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追憶の霧、届かぬ約束
一夏は、凜と共に北部の鉱山地帯から南の果ての熱帯地帯までを歩んできた。 二人は互いの人生において、最も強く、揺るぎない支えだった。 凜...
Chương (1)
第1章
一夏は、凜と共に北部の鉱山地帯から南の果ての熱帯地帯までを歩んできた。
二人は互いの人生において、最も強く、揺るぎない支えだった。
凜が家族に見捨てられた時、彼女はすべてを賭けて彼に寄り添った。
彼が必ず勝つと信じて。
一週間前、凜はついに勝利を掴んだ。
伊礼家の当主が自ら彼を帝都へと迎え入れ、実権を握った彼の勢いは今や飛ぶ鳥を落とすほどだ。
誰もが、泥沼から這い上がった二人の絆が、ようやく円満な結末を迎えるのだと考えていた。
「一夏、おめでとう!」
親友の千暁から届いたLINEのボイスメッセージは、震えるほど興奮していた。
「一日も早く一夏を嫁にするために、伊礼さんは寝る間も惜しんで仕事を進めてたって、伊礼さんの友達が言ってたんだよ!」
スマホを握る一夏の心に、温かな感情が広がっていく。
彼女はふと、絆創膏が巻かれた自分の指先に目を落とした。
それはここ数日、フラワーショップでラッピングの練習をしていた時にできた傷だった。
第1話
鐘ヶ江一夏(かねがえ いちか)は、伊礼凜(いれい りん)と共に北部の鉱山地帯から南の果ての熱帯地帯までを歩んできた。
二人は互いの人生において、最も強く、揺るぎない支えだった。
凜が家族に見捨てられた時、彼女はすべてを賭けて彼に寄り添った。
彼が必ず勝つと信じて。
一週間前、凜はついに勝利を掴んだ。
伊礼家の当主が自ら彼を帝都へと迎え入れ、実権を握った彼の勢いは今や飛ぶ鳥を落とすほどだ。
誰もが、泥沼から這い上がった二人の絆が、ようやく円満な結末を迎えるのだと考えていた。
「一夏、おめでとう!」
親友の小林千暁(こばやし ちあき)から届いたLINEのボイスメッセージは、震えるほど興奮していた。
「一日も早く一夏を嫁にするために、伊礼さんは寝る間も惜しんで仕事を進めてたって、伊礼さんの友達が言ってたんだよ!」
スマホを握る一夏の心に、温かな感情が広がっていく。
彼女はふと、絆創膏が巻かれた自分の指先に目を落とした。
それはここ数日、フラワーショップでラッピングの修行をしていた時にできた傷だった。
今夜の祝勝会で、彼に手作りの花束を贈ろうと、一生懸命練習していたのだ。
その時、半開きになった店のドアの向こうから、聞き慣れた愛しい声がした。
凜だ。
「一番新鮮なシャンパンローズをひと束」
隙間から彼の声が聞こえてくる。
「この指輪も、一緒に包んでくれ」
一夏の鼓動が跳ね上がった。
大きな幸福感と感動が彼女を包み込む。
やはり彼も自分と同じように、今夜、相手を驚かせようと考えていたのだ。
しかし次の瞬間、別の聞き覚えのある声が響いた。
凜の幼馴染、庄野都木(しょうの とき)だった。
「何年経っても、夢乃がシャンパンローズを好きだって覚えてるんだな」
都木の声には感慨がこもっていた。
「彼女もお前のために、わざわざ海外から駆けつけてくれたんだっけ。でも、今夜の祝勝会には鐘ヶ江も来るんだろ。夢乃にプロポーズして、あいつが騒ぎ出したらどうする?」
外の空気が一瞬、凍りついたように静まった。
やがて、一夏は凜の言葉を耳にする。
それは彼女が一度も聞いたことのない、残酷なほど冷静なトーンだった。
「知らせなければいい。適当な理由をつけて、来ないように言っておく」
都木は数秒沈黙し、ため息をついた。
「お前と3年間苦労を共にして、子どもの頃からのお守りまで売ってお前の軍資金にしたっけ......お前が高熱を出した時も、20時間も列車に揺られて看病に来てやったのに......それらも結局、夢乃には敵わないってこと、か。
まあ、俺を騙そうとしても無駄だ。お前が一度も彼女を忘れたことがないのは知ってる」
冷たい花棚を支えに立つ一夏は、指先が震え、自分の耳を疑った。
弁明も、反論もない。
凜は沈黙をもって、最も残酷な回答を示した。
その時、唐突にスマホが振動した。
凜から届いたメッセージは、一文字一文字が優しいようでいて、その実、毒に浸されていた。
【一夏、今夜の祝勝会はみんなお酒を飲むだろう。君はアルコールアレルギーだから、来ないほうがいい。家で待ってて。用事が済んだら、すぐに帰るから】
一夏はそのメッセージを見つめ、強張った指をゆっくりと動かした。
【うん。わかった】
外では凜が注文を終えたようで、店員に指示を出していた。
「夜、スカイホテルの最上階にある宴会場に届けてくれ」
足音が遠のいていく。
一夏は花棚の陰から這い出すように現れた。
その顔は血の気が引き、真っ白だった。
「ちょうど私もあちらへ行く用事があるので、ついでに届けておきましょう」
一夏はシャンパンローズの花束を抱え、スカイホテルへと足を踏み入れた。
深く息を吸い、マスクをつける。
宴会場の扉が開くと、すぐに凜の姿が目に飛び込んできた。
スポットライトの下、彼は見たこともない仕立ての良い黒のスーツを纏い、背筋を伸ばしたその佇まいは気品に溢れていた。
一ヶ月前まで、彼が自分と一緒に賃貸アパートの狭いキッチンでカップ麺を啜り、最後の一切れのハムを「食べなよ」と笑って彼女の器に入れていたなど、誰も想像できないだろう。
傍らでは、誰かが小声で噂をしていた。
「凜もついに返り咲いたな」
「ああ、当主自ら迎えに来たんだからな。北部やアフリカのあのお荷物事業を、全部立て直したんだ」
「来月には取締役会入りだそうだ......」
一夏は隅の暗がりに立ち、伊礼家の当主が杖をついて登壇するのを見守った。
「凜のこの3年の働きは、皆の知るところだ。今日付けで、彼は正式に伊礼家へ復帰し、グループの副社長に就任する」
割れんばかりの拍手が起こる。
凜はマイクを受け取り、余裕のある態度で謝辞を述べた。
そして彼は微笑んだ。
一夏の心臓が締め付けられるほど、優しい笑みだった。
「今日のこの機会を借りて、報告を一つさせてください」
凜の視線が会場の一点に注がれ、スピーカーを通じてその声が隅々まで響き渡る。
「この3年、決して平坦な道ではありませんでした。しかしそんな中、私の傍にいてくれた人がいます。
夢乃は、起業の道における最も重要な助け手であるだけでなく、私の3年来の恋人でもあります」
凜の声は情熱的で、確信に満ちていた。
下川夢乃(しもかわ ゆめの)が立ち上がるのが見えた。
白いロングドレスに完璧なメイク。
少し目を潤ませながら、衆人環視の中を優雅に登壇していく。
凜は夢乃の手を取り、皆に向き直った。
「私が落ちぶれていた時、彼女は見捨てることなく寄り添ってくれた。この恩を、私は一生忘れません」
彼がアシスタントに合図を送る。
一冊の古いアルバムが運ばれてきた。
一夏の呼吸が止まった。
それは、彼女のアルバムだった。
クラフト紙の表紙は端が擦り切れ、中にはこの3年間、彼らが共に過ごした日々の断片がびっしりと貼られていた。
北部の鉱山でヘルメットを被り、顔を煤だらけにしながらカメラに笑いかける凜。
最初の注文を祝って、ビールで乾杯した時に泡がテーブルに飛び散った瞬間。
疲れ果ててキーボードの上で眠る彼の横顔を、彼女がこっそり撮った写真......
今、凜はそのアルバムを開き、一ページずつ全員に見せびらかしている。
「これらの写真は、夢乃が私と共に乗り越えてきた、あらゆる困難の記録です」
彼の指が写真の一枚一枚を、慈しむように撫でていく。
夢乃はタイミングよくうつむき、恥じらいと感動の入り混じった微笑を浮かべた。
会場には再び拍手が巻き起こり、感嘆の声が漏れる。
「なんて情に厚い方なんだ!」
「一途な伊礼さんと、影で支えた彼女。素晴らしい話だ!」
「美男美女だな......」
凜の視線が、突如として一夏のいる方向へ向けられた。
彼は微笑みながら手招きをする。
「花を届けてくれた方、こちらへ」
一夏の心臓が、一拍止まった。
彼女は強張った足取りで歩き出し、凜の前で立ち止まって、花束を差し出した。
凜は花束の中からベルベットのリングケースを取り出し、片膝をついた。
「夢乃、私と結婚してくれますか?」
全場が沸き立ったが、一夏にはもう何も聞こえなかった。
3年前、凜が初めてプロジェクトのボーナスを受け取った時、嬉しそうに彼女をショッピングモールへ連れて行ったことを不意に思い出した。
「一夏、何が欲しい?何でも買ってあげるよ!」
「いいよ、次段階の資金にとっておいて」
「それはダメだ」
彼は強引に彼女の手を引き、ジュエリーカウンターの前まで行くと、ガラスケースの中の小さなダイヤモンドリングを指差した。
「まずはこれを予約しよう。もっと稼いだら、大きいのに替えてやろう!」
カウンターの照明はとても明るかったが、彼の瞳はそれ以上に輝いていた。
今、彼は本当に大きなダイヤモンドの指輪に替えたのだ。
それを、別の人の指にはめるために。
一夏はよろけながら後退し、祝福の声に包まれる中、背を向けて立ち去った。
第2話
華やかな通りを歩く一夏の足元で、ヒールがわずかに靴擦れを起こしていた。
これは凜が金を稼げるようになってから贈ってくれたものだ。
高価で精巧だが、彼女には最後まで馴染まなかった。
二人の関係と同じだ。
天と地ほどの差がつき、彼女にはもう、手が届かない場所へ行ってしまった。
一夏は靴を脱ぎ、それを手に提げて裸足で歩き出した。
凜の屋敷には戻らず、昔からの古びた賃貸アパートへ向かった。
凜が起業に成功した際、大きな家をプレゼントすると言った。
けれど、当時の彼女はこの部屋を指差してこう言ったのだ。
「ここがいいの。ここには、私たちの思い出がたくさん詰まっているから」
凜は彼女を「バカだな」と言って笑ったが、結局は折れて、この古くて狭い部屋を買い取り、彼女の名義にした。
バッグの中でスマホが振動し、一夏は電話に出た。
母親の、急かすような甲高い声が響く。
「一夏、叔母がお見合い相手を見つけてくれたわよ。海外帰りのエリートエンジニアだって!来週帰国するから、さっさと準備して戻ってきなさい!
いつも彼氏がいるって言ってるけど、3年間一度も見せたことがないじゃない。
あんたの弟の結婚式も来月なんだから、200万円を準備しないと」
母親の声がふと途切れる。
「まともな彼氏を連れてくるか、さっさと帰ってお見合いするか、どっちかにしなさい」
一夏は誰もいないガランとした部屋を見渡し、静かに答えた。
「わかった。お見合いに行くよ」
電話が切れた。
彼女はもう一度、部屋を見渡した。
リビングのテーブルには、いびつな形をした二つの陶器のカップが並んでいる。
付き合って一周年の記念に、陶芸教室で作ったものだ。
ソファは随分古びている。
冬には二人で一つの毛布にくるまってホラー映画を観て、彼女が怖がって彼の腕の中に潜り込んだものだ。
あの頃は、本当に貧しかった。
けれど、あの頃の彼の瞳は輝いていた。
彼女を見つめる瞳には、世界中の星が詰まっているようだった。
一夏は寝室へ行き、スーツケースを引き出すと、自分の古い服を数着だけ詰め込んだ。
それからスマホを取り出し、この部屋を不動産アプリに出した。
相場を遥かに下回る価格。
唯一の条件は「七日以内に全額一括払い」だ。
一睡もできぬまま夜が明けた。
翌日の午後、スマホが震えた。
都木からの誕生日パーティーの招待状だった。
一夏は立ち上がり、クローゼットの中から最もシンプルな黒のワンピースを選んだ。
鏡の中の女は顔色が悪いが、その眼差しはひどく静かだった。
夜7時、屋敷。
一夏が到着した時、プールサイドはすでに人で溢れかえっていた。
彼女はすぐに凜を見つけた。
淡いグレーのオーダーメイドスーツを纏い、御曹司たちの間に立つ彼は、やはり誰よりも際立っている。
その傍らには、完璧なメイクを施した夢乃が寄り添っていた。
二人が並ぶ姿は、ファッション雑誌の表紙のようだ。
周囲の何人かが一夏に気づき、微妙な視線を送っては、すぐに逸らした。
ひそひそ話が聞こえてくる。
「なんで彼女が来てるの?」
「庄野さんがリストを精査せずに一斉送信したんじゃない?」
「気まずすぎ......」
凜も彼女に気づいた。
目が合った瞬間、彼の表情から笑みが消え、瞳の奥にわずかな決まり悪さがよぎった。
一夏は先に視線を外し、会場の隅に腰を下ろした。
誰かが囃し立てる。
「子ども時代の二人はどんな感じだった?」
夢乃は口元を押さえて小さく笑い、愛らしく凜を盗み見た。
「それはね......4歳の時、私がキャンディを奪われたら、相手に飛びかかって喧嘩しちゃって。前歯が半分欠けちゃったんだ。
5歳で私が小学校に上がった時は、幼稚園の柵のそばで午後ずっと泣いてたっけ。『お姉ちゃんと離れたくない』って。先生がいくらなだめてもダメだったの」
皆が笑い、凜は首を振りつつも、その顔には終始、甘やかすような笑みが浮かんでいた。
「小さい頃から甘えん坊だったんだな!」
「幼馴染カップルなんて、素敵~!」
一夏は目を伏せ、一人の観客として彼らの過去に耳を傾けた。
ふと思った。
凜は、一度もこんな話を自分にしたことがない。
彼が語った幼少期は、両親が仕事で忙しく、孤独なものだった。
孤独だったわけではないのだ。
ただ、その温もりの中に、彼女の居場所がなかっただけだ。
「そういえば」
あまり面識のない女性が笑顔で尋ねた。
「お二人とも、おめでたい話が近いんじゃない?」
空気が一瞬、静まり返った。
夢乃は頬を赤らめ、幸せそうに言った。
「来月です。皆様、ぜひ来てくださいね」
直後、祝福の声が波のように押し寄せた。
グラスを握る一夏の手に力が入り、指先が冷たく凍えていく。
彼女はグラスを置き、立ち上がって離れた場所にあるバルコニーへ向かった。
夜風が強く、彼女の髪を乱した。
背後から足音が聞こえる。
「一夏」
凜の声が聞こえた。
そこには迷いのような響きがあった。
「少し話そうか」
一夏は振り向き、無表情で彼を見つめた。
彼が一歩近づく。
高級サロンの香水の香りが漂ってきた。
気高く、そして疎遠な香り。
彼女が親しみ、愛したあの石鹸の香りは、もうどこにもない。
凜が口を開いた。
声はひどく低く抑えられている。
「夢乃は先天性の心疾患なんだ。結婚というのは形だけで、伊礼家のリソースを使って彼女を治療するための手段に過ぎない。
彼女は俺にとって妹のような存在なんだ。だから俺は、彼女を見殺しにはできない」
一夏は黙ってそれを聞いていた。
凜はさらにもう一歩踏み出し、彼女の手を握ろうとした。
「彼女の病気が治ったら、ちゃんと別れるよ。俺が愛しているのは、最初から最後まで一夏だけだ。わかってくれ」
一夏は身をかわしてその手を避け、冷徹な視線を向けた。
「つまり私に、愛人になれって言いたいのね?」
凜はその場に凍りついた。
口を突き出したものの、喉からは何の音も出なかった。
第3話
「凜、こんなところで何を......?」
バルコニーの入り口から、夢乃の声が聞こえてきた。
彼女の視線が一夏をかすめる。
その笑みはどこまでも穏やかで上品だった。
「......凜の会社の人かしら?ここは冷えるから、早く入りましょう?」
一夏の指先が、体の脇で小さく丸まった。
爪が手のひらに食い込む。
彼が周囲に紹介している世界において、自分はただの、いてもいなくてもいい「会社の人」に過ぎなかったのだ。
凜は向き直った。
その口調には、どこか不自然さが混じっている。
「夢乃こそ、どうして出てきたんだ?」
夢乃は彼の腕に絡みつき、顔を上げて甘えるように言った。
「ゲームでまた負けちゃったの。代わりにお酒、一杯だけ飲んでくれない?お願い」
その声は柔らかく、甘ったるい響きで、彼への依存に満ちていた。
それは、一夏がこれまで一度も口にできなかった言葉だった。
彼女は自立しすぎていた。
病気の時でさえ、彼に迷惑をかけるのを恐れて、一人で耐え抜いてしまうほどに。
凜の視線が一夏の顔に注がれる。何かを言いかけようとした。
夢乃は彼の腕をゆすった。
「ねえ、いいでしょ?一杯だけ。それを飲んだら一緒に帰りましょう」
「......わかった、一杯だけだぞ」
凜は低く応じ、彼女に引かれるまま宴会場へと戻っていった。
一夏はその場に立ち尽くし、寄り添い合う二人の後ろ姿を見送った。
自嘲気味にふっと笑い、深く息を吸い込む。
目頭に浮かんだ、滑稽なほど熱いものを無理やり押し戻した。
一夏はロビーへ向かい、都木への誕生日プレゼントを置いた。
それからタクシーを拾い、会社へと直行した。
パソコンを立ち上げ、ファイルを整理し、退職届を印刷する。
彼女がその書類を上司の五十嵐(いがらし)に差し出すと、五十嵐はそれを一瞥し、鼻で笑った。
そして退職届を二つに引き裂き、ゴミ箱に放り捨てた。
「どういうつもり?」
鋭い声が響く。
「伊礼さんの顔がなきゃ、あなたなんて面接だって通りゃしなかったのよ。ここまで育ててやって、伊礼さんも今や飛ぶ鳥を落とす勢い。あなたを窓口にして伊礼家と契約できると思ってたのに、結局、使い物にならない無能だったわけね!」
五十嵐は一夏の目の前まで歩み寄り、一文字ずつ吐き捨てるように言った。
「まあ、無理もないわ。こんな貧乏くさい女が、夢乃お嬢様に敵うはずがないもの」
言葉の一つ一つがナイフとなって、一夏の心臓を深く突き刺した。
一夏は信じられない思いで彼女を見つめた。
この3年間、五十嵐は確かに自分をよくしてくれていた。
残業の時には夜食を差し入れてくれ、体調が悪い時には病院へ行くよう促し、誕生日にはこっそりケーキまで用意してくれた。
一夏はずっと、それが本心からのものだと思っていた。
男尊女卑の激しい家庭に生まれ、彼女は幼い頃から、自分は弟ほど大切にされない存在だと知っていた。
母親はいつも言っていた。
「お姉ちゃんなんだから、弟に譲りなさい」
「女の子がそんなに勉強して何になるの?」
「早く嫁に行って、お金を家に入れるのが務めだよ」
幼少期のトラウマは、一生消えない。
彼女は必死で勉強し、必死で働き、自分が愛される価値があることを証明しようとしてきた。
五十嵐に出会った時、ようやく自分を心から大切にし、妹のように面倒を見てくれる人に出会えたのだと本気で信じていた。
けれど、その優しさのすべてには、あらかじめ「値札」がついていたのだ。
一夏の声が震える。
「この3年間......私は会社に貢献できるよう、ずっと頑張ってき――」
「そんなのどうでもいいわ。私が欲しいのは――利益よ」
五十嵐は嘲笑い、引き出しから一通の契約書を引っ張り出すと、机に叩きつけた。
「伊礼さんにこれのサインをさせなさい。そうしたら辞めるのを許してあげる。さもないと、あなただけじゃない。親友の小林も道連れよ。あの子の母親、ガンが見つかったばかりで金が必要なんでしょう?」
一夏の心臓が急激に収縮した。
彼女はついに手を伸ばし、その書類を手に取った。
オフィスビルを出た時には、すでに深夜になろうとしていた。
一夏は交差点に立ち、生まれて初めて、これほどまでの茫然自失を味わった。
――どこへ行けばいいのだろう。
凜は今頃、夢乃に付き添っているはずだ。
高級レストランで夜食を食べているか、あるいは彼女を家まで送った後か。
故郷の両親は、電話をすれば「いつ送金してくるのか」「弟の結婚式に金が足りない」と聞くだけだ。
千暁だって自分のことで手一杯だ。
これ以上、迷惑をかけられるはずがない。
この世界はこんなにも広いのに、傷口を舐め合える場所など、どこにもなかった。
冷たい風に吹かれ、彼女は自分の腕を強く抱きしめた。
ふと、3年前のあの冬を思い出した。
北部の鉱山地帯にある仮設住宅には暖房もなく、彼女と凜は狭いベッドで身を寄せ合い、分厚い掛け布団を二枚被っていた。
彼は彼女の凍えた足を自分の胸に抱き寄せ、笑って言った。
「一夏、金が貯まったら、大きな家を買えよう。最高級の床暖房を入れて、冬に震えることなんて二度とないようにするから」
あの時の彼女は、ただ彼の胸に顔を埋めてこう返した。
「大きな家なんていらない。ずっとこうして抱きしめていてくれるなら、それでいいの」
凜は彼女の額にキスをして、誓った。
「バカだな。言わなくても一生、こうして抱きしめてやるよ」
「一生」とは、こんなにも短いものだったのか。
わずか3年だった。
幼い頃からこれほど苦労してきたのは、凜に出会うための運命の埋め合わせだと思っていた。
けれど実際には、彼はもう一つの深淵だったのだ。
第4話
一夏は、重いサンプル箱と契約書を抱えて伊礼グループの本社ビルへとやってきた。
受付の女性は、マニュアル通りの完璧な微笑みを浮かべる。
「どなたをお探しでしょうか?」
「伊礼社長をお願いします」
「伊礼社長はまだ出社されておりません。ご予約はございますか?」
一夏は言葉に詰まった。
――予約。
かつて寝食を共にし、互いの呼吸の速さまで知り尽くしていた相手と、今や会うために列に並んで予約を取らなければならない。
彼女は黙ってロビーの隅へと下がり、足元にサンプル箱を置いた。
長いこと待っていると、ガラスドアの向こうにようやく見慣れた人影が現れた。
凜は濃いグレーのスーツを纏い、その傍らには夢乃が寄り添っている。
夢乃は顔を上げて何かを話し、目を細めて楽しそうに笑っていた。
凜はわずかに顔を傾けて聞き入り、その横顔のラインは柔らかい。
一夏は立ち上がり、重いサンプル箱を抱え直して歩み寄った。
箱は重く、角が腕に食い込んで痛む。
凜が彼女に気づき、足を止めた。
一夏の手が震え、抱えていた箱がぐらりと揺れて落ちそうになる。
夢乃がサッと手を差し出して支えた。
「気をつけて」
彼女の声は優しかった。
手を離す際、一夏が抱えているものに目を留める。
「この箱、結構重いわね。誰か運ぶ人を呼びましょうか?」
凜はすでに手招きをして、アシスタントを呼び寄せていた。
サンプル箱が引き取られ、一夏は空になった手でその場に立ち尽くした。
指先がまだ微かに震えている。
凜が彼女を見た。
「どうしてここへ?」
その口調は、まるで一般の訪問客に問いかけるように冷静だった。
一夏はバッグから契約書を取り出し、淡々と答えた。
「うちの会社が伊礼グループと進めたいと考えております、スマート掃除ロボットのプロジェクトです。今日はサンプルと契約書をお持ちしました。ご確認を」
凜は契約書を受け取ると表紙を一瞥し、頷いた。
「LINEで一言言ってくれれば済んだのに......」
一夏は何も言わなかった。
昨夜、メッセージを送ったのだ。
でも彼は返さなかった。
おそらく読みさえしなかったのだろう。
三人はエレベーターへと向かう。
前を行く凜と夢乃。
一夏は半歩後ろを歩いた。
夢乃が興味深そうに、アシスタントが持つサンプル箱を覗き込む。
「このロボット、デザインがすごく可愛いね。後ろの『CleanTech』っていうロゴ、スマート清掃系かしら?」
凜は驚いたように彼女を見た。
「そんなこともわかるのか?これは最新世代のSLAMナビゲーション掃除ロボットだ。レーザーレーダーでマッピングして、自ら経路を......」
彼の口調には、隠しきれない賞賛が混じっていた。
それを聞きながら、一夏は手のひらに爪を立てた。
このロボットは、彼女とチームが三ヶ月間、不眠不休で作り上げたものだ。
試作機のテストに成功した日、彼女は200万円のプロジェクトボーナスを受け取った。
その日の夜、凜のベンチャー企業は資金繰りに行き詰まった。
彼女はその200万円のすべてを、彼に送金した。
着金を確認した彼は目を真っ赤に腫らし、彼女を抱きしめて声を枯らした。
「この金は必ず何千倍、何万倍にして返すから......!」
お金は返せるだろう。
けれど、愛情はどうなのだ。
エレベーターが最上階に到着した。
見晴らしの良いオフィスに入ると、夢乃が腕時計に目をやった。
「もうすぐ12時ね。昨夜は遅くまでバタバタしたから、お腹が空いた。先に注文しておくから、二人はお話してて」
彼女は一夏に礼儀正しく微笑み、部屋を後にした。
ドアが閉まる。
凜はデスクの向こう側に座り、一夏への言い訳のように口を開いた。
「昨夜は夢乃の医療関係の調整を手伝っていたんだ。彼女、来月手術なんだよ」
一夏は相槌を打たず、ただ契約書を彼の前へと押し出した。
事務的なトーンで告げる。
「伊礼社長、これを。条項に問題がなければ、今日中に締結できます」
凜は契約書をめくり、数ページに目を通すと、迷いなく署名した。
契約書を閉じると、彼は顔を上げて彼女を見た。
「この二日、別荘に戻ってないようだけど。どこにいたんだ?」
「仕事が忙しいから、昔の家に泊まってた」
凜は頷き、それ以上は何も聞いてこなかった。
一夏は契約書をしまい、立ち上がる前に一瞬だけ躊躇い、口を開いた。
「......あの家、売ることにしたよ」
その言葉を聞いた凜は、顔を上げて彼女を見た。
「金に困ってるのか?」
一夏の心臓が激しく収縮した。
彼は気づいてくれると思っていた。
この数日間の沈黙、回避、目の奥の充血。
その理由が何であるかを。
せめて、「まだ怒っているのか?」と聞いてくれると思っていた。
けれど彼は、ただ彼女が金に困っているのだと考えた。
今の彼にとって、彼女の異常はすべて「金欠」という言葉で片付けられるものらしい。
一夏は口角を上げ、力なく笑った。
何も言わず、出口へと向かう。
ドアノブに手をかけた時、外から扉が開いた。
夢乃がテイクアウトの容器を提げて入ってくる。
食欲をそそる香りが広がった。
一夏は身をかわして道を譲った。
視界の端に、容器の中の真っ赤な料理が映る。
辛い料理ばかりだった。
凜は胃が弱く、辛いものは食べられないはずだ。
この3年間、彼女は料理に強い香辛料を使うことを決してしなかった。
けれどオフィスの中から、凜の楽しそうな声が聞こえてきた。
「いい匂いだな」
優しく、そして甘やかすような声。
一夏の指が震えた。
彼は本当に、夢乃のことを愛しているのだ。
自分の習慣さえ曲げ、不快感さえ飲み込んでしまえるほどに。
かつて、一夏が彼のためにしてきたことと同じように。
第5話
スマホが振動した。
一夏が画面をスワイプすると、不動産アプリの通知が飛び込んできた。
【掲載中の物件が成約しました。買主様より、3日後の一括支払いおよび引き渡し手続きの確認が取れました】
3日後は、ちょうど彼女が帝都を去る日だ。
一夏はスマホをしまい、署名済みの契約書を抱えて会社に戻った。
五十嵐は電話中だったが、彼女が入ってくるのを見ると、視線で契約書を差し出すよう促した。
一夏はフォルダーをデスクに置く。
五十嵐は電話を切ると、契約書を開いて署名欄を確認し、口角を上げた。
「いい仕事ぶりね。退職の手続きは人事に進めさせておくわ」
「ありがとうございます、五十嵐さん」
一夏が背を向けて立ち去ろうとしたその時、オフィスのドアが勢いよく開いた。
千暁が目を真っ赤にして立っていた。
「一夏......」
一夏は足早に歩み寄る。
「どうしたの?」
千暁は彼女の手を掴み、声を震わせた。
「全部聞いたよ......伊礼凜がそんな男だったなんて!
それより一夏、仕事を辞めて、これからどこへ行くの?」
「実家に帰るわ」
一夏は少し間を置いて、続けた。
「お見合いにいくの」
千暁は驚きに目を見開いた。
一夏は話題を変えた。
「そんなことより、おばさんの具合はどう?手術の日はもう決まった?」
千暁はうつむいた。
「まだベッドが空くのを待ってて。それに、治療費が......ちょっと厳しくて」
言い終わらぬうちに、受付の女の子が慌てて駆け込んできた。
「小林さん、外で誰か呼んでます。その......借金の取り立ての人たちみたいで」
一夏は眉をひそめた。
二人が会社の入り口へ向かうと、刺青を入れた屈強な男たちが廊下を塞いでいた。
リーダー格の男が煙草をくわえ、千暁の姿を見つけると下卑た笑みを浮かべた。
「お、やっと出てきやがったか。俺たちの金、いつ返すんだ?」
千暁は顔を真っ青にし、一夏の背後に隠れた。
一夏は彼女を庇い、その男を睨みつけた。
「彼女、いくら借りてる?」
「利子込みで400万円だ。今日中に返せ。さもなきゃ......」
男の視線が一夏に注がれた。
ふと動きが止まり、その笑みが薄気味悪いものへと変わる。
「あれ?どっかで見たことあると思ったら......あの鐘ヶ江一夏か?伊礼社長の元カノの?」
隣の舎弟が耳打ちをする。
男の笑みが深まり、一夏の体をなめるように見回した。
「やっぱりそうか。伊礼社長は下川家のお嬢様と結婚するんだって聞いたぞ。どうやら、お前はポイ捨てされたらしいな」
一夏の顔から血の気が引いた。
男が半歩詰め寄る。
「なんだ、捨てられたくせに、まだ人助けのつもりか?」
彼が一夏の頬に触れようと手を伸ばす。
「まあ、俺たちは別に気にしねぇぜ。今夜俺たちと付き合えば、借金の相談に乗ってやらんでもないが?」
一夏はその手を激しく叩き落とした。
「3日後に返すわ」
男は嘲笑った。
「何で返すんだ?伊礼社長からの手切れ金か?」
男の視線が、彼女の洗い古したブラウスと使い込まれたキャンバス地のバッグをなめる。
「見たところ、大してせしめられなかったようだな。まあ、そりゃそっか。
こんな女、数年遊んで捨てるにはちょうどいい。誰も本気で金出せねえよ」
一夏は手のひらに爪を立てた。
それでも声は震わせない。
「3日後、400万円。一分たりとも欠かさず返すから」
「今すぐだと言ってんだよ!」
男は突然逆上し、彼女の手首を荒々しく掴んだ。
「金もねぇのに格好つけてんじゃねぇ!伊礼社長が抱けるんだ、俺たちが抱けねぇわけがねぇだろうが!」
一夏は引きずられてよろけ、腰を壁に強く打ちつけた。
あまりの痛みに息が詰まる。
「彼女を離して!」
千暁が飛びかかった。
男は容赦なく彼女を突き飛ばした。
「うせろ!」
男は一夏を廊下へと引きずっていく。
「伊礼社長の女がどんなもんか、俺たちで味わってやろうじゃねぇか」
一夏は必死でもがき、パニックの中で男の腕に深く噛みついた。
男は激昂し、隅にあったレンガを掴み上げた。
「このクソアマ!」
レンガが振り下ろされた瞬間、一夏は目を閉じた。
だが、予想していた痛みは来なかった。
彼女はある胸の中に、強く引き寄せられた。
懐かしい香水の匂いが彼女を包み込む。
一夏は目を開けた。
凜が彼女の前に立ち塞がっていた。
レンガは彼の左肩を直撃し、スーツの生地が無残に裂けている。
彼は痛みで顔を青ざめさせていたが、それでも彼は、しっかりと彼女を庇っていた。
リーダー格の男は、凜の顔を認めた瞬間、持っていたレンガを「ガラン」と床に落とした。
「い、伊礼社長......申し訳ありません!
もう捨てられた女だと思い込んで......どうかお許しください!!」
男は自分の頬を、激しく何度も平手打ちし始めた。
凜は男を一瞥もせず、一夏に視線を落とした。
「怪我はないか?」
一夏は首を振る。
凜はそこで初めて男たちを振り返った。
その声は、凍てつくほど冷酷だった。
「金が欲しいんだろ?受け取りに来ないのか?」
「と、とんでもございません!誤解です!全部誤解なんです!」
男は腰を抜かし、その場に膝をついた。
「し、失礼します!」
警察がすぐに到着し、男たちは連行されていった。
廊下に静寂が戻る。
凜はようやく一夏を離し、右手で左肩を押さえた。
指の間から血が滲み出している。
その傷口を見つめながら、一夏はふと、遠い記憶の中にいた。
3年前も、同じことがあった。
当時、凜はまだ工事現場でプロジェクトにかじりついており、暴徒化した作業員たちに囲まれた。
彼は彼女を背後に隠し、背中にシャベルの一撃を浴びた。
血がシャツを真っ赤に染めても、彼は笑って彼女の頭を撫でた。
「大丈夫よ。俺がついているから」
その日の夜、彼は彼女の家のソファにうつ伏せになり、彼女はおぼつかない手つきで薬を塗った。
彼は痛みで顔を歪めながらも、彼女をからかった。
「これで、君は一生俺の面倒を見なきゃいけなくなったな」
彼女はボロボロと涙をこぼしながら言った。
「もう、怪我なんてしないで」
彼は彼女の涙を拭い、真剣に誓った。
「ああ、約束するよ。これからは、自分も、一夏もしっかり守り抜いてみせるよ」
今、凜の肩からは血が流れ、眉間に皺が寄っている。
それでも彼はまだ、彼女を案じている。
「本当に、怪我はないんだな?」
一夏が口を開きかけたその時、エレベーターが開いた。
夢乃が血相を変えて駆け寄ってくる。
「凜!大丈夫?!誰かが暴れてるって聞いて......」
彼女は凜の肩の傷を見るなり、瞬時に瞳を潤ませた。
「ひどい怪我......早く病院へ!」
凜は彼女に引かれるようにエレベーターへと向かった。
去り際、一度だけ一夏を振り返る。
「先に帰っていろ。夜、会いに行く」
エレベーターの扉が閉まった。
一夏は視線を外した。
彼は、彼女を傷つけないように守るという約束を、確かに果たした。
けれど、別のやり方で、それよりも深く、彼女を傷つけていた。
第6話
夜の九時、凜は本当にやってきた。
古い家の前に立つ彼の左肩には、うっすらと包帯の膨らみが透けて見えている。
一夏は身をかわして彼を中に入れた。
凜の表情は穏やかで、その胸の内を読み取ることはできない。
結局、先に口を開いたのは一夏の方だった。
「その怪我......」
「どうしてあんな連中と関わった?」
言葉を言い終える前に、遮られた。
一夏は口にしかけた気遣いを飲み込み、声を落とした。
「千暁が闇金に手を出した。放っておけなかったの」
「もうこんなことはするな」
凜の口調はどこか刺々しかった。
「女一人があんな連中と揉み合えば、外聞が悪い。それに話が広まれば、両社の提携にも影響が出るだろう」
その言葉は冷たい雪のように、昼間の彼に守られたことで一夏の心に滲んでいたわずかな温もりを一瞬で覆い尽くした。
彼は、彼女を心配していたのではない。
提携に支障が出るだろうと、自身の面目を案じていただけなのだ。
一夏は力なく口角を上げたが、何も言わなかった。
凜はコートのポケットから一枚のブラックカードを取り出し、彼女の前に差し出した。
「金が必要なら俺に言えばいい。あんな連中と関わる必要はない」
カードの表面はひんやりと冷たく、一夏はそれを受け取ろうとはしなかった。
凜は強引にそのカードを彼女の手に押し付けた。
「持っておけ。あの借金は、君に返せる額じゃない」
手のひらのカードを見つめながら、一夏は強い皮肉を感じていた。
伊礼家のお坊ちゃんは、確かに出し惜しみはしない。
けれど、彼女が欲しかったものは、そんなものではなかった。
「今夜、君の会社と会食がある」
凜は腕時計に目をやった。
「支度をして、一緒に来い」
一時間後、レストランの個室。
凜と夢乃が並んで座っていた。
五十嵐が数名の幹部を引き連れて同席し、千暁の姿もあった。
テーブルには贅を尽くした料理が並び、五十嵐は愛想よく夢乃にお茶を注いでいる。
「お二人、本当にお似合いですね」
夢乃は控えめに微笑み、その視線は一夏をかすめてから五十嵐へと戻った。
「五十嵐さん、褒めすぎですよ。そういえば、御社の清掃ロボットのプロジェクト、とても興味深いです。私も大学時代、似たような開発に携わったことがあるんです」
五十嵐の目が輝いた。
「本当ですか?下川様、そんな専門的なことまで?さすがです......!うちにあなたのような人材がいてくれたら......」
一夏は目を伏せ、静かに箸を動かしていた。
千暁がたまらず口を開く。
「五十嵐さん、あのロボットの基幹アルゴリズムは一夏がチームを率いて、三ヶ月も徹夜して突破したもので、彼女が......」
「運が良かっただけよ」
五十嵐が鼻で笑って遮った。
「チームに守られてただけで、彼女はただの実行役に過ぎないわ。
下川様のように幼い頃から見識を広め、本物の知識を身につけてきた方とは比べものにならない」
彼女は再び凜に向かって媚びるように笑った。
「伊礼社長と下川様は、まさに理想のカップルですね。ビジネスの天才と技術の才女。将来生まれてくるお子様は、きっとまた天才になりますよ」
夢乃の頬が赤らみ、恥じらうように凜を盗み見た。
凜は箸を置き、冷淡な声で告げた。
「仕事に関係のない話は控えてくれ」
不快感は明らかだった。
夢乃の笑みが凍りつく。
五十嵐もきまり悪そうに口を閉じ、部屋の空気は重く沈んだ。
食事の後半、夢乃はほとんど口を聞かなかった。
会食が終わると、彼女は凜を待たずにバッグを掴んで先に店を出た。
凜は即座に立ち上がり、彼女を追って外へ出た。
一夏も上着を手に取り、店を去ろうとした。
けれどレストランの入り口で、見てしまった。
夜の帳の中で、凜が夢乃の手首を掴み、低く何かを語りかけている。
夢乃は一夏に背を向けていたが、その肩は泣いているかのように小さく震えていた。
やがて、凜が腕を伸ばし、彼女をその胸に抱き寄せた。
夢乃は爪先立ち、彼に口づけをした。
近くを通った車のヘッドライトが、そのワンシーンを照らし出した。
そして、夢乃が顔を背けた際、一夏に向けられたその瞳も。
勝ち誇ったような、挑発的な眼差し。
その場に立ち尽くした一夏は、すべてを悟った。
夢乃は、すべてを知っているのだ。
自分と凜の過去も、自分の存在も、どうすれば自分の前で演じきれるかも。
そして、どうすれば自分を最も深く傷つけられるかも。
彼女が背を向けて立ち去ろうとしたその時、店から出てきた千暁が声をかけた。
「一夏!」
静かな夜の空気に、その声はひどく明瞭に響いた。
凜が弾かれたように振り返った。
視線がぶつかる。
彼の顔には、隠しきれない動揺が走った。
けれど一夏はただ静かに目を逸らし、千暁の腕を取った。
「行きましょう」
二人はタクシーを拾い、その場を離れた。
バックミラーの中で、凜はまだそこに立ち尽くしていた。
その影は夜の闇に溶け、どんどん小さくなっていった。
第7話
古い家に戻り、一夏はシャワーを浴びた。
熱い湯が肌を流れていくが、胸のつかえまでは洗い流せない。
髪を拭きながら出てくると、突然ドアを叩く音がした。
一夏は歩み寄り、ドアスコープから外を覗いた。
そこに立っていたのは、凜だった。
彼女は一呼吸置いてから、ドアを開けた。
一夏は入り口に立ち、ひどく穏やかな表情を浮かべていた。
一言も発さない。
ただ淡々と彼を見つめるその瞳は、まるで他人を見ているようだった。
凜が低い声で切り出した。
「さっきのは......夢乃の情緒が不安定だったんだ。彼女は心臓が悪い。刺激するわけにはいかないから、あんなことを......」
彼は言葉を区切り、続けた。
「あのキスは、ただ彼女を落ち着かせるためのものだ」
それを聞きながら、一夏はふと笑いが込み上げてくるのを感じた。
他の女との接吻を、これほどまでにもっともらしく正当化できるとは。
そのためにわざわざ説明しに来るなんて。
「わざわざ説明しなくていいわ」
彼女の声はひどく冷ややかだった。
「もう、どうでもいいから」
言い終えると、彼女はドアを閉めようと手をかけた。
凜がドアの縁を掴んでそれを阻む。
「一夏、怒っているんだろう?」
一夏は彼を見上げた。
この期に及んで、彼はまだ彼女が単に「怒っている」だけだと思っているのだ。
少しなだめれば、すべてが元通りになると信じている。
彼女はゆっくりと自分の手を引いた。
「伊礼社長、今日はお疲れ様でした」
ドアが静かに閉まった。
ドア一枚隔てた向こう側で、彼が長い間立ち尽くしている気配がした。
やがて、足音が遠ざかっていった。
一夏はドアに背を預けたまま、ずるずると床に座り込んだ。
顔に手を触れてみる。
乾いていた。
心が壊れた時というのは、本当に涙も出ないものなのだ。
翌朝、一夏はスマホの振動で目を覚ました。
カレンダーに目をやる。
今日は彼女が帝都を去る日だ。
画面には千暁から十数件の着信が入っていた。
彼女は折り返した。
「一夏!大変だよ!」
千暁の声は、震えるほど焦っていた。
「一夏がまとめ上げたあのプロジェクト、五十嵐さんと下川さんの共同プロジェクトになってる!今日の午後、発表会があるんだって!」
一夏はスマホを握りしめたまま、何も言わなかった。
心の中が氷のように冷えていく。
明白だった。
凜が、プロジェクトを夢乃に譲り渡したのだ。
彼女が伊礼グループで確固たる地位を築けるために。
「凜が全リソースを動員して彼女を盛り立てているそうよ」
一夏は静かに言った。
「......見に行きましょう」
発表会は伊礼グループ本社のカンファレンスセンターで開かれていた。
多くのメディアが詰めかけ、フラッシュが激しく焚かれている。
夢乃はオフホワイトのセットアップに身を包み、凜にエスコートされて登壇した。
彼女は気品に溢れ、カメラに向かって微笑みながら手を振っている。
凜は彼女の傍らに立ち、わずかに体を寄せて彼女を庇うようにエスコートしていた。
その仕草は親密そのものだった。
司会者が熱のこもった声で紹介する。
「本日、弊社の最新の戦略的パートナーを謹んでご紹介いたします。下川夢乃様です!
下川様は名門のご出身であるだけでなく、海外の名門校を卒業されたエリートであり、スマートハードウェア分野において深い造詣をお持ちです」
会場に拍手が響き渡る。
司会者は続けた。
「実は、下川様と弊社には以前から深い縁がございました。第一世代SLAMナビゲーション清掃ロボットの研究開発期間中、下川様は海外からリモートで指導に当たり、極めて重要な技術支援を提供してくださったのです!」
一夏は勢いよく立ち上がった。
椅子の脚が床をこすり、耳障りな音を立てる。
周囲の人間が何事かと振り返った。
彼女はステージを、食い入るように見つめた。
あのロボット。
彼女がチームを率いて、三ヶ月間不眠不休で作り上げたものだ。
彼女が200万円のボーナスと引き換えに、凜の起業資金を工面したあのプロジェクトだ。
それが今、夢乃の「リモート指導」による成果として発表されている。
「下川様の貢献に、感謝を!」
司会者の高らかな声。
一夏は椅子を押しのけ、真っ直ぐにステージへと向かおうとした。
だが、その時、力強い手に腕を掴まれた。
振り返ると、いつの間にか凜がそばに立っており、彼女の手首をきつく握り締めていた。
「ついてこい」
彼の声は低く、拒絶を許さない力強さがあった。
一夏は彼に引かれるまま、バックステージの隅へと連れて行かれた。
一夏の声が震える。
「......どうして?」
凜は彼女を見つめた。
「彼女が指導に当たったと言っているだけだ。君たちの成果を否定したわけじゃない」
一夏の瞳が赤く潤んだ。
「あれはチームが三か月をかけてやっと作り上げた努力の結晶よ!
そんな風に言われたら、私たちのことはすぐ忘れられてしまう!これは不正よ!」
彼女は背を向けようとした。
「メディアに伝えなきゃ」
凜は彼女を引き止めた。
「埋め合わせはする。すべての損失は、俺が補填する」
一夏は足を止め、ゆっくりと彼を振り返った。
「埋め合わせ?
あれは、私がこの手で作り上げたもの。私のキャリアで、私が生きた証なの。それをどうして......勝手に他人にプレゼントできるの?」
凜は数秒間、沈黙した。
「......夢乃には社内での求心力が必要だ。だからこのプロジェクトは、彼女にとって重要なものなんだ」
「私にとっても、重要だった」
一夏は彼を見つめた。
「凜。あなたは以前、『一夏には一番いいものがふさわしい』って言ってよね。
なのに今、あなたはそれを、別の誰かに与えてしまった」
第8話
凜は一瞬、沈黙した。
赤く腫れた彼女の目元に視線を落とし、声を低める。
「そもそも君がこのプロジェクトを引き受けたのは、賞金を俺の資金繰りに充てるためだっただろう?」
一夏の心臓が、目に見えない手に締め付けられたかのように、呼吸がわずかに止まった。
彼は、覚えていたのだ。
彼女が幾夜も徹夜したことも、賞金を手にした時のあのはしゃぎようも、カードを彼の手に押し付けたあの瞬間のことも。
「今の俺には、もう君の支援は必要ない」
凜は言葉を切り、淡々と事実を告げるような口調で続けた。
「だからもう、無理をする必要はないんだ」
一夏は彼を見つめながら、目の前の男が恐ろしいほど見知らぬ誰かに見えた。
彼は彼女の献身をすべて覚えていた。
苦楽を共にした細部も、彼のために心血を注いだ彼女の姿も。
だが、覚えていたところで、それが何だというのか。
彼はやはり、別の女を選んだのだ。
彼女が最も大切にしていたものを、何でもないことのように他人に譲り渡した。
「夢乃は入社したばかりで、周囲を納得させるだけのキャリアが必要なんだ」
誰もいない廊下に、凜の声が響く。一文字一文字が明瞭で、そして残酷だった。
「だからこのプロジェクトは彼女にとって重要だ。君以上にね」
一夏の指先が氷のように冷たくなった。
何かを言おうと口を開きかけたが、声が出ないことに気づく。
3年の奮闘で手にした名誉、初めて自分の実力で得た評価、ようやく胸を張れると思った自分自身の証明......
それらすべてが、夢乃の「必要」の前では、塵のように軽いものだった。
一夏は静かに息を吸い込んだ。
冷たい空気が、氷の礫を混ぜたかのように肺に刺さる。
彼女は何も言わず、一歩、また一歩とその場を離れた。
......
古い家に戻ると、一夏は家中をひっくり返して探し回った。
ロボット開発に携わっていた頃の、あらゆる資料を見つけ出したかった。
それが彼女の生きた証だからだ。
けれど、どこにもなかった。
引き出しは空になり、ファイルボックスも空。
パソコンのハードディスクにあった関連フォルダまで、跡形もなく消去されていた。
一夏は床に座り込み、空っぽの棚を見つめながら、ふと笑いが漏れた。
肩がかすかに震える。
この家の鍵を持っているのは、自分以外には凜だけだ。
彼女が大切なものをどこに仕舞っているか知っているのも、彼だけだ。
本当に......気が利く男だ。
一夏はゆっくりと立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
ガラスに映る自分の姿を見つめる。
その顔に表情はなかったが、瞳は死んだ水溜まりのように静まり返っていた。
心が極限まで壊れると、本当に痛みすら感じなくなるのだ。
翌朝、予定通りに買い主が引き渡しの手続きにやってきた。
若い夫婦だった。
部屋に残された家具や雑物を見て、困ったように尋ねる。
「鐘ヶ江さん、これらの荷物は......どうされますか?」
一夏はそれらを一瞥した。
「捨てても、売っても構いません。お好きに処分してください」
彼女の声はひどく淡々としていた。
夫婦は顔を見合わせ、それ以上は何も聞かなかった。
手続きは速やかに終わった。
銀行口座への入金を知らせる通知音が鳴った時、一夏はすでに建物の下まで降りていた。
彼女は道端に立ち、家の売却代金のすべてを千暁に送金した。
メッセージを一つ添えて。
【おばさんの治療に使って】
それから、あのブラックカードを封筒に入れ、凜へと郵送した。
......
空港のロビーは人々が行き交っている。
搭乗手続きを終えた一夏は、遠くに見える見慣れたビルを眺めた。
ここで凜に寄り添い、3年の月日を耐え抜いてきた。
苦難の先に幸せが待っていると信じていたが、結局はすべて夢のようだった。
搭乗を促すアナウンスが流れる。
一夏は視線を戻し、小さなスーツケースを持ち上げた。
飛行機が空へと舞い上がった時、彼女は窓から眼下に広がる、小さくなっていく街を見下ろした。
ふと、何年も前、初めてこの街にやってきた日のことを思い出した。
あの日も、今日のような曇り空だった。
使い古したリュックを背負い、駅の出口に立っていた。
あの頃の彼女は、必ずここで自分の居場所を切り拓いてみせると誓ったのだ。
その後、凜に出会い、自分の帰る場所を見つけたのだと思い込んだ。
でも今、ようやく分かった。
この街は彼女に極上の甘い夢を見せ、そして、最も痛烈な目覚めを与えたのだ。
雲を突き抜けると、太陽の光が目に染みるほど眩しかった。
一夏はシェードを下ろし、アイマスクを着けて、静かに目を閉じた。