私を盾にする家なんか、こっちから願い下げよ!

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私を盾にする家なんか、こっちから願い下げよ!

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神宮寺遥(じんぐうじ はるか)は3年間、神宮寺朔(じんぐうじ さく)を愛してきた。 朔のために自分を押し殺し、何でも受け入れることを学び、...

Chương (1)

第1章

神宮寺遥(じんぐうじ はるか)は3年間、神宮寺朔(じんぐうじ さく)を愛してきた。 朔のために自分を押し殺し、何でも受け入れることを学び、神宮寺家の古い掟や理不尽な扱いをすべて我慢してきた。 しかし、遥は知ってしまったのだ。 他の女の身代わりにするために、朔が自分を娶ったことを…… 朔は義理の妹を守るために、一族が自分を侮辱するのだって黙認した。 遥のプライドと未来は、すべて朔の手で奪い去られたのだった。 だから、遥は朔に見切りをつけた。 離婚届を出し、屋敷を出た遥が、二度と振り返ることはなかった。 初めの頃、遥が家から出ていたことを朔は全く気にしていなかった。 いつものように機嫌を損ねているだけで、自分が少し甘やかしてやれば、遥はまたいつも通り戻ってくると思っていた。 しかし、しばらくすると、遥は生き生きと生活し、自分ではない他の男に微笑み、仲睦まじそうにしているのだった。自分を見てくれない遥を前に、朔はとうとう正気を失ってしまう。 朔はプライドを捨て、何がなんでも遥を取り戻そうとした。 しかし、遥にとってそれは滑稽極まりなかった。 今さら向けられる愛情など何の価値もない。朔には、報いを受けることだけが相応しいのだから。 第1話 神宮寺遥(じんぐうじ はるか)と神宮寺朔(じんぐうじ さく)の結婚は、東都の上流社会でずっと笑いものにされていた。 北条家の一人娘の遥。バレエを嗜みながらも、バンドではギターをかき鳴らし、スポーツカーのハンドルを握れば、海岸線を猛スピードで走ることが好きな女性だった。 美しくもありながら、自由さを感じさせる瞳。それはまるで雪の中に咲く紅椿のように、遥の芯の強さがはっきりと見て取れる。 一方の朔は、旧家神宮寺家の次期当主で、かなり硬い性格な上に完璧主義だった。 糸くず一つ許さない身なりに、話し方さえも正確な時計のように淡々としていた。 そんな正反対の二人が、3年間も夫婦という関係でいた。 結婚してすぐ、神宮寺家から辞書ほど分厚い家訓の書が遥の元に届いた。挨拶に来る前に、全て暗記してこいと言うのだ。 神宮寺家に挨拶へ向かった日、神宮寺家の重鎮たちが集まる中、遥はページを2枚めくっただけで、その家訓をビリビリに破り捨てた。 「こんな家訓を覚えさせるなんて、いつの時代を生きてるんですか?」 破れた紙が雪のように散らばる。 この日を境に、遥は朔の祖母・神宮寺久美子(じんぐうじ くみこ)に「礼儀を知らない嫁」と疎まれるようになったことは言うまでもないだろう。 結婚2年目、神宮寺家から一人で出歩くことを禁止された。 遥はそのことに対して、何も言わなかった。ただ、愛車のアストンマーティンに乗り込み、神宮寺家の「規律」を象徴するような黒塗りの重厚な門を、そのまま突き破ったのだ。 庭中に衝撃音が響き渡る。 車を降りた遥は、冷静に一言だけ吐き捨てた。 「私をここに閉じ込めたいなら、足を折るしかありませんよ?」 そして結婚3年目にもなると、神宮寺家からの跡継ぎを望む声が強まった。 久美子自ら手続きを行い、東都の産婦人科での検査から不妊治療まで、全て完璧な準備を整えてきたのだ。 担当する医師や診察日時すら、遥の都合は完全に無視されていた。 遥は埃ひとつない無機質な診察室に座ると、漂う消毒液の臭いに吐き気を覚えた。 看護師が薬のトレイを遥に差し出した瞬間、彼女はそれを叩き落とした。 金属製の器具が床に叩きつけられ、耳障りな音が響く。 「私は神宮寺家の子供を産むために、朔と結婚したわけじゃありません」 遥はボディーガードを振り払い、病院を飛び出すと、そのまま神宮寺グループのオフィスへと向かった。 この3年間、全てに反抗していたわけではない。 茶道や花道などの教養を身につけ、親族の集まりでは朔を立て、波風立たぬようにと、必死に自分を押し殺してきた。 朔はただ無口なだけで、自分の努力はわかってくれていると思っていた。 あと少しだけ我慢して、あと少しだけ自分を殺せば、朔だって自分のことを庇ってくれると信じていたのに。 しかし、どうなった? 遥が自分を殺せば殺すほど、彼らはさらに調子に乗っただけだった。 今日こそ、朔に直接問いたださなければ気が済まない。 彼がこの神宮寺家からの理不尽な扱いを止めてくれないのなら、この結婚には何の意味もないのだから。 役員用のエレベーターで、最上階へと向かう。 遥の姿を見て秘書の渡辺洋介(わたなべ ようすけ)が顔を青くしたが、遥の聞き迫る様子に、止めることはできなかった。 「奥様、社長は今会議中で……」 しかし、遥は洋介の制止を無視し、ドアを大きく蹴り開けようとした時、部屋の中からは朔の声ではなく、他の男たちの下品な笑い声が聞こえてきた。 「朔、お前の奥さんまた病院で騒いだんだって?神宮寺家の人たち、今回こそは相当頭にきてるんじゃないのか? まあ、それも無理もないよな。だってお前の奥さん、そもそも神宮寺家の嫁には向いてないんだから。見た目も派手だし、何より気が強すぎる。従順なんて言葉とは無縁だろ」 別の男も、嫌な笑みを浮かべながら続けた。 「そもそも、お前だってあんな女はタイプじゃなかっただろ?それなのになんでまた、わざわざ事故を演出してまで助けに行ったんだ?見てみろ、今のあいつ。お前に心底惚れ込んじまってるじゃないか」 廊下に立っていた遥の手が、震える。 あの事故…… 3年前、雪の日の夜。山道を下っていた遥の車のブレーキが突如故障した。 その時、窓を割り、彼女を救い出してくれたのが朔だった。 朔の呼吸を耳のそばで感じ、彼の肩に積もった雪を見た瞬間、遥は恋に落ちた。 初めて、心許せる人に巡り会えたと思ったのだ。 それから、遥は朔に猛アタックした。 遥の朔に対するアプローチは、世間でも噂になるぐらいだった。 朔に好かれようと必死に趣味を調べ、予定を合わせ、嫌いだった茶道さえ完璧にした。 ずっと、これこそが運命だったと信じていたのに。 まさか、全て仕組まれていたことだったなんて…… 扉の向こうの部屋の中が一瞬沈黙に包まれる。 そして、最後の事実が、ある男によって残酷に語られた。 「なんでだって?そんなの、紗絵さんのために決まってるだろ?」 神宮寺紗絵(じんぐうじ さえ)。 朔の弟・神宮寺蓮(じんぐうじ れん)の妻の名前だった。 「朔は最初から紗絵さんのことしか頭になかったんだから。でも、紗絵さんの実家の白川家って、神宮寺家と比べると……あれだろ?だから、もし紗絵さんを嫁に迎えちまったら、神宮寺家では恰好の餌食になる。そこで、紗絵さんの盾として目をつけたのが、トラブルメーカーの遥さんってわけだ。 遥さんが問題を起こせば、親族の批判はすべて遥さんに向けられる。そうすれば、紗絵さんが平和に過ごせるからな。 それどころか、最初から子どもなんかいらなかった朔は、遥さんに内緒でパイプカットまで受けてるんだぞ?神宮寺家は、遥さんが原因でずっと後継ができないって思ってるけど、そもそも彼女が妊娠することなんて不可能なんだよ」 その場に凍りついてしまったように、遥は体が動かなかった。 パイプカット? 別の女を守るための盾にされ、不妊の濡れ衣まで最初から計画されていたものだったなんて…… 唇を強く噛み締めた口の中に、血の味が広がる。 しかし、まだ心には「もしかしたら否定してくれるかもしれない」そんな一筋の望みが残っていた。 一言でいいのだ。そんな事実はないと言ってほしかった…… 長い沈黙の後、ようやく朔の声が聞こえてきた。 それは氷のように冷静で、感情なんて微塵も感じられない。 彼から発せられた言葉が、遥の幻想を完全に打ち砕く。 「紗絵は傷つきやすいんだ。遥は……大丈夫だから」 遥は目を閉じた。 自分が経験してきた苦しみや理不尽な思いを、朔は知っていた。 しかし、何も言ってくれなかったのは、自分なら耐えられると思っていたかららしい。 自分はただ、道具に過ぎなかったのだ。 朔の愛する紗絵を守るための盾。 扉に手をかけようとしたとき、朔のスマホが鳴った。 第2話 朔が電話を取ると、すぐ向こう側から蓮の気の抜けた声が聞こえてきた。 「兄さん、やばいことになった。今日、おばあちゃんのための茶会を準備してる時に、紗絵が初代当主の形見の茶碗を割っちまったらしくてさ。うちの家にとって命の次に大事なものなのに……これがバレたら、おばあちゃんに何されるか…… けど、俺、今はモデルの女の子と海にいるから、今夜は絶対に帰れないと思うんだよね。だからさ、何とかしておいて欲しいんだけど、いいかな?」 朔の声が、冷ややかなものになる。 「お前の嫁なんだから、お前がなんとかしろ。俺がお前の嫁の尻拭いをする筋合いなんかない」 しかし、電話の向こうでは、蓮が相変わらずふざけた笑い声を漏らしていた。 「兄さんだって、分かってるでしょ?最初は純粋そうだし、なんでも言うことも聞くと思って結婚したのにさ。でも、女なんて遊べば結局は同じ。しくしく泣きべそかいてるのはいいけど、紗絵みたいな女、ずっと一緒にいるには退屈すぎるんだよ。 それに比べれて遥さんはいいよな。あのルックスに、あの気の強さ。東都中の男が放っておかないだろ?もし兄さんの嫁さんじゃなかったら、俺だって――」 朔が話を遮る。 「黙れ」 電話の向こうが、一瞬静まり返った。 蓮も朔の怒りを感じ取ったのか、少し真面目な態度を取る。 「とにかく、茶碗の件は何とかしてくれよ、兄さん。紗絵がずっと泣きながら電話してくるから、鬱陶しいんだ」 「分かった。なんとかしておく」 そう言って電話を切ると、朔は立ち上がって歩き出した。 影の中に佇む遥の顔色に、血の気はもう無かった。 朔が歩きながら秘書の洋介に命じている声が聞こえてくる。 「遥はどこにいる?」 洋介がすぐに答えた。「奥様はすでに病院を出ました。病院の人の話では、病院内でひどく荒れて、診察室を荒らしたそうです」 足を止めることなく、朔は淡々と言い放つ。「その件を本家に流せ」 洋介が困惑した様子で聞き返す。「それは……本日の病院の騒ぎを本家に報告し、怒りの矛先を茶碗の事件から逸らせるというわけですね?」 「ああ」朔は平然と頷いた。「騒ぎは大きければ大きいほどいいからな」 その瞬間、遥の中で何かが崩れていった。 朔が自分を探していたのは、心配からでもなく、私が傷つくことを恐れているからでもなかった。 ただ、自分を紗絵の身代わりにしようとしていただけだったのだ。 真実はこれほど近くにあり、あまりに残酷で見苦しい。 もう知ってしまった以上、自分を騙し続けることはできない。 朔が完全にその場からいなくなった後、遥は天井を見上げ、顔を伝う涙を拭った。 拭う力が強かったのか、目尻が赤く滲む。 自分から進んで笑い者になるなんて、そんなのは死んでも嫌だ。 愛した相手を間違えていたのなら、ここで縁を切ればいいだけ。 携帯を取り出し、父親である北条勲(ほうじょう いさお)の番号を押す。 やっと繋がった画面の向こうからは、ゴルフ場特有の賑やかな音が聞こえてきた。 「なんだ?」 「離婚する」と、遥ははっきりと告げた。「だから、離婚届をすぐに用意して」 勲は一瞬唖然としたが、すぐさま怒りを露わにする。 「何馬鹿げたこと言ってるんだ?朔のどこが気に入らないって言うんだよ。それに、神宮寺家なんかそう簡単に関係を持てる家じゃない。いい加減なこと言うな」 遥は冷たい笑いをこぼした。 「別に、相談しているわけじゃないの」 冷たい壁に背を預けたまま、遥は続ける。 「私が邪魔だったんでしょ?それに、北条家の長女の私がいなくなれば、愛人との間にできた二人の隠し子を表に引き出せるって考えてたんじゃないの? 離婚を済ませたら、すぐに東都からはいなくなるから。北条家のものなんて、一切いらない。私は二度と現れないし、お父さんたちはお父さんたちで勝手に暮らして」 電話の向こうで勲が黙り込む。 勲のことなど手に取るように分かった。 勲にとって一番大切なものは利益であって、家族など二の次なのだ。 長女である遥でさえ、単なる「北条家の体裁を保つための道具」でしかない。 だから、遥の方から北条家のものなど一切いらないと言い出したことは、好都合でしかなかっただろう。 少しの沈黙の後、勲が再び口を開いた。 その声にはわずかな弾みさえ混じっている。 「本当だな?」 「本当だよ」 「……分かった。すぐ弁護士を手配する。離婚届も財産分与も全部一緒にやってもらえるようにしてやるから。さっき言ったことは忘れるなよ?無かったことになんて、させないからな」 「無かったことになんてさせない」と聞いて、遥は針で刺されたような痛みを胸に感じた。 顔を上げ、こみ上げる悔しさを力強く押し込める。 「心配しないで。 そんなこと、こっちから願い下げだから」 第3話 電話を切った遥は、廊下でしばらく動けずにいた。 真実を知った瞬間は、暴れたり、物を投げたり、朔のもとに駆け込んで心中してやろうかとまで考えていた。 しかし、今の彼女の心は非常に静まり返っている。 離婚を決めた以上、この場所を去る前に、この3年間で奪われた自由を取り戻さなくてはならない。 遥は仲のいい友人に連絡を入れた。 午後はウィンドウショッピングをして、夜は美容室で髪を整え、そのままバーを回る。 友人たちは開口一番、「遥、今日はなんか人が変わったみたいだね」と言った。 遥はバーカウンターに座り、真っ赤なネイルを施した指先で、グラスをゆっくりと回す。 「もうすぐ離婚するからね」 友人たちはグラスを落としそうになりながら固まった。 「え!あんなに朔さんのことが大好きだったじゃん! 朔さんと結婚するために、お茶まで習ったのに。それもまた、なんで……」 遥は一気にグラスの中身を飲み干す。 液体が喉を通り、焼けるような痛みが胸に広がった。 「もう好きじゃない」遥は呟いた。「これからも、一生好きになることなんかない」 遥がそう言うや否や、爆音で流れていた音楽が突然止まった。 照明が一気に明るくなり、あやうげな雰囲気が一瞬にして吹き飛ぶ。 黒いスーツを着た大勢の警備員がなだれ込んできて、店内から次々と客を追い出し始めた。 店長も顔を青ざめさせながら、何度も頭を下げて謝り続けている。 不満げに店を追い出される客たち。遥の友人たちも、例に漏れず店の外へ連れ出された。 店内が、あっという間に静寂に包まれる。 神宮寺家の執事が、遥の前に立ち、深々と頭を下げた。 「遥様。大奥様が家でお待ちです」 遥はソファに座ったまま、面倒そうに視線を向けた。 「私は行かないよ。それと、おばあ様に伝えてくれる?私はもうすぐ朔とは他人になるから、神宮寺家の古いしきたりなんて私に関係ないって」 しかし、執事は表情一つ変えず、ただ軽く手を上げる。 すると次の瞬間、遥は背後から両腕を抑えつけられた。 遥もすぐさま反応し、手に持っていたグラスを投げつける。 グラスは地面で粉々に砕け、酒がそこら中に飛び散った。 しかし、今日はピンヒールの靴を履いていた上に、バーの床は滑りやすく、多勢に無勢だ。 薬品の匂いがするハンカチを鼻に当てられ、目の前が真っ暗になっていく。 次に目が覚めたときには、神宮寺家へと連れ戻されていた。 畳の香りが漂う広間は不気味なほど静まり返り、外に見える庭には手入れの行き届いた枯山水があるものの、部屋の空気は息苦しいほどに張り詰めていた。 上座には久美子が鎮座し、冷たい目で遥を見下ろしている。 「遥。あんたは何度、神宮寺家の面目潰せば気が済むんだい? 診察も受けず病院で大騒ぎし、診察室を壊した挙句、夜遊びなんて。結婚して3年も経つのに、礼儀すらまともに身についていない。紗絵は身分こそ高くないけれど、自分の立場を弁えてる。あんたとは大違いだよ」 畳に膝をついていた遥は、思わず笑いそうになった。 やっぱり。 どんな失敗を紗絵が犯しても、最後には全て自分のせいにされる。 怒りの収まらない久美子は、遥の目の前に家訓の書を放り投げた。 「今夜から、仏間で家訓を百回書くんだよ。書き終えるまで寝てはいけないからね。行儀というものを理解できるまで、出てくるんじゃないよ」 遥はその書物をちらりと見ると、鼻で笑った。 「なんで私がそんなことをしなきゃならないんですか?」 広間が沈黙に包まれる。 久美子は遥を冷ややかに見つめ、「なんだって?」と聞き返した。 遥はゆっくりと顔を上げ、冷たい瞳でまっすぐに見据える。 「どうして、私がそんなことしなきゃいけないんだって言ったんです。 それに、神宮寺家の後継者がほしいと言いながら、私に問題があると決めつけて、朔に理由すら聞いていませんよね?紗絵が茶碗を割った今日だって、あなた方は彼女を叱りもしないくせに、病院のことでは私をすぐ呼び出しました。なのに、私に家訓を書けと? 私のこと何だと思ってるんですか?」 「何を生意気に!」久美子が怒りで立ち上がった。 使用人たちがすかさず久美子を支える。 遥は自分のそばに立っていたボディーガードを振り払う拍子に、横にあった花瓶を肘で倒してしまった。 花瓶は地面で無残にも粉砕する。 「遥!!」 「そんな目で私を見ないでください」遥は久美子を睨みつけ、言い放った。「私はあなたたちが飼ってるペットじゃないんですから」 その後、引きずられるようにして連れていかれた仏間の外では、いつの間にやら雪が降り始めていた。 遥は冷たい畳に座らせられ、目の前に筆と白紙が用意された。 誰も飲み物など与えてくれず、立ち上がることすら許されない。 夜が深まっていく。 足は痺れ、膝も痛い。 それでも遥は、一文字も書こうとはしなかった。 どのくらいの時が経っただろうか。外で誰かの気配がした。 わずかに開いていた仏間の襖から、聞き慣れた声が耳に届く。 紗絵だ。 「朔さん、今日は助けてくれてありがとうございました。遥さんの病院のことが大事になっていなかったら、おばあさんに茶碗のことでなんと言われたか。この家から追い出されていても、おかしくありませんでした」 朔が低く、「うん」と返した。 紗絵の声が、さらに甘くなる。 「でも……私のせいで、仏間に閉じ込められちゃったから、私のこと恨んでるんじゃ……」 「俺がいるんだ。お前には何もさせない」 一呼吸置くと、朔は付け加えた。 「これからも、もし何か嫌なことがあったら、黙って俺のところに来たらいい」 紗絵は安心したように、鼻を啜る。 「朔さん。どうしてそんなに、優しくしてくれるんですか?」 仏間の中で、筆を折らんばかりに握りしめていた遥は、朔の答えを聞くことはなく、次の瞬間には、意識が遠のき、そのまま力尽きて倒れ込んでしまった。 第4話 遥が目を覚ますと、薬と白檀が混じったような独特の匂いが鼻をついた。 そこは屋敷ではなく、神宮寺家が経営する個人クリニックだった。 膝は長時間正座していたせいで感覚がなく、手首もまるで一度分解されて組み直されたかのように痛む。 ドアが少しだけ開いていて、廊下の話し声が聞こえてきた。 「遥さん、私のせいだって思うでしょうか?」紗絵が泣きそうな声で言っている。「でも、わざとじゃないんです。それに、彼女の体が弱ってるって聞いたから、栄養をつけてほしくて……」 朔が低い声で答えた。「気にするな」 その直後、勢いよくドアが開いた。 先に朔が入ってきた。いつも通りの隙のないスーツ姿で、ネクタイの結び目一つ乱れていない。 後ろには、保温ジャーを手にした紗絵がいる。目は赤く腫れ、いかにも悲劇のヒロインという佇まいだ。 「遥さん。無事で良かったです」と言いながら、紗絵は恐る恐るジャーを置く。「お腹空いてるかなって思って、鯉のスープを作ってきたんですけど……」 遥は紗絵の顔すら見たくないと思っていた。 しかし、漂ってきた匂いに、一瞬で遥の顔色が変わる。 「今、なんのスープって?」 紗絵はきょとんとして答えた。「鯉ですよ?裏庭の池に白い錦鯉が泳いでたじゃないですか。誰も世話してないみたいでしたし、ただの観賞用かと思って、調理してもらったんです」 その瞬間、遥の頭の中で何かが爆発した。 あれは、ただの鯉ではない。 その白い錦鯉「雪丸」は、母親の北条香織(ほうじょう かおり)が亡くなる前に遺してくれた、唯一の生きた形見だった。 神宮寺家に嫁ぐ時、身の回りのものをほとんど捨てた中で、雪丸だけは連れてきて、庭の池で大切に育てていたのだ。 どんなに蔑まれ、離婚を考えた日々でも、雪丸だけは見捨てたことはなかった。 それなのに、紗絵は雪丸を…… 遥は弾かれたようにベッドから跳ね起きた。 「紗絵!もう一度言って!」 紗絵は脅えたように半歩退がり、目をさらに潤ませる。 「は……遥さんのものだなんて知らなくて……私はただ、あなたの体が心配で……」 「いい加減にしろ」朔が眉をひそめ、紗絵を背後に庇う。「鯉一匹ごときで。紗絵は好意でやったことなんだから、そんな言い方をするな」 鯉一匹ごとき、か。 紗絵を庇う朔の姿を見つめ、遥は胸が張り裂けそうだった。 朔はいつも、紗絵の偽りの無垢さを見るだけで、遥が何を失ったかなんて見えていない。 「あれは母が遺してくれたものなの!」遥の声が震える。「朔、あれはただの鯉で片付けられるものじゃないんだから!」 感情を抑えきれなくなった遥は、枕元にあったまだ湯気の立っているスープを力任せに投げつけた。 紗絵が悲鳴を上げ、反射的に顔をまもる。 スープが紗絵の手の甲にかかり、皮膚が赤くなった。 クリニック内が騒然とする。 すぐに医師が駆けつけ、手当を始めた。 手を押さえて泣き震える紗絵が、最初に出した言葉は―― 「跡にならないですよね?明日の茶会では、おばあさんへお点前を披露する約束をしているんです……」 傷を見た医師は、少し困った表情で告げる。 「火傷はひどくないですが、傷は目立つ位置にあります。もし大切なお茶会なのだとしたら、袖が長めの着物をお召しになって、手元を隠すしかないですね」 紗絵が、上目遣いで朔を見つて言った。 「でも、おばあさんが用意してくださった着物じゃ、手が隠れません……」 朔はしばらく沈黙した後、冷徹な目で遥を見下ろした。 「お前が持っているあの白い着物を貸してやれ」 遥の体は凍りついた。 「何て?」 「明日の茶会は、紗絵がお前の代わりに出るから」 朔の声は淡々としていた。「お前が傷つけたんだ。当然の責任だろう。 それに、あの着物ならお前に合わせて作ってあるから、小柄な紗絵が着れば、傷も隠せるだろう。お前の母の形見だから、質もいいし、紗絵によく似合うはずだ」 あれは、香織が最期に残してくれた形見。 遥の卒業祝いに、香織が自ら生地を選んで仕立ててくれた加賀友禅の着物。 神宮寺家に嫁いでからも、汚すのが怖くて袖を通せなかった大切な着物。 それを、紗絵の火傷隠しに使う? 遥には、それが狂気の沙汰にしか思えなかった。 「渡すわけないでしょ?」 遥が布団を跳ね除けて起き上がろうとすると、朔は迷いなく遥の手首を掴み上げた。 「いい加減にしろ、遥」 「離して!母が残してくれた鯉を煮ただけじゃなくて、母の形見まで差し出せっていうの?朔、何でそこまで……」 遥を睨んでいた朔の瞳の奥に、一瞬複雑な感情が揺れたが、それはすぐさま暗くなった。 「先生、彼女に鎮静剤を打てください」 遥の思考が止まる。 まさか、朔がここまで非道になれるとは…… 「朔、本気で――」 言葉の途中で、看護師たちに腕を押さえつけられた。 冷たい針が皮膚を突き破り、ゆっくりと液体が入り込んでくる。 意識が薄れていく中で、最後に聞いた朔の冷たい声―― 「大丈夫だ。明日には全てが元通りになってるから」 第5話 遥が目を覚ますと、外はもうすっかり明るくなっていた。 しかし、部屋の中は異様なほど静まり返っている。 天井をぼんやりと見つめながら、数秒経ってようやく昨夜の出来事が夢ではなかったと悟った。 雪丸はいなくなった。 そして、香織が遺してくれた着物も、無くなってしまった。 ノックの音と共に、朔の秘書である洋介が入ってきた。 手にはいくつもの箱を持っており、その態度はいつも通り礼儀正しい。 「奥様。社長は今朝から急な案件の対応で盛沢市へと向かわれました。これは社長からの贈り物です。あと、昨夜の件ですが……あまり自分勝手に事を荒立てないでほしいと、社長から伝言を預かっております」 自分勝手に事を荒立てるな、だと? 目の前に置かれたいくつもの贈り物を見て、皮肉な笑みがこみ上げてくる。 朔の手によって母の形見が奪われ、その着物は別の女のために使われた。そして自分を宥めるために、ジュエリーを送るとは。 高価なものさえ渡せば、自分がおとなしく黙っているとでも思っているのだろうか。 洋介に言葉を返すこともせず、遥は無言でテーブルの上の箱を全て床に叩きつけた。 箱からジュエリーが転がり出し、床に無造作に散らばる。 「出て行って」静かな声だったが、氷のような冷たさを帯びていた。「これ全部持って、今すぐ消えて」 洋介はしばし立ち尽くしたが、最後は床に散らばった品を一つ一つ拾い上げ、その場を後にした。 その日、遥が部屋から出ることはなかった。 窓辺で屋敷を行き来する車を眺め、遠くから聞こえてくる宴の音楽と人々の楽しげな声を耳にするだけだった。 冬の夜の茶会は、滞りなく行われていた。 紗絵は母の形見であるあの着物を纏い、本来なら自分の席である場所に座っているのだろう。 その事実を想うと、かえって涙は出てこなかった。 泣き果ててしまえば、感情などただの虚無となる。 夕暮れ時、紗絵からメッセージが届いた。 【遥さん。今夜は私の誕生日会なんです。おばあさんから特別にお許しをいただいたので、別館で小さな茶会を開くことになりました。遥さんも是非いらしてください。 大勢で楽しんでいるし、朔さんも『いつまでも部屋に引きこもっているのは良くない』って言っていましたよ】 遥はメッセージを読み終えると、そのまま削除ボタンを押した。 しかし、まるで無視されることを予期していたかのように、すぐさま2通目が送られてくる。 【もしかして、来れないんじゃないですか?本当は朔さんがあなたにあげるはずだったものを、私がもらってるっていう事実を見るのが怖いんですか?】 その言葉を凝視すること数秒、遥は一言だけ返した。 【紗絵。結局、何をそんな見せびらかしたいわけ?】 返事はメッセージではなく、すぐに電話としてかかってきた。 耳に当てた先からは、甘ったるい声が響く。 「もちろん、あの着物が私にとてもよく似合っていることを見て欲しいんです。帯だって、朔さん自らが締めてくださったんですから。それに、この振袖の白色は、遥さんが普段好んできていらっしゃる赤の着物よりも、神宮寺家の雰囲気にずっと合うって、朔さんはおっしゃってくれました。 それと、知っていましたか?朔さんの心にいるのは、私なんですよ。遥さんではなくて。まあ、私はずっと前から知っていましたけどね」 遥は何も言わなかった。 紗絵は勝ち誇ったように続ける。 「昔、私がお酒に酔って別館で眠っていた時、夜中に目が覚めたら、朔さんが私のベッドの横に座って、長い時間じっと私を見つめていたんです。 その後も、私は寝たふりを続けました。そうしたら、どうなったと思います?そっとキスされたんです。あの時、私は確信しました。あなたとは夫婦の義務として一緒にいるだけで、私と接する時のように心はないと、ね?」 スマホを握りしめる指先に力が入り、関節が白くなる。 朔はキスでさえとても事務的だった。 でもそれは、彼の性格だと思っていた。 だが、彼の心が動く相手が自分ではなかったというだけだったようだ。 画面の向こうでは、まだ紗絵が笑っている。 「遥さんの家柄は私よりいいし、見た目だってとても華やか。でもそれが何だって言うんですか?だって、あなたが一番欲しい男は、いつだって私に夢中なんですよ? だからね、今夜自分の目で確かめてみたらどうかなって思いまして。彼がどっちを選ぶのか、ね?」 遥は答えることなく、電話を切った。 この一日が、もうこれ以上悪くなることなどないと思っていた。 だが真夜中、別邸のドアのチャイムが激しく鳴り響いた。 使用人の一人がドアを開けると、厳格な面持ちをした警察官たちが部屋に入り込んできた。 「神宮寺遥さんですね?今夜の茶会で、神宮寺紗絵さんが催眠成分の入った抹茶を飲まれ、病院へ搬送されました。捜査により、あなたが厨房の者に対して、抹茶の差し替えを指示したという疑いが浮上しました。署までご同行いただけますか?」 別邸の使用人たちが騒ぎ始める。 「そんなことあり得ません!奥様は今夜、ずっと部屋にいらっしゃって、一度も外出なんて……」 遥は誰もが恐れを抱くほどの冷たい瞳で、階段に立っていた。 「私はやっていません」 警察官と遥が対峙する中、不意に玄関の扉が開けられた。 冷たい風と共に、肩に雪を積らせた朔が入ってくる。 使用人たちが藁をも掴む思いで彼に駆け寄った。 「旦那様!奥様が薬を盛ったって警察官の方が……でも、そんなのあり得ないんです!」 朔は手袋を外し、遥の顔を一瞥すると、息が止まるほど冷酷な声音で呟いた。 「通報したのは、俺だ」 第6話 遥は自分の耳を疑った。 「今、何て?」 朔は部屋の真ん中に立ち、淡々とした声で言う。 「お前に頼まれて抹茶に異物を混入したと、厨房の人間がすべて白状したんだ。お前の名前で、連絡が来たってな」 「私の名前で?」 遥はあきれて鼻で笑った。「朔、たとえ私の名前で指示があったと言っても、私が直接やったわけじゃないのに。何で、そこまで私だと決めつけられるの?」 「動機があったからだ」朔は冷静な目で遥を見つめる。「昨日のあの一件があった以上、お前が紗絵に復讐を考える可能性が一番高かった」 「それで?」遥は一歩ずつ階段を降りながら、問い詰める。「紗絵に何かあるたび、私は犯人扱いされるわけ?朔、あっちの言い分は信じるのに、私の言うことは信じてくれないんだね」 朔は何も答えなかった。 その沈黙が、どんな言葉よりも深く突き刺さる。 遥は自分の境遇をただ滑稽に思った。 「私のこと、あなたの妻だって思ってくれてる?」 朔はわずかに眉をひそめ、一瞬だけ言葉を詰まらせた。 だが、次の瞬間には警察に向かってどうぞと言わんばかりの手振りをする。 「連れてってください」 遥の胸の内にあった最後の気持ちは、その瞬間に跡形もなく消え失せた。 遥は抵抗することもなく、はたまた自分の潔白を訴えることもしない。 ただ静かに顎を上げ、氷のように冷めきった瞳で朔を見つめる。 「今夜のこと……一生忘れないで」 遥は連行された。 神宮寺家の権力は絶大で、微塵も挽回の余地など残されていなかった。 警察で取り調べを受け、一時勾留されるまでの数時間の間に、ネット上にはいつ撮られたかわからない動画が流れ始める。 記事のタイトルはどれも嫌なものばかり。 【#神宮寺家の嫁、毒殺未遂の疑惑浮上。夫婦の不仲説を裏付ける決定打か?】 【#旧家の長男に嫁いだ嫁、義妹への暴挙か?】 【#上流階級の妻の本性が明るみに】 一夜にして、遥は人々の嘲笑の的となった。 勾留所の中は、彼女が想像していた以上に冷え切っていた。 四方を囲む灰色の壁が、まるで時間を凍らせているようだった。 ボディーガードも使用人もおらず、眉をひそめるだけで熱いお茶が出てくるような生活はそこにはない。 面会が許可されると、紗絵がやってきた。 面会の窓越しに立つ紗絵は、完璧にメイクをほどこし、大きめのカーディガンで「怪我」を隠した姿は、儚げで美しい。 しかし、口を開けばどこか得意げな声が漏れる。 「遥さん、ここでの気分はどうですか? 実は、あなたの写真、とびきり綺麗に撮ってって、記者の方には特別に頼んでおいたんです。だって、世間体を気にする遥さんに恥をかかせるんですもの。せめて写真だけでも、美しくないと困りますもんね?」 遥は無表情で彼女を見つめた。 紗絵はその冷たい態度に刺されたかのように、さらに歪んだ笑みを浮かべる。 「まさか、まだ朔さんが助けに来るのを待っているんですか?そんなの、無駄ですよ。だって、彼自らがあなたをここに入れたんですから。 そうそう、今日のニュースを見たおばあさん、とっても怒っていましたよ。あなたを神宮寺家に入れたことが、人生最大の間違いだって。遥さん。後数日後には、神宮寺家、本当にあなたを追い出したりなんかして……ね?」 遥はついに口を開いた。 「言いたいことはそれで終わり?」 紗絵はぽかんとした。 「いい終わったんだったら、早く出ていって」遥は氷のような目で紗絵を射抜く。「私が泣き喚いて、あなたに縋り付く姿を見るために、こんな手の込んだことしたんだろうけど……ごめんね、痛くも痒くもないの」 紗絵の表情が一瞬で険しくなる。 紗絵は唇を噛み締めた。 「随分と強がりなんですね。 でも、別に大丈夫です。これからもじっくり、あなたが落ちていくのを見守らせてもらいますから」 続く1週間は、遥にとって果てしなく長い冬のようだった。 直接的な暴力はなかったし、血を流すような拷問もなかった。 しかし、泥の中に突き落とされ、世間中から見下ろされる屈辱こそが、人の心を削り取っていくものらしい。 同室の女性は最初から遥を敵視していたようで、布団をこっそり濡らされたり、食事を奪われたりした。 髪を引っ張られ、冷水をかけられたこともある。 それでも遥は決して弱音を吐かず、静かに耐え忍んだ。 7日目の夕方、ついに釈放の手続きが終わった。 荷物をまとめ外に出ると、そこには朔が立っていた。コートに身を包む、まっすぐな立ち姿はあの頃のままだ。 やつれて血の気のなくなった遥の顔を見て、朔は眉を顰める。 「厨房の人間が証言を変えた。証拠は不十分だから、まずは自由にしてやる」 遥はゆっくりと歩き出した。 1週間の勾留で、身体は一回りも小さくなっていた。 今にも転びそうな、おぼつかない足取りの遥に、朔は反射的に支えようと手を伸ばす。 しかし遥は汚物でも避けるかのように、身体を引いて拒んだ。 朔の手が空中に取り残される。 「遥――」 「気安く名前なんか呼ばないでくれる?」遥の声は枯れていたが、妙に落ち着いていた。「朔。あなたが警察に通報したあの瞬間から、私たちの関係は終わったの」 遥は朔を通り過ぎ、一歩一歩歩みを進める。 冷たい風が吹きつけるが、遥は寒さなど感じなかった。 第7話 朔はすぐ遥に追いついた。 「まずは車に乗れ。今夜はお前の実家に帰るのも、ホテルに泊まるのも駄目だ。屋敷で宴の準備をしているから、俺と一緒に来るんだ」と、朔は遥の手首を掴んで言う。 遥は朔の方を向いた。 「何のこと?」 朔は少し黙り込む。 「結婚3年目の記念日だ」 遥はふっと笑った。 その笑みは氷が溶けていくように儚く、冷ややかだった。 朔自身が自分を警察に突き出し、世間には自分を徹底的に叩かせた。 それなのに今、結婚記念日の宴に出席しろと? 「行くわけないでしょ」遥はきっぱりと言い放つ。 しかし、朔は聞こえないふりをして、強引に遥を車に押し込んだ。 道中、車内の空気はとても重かった。 屋敷に着くと、庭には明かりが灯り、華やかな雰囲気が漂っていた。 今夜招かれていたのも、神宮寺グループと取引のある旧家の人々ばかりだった。招待客は皆質の良い着物や袴をまとい、旧家らしく品のある挨拶を交わす。 遥が宴会場へ一歩足を踏み入れると、無数の視線が突き刺さった。 探るような目、見下すような目、好奇の目。 視線が集まる中、朔は長細い箱を遥に差し出した。 箱を開けると、中には深みのある光沢を放つ黒真珠の首飾りが入っていた。ひと目見るだけで、高価なものだとわかる。 「記念日のプレゼントだ」と彼は言った。 周囲からどよめきが漏れる。 「さすが神宮寺家。あんな騒動があっても、ちゃんと嫁の顔は立てるんだな」 「神宮寺社長は奥さんを甘やかしすぎだよ」 「あの真珠、てっきり次期当主の奥さんの証だと思ってた……」 周囲の声が聞こえてくるが、遥は何も感じなかった。 こんなの、朔にとっては都合のパフォーマンスに過ぎない。 自分を地獄に突き落としておきながら、大勢の前で宝石を捧げてみせることで、周りに自分があたかも誠実で完璧な夫だと思わせるのは、彼の常套手段だった。 遥はその首飾りを受け取らなかった。 朔も無理強いはせず、使用人に片付けさせた。 宴も半ばにさしかかった頃、給仕が不注意で酒を遥の服にこぼしてしまった。 遥は特に気にすることもなく、着替えのためにその場を去る。 2階の部屋で着替え終わった遥は、廊下を歩いていた。この屋敷の2階廊下は、いつもかなり静かだった。 一回に降りようと、階段に足をかけたその時、遥は瞬時に足を止めた。 階段に、薄く油が塗られていることに気づいたのだ。 灯りの下では、ほとんど判別できないが、小さい頃からカーレースに参加していて動体視力の良かった遥は、その微妙な反射に違和感を覚えたのだった。 もしそれに気づかず足を踏み出していたら、間違いなく、頭から落ちて大惨事になっていたに違いない。 その場に立ち止まっている遥の心に、冷たい怒りが込み上げてくる。 遥は掃除を担当している使用人を呼び出し、誰がこの場所を清掃したのかを問い詰めた。 使用人は震えてしまい、上手く言葉が話せない。 遥はさらに問い詰めると、やっと泣きながら、紗絵側の使用人が30分ほど前に来ていたと白状した。 遥は踵を返して離れへと向かう。 離れの扉は少し開いていて、遥が扉に手をかけようとしたその時、中から声を抑えた紗絵の話し声が聞こえてきた。 「油はたっぷり塗った?ちゃんと塗らないと転ぶだけで済んじゃうから、ちゃんと顔から叩きつけられるぐらいにしないと。あの女の顔がめちゃくちゃになれば、朔さんだってあの女を人前に連れ出したりはしないはずだしね。 だって、あの女の1番の自慢はあの顔でしょ?だったら余計に壊してあげなきゃ」 遥は迷わず扉を蹴り開けた。 振り返った紗絵が叫び声を上げるよりも早く、遥は力いっぱい平手打ちを食らわせる。 部屋に乾いた音が響き渡った。 「紗絵」遥の声はゾッとするほど落ち着いていた。「そんな私に殺されたいの?」 遥はそばの飾り棚にあった竹製の杖を手に取ると、紗絵のスマホを叩き割った。 破片が四方に飛び散る。 泣き叫ぶ紗絵の襟元を掴むと、遥はそのまま外へと引きずり出した。 「離して!正気の沙汰じゃないですよ!」 「うん。もう正気なんかとっくに失ってるから」遥は冷たい目で紗絵を見る。「最初からこうすればよかったんだよね」 紗絵を回廊の突き当たりまで引きずった。そこには凍りついた、錦鯉の池がある。 抵抗しようとする紗絵にもう一発平手打ちをくらわし、そのまま突き飛ばした。 バシャーン―― 池の中に投げ出された紗絵は、あまりの冷たさに絶叫する。 足を挫いた上に、薄着のドレスが絡まり、立ち上がることもままならないのか、水の中で溺れそうにもがいていた。 宴会場は大混乱に陥った。 騒ぎを聞きつけた朔も駆けつけた。彼の目に飛び込んできたのは、池の縁でずぶ濡れになりながら、惨めな姿でうずくまっている紗絵と、廊下で冷ややかに見下ろしている遥だった。 「遥!」朔の声は震えるほど低かった。「またお前がやったのか?」 紗絵は即座に彼の足にしがみつき、激しく泣き崩れた。 「朔さん……私、何もしていないのに……遥さんが突然入ってきて、私を叩いたと思ったら、最後には池に突き落として……きっと、警察に連れて行かれたこと、まだ根に持っているんです……」 遥は朔をじっと見て、はっきりと言う。 「この女は階段に油を塗って、私に大怪我させようとしたの。私はただ――」 「もういい」朔は冷たく遥の言葉を遮った。 朔は「証拠は?」とも聞かず、ましてや遥が危うく踏みかけた階段のことなど気にもしてくれなかった。 彼はいつもと同じように紗絵の味方をし、遥を悪人と決めつけた。 「たとえ紗絵が何かをしていたとしても、暴力を振るっていい理由にはならない。遥、その身勝手な性格、いつになったら直るんだ?」 遥はそんな朔を見て、言い訳する気力さえ消えてしまった。 自分が真実を訴えたって、聞いてもくれない。 ましてや、自分を一回たりとも信じようとしてくれなかった人間に何を言えと? 遥は口角を歪ませ、諦めにも近い笑みを浮かべる。 「朔、私はもう何も言わないよ。あなたが思ったことが全て正解」 第8話 遥のその態度を見て、朔の表情が完全に凍りついた。 「仏間へ連れて行け」朔がボディーガードに命じる。「今夜は一歩も屋敷から出すな」 遥は咄嗟に反論した。 「行かないから」 その一言で、その場の空気は一気に張り詰めた。 ボディーガードたちが近づいてきた瞬間、遥は踵を返して走り出す。 しかし回廊を抜けた先で、シャンパンタワーを運んでいた給仕とぶつかってしまった。 派手な音を立ててグラスと銀のトレーが床に散乱し、割れた破片も辺りへ飛び散る。 遥も勢いで足が滑り、そのまま勢いよく倒れ込んだ。 とっさについた手のひらにガラスが刺さり、膝を打った激痛で、目の前も真っ暗になる。 宴会場には悲鳴が響いた。 朔が駆けつけた時には、遥が割れたガラスの上に跪き、手のひらからは真っ赤な血を流していた。 彼の眉間に皺が寄る。 しかしそんな朔を見上げる遥の瞳は、まるで赤の他人を見るように冷めていた。 朔の伸ばしかけた手も、そのまま空中で止まってしまった。 次に目を覚ました時、遥は既に病院にいた。 手のひらも縫われ、膝の手当も終わっている。 致命傷ではなかったが、あちこち痛みでズキズキとうずいていた。 翌日、洋介がやってきた。 「社長からの伝言です。昨夜のことは、奥様も紗絵さんも負傷したので、これで終わりにするように、と」 ベッドに寝ていた遥は、呆れて笑ってしまった。 「これで終わり? あの女は私の顔を傷つけようとした。でも、私は手を切っただけ。なのに、これで終わらせろって?」 洋介は沈黙し、俯いた。 彼が黙り込むほど、答えは明白だった。 遥はもう何も聞きたくなかった。 退院した晩、屋敷では身内だけの宴会が行われていた。 久美子は紗絵が池に落ちた件をすっかり忘れたかのように、再び「跡継ぎ」の話を遥に持ち出してきた。 「朔と結婚して3年も経つのに、いまだ何の気配もないなんて」そう言いながら、久美子は金色の糸で刺繍がほどこされた出産祈願の御守りを、遥の目の前に突き出す。 「わざわざ盛沢市から送ってもらったんだよ。今夜から仏間にお供えして、毎日手を合わせな。神宮寺家の妻としての責任を忘れるんじゃないよ」 遥は、御守りを見つめるだけで、決して触れようとはしなかった。 子供など産むつもりなどない。 ましてや、神宮寺家のためになど、絶対に産まない。 食事のあと、しつこくも使用人が御守りを遥に握らせてきた。 不快に思った遥は、部屋に戻る途中に仏間へ投げ捨ててしまおうと考えた。 しかし、仏間の前に差し掛かった時、紗絵に呼び止められた。 「こんなとこで、どうしたんですか?」紗絵は遥が持つ御守りを睨み、せせら笑う。「朔さんにあんなに酷いことされたのに、まだこの家の子を産むつもりなんですか?」 遥は返事をすることすら億劫で、そのまま歩き去ろうとした。 すると途端に紗絵の表情が曇り、彼女は遥の手から御守りを奪い取ると、地面に叩きつけた。 布袋から中の小さな木片が飛び出す。 遥は足を止めた。 紗絵が遥を凝視するその目には、どす黒い憎悪が光っている。 「朔さんが愛しているのは私で、あなたはただの私の身代わりでしかないって、分かってますよね?だから、もし今ここで私が仏間に火を放ったとしても、子供を産むよう追い詰められたあなたが錯乱してやったって……私が言ったら…… 朔さんは、誰を信じますかね?」 第9話 遥の鼓動が、激しくなる。 「紗絵、一体何を考えて――」 言葉を言い終える前に、紗絵が仏間へと駆け込んだ。 仏壇には一年中蝋燭が灯されており、その周辺に置かれている仏具も、ほとんどが紙製や木製なので、火の粉が飛べばすぐに燃え上がるはずだ。 遥が追いた時には、すでに紗絵が供え物の燭台を倒したところだった。 周辺の仏具に火が移り、木枠のドアや障子もすぐさまに炎に包まれた。 炎が紗絵の顔を照らし、その温和に見えた素顔をゆがませる。 「狂ってる!」遥は消火しようと駆け寄ったが、濃い煙に咳き込んだ。 紗絵はただ笑っていた。 「ええ、もう狂ってるのかもしれません。だって、あなたがいるせいで、みんなは私をあなたと比べるんですもの。なぜなんですか?朔さんがずっと守ってるのは、明らかに私なのに……みんな、あなたを神宮寺家の嫁って言うんですから……」 そう言うと、紗絵は側にあった重たい銅の香炉を持ち上げ、遥の後頭部を目がけて叩きつけた。 突き抜けるような激痛が走る。 遥の意識はそこで途切れ、そのまま崩れ落ちた。 再び目を覚ますと、そこは屋敷の広間だった。 両手は縛られ、額の辺りがジンジンと痛む。あたりにはまだ焦げた臭いが残っていた。 正面には、顔色は青ざめさせた久美子が座っている。 「仏間に火をつけたのは誰だい!」 紗絵がここぞとばかりに泣き出した。 「遥さんです!彼女は神宮寺家から後継ぎのプレッシャーを受けるのが耐えられない……仏間も家訓も全部目障りだって言って……私は止めようとしたんです。でも、止められなくて……」 そんな紗絵を見ても、遥は不思議と怒りすら感じなかった。 遥は顔を上げ、煙を吸い込んだせいで枯れた声で告げる。 「仏間には監視カメラがありますよね?それを確認すれば、誰が火をつけたか、すぐに分かると思いますが」 久美子がすぐに執事を振り返る。 「監視カメラの映像を確認して」 紗絵の顔から血の気が一気に引いた。 紗絵は本能的に、そばにいた朔を見つめる。 遥も朔を見た。 もはや期待などしていなかった。 それでも、胸の奥で、小さな希望が顔を出す―― 今度こそ、もしかしたら彼は真実を語ってくれるのでは? 朔は少し黙り込み、そして口を開いた。 「確認する必要はない」 その場の全員の視線が彼に集まる。 灯りの下に立つ朔の横顔は冷たく、その声は一切の私情を排したように淡々としていた。 「騒ぎがあった時、俺はちょうど仏間の横を通りかかったから、一部始終を見ていた。 火をつけたのは、遥だ」 その瞬間、遥の息が止まる。 朔が紗絵の肩を持つことは分かっていたし、紗絵をかばうことも分かっていた。 しかし、監視カメラという証拠がある状況で、躊躇いもなく自分に罪を被せるとは思ってもみなかった。 「朔」朔を見つめ、震える声で尋ねる。「もう一度言って」 朔は遥から視線をそらした。 「火をつけたのは、お前だ」 その言葉が、遥の中に残っていた最後の心を粉々に砕く。 久美子も怒りに震え始めた。 「遥!あんたってやつは!病院では騒ぎ、紗絵には薬を盛り、挙句には仏間まで燃やすなんて!北条家がついているからって、調子に乗るんじゃないよ」 久美子は手に持っていた数珠を強く握る。 「中庭に引きずり出しておしまい!そこで一晩中反省させるんだよ!私の許しがない限り、毛布もストーブも渡しちゃならないからね」 遥が中庭に引きずり出された頃には、かなり雪が激しくなっていた。 石畳が刃のように冷たい。強制的に白砂の上に正座させられた。袖口や襟元からは冷風が流れ込み、骨の髄から冷えていく。 しかし、屋敷の中には暖かく、明るい光が灯っていた。 そして障子の向こうでは、朔が紗絵を慰めている影がゆらめいている。 紗絵の肩に置かれた彼の手は、まるで壊れ物を扱うように優しげで。 それに引き換え、自分は…… まるで、雪の中に投げ出された罪人のようではないか。 それでも、時はゆっくりと過ぎていく。 抜糸前の手のひらの傷口は寒さで痛み、先ほど紗絵に殴られた額の血は乾いて固まっていた。 だが、そんなことはもうどうでもいい。 心がもう本当に冷めきってしまっていたのだ。 夜も更けた頃、ついに支えきれず、遥は雪の中に倒れ込んでしまった。 再び目が覚めた時、そこはいつもの病院だった。 いつもの消毒液の臭い。 そして、いつものように朔がベッドの側に座っている。 朔は遥の青白い顔を見つめ、数秒沈黙した後、低い声で言った。 「今回のことは、忘れるなよ」 第10話 遥は長い間、朔を見つめていた。 そして、小さくふっと笑いを漏らす。 「忘れるなって何を? あなたを信じてしまったこと?それとも、あなたと結婚したことがそもそも間違いだったということ?」 朔は眉間にわずかに皺を寄せ、何か言いたげな表情を見せた。 しかし、結局は何も言わず、朔は立ち上がった。 「しっかり休め」 ドアが静かに閉まると、部屋には再び静寂が訪れた。 窓の外を眺めていた遥は、ふと、自分の心がとても静かなことに気づいた。 だが、全てを受けれたわけではない。 ただ何度も傷つけられれば、そこは麻痺して痛みすら感じにくくなるということなのだろう。 その後、遥はしばらく病院で静養することにした。 泣きわめくこともなく、騒ぐこともない。 朔が見舞いに何度か訪れたが、遥は常に目を閉じ、相手にはしなかった。 一方で紗絵は、飽きもせずに何度もメッセージを送りつけてくる。 ある時は写真。 またある時は動画を。 紗絵は朔と一緒に観光地へ行ったり、温泉旅館に宿泊したりしていた。 写真に写る朔の表情は相変わらず無表情なものだったが、紗絵の隣にいる彼の姿は明らかにリラックスしていた。 さらに、添えられたメッセージが一層心を抉ってくる。 【最近、私が落ち込んでるからって、朔さんが気分転換に連れ出してくれたんです】 【遥さんも療養に専念してくださいね。神宮寺家のことは気にしなくて大丈夫ですから】 【そういえば朔さんが言っていました。温泉旅館からの雪景色はとっても綺麗なのに、遥さんに見せられないのは残念だって】 遥は一切、返信をしなかった。 まるでゴミを掃除するように、淡々とメッセージを削除するだけ。 ある日の夕方、勲から電話がかかってきた。 「手続きは進めている」と彼は言った。「お前側の離婚届は提出させたし、別居の事実も作った。あとは神宮寺家がサインせざるを得ない状況に追い込むだけだ。実質的に、もうお前と朔は他人同然だ」 遥は窓際に立ったまま、スマホを握りしめた。 自由という二文字。あれほど求めていたはずのものが、いざ手に入ると、妙に軽く感じられる。 「分かった」彼女はただそう答えた。 勲が問いかける。「これからどこへ行くんだ?」 「どこだろうね」遠くの雪に覆われた屋敷の屋根を眺め、遥は淡々と言った。「とにかく、もう二度とここには戻ってこないから」 電話を切ると、彼女は初めて自分からベッドを降りた。 今夜は神宮寺家が主催する、冬の能楽会が開かれていたため、中枢の人間は全員、神宮寺家が保有する能楽堂に集まっている。 だから屋敷には誰もおらず、遥と朔が暮らしていた別邸も静まり返っているはずだ。 かつてはそこで、朔を待ち、泣いて、耐え抜いて……それでも自分に言い聞かせては、我慢を続けてきた。 今思えば、本当に馬鹿なことだったと思う。 遥はある番号へ電話をかけた。 「頼んでたもの、今すぐ送ってもらえる? いい?火をつけるのは私と朔の棟だけだからね。本邸や仏間、離れには指一本触れないで。私が壊したいのは、私たち夫婦に関係するとこだけだから」 相手は、「承知いたしました」とだけ答えた。 夜9時、遥はシンプルな黒いコートに着替えた。 必要最低限のものだけを鞄に詰め込む。 空港へ向かう車の中、遥は東都に降り積もる雪を静かに眺めていた。 そして、窓に映る彼女の顔は、驚くほど穏やかだった。 空港に到着すると、遥はラウンジの一番窓際の席に座り、予備のスマホを取り出した。 画面には屋敷の監視カメラの映像が流れている。 見慣れたそこは変わらず荘厳な佇まいで、軒下には灯籠が灯り、雪に隠れた枯山水は、まるで完璧な牢獄のようだった。 その映像を眺めていると、3年前にこの家に嫁いできた日のことを思い出した。 朔が車のドアを開けて自分をエスコートする姿に、誰もが自分を幸せな新婦だと羨んだ。 しかしその門をくぐった瞬間から、遥が自分自身を失い続けていたことを、本人以外は誰も知らない。 遥は指先で、遠隔操作の着火プログラムを作動させた。 数秒後、監視カメラの向こうで、火の手が小さく上がる。 続いて、木造構造の隙間に仕込まれた燃焼材にも一気に引火し、炎は回廊を伝って瞬く間に寝室や書斎、茶室を飲み込んでいった。 炎の赤色が雪の上に燃え上がる様子は、まるで3年越しとなる、遥なりの報復のようだった。 ラウンジでは、遠くから聞こえるサイレンの音に、何人かが立ち上がって窓の方を覗き込んでいる。 しかし、遥は座ったまま動かない。 かつて自分を閉じ込めていた場所が崩れ去っていくのを、彼女はただ静かに眺めていた。 涙一つ流さず、また、振り返ることもせず…… 映像がノイズに切り替わると、遥はようやく立ち上がり、スマホをゴミ箱へ捨てた。 搭乗のアナウンスが流れる。 チケットを握りしめ、遥は搭乗ゲートへと向かった。 夜の雪空に向けて一機の飛行機がライトを輝かせている。 これでもう、神宮寺家の雪が遥に積もることはない。 自分はもっと遠くへ行くのだ。自分のための冬を探しに。 搭乗直前、最後にもう一度だけ東都の黒い夜空を見上げた。 視線を前に戻し、機内へと乗り込む。 二度と、振り返ることはせずに。