冷え切った残り火、孤独な罪

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冷え切った残り火、孤独な罪

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結婚式を目前に控え、浅見音葉(あさみ おとは)は、夫となる瀬戸凛太(せと りんた)がトップ財閥の第一継承者であることを初めて知った。 そ...

Chương (1)

第1章

結婚式を目前に控え、浅見音葉(あさみ おとは)は、夫となる瀬戸凛太(せと りんた)がトップ財閥の第一継承者であることを初めて知った。 その日の夜、未来の義母である瀬戸聡子(せと さとこ)は彼女を拉致し、一枚のカードを投げつけて自ら身を引くよう迫った。さもなければ、両親の墓を暴くと脅した。 こうして巨額の手切れ金を受け取って姿を消した音葉のせいで、凛太はまるで別人のように変わってしまった。 彼は親の言いなりになる政略結婚を拒み、自らをただの仕事の鬼へと変えた。 三年後、彼は政略結婚の相手の家業を徹底的に潰し、瀬戸家で最大の権力を握る絶対的な存在となった。 もはや誰に気兼ねする必要もなくなった彼は、数十億円もの懸賞金をかけ、音葉を探し出した。 最愛の女を再び手中に収めた凛太は、いつ彼女が消えてしまうかという不安に憑りつかれた狂人と化していた。自分の心を抉り出してでも音葉に捧げたいと願うほどだった。 ギネス記録を更新するほどの盛大な結婚式、一国の富にも勝る宝飾品。そして、彼女を永遠に繋ぎ止めるため、何度も神社に通い詰めては、ただひたすらに祈りを捧げた。 科学的な根拠があろうとなかろうと、音葉が二度と離れていかないように、彼は命を懸けてそのすべてを実践した。 結婚から三年後、音葉はついに妊娠した。しかし、わずか二ヶ月でその小さな命は腹の中で息絶えてしまった。 第1話 結婚式を目前に控え、浅見音葉(あさみ おとは)は、夫となる瀬戸凛太(せと りんた)がトップ財閥の第一継承者であることを初めて知った。 その日の夜、未来の義母である瀬戸聡子(せと さとこ)は彼女を拉致し、一枚のカードを投げつけて自ら身を引くよう迫った。さもなければ、両親の墓を暴くと脅した。 こうして巨額の手切れ金を受け取って姿を消した音葉のせいで、凛太はまるで別人のように変わってしまった。 彼は親の言いなりになる政略結婚を拒み、自らをただの仕事の鬼へと変えた。 三年後、彼は政略結婚の相手の家業を徹底的に潰し、瀬戸家で最大の権力を握る絶対的な存在となった。 もはや誰に気兼ねする必要もなくなった彼は、数十億円もの懸賞金をかけ、音葉を探し出した。 最愛の女を再び手中に収めた凛太は、いつ彼女が消えてしまうかという不安に憑りつかれた狂人と化していた。自分の心を抉り出してでも音葉に捧げたいと願うほどだった。 ギネス記録を更新するほどの盛大な結婚式、一国の富にも勝る宝飾品。そして、彼女を永遠に繋ぎ止めるため、何度も神社に通い詰めては、ただひたすらに祈りを捧げた。 科学的な根拠があろうとなかろうと、音葉が二度と離れていかないように、彼は命を懸けてそのすべてを実践した。 結婚から三年後、音葉はついに妊娠した。しかし、わずか二ヶ月でその小さな命は腹の中で息絶えてしまった。 彼女は胸が張り裂けるような悲しみに沈み、目を覚ましても凛太と向き合う勇気が出ず、ただ瞼を閉じていた。 だが、彼が医師の友人と激しく言い争う声が聞こえ、慌てて止めに入ろうと布団を跳ね除けた瞬間、漏れ聞こえてきた言葉に全身の血が凍りついた。 「凛太、あの薬をこれ以上音葉に飲ませるのは、本当にまずい。次は流産だけじゃ済まないぞ。妊娠が難しくなるどころか、彼女の体そのものを壊してしまうことになるんだ」 凛太は壁に寄りかかり、紫煙をくゆらせながら軽くため息をついた。 「だが、晴香と哲也に約束したんだ。生涯、俺の子供は哲也ただ一人だと。これは俺が晴香に償うべきことなんだ」 友人は複雑な表情を浮かべた。 「凛太、音葉がいなくなったあの三年間、お前はまるで狂ったようだった。なのに彼女が戻ってきた今、身代わりの女とまだ縁を切っていないどころか、音葉に不妊を招く薬を盛るなんて…… あんな薄汚れた夜の女を、本気で愛しているわけじゃないだろ?」 凛太の瞳の奥が暗く沈んだ。「俺は音葉を愛している。だが、晴香のことも見捨てられないんだ。音葉は少し退屈だからな、たまには刺激も必要だ。金ならいくらでもある、囲っておけばいいだけの話だろう」 「じゃあ音葉はどうするんだ?もし知られたら、離婚されるに決まってる!」 離婚という言葉を聞き、凛太の顔色は一段と険しくなった。「彼女には絶対に気付かせない。俺から離れることなど、絶対に許さない」 友人はまだ説得を続けていたが、音葉の顔はすでに血の気を失い、真っ白になっていた。 望月晴香(もちづき はるか)。私の真似をして凛太に近づき、彼に忌み嫌われてこの街を追放されたあの女。 三年も前に、とっくに消えたはずじゃなかったの……? それに、凛太は哲也のことを甥だって、そう言っていたじゃない。なぜ今、二人の子供だなんて言葉が出てくるのか。 音葉は震えを止められず、寄せられた眉の間には衝撃と絶望が深く刻まれていた。 つまり、彼は今までずっと私を騙していたのか? 音葉の手が無意識に自分のお腹に触れると、自嘲気味な笑いがこぼれ落ちる。 なら、私の子供はどうなるの? 裏返った自分の泣き声を耳にしながら、心の奥で残酷な答えが響いた。私の子供は、実の父親の手によって殺されたのだ、と。 我が子を亡くした喪失感は、毒のように全身へと回り、内側から彼女を容赦なく蝕んでいった。呼吸をすることさえままならないほどの絶望が、じわじわと彼女を追い詰めていく。 音葉はたまらず身を屈め、空えずきを繰り返した。溢れ出した大粒の涙は、次から次へと床に叩きつけられた。 胸をきつくかき抱いたが、身を裂かれるようなその激痛は、どうやっても止めることができなかった。 部屋の外にいた凛太が彼女の異変に気づき、慌ててドアを開けて彼女をきつく抱きしめた。 「大丈夫だ、音葉。子供ならまた作ればいい。そんなに自分を追い詰めないでくれ」 襟元に滴り落ちた涙の熱が、かえって彼女の胸を酷く抉り取った。音葉はこみ上げる嫌悪感を抑えきれず、その体を力いっぱい突き飛ばした。 「近寄らないで」彼女は吐き気を催した。 凛太は空を切った腕を見つめ、少し呆然とした。音葉はすでに目を閉じ、もう彼を見ようとはしなかった。 十年間愛し続けたこの顔が、今は恐ろしいほどに見知らぬものに感じられた。 彼はかつて、彼女が去ったことで鬱病になり、彼女が戻ってきたことで今度は分離不安症に陥った。 同じ空間にいても、これが夢ではないかと何度も彼女に確認しなければならないほど不安に苛まれていた。 再会した夜のことを、音葉は決して忘れない。凛太の物音に驚いて目を覚ました彼女の視界に飛び込んできたのは、血まみれの彼の姿だった。 彼女は恐怖で泣きじゃくったが、彼は彼女を強く抱きしめた。 「泣かないでくれ、音葉。これが夢じゃないかって怖かったんだ。これだけ傷をつけてもお前が消えなくて、本当に良かった……」 だが、これほどまでに命懸けで彼女を愛した男が、彼女以外の女にも愛情を注いでいた。 凛太がどうしても晴香を捨てられないというのなら、いっそ二人を添い遂げさせてやればいい。 その夜、凛太が不在の隙に、音葉はすぐさま弁護士に連絡を取り、離婚協議書の作成を依頼した。 続いて、別の番号に電話をかけた。 「聡子さん、凛太との離婚に応じるわ。お金はもういらない。ただ、一つだけお願いがある」 電話の向こうで、聡子は鼻で笑った。「金目当ての女が、まさか自分から金を捨てるなんてね。いいわ、何をしてほしいの?」 「私が去った後、凛太がまた死に物狂いで私を捜し回るのを防ぎたいなら、私の死を偽装する手助けをして。彼の未練を、根こそぎ断ち切るために」 聡子は数秒沈黙した。「いいでしょう。ただし、本当に消えることよ。もし気を引くための駆け引きなら、次は容赦しない」 駆け引きなどするつもりはない。今度こそ、彼女は本当に凛太を愛するのをやめようと決意していたのだ。 第2話 音葉の気乗りしない様子に気づいたのか、ここ数日、凛太は仕事をすべて放り出し、彼女のそばに付きっきりだった。 退院の日、彼は彼女が一番好きなレストランをわざわざ貸し切り、店内一面を豪奢なバラの花壁で飾り付けてくれた。 ところが、レストランへ向かう道中、彼のスマートフォンが狂ったように鳴り出した。 着信画面の相手を見た瞬間、凛太は急ブレーキを踏んで車を路肩に停めた。 電話に出るなり、向こうから泣き叫ぶ声が聞こえてきた。「凛太、助けて!嘉村社長が酔っ払って私を無理やり連れて行こうと……あっ!」 悲鳴とともに通話がぷっつりと切れると、凛太の顔はみるみるうちに焦燥に染まった。 彼は迷うことなく手を伸ばして音葉のシートベルトを外し、彼女の側のドアを押し開けた。 「音葉、急に仕事のトラブルが入った。悪いがここで降りてタクシーを拾い、レストランで待っていてくれ。片付いたらすぐに向かうから、いいな?」 しかし、音葉は動かず、ただ黙って凛太の顔をじっと見つめた。 だが、彼の瞳にはいぶかしげな色と、早く降りろと急かすような焦りしか浮かんでいなかった。胸の奥に苦い痛みが走り、彼女は静かに視線を外した。もはや、彼に期待することなど何一つ残っていなかった。 「凛太、外は雨が降っているわ」彼女の声は、波一つ立たないほど、不気味なほど平坦だった。 凛太はハッとしたように目を瞬かせ、一瞬だけバツの悪そうな顔をすると、慌てて自分のジャケットを脱いだ。 「これを羽織っていけ。役員会に急かされてるんだ、いい子で待っててくれ」 言い終えるなり、彼は彼女の頭を愛おしそうに撫で、そのまま半ば強引に彼女を車外へと突き出した。 その乱暴な仕草と、耳に心地よい甘い言葉は、あまりにも残酷なコントラストを描いていた。 音葉が体勢を立て直す間もなく、凛太は勢いよくアクセルを踏み込み、車を急発進させた。その反動で彼女が地面に倒れ込んだことなど、彼は微塵も気づいていなかった。 その瞬間、音葉は額を地面に強く打ち付け、水たまりの泥水が容赦なく口の中に流れ込んできた。 彼から渡されたジャケットはずぶ濡れになり、音葉の心もまた、氷のように冷え切ってしまった。 彼女はしばらくしてようやく立ち上がったが、地面に落ちたジャケットを拾おうとはしなかった。 泥にまみれたジャケットを見下ろす彼女の瞳は、今の彼女の心と同じように、何の感情も波立っていなかった。 雨の日のタクシーは絶望的に捕まらず、音葉は一時間も冷たい雨に打たれ続け、ようやくレストランにたどり着いた。 しかし、貸し切られた店内には誰の姿もなく、凛太は案の定、約束を破っていた。 音葉はずぶ濡れの服のまま、ただ待ち続けた。雨が上がり、そして再び降り出しても、「片付いたらすぐに向かう」と言ったあの人が現れることはなかった。 再び雨足が強まった時、音葉はウェイターを呼んだ。 「料理を出してちょうだい」 ウェイターは困惑した表情を浮かべた。「瀬戸様がまだいらしておりませんが……それに、温め直したお料理では本来の風味が損なわれてしまいます」 音葉の伏せた睫毛がわずかに震え、その口元に自嘲するような苦い笑みが浮かんだ。「凛太はもう来ないわ」 以前はあんなに好きだったレストランなのに、今日の料理はひどく塩っぱく感じられた。きっと、この店に来ることはもう二度とないだろう。 流産したばかりの体で一時間も雨に打たれたのだ。家に着く頃には、ひどい高熱を出して倒れ込んでいた。 朦朧とする意識の中で、彼女は誰かの手が自分の額に触れるのを感じた。 高熱で心細くなっていたせいか、直前の出来事を忘れさせ、彼女はただ本能にすがるようにその手をきつく握りしめた。「凛太……」と呟く声には、隠しきれない恨み言と甘えが混じっていた。 翌朝、目を覚ました彼女は慌ててその手を振り払った。しかし、耳に飛び込んできたのは、申し訳なさそうな声だった。 「奥様、お休みのところを起こしてしまいましたでしょうか?」 音葉はハッとして顔を上げた。そこにいたのは、瀬戸家の住み込みの家政婦だった。 心臓がすとんと冷え落ちるような感覚に襲われ、彼女は掠れた、震える声で尋ねた。「昨日の夜……ずっとあなたがそばにいてくれたの?」 「はい、奥様。旦那様はお電話も繋がらず、メッセージへのご返信もありませんでした。奥様がずっと私の手を握っていらしたので、そのまま付き添っておりました。 もう一度、旦那様にお電話をおかけしましょうか?」 音葉が口を開きかけたその瞬間、枕元のスマートフォンが狂ったように通知音を鳴らし始めた。 トーク画面を開いた瞬間、彼女は「その必要はない」と悟った。 メッセージの送り主は言うまでもなく、そこに並んでいたのは、百枚を超える写真と動画――昨夜の凛太と晴香が、いかに情欲に溺れていたかを物語る生々しい記録だった。 玄関からベランダに至るまで、二人は睦み合い、狂おしい一夜を明かしていた。凛太は音葉との約束など、とうの昔に忘却の彼方へと追いやっていた。 もし昨夜、自分が熱で死んでいたとしても、この男は絶対に帰ってこなかっただろう――そう確信できるほどだった。 音葉は一瞥しただけで、静かにスマートフォンを伏せた。 乾いてしょぼつく瞼を閉じ、彼女は淡々と言った。「電話はいいわ。それより、私宛ての宅配便を取ってきてちょうだい」 中身は、弁護士に作成を依頼していた離婚協議書だ。いよいよ、この家から去る計画を実行に移す時が来たのだ。 彼女は迷いなく署名し、その協議書を手に凛太の会社へと向かった。 しかし、まさか会社の受付で晴香と鉢合わせるとは、思いもしなかった。 第3話 音葉は不快そうに眉をひそめ、相手にしないつもりだったが、一歩踏み出したところで彼女に立ち塞がられた。 「いらっしゃいませ。ご予約はいただいておりますでしょうか? ご予約のない方はお通しできません」 晴香の笑顔は受付嬢としてマニュアル通りだったが、音葉にはその奥でうごめく嫌がらせの意図と、醜い優越感がはっきりと見て取れた。 音葉の顔からスッと温度が消える。「晴香。この会社の人間で、私が誰だか知らない者などいないはずよ。本気で私を止めるつもり?」 晴香の笑みが、さらに深くなった。「ふん、社長夫人だからって何よ?結局、子供すら産ませてもらえないじゃない。三年間も時間があったのに役立たずで……あの薬のお味はどうだった?」 ――パァン! 言葉が終わるが早いか、乾いた音がロビーに響いた。音葉の平手打ちが、晴香の頬を思い切り張り飛ばしていたのだ。 「そんな汚い口で、よく受付なんて務まるわね」 晴香は打たれた頬を押さえ、一瞬呆然とした後、ふっと嘲笑した。「図星を突かれて逆ギレってわけ? 音葉、のし上がるのはお互い実力次第でしょ。今日は絶対に中には入れないから。警備員!」 だが、警備員が駆け寄るよりも早く、エレベーターの扉が開いた。不機嫌そうな表情を浮かべた凛太が姿を現す。 彼が近づいてくるより先に、彼の怒声が響き渡る。 「晴香、社員マニュアルも読めないのか?誰を通して誰を止めるべきか、一番最初に書いてあるだろう。まともに働けないなら、今すぐ出て行け!」 言い放つと、彼はひどく心配そうな顔で音葉へ視線を向けた。「音葉、怪我はないか?彼女に何かされなかったか? ……外はまだ雨が降っているのに、どうしてそんな薄着で出てきたんだ。体調だってまだ万全じゃないだろうに」 凛太は眉をひそめ、まるで音葉が自分自身の体を大切にしていないことを本気で案じているかのようだった。 その光景を目の当たりにした晴香の瞳には、どす黒い嫉妬が渦巻いたが、彼女はそれを隠すようにうつむき、唇を噛み締めて沈黙を貫いた。 音葉も何も言わず、ただ凛太の首筋に残る生々しい赤いキスマークをじっと見つめていた。 長い沈黙の後、ふと堪えきれないように乾いた笑いを漏らしたが、その目尻はうっすらと赤く滲んでいた。 ――凛太……あなたのその「献身」、本当に胸を打つ。でも、今さら誰のためにそんな茶番を演じているの? 彼女は、肩を抱こうと伸びてきた彼の手を身をよじってかわし、先を歩き出した。 「何でもない。上へ行きましょう」 しかしエレベーターが到着しても、凛太は動こうとしなかった。 「音葉、午後は取引先と契約の打ち合わせが入っているんだ。先に俺のオフィスで待っていてくれ。終わったらすぐに戻るから。いい子でな」 また「待て」、か。今度はいつまで待たされるのだろう? 喉元まで出かかった無数の問いは、結局、深い無力感に飲み込まれて消えた。彼女の口から漏れたのは、ただ一言の返事だけだった。「……ええ」 凛太は、今日に限って彼女が何の文句も言わずに従ったことを少し意外に思ったようだった。 だがそれ以上深く考えることはなく、流産のショックからまだ立ち直れていないのだろうと都合よく解釈し、エレベーターの扉が閉まるのを甲斐甲斐しく見届けてから、背を向けて立ち去った。 ところが、いくら待ってもエレベーターはいっこうに上昇しなかった。階数ボタンを何度か押し直してみたが、反応がない。 そこでようやく、彼から専用のセキュリティカードを渡されていないことに気がついた。 どうしようもなく、秘書に迎えに来てもらうよう彼にメッセージを送ろうとエレベーターを降りた。 だが、一歩外へ踏み出した瞬間、すぐ横の非常階段から聞き慣れた声が漏れてきた。 「怒ったか?音葉を怒らせるなと、あれほど言っただろう。どうして言うことが聞けないんだ?」 「……だって、焼きもち焼いちゃうんだもん。それに、先に手をあげたのは向こうよ?すごく痛かったんだから。ねえ、どうやって埋め合わせしてくれるの?」 凛太が低く笑う声が響いた。その甘やかすような響きは、鋭いナイフとなって音葉の心臓を容赦なく貫いた。 「俺の一生を、お前に捧げるよ。それでどうだ?そして、たくさん子供を作ろう」 晴香が恥じらうように「もう、嫌だ」と甘え、凛太もまた笑いながら彼女の唇を塞いだ。 音葉は暗がりの中に立ち尽くしたまま、その心はとっくに底なしの奈落へと真っ逆さまに落ちていた。 凛太のその言葉には、ひどく聞き覚えがあった。あれは、彼が自分を再び手に入れたあの豪奢な結婚式で、自分の心の奥底にまで響き渡り、震えるほどの感動を刻みつけた言葉だったからだ。 音葉はあの日のことを一生忘れない。帝都で最も強大な権力を握る瀬戸家の当主が、名だたる名士たちの見守る前で、ただ彼女一人のために身を低くして跪き、嗚咽で言葉を詰まらせながらこう言ったのだ。 「音葉……神様に祈ったんだ。俺の寿命を代償にしてでも、愛する人が一生離れていかないようにって。俺の人生すべてをお前に捧げる。どうか、来世までも俺のそばにいてくれないか」 あの時の凛太は、全身を震わせて涙を流し、指輪を握る手すらおぼつかなかった。 彼は「口先だけの誓いなんてしたくない。俺の愛が本物だったかどうかは、俺が息絶えて、この人生の幕が下りるその瞬間にようやく証明されるんだ」と語っていた。 だが、あれからわずか三年。彼はひとりの「夜の女」のために、幾度となく音葉を見捨ててきた。 音葉は奥歯を強く噛み締め、目を閉じた。そのまま、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。 ――凛太、あなたの言う「愛の証明」なんて、本当に滑稽だわ。 非常階段から漏れ聞こえる生々しい水音が激しさを増すのを背に、音葉は決別するように踵を返し、二度と振り返ることはなかった。 秘書に迎えられて上の階へ上がった彼女は、日が暮れる前にようやく姿を見せた凛太を、その瞳で捉えた。 音葉の手に握られた書類を見て、凛太は優しげな笑みを浮かべた。 「何を持ってるんだ?」 第4話 そう言いながら、凛太は手を伸ばして書類を受け取った。 「欲しいものがあるなら、書斎にある俺の印鑑を勝手に押してくれて構わない。わざわざ俺のところへ来なくていい、お前が疲れるだけだからな」 音葉は赤く腫れた目のまま、ひどく静かな声で口を開いた。「今回はそうはいかないわ。だってこれは、離婚……」 言葉を言い終わるより早く、社長室のドアが押し開かれた。 「社長、望月さんが準備を整えました。もう上へ上がられても大丈夫です」 凛太は1ページ目に目を落とそうとしたが、秘書の言葉を聞くやいなや、中身をろくに確認することもなく最後のページまで一気にめくり、そのままサインをした。 遮られた言葉は行き場を失った。音葉はもう一度口を挟むタイミングを見つけられず、いっそ伝えるのをやめた。――どうせ、彼も遅かれ早かれ知ることになるのだから。 彼女はサインされた協議書を手元に引き寄せた。「用事があるんでしょう。私も帰るわ」 だが、バッグを肩にかけた途端、凛太にぐいと腕を掴まれた。 「まあ待て。ちょっとついて来い」 音葉が状況を飲み込めないうちに、凛太は彼女をビルの屋上へと連れ出していた。 「音葉、晴香は会社の古株の紹介で入ってきた人間でな。俺も無下には追い出せないんだ。頼むから怒らないでやってくれ。午後の件は本人も反省していて、お前への詫びの印に花火を用意したらしい。 ずっと、花火大会を見たいと言っていただろう?」 音葉はハッとした。凛太がそのことを覚えているとは、思いもしなかったのだ。 それは交際して最初の年、大晦日の夜に彼女が口にした新年の願いだった。あれから、もう九年も経っている。 一瞬だけ意識が遠のき、かつて熱烈な愛を向けてくれていた、若き日の凛太の姿が脳裏をよぎった。 だが次の瞬間、晴香の声によって強引に現実に引き戻された。 「社長、それでは点火いたしますね」 凛太が頷くと同時に、彼は片手で音葉の肩をきつく抱き寄せ、もう一方の手でなんと小さなカップケーキを取り出した。 それは安っぽくて小さなケーキだったが、彼女がずっと食べたいと願い続けていたものだ。 幼い頃、母が生きている頃は、母が帰宅するたびに買ってきてくれた思い出の品。 母が亡くなってからは一度も口にしておらず、もうどこにも売っていないはずだった。 しかし今、彼はとっくに終売したはずのケーキを探し出し、火気厳禁の屋上での花火さえ特別に許可した。まるで、音葉が晴香に難癖をつけるのを、何よりも恐れているかのように。 音葉の口元に皮肉な笑みが浮かぶ。受け取って「ありがとう」と言いかけたその時、すぐそばから甲高い悲鳴が上がった。 晴香の声だった。音葉は、自分の肩を抱く凛太の手にぐっと力が入ったのをはっきりと感じ取った。 口に出しかけた感謝の言葉は一瞬にして凍りつき、彼女は無表情のまま、凛太の手を自分の肩から払いのけた。 「彼女のところへ行ってあげたら。私は……」 言い終わるより早く、晴香のミスで、並べられた打ち上げ花火が倒れ、発射口がまっすぐに音葉たちのいる場所へ向いた。 凛太は驚愕に目を見開き、「危ない!」と叫ぶなり、目の前にいた音葉を力任せに突き飛ばし、大股で駆け出して晴香をその身で庇い伏せた。 カップケーキは彼自身の靴で無惨に踏み躙られ、突き飛ばされた音葉も地面に激しく倒れ込んだ。 地面に手をついた瞬間、手首からゴキリという嫌な音が響き、彼女はたまらず苦痛の呻き声を上げた。 だが、手首の怪我を確認する暇さえなかった。花火の火の粉が、容赦なく彼女の目に飛び込んできた。 その瞬間、眼球に直接火をつけられたような激痛が走り、悲鳴すら喉の奥で引きつって音にならなかった。 救急車を呼ぼうと慌ててスマホを探すが、次々と飛んでくる火の粉が手の甲を焼き、服を焦がしていく。 パニックの中でスマホがどこへ転がったのかも分からない。視界を奪われた暗闇の恐怖で、音葉は震えながらただ後ずさりするしかなかった。 這うように後退しながら屋上の出入り口を手探りで探していると、ふいに誰かの足に触った。 その瞬間、音葉は濁流に呑み込まれた者が一本の流木にすがるように、その人の足にしがみついた。 必死に平静を保とうとしても、声は情けないほどに震えていた。 「凛太……?あなたなの?私を連れていって……」 だが言葉の途中で、目の前の人物は無情にもその足を引き抜いた。 耳慣れたその声は、今の彼女にとっては死刑宣告を下す裁判官のように残酷に響いた。 「音葉、晴香が気絶してしまった!先に彼女を外へ運ぶ。お前はどこか安全な場所で待っていてくれ。すぐに戻るから!」 第5話 頬を掠める熱風が、刻一刻と強まっていく。音葉は視界を奪われながらも、炎がじりじりと迫ってくる気配を肌で感じていた。 彼女は慌てて手を伸ばし、目の前にいる凛太を掴もうとした。「待って、凛太……私、目が見えないの……!」 だが、必死に伸ばした手は、彼の服の裾をわずかに掠めただけだった。遠ざかっていく荒々しい足音は、彼女の心ごと容赦なく踏み砕いていくかのようだった。 「待っていろ」というあの約束も、結局は触れれば消える、空虚な幻に過ぎなかった。 凛太への期待など、とうの昔に死に絶えていたはずだった。それでも、終わりのない暗闇の中で「彼は本当に戻ってこないのだ」という事実を再び突きつけられた瞬間、やはり心臓を素手で握りつぶされるような激痛が全身を駆け巡った。 音葉は首を振り、口元にひどく苦い笑みを浮かべた。そして、血の滲む両目の痛みに耐えながら、肘をついて必死に身を起こし、少しずつ前へと這い進んだ。 だが、屋上の扉を抜けた直後、視界を失った彼女は階段を踏み外し、そのまま真っ逆さまに転げ落ちた。 床に叩きつけられるよりも早く、音葉の意識は深い暗闇へと沈んでいった。 次に目を覚ました時、彼女の両目は厚い包帯で覆われていた。絶え間なく襲い来る痛みに、思わず苦痛の呻き声が漏れた。 手を上げて触れようとした瞬間、突然誰かにその手をきつく握りしめられた。 「音葉、気がついたか?具合はどうだ?まだ痛むか?医者を呼ぼうか?」 矢継ぎ早に浴びせられる心配そうな問いかけ。だが、音葉の心にはもはやさざ波一つ立たなかった。 彼女は無理やりその手を引き抜くと、静かな声の中に、底知れぬ嫌悪を込めて言い放った。「……出て行って」 凛太は一瞬呆然とし、やがて罪悪感に満ちた声を絞り出した。「音葉、俺がお前を助けなかったことを恨んでいるのか? 説明させてくれ。あの時、晴香は恐怖で気を失ってしまったんだ。あそこに残せば命に関わるかもしれない。だから、急いで彼女を下に運んで、本当にすぐに戻ってきたんだ。 でも、あのときにはお前が階段の下で倒れていて……。音葉、すまない……お前の目がこんなことになるなんて、俺は……」 凛太は切々と訴え、その声は嗚咽に震えていた。 だが、音葉は何の反応も示さなかった。彼が「すぐに戻ってきた」というのが真っ赤な嘘であることを、彼女は知っていたからだ。 彼女は何度か喉を上下させ、言葉を飲み込むようにして静かに頷いた。「ええ、分かった。疲れたから、先に出ていって」 責める色も問い詰める響きもない、そのあまりに凪いだ物言いに、凛太はふいに胸の奥を冷たい風が吹き抜けるような、言いようのない喪失感を覚えた。 そんな音葉の態度に得体の知れない焦燥を覚え、彼は強引に彼女の手を握りしめた。 「音葉、怒らないでくれ、な?お前を傷つけたあの粗悪な花火を売った連中には、相応の代償を払わせた。あいつらはもう二度と、塀の外へは出られないようにしてやった。 これからは、二度と誰にもお前を傷つけさせない。俺自身を含めてだ。今回はすべて俺が悪かった。お前の気が済むなら、どんな罰でも受けるから」 音葉はそれを聞き、ただ笑い出しそうになるのを堪えるしかなかった。 彼が今まで、どれほど自分を傷つけてきたというのか。 今回だってそうだ。果たして本当に花火が「不良品」だったのか、それとも花火を買った人間に「別の思惑」があったのか。 彼はすべてを分かっているはずなのに、都合の悪い事実からは目を逸らし、結局は晴香を庇う道を選んだのだ。 そこまでされては、もはや彼に語る言葉など何一つ残されていなかった。 音葉は彼の手を振り払い、布団の奥へと深く沈み込んで顔を背けた。「……眠いわ」 再び空を切った掌を見つめる凛太の瞳が、暗く淀んだ。その声には微かな苛立ちが混じった。 「音葉、事情はすべて説明しただろう?まだ信じられないのか?責任がある連中は全員、刑務所に送った。これ以上、どこに不満があるって言うんだ?もしこの解決策が気に入らないなら、言ってくれ……」 彼が言い終えるより早く、音葉は勢いよく上体を起こして言葉を遮り、もはや抑えきれない怒りを爆発させた。 「いいわ、なら教えてあげる!すべての元凶は晴香よ!彼女を今すぐ刑務所にぶち込んで!あなたにそれができるの?」 吐き出された言葉と共に、凛太はぴたりと口を噤んだ。病室は息が詰まるような沈黙に包まれた。 やがて、音葉はふっと冷たく笑った。またしても、自ら惨めな思いをしにいったのだと悟ったからだ。 目を覆う白い包帯に鮮やかな赤がじわりと滲み、彼女の呼吸は消え入るほどに細くなっていった。 凛太は、ひどく理解に苦しむといった様子で眉をひそめた。「お前はそんなことで怒っていたのか?だが、あの場にいたのが誰であろうと、俺は助けていた。晴香だからどうとか、そういう問題じゃないだろう?」 音葉はもう、彼とこれ以上議論する気力すら失っていた。ただ、すべてが底知れず虚しいだけだった。 「そうね、私の心が狭かった。もう、出ていってくれる?」 音葉の態度に、凛太は言葉を詰まらせた。用意していた言い訳はすべて喉の奥につかえて出てこなかった。 彼は彼女を見つめ、胸の奥に得体の知れない違和感がよぎった。 凛太はさらに何かを言い募ろうとしたが、音葉はすでに布団を頭から被っていた。 彼はどうしていいか分からず戸惑った。「音葉、俺はそういう意味で言ったんじゃない……」 しかし、音葉が二度と口を開くことはなかった。凛太は諦めたように深い溜息をつき、彼女の布団をかけ直してドアへと向かった。 「音葉、ゆっくり休んでくれ。仕事が片付いたら、すぐに戻ってそばにいるから」 ドアが閉まる音が響いたのとほぼ同時に、音葉のスマートフォンが鳴った。 「手筈は一週間後に整えた。時が来たら、四の五の言わずにさっさと消えなさい。余計な真似はしないことね」 音葉は微かに、力なく笑った。「ええ、変な真似なんてしないわ。約束通り、この街から消える。二度とあなたたちの前には現れない」 言い終えるか終えないかのうちに、唐突に病室のドアが押し開けられた。 「……『二度と現れない』って、どういうことだ?」 第6話 不意に戻ってきた凛太の姿に、音葉は慌てて通話を切った。 「何でもない。もう縁を切った友人に、二度と会わないと伝えていただけよ」 凛太は深く眉をひそめ、到底信じていない様子だったが、それ以上は追及してこなかった。 それからの三日間、彼は三年前の彼女がようやく戻ってきたばかりの頃のように、失うことを極度に恐れるかのように片時も音葉のそばを離れなかった。 だが、音葉の態度は終始つれないままで、感情の起伏すら見せなかった。 凛太はその態度に得体の知れない焦燥感を覚え、どうにか話し合う機会を作ろうとしていた矢先――あろうことか、音葉の退院の日に、彼が音信不通になった。 音葉は何も聞かず、一人で退院手続きを済ませると、そのまま弁護士の元へ向かった。 離婚協議書を弁護士に託し、受領の委任状を書き終えてから、ようやく荷物をまとめるために家へ戻った。 実際のところ、まとめるような荷物などほとんどなく、ただ両親の遺品をいくつか持ち出すだけだった。 だが、荷物を箱に収め終えたその時、寝室のドアが乱暴に押し開けられた。 連絡が取れなかったはずの凛太が、顔を怒りに染め、有無を言わさず彼女の手首を掴み上げた。 「音葉、どうしてこんな真似をしたんだ? 晴香が紹介で入社しただけだとも、あの日彼女を助けたのはただの気まぐれだったとも、何度も説明したはずだ! 彼女は自分の過ちを悔やんで、悪夢にうなされて入院までしたんだぞ。それなのに、どうしてお前はまだ彼女を追い詰めようとするんだ!」 音葉の手から、遺品の小箱がふいに床へ転げ落ちた。彼が一体何を言っているのか、まったく理解できなかった。 「……何の話をしているの?」 音葉の冷ややかな態度に凛太の怒りはさらに燃え上がり、分厚い写真の束を彼女の胸元へ力任せに叩きつけた。 「とぼけるな! この前のことだけで、そんなちっぽけな嫉妬心のために、こんな下劣な手段まで使うのか?いったいお前はいつから、ここまで底なしの卑劣な人間になり下がったんだ!」 音葉は茫然としながら散らばった写真を拾い上げ、一目見ただけで凛太の言葉の意味を悟った。 彼が連絡を絶っていたのは、晴香が事件に巻き込まれたからだったのだ。 彼女は、業界でも最も下劣で胸糞悪いと評判の嘉村直樹(かむら なおき)に連れ去られ、三日三晩弄ばれた上、体に「娼婦」の印章を捺され、裸の写真を撮られていた。 十中八九、この写真はすでに業界中で出回っているのだろう。 だから凛太は、音葉が晴香をあの男の元へ送り込んだと疑っているのだ。いや、疑うどころか、完全に決めつけている。 音葉は冷笑を漏らして写真を放り捨て、真っ直ぐに凛太の目を見つめ返した。「凛太、私を疑っているの?」 凛太の瞳には深い失望が浮かんでいた。「お前以外に誰がいる?晴香は昔、生きるためにあんな仕事をしていた。三年前にはもう足を洗っていて、この三年間、誰も彼女に手を出そうなんてしなかった。 それなのに今になって、彼女は白昼堂々連れ去られた。お前の差し金以外に、いったい誰がそんなことをするんだ!」 凛太の迷いのない断定に、音葉は深い無力感に苛まれた。 彼も「三年前には足を洗った」と言ったが、彼が忘れていることがある。音葉自身も、三年前ようやく彼の元へ戻ってきたばかりだったということを。 彼と友人の会話を立ち聞きでもしなければ、晴香が昔「夜の女」だったことなど、彼女が知る由もなかった。 それなのに今、彼は何の確たる証拠もないまま、すべての罪を音葉に被せようとしている。 音葉の目頭がカッと熱くなり、この数日間の抑えに抑え込んでいた怒りと悲しみが、この瞬間に限界を突破して爆発した。 パァンッ。乾いた音が響き、凛太の頬に鮮やかな手形が刻まれた。 平手打ちの反動で手のひらが痺れ、心臓の奥までビリビリと痛むようだった。彼女は強く拳を握り締め、何度も呼吸を整えてから、再び口を開いた。 「凛太、自分がどれほど恥知らずなことを言っているか分かってるの?あなたが信じようが信じまいが、この件に私は一切関わっていない」 言い捨てるなり、彼女はしゃがみ込んで小箱を拾い上げ、そのまま部屋を出ようとしたが、先ほどよりもさらに強い力で腕を掴まれた。 「音葉!」 音葉はこれほど恐ろしい顔をした凛太を見たことがなかった。顔色はどす黒く沈み、その瞳には吹き荒れる嵐のような、確かな殺意すら宿っていた。 「じゃあ聞くが、どうして今日退院してまっすぐ家に帰らず、今まで一度も行ったことのない住宅地へ行ったんだ?いいか、晴香が襲われたのはまさにそこなんだぞ!」 凛太は怒号を響かせた。怒りのあまり、その目尻は血走って真っ赤に染まっていた。 「晴香は病院に運ばれた時、すでに意識がなかった。それでもうわ言のように『音葉、許して』とすがりついていたんだぞ! 音葉、お前だって直樹がどれほど残忍な男か知っているだろう!いくら晴香が憎いからって、あんな目に遭わせていいわけがない!今すぐ彼女に土下座して謝れ。きっちり説明して謝罪しろ!」 そう吐き捨てるなり、彼は音葉を引きずって外へ連れ出そうとした。その手には容赦のない力が込められており、手首の骨が砕けそうなほどの激痛が走った。 音葉は痛みに顔を歪めながら、必死に抵抗した。「凛太、もう一度言うわ、私じゃない!どうしてそれが、彼女の自作自演だとは少しも考えないの?」 凛太は一瞬ハッと動きを止め、深い失望に満ちた目で彼女を見下ろした。 何度か唇を震わせた後、彼はもはや怒りを抑えきれず、心の底に溜め込んでいた言葉を吐き出した。 「音葉、お前だってどん底から這い上がってきた人間じゃないか。どうして人をそんな風に悪く思えるんだ?たった三年、名家の奥様におさまっただけで、自分が孤児だったことまで忘れたのか?」 言葉を紡ぐほどに彼の感情は昂り、最後には怒鳴り声は制御不能なまでに大きくなり、彼女を掴む手すら怒りで小刻みに震えていた。 「今になって思うよ。あの時、占い師が言っていたことは正しかったんだと!お前は周りの人間をすべて死に追いやる、呪われた疫病神なんだよ!」 第7話 凛太の放った言葉に、音葉は心臓を激しく打ち据えられたように震え、見開いた両目に驚愕と絶望を浮かべた。 それは、彼女の幼い日々を黒く塗りつぶした、決して消えることのないトラウマだった。 かつて占い師が吐いたその一言のせいで、両親の死後、彼女は親戚から見捨てられ、同級生からは石を投げられ、ある冷たい雨の夜、危うく命を落としかけた。 もう耐えきれない、いっそ死んでしまおう――そう思い詰めていた彼女に、「人の運命は他人の言葉など関係ない」と教えてくれたのは、他ならぬ凛太だった。 「両親はお前を特等席で見守るために天国へ行ったんだ」と優しく諭し、「俺の全人生をかけて、その呪いを解いてやる」と誓ってくれたのも彼だった。 それなのに今、彼はその過去を最も鋭利な刃に変え、彼女の心臓を容赦なく抉りにきている。 音葉の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。だが、その口元に浮かぶ笑みは、狂気を孕んだように次第に深まっていった。 ……どんなに深く愛し合っていても、時の試練には耐えられないということか。 彼の瞳に映る自分は、もはや愛した女性などではない。女としての尊厳を無惨に踏みにじり、ようやく抜け出したはずの泥沼へと再び突き落として復讐を遂げるような、身の毛もよだつほど醜悪で卑劣な女――それが、今の彼が下した自分への評価なのだ。 彼女はもはや、弁解する気力すら失っていた。ただ、決して屈しまいと細い首を真っ直ぐに伸ばし、凛太を冷たく見据えた。 「凛太、やっていないことで謝るつもりは毛頭ないわ!彼女が死のうが生きようが、私には何の関係もない。……そして今日から、あなたも同じよ」 言い捨てるなり、彼女は渾身の力でその手を振り払い、目尻の涙を乱暴に拭うと、顔を上げてドアノブに手をかける。 だが、外へ踏み出そうとした瞬間、ドアは外側から冷酷に閉ざされた。 その背後から、まるで悪魔のように、底冷えのする凛太の声が響いた。 「音葉、どうしても謝らないというなら、俺の非情を恨まないでくれ。 誰か!彼女を璃風館へ連れて行け!自分の非を認めて謝罪するまで、決して迎えには行くな!」 音葉は足の裏が床に縫い付けられたように凍りつき、自分の耳を疑った。「……凛太、今、なんて言った?」 「璃風館」――それは帝都で最も名を馳せる、巨大な歓楽街の闇。男たちにとっては至高の悦楽に浸れる楽園だが、女たちにとっては筆舌に尽くしがたい拷問を受ける生き地獄だ。 凛太はあろうことか、自分の妻をそんな場所へ叩き落とすと言い放ったのだ。 音葉は信じられないものを見る目で彼を見つめたが、返ってきたのは、一切の反論を許さない氷のような言葉だった。 「音葉、今回はお前がやりすぎたんだ。晴香の過去の仕事をそこまで見下すなら、かつての彼女がどれほど必死に生き抜いてきたか、お前自身がその身で味わってみるといい。そうすれば、少しは聞き分けというものが身につくだろう」 凛太の顔には一片の感情もなく、その冷え切った瞳は、かつて命がけで取り戻した最愛の女性でも、現在の妻でもなく、まるで見ず知らずの他人を突き放すかのようだった。 絶望のどん底に突き落とされた音葉は、弾かれたように逃げ出そうとしたが、屈強なボディガードたちにあっけなく押さえ込まれた。 どれほど必死にもがいても、多勢に無勢だった。 両腕を拘束され、無理やり車に押し込まれる自分の姿を自嘲気味に見つめながら、音葉の心はもはや完全に死に絶えていた。 彼女は力なく車のシートに崩れ落ち、ひび割れた虚ろな瞳で、まるで糸の切れた人形のように凛太をじっと見つめた。 「凛太……離して。これ以上、私にあなたを憎ませないで……」 だが凛太は少しも意に介さず、むしろ彼女の態度を不可解だと責めるような目を向けた。 「音葉、過ちを犯せば代償を払うのは当然だ。俺が愛しているからといって、善悪の区別もつかないまま甘えるな。これはお前のためなんだ。将来、取り返しのつかない過ちを犯さないためにな」 そう言い残すと、彼は足早に車から離れ、二度と彼女を振り返ることはなかった。「木村さん、車を出せ」 それからの数日間は、音葉の生涯で最もおぞましい悪夢となった。 璃風館の厳格な階級制度は、まるで封建社会のようだった。 そこに巣食う人間たちの心理は極限まで歪みきっており、新人の登場は、彼女たちにとって格好の「狂宴」の幕開けを意味した。 放り込まれた初日、音葉は血を吐くまで強い酒を無理やり飲まされ、全身がミミズ腫れになるまで鞭で打たれた。 彼女たちはそれを「歓迎の儀式」と呼び、「親愛の証」として、音葉の鎖骨に火のついたタバコを力いっぱい押し当て、消えない火傷の痕を刻み込んだ。 ある客が、彼女が凛太の妻であることに気づき、わざわざ大金を積んで彼女を指名した。 だがそれは、彼女を助け出すためでも、酒の相手をさせるためでもなかった。男は音葉の首に犬の首輪とリードをつけ、土下座を強要し、まるで本当の犬のようにホールの床を這いずり回らせようとしたのだ。 音葉が死に物狂いで拒絶すると、今度は無数の蹴りと鉄拳が雨あられと降り注ぎ、吐き気を催すような血の匂いが何度も喉の奥へせり上がった。 このまま殴り殺されるのだと覚悟したその時、ようやく店の人間が止めに入った。 「まあまあ、お客様、どうかお怒りを鎮めてください。この女は瀬戸様から特別に『お世話』を頼まれている身です。死なれてしまっては、こちらとしても示しがつきません」 「ふん、凛太が『殺しさえしなければ、どう弄ぼうが勝手だ』と言い広めているのは周知の事実だろうが!加減は分かってる、邪魔するな!」 その言葉が店内に響き渡ると、もはや誰一人として彼女に遠慮する者はいなくなった。掃き溜めに落ちた芥のように、誰もが彼女を泥靴で踏みにじり、己の鬱憤を晴らすための格好の標的として扱った。 音葉は二度、脱走を試みた。だが、建物の外へ足を踏み出した途端、見張っていた凛太のボディガードによって無情にも引き戻された。 その後に待っていたのは、璃風館のオーナーによる凄惨な「お仕置き」だ。太い棍棒が、彼女の華奢な背中に何度も何度も振り下ろされた。 彼女はもうもがく力すら残されておらず、ただ奥歯を強く噛み締め、口いっぱいに広がる血の味を飲み込むしかなかった。 聡子が手配した「失踪」のタイムリミットが刻一刻と迫る中、音葉はついに一か八かの賭けに出るしかなかった。彼女は、客が投げつけてきた酒瓶に向かって、自らその頭を激しく打ち付けた。 その場で血の海に沈んだ彼女は、すぐさま病院へと運び込まれた。 だが、意識を取り戻し、重い瞼を開けた彼女の目に最初に飛び込んできたのは――あろうことか、晴香の姿だった。 そして、何よりも音葉の目を釘付けにしたのは、彼女がその首に、サファイアのネックレスをかけていたことだった。 音葉は、信じられないものを見たかのように大きく目を見開いた。それは、亡き母が彼女に残した、大切な遺品だった。 第8話 「誰が私の物に触っていいと言ったの!」 音葉は目を真っ赤に血走らせ、それを奪い返そうと手を伸ばしたが、晴香に身軽にかわされてしまった。 「このネックレスのこと?一目見た時から綺麗だなって思ってた。凛太が、私が気に入ったんなら、慰謝料代わりにプレゼントするって言ってくれた」 「あり得ない!」音葉は考える間もなく即座に否定した。 凛太は彼女が両親の遺品をどれほど大切にしているかを知っているはずだ。いくら晴香の代わりに自分を罰しようとしたとしても、こんなことでふざけるはずがない。 晴香はその反応にひどく満足したようで、勝ち誇ったように甲高い笑い声を上げた。 「信じられないなら、直接凛太に聞いてみればいいじゃない。音葉、あなたは私には勝てない。大人しく自分から出ていくことね。そうじゃないと、私が次に何をするか、保証できないわ?」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、病室のドアが押し開けられた。 そこにいた晴香の姿を見た瞬間、凛太の瞳に一瞬の動揺が走ったが、すぐに氷のような冷徹さを取り戻し、低く言い放った。「出て行け」 晴香は躊躇うことなく、音葉を挑発するように一瞥すると、身を翻して出て行った。 だが、音葉には彼女を気にする余裕などなかった。ただ、焼け付くように乾いた声で凛太を問い詰めた。 「凛太、どうして私のネックレスを彼女に渡した?それが亡き母の形見だって、あなたは知っていたはずよ!」 激昂のあまり、満身創痍の体中に激痛が走り、座っていることすらままならない。 しかし、凛太は悪びれる様子もなく笑みを浮かべ、彼女の耳元の髪を愛おしげに弄りながら、なだめるような口調で言った。 「お前がどうしても謝りたくないって言うから、俺が代わりに彼女へ償いをしてやるしかなかったんだ。 お前もこの数日で十分苦痛を味わっただろうし、今回の件はこれでおしまいにしよう。たかがネックレス一つだ。これから先、欲しいならいくらでも買ってやるから。な?」 その声はどこまでも優しく、まるで心から彼女を案じているかのようだった。 しかし、音葉はただ耐え難い吐き気だけを感じた。信じていた男に魂の拠り所を根こそぎ奪われ、胸の奥に冷たい風が吹き抜けるような、形容しがたい虚無感。……本当に、彼が自らの意思であれを手渡したのだ。 この瞬間、彼女は骨の髄まで思い知った。かつての優しい凛太は、もう二度と戻ってこないのだと。 彼女は顔を背けて彼の手を避け、歯を食いしばって言い放った。「お断りよ。あれは私の物。あなたが勝手に他人に渡す権利なんてない」 凛太の顔色が変わった。彼はしばらく彼女を見つめた後、呆れたように失笑を漏らした。 「怒ってるのか?また新しいのを買ってやるって言ってるだろう。お前のお母さんだってきっと……」 言葉を言い終える前に、ドアが勢いよく開け放たれ、凛太の秘書の切羽詰まった声が響いた。 「社長、大変です!望月さんが、屋上から飛び降りようとしています!」 凛太は言葉を飲み込み、即座に病室を飛び出そうとしたが、秘書が恐る恐る言った。「望月さんは……奥様に追い詰められたと……」 凛太の足がピタリと止まった。彼は猛然と振り返り、音葉を睨みつけた。一秒前までの甘い優しさは跡形もなく消え去っていた。 「……さっき、晴香に何を言った?」 どす黒い殺気を孕んだ瞳。だが、彼は音葉の答えを待つ余裕すらなく、「音葉も連れてこい」と吐き捨てるなり、全速力で病院の屋上へと駆け上がっていった。 秘書に引きずられるようにして屋上に連れ出された時、そこはすでに黒山のような野次馬で溢れ返っていた。 目の前の光景をはっきりと見た瞬間、音葉は晴香のあの言葉の意味を理解した。なるほど、これが彼女の「次にすること」だったというわけか。 屋上の縁で、晴香はあのネックレスを固く握りしめ、ボロボロと涙を流していた。 「凛太……音葉が、このネックレスを返さなければ、私を嘉村社長のベッドに送って、なぶり殺しにするって……!でもこれ、凛太がくれたものだから、私、返したくなくて……」 凛太は慌てて彼女を宥めた。「音葉にそんなことできるわけがない!俺がいる、俺がずっとお前を守るから。だから降りてこい、な?頼むから……これ以上、俺を心配させないでくれ」 その光景に、音葉も心臓を縮み上がらせた。だがそれは晴香の身を案じてのことではない。晴香の手から宙に放り出されそうになっている、あのネックレスのためだった。 音葉は無我夢中で前へ飛び出し、晴香を鋭く睨みつけた。 「死にたいなら勝手に死ねばいいわ!でも、そのネックレスは返しなさい!」 だが、その言葉が終わるや否や、晴香はひどく怯えたようにわざとらしく足元をふらつかせた。そして、手の中のネックレスが地上へと真っ逆さまに落ちていった。 硬い地面に叩きつけられ、砕け散る音が音葉の耳に届く。その瞬間、音葉の頭の中で、張り詰めていた理性の糸が弾け飛んだ。 彼女は一秒の躊躇もなく身を翻し、ネックレスを拾いに下へ向かおうとした。しかし、その体は凛太によって力任せに引き留められたのだった。 第9話 「音葉、晴香が飛び降りようとしているのに、まだそんな言葉で煽る気か!お前は、人の命を何だと思っているんだ!」 音葉は振り返り、憎悪を煮えたぎらせた瞳で凛太を睨みつけた。 「……離して!」 その眼差しに、凛太はハッとし、一瞬、心臓が凍りついた。 だが、すぐに晴香の泣き声が彼を現実に引き戻した。 「凛太……あなたが、音葉を怒らせるなって言ったから、私、何もしていないのに……どうしてこんな酷いことされるの? 私はただ、平穏に生きていたいだけなのに。ただ一言、謝ってほしかっただけなのに……。家柄が悪いからって、こんな目に遭わされて当然なの……?」 晴香は言葉を詰まらせ、羞恥と悲憤に耐えかねたように、さらに一歩、屋上の縁へと身を乗り出した。 凛太の脳裏にこの前の出来事が蘇り、一瞬だけ揺らいだ心は再び石のように冷たく硬く閉ざされた。 今にも空へ落ちてしまいそうな晴香の姿に、彼は目を血走らせて叫んだ。 「動くな!音葉に謝らせる。土下座でも何でもさせるから!だから早まるな、頼むから!」 晴香はそこでようやく足を止め、今にも崩れそうな震える声で問うた。「……本当?」 「本当だ!」一秒でも返答が遅れれば彼女が落ちてしまうと恐れ、凛太は間髪を容れずに答えた。 そして彼の行動も早かった。容赦なく、音葉の膝裏を力任せに蹴り飛ばした。 「――ッ!」ただでさえ治りきっていなかった膝を激しく地面に打ち付けられ、音葉はあまりの激痛に声も出せなかった。 必死に立ち上がろうとしたが、凛太に力ずくで押さえつけられた。「音葉、謝れ」 その一言に、彼女の心臓は大きく跳ねた。周囲を取り囲む野次馬たちの蔑みに満ちた視線が、無数の矢となって彼女のプライドを無慈悲に突き刺す。 屈辱が瞬時に全身を駆け巡り、音葉は狂おしいほどの憎しみを瞳に宿して凛太を睨みつけた。 「凛太、私はそんなこと言ってないし、やってない!一体、何度言えばわかる?私があなたの妻だということすら、とっくに忘れてしまったのね!」 愛し合って十年の間、彼女がここまで理性を失い取り乱したことは一度もなかった。 凛太は一瞬ハッとし、音葉を押さえつける手の力がわずかに緩んだ。 だが次の瞬間、野次馬の中から悲鳴が上がった。晴香が片足をさらに外側へと踏み出したのだ。 凛太はすぐさま我に返った。「音葉、これは人の命がかかっているんだぞ!この期に及んで、まだ意地を張る気か!!」 凛太の眼差しは氷のように冷え切り、その言葉には一片の慈悲もない非難が満ちていた。 そして彼は一切の情けを捨て去り、秘書に命じて、音葉を無理やり地面に押さえつけ、頭を擦り付けて土下座で謝罪するよう強要した。 音葉の身体はまだ生傷が癒えておらず、抵抗する力など微塵も残っていなかった。 ただ、血を吐くような凄惨な声で何度も叫び続けることしかできなかった。「凛太、やめて……私にこんなこと、許されるわけがない……」 だが凛太は、彼女へ一瞥をくれることすらなく、ひたすら痛ましそうな顔で晴香を宥め、屋上の内側へ引き戻すことに必死だった。 晴香がようやく安全な場所へ降り立った時、音葉の視界は、額から流れる血と涙ですでに真っ赤に染まっていた。 秘書は役目を終えたとばかりに、彼女をゴミでも捨てるかのようにその場に放り捨てた。周囲の野次馬は、あまりの凄惨さに気味を悪くし、逃げるように彼女を避けていった。 そして凛太は、別の女を愛おしげに腕に抱きかかえたまま、床に伏した彼女の横を無情に素通りしていった。 この瞬間、音葉は凛太という男を心の底から憎んだ。 「凛太……私、一生……あなたのことを許さないから」 その呪いのような言葉に、凛太は一瞬だけ足を止めた。胸の奥を嫌な何かが掠めたが、あまりにも一瞬のことで、その正体を掴む前に消え去ってしまった。 彼はそれ以上気にかけることもなく、秘書に「彼女を病室へ戻しておけ」と命じると、一度も振り返ることなくその場を立ち去った。 秘書が不本意ながら音葉を抱え起こそうとしたが、彼女は弱々しく手を振ってそれを遮った。「……あなたは先に行って。少し、一人にさせて」 秘書は少し躊躇したが、結局は彼女の意思に従ってその場を離れた。 音葉は冷たい地面の上に長い間倒れ伏していたが、やがてゆっくりと身を起こし、屋上の縁へと歩み寄った。 眼下の地面で粉々に砕け散っているネックレスを見下ろしながら、彼女の心もまた、終わりのない底なしの深淵へと真っ逆さまに墜落していった。 彼女はもう、一片の迷いも抱いていなかった。静かにスマートフォンを取り出し、聡子に電話をかけた。 「聡子さん……計画、前倒しにできる?」 電話の向こうで不快そうな舌打ちの音が響いたが、拒絶の言葉は返ってこなかった。 十分後、一台の車が病院の出入り口に静かに停車した。 二十分後――人けのない裏道で、鼓膜を破るような凄まじい爆発音が轟いた。