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三千メートルの断絶と、光の征途
「風哉、もし陽翠が私たちの子供を臍帯血で救うためだけに妊娠させられたって知ったら、怒るかしら?」 篠原碧泉(しのはら あおい)の甘く柔...
Chương (1)
第1章
「風哉、もし陽翠が私たちの子供を臍帯血で救うためだけに妊娠させられたって知ったら、怒るかしら?」
篠原碧泉(しのはら あおい)の甘く柔らかな声がしめやかに流れてくる。その一言一言が、まるで鋭い針となって相沢陽翠(あいざわ ひすい)の鼓膜を突き刺す。
次の瞬間、西園寺風哉(さいおんじ ふうや)の声が響く。一切の揺らぎを感じさせない、あまりに冷徹な響きだった。「彼女に怒る資格はない。当然の義務だ。
あの時、あらゆる手段を使って俺のベッドに潜り込み、無理やり結婚を迫ったのは彼女だ。その腹の子が役に立つなら、むしろ彼女にとって喜ばしいことだろう」
陽翠は冷たい壁に力なくもたれかかった。指先から妊婦健診の報告書が滑り落ち、ひらひらと床へ舞い落ちる。
第1話
「風哉、もし陽翠が私たちの子供を臍帯血で救うためだけに妊娠させられたって知ったら、怒るかしら?」
篠原碧泉(しのはら あおい)の甘く柔らかな声がしめやかに流れてくる。その一言一言が、まるで鋭い針となって相沢陽翠(あいざわ ひすい)の鼓膜を突き刺す。
次の瞬間、西園寺風哉(さいおんじ ふうや)の声が響く。一切の揺らぎを感じさせない、あまりに冷徹な響きだった。「彼女に怒る資格はない。当然の義務だ。
あの時、あらゆる手段を使って俺のベッドに潜り込み、無理やり結婚を迫ったのは彼女だ。その腹の子が役に立つなら、むしろ彼女にとって喜ばしいことだろう」
陽翠は冷たい壁に力なくもたれかかった。指先から妊婦健診の報告書が滑り落ち、ひらひらと床へ舞い落ちる。
その時、無邪気で甘えるような子供の声が響いた。
「パパ、いつおうちに帰るの?パパがこの前買ってくれたケーキ、食べたいな」
風哉の声にようやく感情が宿る。陽翠がこれまでほとんど聞いたことのないような、温かな声だった。「ああ、今すぐ買いに行こうな」
足音がこちらへ向かってくる。
陽翠は身を翻し、逃げるように非常階段へと駆け込んだ。
エレベーターには乗れなかった。彼らと鉢合わせるのが恐ろしかったのだ。
手すりにつかまり、一段ずつ階段を下りていく。足の震えが止まらず、下腹部にチクチクとした引きつるような痛みが走った。
彼と碧泉の間に、息子がいたなんて。
彼があんなふうに聞いたこともない優しい声で話すなんて。
それなのに、結婚して七年、風哉は一度も陽翠の誕生日を一緒に祝ってくれたことはなかった。
一年目、彼女はテーブルいっぱいに手料理を並べ、夜明けまで彼を待った。深夜に帰宅した彼は、リビングの明かりがついているのを見て眉をひそめ、「これからは待つな。仕事が忙しいんだ」とだけ言った。
三年目、三十九度の高熱を出し、彼に電話をかけた。
基地にいた彼は、「医者に診てもらえ」とだけ言って電話を切った。
彼女は一人でタクシーに乗り病院へ向かい、夜更けまで点滴を受けた。
深夜に点滴を外しに来た看護師が、小声で尋ねた。「ご家族は?どうしてお一人なんですか?」
陽翠は力なく笑って、「大丈夫です。一人で平気ですから」と答えた。
時間が経てば、きっと良くなる。彼女はずっとそう思っていた。
彼はただ性格が冷淡なだけで、心の中には私の居場所があるはずだ。そうでなければ、なぜ私と結婚したのだろうか?
そのたびに彼女は自分に言い聞かせた。彼はただ口下手で、愛情表現が苦手なのだと。
結婚という形を選んでくれたことこそが、彼なりの不器用な愛の証明なのだと。
妊娠を告げる、その瞬間までは。
この子が転機となり、七年もの間、二人の間に横たわっていた分厚い氷を溶かしてくれるのだと信じて疑わなかった。
しかし、それは違ったのだ。
碧泉の子供が病気になり、適合する臍帯血が必要になったからだ。
自分はただの器で、お腹の子は道具に過ぎなかったのだ。
彼女は呆然としたまま帰宅した。夜七時、風哉が帰ってきた。
彼はソファに座る陽翠を見て、足を止めた。「今日の健診はどうだった?」
陽翠は顔を上げ、彼の真っ直ぐな背中を見つめた。「風哉」
彼が振り返る。
「離婚しましょう」
数秒間、重い沈黙が流れた。
風哉はコップを置き、彼女の前に歩み寄った。そして彼女を見下ろし、不快そうに眉をひそめる。「また何のわがままだ?」
「わがままなんかじゃない」陽翠は顔を上げて彼を見た。「離婚協議書はもう用意してある。私は何もいらない。ただ、そこにサインをしてほしいの」
「理由は?」
「もう、子供を産むための道具にはなりたくない」彼女は彼の目を真っ直ぐに見つめた。「碧泉の息子を生かすための生け贄にもなりたくない」
風哉の顔色が変わり、体が一瞬こわばった。「……聞いていたのか」
「ええ」陽翠は立ち上がった。こうすれば彼を見上げなくて済む。「あの子があなたをパパと呼ぶのも聞いたわ。私と結婚したのはただの責任だって言ったことも、あなたが本当に愛しているのは……碧泉だけだってことも」
「聞いていたのなら、自分の立場をわきまえろ」
風哉の声が氷のように冷たくなった。「離婚はあり得ない。子供は絶対に産んでもらう。悠和(ゆうわ)に残された時間は、もう一刻の猶予もないんだ」
「もし、私が産まないと言ったら?」
「お前に選択肢はない」
彼は一歩前へ踏み出した。その影が彼女をすっぽりと覆い尽くす。「陽翠、この数年間、お前に不自由ない暮らしと安定を与えてきたのは俺だ。少しは物分かりよくしろ」
物分かりよく……また、その言葉だ。
結婚一年目、彼のために手作りのお弁当を基地まで届け、それを同僚に見られてしまったことがあった。その日の夜、帰宅した彼は冷たく言い放った。「これからはあんな真似はするな。もっと物分かりよくしろ。俺に迷惑をかけるな」
それ以来、彼女はお弁当を届けるのをやめた。
彼女にとって「物分かりが良い」というのは、邪魔をせず、何も求めず、ただ静かに待つことなのだと思っていた。
今になってようやく分かった。彼が求めていた「物分かりの良さ」とは、文句ひとつ言わずに道具になり、一生日の目を見ない飾りのままでいることだったのだ。
「絶対に離婚するわ」彼女はもう一度繰り返した。声が微かに震え始めている。
風哉は長い間彼女をじっと見つめていた。
それはまるで、故障した機械を点検するかのような、苛立ちと、冷酷に観察するような眼差しが入り混じっていた。
やがて、彼は吐き捨てるように言った。「情緒不安定は胎児に障る。もう休め。一晩寝れば、その馬鹿げた考えも変わるだろう」
彼は背を向けて書斎へと歩き、ドアを閉めた。
陽翠はその場に立ち尽くし、カチャリという小さな鍵の音を聞いていた。
分かっている。彼が同意するはずなどない。
彼の目には、これもまた気を引こうとする私の稚拙な小細工にしか映っていないのだろう。
数日間は私を突き放し、私が「聞き分ける」のを待つつもりなのだ。そうして計画通りに私に子供を産ませ、臍帯血を採取し、碧泉の息子を救う。
――なら、私は?
これからも「西園寺の妻」という殻に閉じ込められ、彼ら親子三人が睦まじく笑い合うのを傍らで眺めながら、自分の子供が医療資材の一部として扱われるのを見届けるというのか?
リビングの照明が、惨めなほど白々と冷たく光っていた。
陽翠はゆっくりとした足取りで寝室へ戻り、ナイトテーブルの一番下にある引き出しを開けた。
中には一通の書類が入っている。国家深海研究院からの極秘プロジェクトの異動辞令。期間は三年間。完全閉鎖環境での改修任務であり、勤務地は絶対機密の深海基地。その間、外部との通信は一切絶たれる。
当時、この辞令を受け取った時の最初の反応は「拒否」だった。
妊娠していたし、風哉のそばにいて、この子を無事に産みたかったからだ。
だが今、彼女はその書類を手に取り、表紙の金箔押しのエンブレムを指でそっとなぞった。
そしてスマートフォンを手に取ると、半月もの間保存したまま、一度もかける勇気の出なかったその番号を、ついに呼び出した。
「沢田さん」自分でも驚くほど、その声は静かに澄んでいた。「『群青』プロジェクトの件ですが、参加させていただきます」
第2話
電話を切ると、部屋にはエアコンの低い駆動音が響くばかりだった。
陽翠は手にした辞令を握りしめたまま、ベッドの縁に長いこと座り込んでいた。
彼女は殉職者の遺児だ。十歳の時、父親は風哉の父親をかばって命を落とした。無言の帰宅を果たした父親の亡骸に対し、国は最高儀礼を尽くした葬儀を執り行った。
天涯孤独の身となった彼女を、西園寺家が引き取った。学費から生活費に至るまで、その一切を彼らが担ってくれた。
西園寺家での生活が始まった初日。十五歳の風哉は階段の上から彼女を見下ろしていた。その眼差しはどこまでも冷ややかで、まるで場違いな場所に紛れ込んだ異分子でも眺めているかのようだった。
彼に惹かれ始めたのは、いつからだったか。もうはっきりとは思い出せない。
彼が十八歳で航空学校に入学し、初めて制服姿で帰省した時かもしれない。あの時、肩章が陽の光を浴びて眩しく輝いていた。
あるいは、高校三年の時、授業を終えて雨の中を帰る途中、偶然車で通りかかった彼が窓を下ろし、「乗れ」と声をかけてくれた時だったかもしれない。
そんな、温もりと呼ぶにはあまりに微かな断片を、彼女は大切に拾い集め、ひそかな恋心へと紡いできたのだ。
彼もまた、自分を想ってくれていると信じていた。
二十一歳の誕生日の夜、風哉はひどく泥酔していた。
その日は碧泉が海外へ発つ日で、空港で見送った後、一人書斎に籠もって深酒をしていた。
物音が気になって様子を見に行くと、彼は虚ろな瞳で長いこと陽翠を見つめ、やがて力強く腕の中へ引き寄せた。
「碧泉……」彼は低い声で、切なげに呟いた。
陽翠は全身を強張らせた。
だが、彼は構わず唇を塞ぎ、その手は彼女の服の裾へと入り込んでくる。
突き飛ばしたかった。けれど、相手は風哉だ。何年もの間、ずっと想い続けてきたあの風哉だった。
彼女は目を閉じ、一筋の涙がこめかみへと伝い落ちるのに任せ、最後には抵抗を諦めた。
翌朝目を覚ますと、ベッドシーツの血痕と乱れた彼女の服を目にした風哉の顔は、さっと青ざめた。
「陽翠」彼は彼女の顎をきつく掴み、氷のように冷酷な声で言い放った。「俺を嵌めたな?」
必死に弁解したかった。違う、あなたが人違いをしたのだと伝えたかった。
だが彼は耳を貸すこともなく、扉を乱暴に叩きつけて部屋を出て行ってしまった。
一ヶ月後、彼は彼女と結婚した。
籍を入れた日、彼はただ一言、「責任は取る。だが、それ以上のことは期待するな」と告げた。
それでも陽翠は、「責任」という言葉の裏に、ほんの少しの愛情くらいはあるはずだと信じていた。
今になってようやく分かった。その「ほんの少し」でさえ、彼女の滑稽な自惚れに過ぎなかった。
七年に及ぶ結婚生活で、彼女はずっと透明人間のような存在だった。
風哉の友人、同僚の中で、彼が既婚者であることを知る者は数えるほどしかいない。
どうしても同伴しなければならない公の場でも、彼は「親の友人の娘だ」と誤魔化すか、ひどい時には一切紹介すらしようとしなかった。
「あの子、なんでいつまでも西園寺さんについて回ってるんだ。本当に空気が読めない」影でそんなふうに囁かれているのを、何度も耳にした。
それでも彼女は考え続けてきた。もう少しだけ待てばいい。もう少し彼に尽くせば、いつか必ず私を見てくれる日が来ると。
スマートフォンが短く震えた。
風哉からのメッセージだ。命令のように簡潔な文面だった。【明日の夜七時、栄金ホテル三階で身内の集まりがある。フォーマルな服で来い。絶対に参加しろ】
陽翠はそのメッセージをじっと見つめ、不意に笑みをこぼした。
前触れもなく溢れ出た涙が画面に落ち、「絶対に参加しろ」という文字を滲ませた。
翌日の夜、栄金ホテル三階の貸切ルーム。
陽翠は装飾のないシンプルな黒のワンピースを身にまとい、化粧もせず、髪をゆるくまとめただけの姿だった。
彼女が到着した時、室内はすでに人で埋め尽くされていた。
全員が風哉の友人やその家族だ。大半は顔を見たことがあったが、彼女の名前を覚えている者など数えるほどしかいない。
風哉は上座に腰を下ろし、すぐ隣には碧泉が寄り添うように座っていた。淡いピンクのワンピースを着て、長髪をゆるやかに巻き、非の打ち所のない完璧なメイクを施している。
悠和は風哉の膝の上に座り、小さなフォークでケーキをつついていた。
「陽翠さんが来た」誰かが彼女の存在に気づいた。
一斉に突き刺さる全員の視線。そこには、値踏みするような無遠慮な好奇の光が宿っていた。
陽翠は、数人の女たちが視線を交わし、一斉に冷笑するのを目にした。
第3話
風哉は陽翠をちらりと見上げ、微かに眉をひそめた。「どうして遅れたんだ?」
「道が混んでいたから」陽翠は小声で答え、主賓席から一番遠い隅の空席を見つけて腰を下ろした。
宴会が始まり、室内はにぎやかな熱気に包まれる。
陽翠は一人静かに座り、目の前の料理にはほとんど手をつけていなかった。
風哉が悠和の口元を優しく拭き、碧泉が笑顔で料理を取り分けると、彼がごく自然にそれを受け取る――そんな光景が彼女の目に入ってきた。
「ママ、あのエビが食べたいな」悠和がふと言い出した。
碧泉が箸を伸ばそうとするより早く、風哉の手が動いた。スプーンで一匙掬い、悠和の取り皿へと運ぶ。「ゆっくり食べろ。喉に詰まらせるなよ」
悠和は顔を上げ、屈託のない幼い声で叫んだ。「パパ、ありがとう!」
貸切ルームの空気が、一瞬だけぴたりと静まり返った。
その場にいる全員の視線が、一斉に陽翠へと向けられる。
陽翠は箸を握る手にぐっと力を込め、爪が手のひらに深く食い込んだ。
碧泉が慌てたように悠和の口を塞ぎ、申し訳なさそうに陽翠を見た。「ごめんなさい、子供が何も分からずに勝手なことを言ってしまって……陽翠、気にしないでね」
それから彼女は少し顔を伏せ、慈しむような声音で言葉を継いだ。「この子、小さい頃から父親がそばにいなかったから、ずっと風哉をパパだと思い込んでいて……。
可哀想な子なのよ。今また病気になってしまって、父親の愛情に飢えているの。陽翠は心が広いから、子供の言ったことなんていちいち気になさらないよね?」
その言葉の端々には、妻である陽翠が「物分かりよく」振る舞い、病弱な子供と「哀れな」母親を寛大に受け入れるべきだという無言の圧力が透けて見えた。
陽翠は顔を上げ、風哉を見つめた。
彼は悠和の皿にあるエビの殻を剥くのに気を取られ、顔を上げようともせずにただ短く言い放った。「黙って食べろ」
あまりに淡々としたその言葉は、まるで彼女の頬を思い切り張り飛ばしたかのような衝撃となって響いた。
「そうだよ、陽翠さん」そばにいた風哉の友人が、へらへらと笑いながら口を挟んだ。「相手は子供なんだ、そう呼ばれたからって減るもんじゃなし。まさか、本気で子供相手にムキになるつもりじゃないでしょう?」
「全くだ。西園寺さんも人がいいよな、身寄りのない母子の面倒まで見てやって」
「中には、心が狭くて他人が優しくされるのを妬む人間もいるからなあ」
針のように鋭いひそひそ話が、そこかしこから彼女の耳に突き刺さってくる。
陽翠は箸を置き、立ち上がった。
「化粧室に行ってくるわ」
風哉はようやく彼女に目を向けた。その眼差しには、明らかな不快感が滲んでいた。「座れ。まだ食事の途中だろうが」
「少し、気分が悪いの」
「どこが悪いんだ?」彼の口調はさらに冷ややかになった。「さっきまで何ともなかっただろう」
陽翠はその場に立ち尽くした。全員の視線がスポットライトのように彼女を照らし出し、まるで晒し者にされているかのような屈辱が彼女を襲う。逃げ場など、どこにもなかった。
碧泉の口元に微かに浮かんだ嘲りの笑み。そして、風哉の腕の中に隠れながらこちらに向かってあっかんべーをする悠和の姿が、はっきりと目に入った。
「風哉、陽翠をそんなにきつく叱らないであげて」碧泉が優しくとりなした。「本当に具合が悪いのかもしれない。なにしろ妊娠中なんだもの。行かせてあげて」
風哉は陽翠を数秒ほど睨みつけると、面倒そうに手を振った。「早く戻ってこい」
陽翠は身を翻し、貸切ルームを出た。
廊下に敷き詰められた重厚な絨毯が、彼女の足音を一つ残らず飲み込んでいく。
化粧室へ入り、蛇口をひねる。水は氷のように冷たいはずなのに、今の彼女にはその冷たささえ感じられなかった。
先ほどの貸切ルームで、風哉が碧泉と悠和を庇っていた光景が脳裏に蘇る。あんなにも自然で、あんなにも当たり前のように。
それに比べて、自分はどうだろう。幸福な一家の団欒に不当に紛れ込んだ部外者であり、目障りな不純物でしかなかったのだ。
不意に、言いようのない疲労感が押し寄せた。
七年――。いつか、彼の凍てついた頑なな心が解ける日が来ると信じて、今日まで待ち続けてきた。
けれど、今ならわかる。その雪解けの季節は、決して彼女に用意されていたものではなかった。
彼の優しさも、忍耐も、包容力も。そのすべては、別の女に捧げられていた。
彼女はただの余り物で、最初から存在してはならない「過ち」に過ぎなかったのだ。
陽翠は化粧室に二十分ほど留まった後、貸切ルームには戻らず、そのまま真っ直ぐホテルを後にした。
夜風は肌を刺すほどに冷たい。
タクシーを拾い、行き先を告げると、彼女は車窓にもたれかかって静かに目を閉じた。
スマートフォンが震えた。風哉からのメッセージだった。【どこにいる?】
陽翠はそのメッセージを長いこと見つめ、やがて画面の明かりを消した。
返事はしなかった。
第4話
翌日は週末だった。陽翠は、お腹に宿る子供のために何か買い物をしようと、ショッピングモールへ足を運んだ。
――本当は、なぜそんな気になったのか、自分でもよく分からなかった。
だが、ベビー用品店の前を通りかかった時、まるで何かに引き寄せられるように、ふらふらと足を踏み入れてしまった。
店内は温かなオレンジ色の照明に包まれ、棚には小さな産着や哺乳瓶、可愛らしいおもちゃが所狭しと並んでいる。
彼女は淡い水色のロンパースを手に取った。雲のようにふんわりと柔らかい手触りだった。
すべてが順調にいけば、この子は来年の春に生まれてくるはずだ。
陽翠はその小さな服をそっと撫で、そして、静かに棚へ戻した。
「……陽翠?」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、少し離れたところに碧泉が、悠和の手を引いて立っていた。
悠和は手にしたミニカーを弄びながら、退屈そうに碧泉の手を振り払おうとしている。
「奇遇ね」碧泉は歩み寄り、しとやかな微笑みを浮かべた。「あなたも買い物?お腹の赤ちゃんの準備かしら」
陽翠は無言だった。
「風哉は一緒じゃないの?」碧泉はわざとらしく辺りを見回す。
「無理もないわ、彼、最近とても忙しいから。悠和の容態がまた少し悪くなってしまって、毎日病院に付き添ってくれている」
彼女は小さくため息をついた。「この子、本当に不憫で……物心ついた時から父親がいない上に、こんな病気まで患ってしまって。でも、風哉が親身になってくれて本当に救われている」
彼女はしゃがみ込み、悠和の襟元を整えながら、陽翠にもはっきりと聞こえるような声で言った。
「悠和、いい子にしていましょうね。陽翠さんのお腹の赤ちゃんが生まれて、臍帯血を採取できれば、あなたの病気もきっと良くなるから。そうしたら、他のお友達と同じように幼稚園に行けるのよ。嬉しいわよね?」
悠和は陽翠を見上げ、子供特有の無邪気な、それでいて棘を含んだ視線を向けた。「じゃあ、どうして陽翠さんは、早く赤ちゃんを出してくれないの?」
碧泉は彼の頭を優しく撫でた。「赤ちゃんはお腹の中でゆっくり育つものなの。陽翠さんも大変な思いをしてくれているんだから、ちゃんと感謝しなきゃ駄目よ。分かった?」
いかにも優しく思いやりに満ちた言葉のようだが、その一言一言が、陽翠の心を生きたまま削ぎ落とすような激痛をもたらした。
陽翠は身を翻し、足早に立ち去ろうとした。
「陽翠」碧泉が背後から呼び止めた。「気を悪くしないでほしいのだけれど、はっきり言わせてもらう。悠和の病状は、もう一刻の猶予もない。お医者様は、三ヶ月以内に移植手術をするのが最善だと言っている。
……だから、予定より早く、その子を産んでくれないかしら?もちろん、あなたの体に負担がかかるのは分かっている。でも、悠和はまだ四歳なのよ。この子の人生は、まだ始まったばかりなのに……」
「……もうやめて」陽翠は彼女の言葉を遮った。その声は微かに震えていた。「私の子は、誰かを救うための道具じゃない」
碧泉の目尻がみるみる赤く染まった。
「分かってる、こんなの自分勝手だって分かってるわ。でも陽翠、あなたも母親なら、私の気持ちが理解できるでしょう?もし自分の子が病気になったら、どんな手段を使ってでも助けたいと思うはずよ。……そうでしょう?」
充血した彼女の瞳を見つめていると、陽翠は不意に激しい吐き気を催した。
これ以上一秒たりとも同じ空気を吸っていたくなくて、彼女は踵を返し、足早に店を後にした。
だが、店を出た直後、背後からつんざくような悲鳴が上がった。
「通り魔だ!刃物を持った男がいるぞ!」
街路は一瞬にしてパニックに陥った。
病院の検査着のようなものを羽織った中年男が、血走った目を剥き出しにし、口元で何事かをぶつぶつと呟きながら、果物ナイフを振り回していた。
通行人たちが恐怖に駆られ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
陽翠は恐怖でその場に凍りついた。
すると男は、店から出てきたばかりの碧泉と悠和に目を留め、猛然と襲いかかった。
「ママ!」悠和が怯えて泣き叫ぶ。
碧泉は悠和を背後に庇い、血の気を失った顔で叫んだ。「来ないで!こっちへ来ないで!」
男がナイフを振り上げた、その瞬間――。
「やめろ!」
陽翠の耳に、風哉の声が届いた。
振り向くと、通りを挟んだ向こう側から、彼が一陣の風のような猛スピードで駆けつけてくるのが見えた。
彼は碧泉と悠和を庇うように押し退けると、男の腕を逆手に取り、無駄のない鮮やかな身のこなしでナイフを奪い取った。
地面に押さえつけられた狂人は、なおも獣のような唸り声を上げて暴れ狂っている。
風哉が振り返り、碧泉を見た。「……怪我はないか?」
碧泉は彼の胸に飛び込み、ぽろぽろと涙をこぼして泣き崩れた。「風哉……私、怖かった……悠和が殺されかけて……」
「もう大丈夫だ」風哉は彼女の背中を優しく叩いた。その声は、七年間の結婚生活で陽翠が一度として向けられたことのない、甘く、慈しむような響きを帯びていた。
陽翠はその場に立ち尽くし、ただその光景を見つめていた。
風哉は最初から最後まで、彼女に一瞥もくれなかった。
妻である彼女がすぐそばにいることすら、まったく気づいていない。
遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。
駆けつけた警察官たちが狂人の身柄を引き受けると、周囲には野次馬がどっと集まり始めた。
風哉は碧泉の肩を抱き、悠和と手を繋いで、その場を離れようとした。
突然、地面に押さえつけられていたはずの狂人が警察の制圧を振りほどき、落ちていたナイフを拾い上げて、一番近くにいた陽翠めがけて狂ったように突進してきた。
「危ない!」誰かが悲鳴を上げた。
かわす暇などなく、陽翠は無意識に自分のお腹を庇った。
その瞬間、何者かの手が、彼女の体を乱暴に突き飛ばした。
大きくよろめいた陽翠は、そのまま地面へと叩きつけられる。
背中が路傍の鉄柵に強く当たり、下腹部に焼けるような鋭い激痛が走った。
彼女を突き飛ばしたのは、風哉だった。
彼は間一髪のところで陽翠を突き飛ばすと、そのまま身を翻して碧泉と悠和に覆い被さり、自分の背中を盾にして二人をナイフから守り抜いた。
ナイフが彼を貫くことはなく、すんでのところで警察官が再び男を組み伏せた。
だが、突き飛ばされた陽翠は、あまりにも無残に打ち付けられていた。
冷たい地面に横たわる彼女の体の下から、生温かい液体が止めどなく流れ出し、スカートを濡らしていく。
視線を落とすと、淡い色のスカートの裾に、どす黒い赤色の血の染みが、まるで一輪の毒花のようにみるみる広がっていくのが見えた。
「……陽翠?」風哉の声が、ひどく上ずっていた。
彼女は何か言おうとしたが、声が出ない。
視界が急激にぼやけ始め、耳の奥で激しい耳鳴りがする。
最後に網膜に焼き付いたのは、血相を変えてこちらへ駆け寄ってくる風哉の姿と悠和を抱きしめた碧泉の瞳の奥に、ほんの一瞬だけよぎった、ある感情だった。
あれは、何だったのか。
深く考える間もなく、底知れぬ闇が、彼女を呑み込んでいった。
第5話
目を覚ますと、視界には病室の白さが広がっていた。
下腹部はひどく虚ろで、そこに宿っていたはずの、ささやかな命の鼓動は完全に消え失せていた。
そっと手を伸ばして自分のお腹に触れてみる。平坦で、ひどく冷たかった。
ドアが開き、風哉が姿を現した。彼はベッドの傍らに立ち、複雑な眼差しで陽翠を見下ろしている。
「……子供は、駄目だった」彼が短く告げた。
目尻から一筋の涙が溢れ出し、枕にじわりと吸い込まれていく。
声を上げることもなく、陽翠はただ静かに涙を流し続けた。
まだ形さえ成していなかった我が子も、あの淡い水色のロンパースを着せる未来も、すべて失われてしまった。
風哉は数秒の沈黙の後、口を開いた。「ひどい出血だった。ここに運ばれた時には、もう手遅れで……あの時、どうして避けなかったんだ?」
陽翠はゆっくりと首を巡らせ、彼を見つめ返した。
「……あなたが、私を突き飛ばしたんじゃない」その声はひどく掠れ、乾ききっていた。
風哉は眉間に深い皺を刻んだ。「俺は、お前を助けようとしたんだ」
そして、彼の声には抑えきれない怒りが滲み出し始めた。「医者の話では、お前は倒れるとき、背中が地面に着いたそうだな」
陽翠は目を見開いて彼を直視した。「……どういう意味?」
「碧泉が言っていた。お前が後ろへ倒れ込んだ時、本当なら踏みとどまることができたはずなのに、お前は故意に……」
風哉はそこで言葉を切り、深く息を吸い込んだ。「悠和は、今も臍帯血を待っているんだ。あの子の病状がどれほど深刻か、お前は分かっているのか?」
病室は、ぞっとするほどの静寂に包まれた。
陽翠はゆっくりと上体を起こし、ベッドの背もたれに身を預けた。
彼女は目の前の風哉を見つめた。十数年もの間、ただひたすらに愛し続けてきた男。そして、自分自身の夫。
「私が、わざとやったと……そう言いたいのね」陽翠は静かに呟いた。
「そこまでは言っていない」
「でも、そう思っているんでしょう」
陽翠はふっと笑みをこぼした。だが、皮肉にもその瞬間に涙はさらに堰を切って溢れ出した。
「風哉……あれは、私の子なのよ。私のお腹の子供が死んだというのに、あなたが真っ先に口にしたのは、私がわざと転んだという疑いだなんて……」
風哉は視線を逸らした。「俺はただ、事実を口にしただけだ」
「事実って、何よ」陽翠の声が激しく震え出す。
「事実はあなたが碧泉と悠和を助けようと飛び出してきて、私を突き飛ばしたことよ!私は冷たい地面に叩きつけられて、血まみれになっていたのに、あなたは最後まで私を見向きもしなかった。
そして今の事実は……私の子供が死んで、あろうことかあなたが、私が故意に殺したのかと冷酷に問いただしていることよ!」
「……もういい、やめろ」
風哉は苛立たしげに彼女の言葉を遮った。「起きてしまったことは、今さらどうしようもない。これ以上喚いたところで何の意味もないんだ。今日はゆっくり休め。また後で様子を見に来る」
ドアが静かに閉まり、再び病室には重苦しい静寂が落ちた。
陽翠は背もたれに寄りかかったまま、窓の外の鉛色に沈んだ空をただぼんやりと見つめていた。
下腹部からは、波打つような鈍い痛みが絶え間なく伝わってくる。だが、心をズタズタに引き裂かれるようなこの絶望的な痛みに比べれば、些細なものだった。
先ほどの風哉の眼差しが脳裏をよぎる。
そこにあったのは、疑念。失望。そして、身勝手な怒り。
ただの一つとして、そこには「罪悪感」の欠片さえ存在していなかった。
午後、看護師が点滴を交換して部屋を出て行った直後、不意にドアが押し開けられた。
悠和が隙間からこそこそと顔を覗かせ、病室に潜り込んできた。その手には、正体不明の小さなボトルが握られている。
「……どうしてここにいるの?」陽翠は上体を起こした。
「ママは下でお金払ってるから、僕一人で来た」
悠和は小首を傾げて彼女を見つめた。その瞳には、無邪気で残酷な悪意がちらついていた。「陽翠さんが、僕を助けてくれない悪い人なんでしょ?」
陽翠は言葉を失った。
「ママが言ってたよ。陽翠さんのお腹の赤ちゃんが僕の病気を治してくれるはずだったのに、わざと転んで、赤ちゃんを殺しちゃったんだって」
悠和はじりじりとベッドに近づいてきた。「どうして僕を助けてくれない?僕のこと、嫌いなの?」
「そんなこと――」
「絶対そうだよ!」悠和は突然、手にしていたボトルを振り上げると、蓋をひねって開け、陽翠の点滴筒めがけて中身をぶちまけた。
得体の知れない液体が点滴筒の周囲に飛び散り、ポタポタと落ちる薬液の中に混入していく。
危険を察知した陽翠は、咄嗟に手の甲に刺さっていた点滴の針を乱暴に引き抜いた。瞬時に血が流れ出す。
「何をするのっ!」
悠和はその剣幕にビクッと身をすくませたが、それでも生意気な口答えをした。「お薬にオマケしてあげたんだよ!陽翠さんも病気になっちゃえ!」
陽翠は血の滲む手の甲を押さえながら、点滴筒の中に目を落とした。そこにあるはずの透明な薬液は、すでに不気味な濁りを帯びていた。
彼女は血相を変えてナースコールを連打した。
ナースステーションから駆けつけた看護師は、床に転がるボトルと濁りきった薬液を見るなり、顔から血の気を引かせた。「これは……一体何を入れたんですか?」
「分からない……」陽翠も蒼白な顔で答えた。「この子が、突然ぶちまけて……」
看護師は慌てて点滴のルートと薬液をすべて取り外し、陽翠の身体に異常がないかを確認した。「気分が悪いところは?息苦しさはありませんか?」
陽翠は首を横に振った。
その騒ぎの最中、風哉と碧泉が血相を変えて病室に駆け込んできた。
「悠和!」碧泉は悠和をきつく抱きしめた。「どうしてこんなところにいる?ママ、あちこち探し回ったのよ!」
悠和は陽翠を指差し、泣きそうな顔を作った。「陽翠さんが僕を怒鳴ったんだ!ひどいよ!」
風哉は床に転がる開いたボトルに目をやり、それから陽翠の手の甲に滲む血と、すっかり取り外された点滴の器具を交互に見て言った。「……何があった?」
「あの子が、私の点滴に得体の知れないものを混入させたのよ」陽翠は、恐ろしいほど静かな声で答えた。
碧泉はさっと顔色を変え、悠和を覗き込んだ。「あなた、何を入れた?」
「……僕の、ジュース……」悠和がモゴモゴと小声で弁明する。
看護師が床のボトルを拾い上げ、匂いを嗅いだ。「……フルーツジュースのようです。ですが、何であれ患者の点滴に異物を混入させるなんて、一歩間違えば命に関わる非常に危険な行為です」
碧泉はみるみるうちに目を赤くし、悠和を抱き抱えたまま陽翠に向かって深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい!悠和に悪気はなかった、ただの子供の悪戯で……!陽翠、体調に異常はない?大丈夫?」
風哉もベッドへ歩み寄り、陽翠の手の甲をちらりと見て言った。「……大丈夫か?」
「……ええ」陽翠は短く返した。
風哉は悠和に振り返り、父親のように厳格な口調で言った。「悠和。二度とこんないたずらをしてはいけない。分かったな?」
悠和は不満げに唇を尖らせた。「だって、陽翠さんが僕を助けてくれないから……」
「悠和!」碧泉は慌てて悠和の口を塞ぎ、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。「もう言わないで……!ママが悪い、ママのしつけがなっていなかったせいで……」
彼女が縋り付くように泣き崩れるのを見て、風哉の厳しかった表情が途端に柔らかく緩んだ。
「……もういい」彼は陽翠に向き直り、突き放すように言った。「まだ分別もない子供のやったことだ。お前に怪我がなかったのなら、それでいいじゃないか」
陽翠は彼の顔を見つめ、不意に、すべてがひどく滑稽に思えてきた。
「ねえ、風哉」彼女はゆっくりと唇を動かした。「もし今日、このベッドで点滴に異物を混入されたのが碧泉だったとしても……あなたは、同じ言葉を口にするの?」
風哉の顔が途端に険しく沈み込んだ。
「お前は、自分の腹を痛めた子供でさえ、平気で見殺しにできるような女だろう」彼は陽翠の目を冷酷に射抜いた。
「そのくせ、他人の子供のちょっとした悪戯にそうやって目くじらを立てるのか。陽翠……お前には、母親としての情愛や、思いやりの欠片すら残っていないのか?」
陽翠は、もう何も言い返さなかった。
彼女はただ彼を見つめていた。その瞳は、すべての感情が削ぎ落とされた、底の知れない暗い淵のように、不気味なほど静まり返っていた。
風哉はその異様な静けさに居心地の悪さを覚えたのか、ふいっと視線を逸らした。「……頭を冷やして休んでいろ。看護師を呼んで、針を刺し直させる」
彼は悠和を抱き上げると、背を向けて病室を出て行こうとした。
ドアが閉まる間際、悠和が風哉の肩越しに振り返り、陽翠に向かって勝ち誇ったように「あっかんべー」と舌を出した。
パタン、と無情にドアが閉まる。
陽翠は視線を落とし、手の甲からじわりと滲み出した血が、小さな赤い花が綻ぶように広がっていくのをぼんやりと見つめていた。
戻ってきた看護師が再び針を刺しながら、気の毒そうに吐息をついた。「……旦那様、あんまりじゃありませんか。あの子、点滴に異物を入れるなんて……一歩間違えれば命に関わるかもしれないのに、あんなふうに事も無げに済ませてしまうなんて」
陽翠は沈黙したままだった。
看護師はやりきれない様子で首を振ると、処置を終えて静かに病室を後にした。
病室には、再び彼女ひとりだけが取り残された。
第6話
退院の日、風哉は迎えに来なかった。
看護師の話によると、朝方に彼から「緊急の任務が入ったから、自分でタクシーを拾って帰るように」と電話があったのだという。
陽翠はただ静かに頷き、荷物の入った袋を提げて病室を後にした。
病院の廊下を歩いていると、スマートフォンが震えた。着信画面には、深海研究院の沢田翔吾(さわだ しょうご)の名前が表示されている。
「相沢さん、異動の決裁が下りたよ。来週の月曜日に着任だ。指定の場所へ迎えを寄越す。それまでの間、この件は家族を含め、誰にも他言無用だ」
「承知いたしました」陽翠は答えた。
「できるだけ早くコンディションを整えておいてくれ。今回の任務は極めて重要だからね」翔吾は少し間を置いてから、尋ねた。「家庭の方は……片付いたかね?」
「ええ、もうすぐです」陽翠は窓の外に目を向けた。「今日中には、すべて終わらせます」
通話を切り、歩みを進める。
エレベーターで一階へ下りると、ロビーでは多くの人で行き交っていた。人波をすり抜け、正面玄関へと向かう。
「相沢陽翠さんですね?」
黒いスーツ姿の男二人が、突如として彼女の行く手を遮った。
彼らは身分証明書を提示した。「国家安全局の者です。少々事情をお伺いしたいことがございます。同行願えますか」
陽翠は呆然と立ち尽くした。「……何のことですか?」
「国家機密の漏洩に関わる容疑です。詳細は場所を改めてからご説明します」男の一人が事務的な声で言った。「どうか、ご協力を」
周囲の視線がすでに集まり始めている。
陽翠は深く息を吸い込んだ。「……分かりました」
彼女は黒いセダンに乗せられた。車は病院を出て、市街地へと走り出した。
取調室は殺風景で、机が一つと椅子が二脚あるだけだった。
陽翠が片方に座り、向かいには鋭い眼光を湛えた中年男が座っている。
「昨日の午後三時、研究院が極秘裏に開発していた『新型原子力潜水艦の吸音タイル技術』に関する機密ファイルが、海外のサーバーへ不正にアップロードされた。我々が通信経路を追跡した結果、発信元のIPアドレスはあなたの自宅のものと一致したんだ」
陽翠の心臓が冷たく沈み込んだ。「そんなはずありません。私は昨日、一日中病院にいました。家には誰もいなかったはずです」
「しかし、我々はあなたの自宅の書斎から、このファイルの現物を押収したんだ」
男は数枚の写真を机の上に滑らせた。「あなたの机の引き出しに入っていました。これについて、どう説明しますか?」
写真には、確かに「極秘」と印字されたファイルが写っている。だが、彼女はそんなもの一度も見たことがなかった。
「私のものではありません」陽翠はきっぱりと言った。「私はそのファイルに触れたことすらありません」
「ファイルからは、あなたの指紋が検出されています」
「誰かが……私を罠にはめたんです」
男は彼女の目を真っ直ぐに見据えた。「誰が、あなたを陥れると言うんですか?」
陽翠は口を開きかけたが、言葉が出なかった。
誰が自分を陥れる?
誰が自宅の住所を知り、書斎のレイアウトを把握し、昨日自分が不在であることを知っていたというのか?
一つの名前が、脳裏に浮かび上がった。
――碧泉。
昨日の午後、風哉は基地へ行くと言い、碧泉は悠和を連れて見舞いに来ると言っていた。
だが病院に着いた途端、碧泉は「悠和がぐずったから病室には上がらない。一階で少し休んでから帰る」と連絡してきた。
もし、彼女が端から病院に来ていなかったとしたら?
もし、その隙を突いて家に入り込んでいたとしたら……。
「風哉を呼んでください」陽翠は言った。
男は傍らの捜査員と視線を交わした。「西園寺さんなら、すでに向かっています」
三十分後、取調室のドアが開いた。
風哉が姿を現した。
「風哉、あのファイルは私じゃ……!」
「分かってる」風哉がその言葉を遮った。
陽翠はハッと息を呑んだ。
「お前じゃないことは分かってる」風哉は彼女の向かいに腰を下ろし、机の上で両手を組んだ。
「碧泉だ。彼女が昨日、俺たちの家に忘れ物を取りに行った時、不注意で自分の資料の中にそのファイルを紛れ込ませて、持ち帰ってしまったんだ。
そして悠和がパソコンで遊んでいた時、誤って何かのリンクを開いてしまい、ファイルが外部に送信されたらしい」
彼の口調は恐ろしいほど平坦で、まるでごくありふれた日常の出来事を語るかのようだった。
陽翠は彼を見据えた。「……それで?」
第7話
「だから、これは単なる事故なんだ」風哉は言った。「碧泉もすでに自分の過ちを認めているし、ひどく怯えきっている。
だが問題は、海外のサーバーにあのファイルが実在し、通信記録が俺たちの家のネットワークを指し示しているという動かぬ事実だ。当局は、責任を負う誰かを必要としている」
「……だから、私に彼女のスケープゴートになれと?」
陽翠は、吐き気すら覚えるほどの荒唐無稽さに眩暈がした。
「スケープゴートじゃない」風哉がすかさず訂正する。
「責任を負う、と言っているんだ。碧泉は国が全力を挙げて育成している極めて優秀な研究員で、彼女の関わるプロジェクトは今、最も肝心な局面を迎えている。もし彼女がこの件で失脚すれば、それは国家の利益を大きく損なうことと同義なんだ」
「つまりあなたの言いたいことは……私が機密を漏洩したと自白して、碧泉を守り、ひいては国益を守れ、そういうことね?」
「それが最適解だ」風哉は彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「安心しろ、俺が裏から手を回しておく。決して重い刑にはさせない。長くても……三年だ。三年経ってお前が出てきたら、必ず埋め合わせはする」
「埋め合わせ?」陽翠はひどく静かな声で問い返した。「どうやって?」
「お前の望む条件を、何でも一つ叶えよう」風哉は言った。「……離婚でもいい。お前が今回素直に協力するなら、離婚してやる。お前は自由の身だ」
自由。
――ああ、彼から見ればこの七年間の結婚生活は、ただの「牢獄」でしかなかったのだ。
陽翠は背もたれに体を預け、目を閉じた。
長い沈黙の果てに、彼女の唇からこぼれ落ちた声は、さざ波一つ立たないほどに凪いでいた。
「……分かった」
裁判は瞬く間に結審した。
国家機密漏洩罪。情状は重く、本来なら懲役七年。
しかし、罪を素直に認めた反省の態度が考慮され、懲役三年に減刑された。
風哉は約束通り、確かに裏で手を回していた。
彼女に与えられたのは、雑居房ではない単独室。管理体制も比較的緩やかで、数冊の書籍の持ち込みさえ特別に許可される。
刑務所へ移送される直前、彼が面会に訪れた。
分厚いアクリルガラス越しに受話器を取り、彼が口を開く。「陽翠。……三年なんて、あっという間だ。お前が出てきたら、俺たちは……」
「離婚協議書は、持ってきたの?」陽翠がその言葉を遮った。
風哉は一瞬、言葉を詰まらせた。「……持ってきた。だが陽翠、離婚はあくまで一時的な処置だ。お前が出てくれば、また籍を入れ直せる。俺が保証する……」
「保証なんていらない」陽翠は淡々と言い放った。「さっさと署名して」
風哉はまじまじと彼女を見つめた。
ガラスの向こう側に座る陽翠は、囚人服に身を包み、長く美しかった髪も無残に切り揃えられ、顔色は透けるように蒼白だった。だが、その眼差しだけは気味が悪いほどに、凪いでいた。
そのあまりの静けさに、風哉の胸の奥で言いようのないざわめきが広がった。
ふと、十数年前の記憶が脳裏を掠めた。彼女が初めて西園寺家に引き取られてきた日のことだ。
ひどく痩せっぽちで小柄な少女は、彼の父親の背中に隠れるようにして、おどおどと「風哉お兄ちゃん」と彼を呼んだ。
あの頃、彼女の瞳はキラキラと輝いており、彼を見上げるその視線には、確かな光が宿っていた。
その光は、一体いつ失われてしまったのだろうか。
彼には分からなかった。
「陽翠」彼は彼女の名を呼んだ。「この三年間、どうか体を大事にしてくれ。刑務所の中であっても、お前に惨めな思いはさせないよう、俺がすべて手配しておくから」
「風哉」陽翠はただ一言だけを発した。「……協議書を」
風哉は重苦しい沈黙の末、持参したポケットファイルから離婚協議書を取り出し、無言で署名した。
看守を介して、その協議書が陽翠の手元へと渡る。
彼女は記載内容にざっと目を通した。そこには【夫はすべての財産分与の権利を放棄し、夫婦名義の全資産を妻に譲渡する】と明記されていた。
彼女は迷うことなくペンを取り、署名欄に自らの名前を記した。
一画、一画、淀みのない、いっそ残酷なほどに整った筆致だった。
「……他に用は?」彼女が尋ねる。
「いや……もう、ない」
「なら、戻るわ」
陽翠は未練のかけらもなく受話器を置き、すっと立ち上がった。
二度と風哉を一瞥することすらなく、看守の後に続いてきびきびと踵を返した。
風哉は椅子に座ったまま、彼女の背中が重い鉄扉の向こう側へと完全に消えていくのを、ただ黙って見送っていた。
胸の奥のどこかが、唐突にぽっかりと削り取られたような喪失感が襲う。
彼はかぶりを振り、その不快な感情を強引に押し殺した。
たかが、三年だ。
三年経てば、彼女にありったけの埋め合わせをしてやる。
これからは少しだけ彼女に優しくして、本物の夫婦のようにやり直せばいい。
それから、一週間後。刑務所からの急報が、風哉の元に舞い込んだ。
陽翠が刑務作業中に突然の心臓発作に見舞われ、そのまま倒れた。急いで救命措置が取られたものの、その甲斐なく、彼女はそのまま息を引き取った。