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偽りの結婚:異国の地で消えた私の居場所
「申し訳ございませんが、システムでは、小川様との入籍記録は確認できませんでした」 私、松井夏美(まつい なつみ)は妊娠検査結果を握りし...
Chương (1)
第1章
「申し訳ございませんが、システムでは、小川様との入籍記録は確認できませんでした」
私、松井夏美(まつい なつみ)は妊娠検査結果を握りしめ、足元が崩れそうになった。
5年前、小川修平(おがわ しゅうへい)はリバティニア市のトップクラスの法律事務所に、高給で引き抜かれた。
私は何も迷うことなく、修平について海外へ渡った。
「こっちで仕事が落ち着いたら、すぐに君のグリーンカードの手続きもするからね」と修平は言った。
でも5年が経っても、私のグリーンカードはずっと手続き中のままだった。
なのに、修平と一緒に来たアシスタントの二宮葵(にのみや あおい)は、とっくに修平の身元保証でグリーンカードを取得していたのだ。
あの時、私は修平に「もう離婚して国内に帰る」と言い張った。
いつもは冷静なはずの修平が、慌てて私の手を握りしめ、こう言った。
「葵は、一人でこっちで頑張っているんだ。助けてあげるのは当然だろ。
君は俺の妻なんだから、グリーンカードなんていつでも取れる。でも、今は仕事上、立場が微妙なんだ。変に勘ぐられたくない。頼むから……」
こうして私は、まる5年間も、その言葉を信じ続けてしまった。
突然スマホが鳴り、向こうから聞こえる修平の声は、弾んでいた。
「葵の正式な移民手続きが、今日無事に完了したんだ!今夜はお祝いするから、早く帰って飯を作っておいてくれ」
さっき、窓口で告げられたその言葉を思い返すと、心が凍りついた。
つまり、私は修平と正式な夫婦ではなかったのだ。
滞在資格も、生活の保障もない。生まれてくる子どもの権利さえ、守ってやれない。
電話を切ると、私はすぐに中絶手術の予約を入れ、一番早い帰国の便を予約した。
今度こそ、もう振り返らない。
第1話
「申し訳ございませんが、システムでは、小川様との入籍記録は確認できませんでした」
私、松井夏美(まつい なつみ)は妊娠検査結果を握りしめ、足元が崩れそうになった。
5年前、小川修平(おがわ しゅうへい)はリバティニア市のトップクラスの法律事務所に、高給で引き抜かれた。
私は何も迷うことなく、修平について海外へ渡った。
「こっちで仕事が落ち着いたら、すぐに君のグリーンカードの手続きもするからね」と修平は言った。
でも5年が経っても、私のグリーンカードはずっと手続き中のままだった。
なのに、修平と一緒に来たアシスタントの二宮葵(にのみや あおい)は、とっくに修平の身元保証でグリーンカードを取得していたのだ。
あの時、私は修平に「もう離婚して国内に帰る」と言い張った。
いつもは冷静なはずの修平が、慌てて私の手を握りしめ、こう言った。
「葵は、一人でこっちで頑張っているんだ。助けてあげるのは当然だろ。
君は俺の妻なんだから、グリーンカードなんていつでも取れる。でも、今は仕事上、立場が微妙なんだ。変に勘ぐられたくない。頼むから……」
こうして私は、まる5年間も、その言葉を信じ続けてしまった。
突然スマホが鳴り、向こうから聞こえる修平の声は、弾んでいた。
「葵の正式な移民手続きが、今日無事に完了したんだ!今夜はお祝いするから、早く帰って飯を作っておいてくれ」
さっき、窓口で告げられたその言葉を思い返すと、心が凍りついた。
つまり、私は修平と正式な夫婦ではなかったのだ。
滞在資格も、生活の保障もない。生まれてくる子どもの権利さえ、守ってやれない。
電話を切ると、私はすぐに中絶手術の予約を入れ、一番早い帰国の便を予約した。
今度こそ、もう振り返らない。
……
ドアを開けると、家の中は大騒ぎだった。
リビングは修平の事務所の同僚でいっぱいで、シャンパンを開ける音や、けたたましい笑い声が響いていた。
輪の中心には葵がいて、頬を赤らめながら、楽しそうに何かを話している。
そのすぐ隣には修平がいて、口元にかすかな笑みを浮かべていた。
「あら、夏美さん、お帰りなさい。ちょうどよかった!あなたが来るのを待ってたの。小川先生から夏美さんの料理が絶品だと聞いててね」
葵が私に気づき、あどけない笑みでそう言った。
その場の全員の視線が、私に集まる。
修平は私を一瞥すると、かすかに眉をひそめた。
彼は私に歩み寄り、声を潜めた。
「どこに行ってた?早くご飯の準備をしてくれ。今日は葵がM国の国籍を正式に取得したお祝いなんだから」
私は黙って上着を脱ぐと、キッチンの中へと入った。
リビングの喧騒が、ガラス扉越しに聞こえてくる。
彼らは最近の合併案件や、移民政策の新しい動向、来年の昇進について話していた。
どの言葉も、私には遠い世界の出来事だった。
この5年間、私の世界は、わずか数畳のこの部屋だけに閉じ込められてきた。
野菜を切っていると、リビングから真実か挑戦かで騒ぐ声が聞こえてきた。
「小川先生の番!真実か、挑戦か、どっちにする?」
「真実で」修平の声は、いつものように落ち着き払っていた。
誰かがもったいぶった口調で尋ねた。「この中で、最高のパートナーと呼べるのは、誰だろう?」
私の包丁を握る手が、一瞬止まった。
修平は、少しもためらわなかった。
「もちろん葵だ。この何年も、一番厄介な案件も、一番手強い依頼人も、全部葵が一緒に乗り越えてくれた」
リビングから、わっと歓声が上がった。
「やっぱりそうだよな!小川先生と葵さんは長年組んでるだけあって、二人のコンビネーションは最高だよ。誰にも入り込めない隙がないっていうかさ」
「二人が並ぶと、まさに最強のカップルって感じ。美男美女でお似合いだよ!」
「小川先生が若くして結婚しちゃったのが惜しまれるよな。じゃなきゃ葵さんとお似合いだったのに……」
誰かが声を潜めて、こう続けた。
「正直、どうして今の奥さんと一緒になったのか不思議だったよ。ただのカメラマンだろ?仕事もしないで家にいるなんて、葵さんと比べたら……
どうやって小川先生を落としたのかね?まさか、料理の腕だけで押し切ったわけでもないだろうに」
コンロの湯気で、目が痛くなる。
美男美女。お似合いのカップル。最高のパートナー。
その言葉が、心臓に突き刺さって容赦なく抉られる。
何より滑稽なのは、ここにいる全員が私を修平の妻だと思っていること。でも、私たちの結婚は、嘘っぱちだったんだ。
パリン。
手から皿が滑り落ち、床で粉々に砕け散った。
キッチンに修平がやってきて、不機嫌そうに眉を寄せた。
「何やってるんだ?」
しゃがんで破片を拾い集めていると、指先をすっぱりと切ってしまった。じわりと血が滲む。
「うっかりしたの」
修平は私の手にちらりと目をやり、苛立ちを隠そうともしない口調で言った。
「ちゃんとやれないのか?不器用だな、同僚に笑われるだろ」
私は顔を上げ、彼をじっと見つめた。
第2話
修平の瞳には、心配の色なんてなくて、ただの軽蔑だけがあった。
「さっさと片付けろよ。料理まだ?みんな腹減ってんだけど」
背後で、ドアが閉まる音がした。
修平は知らない。私のお腹に、赤ちゃんがいることを。
そして、今日、知ってしまった。私の結婚が、全部嘘だったってことを。
笑えるね。
私の人生なんて、修平を好きになったあの瞬間から、全部がくだらないジョークみたいなものだったんだ。
次の日は週末。修平は朝早くから出かけていった。急ぎの用件で、大事な依頼人に会うんだって。
もちろん、葵も一緒だった。
部屋の中は、静まり返っていた。
その時、ふいにスマホの画面が光って、インスタの通知が一件、表示された。
どこかで見覚えのあるアイコン。盗み撮りされた男の後ろ姿だ。
でも、その男性がつけている腕時計には見覚えがあった。修平がいつもつけているものだ。
私はそれをタップした。
投稿の数は多くなかった。でも、その一つ一つが、全身から血の気を引かせるのに十分だった。
一番古い投稿は5年前。私と修平が結婚してすぐの頃だった。
お揃いの結婚指輪をはめた二つの手が、婚姻届の上に置かれている写真。そこには、英語でこう添えられていた。
【今はまだ内緒だけど。法律に認められた永遠こそが、本当の『永遠』よね。ありがとう、小川先生】
3ヶ月前。【あの人が私のために、市民権取得の最終手続きを進めてくれている。これが通れば、私は名実ともにこの国の人間になれる】
2ヶ月前。【誰かさんがまた内緒で、最新のスマホに替えてくれた。『一番いいものを使わなきゃだめだ』って。いらないって言ったのに、『君にはその価値がある』なんて言われた】
その投稿には、コメントが一件ついていた。【例の、旦那さんにしつこく付きまとってる女、まだ諦めてないの?】
彼女の返信はこうだ。【まだいるわよ、ストーカーみたいにね。大学時代に寮まで追いかけてきて、今度は海外までついてきたの。鏡で自分の顔を見てから出直してほしいわ。釣り合うとでも思ってるのかしらね?】
私はスマホを握りしめたまま、リビングの真ん中に立ち尽くした。
3月の暖かい日差しが差し込んでいるのに、体は凍えるように冷たかった。
葵の言う通りだった。
修平を追いかけていたのは、私の方だ。
大学1年生の入学式の日。私はカメラを手に、キャンパスの風景を撮っていた。その時、ふとファインダーの中に、一人の男性が飛び込んできたんだ。
白いシャツが、逆光に照らされていて。
シャッターを切った瞬間、私はその人にときめいてしまった。
それから私は、修平のことを追いかけてキャンパス中を駆け回った。
法学部の憧れの存在である彼と、カメラを抱えただけの芸術学部の「ベッタリちゃん」。
周りはみんな、私じゃ釣り合わないって言った。でも、私にはまっすぐな情熱だけがあったから、ついに修平の隣に立つ彼女になることができた。
卒業する頃には、私のカメラマンとしての仕事も、ようやく軌道に乗り始めていた。賞を二つもらって、いくつかの雑誌から仕事の依頼も来るようになっていたんだ。
でも、修平がリバティニア市に行くって言った時、私は迷わず荷物をまとめて彼と一緒に行くことを決めた。彼は私の手を握りしめて、目を赤くしながら言った。
「夏美、一生君を大切にする。海外で結婚する手続きは複雑だから、先に国内で籍を入れよう」って。
リバティニア市に来てからも、私は写真の仕事を続けたかった。でも、言葉の壁があって、何をやってもうまくいかなかった。
一度、なんとか仕事をもらえたのに、相手の要望が聞き取れなくて、台無しにしてしまったことがある。
帰宅して修平に泣きつくと、彼は眉をひそめて言った。
「英語もろくにできないのに、無理するからだろ?もう変なことしないで、俺が養ってやるから」って。
それ以来、修平は毎月私の口座に生活費として2000ドルを振り込んでくれるようになった。
それは、暮らしていくのに、ギリギリの金額だった。
私が実家に帰りたいって言うと、修平はいつも渋い顔をした。
「重要な案件を抱えていて、しばらく離れられないんだ」
「じゃあ一人で帰る」って言うと、修平はこう返した。「一人で帰ってどうするんだ?俺が暇になるまで待てよ。そしたら一緒に行こう」
そうして、5年が経った。
そうか、この5年間の「忙しい」も「ちょっと都合が悪い」も「仕事柄、仕方ない」も、全部ただの言い訳だったんだ。
本当の理由は、修平が最初から、私のことなんて妻だと思っていなかった、ただそれだけのこと。
スマホが震えた。病院から、手術予約の確認メッセージだった。
手術は、3日後。
修平は知らない。この5年もの間、私が自分の道を諦めていなかったことを。
英語の勉強はずっと続けた。言葉につまることもなく、現地の人と何時間でも議論できるようになった。
それに、こっそりネットで小さな撮影の仕事も受けていた。
修平は、私が昼間何をしているかなんて、一度も聞いたことがなかった。
手術の前日、以前一緒に仕事をしたことのある雑誌の編集者から、電話がかかってきた。
リバティニア市で活躍する優秀なアジア系エリートの特集を組むらしくて、今回のインタビュー相手が、偶然にも修平だったのだ。
編集者は、私がリバティニア市に住み、いい作品を撮れることを知っていて、今回の撮影を好条件で依頼してきた。
第3話
なぜだか、私はその依頼を引き受けてしまった。
修平の職場、つまり同僚たちの前で、私が彼の妻ではなく、一人のカメラマンとして現れたら、どうなるんだろう。
撮影当日、私は先に法律事務所へ着いた。
受付の女性に用件を伝えてスタッフパスを出した瞬間、耳慣れた声が突き刺さった。
「夏美さん?なんでこんなところにいるの?」
葵がハイヒールを鳴らして近づいてきた。私をまるで不潔なものでも見るような目で見ている。
その声には、軽蔑の色が隠されていなかった。
「ここは仕事場よ。関係者以外は立ち入り禁止なの」
「仕事で来たよ」
葵はぴくりと固まり、私を上から下まで値踏みするように見た。そして、口の端を吊り上げて笑った。
「仕事って?もしかして、デリバリーの配達員かしら?」
葵は声を上げて笑った。「夏美さん、ここは法律事務所。あなたの家のキッチンじゃないの。関係者以外はお断りよ」
私はもう一度、スタッフパスを葵の前に突き出した。
「雑誌社の依頼で、本日の午後3時から、修平のインタビューの撮影に来た」
葵は眉を吊り上げた。「どこの雑誌社があなたなんかを雇ったの?正気とは思えないわ!」
私は深呼吸をして、スマホを取り出し修平に電話をかけた。
彼が出ると、いら立った声が聞こえた。「何だ?忙しいんだ」
「今、事務所のロビーにいるの」
電話の向こうで数秒の沈黙があってから、足音が聞こえてきた。
修平が出てきて私を見ると、眉をひそめた。
「こんな所まで何しに来た?早く帰れ。今夜は予定があるだろ」
「仕事で来たの」私は再び依頼書を差し出した。
修平はちらっと見ただけで、受け取ろうともしない。馬鹿にしたように笑って言った。「君に何の仕事があるんだ?」
「撮影よ」
修平は私を見た。その目には、見慣れた嫌悪感がこもっていた。
「5年もカメラに触ってないだろ。まともな写真なんて撮れるわけがない。恥をかく前に、早く帰れ」
その言葉が終わらないうちに、エレベーターのドアが開いた。
雑誌社の編集長がチームを連れてやって来た。
「小川先生!お待ちしておりました!あれ、松井さんはもういらしてたんですか?」
編集長は私に向き直ると言った。「松井さん、では始めましょうか。まず先に照明を確認しますね」
修平の表情が凍りついた。
葵も唖然として立ち尽くしていた。
インタビューは順調に進んだ。
インタビューが終われば、撮影だ。
私はカメラを構え、ファインダー越しに修平を見た。
この男を、私はかつて、青春のすべてを捧げて愛し、そして見上げていた。
今、私のファインダーの中に映っているのは、ただの人当たりのいい、知らない男の姿だった。
三セット撮影を終えると、編集長が満足げにうなずいた。
片付けのとき、私が床にしゃがんでレンズを交換していると、視界の端に葵が近づいてくるのが見えた。
「夏美さん、さっきはごめんなさい。勘違いだった」
葵はにこやかに言ったかと思うと、突然足をもつれさせ、私の上に倒れ込んできた。
私の手からカメラが滑り落ち、壁際にあった金属製のゴミ箱に叩きつけられた。
ガシャンッ。
レンズが、割れた。
カメラ本体にもヒビが入った。
その時、頭の中が、真っ白になった。
それは、父の形見だった。
父が亡くなった日、私はこのカメラを抱きしめて一晩中泣いた。
葵は慌てた様子で謝罪の言葉を繰り返すが、その目の奥には、かすかな喜びの色が浮かんでいた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい!
私、うっかりしてて……怒らないで……」
激しい怒りが、一気に頭に突き上げた。
私は立ち上がり、目を真っ赤にしながら、葵の頬をめがけて手を振り上げた。
「夏美!気でも狂ったか!」
修平が私の腕を掴み、力任せに後ろへ引き倒した。そして、葵の前に立ちはだかり、怒りの形相で私を睨みつけた。
「葵はわざとじゃない!たかが古いカメラ一台で、大げさな。自分の姿を見てみろ!みっともないぞ!」
修平の顔を見ていると、急に言葉が出てこなくなった。
修平は、葵を庇っている。
体中の血液が、じりじりと冷えきっていくのを感じた。
雑誌社のスタッフたちは、顔を見合わせるだけだった。
編集長がその場を収めようと「また後日」と言い残し、チームを連れて帰っていった。
私はしゃがみ込んで、粉々になったカメラを拾い上げた。
修平が近づいてきて、お札を数枚、私に差し出した。
「これで修理に出せ。もういい加減にしろ、騒ぎ立てるな」
私はそのお金を受け取らなかったから、お札が、ひらひらと床に落ちた。
立ち上がると、私は修平を見つめ、それから彼の背後に庇われながら、唇を噛みしめて不満そうにしている葵に目をやった。
何も言わなかった。
そして、背を向けてその場を去った。
私は病院に向かった。手術台に横になると、冷たい器具の感触に体がびくりと震えた。
第4話
会えなかった赤ちゃん、ごめんね。
手術の後、下腹部が鈍く痛む。何か大切なものを、体からごっそり抜き取られたような感覚だった。
私は街灯にしがみつくように立っていた。10分くらいして、やっとタクシーを捕まえられた。
家に帰ると、ベッドに倒れ込んで、そのまま泥のように眠ってしまった。
夜中に、スマホが鳴った。
修平からの電話だった。
電話に出ると、聞こえてきたのは葵の声だった。
「夏美さん?小川先生、今日飲みすぎちゃって。夏美さんが迎えに来ないと帰らないって駄々こねてる。今、バーにいるので急いで来てください」
時間を見ると、深夜2時だった。
下腹部はまだ痛むし、体には力が入らない。
口を開こうとしても、喉がカラカラで声が出なかった。
電話を切って、もう一度ベッドに横になった。
でも、またスマホが鳴る。
切っても、また鳴る。
3度目の着信で、私は体を起こして服を着始めた。
体を動かすたびに、痛みが走る。
もう、癖になっているのかもしれない。
この5年間、呼び出されればいつでも駆けつけた。自分のことは我慢して、いつも修平を一番に考えてきた。それが当たり前になっていたんだ。
でも、これで最後。最後のお別れにしよう。
タクシーを飛ばして約30分、ようやくバーに辿り着いた。
ドアを開けると、薄暗い照明と、耳をつんざくような音楽が溢れていた。
店の中をぐるっと見渡したけど、修平の姿は見当たらない。
電話をかけると、すぐにつながった。
「もしもし?修平?どこに……」
スマホの向こうから、衣擦れの音が聞こえた。そのすぐ後、葵の声がした。
「小川先生……もっと、優しく……」
そして、修平の低く掠れた、酔いのまじった声が聞こえた。「ああ」
私はスマホを握りしめたまま、バーの入り口に立ち尽くしていた。電話の向こうから聞こえてくる声を聞きながら。
胃がひっくり返るような吐き気がこみ上げてきて、壁に手をついてえずいた。
でも、何も出てこない。
電話を切って、その場を離れようと踵を返した。
その時、目の前に数人の人影が現れた。
酔っ払った3人の外国人だった。彼らはじろじろと私の体をなめ回すように見ている。
「外国人?一人なのか?
俺たちと遊ぼうぜ?」
一人の男が顔を近づけ、私の頬を触ろうと手を伸ばしてきた。
後ずさると、背中が壁にぶつかった。
一人に手首を掴まれる。すごい力で、振りほどけない。
「離して!もうすぐ友達が来るの!」
必死で強い口調で言ったつもりだったけど、声は情けなく震えていた。
「友達?どこにいるんだよ?」
彼らは笑いながら、さらに私を取り囲んだ。
「助けて!」
叫んだ瞬間、口を塞がれた。
男たちは私を路地裏に引きずり込もうとする。
もがいて、誰かの顔を爪で引っ掻いた。その途端、強く頬を叩かれた。
目の前が真っ暗になり、耳鳴りがした。
震える手で、もう一度、修平に電話をかけた。彼が気づいて、助けに来てくれることを祈りながら。
スマホの向こうから聞こえる吐き気のする声が、一瞬だけ止まった気がした。でも、すぐに電話はあっさり切られた。
もう一度かけると、電源が切られていた。
スマホは足で蹴り飛ばされた。
誰かが私にのしかかってくる。酒臭い息が顔にかかった。
ザラザラした手が服の肩紐に伸びてくる。絶望が、私を飲み込んでいく。
私は目を閉じた。
意識が途切れそうになったその瞬間、眩しい光が目に飛び込んできた。
「ちょっと!何してるの!その子から離れなさい!警察を呼ぶわよ!」
上にのしかかっていた体が離れ、男たちは悪態をつきながら逃げていった。
助けてくれたのは、一人の中年女性だった。警察を呼ぶかと聞かれた。
私は首を振った。お礼を言ってからスマホを拾い、よろよろと立ち上がった。
家に着く頃には、空が白み始めていた。
バスルームに立ち、蛇口をひねる。鏡に映った自分を見つめた。
口の端は切れ、髪はボサボサで、目は赤く充血していた。
私はクローゼットの一番奥から、とっくに荷造りを終えていたスーツケースを引きずり出した。
空港へ向かうタクシーの中でも、スマホはずっと鳴り続けていた。
修平の名前が、画面に何度も何度も表示される。
でも、出なかった。
空港に着くと、海外で使っていたSIMカードを抜き取り、ゴミ箱に捨てた。
そして、出発ロビーへと歩を進めた。
その時、アナウンスが流れる。
「東都行きの便は、まもなく搭乗を開始いたします」
私は立ち上がり、スーツケースを引いて、一歩、また一歩と前へ進んだ。
……
入国審査のカウンターで、係官が私のパスポートを確認し、無造作にスタンプを捺した。
「おかえりなさい」
そのぶっきらぼうな一言に、私は小さく頷いた。ようやく、自分の居場所に帰ってきたのだと実感した。
窓の外に見える白い飛行機を見つめて、私はふっと笑った。
さようなら、リバティニア市。
さようなら、修平。