死後、クズ息子をクズ夫の初恋相手に譲り渡した

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死後、クズ息子をクズ夫の初恋相手に譲り渡した

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大物俳優である夫、深津蒼介(ふかつ そうすけ)が、息子を連れて親子バラエティ番組に出演した。 その途中で、息子が思いがけず迷子になり、...

Chương (1)

第1章

大物俳優である夫、深津蒼介(ふかつ そうすけ)が、息子を連れて親子バラエティ番組に出演した。 その途中で、息子が思いがけず迷子になり、人気トップ女優が彼を背負って森を出てくる場面が、感動の名シーンとなった。 病院では、三人が、まるで本当の家族のように和やかだった。 記者が息子に尋ねた。 「お母さんも現場にいたと聞きましたが、姿が見えませんでしたね?」 息子は小さな顔を上げ、無邪気に答えた。 「ママは僕のことが嫌いなんだ。きっと先に帰っちゃったんだよ」 夫は眉をひそめ、私にメッセージを送った。 【子供がこんな目に遭ったというのに、他の男と浮気か?いい度胸だ、二度と俺の前に現れるな】 彼が知る由もなかったのは、息子が落ちたその穴の中に、私の死体も残されていたということだ。 第1話 人気俳優の夫、深津蒼介(ふかつ そうすけ)が、息子の深津光(ふかつ ひかる)を連れて親子バラエティ番組に出演した。 その途中で、光が山中の落とし穴に落ち、意識を失った。 最後の力を振り絞って息子を外へ押し出したのは私、早乙女花音(さおとめ かのん)だった。 なのに、人気トップ女優の白石紗耶(しらいし さや)が彼を背負って森を出てくる場面が、感動の名シーンとして切り取られた。 病院では、夫と息子と紗耶の三人が、まるで本当の家族のように和やかだった。 記者が光に尋ねた。 「光くん、お母さんも現場にいたと聞きましたが、姿が見えませんでしたね?」 光は小さな顔を上げ、無邪気に答えた。 「ママは僕のことが嫌いなんだ。かっこいいおじさんと行っちゃったよ」 蒼介は眉をひそめ、私にメッセージを送った。 【子供がこんな目に遭ったというのに、他の男と浮気か?いい度胸だ、二度と俺の前に現れるな】 でも、彼が私を見つけた時、血に染まった私の遺体を抱いて、泣き崩れていた。 …… 病室は、皮肉なほど穏やかだった。 紗耶が優しく息子の光の背中をさすり、果物をひと口食べさせた。 傍らに座っている蒼介は、スマホの画面を見つめていた。 その端正で洗練された顔立ちからは、感情が一切読み取れない。 記者は気を利かせ、質問を終えると早々に退室していった。 紗耶は蒼介にちらりと目を向け、宥めるように口を開いた。 「蒼介さん、あまり心配しすぎないで。花音さんもきっと忙しいだけよ。手が空いたら光くんに会いに来るはずだわ」 蒼介はスマホを脇に置いた。 その無造作な所作さえも絵になる。 「別に心配なんかしてない。むしろ来ない方がいい——」 そこで光がすかさず口を挟んだ。 「そうだよ、ママなんか来ない方がいいもん。恥ずかしいし、僕はさやさんと一緒がいい」 恥ずかしい。 私の魂はかすかに震えた。 病床に横たわる光を、じっと見つめた。小さな頭には包帯がぐるりと巻かれていた。 この子は、私が十月十日お腹に宿し、命がけで産んだ子なのに…… 紗耶は目を細めたが、すぐに柔らかな声で宥めた。 「光くん、ママがお見舞いに来なくても、そんな言い方しちゃダメよ」 蒼介だけが静かに目を伏せ、長い沈黙の末、結局何も口にしなかった。 私の魂は宙に漂い、静かにこの光景を見下ろしていた。 夫、息子、そして、別の女。 なんて幸せそうな家族なんだろう。 もし私がここに現れたら、それこそひどく場違いな存在になる。 …… 蒼介と最後に顔を合わせたのは、光が行方不明になる前だった。 私たちは大喧嘩をした。 いや、私が一方的にヒステリーを起こしただけだ。 親子番組の収録中、内情を知っている知り合いの若手女優に、「なんで来ないの」と聞かれた。 私が知っていたのは、蒼介が光を連れて番組に出ると言っていたことだけ。 光は子役として活動していたから、番組出演自体は珍しくない。 でも、それが親子番組で、しかもレギュラーだなんて、思いもしなかった。 それを聞いて、慌てて現場へ駆けつけると、「スペシャルゲスト」として登場する紗耶が、蒼介と光と並んで、和やかに食事をしている光景があった。 潔癖症で知られる蒼介が、紗耶に料理を箸先で差し出された瞬間、ほんの一瞬だけ動きを止めた。 彼は絶対断ると思っていた。 かつて私が同じように彼に料理を取り分けたことがあるから、あの時は、茶碗の中身を、そのままゴミ箱に捨てられた。 「余計なことはするな」と彼は冷たく言い放った。 なのに。 蒼介は数秒黙ったあと、何事もなかったみたいにそれを口にした。 光は隣で小さな手を叩き、大げさに声を上げた。 「わぁ、幸せ!ねえさやさん、これからもずっと一緒にいてくれる?」 紗耶は優しく微笑み、彼の頭を撫でた。 「光くんが喜んでくれるなら、もちろんよ」 私は足早に近づき、三人の和やかな空気を壊した。 突然現れた私を見て、蒼介の目に苛立ちが浮かんだ。 彼は紗耶に目配せし、光を連れてどこかで遊ぶよう言いつけた。 人前での体裁を保ち、二人きりになってから私は詰め寄った。 「光の母親は私よ。親子番組に連れて行くなら、どうして一言も教えてくれなかったの?」 彼は冷ややかに目を上げ、淡々と言った。 「教えたら、お前も一緒に出るとでも?」 次の一言が、私をその場に釘付けにした。 「お前みたいな母親がいれば、光は世間から指を差される。息子がネットで叩かれるのを見たいのか」 私は立ち尽くしたまま、体の芯まで冷えた。 言い返したいのに、言葉が出ない。 そのとき、言い返すより先に、紗耶が息を切らして駆け込んできた。 「光くんが、いない!」 私は血の気が引き、蒼介も顔色を変えた。 先ほどの言い争いなど吹き飛び、私たちは必死に光を捜した。 誰も、思いもしなかったのだ。 あの大喧嘩が、私たちの永遠の別れになるとは。 …… 番組は光の怪我で撮影中断となり、蒼介は光を連れて家に戻った。 なのに私は、蒼介のそばから離れられなかった。 魂だけが、なぜか縛りつけられている。 彼がドアを開け、室内を見回した。静まり返っている。 明らかに家には誰もいなかった。 光がソファに駆け寄って座り込み、大声で叫んだ。 「ママ、お腹すいた!ご飯まだ?」 蒼介は誰もいない家を見渡し、こめかみを揉んだ。 そして光の声を遮るように言った。 「もういい。家政婦の山本さんに料理を作ってもらう」 そう言うと、蒼介は再びスマホを取り出し、メッセージ画面を開いた。 先ほど送ったメッセージに、返信はない。 私にこれほど徹底して無視されたのは初めてだったのか、顔は冷ややかになった。 短い文章を打ち込み、送信した。 【家出でもして脅しているつもりか?一日だけ待ってやる。それでも戻らないなら二度と家に入るな】 私はそれを覗き込み、思わず自嘲の笑みを漏らした。 彼の目の前をふわりと漂ってみる。 魂とは、こんなに軽いんだ。 ねぇ、私はもう死んでいるのよ。どうやって返信しろと言うの? それからの三十分間、二人はただソファに座っていた。 突然、スマートロックの解錠音が沈黙を破った。 蒼介は眉を上げただけで動かず、淡々と口を開いた。 「やっと帰る気になったか——」 「蒼介さん……」 紗耶の声に、彼はぴたりと口をつぐみ、目に驚きが走った。 「どうしてここに?」 紗耶は玄関に立ち、少し気まずそうに唇を噛んだ。 「花音さんがまだ帰っていないんじゃないかと思って。男手一つじゃ何かと不便でしょうし、お手伝いできればと」 そう言いながら、彼女はちらりとスマートロックに目を落とした。 その瞳には隠しきれない喜びが揺れている。 「蒼介さん、ごめんなさい。試しにタッチしてみただけなの。まさか私の指紋データがまだ残っているなんて」 蒼介も視線を向け、目がわずかに揺れた。 「ああ……消し忘れていたんだ。」 その時、光が駆け寄り、紗耶の腰に抱きついてはしゃいだ。 「さやさん、僕、焼き玉子が食べたい!」 紗耶は親しげに彼の鼻先を指でつつき、我が家のように自然に玄関のドアを閉めた。 「いいわよ、今から作ってあげる」 二人のやり取りを聞きながら、胸の奥がちくりと痛んだ。 そうか、紗耶のところで、食べたことがあったんだ…… 少し前、私が同じような料理を作った時、蒼介と光はたった一口で箸を置いてしまった。 光は口を滑らせた。 「ううん、美味しくない、さやさんの——」 その時、蒼介が軽く咳払いをして、光にその先の言葉を飲み込ませたのだ。 当時の私は深く考えず、ただ自分の料理が下手なだけだと思った。 それでレシピをいくつも調べて、二人の好きな味に近づけようとした。 今にして思えば、ただ「好きな女の味付けだから」美味しかったなのだろう。 スマートロックを振り返り、自嘲するように笑った。 芸能界で知らない者はいない。 蒼介と紗耶はかつて恋人同士だったこと。 二人は撮影現場でエキストラをしていた頃に出会い、恋に落ちた。 その後、大物監督に見出され、映画で脇役として名を上げた。 映画が公開された後、二人が演じた恋のバッドエンドは人の涙を誘い、惜しむ声が絶えなかった。 それから、二人の人気は一気に跳ね上がった。 だから、蒼介が私とホテルに出入りするところを撮られ、スクープされた時、ファンたちは悲鳴を上げた。 SNSで私の最新投稿には、またたく間に百万件もの罵倒コメントが押し寄せた。 光が六歳になった今でも、SNSを開けば、今も私のタグの下に悪意のある加工画像がたくさん流れている。 でも、ファンたちが私にこういうことするのも無理はない。 紗耶はデビューと同時に大ブレイクした人気女優だ。 それに比べて私は、名もない三流女優にすぎない。 今でもパッとしないB級ドラマを渡り歩きながら、もがき続けている。 私に貼られたレッテルで一番大きいのは、「深津蒼介に取り入った女」というものだろう。 紗耶が料理を作り終え、三人は和気あいあいと食卓を囲んだ。 以前、食事中に会話を振るのはいつも私一人だけだった。 あの時、二人は何と言ったっけ。 「食事中は静かにしろ、そんなマナーも教わらなかったのか?」 「ママ、うるさいよ。ちょっと黙ってて」 私は苦く笑うしかなく、それからはできるだけ口を開かないようにした。 食事が終わると、光はなだめられて部屋へ戻され、寝かしつけられた。 蒼介と紗耶はソファで向かい合い、取り留めもなく言葉を交わした。 一線は越えない。 けれど、十分に親密な空気だった。 夜が深まってから、蒼介はようやく気づいたように上着を手に取った。 「家まで送る」 紗耶は慌てて彼の裾を引き、両手を合わせて甘えるような仕草をした。 「ねぇ、蒼介さん。私はもうヘトヘトで動けないの。今夜はここに泊めてくれない?」 蒼介はそれを聞いて眉をひそめ、口を開きかけた。 断る言葉が出る前に、紗耶は続けた。 「ほら、光くんも私のこと好きでしょう?今怪我してるし、私が看病したほうが助かるでしょう?」 蒼介は目を伏せ、彼女の白く細い指先をじっと見つめると、小さくため息をついた。 結局、承諾した。 紗耶は望みどおり、ゲストルームに泊まることになった。 蒼介は寝室に戻り、ベッドに背を預けてスマホをいじっていた。 暖房の効いた部屋で、彼は薄いグレーのパジャマを着ていた。 私が選んだものだ。 漂い近づいてスマホの画面を覗き込むと、病院で撮られたインタビューの映像を見ているのが分かった。 コメント欄は相変わらず悪意に満ちていた。 【これこそ本当の家族の雰囲気でしょ?推しの「蒼介×紗耶」ペア、いつになったら復縁するの……】 【記者も言ってたけど、現場にいたのに光くんを見つけたのは白石。病院にも来ないなんて、どんな母親?】 【のし上がって仕事もらったら、もう何も気にしないってこと?あの女、早く深津さんと離婚してくれないかな!】 一言一言が胸に刺さる。 以前の私なら、一晩中布団の中で泣いていただろう。 でも今の私は、完全に心を閉ざしたように冷ややかに見つめるのだった。 不思議なくらい、何も感じない。 蒼介は無言でコメントをスクロールし続け、その眉間の皺はどんどん深くなっていく。 やがて画面を閉じ、スマホを脇に投げた。 その表情を見て、少し分からなくなっていた。 私のことが大嫌いなはずでは? こんなコメントを見たら、笑い出すべきじゃないの? そもそも、あの夜、蒼介が酔った私を拒まなかったこそ、光が生まれたのだ。 翌朝目を覚ました時、彼の目に浮かんだ驚愕、そしてありありとした嫌悪感を私は忘れない。 彼は金を渡し、二度と会いたくないと言った。 だが二ヶ月後、私は妊娠に気づいた。 慌てて、もう一度彼を訪ねた。 「産めばいい」 彼は長い間重苦しい沈黙を保ち、最後にそう言った。 「俺たち結婚しよう」 …… そんなことを思い返していると、屋外で急に土砂降りになり、稲妻と雷鳴が重なった。 雨が窓を叩き、ざわざわと音を立てた。 でも紗耶にとっては、天の味方かもしれない。 客室へ行くと、紗耶は薄手のネグリジェの裾を整えているところだった。 肩紐をわざとずらして、枕を抱きしめる。 そして裸足のままベッドを降り、蒼介のドアをノックした。 ほどなくしてドアが開いた。 長い髪を下ろした紗耶は、可憐な瞳で彼を見上げた。 声までかすかに震えている。 「蒼介さん、雷が怖くて……少しだけ……この部屋にいてもいい?」 その言葉を聞いた私は、二人の間にふわりと漂った。 目の前の女を真っ直ぐに睨みつけ、冷たい声で呟いた。 「後ろめたいことをしてるんだから、怖くて当然よ」 第2話 誰にも、私の声は届かない。 蒼介は紗耶を一瞥しただけで、すぐに視線を逸らした。 「俺は結婚している。わかってるよな、紗耶」 紗耶の目はたちまち赤くなり、涙が今にもこぼれ落ちそうに揺れた。 この泣き方。 さすが、ヒット作を何本も当てた女優だ。 「蒼介さん、まだ私のことを責めてるの? あのときは、どうしようもなかったの。川原監督についていかなければ、私たちは業界から干されてしまう…… あそこで立ち止まるわけにはいかなかったの……」 そう言い終えるか終えないかのうちに、彼女の目からとうとう涙がこぼれ落ちた。 うつむいた姿は、まるですべてを諦めてしまったかのようだった。 「私のこと、汚いって思ってるよね?私だって、そう思ってるわ……」 それをそばで聞いていた私は、ようやく腑に落ちた。 この人気カップルが別れた理由は、ずっと謎のままだった。 知っているのは、二人の三度目の共演が、業界きっての大物監督・川原彰(かわはら あきら)の作品だったということだけだ。 それまでずっと恋人役を演じてきた二人だったが、その映画では蒼介が男二番手、紗耶がヒロインになった。 映画の撮影が終わると同時に、二人は別々の道を歩むようになった。 今の紗耶の言い方だと、当時、彼女は監督に強いられたということになるのだろうか。 蒼介の目にも、同じように複雑な色が浮かんでいた。 芸能界に長くいれば、みんなキレイごとだけじゃないってわかる。 脅されたのか、取引だったのか、真相なんて、本人にしかわからない。 紗耶をじっと数秒見つめていた蒼介は、ドアを勢いよく開けた。 落ち着いた口調に、どこか諦めもついていた。 「入れ。雨が止んだら帰ってくれ」 紗耶はソファに腰を下ろした。 そして彼はベッドにもたれ、何気なく本をめくっていた。 ようやく、雨が上がった。 「……じゃ、おやすみなさい、蒼介さん」 挨拶も忘れずに、紗耶は素直に部屋を出て行った。 ただ私には見逃せなかった。 彼女が部屋を去る瞬間に見せた、あの何かを確信したような笑みを。 その後の二日間も、紗耶は同じ口実で家に居座った。 けれど、蒼介の様子は私が思っていたほど上機嫌ではなかった。 暇さえあれば、スマホを手に取り、何度も見返していた。 おかしいわ。 彼と紗耶の間に、どうして何も起きないのだろう。 私がいない今、二人にとってはまさに絶好のチャンスのはずなのに。 …… その日、蒼介のスマホが鳴った。 表示された番号を見て、私のマネージャーからだとすぐわかった。 電話に出ると、すぐに媚びた声が聞こえてきた。 私に対する態度とは大違いだ。 「最近、花音さんの姿を見かけませんでしたか?実は彼女に振りたい仕事があるんですが、ずっと電話が繋がらなくて」 蒼介の瞳が微かに揺れ、低い声で問い返した。 「あいつから連絡はないのか?何日目だ?」 「ないんですよ。最近はスケジュールも空いていたので、この二日間何度かかけてみたんですが、ずっと電源が切れていて」 それを聞いた蒼介の顔に、複雑な色がよぎった。 そばで見ていた私は、そこに一瞬の「焦り」を読み取った気がした。 ……きっと気のせいだ。 電話を切ると、彼は指の関節でトントンと軽く膝を叩き始めた。少し焦っているときの癖だ。 しばらくして、今度はアシスタントに電話をかけた。 「花音はここ数日どこにいたか、当たってみて」 蒼介は疲れたように眉間を押さえた。 でも、私はもう、彼の考えていることが分からない。いや、もう理解したいとも思わなかった。 だから私は二階へと漂っていった。 そこでは、紗耶が光の部屋の片付けをしているところだった。 私が心を込めて整えた子ども部屋を見て、しばらくぼんやりした。 三日も帰っていないのに、光は一度だって「ママはどこ?」と聞かなかった。 毎日ニコニコと甘い笑顔を浮かべて、紗耶の後ろをついて回っていた。 この子は、私が身を削って産んだ子なのに。 この子を産むとき、私は大出血した。 当時、蒼介は撮影中で連絡がつかず、手術の同意書にサインする人は誰もいなかった。 最後は産婦人科の先生が決断し、すぐに緊急手術。 私も、子どもも……ようやく助かった。 四、五歳までは、光もこんなふうに甘い声で私を「ママ」と呼んでくれていた。 でも、蒼介に連れられて、紗耶のいる撮影現場でちょっとした役をやってから、だんだん、あの子は私が近づくのを嫌がるようになった。 どうしていいか分からず、私はただ必死にご機嫌を取り、もう一度光との距離を縮めようとした。 けれど、ほとんど意味はなかった。 そんな昔のことを思い出していると、突然、陶器がガシャンと割れる鋭い音が響いた。 棚の上に置いてあった三つの陶器の人形が、無残な破片になって床に散らばっていた。 私は反射的にしゃがんで、拾おうとした。 でも、指がすり抜けた。 そうだ、透明な私はもう、触れない。 ああ…… 私はもう死んでいる。 紗耶の方を見上げると、無表情な顔には、僅かに気づきにくい得意げな色が浮かんでいた。 その時、光がおもちゃを手にして小走りで部屋に入ってきた。 床に散らばる陶器の破片を見て、不満そうに小さな口を尖らせた。 そのすぐ後ろから蒼介も駆けつけ、この惨状を見るなりスッと顔を曇らせた。 紗耶は瞬時に怯えたような、パニックになったような顔を作り、何度も頭を下げた。 「ごめんなさい! 棚にホコリが溜まっていて…… 花音さんが最近掃除してないみたいだったから、拭いておこうと思ったら、手が滑ってしまって……」 私は怒りに襲われ、全身がワナワナと震えた。 あの三つの陶器人形は、光の五歳の誕生日に、珍しく家族三人で出かけた陶芸教室で手作りしたものだ。 結婚して以来、数少ない、本当に数少ない温かい思い出の品だったのに。 蒼介の目の前に飛び出し、彼を真っ直ぐに睨みつけながら、震える声で叫んだ。 「この女はわざとやったのよ!」 なのに私の声は届かない。 蒼介は床の破片を静かに二秒ほど見つめ下ろした。 おそらく、私の可愛げのなさを思い出したのだろう。 彼は冷たく言い放った。 「割れたものは仕方ない。謝る必要はない」 そう言い残し、背を向けて出て行く。 光はまだ部屋の入り口に立ち尽くし、泣きそうな顔をしていた。 「さやさん……それ、パパとママと僕で一緒に作ったやつなのに」 紗耶は慌てて歩み寄り、光を抱き上げると、甘い声でなだめた。 「光くん、泣かないで。今度、もっといいのを一緒に作ってあげるから、ね?」 光は大人しく彼女の腕の中に収まっていたが、ふと何かを思い出したように小さな顔を上げた。 「僕、もうずっとママに会ってないや」 光の背中をポンポンと叩いていた紗耶の手が、ピタリと止まった。 彼女は微笑みを絞り出した。 「ママはお仕事中なのよ。前に見た映画、覚えてる?あれは全部、ママが撮ったお仕事なの」 光は鼻をすすり、乱暴に涙を拭った。 「ママが、他のおじさんとベッドの上で喧嘩してる映画のこと?」 私は雷に打たれたように硬直した。 信じられなく、光を見つめていた。 紗耶は相変わらず笑みながら、頷いてみせた。 「そうよ、光くんは賢いわね」 光はフンッと鼻を鳴らした。 「じゃあ、ママなんかいらない。みんな、ママは恥知らずだって言ってるもん。 僕、さやさんにママになってほしい」 胸を大きく貫かれたような痛みを覚え、怒りが少しずつ込み上げてきた。 怒りが、血の代わりに全身を巡り始める。 私は両手を振り回し、何度も紗耶の身体をすり抜けさせながら、半ばヒステリックに叫んだ。 「どうして!どうして光にそんなものを見せたの!?まだ子どもなのに!」 でも、どれほど怒りをぶちまけても、誰の耳にも届かない。 無音の虚しさの中で、怒りの炎は少しずつ消え失せていった。 最後には、ただ心が完全に死に絶え、私は丸くうずくまった。 過去の無数の惨めな記憶が、波のように押し寄せて来た。 疲れた……痛い…… どうして、死んで魂になった後まで、こんなことを受けなければならないの? …… 夜がすっかり更けてから、私はようやく光の部屋からフラフラと抜け出した。 するとちょうど、薄着のネグリジェを着ている紗耶が、蒼介のドアをノックする場面に出くわした。 今回、回りくどいマネはしなかった。 彼女はドアが開くや否や、まっすぐに蒼介の胸に飛び込んだのだ。 蒼介も予想外だったのか一歩後ずさり、両手は行き場を失ったように宙に浮いていた。 紗耶の瞳が、涙で潤んでいる。 「蒼介さん……本当はまだ、愛してくれているんでしょう?」 彼女の肩を押して引き剥がす蒼介は、冷たい声で断った。 「言ったはずだ、俺は結婚していると!」 それでも紗耶はますます強くしがみつき、必死に訴えかけた。 「彼女を愛していないことくらい分かってる! あの時、彼女が蒼介さんを罠にはめて妊娠さえしなければ、あんな女と結婚なんてしなかったはずよ!」 その言葉を聞いた瞬間、彼女を突き放そうとしていた蒼介の腕が止まった。 表情に、迷いと恍惚が走っていた。 彼がたじろいだのを見逃さず、紗耶はさらに泣き縋った。 「どうして私たち、もう一度やり直せないの? 彼女は……このまま帰ってこないかもしれないじゃない?」 私はこの滑稽な茶番を静かに見つめていた。 もはや胸が痛むことすら忘れてしまったかのように。 蒼介にとって、私の存在は所詮、手段の汚い女でしかない。 この数年間、どれだけ良き妻、良き母になろうと尽くしてきたとしても。 結局、死ぬその瞬間まで、夫の心も息子の心も、他の女のところにあったのだ。 その息詰まるような空気は、突然鳴り響いた着信音によって破られた。 蒼介はハッと我に返ったように、今度こそ強い力で紗耶を突き飛ばした。 ポケットから取り出したスマホには、見知らぬ番号が表示されている。 ひどく動揺していたせいか、ふいにスピーカーボタンを押してしまった。 静まり返った夜の部屋に、知らない男の声が唐突に響き渡る。 「もしもし、早乙女花音さんのご主人、深津蒼介さんでしょうか?」 私はピンときた。 でも、最初に湧き上がった感情は驚きではなく「解放感」だった。 ああ、ようやく私の死体が見つかったのね。 今じゃどういう見た目なのかな。 骨すら残ってなかったら……それはさすがに、惨めすぎる。 蒼介は深く息を吸い込みながら、その声には抑えきれない怒りが滲んでいた。 「あいつはどこだ!?彼女に電話を代われ!」 電話の男は彼の怒鳴り声を気にせず、淡々と用件を告げた。 「こちらは市警察です。今朝、早乙女さんの遺体を発見しました。 お手数ですが、身元確認のために警察署までお越しいただけますか」