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偽りの愛に溺れる君に決別を
桐生旬(きりゅう しゅん)が家庭に戻って以来、かつて自分を夢中にさせた女子大生について二度と口にすることはなかった。 妻の結城晶(ゆう...
Chương (1)
第1章
桐生旬(きりゅう しゅん)が家庭に戻って以来、かつて自分を夢中にさせた女子大生について二度と口にすることはなかった。
妻の結城晶(ゆうき あきら)には、とても優しかった。
毎日定時に帰宅し、晶の好みをすべて覚えていて、生理のときには温かい生姜湯を作り、彼女が悪夢を見れば、強く抱きしめてくれる。
誰もが口を揃えて、旬のことを模範的な夫だと褒めた。
だがある日、二人が行きつけのレストランで食事を終え、会計を済ませて帰ろうとしたとき、少し離れた場所から騒ぎ声が聞こえてきた。
「ちょっと触ったくらいで何だよ!清純ぶるな!」
酔っ払った客が、ウェイトレスの手首を引っ張っている。
「こういう店で働いてるってことは、金持ちの男を釣るためだろうが!」
第1話
桐生旬(きりゅう しゅん)が家庭に戻って以来、かつて自分を夢中にさせた女子大生について二度と口にすることはなかった。
妻の結城晶(ゆうき あきら)には、とても優しかった。
毎日定時に帰宅し、晶の好みをすべて覚えていて、生理のときには温かい生姜湯を作り、彼女が悪夢を見れば、強く抱きしめてくれる。誰もが口を揃えて、旬のことを模範的な夫だと褒めた。
だがある日、二人が行きつけのレストランで食事を終え、会計を済ませて帰ろうとしたとき、少し離れた場所から騒ぎ声が聞こえてきた。
「ちょっと触ったくらいで何だよ!清純ぶるな!」
酔っ払った客が、ウェイトレスの手首を引っ張っている。
「こういう店で働いてるってことは、金持ちの男を釣るためだろうが!」
ウェイトレスはうつむき、長い髪で顔を隠したまま、泣き声を絞り出した。
「お客様、離してください……」
晶が何気なく視線を向けると、その場に凍りついた。
セクハラを受けているウェイトレスは、藤波佳奈(ふじなみ かな)――三年前、晶の結婚をあわや壊しかけた、あの女だった。
その瞬間、旬が晶の手を握る力が急に強まり、指の骨が軋むほどだった。けれど彼はすぐに平静を取り戻し、横を向いて穏やかに言った。
「行こう」
晶は何も言わず、彼に手を引かれるまま地下駐車場へと向かった。
車のそばまで来ると、旬が足を止めた。
「晶、スマホを席に忘れたみたいだ。ちょっと取ってくるから、車で待っていて。すぐ戻る」
晶は静かに彼を二秒ほど見つめ、頷いた。
「分かった」
旬はほっと息をつき、踵を返してエレベーターへと早足で向かった。その歩調は、いつもより明らかに速い。
晶は冷たい車体に寄りかかり、目を閉じた。胸の奥を、細く鋭い痛みが貫く。
嘘をついている。
彼のスマホは、スーツの内ポケットに入ったままだ。
晶は車には乗らず、踵を返して彼の後を追った。ハイヒールがコンクリートの階段を打ち、虚ろな反響音を立てる。
一歩、また一歩。まるで、とうに穴だらけになった自分の心を踏みしめているようだった。
レストランの裏口は半開きになっていた。晶がそっと隙間を広げて覗くと、佳奈に絡んでいた酔っ払いがまだいて、悪態をつきながら彼女の手首を掴んで離さない。
旬が歩み寄り、何も言わず、酔っ払いの顔面に拳を叩き込んだ。
酔っ払いは殴られてよろめき、椅子をなぎ倒した。顔が瞬く間に赤く腫れ上がる。
「てめえ、誰だ!?俺を殴りやがって!」
酔っ払いは怒鳴りながら起き上がり、拳を振り上げて反撃に出た。
旬の目は氷のように冷たい。身をかわして攻撃を避けると、無駄のない動きで腹部にもう一発叩き込み、そのまま背負い投げで地面に叩きつけ、狂ったように殴り続けた。
その一連の動きは、速く、容赦なく、的確で――晶が長い間見ていなかった、彼の獰猛さを帯びていた。
酔っ払いが悲鳴を上げ、佳奈も怯えて口を覆った。目に涙を浮かべながら飛びつき、旬の腕を掴む。
「旬!もうやめて!十分だから!これ以上やったら死んじゃう!」
旬は荒い息をつきながら、氷の刃のような視線で地面でうめく酔っ払いを見下ろした。
「失せろ」
歯を食いしばり、一言だけ搾り出す。
酔っ払いは這うようにして逃げ出し、捨て台詞を吐く余裕すらなかった。
旬はそこでようやく振り返り、佳奈を見た。眉をひそめ、その目には隠しきれない痛みが浮かんでいる。
「どうしてこんなところで働いているんだ」
佳奈は目を赤くして答えた。
「あのときの騒ぎが大きくなりすぎて……大学を中退して、学歴もないから……こういう場所でお皿を運んで、なんとか生きてるだけで……」
言いながら、大粒の涙がこぼれ落ちる。痩せた肩が微かに震え、頼りなく哀れに見えた。
旬は一度目を閉じ、内ポケットから名刺を取り出して差し出した。
「この人を訪ねてくれ。君にふさわしい仕事を用意してくれるはずだ」
佳奈は名刺を見つめたまま、受け取らない。涙で潤んだ目で彼を見上げ、突然、手を伸ばして名刺を地面に叩き落とした。
「こんなの要らない!」
彼女の声には、泣き叫ぶような悲壮さが混じっていた。
「私が欲しいのは、最初からあなただけ!旬、あなただけなの!」
旬の体が震えた。
「私がこの三年間、どうやって生きてきたか分かる?」
佳奈は彼の胸倉を掴み、涙を溢れさせる。
「毎日あなたのことを考えて……眠れない夜が何度もあって……昔デートした場所にこっそり行って、一日中座っていたこともあった。旬、私たち愛し合っているのに、どうして一緒にいられないの?どうして!」
喉が裂けんばかりに泣き叫んだ。
旬は彼女の苦痛に歪んだ顔を見つめた。冷静な仮面が砕け散り、瞳の奥に深い苦悩と葛藤が渦巻いている。絞り出すような声だった。
「俺だって……同じだ。でも、家庭に戻らなければ、君を守れなかった。佳奈、分かってくれ」
腕時計に目をやり、まるで時間に急かされるように顔をしかめた。
「彼女が車で待っている。もう行かないと」
踵を返そうとした瞬間、佳奈が背後から飛びつき、腰にしがみついた。顔を背中に押し当て、むせび泣く。
「行かないで……お願いだから行かないで……旬、ずっと会いたかった……」
旬の体が硬直した。
佳奈は彼の前に回り込み、背伸びをして、何もかもを振り切るように唇を重ねた。
旬は最初の数秒、応えなかった。微かに顔を背けて避けようとすらした。
けれど佳奈のキスは、すべてを懸けた情熱と絶望に満ちていた。涙がキスに混じり、涙の塩辛い味が彼の口の中へと流れ込んでいく。
晶は観葉植物の陰に隠れ、目を見開いたまま、その光景を見つめていた。
旬の手が、ゆっくりと握りこぶしを作るのが見えた。手の甲に青筋が浮かび上がる。
固く閉じた目のまつ毛が、激しく震えているのが見えた。
最後の抵抗を試みるように、喉仏が上下に動くのが見えた。
そして――
彼が勢いよく目を開くのが見えた。いつもは冷ややかなその瞳に、晶が一度も見たことのない、狂おしい炎と、長く押し殺されていた欲望が燃え上がった。
彼はもはや自分を抑えることも、ためらうこともしなかった。片手で佳奈の後頭部を掴み、激しく、キスを返した。
第2話
二人は強く抱き合い、キスを重ねる。互いを骨の髄まで刻みつけようとするかのように、周囲のすべてが無に帰していく。
晶はその場に立ち尽くしていた。手足が氷のように冷たくなる。全身の血の気が引き、次の瞬間には一気に逆流して、目眩がした。
三年前のあの時、もう心は死んだと、もう痛むことはないと思っていた。
しかし、違った。
死んだはずの心でも、まだこれほどまでに切り刻まれる痛みを感じるのだ。
すべては、いつから変わってしまったのだろう。
十六歳。彼はクールで誰より優秀な男子生徒で、晶は眩しいほど自由奔放な学園のマドンナだった。
彼は耳を赤くしてラブレターを差し出した。「晶、俺と付き合ってくれ。ずっと、好きでいるから」
十八歳。受験が終わった日、彼は全校生徒と教師の前で、彼女への愛を世界に向けて宣言した。
二十二歳。会社を継いだばかりの頃、どんなに忙しくても必ず晶を迎えに来た。顔を見ないと落ち着かないのだと言って。
二十五歳。盛大な結婚式で、彼は片膝をつき、目を真っ赤にして言った。「晶、この先俺が愛するのは、君だけだ」
誰もが言った。旬は晶のことになると周りが見えなくなる、と。
けれど結婚三年目、すべてが変わった。
帰りは遅くなり、スマホのパスワードは変わり、知らない香水の匂いがするようになった。
そしてついに、晶の追及に耐えられなくなった彼は白状した。藤波佳奈という女子大生を愛してしまった、と。
魂が響き合うのだと言った。
こんな情熱もときめきも、初めてだと言った。
離婚してほしい、財産は何もいらない、と言った。
晶の世界は、その瞬間に崩れ落ちた。
彼女は信じられなかった。
一生好きでいると誓ってくれたあの少年は、酒の席では自分の代わりに杯を干し、自分のために拳を振り上げ、共に泣き、笑ってくれた、あの旬は彼女にああいう言葉を言ったなんて。
晶は泣いた。喚いた。取り乱した。すべてのプライドを捨てて、彼に縋りついた。
けれど旬は、冷たい目で言った。「晶、すまない。もう愛していないんだ」
晶は狂ったように佳奈の大学を調べ上げ、乗り込んで大騒ぎを起こし、「略奪女」のレッテルを完全に貼り付けた。その結果、佳奈は大学から退学勧告を受けた。
佳奈は晶を憎んだ。車で晶を撥ね、左脚をタイヤで轢いた。
激痛の中、晶は見た。車内に座る佳奈の、怨念に満ちた目を。そしてそのまま、車は走り去った。
血だまりの中に倒れながら、最初に浮かんだのは通報することだった。佳奈を刑務所に送ること。
けれど旬は、出張先から夜通し車を飛ばして戻り、病室で晶の前に跪いた。初めて、彼女の前で目を赤くした。晶を心配してではない。佳奈を許してくれと懇願するために。
「晶、頼む……あの子を許してやってくれ。まだ若いんだ、刑務所になんか入れられない……俺が悪かった、本当に間違っていた。
離婚はやめる、家庭に戻る、これからは君を大切にして、償う!佳奈を許してくれるなら、俺は何でもする」
その瞬間、晶は知った。十数年愛し続けた男が、他の女のために惨めに懇願する姿を。
これが、心臓をえぐられるということなのだ、と。
それでも晶は、その条件を呑んだ。彼を愛しすぎていたから。
それからの三年間、旬は本当に佳奈と連絡を取らなかった。
スマホのパスワードを晶の誕生日に戻し、定時に帰宅し、リハビリに付き添い、晶のやりたいことすべてに寄り添った。
誰もが言った。旬は改心した、と。
けれど晶だけは知っていた。彼が夜中に一人でベランダに出て煙草を吸い、スマホの中の佳奈の写真をぼんやり眺めていることを。
よく酔い潰れて、苦しそうに晶を抱きしめながら、「佳奈」と呟くことも。
贈り物でさえ、いつも佳奈の好みそうなデザイン。
月日は流れ、晶の脚は治った。歩いても、もう支障はない。
けれど晶は知っている。旬の心の中のあの人は、一度も去ったことがない。
そして今、彼の目に隠しきれない情熱と愛が燃えているのを見て、晶は思った。
この三年間は、なんてひどく悪趣味な茶番だったのだろう。
あの二人は深く愛し合い、どんな障害があっても抱き合おうとしている。
そして自分は、真実の愛を引き裂き、しつこく縋りつく悪辣な正妻に成り下がった。
なんて滑稽で、なんて惨めなのだろう。
もう見ていられなかった。踵を返し、よろめきながらエレベーターへ向かう。
涙で視界がぼやける。乱暴に拭っても、拭っても、後から後から溢れてくる。
エレベーターは来ない。晶は向きを変え、非常階段へと歩いた。
重い防火扉を押し開けた瞬間――横から大きな手が伸び、口を塞がれ、隣の用具室へと引きずり込まれた。
さっき旬に殴られた、あの酔っ払いだった。
「クソ女。さっきの男、お前の旦那だろ」
酔っ払いは酒臭い息を吐きながら、晶を冷たい壁に押しつけた。
「俺をあんなにボコボコにしやがって、大勢の前で恥かかせやがって!その代償、きっちり払ってもらうぞ!」
晶は必死にもがいた。殴り、蹴り、暴れた。けれど女一人の力で、狂った大男に敵うはずがない。
ドン、と腹に重い一撃が入った。
晶は呻き、体を折る。
「これはお前の旦那が俺を殴った代償だ!いい格好しやがって!」
酔っ払いは罵りながら、狂ったように殴りつけてきた。拳、平手が、雨のように体と顔に降り注ぐ。
意識が遠のいていく。晶は本能的に体を丸め、頭と顔を庇うことしかできない。
最後には、ぼろ布の人形のように冷たい床に崩れ落ちた。口元から血が滲み、視界が暗く霞んでいく。
このまま死ぬのか、と思った時、物音を聞きつけた通りすがりの人が飛び込んできて、晶を助け出した。
担架に乗せられた時には、もう意識が朦朧としていた。
病院の救急外来。診察を終えた医師が、険しい顔で言った。
「全身にひどい打撲傷があります。肋骨にヒビが入っている可能性もあるので、ご家族の署名をいただいてすぐに入院手続きを」
看護師が晶のスマホを取り、お気に入りに登録されていた番号に発信した。
呼び出し音が、長く続いた。ようやく繋がる。
向こうは、静かだった。
やがて聞こえてきたのは、押し殺したような――聞いているだけで耳が熱くなるような、生々しい音。
女の甘い喘ぎ。男の荒い息遣い。そして、規則正しく軋むマットレスの音。
第3話
晶はベッドに横たわっていた。全身が激しく痛む。それでも、電話越しの生々しい音は一つ残らず耳に届いていた。
心臓が、粉々に砕け散った。
通話が繋がって数秒後、ようやく電話の向こうから旬の声が聞こえてきた。平静を装っているが、まだ熱を帯びた、抑えきれない情欲の滲む声だ。
「もしもし?晶?ごめん、言い忘れてた。会社で急に海外とのビデオ会議が入って、どうしても抜けられなくてさ。先に出たんだ。自分で車を運転して帰ってくれ。気をつけてな。終わったらすぐ帰るから」
彼は晶の返事すら待たなかった。何かから逃れるように、慌てて電話を切った。
「ツーツーツー……」
無機質な通話終了の音が、嘲笑のように響く。
看護師は電話を手にしたまま、気まずそうに、そして同情を込めた目で晶を見た。
晶はベッドに横たわっていた。顔には血の気がなく、瞳は恐ろしいほど虚ろだった。
しばらくして、口元がかすかに動いた。笑おうとしたのだろうか。けれど、無理に作ったその歪な笑みは、泣き顔よりもずっと痛々しかった。
全身の力を振り絞り、少しだけ体を起こす。声はかすれ、途切れ途切れだった。「家族は……いません……私が自分で……サインします」
晶は震える手で、入院同意書に一画一画、自分の名前を書いた。
最後の一画を書き終えた瞬間、力が尽きた。ペンが床に転がり落ちる。
目の前が真っ暗になり、再び意識を失った。
次に目が覚めたのは、消毒液の匂いが充満する個室だった。
「晶?目が覚めたか?」
聞き慣れた、気遣うような声がベッドの傍から聞こえた。
旬だ。
昨日と同じスーツを着ている。目の下には薄い隈。顔には隠しきれない心配と、罪悪感が浮かんでいた。
「具合はどうだ?まだ痛むか?」
晶は間近にある彼の顔を見つめた。
そして――襟元から半分覗く、首筋に残った赤黒いキスマークを。
心臓が、またしても錆びたナイフで抉られたように痛んだ。息が詰まる。
昨夜、彼は佳奈と一緒にいた。
晶があの酔っ払いに殴られ、冷たい床の上で虫の息だった時、彼は佳奈とキスをしていた。
晶が病院に運ばれ、家族のサインが必要だった時、彼は佳奈と肌を重ねていた。
そして今、何事もなかったかのようにここに座り、妻を心配する良き夫を演じている。
なんて皮肉だろう。
この男……本当に吐き気がする。
「晶?」
旬は彼女の瞳が虚ろで何も話さないのを見て、恐る恐るといった口調でもう一度呼びかけた。
「昨夜の……会社のビデオ会議が本当に急で、君がこんな目に遭うなんて思ってもみなかったんだ。知っていたら、絶対に置いて行ったりしなかった」
彼は点滴の刺さっていないほうの手を握った。掌は温かく、瞳は真剣だ。
「安心しろ。君を殴ったあの男は、もう処理した。この俺の妻に手を出す奴は、絶対に許さない。奴はもう二度と君の前に現れない」
――処理した?どうやって?警察に突き出したのか。それとも別の手段なのか。
晶には分からなかった。知りたくもなかった。
彼女はただ旬を見つめていた。十数年も愛し続け、今では心が凍えるほど赤の他人に思えるこの男を。
間違いは、最初の裏切りの時に断ち切っておくべきだったのだ。
けれど自分は愚かだった。諦めきれなかった。いつか戻ってきてくれると信じ続けていた。
今、ようやく分かった。
一度飛び去った心は、二度と戻ってこない。
晶はゆっくりと彼から手を引き抜き、長いまつ毛を伏せた。瞳の奥に渦巻く苦痛と虚無を隠すように。
そして軽く頷き、かすれた声で呟いた。
「……うん」
旬は途端にホッと息をつき、肩の荷を下ろしたような安堵の笑みを浮かべた。
彼女がまた以前のように、許して耐えることを選んだのだと思ったのだ。
「お腹空いてないか?お粥でも届けさせようか?」
口調がさらに甘く優しくなる。
晶は何も答えず、ただ静かに目を閉じた。
それから数日間、旬は本気で償おうとしているように見えた。
仕事の大半を断り、片時も病室を離れず、食事を食べさせ、果物を剥き、夜は付き添いベッドで眠った。
至れり尽くせり、完璧な夫だ。
けれど晶の心は、日に日に冷え、日に日に麻痺していった。
退院の日。旬が手続きに出かけ、晶は病室で一人待っていた。
昨夜充電した彼女のスマホが枕元に置いてある。旬のスマホも、画面を上にしてそこにあった。
ふと、彼のスマホの画面が光り、メッセージが表示された。
送信者は藤波佳奈だった。
「旬、また実家からお見合いを強要されてるの……相手は四十過ぎのハゲたおじさんで、私本当に怖くて……助けに来てくれない?無理なら……いいの、邪魔しちゃいけないのは分かってるから」
晶はそのメッセージを見つめた。彼女の瞳には、もうさざ波一つ立たなかった。
数分後、旬が戻ってきた。晶を連れて帰ろうとした時、ふとスマホに目をやり、途端に表情が変わった。
一瞬、目が暗く沈む。そして焦った様子で晶を見た。
「晶、手続きは終わったよ。ただ……会社で急にプロジェクトのトラブルが起きて、すぐに対処しなきゃならなくなった。一人でタクシーで帰ってくれないか?片付いたらすぐ戻るから」
――また、これだ。三年経っても、嘘をつく時の表情も口調も、何一つ変わっていない。
「分かったわ」
晶は静かに答えた。
旬はひどく焦っているようだった。晶を抱きしめ、額にキスをすると、スマホを掴んで振り返りもせず早足で出て行った。
晶は病室の窓辺に立ち、彼の車が病院を飛び出していくのを見送った。会社とは反対の方向へ向かって。
視線を戻し、タクシーを呼んで自宅へ帰った。
玄関を開けた瞬間、誰もいない冷え切った空気が顔を打つ。
まっすぐ書斎へ向かい、自分だけがパスワードを知っている金庫を開けた。
一番奥に、茶封筒が入っている。
取り出して開くと、中にはテープで補修された少し黄ばんだ離婚協議書があった。
紙の右下には、三年前に旬が署名した名前。勢いのある、冷酷で容赦のない筆跡。
あの時、彼はこの署名済みの書類を冷たく差し出してこう言った。
「サインしてくれ、晶。円満に別れよう」
晶は狂ったように書類を破り捨て、彼の顔に投げつけた。泣きながら叫んだ。
「死んでもサインなんかしない!」
今、破り捨てた後から丁寧に貼り合わせ、大切に保管していたこの書類を見つめると、自分が滑稽でたまらなかった。
ペンを取り出し、妻の署名欄で一瞬手を止めた。
そして一画一画、力強く自分の名前を書いた――結城晶。
書き終えると、スマホを取り出し、署名済みの書類を撮影して弁護士に送った。
「長谷川先生、お手数ですが、できるだけ早く離婚手続きを進めてください。条件はすべて書類の通りで構いません。早ければ早いほど助かります」
メッセージを送信し、寝室に戻って荷造りを始めた。
こんなに長く住んだ場所でも、去ると決めれば、片付けるのは一晩で事足りるのだ。
第4話
翌日の夜になって、ようやく旬が帰ってきた。
手には上品なギフトバッグを提げ、顔には優しい笑みを浮かべて、寝室のドアを開けて入ってきた。
「晶、見て。これ、何だと思う?君が一番好きなブランドの限定ブレスレット、知り合いに頼んで海外から取り寄せてもらったんだ」
彼は窓辺に座ってぼんやりしている晶を見つけ、歩み寄ってプレゼントを差し出した。
「何日も入院してて退屈だっただろ?今夜、取引先のパーティーがあるんだ。気分転換に一緒に来ないか?」
晶はプレゼントを受け取らず、ただ静かに彼を見上げた。
旬はそこで初めて、壁際に置かれたスーツケースに気がついた。
「これは……?」
一瞬、怪訝な顔をする。
「古い服を整理したのよ。寄付しようと思って」
晶は淡々と答え、立ち上がった。
「パーティー?いいわよ」
旬は軽く頷き、それ以上深くは追求しなかった。
パーティーは五つ星ホテルの華やかな宴会場で開かれていた。ドレスアップした人々が、談笑しながらグラスを交わしている。
旬が晶の手を引いて現れると、多くの視線が集まった。晶がこのような公の場に姿を見せるのは、実に久しぶりのことだったからだ。
旬は彼女を重要な取引先に紹介し、常に気遣うような振る舞いで、絵に描いたような仲睦まじい夫婦の姿を演じていた。
晶もそれに合わせて微笑み、頷く。けれど心の中は、氷のように冷え切っていた。
その時、酒器を載せたトレイを持つウェイトレスが近づいてきた。
佳奈だった。
彼女は旬の姿を見て明らかに動揺し、足元をふらつかせた。手にしたトレイが大きく傾き――ワイングラスが晶に向かってこぼれ落ちる!
旬はほとんど本能的に、晶を庇うように自分の背後へと引き寄せた。こぼれた赤ワインはすべて彼のスーツにかかった。
その様子を見ていた宴会場のマネージャーが血相を変えて駆け寄り、旬がワインを浴びたのを見て激怒し、佳奈を乱暴に押しのけた。
「何をやっているんだ!この方が誰だか分かっているのか!?早く謝れ!」
佳奈は突き飛ばされた肩を押さえ、目を赤くして深く頭を下げた。
「申し訳ありません、桐生社長……奥様……わざとじゃないんです……」
マネージャーがさらに厳しい言葉を浴びせようとした瞬間、旬が鋭く怒鳴った。
「やめろ!」
マネージャーの腕を強く掴み、氷のような目で睨みつける。
「客の前で従業員に手を上げるなんて、そんな真似、許されると思ってるのか!」
マネージャーはその異常な威圧感に縮み上がり、慌てて頭を下げた。
「桐生社長、どうかお怒りをお鎮めください!この従業員の不手際で、社長と奥様に多大なご迷惑を……」
「彼女はただ不注意だっただけだ!」
旬は言葉を遮り、コントロールを失った怒りを露わにした。
「たかが服が一着汚れただけで、そこまでする必要があるか?彼女に謝れ!」
マネージャーは顔を赤くしたり青くしたりしながら、屈辱を噛み殺して佳奈に向かって頭を下げた。
旬はそこでようやく手を離したが、ふと何かに気づいたように、慌てて晶の方を振り返った。焦った口調で弁解を始める。
「晶、まさかここで彼女に会うなんて思っていなかったんだ。彼女を庇ったわけじゃなくて、マネージャーのやり方が乱暴すぎたから……」
晶はただ静かに彼を見つめていた。
襟元から覗く、昨夜つけられたばかりの首筋のキスマークを。
焦って穴だらけの言い訳を並べ立てる、その滑稽な姿を。
そして何より、佳奈を守るために見せた、我を忘れた激しい怒りを。
心はとうに凍りついていた。もう痛みを感じることはない。ただ果てしない寒さと、ぽっかりと空いた空洞だけが残っていた。
晶が口を開き、何かを言おうとしたその瞬間――
何の前触れもなく、頭上のクリスタルシャンデリアが旬の真上へと落下してきたのだ。
ほんの一瞬の出来事だった。そばにいた佳奈が、命も顧みず猛然と飛び出し、全身の力で旬を横へ突き飛ばした。
ガシャン――!
巨大なシャンデリアが耳を劈く轟音とともに落下し、佳奈の体を直撃した。
佳奈は短い悲鳴を上げ、血だまりの中に倒れて瞬時に意識を失った。
「佳奈――!」
旬は目を見開き、喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。
狂ったように駆け寄り、佳奈のそばに崩れ落ちる。震える手で触れようとして、触れられない。佳奈の全身にはガラスの破片が刺さり、体の下から真っ赤な血が止めどなく流れ出ている。
「佳奈!佳奈、大丈夫か!?起きてくれ!頼むから!」
恐怖のあまり、彼の声は裏返っていた。顔を上げ、血走った目で周囲を睨みつけて叫ぶ。
「救急車だ!早く救急車を呼べ!」
旬は血まみれの佳奈を抱き上げ、周りの人間のことなど何も見えていないかのように外へ駆け出した。あまりのパニックに、進路を遮る形になっていた晶の体を激しく突き飛ばす。
晶はその強い衝撃でよろめき、額を冷たい大理石の柱に強く打ち付けた。
劇痛が走る。温かい液体が額から流れ落ちるのを感じた。
柱に手をついて、なんとか体勢を立て直す。額に触れた手のひらは真っ赤に染まっていた。
旬は佳奈を抱いたまま、風のように宴会場を飛び出していった。晶を振り返ることすらしなかった。
晶はその場に立ち尽くしていた。額から滴る血が、ふかふかのカーペットに落ちて小さな赤い染みを作っていく。
周囲は騒然としていた。悲鳴、囁き声、そして誰かが「大丈夫ですか」と声をかけてくる。
けれど晶には、何も聞こえなかった。
ただ、旬が消えた方向を見つめていた。他の女のために我を忘れて駆けていった、あの背中を。
ふと、何年も前のことを思い出した。高校の体育の授業で、晶が低血糖で倒れた時のことだ――
あの日の旬も、今日のように顔面を蒼白にさせ、晶を抱きかかえて医務室まで全速力で走り、「早く助けてくれ!」と怒鳴ったのだ。
ベッドの傍を一歩も離れず、晶が目を覚ますまでずっと付き添っていた。目を開けた瞬間、彼は目を赤くして怒鳴った。
「晶、どれだけ心配したと思ってるんだ!もう二度と朝ご飯を抜くな!」
あの頃の彼の狂気、恐怖、涙は、すべて晶のためだった。
けれど今は――
彼は佳奈のためにすべてを投げ出し、狂ったように叫ぶ。
額から血を流す晶には、振り返る一瞥すらくれなかった。
晶は不意に笑い出した。
声を出して笑う晶の頬を、涙と額の血が混ざり合って伝い落ちていく。
それは塩辛くて、ひどく冷たかった。
第5話
晶は血の滲む額を押さえながら、混乱の渦にある宴会場をよろよろと後にした。
病院には行かなかった。近くの小さな診療所を見つけ、簡単に消毒してガーゼを貼ってもらっただけだ。
家に戻ると、室内は相変わらず空っぽで、ひどく冷え切っていた。
顔についた血を洗い流し、ソファに座ってスマホを開く。
SNSのトレンド動画、そのトップに映っていたのは――旬だった。
動画は郊外にある有名な青雲寺で撮影されたものだった。お百度参りをすれば、最も霊験あらたかなお守りが手に入ると言われている。
動画の中の旬は、血で汚れたスーツのジャケットを脱ぎ捨て、薄手のシャツ一枚になっていた。
彼の表情は厳粛で、眼差しには揺るぎない決意が宿っている。山頂の本堂に向かって、険しい石段を登り続けていた。
傍らで記者がマイクを向けている。「桐生社長、どなたのために祈願されているんですか?ご家族でしょうか?」
旬は動きを止めた。額からは汗が滴り落ちている。
彼はカメラを真っ直ぐに見据え、穏やかで、それでいて揺るぎない眼差しで、一言一言はっきりと告げた。
「俺が最も愛する人のためです。彼女の無事を祈っています」
最も愛する人。
晶は画面を見つめた。敬虔な祈りと疲労のせいで、いっそう精悍さを増した彼の顔を。心臓を見えない手で鷲掴みにされ、力任せに引き裂かれるようだった。息ができない。視界が暗く明滅する。
晶は乱暴にスマホを伏せた。画面が真っ暗に沈む。
けれど胸を締めつける、あの窒息しそうな痛みは消えてくれなかった。
ソファの上で身を丸め、自分を強く抱きしめる。それでも、少しの温もりも感じられなかった。
それから数日、旬は家に帰ってこなかった。
晶も、以前のように狂ったように電話やメッセージを送るような真似はしなかった。
ただ淡々と自分の身の回りを片づけていった。引っ越し業者に連絡を取り、持っていくものを整理し、海外移住のためのビザの手続きを進めた。
そしてその夜、下腹部にあの馴染みのある鈍い痛みが走った。
生理が来たのだ。
この数年間、生理のたびに晶はひどい痛みに襲われた。旬はそれを知っていて、いつもお腹を温めるカイロと、温かいはちみつ湯を用意しておいてくれた。夜は背後から抱きしめ、大きな掌で下腹部を温めてくれた。
晶は痛みを堪えながら一人でキッチンに向かい、お湯を沸かして生姜湯を作ろうとした。
蛇口から水を注いだその時、玄関で鍵が回る音がした。
旬が帰ってきた。
どこかひどく疲れた様子で、目の下の隈は濃く、顎には青い無精髭が浮いていた。
キッチンにいる晶を見て、一瞬足を止める。けれどすぐに早足で近づいてきた。
「晶?どうした?顔色、すごく悪いぞ」
額に手を伸ばそうとする。
晶は静かに身をかわして避けた。
旬の手が宙で止まる。けれどすぐにカウンターに置かれたはちみつの瓶に気づき、すべてを察したようだった。
「また生理痛か?」
彼の口調が柔らかくなり、気遣いが滲む。
「部屋に戻って横になってろ。俺が生姜湯を作ってやるから」
その時、カウンターに置かれた旬のスマホの画面が光った。
【旬、バーでバイトしてたら、変な薬を飲まされちゃって……今、あなたの家の前にいるの。すごく苦しい……他の男に触られるのは絶対に嫌。私、一生あなただけのものだから……今すぐ出てきて助けてくれないなら……あなたの家の前で死ぬわ】
メッセージの内容はあまりに生々しく、絶望的な脅迫と、すべてを賭けた誘惑が入り混じっていた。
晶はそれを見た。
旬も見た。
ポットを持つ手が、ぴたりと止まった。
その表情が目まぐるしく変わる。衝撃、痛み、迷い、葛藤――
晶はただ静かに見ていた。
彼の顔に浮かぶ感情の移り変わりを。その瞳の奥の葛藤が、やがて焦りにも似た心配と欲望に完全に塗り替えられていくのを。
やはり、数秒後――旬はポットを置き、わずかな焦りと後ろめたさが、その声に滲んでいた。
「晶、このはちみつ……賞味期限が切れてるみたいだ。ちょっと新しいのを買ってくる。すぐ戻るから、先に部屋で休んでてくれ」
晶の目を見ることすらできず、そう言い捨てると、スマホと車の鍵を掴み、振り返りもせずに夜の闇へ飛び出していった。
ドアがバタンと閉まった。
その無機質な音が、晶の胸を完全に麻痺させた。
ゆっくりと二階の寝室に戻り、部屋の灯りを消して、ベッドに横たわる。
下腹部の痛みが波のように押し寄せる。けれど、心の痛みの万分の一にも及ばなかった。
どれくらい経っただろうか。
階下から突然、ガサゴソと微かな物音が聞こえた。静まり返った夜の中で、それはやけにはっきりと響いた。
晶は息を呑んだ。この高級住宅街はセキュリティがしっかりしているけど、空き巣のニュースがなかったわけではない。
少し迷ったあと、足音を殺して起き上がり、ドアまで忍び寄ってそっと隙間を開けた。
窓から差し込む微かな月の光の中、リビングで何かを探し回る黒い影が見えた。動きは慌ただしい。
空き巣だ。
晶の心臓が激しく鳴り始めた。息を殺し、そっとドアを閉めて鍵をかける。
ドアに背をつけて立つ。手のひらは冷たい汗でびっしょりだった。気づかないふりをしていれば、泥棒が出ていくのを待てばいい――
突然、ドアノブがガチャリと回された。
晶の身体が凍りつく。
外の人間は鍵がかかっていることに気づき、一瞬動きを止めた。だが次の瞬間、さらに乱暴にノブを回し、力任せにドアを押し始めた。
「クソ、鍵がかかってやがる?中に誰かいるのか?」
低くしゃがれた男の声が、忌々しげに悪態をついた。
晶は慌ててベッドサイドのスマホを探った――もう逃げられない、警察を呼ばなくちゃ。
それとも……震える指先は、無意識のうちに旬の番号をタップしていた。
彼はすぐ家の外にいるはずだ。電話に出てくれさえすれば――
ドアが激しく二度蹴られた。錠がきしむ音がする。
晶は窓際まで後ずさり、スマホを握りしめた。電話が繋がるのを待つ。
コール音が一回、二回、三回……その一回ごとが、張り詰めた神経を激しく叩く。
誰も出ない。
――バァンッ!
ドアが蹴り破られた。覆面をした男が寝室に飛び込んでくる。その手には、冷たく光るナイフが握られていた。
「やっぱり誰かいたか。俺の姿を見られたからには、生かしておけねえな!」
男は凶悪な目を光らせ、ナイフを振り上げて晶に襲いかかった。
第6話
晶は悲鳴を上げ、手にしたスマホを男に向かって投げつけた。男の額を直撃し、男は呻いて一瞬動きを止める。
その隙に逃げようとしたが、髪を鷲掴みにされ、床に叩きつけられた!
男がのしかかってくる。生温かく濁った息が顔にかかる。晶の顔をはっきり見ると、男の目から凶暴な光が消え、卑しい欲望の色に変わった。
「へえ、なかなかいい顔してるじゃねえか。死ぬ前に、少し楽しませてもらおうか……」
「離して!」
晶は必死にもがき、手足を振り回して男を蹴りつけた。
男は苛立ち、腹に重い拳を打ち込むと、傍らの装飾用カーテンタッセルを引きちぎり、あっという間に彼女の両手首をきつく縛り上げた。
晶は絶望した。
身をよじると、涙が止めどなく溢れてくる。少し離れた床に投げ出されたスマホに視線を向けた。
画面はまだ光っていた。そこには「桐生旬に発信中……」の文字がある。
やがて、自動的に通話が切れた。
彼は出なかった。
すぐ家の外にいるのに!
着信画面を見たはずなのに――それでも、出なかったのだ!
男が寝間着を引き裂き、気味の悪い手が体を這う。吐き気がこみ上げ、底知れぬ恐怖と絶望が晶を飲み込んでいく。
心が崩壊しかけたその瞬間、晶は拘束された両手で、ベッドサイドの真鍮製スタンドライトをなりふり構わず掴み、男の頭に向けて渾身の力で振り下ろした!
鈍い音とともに、男の動きが止まる。頭を押さえ、一瞬呆然としている。
晶はこの隙を逃さず、必死の思いで這い起き、開いた窓へと突進した!
一瞬の躊躇いもなかった。男が再び飛びかかってきた瞬間、彼女は窓から暗闇へと身を躍らせた!
――ドンッ!
体が急速に落下する。無重力感。直後、凄まじい衝撃と激痛が全身を貫いた。芝生の上に叩きつけられ、全身の骨がバラバラになったかのような痛みに、指一本動かせない。
激痛に耐えながらわずかに頭を上げ、屋敷の門の外、道路脇へと視線を向けた。
旬の車が、まだそこに停まっている。
ただ、車体が規則正しく、微かに……揺れていた。
窓は閉め切られている。けれど車内の薄暗がりに、二つの人影が重なり合って動く輪郭がうっすらと見えた。
その瞬間、晶はすべてを悟った。
なぜ、彼が電話に出なかったのか。
なぜ、目と鼻の先にいながら、命がけで助けを求める電話に何の反応も示さなかったのか。
彼は忙しかったのだ。
佳奈と車の中で、狂ったように体を重ね合わせるのだ。
晶は冷たい花壇の土の上に横たわる。額の傷も、脚の激痛も、心を満たす底なしの絶望と氷のような冷たさには遠く及ばなかった。
ふと、ずっと昔のことを思い出した――
ある夜、残業帰りに柄の悪い男たちに後をつけられたことがあった。
恐怖で魂が抜けそうになりながら、旬に電話をかけた。
彼はただ一言、こう言った。
「怖がらなくていい。そこを動くな、すぐ行く」
五分も経たないうちに、彼はヒーローのように車を飛ばして現れ、男たちを徹底的に叩きのめした。
恐怖で泣きじゃくる彼女を抱きしめながら、何度も繰り返した。
「晶、もう怖くない、俺が来たから。これからは――君がどこにいても、いつでも、危険が迫ったら、絶対に真っ先に駆けつける。誓うよ」
あの時の誓いは、どれほど真摯で、どれほど甘く響いたことか。
なのに今は……
晶は揺れる車と、その中で絡み合う人影を見つめ、ふいに笑い声を漏らした。
凄惨な笑いだった。目からは血の滲むような涙がこぼれ落ちていた。
そして、視界が完全に暗転し、再び意識を失った。
次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
旬がベッドの傍らに付き添っている。目を開けた晶を見て、すぐにその手を握りしめた。
「晶!やっと目が覚めたか!心臓が止まるかと思った!」
声に怯えが滲んでいる。
「どうして二階から落ちたりしたんだ?俺のせいだ!昨夜、君のためにはちみつを買いに出たんだけど、ひどい渋滞に捕まって、少し遅くなって……もっと早く帰っていれば、こんなことにならなかったのに!」
また言い訳と謝罪、償いの約束が始まった。
晶はただ、静かに彼を見つめていた。
彼の首筋に残る、新しい――生々しい歯型までついた赤いキスマークを。
嘘をついているせいで、微かに揺れる瞳を。
この男の、底なしの虚偽に満ちた、愛情深げな顔を。
心はすでに麻痺していた。痛みすら感じない。
憎しみを抱くことすら、今の彼女には酷く無意味なことに思えた。
ただ、果てしなく疲れていた。
彼の口から発せられる言葉を、もう一言も聞きたくない。その顔を、一秒たりとも見ていたくない。
彼女は、静かに目を閉じた。
第7話
それから数日間、旬は仕事の大半をキャンセルし、片時も病室を離れずに晶へ付き添った。
晶は彼を拒絶して暴れることもなく、話しかけられても一切応えなかった。まるで魂の抜けた人形のようだった。
ある日の午後、旬が主治医に呼ばれ、今後の治療方針を聞くために診察室へ向かった隙のことだった。
枕元のスマホが短く震えた。見知らぬ番号からのメッセージだった。
【結城さん、私と旬がまた連絡を取り合ってること、ずっと前から気づいてたんでしょう?三年も猶予をあげたのに、あなたは結局、彼の心を繋ぎ止められなかったみたいね。
旬ったら、夢の中でも私の名前を呼んでるのよ。正妻の座にしがみついたところで、何の意味があるの?所詮、愛されない哀れな女ね】
送り主は、間違いなく佳奈だった。
晶は添えられた密会を匂わせる写真と文面を見つめた。心には、もう何の波も立たない。
ただ静かにその番号をブロックし、スマホを伏せた。
その日の夕方。看護師が車椅子を押して、晶を脚のCT検査へ連れて行こうと病室を出た時のことだ。
廊下の正面から、制服姿の警察官が二人、真っ直ぐにこちらへ向かって歩いてきた。
「結城晶さんですね?」
晶は戸惑った。「はい……そうですが、何か?」
「藤波佳奈さんに対する傷害教唆の疑いで、事情をお聞きしたい。あなたが何者かを雇い、彼女に薬品をかけさせた疑いが出ています。藤波さんは顔と腕に重度の火傷を負いました。
署まで任意同行をお願いできますか」
晶は目を見開いた。信じられない思いで警察官を見つめる。「私が?彼女に薬品を?」
ちょうどその時、診察室から戻ってきた旬が警察官の言葉を耳にし、血相を変えて駆け寄ってきた。
「待ってください、何かの間違いでしょう?妻がそんなことをするはずがない!」
警察官は厳しい表情のまま、手にしていたファイルの一部を示した。「すでに実行犯を確保しており、供述と送金記録の裏付けが取れています」
旬は横からその資料をひったくるように覗き込んだ。内容に目を通すにつれ、顔色が沈み、その目が急速に冷え切っていく。
次の瞬間――彼はその資料のコピーを、晶の顔に向かって激しく叩きつけた。数枚の紙片が宙を舞い、床に散らばる。
「晶!」フロアに響き渡るような凄まじい怒声だった。彼を見上げたその瞳には、驚愕、怒り、そして底知れぬ失望が渦巻いている。「これは一体何だ!説明しろ!」
突然紙をぶつけられ、晶は呆然と床に落ちた資料に目を落とした。
そこには、不鮮明なネットバンキングの送金画面のスクリーンショットと、実行犯の供述調書の一部があった。はっきりと【結城という女に指示された】と記載されている。
「私じゃない」晶は静かに顔を上げ、旬を見た。「この男なんて知らないし、送金もしていない」
「これだけ証拠が揃っているのに、まだ言い逃れする気か!」旬は怒りで肩を震わせ、床の書類を指差した。
「三年前のことは確かに俺が悪かった!だが、俺は家庭に戻ったじゃないか!この三年、佳奈とは一度も連絡を取っていなかった!
あのパーティーの時だって、佳奈を病院に連れて行ったのは、彼女が俺を庇って大怪我をしたからだと何度も説明しただろう!
なぜ君は、いつまでも彼女を許せないんだ!なぜそこまで陰湿で残酷なやり方で、一人の女の人生を壊そうとするんだ!」
旬から吐き出される一言一言が、鋭い刃となって晶の胸を深く抉る。
彼の中では、すでに結論は出ているのだ。妻は嫉妬に狂い、人を雇って無実の女を傷つけた恐ろしい悪女――それが結城晶という人間なのだと。
晶は車椅子に座ったまま、彼の顔を見つめた。激怒に歪んだ顔。隠そうともしない嫌悪と深い失望。とっくに麻痺して死んだはずの胸の奥が、また細く、鋭く、ひきつるように痛んだ。
――そうか。彼にとって私は、最初からそういう人間だったのか。彼の中には、私に対する信頼など、もう一欠片も残っていなかったのだ。
警察官が一歩前に出た。「結城さん、署までご同行願います」
旬は忌々しげに顔を背けた。そして、氷のような声で言い捨てる。「連れて行ってください。法に則って、厳重に処罰してやってください!」
そう言い残すと、振り返ることなく足早にエレベーターへと向かっていった。
佳奈のもとへ急いでいるのだ。
晶はそのまま警察に連行され、冷たく薄暗い留置場で一晩を過ごした。
翌朝、取調室で警察官が告げた。被害者の藤波佳奈が、示談に応じる意向を示しているという。ただし、莫大な額の慰謝料と今後の治療費を全額賠償することが条件だと。
晶は無表情のまま、弁護士を通じて親友の土屋夕莉(つちや ゆうり)に連絡を取った。
電話越しに事情を聞いた夕莉は、旬と佳奈を口汚く罵倒し、仕事を放り出して警察署へ駆けつけてくれた。そして要求された賠償金を立て替え、晶を釈放の手続きへと導いた。
「晶、大丈夫!?あのクズ男と泥棒猫は、マジで地獄に落ちればいいのに!」警察署から出た途端、夕莉は怒りで目を真っ赤にしながら、晶の華奢な体をきつく抱きしめた。
晶は静かに首を横に振った。「大丈夫よ。夕莉、本当にありがとう。お金は必ずすぐに返すから」
夕莉はそのまま晶のそばに付き添いたがったが、あいにく彼女の会社で緊急のトラブルが発生したと連絡が入った。
何度も「家に着いたら絶対に連絡して」と念を押してから、夕莉は後ろ髪を引かれる思いでタクシーに乗り込み去っていった。
心身ともに疲れ果てた晶は、残りの荷物をまとめるために一旦家へ戻ろうと、通りでタクシーを拾うべく手を挙げた。
その瞬間――背後から忍び寄った何者かに、薬品のツンとした臭いが染み込んだ布で、口と鼻を強く塞がれた。
「んっ……!」
必死にもがいたが、男の強い力には抗えず、意識は急速に遠のいていく。やがて、視界は完全に真っ暗に塗りつぶされた。
次に目を覚ました時、晶はごわごわとした粗い麻袋の中に閉じ込められていた。口には布が詰め込まれ、手足はきつくロープで縛られている。身動き一つ取れない。
袋越しに、微かな話し声が聞こえてきた。くぐもってはいるが、絶対に聞き間違えるはずのない声だった。
旬と佳奈だ。
佳奈の声には、ひどく怯えを装ったような弱々しい響きがにじんでいた。
「旬、本当にここまでするの……?いくらなんでもやりすぎじゃない?彼女、まだあなたの奥さんなのに……」
対する旬の声はひどく冷酷で、一片の情も通わせない残酷な響きを帯びていた。
「やりすぎだと?こいつがお前に薬品をかけさせた時、自分のやったことをやりすぎだと思ったか?お前はこれから何度も痛みを伴う皮膚移植手術を受けて、苦しまなきゃならないんだぞ!
俺は最初、こいつを数ヶ月留置場に放り込んで、自分の罪を骨の髄まで反省させるつもりだった。なのに、夕莉の金でさっさと示談にしやがって、何の罰も受けていない!
法がこいつを裁けないというなら――俺が俺のやり方で、こいつに一生忘れられないお仕置きを叩き込んでやる!」
麻袋の中で、晶の全身の血が完全に凍りついた。
――外の人は、旬?
彼が人を使って、私を白昼堂々拉致させたというの?
すべては、佳奈に代わって私に「お仕置き」を与えるために?
第8話
「でも……」佳奈はまだ迷っているふりをした。「これをあなたがやったって知ったら……彼女がまた騒ぎ出すんじゃ……」
「安心しろ。絶対に気づかせない。終わったら跡形もなく処理する。これからは、もう誰にも君を傷つけさせない」
晶の心臓が、完全に砕け散った。千万もの破片になって、引き裂かれた。
痛い。言葉にならないほど痛い。
薬品で焼かれるより、骨を折られるより、どんな肉体の傷よりも――何千倍も、何万倍も痛い。
最も愛した男。七年間、同じベッドで眠ってきた夫。その男が、他の女のために――自分にこんな仕打ちを?
次の瞬間、麻袋の口がきつく縛られ、何か重いものが押し込まれた。ずしりと体の上にのしかかってくる。
石だ。
「んんっ……!」晶は狂ったようにもがき、叫ぼうとする。けれど喉から出るのは、くぐもった嗚咽だけだった。
麻袋が乱暴に持ち上げられた。大きな水音――直後、彼女の体は氷のように冷たい川の中へ投げ込まれた。
冷たい水が四方八方から押し寄せる。布越しに口と鼻を塞ぎ、肺の奥まで流れ込んでくる。
息ができない。凍てつく冷たさ。そして、底なしの絶望。
晶は袋の中で必死にもがく。けれど手足は縛られ、石の重みに引きずられ、体は為す術もなく水底へと沈んでいく。
もう駄目だ、溺れ死ぬ――そう思った瞬間、麻袋が勢いよく水面へ引き上げられた。
激しくむせ返りながら、冷たい空気を貪るように吸い込む。
だが数秒と経たないうちに、また容赦なく水中へ沈められた。
引き上げられては、沈められる。また引き上げられては、また沈められる。
まるで猫が鼠をもてあそぶような、残酷な拷問。
水面に出るたびに得られるわずかな呼吸は、次に来るさらに深い絶望と恐怖を連れてくるだけだった。
氷のような川の水が、無数の針となって皮膚を刺す。骨を貫く。心臓を抉る。
死の淵に立つ恐怖と、極限の苦痛の中で、無数の記憶が、堰を切ったように溢れ出した――
十六歳の春。桜の木の下で、顔を真っ赤にしながら差し出されたラブレター。不器用な筆跡。けれど、滾るような想い。
十八歳の冬。留学に旅立つ空港の搭乗口。きつく抱きしめられた。顎が髪に触れる。少し震える、けれど揺るぎない声。「晶、待っててくれ。帰ってきたら、絶対に君を嫁にする」
二十二歳。初めて彼女のために作ろうとした料理。焦げて真っ黒になったパスタ。二人で顔を見合わせ、腹を抱えて笑い転げた夜。
二十五歳。結婚式の誓いの日。ベールをめくった彼の瞳に、きらりと光った涙。
あんなにも美しく、あんなにも真摯で、一生続くと信じて疑わなかった愛と約束――全部、嘘だったのだ。
いや、かつては本物だったのかもしれない。けれどいつしか、すべて他の女に捧げられてしまった。
そして自分は、馬鹿みたいに過去の幻影にしがみつき、いつまでも手を離せずにいただけ。
挙げ句の果てに、ゴミのように石と一緒に袋に詰められ、川に投げ込まれ、何度も何度も溺れさせられた。ただ、他の女の溜飲を下げるための見せしめとして。
「……っ」
再び水面へ引き上げられた時、晶はついに限界を迎えた。川の水に混じった鮮血を、勢いよく吐き出す。
意識が完全に遠のく直前――岸の上から、旬の冷え切った声が聞こえた。
「もう十分だ。あとは適当なところに放り出しておけ」
麻袋が岸へと引きずり上げられ、乱暴に口を開けられた。
冷たい空気が肺に流れ込む。晶は水から揚げられた瀕死の魚のように、凍てつく川岸に縮こまり、激しく咳き込み、嘔吐し、全身を震わせた。秋風に吹かれる枯れ葉のように。
どれほどの時間、そこに横たわっていたか分からない。微かな朝の光が瞼を刺すまで、意識は霞んでいた。
最後の気力を振り絞り、泥だらけのスマホの電源を入れた。
画面が光り、未読のメッセージが二件表示された。
一件目は、旬から。
【晶、前にも言っただろう。俺と佳奈はもう何の関係もないと。家庭に戻ると決めた以上、君を裏切るようなことは二度としない。だから、もう佳奈を傷つけるな。
彼女は今回、顔に傷が残るかもしれなくて、精神的にかなり参っている。数日そばにいて気持ちを落ち着かせたら、すぐ君のところに戻るから】
二件目は、依頼していた弁護士から。
【結城さん、離婚手続きはすべて完了いたしました。正式な書類一式を宅配便でご自宅にお送りしましたので、ご確認ください。今後のご多幸をお祈り申し上げます】
二つの相反するメッセージを見つめながら、晶はふいに笑い出した。
笑うほどに、さらに多くの血を咳き出す。笑うほどに、涙が止まらなくなる。
指を動かし、旬の番号を――一秒の躊躇もなく、ブロックした。
そして、満身創痍の体を支え、よろめきながら立ち上がった。
一歩進むごとに、刃の上を歩くような痛み。冷え切った体が軋み、体中の傷を冷たい風が撫でるたび、骨の髄まで痛みが走る。
それでも歯を食いしばり、一歩、また一歩と、足を引きずって進んだ。
冷え切った、がらんとした屋敷に戻ると――リビングのローテーブルの上に、宅配の厚い封筒が置かれていた。
封を切ると、中には、弁護士から送られてきた重々しい二通の離婚届受理証明書が入っていた。
晶は自分の分を手に取り、開いた。
同封されていた書類のコピーには、結婚したあの頃の自分の署名と、たった今押されたばかりの無機質な受理印があった。
旬の分には、手を触れなかった。
それを、ローテーブルの一番目立つ場所に、そっと置いた。
そして、踵を返す。とうに準備を終えていたスーツケースの持ち手を握る。
七年間暮らし、七年間愛し、七年間傷つき続けたこの場所を――最後に一度だけ、見渡した。
未練は、ない。
振り返ることも、もう二度とない。
晶はドアを開け、外へ踏み出した。