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悪夢から覚め、愛想を尽かした妻は手の届かぬ星へ
子供を亡くしてからの杉本麻美(すぎもと あさみ)は、杉本渉(すぎもと わたる)が嫌がるようなことはすべてやめた。 夜通し連絡したり、渉が...
Chương (1)
第1章
子供を亡くしてからの杉本麻美(すぎもと あさみ)は、杉本渉(すぎもと わたる)が嫌がるようなことはすべてやめた。
夜通し連絡したり、渉が帰ってこなくても泣き叫んだりはしなくなった。事故に遭い、医者に家族へ連絡するように言われた時でさえ、麻美はただ淡々とこう答えた。
「身寄りはいません。連絡できる人なんて、一人もいないんです」
第1話
子供を亡くしてからの杉本麻美(すぎもと あさみ)は、杉本渉(すぎもと わたる)が嫌がるようなことはすべてやめた。夜通し連絡したり、渉が帰ってこなくても泣き叫んだりはしなくなった。
事故に遭い、医者に家族へ連絡するように言われた時でさえ、麻美はただ淡々とこう答えた。
「身寄りはいません。連絡できる人なんて、一人もいないんです」
しかし、看護師は麻美の正体に気づいていた。「杉本さんの奥さんですよね?ご主人が上の階にいらっしゃいますが、呼んできましょうか?」
麻美はその時ようやく気づいた。この病院は杉本グループが運営しているのだと。
首を振り、麻美は小さな声で大丈夫だと伝えた。しかし、30分後には渉が姿を現した。
鋭い眉をわずかに寄せただけで、息も詰まるほどの威圧感を放った。「車に撥ねられたんだろ、なぜ俺に連絡しなかった?」
麻美は視線を伏せた。「足が折れただけ。大したことないわ」
そのあっさりとした口ぶりに、渉の心の中は得体の知れない苛立ちで満たされた。
麻美は昔、とても甘えん坊だったはずだ。付き合っていた頃は、ちょっとした風邪でも抱きついて離れず、甘えたりキスをせがんだりしていた。それが今、片足が折れているのに眉一つ動かさない。
渉が何かを言おうとしたその時、廊下から看護師たちのひそひそ話が聞こえてきた。
「杉本さんは本当に妹さんを大切にされているわ。膝を少し擦りむいただけなのに、専門家を何人も呼んで診察させ、ご自身もつきっきりだもの。妹さんが移動する時は常に抱っこして、足先一つ床に着かせないようにしているわよ」
渉の鼓動が急に速くなる。彼の中には怒りがあったはずだが、無意識に視線は麻美に向けられた。まるで、麻美が嫉妬して騒ぎ出すのを待っているかのようだった。
だが、麻美は瞼すら上げず、ただ静かに目を閉じてベッドで横たわっていた。
渉の気分はさらに沈んだ。冷ややかな声で釈明する。「皆の噂を鵜呑みにするな。美穗は撮影中に膝を打っただけで、俺はついでに病院まで送ってきたに過ぎない」
麻美は小さく「うん」と応えただけで、それ以上は何も言わなかった。
渉は急にイライラしたように怒鳴った。「俺を信じていないのか?」
「信じてるわ」麻美はそう答えたが、もうそこに以前のように心はこもっていなかった。「美穗はあなたの妹同然なんだもの。心配するのは当然よ」
以前なら、渉は冷めた目でこう叱責したものだ。「美穗は妹だ。見捨てられるはずがないだろう。俺らは兄妹の関係なんだ、一体いつまで騒ぐんだ?」
今、麻美は彼の望み通り、泣くことも騒ぐこともやめた。それなのに、渉の心には何かが詰まったようなもどかしさが残る。
違う、何かが間違っている……
その時、看護師が慌てて部屋に入ってきた。「杉本さん、妹さんが膝が痛いとおっしゃっています。早く様子を見にいらしてください」
渉は苛立ちを露わにして反射的に怒鳴った。「膝が痛いなら先生を呼べよ。俺は医者じゃないんだぞ、何で俺を呼ぶんだ?」
看護師が下がった後、渉はすまなそうな顔で麻美を見つめた。
「麻美、まだ子供の件で苦しんでるのか?あの時は確かに美穗が悪かった。もう説教はしておいたんだ」
渉は一呼吸置いて、ゆっくりと歩み寄り、麻美のベッドの横に腰を下ろした。
「俺たちはまた子供を授かれるはずだ」渉が麻美の手を握った。
「こうしないか?次の1週間、俺がずっとつきっきりで看病する」
だが、麻美は無言でそっと、渉の手から自らの手を引き抜いた。
渉が眉をひそめて何かを言いかけたその時、部屋の外から派手に物が倒れる音が聞こえた。
杉本美穗(すぎもと みほ)が松葉杖をついたまま、麻美の部屋の前で倒れ込んでいた。
渉はすぐさま駆け寄り、美穗を抱き上げた。「何でまたそんな動き回るんだ?ベッドで安静にしてろと言っただろ」
「麻美さんが車に撥ねられたって聞いたから」美穗は悲しげに言った。
「心配でお見舞いに来た」
そう言いながら、渉の胸に縮こまった。まるで麻美に何かされたかのように、目を潤ませて訴える。
「麻美さん、怒らないで。聡くんが亡くなったのは、わざとじゃないの」
昔の麻美なら、絶望し、叫び散らし、渉に泣きじゃがりながら問い詰めたはずだ。なぜ、杉本聡(すぎもと さとし)を殺した女をかばうのか、と。
しかし今はもう、何も言わなかった。ただ瞼を閉じて横たわり、眠っているようだ。
顔は血の気がなく、あまりにもか弱くて、遠くから見ると今にも砕け散りそうだった。
渉の心は理由もなく締め付けられた。「美穗を上の階に運んだら、すぐに戻ってくる」
彼は美穗を抱いてそのまま去り、夜遅くなるまで二度と現れることはなかった。
逆に航空局から麻美のもとに連絡が入った。
「本当に航空局の月面探索プロジェクトに参加されますか?これは国家級の秘密プロジェクトです。一度参加すれば、今後数十年は航空基地から出られず、外部との連絡も絶たれます。ご主人との接触も禁じられますよ」
「間違いありません」麻美は冷静に答えた。
「安心してください。すでに離婚届の準備は進めています。あと1週間で提出し、自由の身になれます。この世から隔絶された場所は、私にぴったりですから」
第2話
受話器の向こう側の相手は驚いた様子で言った。
「本気なんですか?航空局で、お二人のことは誰もが知っています。ご主人のためならと、あなたがどんなオファーを蹴ってきたことも。もしそうでなければ、あなたはとうの昔に航空局のチーフエンジニアになっていたはずですよ」
麻美の胸が、ズキリと痛んだ。
理系の研究者として、どんな物事にも冷静沈着で理性を保ってきた麻美。だが渉のこととなると、途端に理性を失い、彼のことばかり考えて何も手に付かなくなってしまう。
渉に対する想いは、一目惚れであり、同時に積年の恋心でもあった。小学校からずっと同級生で、周りからはいつも「秀才カップル」と冷やかされていた。テストの順位は決まっていて、常に1位が渉、2位が麻美だったからだ。
麻美はそれが悔しくて、血の滲むような努力で渉を追い抜こうとしたが、いつも跳ね返された。
さらに頭にくるのは、渉は天才肌の努力家で、普段は全く勉強していないのに、涼しい顔で常にトップの座を維持していることだった。
周囲に対しては対抗心を燃やすフリをしていたが、本音は、渉をずっと人知れず好きでいたのだ。
高校3年の時、麻美は勇気を振り絞って渉に向き直り、顔を真っ赤にして言った。「ねえ渉、もしテストの成績で勝ったら、恋人になってくれる?」
渉に無情に断られると、そう思っていた。
だが渉はふと歩み寄ると、耳元で悪戯っぽく息を吹きかけた。「もし麻美が、今年一位をとれたら、結婚してやるよ」
その冗談のような言葉を信じ、麻美は死に物狂いで勉強した。結果、大学入学共通テストでは驚異的な高得点をマークし、晴れて全国トップレベルの成績で合格を果たした。
渉も約束を違えることはなかった。彼は全国のメディアの前で、これ以上ないほど派手なプロポーズをした。空を数百のヘリで埋め尽くし、街中を薔薇の花びらで埋め尽くすような、ロマンチックな演出だった。
「麻美、愛してる。結婚できる年になったら、妻になってくれないか?」世間の注目が集まる中、渉は薔薇の花束を捧げ、片膝をついてそう言った。
あの時、麻美は自分が世界一幸せな女性だと思っていた。
だが後になって知ったのだ。渉があそこまで大々的に求婚したのは、愛のためなどではなかった。杉本家の養女、いわゆる彼の義妹との間に抱える、あの醜聞を隠すためだったことを。
あの時、麻美は全国的に有名な秀才で、メディアは彼女に釘付けだった。そんな麻美を盾にすることで、渉は醜聞をうまく隠蔽しようとしたのだ。
幼なじみであり、お互いを高め合う秀才同士。そんな完璧なラブストーリーなら、世間の目もそらせるだろう、と。
だから渉は、麻美を選んだのだ。
「すみません、聞こえていますか?」航空局の相手が声をひそめて促す。「ずっと黙ったままですが、後悔しているんですか?あれほどご主人を愛していたあなたなら、無理もありませんが……」
相手が言い終わるのも待たず、麻美は言葉を遮った。「いいえ、後悔なんてしていません。これからも後悔することはありません。だって、もうずっと前から彼のことなんて、愛していないんですから」
その言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、扉が勢いよく開いた。
鋭い眼差しを向け、渉が険しい表情で踏み込んできた。「愛してない?もう一度言ってみろ。愛してないだと!」
第3話
麻美は横になったまま、電話に出ていた。
だから、入り口で気配がした時には、音を立てずに通話を切って、目を閉じて眠ったふりをしていた。
渉が怒りをあらわにして飛び込んできたが、ベッドに近づくと麻美が目を閉じているのに気づいた。
なんだ、寝言か……
渉は安堵したものの、心のどこかにはわだかまりが残った。夢の中ですら、麻美が自分を愛さないことを許せなかったからだ。
渉は麻美を揺り起こした。「麻美、悪夢でも見てたのか?『愛してない』とか寝言を漏らしてたけど……一体どんな夢を見たんだ?どうして夢の中でそんなに悲しそうに泣いてたんだよ?」
麻美は伏し目がちに言った。「なんでもないわ。ただ聡の夢を見て……聡が夢の中で泣きながら、『どうしてパパとママは愛してくれないの?』って聞いてきたの」
渉の心臓が鋭く痛んだ。彼は麻美を強く抱きしめると、くぐもった声で言った。「麻美、聡の事故は不幸なことだったんだ。お前のせいじゃない。自分を責めるのはやめろ」
間をおいてから、渉は付け加えた。「俺たちはまだ若い。これからも子供は作れる。たくさん作ればいいんだ」
麻美は黙り込んだ。心が冷え切り、もはや涙すらこぼれなかった。
確かに自分は若いし、また産むことはできるだろう。でも、だからなんだというの?聡はもう戻らない。新しい子供が産まれれば、すべてがなかったことになるというの?
今となっては、麻美には渉と言い争う気力すら残っていなかった。彼女は何事もなかったかのように話題を変えた。
「渉、真夜中にここへ何の用?」
渉は一瞬戸惑い、バツが悪そうな顔をした。「麻美、美穗が胃が痛いって言うんだ。お前が作る生姜スープが飲みたいって言っていてな」
麻美は凍りついた。自分は交通事故で足を骨折したばかりなのに、渉は真夜中に自分を起こして美穗の生姜スープを作らせようというのだ。
自分の言葉の無神経さに気づいたのか、渉はすぐに言い直した。「麻美、ベッドから降りなくていい。作り方を教えろ。俺が作ってくるから」
渉は胃が弱く、よく痛めていた。だから麻美は食事療法に関する本を読み漁り、独自のレシピを作り上げたのだ。渉が胃痛を訴えるたび、その生姜スープを作ってあげていた。
実際は、受験勉強で無理をした麻美自身も胃を壊していたのだが、渉がそれに気づいたことは一度もなかった。結婚して5年、彼が麻美のために料理をしたことは一度もなかった。
結局、この結婚生活はずっと、麻美の一方的な片想いだったのだ。
麻美は自嘲気味に笑うと、穏やかに言った。「紙とペンを取ってきて。レシピを書いてあげるわ」
渉は部下に命じて紙とペンを用意させた。
麻美がレシピを書き上げ、渉に手渡した瞬間、彼の心臓がびくりと震えた。
かつて自分がこの生姜スープのレシピを聞いた時、麻美が言った言葉を思い出したからだ。
「私たちが別れたら教えてあげるわ。別れない限り、私が一生あなたのそばにいて、この生姜スープを作ってあげたいもの」
それなのに今、麻美はこれほど簡単にレシピを渡したのだ。
渉は胸が詰まる思いがしたが、離婚の話なんてただの意地悪か冗談だと言い聞かせた。麻美が自分と別れられるはずがないのだ。
「杉本さん、妹さんが胃痛で大騒ぎしています。早く上に様子を見に行ってください」入り口で看護師の声が聞こえると、渉は眉をひそめ、苛立ちまじりに吐き捨てた。
「あいつは本当に手がかかるな!痛けりゃ痛み止めでも飲んどけ。急かすなよ!」
口では悪態をつきながらも、結局渉はすぐに階段を駆け上がり、美穗の元へと消えた。
いつもそうだ。口では冷たく突き放しても、結局行動は常に美穗を優先する。慣れっこだった麻美は、何も言わず、目を閉じた。
ところが、眠りに就いたのも束の間、渉は荒っぽく麻美をベッドから引きずり下ろした。
「麻美!どうして俺がお前のレシピ通りに作った生姜スープを飲んだ途端、美穗が血を吐いて苦しみ出したんだ!」渉は麻美の顎をつかみ、地獄の底から響くような声で詰問した。「レシピの中に毒でも混ぜたのか!」
第4話
麻美はゆっくりとまぶたを上げ、渉を一瞥した。「成分に毒なんて入っていないわ。医者にでも鑑定させれば、すぐにはっきりするでしょ。
それとも何?事実なんてどうでもよくて、ただ私に八つ当たりしたいだけ?そういうことなら、回りくどいことはいいわ。好きにしなさい」
以前も美穗は、同じような手口で麻美に罪を着せようとしていた。
階段からわざと転げ落ちては、涙ながらに「麻美さんに突き飛ばされた」と嘘をついたこともある。
麻美が料理をしている横で、わざと指に油を跳ねさせて、「麻美さんもわざとじゃないんだから……」と悲劇のヒロインを演じることもあった。
数え上げればキリがない。
昔の麻美はわからなかった。なぜ、頭の切れる渉がこんなわかりやすい嘘に騙されるのか。今ならわかる。渉は気づいていないのではない。美穗が傷ついたのが可哀想で、ただ怒りをぶつけるための当て馬が必要だっただけだ。
そしてその当て馬になれるのは、いつも自分だけだった。
今の麻美は、もう言い返す気力さえなかった。渉が誤解していても、悲しむことすらできないほど心が死んでいたからだ。
渉は胸が詰まる思いで眉を寄せた。「八つ当たり?麻美、何に対して不満を抱いているのか話せばいいだろ。俺はお前の夫であって、敵じゃない」
麻美はただ目を閉じた。「もう、あなたと話すことは何もないわ」
渉は動揺した。「どういう意味だ?何もないって何だ?」
しかし麻美は何も答えなかった。目をつむり、渉の声も姿も遮断し、自分だけの世界に閉じこもった。
渉は次第にいら立ちを募らせていった。なぜだか、麻美という存在が手のひらからこぼれ落ちていくような焦燥感に襲われていたからだ。
どうにかして繋ぎ止めなければ、そう強く感じていた。
少しの間を置いて、渉が切り出した。「明日は聡の初七日だ。一緒にお参りに行こう」
麻美の体は強張ったが、目は開けなかった。
その時、部屋の外から看護師の声がした。「杉本さん、妹さんの胃洗浄が終わりました。命に別状はありませんが、ひどく怯えていて、ずっと杉本さんのお名前を呼んでおりまして……」
「分かりました」と渉は冷たく返すと、振り返り、麻美をじっと見つめた。「麻美、休んでいてくれ。明日は一緒に家へ戻り、聡に会いに行こう」
この夜はあまりに長く、麻美は眠れぬまま一晩中目を閉じていた。
そろそろ、納骨の日だ。
十月十日、苦労して産んだ大切な子供。その体があっけなく灰になり、壺に納められ、暗い土の中へ帰ってしまうのか……
翌日、時間通りに現れた渉の車で、二人は杉本家へ戻った。
家中には不穏な空気が漂い、僧侶がお経をあげ、誰もが声を上げて泣いていた。それが真実の涙であれ演技であれ、麻美以上の苦痛を感じる者は一人もいないはずだ。
麻美は杖をつき、一歩ずつ足元を確かめながらホールへ進む。最後に一目、息子に会いたかった。
しかし足を踏み入れた途端、姑の杉本杏奈(すぎもと あんな)が狂ったように駆け寄ってきた。
「この女、どの面下げて帰ってきたんだ?」
麻美は頬を殴られ、肩を強く揺すられながら、罵声を浴びせられた。
「あんたのせいよ!あんたのせいでうちの孫が死んだの!泳げないって知ってて海に連れて行ったでしょ。あんたのような冷酷な女は、最初から聡を殺す気だったのよ……」
麻美は動けなくなった。聡を海に連れて行ったのは美穗だ。それなのに、なぜ杏奈は罪を自分に押し付けるのか?
直感的に分かった。これには渉が関わっているのだ。
麻美は首を向け、渉を見つめた。
渉はやはり目を逸らし、視線を合わせようとしなかった。
その隙を突き、他の参列者も押し寄せ、杏奈と一緒に麻美を責め始めた。
「死んで償いなさいよ!親として最低だわ!自分の息子を手にかけるなんて、どれだけひどい母親なの!」
「出ていけ!あんたなんかに見送る資格はない!」
第5話
今日は麻美の人生で一番苦しい日だ。
我が子を亡くした母親として、これ以上ないほど心が張り裂けそうなのに。麻美が足を引きずりながら聡に最期の別れを告げようとやってきたが、杉本家の人々は彼女を弔問客から追い出した。
彼らは責め立て、暴言を吐き、我が子を亡くしたばかりの母親にありったけの悪意をぶつけて苦しめた。
麻美の目から涙が流れ、手にしていた杖さえも奪われ、彼女に投げつけられた。麻美は地面に倒れ込み、手からは血が流れた。
「そこまでだ!」渉が駆けつけ、麻美をかばった。「全員狂ったのか?聡の死は完全な事故だ。麻美とは関係ない。これ以上麻美を侮辱すれば、容赦はしない!」
渉は鋭い眼光で皆を威圧した。杉本グループのトップであり実権を握る彼の言葉に逆らえる者はおらず、群衆は散り散りになった。
渉はわずかに表情を和らげると、麻美を抱き上げて上の階へ運び、自ら救急箱を取り出して手当てを始めた。
だが麻美の目に感動の色はなかった。彼女は冷ややかな目で渉を見つめ、問いただした。「渉。聡を連れて海に波乗りに行ったのは美穗だったのに、なぜお母さんは、私が聡を殺したなんて言うの?」
包帯を巻く渉の手が止まった。彼はどこか決まりが悪そうに答えた。
「麻美。お前も知っている通り、美穗は家での立場が複雑なんだ。杉本家の血がつながらない美穗を親戚は快く思っていない。もし聡を死なせたのが彼女だと知れ渡れば、美穗はこの家で生きていけないんだ。
でも、お前は違う。お前は俺の妻だ。俺がかばえば誰も何も言わない。だからこの件は美穗の代わりに引き受けてくれ。補償として、杉本グループの株の半分を譲渡する」
言い終えてから、渉は不安げに麻美の様子を伺った。
麻美が怒り狂い、泣きわめいて、なぜそこまで美穗をひいきするのかと問い詰めるとばかり思っていた。
しかし、麻美の表情は穏やかすぎて渉のほうが落ち着かなくなった。彼女は怒ることもなく、冷めた瞳で渉を一瞥して言った。「好きにして。興味ないわ」
麻美は承諾したのだから渉は喜ぶべきはずなのに、なぜか心がどんどん乱れていくのを感じた。
「麻美、誤解するな。俺にとって美穗は妹みたいなものなんだ」渉は一方的に言い訳を続けた。
「幼い頃から一緒に育ってきて、ずっと実の妹だと思っていた。血がつながっていないと分かったとき、美穗はすべてを失い、杉本家の誰からも拒絶された。だから放っておけないんだ」
「分かったわ」麻美はうつむいたまま答えた。「説明はもういいから」
深い愛情があればこそ、言い訳が必要なものだ。
しかし今は、もう渉を愛していなかった。どんな釈明も必要としなかったのだ。
もし目の前で渉が美穗とベッドをともにしようとも、気に留めもしないだろう。
いっそう焦燥感を募らせる渉の元へ、家政婦が血相を変えて駆け込んできた。
「渉様、大変です!美穗様が亡くなった聡様を弔いにいらっしゃったのですが、入り口で夏美様と鉢合わせ、大喧嘩になっております!」
杉本夏美(すぎもと なつみ)とは、杉本家の本物の血筋である令嬢のことだ。
杉本家に戻るまで悲惨な暮らしを強要され、養父から性的虐待を受けていた夏美にとって、美穗は憎悪の対象だった。姿を見かけるたび、夏美は美穗に飛びかかり、怒りに任せて殴りかかっていた。
一方で美穗は、打たれても言い返さず、ひざまずいてか弱いふりをすることに徹していた。
報告を聞いた渉はあわてふためいた。手に持っていた包帯を置き、あわただしく言った。
「麻美、自分で手当てしててくれ。下に行かないと夏美が大変な騒ぎを起こすんだ」
言い終わるや否や、渉は足早に階下へ向かった。
麻美は馬鹿馬鹿しい気分だった。夏美こそが渉の実の妹だというのに、彼女がこれまで味わってきた地獄のような日々を思って悲しむことさえなく、彼はただ美穗の空虚な涙に心を痛めている……
下の階では、渉が家中の批判を押し切って美穗を後ろにかばっていた。
夏美が耐えきれないほど泣き叫ぶ声が上の階まで響いてくる。
「渉!私こそ実の妹でしょ?どうして私を一度もかばってくれないの?なんでいつも美穗みたいなあざとい女をひいきするの?
いつもそうやって、麻美さんにも残酷だった。美穗のようなクズ女が何度も麻美さんを陥れているのに、あなたは盲目で見えてない。麻美さんが最近、あなたを相手にしなくなったことには気づかないの?麻美さんはもうすべて見抜いているし、何一つ期待なんてしていないのよ!」
第6話
夏美の言葉は、まるで鋭いビンタのように、渉の頬を容赦なく打ち据えた。
渉は激高した。「黙れ!麻美と俺の関係は、お前が口出しすることじゃない!」
言い終えると、渉は床に倒れ伏し、夏美のせいで頭から血を流している美穗を抱き上げ、振り返ることなく去っていった。
渉が去るやいなや、杏奈は即座に使用人を呼び集めた。道具を手に持ち、凄まじい勢いで階段を駆け上がった。
「麻美、渉はもういないわよ。助けてくれる人は誰もいないの」杏奈は残酷に言った。「あなたが聡を殺したんだ。絶対に許さないから。今日から、この杉本家で地獄のような毎日を味わいなさい!」
そう言い放ち、杏奈は使用人たちに合図を送った。
使用人たちはすぐに飛びかかり、麻美を縛り上げた。
彼らが麻美を階段の下へ引きずっていくと、杏奈は麻美を力いっぱい池へ蹴り落とした。そして、麻美の髪を掴んで執拗にその頭を水中に押し付けた。
「聡は溺死したの。溺れ死ぬのがどれほど苦しいか分かる?分からないでしょね。いいわ、今すぐたっぷり教えてあげる!」
冷たい水が肺に流れ込み、麻美は全身の臓器が痛みを感じた。
冷たい……苦しい……
聡が死んだ時も、こんなに苦しかったのだろうか?海で必死にもがく時、ママを呼んでいたのだろうか?
麻美の意識が途切れる寸前、杏奈は髪を掴んで頭を水面から引き上げた。麻美は本能的に息を吸おうとするが、肺に空気が入った瞬間、また水中に押し込まれた。
「あんた、泳げるくせに、なんで聡を助けに飛び込まなかったの?」杏奈は胸を抉るように言った。
「演技はいいのよ。渉が嘘をついて、美穗を愛していることを恨んで、その報復したのは分かってるの。だから渉の唯一の子を殺したんでしょ!」
その言葉に、麻美は笑うしかなかった。
見ていれば分かる。渉が本当に愛しているのは美穗だと、皆も気づいているのだ。
渉本人だけが現実から目を逸らし、美穗との間には兄妹以上の感情はないなどと言い張っていた。
杏奈の拷問は熾烈を極めた。窒息しそうになると水面に上げ、わずか数秒の呼吸で命を繋がせ、また頭を水中に戻す。生かすも殺すも自分次第だと、じわじわと苦しめ続けた。
そんな地獄が数十回繰り返された時、杏奈が再び麻美を沈めると、池の水面が赤く染まった。
「肺がダメになってるわ!」と誰かが叫んだ。
「溺水を繰り返して肺を損傷してる。一刻も早く病院へ運ばないと命に関わりますよ!」
それを聞いて、ようやく杏奈は手を止めた。
その時、麻美の意識はすでに途絶えていた。
目を覚ますと、病院のベッドの上にいた。
渉が枕元で見守っていて、目の下にはくまがあり、髪も乱れている。いつも皇帝のような威厳を誇る男の顔が、今はどこか疲弊して見えた。
「麻美、やっと目が覚めたのか」渉の曇った目に光が戻った。彼は麻美の手を掴み、胸が痛むような表情で言った。「すまない、俺の不甲斐なさで、守りきれなかった。
安心してくれ。あの使用人たちは処罰したし、母さんにも厳しく言っておいた。これ以上お前を苦しめるようなことはさせない」
麻美の心はただ凍りついた。あわや命を失うところだったのに、渉は杏奈を警告するだけで、一度も真実を公にするとは言わなかったのだ。
人として幻滅させることにかけては、渉は決して期待を裏切らない。
「分かったわ」麻美は目を閉じ、それ以上話す気力も起きなかった。
その冷めた態度に、渉の心は締め付けられるような苦しみに襲われた。
昼間、夏美が自分に向かって叫んだ言葉が頭の中で繰り返された。「麻美さんが最近、あなたを相手にしなくなったことには気づかないの?麻美さんはもうすべて見抜いているし、何一つ期待なんてしていないのよ」
渉は拳を強く握りしめた。深い不安を感じ、麻美の手を握ってすがった。
「麻美、一日中ここに付きっきりで何も食べてないんだ。胃がひどく痛むんだが、生姜スープを作ってくれないか?」
その時、麻美の左足はギプスで固定され、腕には点滴が繋がれていた。体中傷だらけで、無事な箇所など一つもないというのに。
渉は目を見開き、慌てて言葉を変えた。
「麻美、作る必要なんてない。やり方を指示してくれればいい。これからの二人は前と役割を替えよう。俺がお前に尽くす、それでどうだ?」
しかし、麻美は渉を見る気すら失せていた。背中を向け、一言言い放つ。
「レシピは渡してあるから、自分で作ればいいでしょ」
第7話
以前は、渉が胃が痛いと言うと、麻美は何をしていてもすぐ手を止めて、彼のために生姜スープを作ったものだった。
ある年には、麻美が仕事をしていた時に腕を骨折したことがあった。腕にギプスをしながらも、渉が胃痛を訴えれば、麻美は自らキッチンに立った。
しかし今、渉の胃がまた痛んでいるというのに、麻美はそっぽを向いたまま、冷たく背中を向けた。
胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われ、渉はパニックに陥った。「麻美、最近の態度はどうしてそんなに冷たいんだ?昔はこんなんじゃなかっただろ」
麻美は渉に背を向けたまま答えた。「昔?昔はいつも私のこと鬱陶しがってたでしょ?もうあなたを煩わせることはしない。これ以上、何に不満があるの?」
その一言で、渉は返す言葉を失った。
かつての麻美はいつも渉につきまとっていた。どこに行くにも尋ね、何をするにも干渉し、渉はそれを鬱陶しがり、嫉妬する麻美を幾度となく叱り飛ばした。
「杉本家の妻という自覚はあるのか?夫の妹に嫉妬して、恥ずかしくないのか!」と。
今、麻美は自分が望んだ通りにつきまとわず、私生活にも干渉しないようになった。なのになぜ、心臓が引き裂かれるように痛むのか?
「麻美、まだ聡の件で怒っているのはわかっている」と渉は溜め息をついた。「信じてくれ、必ず埋め合わせはする。これからの長い人生、俺はお前にもう一度振り向いてもらう可能性があるはずだ」
渉は身を屈め、麻美の額に軽く口づけをした。
そして背を向けて立ち去った。
だが渉が知らないことに、彼が立ち去った直後、麻美の元には二通のメッセージが届いていた。
一通目は役所から。【先日いただいたご質問ですが、離婚手続きには以下の書類をご持参ください】
二通目は航空局から。【月面探索プロジェクトが明日正式に開始されます。現在地をお送りください。明日、迎えの者を向かわせます】
麻美は黙々と二通の通知を見つめ続け、ようやく重荷が降りたような笑みを浮かべた。
ようやく、旅立ちの日がやってきた。
しかしその前に、やらなければならないことがあった。
麻美はベッドから体を起こすと、松葉杖をつき、一歩一歩、苦しい足取りで美穗の病室へと向かった。
深夜ということもあって、渉は美穗の病室にはいないようだ。そのほうが都合が良い。
「麻美さん、何しに来たの?」美穗はいつもの哀れな芝居をかなぐり捨て、軽蔑したように麻美を見るや否や鼻で笑った。
「お兄ちゃんを追ってきたの?悲しいわね。怪我をしているのに相手にしてもらえないなんて。私はちょっとした傷でも、お兄ちゃんはずっと私を守ってくれるの。
私が胃が痛いってお兄ちゃんの手料理をねだったから、今作りに行ってくれてるのよ。結婚して長いのにお兄ちゃんに料理してもらったことなんて、ないんでしょ?」
麻美は無言のままだった。嫉妬など、もはやどうでもいいことだ。
知りたいのはただ一つ。「美穗、真実が知りたい。あの日、聡を連れて海で波に乗った時、あの子は不注意で落ちたの?それともあなたが突き落としたの?」
それを聞いた美穗は嘲るように笑い出した。「麻美さん、本当に真実を知りたいの?警告しておくけど、真実を受け止められないかもしれないわよ」
「受け止めるわ」と麻美は歯を食いしばった。
美穗の笑みがいっそう歪んだ。「あはは、本当に?それじゃ教えてあげる。あの日、お兄ちゃんもその場にいたのよ。
波が襲ってきて、私と聡くんが同時に海に投げ出された時、お兄ちゃんは迷わず私の方に飛び込んできたわ。かわいそうな聡くんは、そのまま波にさらわれていった……」
麻美は、全身の血が逆流するような衝撃を覚えた。薄暗い病室が、一瞬で自分だけのための処刑場へと変わった。
聡が事故にあった時、渉はすぐそばにいたのか。
「あはは、一番笑えること言ってあげようか」美穗は笑い止まなかった。「私が泳げると知っていても、お兄ちゃんは最初の一番に私を助けに来たのよ。
お兄ちゃんにとって、あなたと聡くんを合わせても、私より重要じゃないの」
涙で視界が歪んだが、麻美は誓った。これで渉のために流す涙は最後にすると。
涙を拭い、麻美は再び松葉杖をついて、びっこを引きながら病院を後にした。
歩みは遅かったが、足取りは固く決意に満ちていた。
渉、二人の明日はもうない。この先続くはずだった長い未来も、ここで終わり。
あるのは、死んでも二度と会わないということだけ。
麻美はタクシーで役所へ行き、閉まった窓口の前で一晩明かした。そして朝、ついに離婚届を提出した。
そして、窓口の係員に頼んで、渉の分の受理証明書を杉本家に郵送してもらう手はずを整えた。
すべてを終えた時、航空局が手配した迎えの車が待っていた。
迷わず乗り込んだ麻美はスマホを取り出し、昨日録音した美穗との会話データをネット上に流した。
そう、昨日美穗と対峙した際、麻美は密かに録音を回していたのだ。
聡は事故で亡くなり、法律で美穗や渉を裁くことはできない。
それなら、社会の倫理と裁きを突きつけるしかなかった。
これこそ、立ち去る前に自分ができる息子への最後の手向けだ。
すべてを済ませてスマホを捨てると、車は麻美を乗せて果てしない希望へと走り出した。やっと、自由になれたんだ。