委ねた痛みは刃に変わる

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委ねた痛みは刃に変わる

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誰もが知っていた。私・神宮寺夏帆(じんぐじ かほ)は柏原彰人(かしわら あきと)の逆鱗だった。 私に何かあれば、彰人は相手に食ってかかる...

Chương (1)

第1章

誰もが知っていた。私・神宮寺夏帆(じんぐじ かほ)は柏原彰人(かしわら あきと)の逆鱗だった。 私に何かあれば、彰人は相手に食ってかかるような人だった。 「十年ずっと君が好きだった。やっと想いが叶った」 「結婚したら、絶対に幸せにする。何があっても、君のそばを離れない」 けれど結婚三周年の記念日に、私は偶然、婚姻届受理証明書そのものが偽造だったことを知った。 不審に思って役所の窓口で確認してもらうと、担当者は事務的な口調でこう告げた。 「システム上では、柏原様は三年前の11月23日に、すでに婚姻届を提出されています」 その瞬間、私は凍りついた。 私たちが婚姻届を出したのは、11月22日のはずだった。 第1話 誰もが知っていた。私・神宮寺夏帆(じんぐじ かほ)は柏原彰人(かしわら あきと)の逆鱗だった。 私に何かあれば、彰人は相手に食ってかかるような人だった。 「十年ずっと君が好きだった。やっと想いが叶った」 「結婚したら、絶対に幸せにする。何があっても、君のそばを離れない」 けれど結婚三周年の記念日に、私は偶然、婚姻届受理証明書そのものが偽造だったことを知った。 不審に思って役所の窓口で確認してもらうと、担当者は事務的な口調でこう告げた。 「システム上では、柏原彰人様は三年前の11月23日に、すでに婚姻届を提出されています」 その瞬間、私は凍りついた。 私たちが婚姻届を出したのは、11月22日のはずだった。 役所を出たときも、私はまだどこか現実感がなかった。 婚姻届受理証明書を受け取ったその日、彰人はすぐにそれをしまい込んだ。 彼は証明書をぎゅっと握りしめ、真剣な顔で言った。 「ちゃんと保管するよ」 そうして彼は証明書を隠し、そのまま三年。 私ですら、どこにあるのか知らなかった。 それが今朝になって、無造作にテーブルの上へ放り出されていた。 そのとき初めて知った。 彰人は偽の証明書で、三年間ずっと私を騙していたのだと。 考えがまとまる前に、スマホの画面が光った。 彰人の友人から送られてきた動画だった。 背景はバー。 五分前には会議中だと私に電話してきたばかりの彼が、今は酒瓶を手にして、何度も何度も、容赦なく振り下ろしていた。 周囲は止めようと声を上げ続けていたのに、彰人にはまるで聞こえていないようだった。 目を真っ赤にし、力任せに振り下ろし、相手の頭から血を流させていた。 そこまで見たところで、私の頭の中は真っ白になった。 彰人が、私の前でこんな表情を見せたことは一度もなかった。 問い詰める電話をかけることすら忘れ、私はすぐにタクシーを拾って送られてきた住所を告げた。 バーは役所から遠くなかった。私が着いたころには、彰人の友人たちがすでに客を帰らせていた。 警察を呼ぶこともできず、私の姿を見るなり、みんな口々に言った。 「奥さん、彰人さんはあんたの言うことなら一番聞くんだ。頼む、止めてくれ」 「このままじゃ死人が出る。しかも今はただでさえ厄介な時期なんだ」 彰人が前に激しく怒ったのは、結婚式の日だった。 酔った招待客のひとりが、私にしつこく触れてきた。 彰人は相手の顔を一発で殴りつけ、私に謝れと迫った。 「彰人、もうやめて」 私は駆け寄って止めようとした。けれど次の瞬間、思いきり突き飛ばされた。 不意を突かれた腰がテーブルの角にぶつかり、痛みで涙が滲んだ。 それなのに、普段なら人前で私を気にかけてばかりいる彰人は、まるで気づきもしなかった。 一人の手が彼の腰に回されたとき、彰人はようやく動きを止めた。 彼がはっとしたその瞬間、私にも、彼が背後にかばっていた相手が見えた。 それは、あの年、私たちの結婚式に乗り込んできて、大きなお腹を抱えながら彰人を夫と呼んだ女だった。 そして、あの五年間、彰人が外で付き合っていた恋人。 さらに三年前、彼と婚姻届を出した相手――梶尾雪名(かじお ゆきな)だった。 「あなた、もうやめて」 彼女は涙をぽろぽろこぼし、か細い声はすぐに周囲のざわめきにかき消された。 それでも彰人には聞こえていた。 彼は表情を和らげ、相手を強く抱き寄せた。 「こいつがお前に手を出したんだ。こうなって当然だ」 数メートル先で、私は呆然と二人を見つめていた。 誰かの悲鳴が上がって、ようやく私はふくらはぎに走る激痛に気づいた。 あの男がいつの間にか這って近づいてきていたのだ。 手には割れたガラス片を握りしめ、それを勢いよく私に振り下ろした。 切り裂かれたのは足なのに、胸のほうが刃で抉られるみたいに痛かった。 白いワンピースが血に染まっていったのに、私はまるで気づかなかった。 彼女の手首に下がった小さな御守りが目に入ったからだ。 私は子どものころから体が弱く、よく熱を出していた。 十七歳のあの年、彰人は私のために、あっちこっちを回って五円玉を集めてきた。 誰かが何気なく口にした、「五円玉はご縁にも通じるし、五枚そろえると厄除けになるらしい」という話を、彼はずっと覚えていたのだ。 彰人は一晩かけて、その中から五枚を選び抜いた。 そして小さな布の御守り袋を用意し、その中に五円玉を納めた。 さらに自分の髪を少しだけ切って一緒に忍ばせ、これで私の厄災を代わりに引き受けられるならそれでいいと、周囲に笑われてもまるで気にしなかった。 それから私は、その御守りをずっと肌身離さず持ち歩き、一度も手放したことがなかった。 それが三年前、いつの間にかなくなっていた。 私はただ、それが彰人を無事に守ってくれたのだと思っていた。 厄を払って、願いを叶えてくれたのだと。 まさか、彰人がそれを持ち出して、他の女に渡していたなんて。 ふくらはぎからは血が止まらず、私の顔色も次第に白くなっていった。 意識を引き戻したとき、ようやく彰人が振り向いた。 けれどその目に、これまでのような痛ましさはなかった。あったのは、言葉にできないほどの狼狽だけだった。 第2話 バーを出たときには、もう深夜を回っていた。 彰人は酒を飲んでいなかった。さっきからずっと、雪名とは距離を取って、あからさまにならないように振る舞っていた。 彼女はただ目を赤くしたまま、何も言わずに私たちの後ろをついてきた。 彰人が車を出してきたところで、彼は淡々と口を開いた。 「彼女、一人だし、この時間は危ない。送っていこう」 彰人は外出するとき、よくスポーツカーに乗る。座席は二つしかない。 私はいつものように助手席に乗った。すると彼は、降りろと言った。 「先にあの子を送って、そのあと迎えに来る」 彰人の表情はやわらかかったけれど、その声には逆らわせない響きがあった。 シートベルトにかけた手が止まり、私は顔を上げて彼を見た。 彰人自身は気づいていないけれど、彼はひどく芝居が下手だった。 他人のふりをしたいくせに、視線だけはいつも雪名へ向いている。 タクシーを呼ぶことだってできたし、友人に送らせることだってできた。 それなのに彰人は「心配だから」の一言で私を押しのけた。 彼は忘れていた。 女なのは雪名だけじゃない。暗い夜を怖いと思うのも、彼女一人じゃない。 私がほんの少しためらっただけで、彰人はもう眉をひそめていた。 「戻ったらお詫びにケーキ買ってあげるよ、いいだろ。君の好きなあの店の。彼女の家、あっちのほうなんだ。ちょうど途中だし」 彼はそっと私のそばに顔を寄せ、本当にケーキを買って帰るつもりでいるみたいに見せた。 でも彰人は忘れていた。数日前、私は生クリームでアレルギーを起こして熱まで出したばかりだった。 私は「うん」とだけ返し、彼の嘘を暴こうともせず、静かに車を降りた。 けれどあの夜、結局ケーキは来なかったし、彼も戻ってはこなかった。 街灯がともるのを見て、私はようやく、もうかなり遅い時間なのだと気づいた。 何時間も待ったのに、彰人は私のことを忘れていた。 私はそれ以上待つのをやめ、一人でタクシーを拾って家へ帰った。 ドアを開けると、彰人が一度帰ってきた形跡があった。 テーブルの上の救急箱はなくなっていて、引き出しの薬も何本か減っていた。 シャワーを浴びて着替えようとしたとき、私はふと動きを止めた。 クローゼットの扉が開いていて、中の服が一着なくなっていたからだ。 十八歳の誕生日に、彰人がくれたワンピースだった。 私がいちばん好きだった一着でもある。 それでも私は問いただしに行かず、静かに扉を閉めた。 書斎に入って、自嘲するように思った。 婚姻届受理証明書でさえ偽物だったんだ。 あの人にできないことなんて、もう何もないのかもしれない。 書斎の引き出しには鍵がかかっていて、普段の私は開けることもなかった。 彰人は、暗証番号は結婚した日だと言っていた。 けれど三度、1122と入れてみても開かなかった。 宙で指先を止めてしばらく迷い、最後に私は1123と打ち込んだ。 彰人がいつも私たちの記念日を間違える理由が、やっとわかった。 区別がついていなかったのだ。 鍵が開くと、中には一冊のノートが入っていた。 そこには、私の好みや癖がびっしりと記されていた。 小さいころ、彰人は毎日のように、私に関することを何でも書き留めていた。 実の親にまでからかわれても、彼はただ胸を叩いて言っていた。 「夏帆ちゃんは俺のお嫁さんだからな。ちゃんと俺が守らないと」 だから、どれだけ疲れていても眠くても、彼は日記を書き続けた。 私はページを一枚ずつめくり、幼い字が大人びていくのを見ていた。 鋭い紙の端で指先を切って、私はようやく手を止めた。 それは、彼が結婚式から逃げた二年目のことだった。彰人はもう、日記なんて書いていなかった。 その前までは、私を想っているように見せかけながら、実際には、その大半が雪名のことを書き綴る言葉で埋め尽くされていた。 後になればなるほど、その想いは深くなっていった。 その分、私について書かれる文字はどんどん少なくなっていった。 そして日記は、三年前、彼が戻ってくる一か月前のところで途切れていた。 【雪名が妊娠した。彼女には申し訳ないことをした】 【でも今の俺には雪名と子どもを養えない。家庭を背負うこともできない】 そのとき、私はようやく気づいた。彰人が戻ってきて結婚したのは、私を忘れられなかったからじゃない。 結婚すれば財産を継がせると、両親に約束されていたからだ。 彼の目的は金だった。 第3話 私は一晩中、眠れなかった。ぼんやりした頭のまま、すべての日記を最後まで読み切った。 そして最後に、離婚協議書を作ろうとパソコンを開いたとき、あの偽物の証明書のことを思い出した。 三年前、私たちの結婚式は盛大だった。 けれどその裏では、誰にも知られないまま、名ばかりのものだった。 あのとき雪名が式場に乗り込んできたとき、彰人はただ冷ややかに彼女を見ていた。 彼は「雪名は精神的に不安定なんだ」と言い、さらに自分は罠にはめられたんだとも言った。 私は彰人の言葉を信じて、彼の隣に立った。 「その子は、もともとお前が卑怯な手でできた子だ。堕ろせ」 彰人の母の柏原玲子(かしわら れいこ)も年を取っていたし、孫を欲しがっていた。 玲子は孫を欲しがっていて、産ませたがっていたのに、彰人の顔つきは冷えきっていた。 見たところ、彼は雪名を心底嫌っているようだった。 けれどその手は、無意識のうちに固く握りしめられていた。 「この子には父親が必要なんです。お願いします、神宮寺さん、どうか私たちを認めてください」 雪名は彰人の冷たさを感じ取ったのか、今度は私に縋ってきた。 けれど彼女の手が私のドレスの裾に触れかけた瞬間、彰人は彼女を突き飛ばした。 雪名が額を打って血を流しても、彼はまるで動じなかった。 彰人の父の柏原誠司(かしわら せいじ)は若いころ、女癖の悪い放蕩者で、外に囲っていた愛人との間に隠し子までいた。 その女が子どもを連れて玲子の前に現れ、見せびらかしたときも、彰人はまさにあんな顔をしていた。 私は知っていた。彼は自分の父を憎んでいた。 それなのに、自分もまた同じような人間になっていた。 ただ、彰人の口座の利用明細には、何か月も続けて病院での支払い履歴が残っていた。 雪名を中絶に連れて行ったんじゃない。無事に産ませるために通っていたのだ。 子どもを非嫡出子にしたくなかったから、彼女にちゃんとした立場まで与えた。 どうして彰人が昼間、いつも会社にも行かず、家にも帰らなかったのかと思っていた。 新婚の妻に付き添っていたからだったのだ。 私は静かにパソコンを閉じ、ノートも閉じた。 認められていない結婚なんて、もともと偽物だ。 離婚協議書を用意する必要すらない。 けれど次の瞬間、部屋のドアが開き、彰人が飛び込んできた。 彼は近づいてきて、私の腕をきつく掴み、力任せに外へ引っ張ろうとした。 「解熱剤に何を入れた?どうして陽菜ちゃんが急に腹痛を起こしたんだ」 彼は焦りのあまり、口調も荒くなっていた。 私は振りほどこうとしたけれど、力が入らなかった。 頭はくらくらしていたし、額も熱を持っていた。 彰人が解熱剤を全部持って行ってしまったせいで、私はただ耐えるしかなかったのだ。 「何も入れてない。ただの薬だった」 声はかすれていたけれど、彰人は信じなかった。 そのときになって私は、明るくなった彼のスマホ画面を見た。雪名からのメッセージだった。 【陽菜ちゃんがお腹が痛いって、パパを呼んでるの。早く帰ってきて】 あの子の名前は陽菜というのだ。 彰人は最後に私を放し、目を赤くしたまま棚をかき回した。 昔、私も彰人のスマホを見たことがある。 彼は私に何の警戒もしていなくて、パスコードだって全部私の誕生日だった。 けれど連絡先の中に、雪名の名前を見かけたことは一度もなかった。 今日になって初めて知った。 彰人にはスマホが二台あり、SIMカードも二枚あったのだと。 私はふらふらしたままソファに座り込み、目も開けていられないほどだった。 それでも平静を装い、彰人が立ち去ろうとしたとき、先に口を開いた。 「外のドラッグストア、二十四時間営業よ。そこで買えばいい」 「それと、私たちの婚姻届受理証明書、見たの。偽物だった」 私がそう言い終えた瞬間、彰人の動きが止まった。 偽物の証明書のことが露見したのだから、私はもっと激しい反応をするものだと思っていた。 けれど彼はほんの少し立ち止まっただけで、そのまま背を向けて出ていった。 「夏帆ちゃん、今は急ぎの用があるんだ。戻ったら説明する」 彰人はそれだけを慌ただしく言い残し、ドアを閉めた。 彼が出て行ったあと、私もついに限界がきて、ソファに倒れ込むようにして目を閉じた。 意識が戻ったときには、もう午後三時だった。 体には毛布がかけられていて、キッチンからはいい匂いがしていた。 彰人がいつの間にか戻ってきていて、私のために食事を作っていた。 ぼんやりする意識の中で、まるで何も起きる前の日々に戻ったみたいだと思った。 私たちはまだ深く愛し合っている夫婦で、雪名も私の前には現れていない。 私が目を開けたのを見ると、彰人は手を止め、水を一杯注いでくれた。 けれど、私がうっかり彼の指先に触れた瞬間、彼の動きがぴたりと止まった。 そして、彼がその一瞬立ち尽くしたとき、私は彼の襟元に貼られた小さなアヒルのシールを見つけた。 彰人のスーツには不釣り合いな、ひどく子どもっぽいものだった。 きっと娘が貼ったのだろう。 「婚姻届受理証明書のことだけど……」 私は何も言わずに水を飲んでいたのに、彰人のほうが耐えきれずに口を開いた。 説明しようとしているようだったけれど、なかなか言葉にならない。 だから私は彼の沈黙を断ち切るように、手にしていたグラスを置いた。 「偽物だったんでしょう。だったら、もう私たちが続ける必要なんてないわ」