「後の手続きは、弁護士から連絡がいくと思うから」 凛はすべての感情を抑え込み、まるで取引のように、淡々とした口調で言った。 最後にもう一度だけ悠真と杏を一瞥し、軽く口角を上げて笑うと、ハイヒールの高い音を鳴らしながら振り返りもせずに病室を後にした。 第3話 病院を後にした凛は、そのまま会社へと向かった。 忙しさの中に自分を置かなければ、悠真と杏がこれから幸せになるとを思うだけで、胸が押しつぶされそうだったのだ。 この3年間、悠真の些細な言動によって、心はいつも振り回されてきた。 自分を一喜一憂させる、何気ない言葉や、ふとした視線。 まるで操り人形のように、悠真の言動一つで、自分の考えや魂を失っていた気がする。 凛は重くなる頭を揉みほぐしながら、苦いコーヒーを流し込み、自分を奮い立たせた。 もう過去の傷に縛られていてはいけない。自分を奮い立たせるのだと、心に誓う。 離婚を決めた時から、会社を海外へ移転させ、新しい環境で心機一転、市場を広げていく計画を立てていた。 だから、寝る間も惜しんで働いていたのだが、深夜一人きりになった時、言いようのない孤独と悲壮感に襲われた。 悠真はいつも「金のことばかりで、中身がない」と自分を下げずんでいた。しかし、本当は凛が彼に追いつきたくて、必死で走り続けてきたことを、悠真は知らない。 学歴がないならせめて資格をと、金融の勉強を重ね、自力で海外の大学での学位まで取得した。 結婚記念日に、そんな自分の成長を伝えれば、少しは自分を見直してくれるのではないかと期待していた。 しかし、今となってはもう必要のないこと。 深夜2時過ぎ、疲れ果てて背伸びをした凛は、ふと薬指にはめたシルバーの指輪に触れた。 これは悠真がくれた、たった一つのプレゼントだった。 本当は自分でペアリングを作ろうと思っていたところに、悠真がこれをくれたことを今でも鮮明に覚えている。 何より大切なものとして、3年間ずっと外すことなく身につけていた。 会いたい時、喧嘩して悲しい時、いつもその指輪に触れては自分を慰め、悠真に寄り添い続けようとしていたのだ。 指輪の裏には、こっそり彫った小さな「悠真」という刻印がある。 凛は指輪をそっと外すと、最後にもう一度だけそれを見つめてから、迷わずゴミ箱へ捨てた。 その瞬間、深夜の静寂が破られ、社長室のドアが激しい音とともに蹴り開けられた。 そこに立っていたのは、怒りで顔を真っ赤に染めた悠真だった。 「凛、一体何を考えているんだ?」 「あら。こんな時間に、他人の仕事場へ勝手に踏み込んでくるなんて、少し失礼なんじゃない?」 凛を今にも噛み殺しそうな目つきで、悠真が言い放つ。「離婚協議書には署名しただろ?なのに、なんで大学への寄付を打ち切ったうえに、杏の研究プロジェクトまで停止させるんだよ?」 ようやく悠真が激怒している理由が理解できた。 凛は冷静に返した。「どのプロジェクトに寄付するかは、私の自由でしょ?だって、私のお金なんだから。使うも打ち切るも、その権利は私にしかないんだよ」 悠真が凛を射抜くように睨みつける。 「杏の研究はもうすぐ成果が出るんだ。今止められたら彼女の学業生命は終わってしまう。元はと言えば、君が望んで出資したんだろ?妬みだけで人の未来を壊す気なのか?」 「私が彼女を妬んでいる?」 凛は涙が滲むほど笑った。 「悠真。私にとっては、他人に嫉妬することなんて時間の無駄なの。それに、遠藤さんには私のお金を使う資格なんてない。どれだけ低俗と言われようと、人の家庭を壊すような女に寄付する気なんてさらさらないから」 悠真の声が一層大きく荒らげられた。 「杏はそんなのではない!彼女は、私にとっての精神の理解者なんだ!怒っているというのなら、私にぶつけろ。彼女を巻き込むな! 今すぐプロジェクトを再開させろ。そして、杏に謝れ」 「ありえないから」 凛の意志は揺るがなかった。「私が間違ってるとも思わないし、謝罪もしない。それに、あなたとはもうすぐ何の関係もなくなるんだよ?だから、今のあなたという存在は私の目には汚物と同じ。偉そうな口を叩くのはやめてもらえるかな?」 「いいだろう。そこまで勝手な真似をするというならやってみればいい。君なんて結局、一生底辺から這い上がれない哀れな人間なのだから」 その言葉は、凛の心の一番深いところをえぐった。身近な存在のはずだった悠真が、今では何か冷酷な異物に見えた。 凛はとっさに手を振り上げ、全身の力を込めて悠真の頬を打っていた。 バチン、という音が、深夜の社長室に冷たく響き渡る。 叩かれた悠真は、まさか凛にこんなことされるとは思ってもみなかったようで、茫然としていた。 「悠真、この一発は、私自身のために叩いたの。この三年間、見る目がなかった自分へのけじめとしてね」 震える声を抑えながら、凛は鋭く言い放つ。「金輪際、私たちの間にはなんの関係もない。あなたと遠藤さんのことに興味はないけれど、これ以上私を煩わせるっていうなら、それ相応のことは覚悟しておいてよね」 ようやく正気を取り戻した悠真は、憎悪と苛立ちを瞳に宿し、凛を食い入るように見つめた。「そんな強がりがいつまで続くか、楽しみにしてるよ」 そう言い捨てると、悠真はドアを激しく閉めて立ち去っていった。 一人残された凛は、椅子に崩れ落ちた。せきを切ったように涙が溢れ出す。 翌朝、ネットは凛の会社の商品に品質問題があるというネガティブな検索ワードで埋め尽くされた。 ネット民たちは待ってましたとばかりに騒ぎ立て、会社に対しては返品や賠償を求めてきた。 確かに、検査段階でそうした指摘を受けたことがあったが、発売前には全て改善済みだった。 それに、マーケティング業者に委託した検査データなどは、社外秘の内部資料。社内から情報が漏洩していなければ、外に広まるはずがない。 凛が対応に追われていると、顔色を変えた秘書の村上陽菜(むらかみ ひな)が駆け込んできた。 「社長、大変です!社長が自分の立場を使って、弱者をいたぶっているというデマが拡散されています!」 第4話 掲示板のタイトルが、目に飛び込んでくる。 【資産家・九条凛、離縁の腹いせに学生を逆恨み。嫉妬心からかデマを流し、権力で退学へ追い込む】 投稿にはいくつものスクリーンショットが貼られていた。杏が病院で凛に縋り付いている画質の荒い写真、凛が大学へ杏を問い詰めに行ったときの監視カメラの映像、そして文脈を故意的に切り取ったであろうラインのやり取り。 それらは、凛を心が狭く、財力で人を追い詰める卑劣な女として仕立て上げていた。 背筋に冷たいものが走る。全ては悠真が裏で手を引いているのだと、凛は即座に悟った。 ネットで流出している会社内部の品質管理資料は、半年前に凛が自宅に持ち帰りチェックしていたも。 当時、3日3晩徹夜し、疲れ果てていた凛は、悠真に甘えるようにして「もう限界だ」と愚痴を漏らしたことがあった。しかし、その時の悠真は冷めた視線を向けるだけで、労いの言葉すらかけてくれず、そそくさと書斎へ戻っていった。 「広報部から否定声明は出した?」 凛の声は、震えていた。 「出しました。しかし、全くもって効果がありません。コメント欄はサクラばかりなうえに、インフルエンサーまで投稿を拡散してしまっていて……今はネット全体から叩かれていて、取引先からも契約の停止や様子見の連絡が次々と入ってきています。 社長、どうしましょう?」 凛は息を大きく吸い込み、なんとか冷静さを取り戻そうとする。 携帯を手に取り、悠真の番号を探した。指先を震わせながら発信ボタンを押すが、受話器からは冷徹な機械音声が流れるだけだった。 連絡手段のすべてを、悠真に断たれていた。 怒りと悲しみが入り混じり、内臓が焼け付くように痛む。 椅子に掛けていたコートを掴み、凛は社長室を飛び出した。「悠真の大学へ行ってくる」 大学のホールでは、寄付記念式典が盛大に行われていた。 大きな垂れ幕が下がり、会場は学校関係者や学生たちで人が溢れかえっている。ステージ中央では、スーツ姿の悠真にスポットライトが当たり、彼がマイクに向かって話をしていた。 杏は橙色のロングドレス姿で悠真の傍らに立ち、花束を抱えて、聴衆の羨望の眼差しを一身に浴びている。 ステージ上のスクリーンには、【上杉グループより本校へ2億円の寄付。遠藤杏さんの研究プロジェクトへ特別助成】という文字が躍っていた。 悠真は家の資金を使って杏のプロジェクトに助成金を出しただけでなく、寄付記念式典という公の場で、二人の関係を堂々と誇示したのだ。 凛は真っ直ぐ講壇へ突き進んだ。すべての視線が、凛に集中する。 今や全校生徒が杏と悠真の仲を知っているが、凛が悠真の妻であることを知る者は誰もいない。 ハイヒールが床を叩く音が、静まり返ったホールに不気味なほど響いた。 悠真の顔から笑みが消え、凛々しい眉間には濃い皺が寄せられる。「凛、何しにきたんだ?場所を考えろ。早く下りろ!」 「見に来たの。ネットでは妻の会社の機密をばらまいて泥まで塗り、学校では平然と愛人の肩を持つ。そんな上杉教授が、今どれだけ立派で、どれほど胸くそ悪くなる存在なのかをね!」 杏が反射的に悠真の後ろへ隠れると、悠真は杏を庇いながら声を荒らげた。 「何言ってるんだよ?私たちはもう離婚したんだ。これ以上訳の分からないことを言うなら、警備員を呼んで叩き出すぞ!」 凛は眉をひそめ、「悠真。図星を突かれたから、怖くなっちゃったの?」と返す。 会場に向かって、凛は透き通った声で言い放った。「皆さん、初めまして。私は悠真の妻です。あ、法律上ということですよ?今日来たのは騒ぎを起こすためではありません。ただ、悠真と、彼の教え子である遠藤さんの『真相』を伝えたくて来たんです。 悠真は、私との3年間の婚姻生活を送る中、肉体的な愛情は必要ない、ただ、夫婦として精神的な領域での愛のつながりを求めている、そう言って私たち夫婦の間には一度も肉体的な接触はありませんでした。でも、そんなことを言いながら、遠藤さんとの間には子供を授かったんです」 会場がどよめく。 杏は血の気を失い、青ざめた顔で凛を指差し絶叫する。「そんなの嘘です!ただの言いがかりですよ!」 しかし、凛が携帯を操作すると、会場の大型スクリーンには、杏の学術違反の証拠が映し出された。 杏のプロジェクトが止まったのは凛のせいではなく、論文の捏造が発覚したためで、学校側は彼女を庇うために静かに停止させていたのだ。 悠真なら少し調べればすぐに分かることだった。だが彼はその件と凛を勝手に結びつけ、凛が報復していると決めつけた。 挙句の果てに、上杉家の権力を使って杏のプロジェクトを守り抜いた。 かつて凛が経営の危機に陥り、悠真に相談して助けを求めた時は、自分の職務範囲外だと言って冷たくあしらったというのに。 悠真は画面の資料を睨みつけると、怒りで全身を震わせた。 「凛、報復のためにこんな偽造した証拠を突きつけるとは!今回ばかりは、ただじゃおかないからな」 そう言うと悠真は即座に警察へ通報した。 凛は微塵も怯まず、杏に視線を落として言う。「悠真、あなたは本気で遠藤さんのお腹の子が自分の子供だと信じてるの?」 その言葉が放たれた瞬間、杏の顔から完全に生気が失われた。 激怒した悠真が叫んだ。「警備員の人!この狂った女を早くどうにかしてください!」 警備員が駆け寄ってきて凛を捕まえようとしたので、凛は激しく抵抗した。 混乱の中、突然こちらへ突っ込んできた杏が、何かに押されるように倒れた。腹を抱えて悶絶する彼女のスカートの下からは、赤い染みがじわじわと広がる。 「杏!」真っ青になった悠真は、杏を抱え上げると、病院へと走り去って行った。 去り際、悠真は凛に向かって「杏や子供に何かあったら、ただじゃおかないからな」と怒鳴り散らしながら。 駆けつけた警察によって、凛は留置場へと連行された。 悠真の執拗な告訴により、凛は誹謗中傷と傷害の罪で7日間拘留されることになった。 いくら無実を証明しようとしても、聞き入れられることはなかった。 地元の有力者である上杉家の力の前では、弁解も無意味だったのだ。 拘留3日目、悠真の母親・上杉梓(うえすぎ あずさ)が現れた。 その高慢な眼差を、まるで汚い物でも見るかのように凛に向ける。 「聞いたわよ。もう離婚するんだって?」 凛は氷のような目つきで冷たい壁に寄りかかったまま、梓を無視した。 それでも梓は涼しい顔で言葉を続ける。 「悠真を助けたあの事故がなかったら、あなたなんかが上杉家の敷居を跨ぐことなんてなかった。少し小銭を稼いでるからって、調子に乗るんじゃないよ。この身の程知らずが。 離婚するっていうなら、静かに去っていけばいいものを、騒ぎなんか起こして……子供ができなかっただけでは飽き足りず、今度は私の孫まで傷つけるつもり?」 凛は心の中で笑うしかなかった。最初から最後まで、梓が自分によくしてくれたことなど、一度も無かった。 梓が好む料理を作り、顔色を伺いながら言葉を重ね、プライドを捨て絶えてきたのに。その結果が、これだった。 「私が子供を産まなかったのは、悠真が3年もの間、私に指一本触れなかったからです。それに、遠藤さんのお腹の子が本当にあなたの孫だと、本気で言ってるんですか?」 梓が脅すように言う。「凛、会社を海外へ移そうとしているらしいわね?上杉家の力を甘く見ない方がいいわ。この言葉の意味が分かったのなら、離婚の手続きが終わり次第、さっさと消えなさい。それ以上騒ぐなら、あなたの築いた努力、全て消し去ってあげるから」 18歳から全てを捧げ、築き上げた会社は凛の命に等しかった。凛の瞳が、動揺で一瞬揺れる。 しかし、得意満面な梓の表情を見た瞬間、凛の中の反骨心が炎を上げて燃え始めた。 「私が負けを認めることなんてあり得ないですから。あなたたちが私に負わせたものは、これから一つ残らず、全部取り返しますから」 第5話 7日間の拘留を終え、凛は釈放された。初春の冷たい風が、刺すように顔に吹きつける。 外では既に陽菜が待っていてくれて、凛が姿を見せるとすぐに駆け寄ってきて上着を手渡した。 凛は上着をしっかりと羽織り、枯れた声で告げた。「二つお願いしたいことがあるの。まずは、私名義の不動産は全て売却に出して。価格は気にしなくて良いから、一刻も早く現金化することを優先してほしい。それから、会社の資産を海外に移す手はずを整えて。一刻も早くここから離れたいの」 上杉家がどのような手段を使ってくるか、凛は嫌というほど理解していた。今回の拘留など始まりに過ぎず、今後も、彼らは簡単に自分を逃がしたりはしないだろう。 その後も、凛は会社に寝泊まりしてなんとか事態を収めようとしていたが、経営状況は悪化の一途をたどるばかりだった。 取引先からは次々と契約を打ち切られ、銀行融資も止まり、物流網さえも遮断されてしまった。 全て上杉家が裏で手を引いていることは明白だった。 上杉家による攻撃に対応しながら、資産整理と海外渡航の手続きを進める日々で、凛は見る影もなく痩せ細り、目の下には消えない隈ができていた。それでも、歯を食いしばって持ちこたえた。 今や会社は凛にとっての全てだった。10年の歳月を注ぎ込んだ、人生そのものと言える場所。これだけは、何があっても手放せない。 そんな極限状態の中、血相を変えた陽菜が社長室に駆け込んできて、凛に携帯を差し出した。 「社長!社長のSNSアカウントから、上杉教授と遠藤さんのことが次々投稿されています!しかも、遠藤さんのプライベートなことまで、全部……」 凛の心臓がどくんと跳ねる。急いで自分の携帯を取り出し確認しようとしたが、アカウントが既に何者かに乗っ取られ、ログインできなかった。 トレンド欄は【#上杉凛、遠藤杏の過去を暴露】というハッシュタグでいっぱいだ。 勝手に投稿された内容には、杏の略奪婚や研究の不正の詳細、さらには大学生時代の水商売に関する写真や動画まで網羅されていた。 杏の素行調査を行っていたことは事実だが、こんな投稿をした覚えはない。 その投稿から間もなくして、悠真が杏を擁護する長文を公開する。 悠真は彼自身を被害者だと主張していた。ストーカーまがいのアプローチを受け、結婚は偽の事故による強制されたものだとし、結婚後は歪んだ支配を受けていた。そして、離婚後である今も、嫌がらせのためだけに、杏にこんなことをしているといった内容だった。 過去の凛とのラインのやり取りを、誤解を生みそうな内容のところだけをスクリーンショットし投稿して、凛に「狂った女」のレッテルを貼り付けた。 ネット世論は、一瞬にして悠真の一方的な言い分一色に染まった。 罵詈雑言の激しさは以前にも増してひどくなり、凛は社会的に抹殺された状態となったし、会社の公式アカウントも使用できなくなった。 プラットフォーム側に事実関係を伝え削除を求めたが、返ってくるのは冷淡なマニュアル通りの対応だけだった。 アカウントを作り直し反論しても、投稿するそばから消された。 凛を擁護する内容も全て非表示にされ、悠真と杏を称賛する声だけが目立つようになっていった。 悠真は凛の反論の道を全て塞ぐだけでなく、SNSアカウントを強制的に凍結させた。 混乱に溺れるような感覚の中で、凛の思考は次第に不明瞭なものへとなっていったのだった。 社長室のドアが激しく蹴り開けられたとき、凛はアカウントの申告ページがエラーを示す画面をただぼんやりと見ていた。 ボディーガードたちを引き連れて現れた悠真が、怒りで顔を強張らせ、冷え切った口調で言い放つ。 「凛、前回のことで懲りたかと思ってたが、まさかここまでやるとはな!君のせいで杏は精神的に追い込まれ、また病院に入院したんだ。なんでここまで杏を攻撃するんだ?」 凛はデスクに手をついて立ち上がると、まっすぐ悠真を見据えて言い返した。 「私が投稿したんじゃない。アカウントが乗っ取られてるの。悠真、お願い。一度でいいから信じて。これらのことは、私と一切関係ない」 しかし、怒りで震えている悠真は、軽蔑の眼差しを凛に向けながら、鼻で笑った。 「まだそんな言い訳を?君は完全にどうかしてしまったんだな。もう救いようがない」 そう言って、悠真が指で合図をすると、控えていたボディーガードたちが動き出した。「こんなに狂ってしまったんだ。しっかり治療しないと……な?」 凛は両腕をボディーガードたちに固く拘束され、一歩も動けなかった。 悠真が凛の顔に顔を近づけ、二人しか聞こえない声で低く呟いた。「まだ離婚の手続きは終わってないんだから、私はまだ君の正式な夫だ。夫として接して欲しいんだろ?だったら、たっぷり可愛がってやるよ」 車に無理やり押し込まれた凛は、郊外のうっそうとした精神病院へと送られた。 白い壁、閉ざされた扉。廊下には叫び声と泣き声が絶えず響いている。 凛は独房のような病室に閉じ込められ、名前すら分からない薬を強制的に飲まされた。反抗すればすぐに隔離され、電気ショック療法を受けさせられた。 電流が流れるたび、筋肉がひきつり、意識が濁っていく。死にたくなるほど痛かったが、心の中にある悔しさだけは、どうしても消せなかった。 最も屈辱的だったのは、妊娠中の杏が見舞いに来た時のことだった。 悠真に命じられたボディーガードが、冷たいコンクリートの床に凛を組み伏せ、杏に謝るよう強要した。 硬い床に膝がめり込み、激痛が走る。目の前の杏は得意げに笑っていたし、その横で悠真は冷淡な表情のまま、何も言ってくれなかった。 電気ショックの装置を顔の横まで突きつけられた凛は、唇を噛みながら、掠れた声で「ごめんなさい」と吐き捨てた。 何度謝らされたのか、そして、自分がいつまでそこにいたのかさえ、凛には分からなかった。 ようやく解放されて精神病院の門を出たとき、凛は以前から考えられないほどやつれ、髪はぼさぼさになり、目は虚ろだった。 凛を待ちわびていた陽菜は、目を真っ赤にして駆け寄ると、凛を抱きしめた。「社長……」 凛は陽菜の姿を見ると、乾いた声で呟いた。「会社……」 「申し訳ありません。上杉家の妨害に耐えられませんでした。全資産、差し押さえられたあと、競売にかけられました。会社も……潰れてしまいました」 凛の体が固まった。静かに閉じられた瞳からは、一筋の涙が溢れる。 全てを失った。 陽菜が一枚のカードと、パスポートを凛に手渡した。「社長、慰謝料が振り込まれた銀行のカードです。それと、出国の手続きも全て終わっています」 凛は震える手でそれらを受け取り、かすかに頷いた。「行こう」 時を同じくして、離婚届受理証明書を弁護士から渡された悠真は、ふと精神病院に送った凛の存在を思い出していた。 病院ではかなり痛い目を見ているはずだ。どれだけ憎んでいても、凛は自分の命の恩人であるため、体に傷を負わせたままというのも後味が悪かった。だから、そろそろ出してやろうと考えた。 悠真が精神病院を訪れると、看護師は言った。「その患者様なら、今朝方、身内の方に引き取られて退院しましたよ」 悠真は心に得体の知れない動揺が走り、ひどい焦燥感に襲われた。 彼は以前凛と暮らしていたマンションへと車を走らせた。会社も奪った今、凛が行く場所などそこしかないはずだ。 凛が離婚を切り出して以来、悠真はそのマンションに帰っていなかった。 鍵を取り出して開けようとしたが、合わなかった。 突然ドアが開いたかと思うと、知らない男が顔を出す。 悠真は眉間にしわを寄せた。「誰だ?凛は?」 男は不審そうに答えた。「お前こそ誰だよ。うちの前で何してるんだ?」 悠真の表情が険しくなる。「凛はどこに行ったのかって聞いているんだよ!」 男は驚いたが、思い当たる節があったようだった。「あー、前の住人のことか?その人なら、もうとっくの昔に海外に行ったみたいだぞ」