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過去に戻り、夫の本命に妻の座を譲る
私、栗原翠(くりはら みどり)は、黒崎豪(くろさき ごう)に夢中で、みっともないほど追いかけ回している女だということを、周りの人間はみん...
Chương (1)
第1章
私、栗原翠(くりはら みどり)は、黒崎豪(くろさき ごう)に夢中で、みっともないほど追いかけ回している女だということを、周りの人間はみんな知っていた。
彼を追いかけ続けて13年間。栗原家の隠し子として生まれ、中学すらまともに出ていなかった私だったが、必死に勉強して名門大学で経済学の修士号を取り、ようやく彼の母親に認められて、黒崎家の嫁になることができた。
しかし結婚後、私は豪の会社には関わらず、彼のために尽くすこともやめた。
豪が初恋の井上睦月(いのうえ むつき)のために徹夜で企画書を作るなら、私は友人と世界旅行へ出かけたし、豪が睦月と海外のファッションショーへ行くというなら、私は自宅で猫の誕生日を祝った。
この結婚に愛など介在しないこと、すべては私の身の程知らずな思い上がりだったと悟ったからだ。
前世で豪が社内の揉め事に巻き込まれたとき、助けようとした私を、彼は眉をひそめて叱った。「でしゃばるな」
胃を悪くした豪のため、胃に優しい料理を覚えたのに、彼はそれを残業する睦月に差し入れると、私にこう言った。「俺より睦月の方が大変なんだ」
私が交通事故に遭ったその日、豪は睦月のために、花火を打ち上げていた。
私が豪に縋り付いても、彼は見下ろすだけだった。「翠、お前との間に感情なんてものはないんだ」
次に目を開けたとき……私は、彼との婚約披露宴の場に戻っていた。そして彼は、途中で席を立ち、失恋して落ち込んでいる睦月を慰めに行ってしまったところだった。
私は追いかけず、参列者全員の前でマイクを握った。
「皆様、大変申し訳ありません。この婚約は破棄させていただきます」
第1話
私、栗原翠(くりはら みどり)は、黒崎豪(くろさき ごう)に夢中で、みっともないほど追いかけ回している女だということを、周りの人間はみんな知っていた。
彼を追いかけ続けて13年間。栗原家の隠し子として生まれ、中学すらまともに出ていなかった私だったが、必死に勉強して名門大学で経済学の修士号を取り、ようやく彼の母親に認められて、黒崎家の嫁になることができた。
しかし結婚後、私は豪の会社には関わらず、彼のために尽くすこともやめた。
豪が初恋の井上睦月(いのうえ むつき)のために徹夜で企画書を作るなら、私は友人と世界旅行へ出かけたし、豪が睦月と海外のファッションショーへ行くというなら、私は自宅で猫の誕生日を祝った。
この結婚に愛など介在しないこと、すべては私の身の程知らずな思い上がりだったと悟ったからだ。
前世で豪が社内の揉め事に巻き込まれたとき、助けようとした私を、彼は眉をひそめて叱った。「でしゃばるな」
胃を悪くした豪のため、胃に優しい料理を覚えたのに、彼はそれを残業する睦月に差し入れると、私にこう言った。「俺より睦月の方が大変なんだ」
私が交通事故に遭ったその日、豪は睦月のために、花火を打ち上げていた。
私が豪に縋り付いても、彼は見下ろすだけだった。「翠、お前との間に感情なんてものはないんだ」
次に目を開けたとき……私は、彼との婚約披露宴の場に戻っていた。そして彼は、途中で席を立ち、失恋して落ち込んでいる睦月を慰めに行ってしまったところだった。
私は追いかけず、参列者全員の前でマイクを握った。
「皆様、大変申し訳ありません。この婚約は破棄させていただきます」
マイクを台に戻すと、ゴンッという鈍い音が響いた。
会場が一瞬にして静まり返る。
数百人もの視線が私に集まっていた。驚愕、戸惑い、そして好奇の目。
父は顔を真っ赤にし、壇上へ上がってくると唇を震わせながら、私にだけ聞こえるように言った。
「翠、お前なんてことを!?」
豪の母親である黒崎百合(くろさき ゆり)は、前世で私に陰湿ないじめをしていた女。そんな彼女の顔も、青ざめている。
綺麗な顔を怒りで歪ませ、私を睨みつける様子は、今にも飛びかかってきそうだった。
私は参列者の様子を、壇上から冷静に見つめる。
前世では、この顔ぶれに散々笑いものにされ、冷たい視線を向けられてきた。
「翠!今すぐ降りてきて、全員に謝るんだ!」
父が震える手で私を捕まえようとした。
しかし、私は身をひらりとかわし、会場の入り口を見た。
豪が戻ってきた。
彼の大きな影が、入り口に現れた。ジャケットは肩に無造作に掛けられ、ネクタイも緩くほどけている。その眉間には、誰かをなだめてきたばかりのような、わずかな疲れがにじんでいた。
壇上の異変と参列者の奇妙な視線に気づいた瞬間、豪の疲れは一気に冷たい怒りへと変わったようだった。
大股で歩いてくる豪の視線が、刃のように突き刺さる。
「翠、また何かしようとしてるのか?」
声は大きくない。だが、いつもの苛立ちと問い詰めるような響きが滲んでいた。
前世でもそうだった。私が彼と睦月のことで少しでも不満を見せると、彼は決まってこんな顔をした。まるで、理不尽に騒ぎ立てているのは、私のほうだと言わんばかりに。
そんな彼の態度を見ても、私は過去のように動揺したり、涙を流したりすることはなかった。
私はただ淡々と、同じ言葉を繰り返す。
「豪、婚約はなかったことにする。私たちは、これでおしまい」
私はドレスの裾を翻し、父の怒鳴り声も、百合の罵声も無視してステージを降りた。
大理石を踏み鳴らすヒールの音は、かつて卑屈だった自分の心を踏み潰していくようだった。
豪は立ち尽くしていた。その端正な顔には、私が見たこともないような、呆然とした表情が浮かんでいる。
第2話
栗原家に戻った私は、リビングで怒り狂っている父を無視し、そのまま階段を駆け上がった。
「翠!この親不孝者が!
この婚約のために、俺がどれほどの時間と金をかけたと思っているんだ?なのに、今さら白紙にするだと?お前は栗原家を、破滅させたいのか?」
私は耳を塞ぐと、ドアを閉めてその声を遮断した。
ウォークインクローゼットから一番大きなスーツケースを出し、私は黙々と荷物を詰め始める。
豪の好みに合わせて買い集めた地味なワンピース、「豪の婚約者」ということを見せつけるためだけに、百合から送られた宝飾品、そして豪との思い出の品々。それらは全て捨てた。
そんな時、携帯が激しく振動し、画面に豪の名前が浮かんだ。
私はマナーモードにすると、携帯をベッドへと放り投げた。
前世の私は、終わりのない豪を待ち続ける日々と、報われない想いに自分をすり減らしながら、死んでいったのだ。
なぜなら、豪から電話が一本あるだけで、私は地球の裏側からでも駆けつけたし、豪が眉を顰めれば、自分の何が悪かったのかと、考え続けた。
しかし、もう待つのはうんざりだった。
そして、考え続けるのも、もう嫌なのだ。
荷物は二つのスーツケースにまとまり、私はそれを2階から下ろしていく。
そんな私を見た父は怒りで卒倒せんばかりの勢いで叫んだ。
「出ていくつもりなのか?お前が出て行ったら黒崎家のことはどうするんだ?今すぐ黒崎家に行って、土下座でも何でもして謝ってこい!」
私は冷ややかな目で父を見下ろした。
「お母さんが亡くなって、私を引き取った日から、お父さんにとって私は利益を得るための道具でしか無かったもんね。だから今、その道具が言うことを聞かなくなって、焦ってるんでしょ?」
図星を突かれた父は言葉を詰まらせたが、怒りで顔を真っ赤にしていた。
「お……お前……」
そんな父を無視して、スーツケースを引きながら家を出ると、門の前には、一台の黒いベントレーが止まっていた。
運転席から、酷い形相をした豪が降りてきた。
彼は骨が折れそうなほどの強い力で、私の手首を掴み締め上げる。
「翠、気は済んだか?
何も無かった事にしてやるから、俺と一緒に帰るんだ」
その口調には、上から目線の、恩着せがましい響きが滲んでいた。
私は豪の手を力任せに振り払い、冷たい目で見つめた。
「はっきり言ったはずだよね?
それと、私に触らないで。汚らわしい」
豪の瞳が激しく揺れる。
どんな時も豪に従い、常に彼の顔色を窺っていた私が、まさか「汚らわしい」と吐き捨てるとは予想もしていなかったのだろう。
豪はじっと私を見つめ、何が起こっているのか理解しようとしていた。
「俺が会場を少し離れたから?」と言って、鼻で笑う。「いつからそんな器の小さい人間になったんだ?睦月が失恋して落ち込んでたから、慰めただけなのにさ。そんなの、友達として当たり前のことだろ?」
また、睦月だ。
睦月、睦月、睦月。
前世、睦月の気分が優れないというだけで、豪は私たちの結婚記念日の予定をすっぽかした。
睦月が体調不良だと知れば、平気で私を高速道路に置き去りにした。
極めつけには、私が交通事故のその日にも、睦月を笑わせたいという理由だけで、街中を花火で彩ったこともあるのだ。
豪を見ていたら、なんだか滑稽に思えてきた。
「うん、当たり前のことかもしれないね」と、私は淡々と言う。「だから、あなたを睦月に譲ってあげる事にしたの。一緒になれるの、願ったり叶ったりでしょ?
感謝してほしいくらい」
それだけ言い残すと、私は豪を振り返ることなく、タクシーを止めて、その場を後にした。
サイドミラーの中に映る、呆然と立ち尽くす豪の姿がどんどんと小さくなっていった。
第3話
私は、街の中心にあるホテルにチェックインした。
シャワーを浴び終えた時、部屋の固定電話が鳴った。
受話器を取ると、電話口からは百合の甲高く、意地の悪い声が聞こえてきた。
「翠、いい度胸してるじゃない。婚約の席で、うちの息子に恥をかかせるなんて!」百合は怒りをあらわにしてまくし立てた。
「所詮はあんたは、栗原家の隠し子にしか変わりないんだから。豪がいなかったら、あんたなんて黒崎家に近づくことすらできないんだからね。いい?明日の朝までに謝りに来なさい。さもなければ、栗原家を江原市から追い出すから」
百合が言い終えたようだったので、私は小さく「それで?」と答えた。
「言いたいことはそれで全てですか?
他にないなら、切りますね。パックしなきゃならないので」
それだけ言って、私はそのまま電話を切った。
受話器の向こうから聞こえるツーツーという音を聞きながら、私は怒り狂う百合の顔を思い浮かべた。
前世の私は、百合の機嫌を取るために、茶道や華道、それに料理など、彼女の好むものはすべてを学び、百合が求めるような人間として生きてきた。
それでも、百合は一度も私を認めてくれなかった。
私がどんなに高学歴で、いくら能力があろうとも、百合にとっては、私はただの「栗原家の隠し子」という立場だったのだろう。
豪と私の結婚を百合が認めたのも、私が豪の会社をうまく回せるうえに、自分勝手な真似をせず「言いなり」になる女だったからに過ぎなかった。
私はパックをしながら携帯を開き、これまでの豪との間にある資産の整理を始める。
私たちが共同出資していた慈善事業基金は、迷うことなく撤退の手続きをして、私名義で持っていた、豪の会社の株式はすべて最低価格で売りに出すことにした。
すべてやり終えると、全身が軽くなった気がした。
翌朝、ドアがノックされた。
ホテルのスタッフかと思いドアを開けると、そこにはいかにも庇護欲を掻き立てるような顔をした睦月がいた。
白いワンピースを着ている彼女の目は、まるで一晩中泣き明かしたかのように真っ赤だった。
「翠……」睦月が涙声で、一気に話し始める。「翠。豪さんと一体何があったの?昨日なんて、豪さん、あなたのこと一晩中探してたんだよ?
もしかして私のせい?もしそうなら……私からちゃんと話すよ。それで、もう二度と彼の前に現れないようにするから!」
そう言うと、睦月の目からぽろりと涙がこぼれた。まるで、私たちのためなら、自分が身を引いてもいいとでも言いたげな顔で。
その演技力は、表彰ものだった。
前世でも、睦月は同じように、何年も私の前で演じ続けてきた。
何か問題が起きるたびに、彼女は決まって「全部私のせいです」と自分から責任をかぶる。そうして無垢で優しい人間を演じることで、かえって私だけが嫉妬深い女みたいに見えるよう仕向けていたのだ。
私はドアに寄りかかり、淡々と睦月を見つめかえした。
「あなたのせいじゃないよ」
睦月が一瞬唖然とした。私にそう言われるとは思っていなかったらしい。
私は小さく笑って続ける。「ただふと思ったの。幸せは、無理に掴むものじゃないって。だって豪が愛してるのはあなたなんだもん。だから、私がいくら執着しても意味がないでしょ?だったら、二人の幸せを祈る事にしたの。
睦月、幸せになってね」
私は睦月をまっすぐ見つめ、真剣に言った。
睦月は完全に言葉を失っていた。
彼女が用意していたセリフは、すべて空回りだったから。
睦月は私を見つめた。その目には、探るような色と戸惑いが浮かんでいる。まるで、私の言葉が本心なのか、それとも皮肉なのか、確かめようとしているかのようだった。
「翠、お願いだからそんなこと言わないで……私と豪さんはただの友達……」
「友達かどうかはあなたが一番分かってるでしょ?」と私は睦月の言葉を遮る。「二度と私の前に現れないで。これ以上あなたたちに関わりたくないの」
それだけ言うと、私はドアを閉めた。
しばらくすると、携帯に豪からのメッセージが届いた。
【睦月に何か変なことを言ったそうだけど、一体何を考えているんだ?】
【いいか、睦月を巻き込むなよ?俺たちの問題に睦月は関係ないんだから】
「俺たちの問題」という言葉を見たら、最高に皮肉だと感じた。
豪と私に、いつ「俺たち」などという関係があったのだろう?
彼にとっての「俺たち」は、彼と睦月だったくせに。
私は豪を、着信拒否設定にした。
世界が、やっと綺麗になった。
第4話
ホテルに長く留まることはなく、すぐにマンションを借りて、生活の基盤を整えた。
ある日、投資の資料に目を通していると、思わぬ電話がかかってきた。
豪の側近、植田拓海(うえだ たくみ)からだった。
「栗原さん。お世話になっております」拓海の声は非常に丁寧だった。「社長は緊急会議を控えているのですが、西区のプロジェクトの資料が見当たらなくて。栗原さんは以前、この案件を担当されていたので、どこにあるかご存知ではないかと思い、連絡させていただきました」
西区のプロジェクト。
もちろん覚えている。
前世では、このプロジェクトは豪にとって事業上の転換点となったが、そこには大きな落とし穴も隠されていたのだ。
その時の私は、三日三晩不眠不休で膨大な資料を調べ上げ、その落とし穴を見抜き、豪が被害を回避できるよう尽力した。そのおかげで、彼は大きな利益を得ることもできたのだった。
豪が社内で地位を確立できたのも、その案件があってこそだった。
私は携帯を握りしめ、数秒黙り込んだ。
「覚えてませんね」私は淡々と答える。「私はもう豪とは関係ないんです。だから、今後彼の会社で何かあっても、私には聞かないでください」
電話越しでも拓海が、言葉を詰まらせるのがわかった。
「しかし、栗原さん。これは重要なプロジェクトなんです。社長は……」
「それは、彼の問題ですよね?」私は話を遮る。「忙しいので、これで失礼します」
電話を切った。窓の外を眺める私の心は、微塵も揺れていない。
私はもう、いいように使われる存在ではないのだ。
豪がどうなろうと、私には何の関係もない。
午後、友人と街に出てお茶を楽しんだので、その様子をインスタにアップした。
友人が撮ってくれた、心から笑えている私の写真と、可愛らしいスイーツの写真。
しばらくすると、友人がコメントをした。【黒崎社長と仲直りしたの?もう平気になった?】
続けて他の誰かが、そのコメントに返信する。【まさか!ニュース見てないの?黒崎社長は今日、井上さんに付き添って病院に行ったらしいよ。倒れた原因は過労って……まあ、とにかく大騒ぎだったんだから。何だか、お姫様だっこで、救急に駆け込んで行ったとかなんとか】
そんなコメントと共に、写真が添えられていた。
顔色の悪い睦月を抱きかかえた豪が、焦った表情で病院へと走り込んでいる。こんな豪の懸命な姿など、この13年間一度も見たことがなかった。
私はいいねを押し、携帯を閉じた。
夜、マンションに戻ると、見慣れた車が停まっていた。
豪が車のドアに寄りかかってタバコを吸っており、その足元には吸い殻が散乱している。
私に気づいた豪は火を消し、距離を詰めてきた。全身から強烈なタバコの臭いと、病院の消毒液の臭いを漂わせている。
「西区の資料はどこへやった?」どうやら、機嫌は最悪のようだ。
「言ったでしょ。知らないって」
「翠!」豪が声を荒げた。目は赤く充血し、酷く苛立っているようだった。「とぼけるな!この案件が俺にとってどれだけ重要か知ってるだろ?なのに、何でわざわざこのことで俺に復讐してくるんだよ?」
私は豪の姿を見て、滑稽に思った。
「復讐?豪、自分を買い被りすぎてるんじゃない?
私はもうあなたに関わりたくないだけなの」
豪の顔色がみるみるうちに青ざめていく。
「俺が睦月と一緒に病院に行ったからか?」
私は肯定も否定もしなかったのに、豪が言い訳を並べ始める。
「昔からずっと、睦月は身体が弱いんだ。今日だって、会社で倒れたんだから、病院へ付き添ってやるのは、当たり前だろ?
翠、いつまでそんな子どもみたいなこと言ってるんだよ。少しは大人になれないのか?」
大人になれ、か。
前世の私は、十分すぎるほど大人だった。豪が睦月の誕生日を祝っている夜、私は何も言わず、一人で朝まで泣いていた。
豪が睦月と海外へバカンスに出かけても、大人だった私は、一人で母の手術同意書にサインした。
そんな『大人』だった私は、静かに、あの交通事故の中で死んでいったのだ。
私は息を深く吸い込み、豪の目を見てはっきりと告げた。
「豪。睦月の体調が悪いなら、それは本来ご両親が心配すること。それに、倒れたならまず救急車を呼ぶのが普通だと思うけど。抱きかかえて連れ回して、見せ物みたいにすることじゃない。
それと、もう一回言うね。私たちはもう終わってるの。今後、あなたのことも、睦月のことも、私には一切無関係。
それでもまだ付き纏ってくるなら、警察を呼ぶから」
そう言い残し、私は踵を返した。
手首を強く掴まれた。前回よりもはるかに強い力で。
「翠、本気でそんなこと言うのか?」
その声には、これまで聞いたことのない感情が混じっていた。戸惑いのようでもあり、どこか傷ついたようでもある。何の感情なのか、私にはうまく分からなかった。
「お前が求めているのは、俺が折れることなんだろ?分かったよ」
豪は私の目をまっすぐ見つめながら、ゆっくりと言った。
「資料を渡してくれれば……謝る。
お前を追いかけなかったことも、睦月に付き添っていたことも、全部俺が悪かったと謝るから」
私は豪を見た。
この13年間で、初めて聞く謝罪の言葉だった。
過去の私が、死ぬほど切望していたもの。
しかし今となっては、ただ嫌悪感を感じるだけだった。
「あなたの謝罪なんて、何の価値もない」
私は豪の手を振りほどくと、そのままマンションへ向かった。
第5話
私は家に戻らず、別の物件へと向かった。
自分で稼いだお金で買った小さなマンション。ここは、豪も栗原家も知らない。
今後の計画を立てるためにも、一人になる時間が必要だった。
翌日、父から電話がかかってきた。声には隠しきれない怒りと疲労が滲んでいる。
「翠、お前は黒崎社長に一体何をしたんだ!?交渉中だった取引先が、一晩にして一斉にキャンセルしてきた。相手はみんな、黒崎グループの方から連絡があったと言っているんだぞ!
すぐに黒崎社長のところへ行って頭を下げてこい!でなければ、うちの会社は潰れる!」
怒鳴り散らす声を聞いても、私の心には波風一つ立たなかった。
このやり方は、前世でも、豪がよく使っていたものだった。
私が「言うことを聞かない」たびに、豪は父の会社を人質に取って私を追い詰めた。
そして父は、いつも私にすべてを押し付けるのだった。
「お父さんの会社のことでしょ?私には関係ないから」私は淡々と言う。「自分たちで何とかして」
「お前!」父は怒りのあまり声を震わせた。「親に向かってなんだその口の聞き方は!」
「会社のために私が犠牲にならなきゃいけない時だけ、思い出したように父親面するのはやめて」
電話を切ると、すぐにその番号も着信拒否リストに入れた。
それから間もなくして、知らない番号からショートメールが届いた。
【翠、俺を怒らせるなよ】
豪からだった。
【いつもの場所にこい。これが最後のチャンスだぞ】
いつもの場所――それは豪が経営する会社の近くにある高級レストランだった。前世では、何度そこで頭を下げ、許しを求めたことか。
豪はまだ同じやり方で、以前のように私を丸めこめると信じているらしい。
画面の文字を見て、私は思わず笑いを漏らした。
そして、たった一言だけ打ち返す。
【待ってて】
夜7時。私は約束通りレストランの個室の扉を開けた。
豪はソファーに深く腰掛けていた。しかし私が現れても、彼は座ったままで、一度も私と目を合わせようとしなかった。
そして、その横には睦月の姿もあった。
私に気づいた睦月は、困惑と不安が入り混じったような表情で、おずおずと口を開く。「翠……」
そこでようやく、豪が私を見た。冷たい瞳だった。
「自分の非を認める気になったか?」
返事はせず、豪の対面に腰を下ろすと、バッグからUSBを取り出し、テーブルの上に置いた。
「約束のものだよ」
豪が眉をひそめた。私がこれほど素直に応じるとは思ってなかったのだろう。
USBを受け取った彼からは、勝者の傲慢とでもいうような空気が漂っている。
「みっともない真似なんかしないで、最初からこうすればよかったんだよ。違うか?」
睦月も、ここぞとばかりに口を開いた。まるで場を取りなす役でも演じるかのように。「翠、もう豪さんに意地張るのはやめなよ。彼だって会社のことを思ってのことなんだからさ。二人とも、もう仲直りしたら?」
二人を見ていると、何だか安っぽい演劇を見せられているような気分になった。
「豪」私はゆっくりと口を開く。「その中に入ってるのは、西区のプロジェクトのデータだけじゃなくて、あなたへのプレゼントもあるの」
豪は怪訝そうな顔をした。どうやら、私の意図が読めていないようだ。
「今のうちに見ておいた方がいいと思うよ。じゃないと、明日のニュースで知ることになるからさ」
私は落ち着いて言った。けれどそこには、誰にも揺るがせない強い意志を込めた。
数秒間、私の瞳を見つめていた豪の瞳に、僅かな動揺が走る。
結局、豪はUSBメを隣にあったノートPCへと差し込んだ。
まずは西区のプロジェクトが本物だということを確認して、少し安心したようだった。
そして、もうひとつは【黒崎社長への贈り物】という名前のファイル。
豪は迷いつつも、クリックした。
そのファイルの中身は、豪の会社を標的にした、空売りのための詳細なレポートだった。
近年の財務上の穴や不透明な資金の流れ、社内のグレーな運用、さらにはいくつかの主要プロジェクトに潜むリスクまで。あらゆる角度から洗い出され、会社の弱点を徹底的に突き崩す、そんな内容になっていた。
さらには、3日間で株価を暴落させるための完璧な手法までもが記載されていた。
どんなトップクラスのプロが見ても震え上がるほどの、正確さと鋭さだった。
なぜなら、これは前世の私が、豪の会社を乗っ取りから守るために作ったリスク計画書そのものだったから。
この世で誰よりも、豪の会社の急所を知り尽くしているのは、この私。
豪の表情が変化していく。傲慢さから疑心、そして信じがたいものを見るような驚愕へと……そして、最後に訪れたのは、絶望だった。
マウスを握る指先が、小刻みに震えている。