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その恋は、気付かぬ間に失われ
「小野さん。小野さんの退職届は社長に受理されたんですが、社長……それが小野さんのだとは気づいていないみたいで。一言伝えておきましょう...
Chương (1)
第1章
「小野さん。小野さんの退職届は社長に受理されたんですが、社長……それが小野さんのだとは気づいていないみたいで。一言伝えておきましょうか?」
電話越しに告げられたその言葉に、小野佳奈(おの かな)はゆっくりと視線を落とした。「結構です。そのままにしておいて下さい」
「でも、小野さんは4年も秘書として社長のそばにいたんですから、小野さんを一番信頼していたはずです。本当によろしいんですか?」
人事担当者がしきりに引き留めようとするが、佳奈はただ静かに微笑むだけだった。
第1話
「小野さん。小野さんの退職届は社長に受理されたんですが、社長……それが小野さんのだとは気づいていないみたいで。一言伝えておきましょうか?」
電話越しに告げられたその言葉に、小野佳奈(おの かな)はゆっくりと視線を落とした。「結構です。そのままにしておいて下さい」
「でも、小野さんは4年も秘書として社長のそばにいたんですから、小野さんを一番信頼していたはずです。本当によろしいんですか?」
人事担当者がしきりに引き留めようとするが、佳奈はただ静かに微笑むだけだった。
「世の中に、どうしても一緒にいなくてはならない人なんていませんから。それに、実家の両親の体調も気になるし、お見合いの準備も進んでいるんです。このまま問題がなければ、1ヶ月後には引き継ぎが終えられるかと。お手数おかけします」
通話を終えると、佳奈は淡々と荷物の整理を再開した。
3年間この家で暮らしたが、生活必需品以外の物はほとんどない。
次第に物が無くなっていく部屋を眺めていると、昔の記憶が波のように押し寄せた。
8年前、田舎出身のどこにでもいるような女子大生だった佳奈は、H大学で東都の資産家令嬢である中川胡桃(なかがわ くるみ)と親友になった。
育った環境は違ったが、二人はすぐに打ち解け、授業も食事も買い物も、いつも一緒だった。
そうして胡桃によって彼女の暮らす世界に連れ込まれた佳奈は、胡桃の兄である中川英樹(なかがわ ひでき)と出会い、恋をした。
だが、その想いを佳奈は心の中にひっそりとしまっていた。
大学卒業後、胡桃は海外へ留学に行き、佳奈は英樹の経営する会社に就職し、秘書として彼を見守り続けた。
ある日、英樹が何者かに薬を盛られる事件が起きた。
すぐさま救急車を呼ぼうとした佳奈だったが、理性を失った英樹に壁際まで押され、深く情熱的な口づけを受けたのだった。
翌朝目を覚ますと、窓辺でタバコを燻らす英樹の孤独そうな横顔があった。
気配を察して振り返った英樹が、低く呟く。
「俺のこと、好きか?」
とっさに否定しようとする佳奈に対し、英樹は冷静に続けた。
「俺と会うたびに顔を赤くし、俺の好みを全部覚えていて、卒業と同時に秘書に応募……
偶然だとは言わせないぞ」
彼の言葉を聞いた瞬間、佳奈の顔は真っ赤に染まった。それが羞恥心からくるものなのか、自責の念からなのかは定かではないが。
沈黙の中で、英樹が一枚のカードを佳奈に差し出す。
「昨夜は事故だったし、俺には想っている相手もいる。だから君の好意には応えられないし、責任も取れない。それと、胡桃から君は経済的にあまり余裕がないと聞いている。この中には、不自由なく暮らせる分の金額は入れてある。わかるだろ?何もかも忘れろ」
呆気に取られている佳奈の脳裏に、昨晩英樹がずっと口にしていた女性の名が蘇る。
高木真白(たかぎ ましろ)。
胡桃によれば、真白は英樹が一生忘れられない初恋の相手だという。
たとえ真白が海外へ飛び去り、男を取っ替え引っ替えしていると聞いても、英樹は真白を信じ続け、その帰りを待っているのだ。
そんな英樹を、胡桃はかつてこう言っていた。
「うちの男たちは感情ってものを忘れたんじゃないかってぐらい、冷酷そのものなのに、なんでお兄ちゃんだけあんな一途なんだろうね。真白さん以外は妥協だなんて言って、本当に馬鹿みたい」
佳奈は改めてその言葉を噛み締め、立ち上がろうとする英樹の背中に叫んだ。
「お金なんていりません。だから、お願いです。チャンスをくれませんか?もし高木さんが帰って来なかったら……いや、帰ってきたとしても、まだあなたが彼女のことを忘れられないというのであれば……私は、ここから立ち去りますから」
まっすぐな愛に圧倒されたのか、英樹は数秒沈黙してから「勝手にしろ」とだけ告げて立ち去った。
それ以来、佳奈は昼間は有能な秘書として、夜は体の関係を持って、英樹を支え続けた。
社長室や高級車の中、そして邸宅の広いリビング。二人の影は数えきれないほど重なり合った。
4年が過ぎた。しかし、未だに誰一人としてこの関係を知らないまま、佳奈はただその幸せに浸りきっていた。
英樹の誕生日の前夜、佳奈はサプライズを準備して彼の帰りを待っていた。
しかし日付が変わっても帰ってこなかった英樹のインスタに、残酷な一文が投稿される。
【最愛の人が戻ってくるなんて、最高の誕生日プレゼントだ】
一度もインスタを更新したことがなかった英樹なのに、そこには花火を背景に真白とキスをする写真が載せられていた。
写真を見た瞬間、佳奈の顔からは血の気が引き、息も絶え絶えになった。
最後の希望を胸に、震える手で英樹に電話をかける。
電話はつながったが、聞こえてきたのは真白の声だった。
「ねえ英樹、小野さんって誰?英樹への電話だと思うんだけど、ずっと黙ってるの」
間もなくして、英樹の冷徹な声がスピーカーから響いた。
「どうでもいいやつだ。無視していいから。おいで、もう少し一緒に寝よう」
その瞬間、佳奈は自分が離れなければいけないことを悟った。
荷物もまとめ終わったので、この家から去ろうと思った矢先、玄関先で偶然にも英樹に鉢合わせた。
英樹とは毎日のように肌を重ねていたため、この家で暮らしていたが、真白が帰ってきた今、ここに残ることはもう許されない。
荷物を抱えた佳奈をじっと見つめ、英樹は引き止めることなく尋ねた。「家は決まったのか?」
「はい。1ヶ月だけ貸してもらえるように話をつけておきましたので、以前のアパートに戻ります」
英樹は眉をひそめた。「1ヶ月?なぜ?」
理由を言おうとした佳奈だったが、英樹はそれを聞くこともなく、素っ気なく言った。「送っていく」
断ろうとしても、英樹の意志は固かった。
「雪も酷いし時間も遅い。それに、君が何かあったら胡桃が悲しむからな」
佳奈は結局、車に乗り込んだ。
以前はあんなに求め合った場所なのに、今では別世界のようだった。
ぬいぐるみが溢れ、可愛い柄のカバーがかけられているうえに、あちこちにお菓子まで用意されている……
あの英樹が、恋人のためにこんな環境を許すなんて、佳奈は信じがたかった。
佳奈の驚きを察したのか、英樹は短く言う。
「真白の好みだ」
佳奈は少し黙ってから、消え入るような声で答えた。
「帰ってきてよかったですね。社長が嬉しそうで……何よりです」
予想外の反応だったのか英樹は目を細め、黙り込んだ。
道半ば、真白が英樹に「雪だるまを作りたい」と電話をかけてきた。
路肩でブレーキをかける英樹の目が、助手席の佳奈を見ながら迷っていた。
英樹が何に躊躇っているのか佳奈には分かっていたので、自らドアに手をかける。
「社長、私はタクシーで帰りますから」
英樹は頷くと、荷物の運び出しを手伝った。
佳奈の手が滑り、箱が落ちた。街灯の下に散らばった中身を見て、英樹は硬直する。
英樹宛ての渡せなかったラブレターの束、英樹を隠し撮りしたであろう写真、それに英樹が捨てたものまで……
これらを見られたことにより、佳奈はパニックになりながらも、それらを大急ぎで箱の中に戻した。
「すみません」
その後英樹は一言も発さず、車に乗り込んで去って行った。
極寒の夜の雪の中、タクシーは一台も捕まらない。
箱を抱えて歩き始めた佳奈だったが、不注意なバイクに撥ねられ倒れ込んでしまった。
足からは出血し、地面が赤く染まっていく。
走り去ったバイクを追いかける気力もなく、激痛と冷気の中ただ呆然と座り込んでいた。
足を引きずりながら、数時間かけてようやくアパートに辿り着いた。
処置を済ませスマホを見ると、英樹からラインが来ていた。
【誰か一人に執着するのはやめた方がいい。男なんていくらでもいるんだ。一人の男で人生を無駄にするな】
佳奈はその一文を、何度も繰り返し読んだ。
夜が明けた頃、佳奈は外に出ると、箱ごとすべての思い出を燃やした。
心を焦がし続けてきた8年分の熱い想いは、真っ白な灰へと消えていく。
英樹、あなたの望み通りにしてあげるから。
第2話
週末も明け、月曜日の朝、佳奈は定時に出社した。
いつものようにやるべき仕事を片付けた後、英樹に会議の時間が迫っていることを伝えに行く。
社長室の前に立つと、ドアがわずかに開いていて、その隙間から真白の姿が見えた。
英樹の膝に乗った真白が、食べかけのクッキーを彼の口元に運んで食べさせていた。
潔癖症のはずなのに英樹は、それを口に入れ、さらには真白の指先に愛おしそうに口づけをし、柔らかな声で話しかける。
「昨日、お前がずっと食べたいって言ってただろ?だから、朝から3時間も並んで買ってきたんだぞ。美味いか?」
「すごく美味しい。相変わらず甘すぎなくて最高。前はいつもあなたが買いに行ってくれたけど、もう社長なんだから、秘書にでも任せればよかったのに」
英樹は真白の足を優しくマッサージしながら、あふれんばかりの愛情を隠すことなく答えた。「お前のためなら、全部自分でやりたいんだ。他のやつを入れたくないからな」
真白はうれしそうに微笑んで英樹に抱き、口づけを落とす。
英樹もそれに応え、その光景はまるで映画のように甘く溶け合っていた。
佳奈の胸は、痛いほど締め付けられた。
指の関節が白くなるほど、力一杯拳を握りしめる。
しかし、刻一刻と会議の開始時間は近づいていた。
佳奈は気落ちをなんとか押し殺し、軽くノックをする。
「社長。会議の時間です」
その声で英樹は一瞬動きを止め立とうとしたが、真白に手を引かれ、再び椅子へと引き戻された。
「行かないでよ。もう少しだけ一緒にいて?」
真白の甘えなど、英樹に断れるはずがなかった。
「会議を2時間遅らせろ」
だが、今回の会議は、会社の今後の成長を左右する非常に重要な契約を控えている。
会議の重要さを理解している佳奈だったからこそ、ひとこと言わずにはいられなかった。
「小林グループと黒崎グループ、それに二宮グループのCEOはすでに会議室でお待ちです……」
「ねえ、英樹。この秘書さんほんとしつこいんだけど。この状況が見てわかんないのかな?」
真白の不満を聞いた英樹の表情は、一瞬で険しくなった。
「2時間遅らせるって言ったら、2時間遅らせるんだよ。どんな仕事よりも真白の方が大切なんだ!」
佳奈は胸が締め付けられ、呼吸が苦しくなるような圧迫感を感じた。
黙ってドアを閉め、その場を去る。
英樹が筋金入りの仕事人間だと言うことは、この業界の誰もが知っていた。
プライベートがどれほど多忙でも、あるいは手術直後であっても、決して手を抜くようなことはなかった。
それが今、あんな甘えに絆され、提携企業を怒らせるリスクを負ってしまうとは……
英樹は、それほどまでに真白に惚れ込んでいるのだろうか?
佳奈は暗い表情を悟られないよう、俯きながら会議室へ入って頭を下げる。
中川家の決定を前に各社のCEOは受け入れざるを得なかったが、その怒りはすべて佳奈に向けられた。
佳奈が反論などできるはずもなく、ただひたすら叱責を受け入れた。
地獄のような2時間が過ぎ、ようやく英樹が姿を見せる。
佳奈がふらつく足取りで会議室を出ると、今度は真白に呼び止められた。
「あなたが小野さん?あなたの淹れるコーヒーは美味しいって英樹が言ってたの。みんなも疲れてるみたいだから準備してくれる?あ、それと、私のはアイスで砂糖なしね」
英樹に守られている真白には従わざるを得ない佳奈だったので、静かに給湯室へと向かった。
2時間をかけて400人分近いコーヒーを淹れ、佳奈は一杯ずつ運び始めた。
ところが、真白は一口飲んだだけで不機嫌そうにコーヒカップを投げつけてきた。
硬いコーヒーカップが佳奈の額に当たり、そこからは血が流れ出す。
佳奈は激痛に顔を歪め、傷を押さえたまま崩れ落ちてしまった。
しかし、怒りが収まらないのか、真白は次から次へとコーヒーカップを佳奈に向かって投げ続ける。
佳奈はアザだらけになり、割れたカップの破片で体中から血も滲み出していた。
服から垂れるコーヒーと、真っ赤な血が混じり合って床へと滴る。
激痛のなかでも、佳奈は頭と心臓を守るために体を丸めるしかなかった。
誰一人として止めに入る者はいなく、皆黙ってその惨劇を見つめることしかできない。
やがて騒ぎを聞きつけた英樹がやってきた。
彼は荒れ果てた現場と、傷ついた姿で倒れている佳奈を見て眉をひそめる。
「何があった?」
その声に真白はすかさず涙を浮かべて抱きついた。「英樹……実は、小野さんにコーヒーをお願いしたんだけど、私が生理中だからホットをお願いって言ったのに、わざと氷たっぷりのアイスコーヒーを渡してきたの。だから、お腹がすごく痛くて……」
うるんだ真白の瞳を見て、英樹の顔色は即座に氷のように冷え切った。
「4年も俺のそばにいて、この程度の気遣いもできないだと?それとも真白を怒らせるために、わざとやったのか?」
顔を真っ青にしながらも佳奈は釈明しようとしたが、英樹はそれを無視して側近の渡辺真司(わたなべ しんじ)を呼びつけた。
「会社規定に違反したため、今月の給料と四半期ボーナスを没収することを、全社に通達する。また、来週の社内会議で反省報告を行うこと」
そう言い放つと、英樹は上着を脱ぎ真白を抱きかかえ、そのまま出て行ってしまった。
第3話
英樹の背中が遠ざかっていくのを見ながら、佳奈はこらえきれずに涙をこぼした。
痛みをこらえながらなんとか立ち上がると、ほうきとモップで床に散らかったカップやコーヒーを片付けはじめる。
心配した同僚たちが何人か手伝いに来てくれ、みんな同情の目で佳奈を見つめる。
「高木さん、アイスのブラックって言ってましたよね?なのにあんなこと言うなんて。小野さん、何か高木さんの気にさわるようなことでもしたんですか?」
「そんなわけないでしょ。高木さんって、昔からああいうわがままな人だって有名じゃないですか。ちょっとのことですぐに不機嫌になるから、みんなも彼女のことよく思ってないけど、社長がぞっこんだから、誰も何も言えないんですよ」
「はぁ、社長があんなに夢中になるなんて。小野さん、これからは気をつけてくださいね。私たちはただの社員で、高木さんとは違うんですから。高木さんには社長がついてるから、理不尽なことされても我慢するしかないですね……」
佳奈は、彼女たちが善意で言ってくれていることは分かっていた。
だが、いろんな感情がこみあげてきて、何も言えない。
以前、自分が担当した契約でトラブルが起きたことがある。本当は取引先のミスだったのだが、最終的に全てこちらのせいにされたのだ。
しかし、相手から強く責められたときも、英樹だけは信じてくれたし、彼は自分のために一生懸命に反論して、その疑いを晴らしてくれたのだ。
それなのに今は、真白のあんな出まかせを簡単に信じ、事実を確かめようともしない。説明するチャンスさえくれず、すべてを自分のせいだと決めつけていた。
こんなに一生懸命働いて、英樹のために尽くしてきたのに。その結果が、この程度の信頼しかないというのか?
それとも英樹にとっては、正しいとか間違っているとかはどうでもよくて、ただ真白の機嫌が良ければ、それでいいというのだろうか?
そう考えた佳奈の胸は、きゅっと締め付けられるように痛んだ。
長い時間をかけてすべてを片付け終えると、疲れきった体を引きずって家に帰った。
シャワーを浴びて一息ついた途端、英樹から電話がかかってきた。
「温かい飲み物と痛み止めの薬を持ってきてくれ」
佳奈は大急ぎで言われたものを用意し、英樹の家へと届けた。
数日ぶりに訪れた英樹の家は、すっかり様子が変わっていた。シンプルで洗練されていたはずのインテリアは、何ひとつ無くなっている。
英樹の祖父が植えたという桜の木も、チューリップ畑に変り、モノトーン調だった家具でさえ、英樹が一番嫌っていたはずのパステルカラーになっていた。それに加え、棚には数えきれないほどの宝石やブランドバッグが並べられている……
どう見ても、真白の好みだ。
佳奈は黙ってその光景を眺めた後、明かりがついている寝室のドアをノックする。
ドアを開けた英樹は先に物を受け取り、それから佳奈に目を向けた。
傷の跡が痛々しい佳奈の顔を見て、英樹は一瞬言葉を失った。
「そんなにひどかったのか?病院には?」
佳奈は何も言わずに、首だけ横に振る。
英樹は眉間を押さえながら、珍しく穏やかな口調で言った。
「真白も体調が悪かっただけで、わざとやったわけじゃないだろうから、気にするな。減給分は年末のボーナスで埋め合わせてやるから。病院にはちゃんと行っておけよ。ひどいようなら数日休んだっていい」
「いえ、大丈夫です。私は今月で……」
佳奈は退職することを伝えようとしたが、英樹は彼女の言葉を遮り、クレジットカードを差し出した。
「いいから言うことを聞け。それと、真白の歓迎パーティーを君に頼みたいんだ。それまでに、体調を整えておいて」
言いかけた言葉は、佳奈の喉の奥に引っかかったままになってしまった。
佳奈は小さくうなずき、カードを受け取って英樹の家を後にした。
ドアが閉まる瞬間、真白の甘えた声が聞こえてきた。
「英樹、薬はまだ?お腹痛いから、さすってくれる?」
「すぐ行くから、おとなしく寝てて。勝手に動くなよ」
その優しい声を聞いて、佳奈はそっと笑みを浮かべると、瞳の奥に一抹の自嘲を宿した。
佳奈も生理痛がかなりひどく、これまで何度か会社で気を失い、病院へ運ばれたこともある。
英樹はそれを知っていたが、休暇を許可してくれただけだった。お見舞いに来てくれたことはないし、もちろん痛み止めの薬なんて用意してくれるはずもなかった。
その時は、英樹が忙しくて手が離せないんだと自分に言い聞かせていた。
しかし今なら分かる。ただ自分に興味がなかったから、どうでもよかっただけなんだ、と。
英樹の家を出た後、佳奈は病院に行って、手当をしてもらった。
その後、数日間家で休んでいると、真司から真白の歓迎パーティーの企画案が送られてきた。
花の種類からスイーツ、スタッフの服装にいたるまで、全てにおいて細かい指示が出されている。
佳奈に与えられた時間はたったの3日間。気力を振り絞って準備に取り掛かるしかなかった。
目の回るような忙しさの末、佳奈が準備した歓迎パーティーは、夜7時きっかりに幕を開けた。
真白は、オートクチュールのドレスを身にまとい、パーティー会場の視線は全て彼女に集まっていた。
招待客たちは次々と真白の周りに集まってはお世辞を言い、彼女の機嫌をとる。
「高木さんは相変わらずお美しい。それに、こんなに盛大な歓迎パーティーを開くなんて、中川社長の寵愛ぶりも全然変わっていらっしゃらないですね!」
「そういえば学生時代、高木さんに告白した人がいましたよね?でも、中川社長、それを知るなり相手を転校させて。ラブレターも片っ端から破り捨てたし、陰で高木さんの悪口を言った連中は骨が折れるまで殴られたとか……」
「この業界で、高木さんが中川社長の大切な方だって知らない人はいません!このジュエリー、何億もするんでしょう?ドレスだって世界に一つだけのオーダーメイド。高木さんのためなら、中川社長はどんな大金でも惜しまないんですから!」
第4話
佳奈は少し離れた場所で、黙って聞いていた。
すると、真白が鼻を鳴らしながら歩み寄ってきて、冷ややかな視線を佳奈に向ける。
「パーティーの準備はそれなりね。でも会場にカーペットがないせいで、ドレスが汚れちゃったの。だから、あなたが私のドレスの裾を持ってくれないかな?」
佳奈は頭を下げたまま、淡々と答えた。
「申し訳ございません。バックヤードにカーペットの予備がございますので、すぐ手配しますね」
拒絶されたことに腹を立てたのか、真白の顔が険しくなった。
ちょうど英樹が通りかかり、真白の不機嫌な様子を見てすぐに駆け寄ってくる。
「どうした?」
「英樹、ドレスを汚したくないから小野さんに裾を持ってくれるように頼んだのに、断られたの。前に私がしたこと、まだ根に持っているのかな?」
真白の訴えるような姿に英樹はたまらず彼女を抱き寄せ、冷たい視線で佳奈を睨んだ。
「裾を持つぐらい、秘書なら当然の務めだろ。もう長い間秘書をしてるっていうのに、こんなこともできないのか?」
周囲の客たちからも陰口が聞こえてくる。
「秘書のくせに高木さんにたてつくなんて、身の程知らずもいいところね」
「本当。高木さんみたいな人の裾もちができるなんて、光栄に思ってもいいくらいなのに」
嘲笑を浴びた佳奈の瞳からは光が消えた。
こみ上げる悔しさを押し殺し、彼女はしゃがんでドレスの裾を持つ。
真白は英樹の手を引いて会場を行ったり来たりし、佳奈を執拗に歩かせた。
ドレスの裾には無数の真珠があしらわれており、それを持ち上げていた佳奈の手は痺れ始めていたが、ただただ我慢するしかなかった。
真白はそれでも飽き足らず、スタッフにたくさん酒を注がせると、佳奈に向かってそれを差し出した。
「今日は飲む気分じゃないの。でも、お祝いに駆けつけてくれたみんなの手前、断るわけにもいかないでしょ?だから、代わりに飲んでちょうだい」
「私はアルコールアレルギーがありまして……」
「英樹、小野さんが!」
佳奈が説明する前に、真白が甘えるように英樹にすがりつく。
佳奈にアレルギーがあることは英樹も知っていたが、真白のために止めることはしなかった。
「常備薬を持っているだろ?だったらそれを飲めば、問題ないんじゃないか?」
断ることを許さない英樹の声に、佳奈の心は深い絶望に沈む。
佳奈は黙って薬を取り出し、数粒飲み込んだ。
すぐに多くの客が挨拶に来て、佳奈は酒を流し込むしかなかった。
次々と突きつけられるグラスに、胃の中が激しくかき混ぜられ、吐き気が込み上げてくる。
意識が朦朧として、視界も酷くぼやけてきた。
眩暈がする中で、真白の悲鳴が聞こえる。
「英樹、あなたにもらったネックレスがないの!絶対小野さんが盗んだんだよ!だって、彼女しか私のそばにいなかったもん!」
濡れ衣だと反論するため、佳奈は意識を奮い起こす。
「社長……私じゃありません」
英樹は涙ぐむ真白と、泥酔している佳奈を交互に見つめ、重苦しい表情で告げた。
「さっきは人が多かったから、どこかで落としたのかもしれないだろ?まずは探してみよう」
「絶対に小野さんが盗ったんだから!それに、英樹がくれたものだからこんなに焦ってるんだよ?それでも小野さんをかばうっていうなら、もう会わない!」
真白が駆け出そうとしたので、英樹は真白を抱きとめてボディーガードを呼んだ。
すると、ボディーガードたちが佳奈を取り囲み、強引に地面に組み伏せて服を剥ぎ取り始めたのだ。
佳奈の抵抗など屈強なボディーガードには無意味だった。
ブラウスは引き裂かれ、スカートは無残に破れ、体中にはあざや切り傷が作られる。
これ以上ない屈辱に、佳奈は涙ながらに救いを求めた。
「違います……本当に盗んでなんかいません……」
しかしその哀れな抵抗も、容赦のない暴力に抑え込まれるだけだった。
ボディーガードが佳奈の下着にまで手を伸ばした瞬間、英樹も見ていられなくなった。止めようとしたが、その前にスタッフたちが駆け寄ってきた。
「見つかりました!階段の途中にありました!」
全員の視線が、スタッフの手の中のキラキラと輝くダイヤのネックレスに注がれる。
英樹は険しかった眉を少し緩ませると、合図をしてボディーガードたちを退かせた。
ネックレスを受け取り、真白の首にかける。
「見つかったんだから、機嫌を直してくれるよな?」
真白の顔に笑顔が戻った。
彼女は地面にうずくまるボロボロの佳奈をちらりと見ると、英樹にしがみついて言った。
「見つかって良かった。でも小野さん、こんなことになっちゃった。私、謝った方がいいかな?」
全員の視線が、ボロボロになった佳奈に集まる。
心無い視線を前に、佳奈は小さく震えながら自分を抱きしめることしかできなかった。
深い絶望の中で、英樹の冷酷な言葉が耳を突く。
「謝らなくたっていい。ただの秘書だ。お前が気にすることでもない」
第5話
短い言葉だったが、佳奈の心を切り刻むのには十分だった。
傷だらけの心が引き裂かれるようで、彼女は耐えられないほどの痛みに打ちひしがれた。
頭の中は真っ白で、ただ虚しさだけが残った。
ホールにいた人々はいつの間にかいなくなっていた。眩しい照明だけが、佳奈の痛々しい姿を冷ややかに照らし出している。
痛みに耐えながら立ち上がり、親切なスタッフが貸してくれた上着を羽織ると、足を引きずりながらその場を後にした。
外は激しい雨が降っていたが、佳奈はただ雨の中へと足を踏み出した。
冷たい雨が顔に打ちつけ、頬を伝い落ちていく様は、まるで涙のようだった。
しかし、もう一滴の涙も残っていない。
行き先などない佳奈は、ただ当てもなく街を彷徨う。
しばらくすると、一台の車が横に停まった。
窓が開けられ、そこには冷たい英樹の顔があった。
「乗れ」
佳奈はその声を無視して、重い体を動かしながら雨の中を歩き続ける。
英樹が眉をひそめ、声を荒らげた。「乗れと言ってるだろ」
佳奈は足を止め、血の気のない顔で英樹を見つめる。
「社長、ご心配には及びません。私はただの秘書ですから」
感情のこもっていないその声に、英樹の心は激しく動揺した。
彼はドアを開けて雨の中に降り立つと、佳奈の手を力いっぱい掴む。
「さっきのことは俺が悪かった。けど、真白を失うことはもうできないんだ。君が受けた屈辱は、必ず償う。だから、このことで俺に腹を立てないでほしい」
だが、今の佳奈は折れなかった。
彼女は最後の力を振り絞り英樹の手を振り払うと、数歩あとずさって感情のない声で告げた。
「社長、笑わせないでくださいよ。私みたいな普通の人間が、社長や高木さんみたいな方々に逆らえるわけがないじゃないですか。
以前の私はあまりに無知で滑稽で、自分の立場をわきまえていませんでした。これからは、ただの秘書として過ごし、二度と邪魔はしませんから。
これで納得してもらえますか?もう帰らせていただいてもいいですかね?」
佳奈がそう言えば言うほど、英樹の苛立ちは募っていく。
英樹の顔は険しくなり、もう感情を抑えられなくなっていた。
「そんな意味で言ったわけじゃない!君を蔑ろにする気だってない。あの時はただ、真白を安心させるためだけに……」
英樹はまだ何かを言っていたが、佳奈にはもう何も聞こえなかった。
目の前が徐々に暗くなっていき、瞼が鉛のように重くなっていく。
体力を限界まで使い果たしたのだろう。そのまま意識を失ってしまった……
気がついた時には、病院のベッドの上にいた。
服は着替えさせられ、傷の手当も済んでいるし、枕元には薬と水が用意されていた。
点滴の様子を見ていた看護師が、目を覚ました佳奈に穏やかな笑顔を向ける。
「目が覚めましたか?一晩中、彼氏さんがそばにいたんですけど、今さっき帰られちゃいました」
佳奈はひび割れた唇を開き、かすれた声で呟く。
「彼氏じゃありません……今まで一度も」
二人の出会いなど、初めからすべてが間違いだったのだ。
社長と秘書という肩書き以外、二人の関係を示すものは何一つとしてない。
かつては自分を騙していた。いつかきっと、何かが変わると夢見て……
しかし、もう目は覚めた。
この街を離れ、二度と戻ってこない。
第6話
入院中、英樹が来ることは一度もなかった。ただ、真司を通して、しっかり治してから出勤するようにというメッセージが届いただけだった。
佳奈はもう自分を追い込むのはやめ、完全に体力を回復させてから退院した。
この間、社内では、英樹と真白の話で持ちきりだった。
英樹は1週間も遊園地を貸し切りにして真白の誕生日を祝い、派手な打ち上げ花火も3日間続いたそうだ。
親戚同士の食事会にも真白を連れ、嫁にしか譲らないはずのブレスレットを彼女に送ったらしい。
また、スキー場を建てるために広大な土地を購入し、その名も真白にちなんだものに決めたという……
佳奈は淡々とそれらのことを聞いていたが、心は不思議なほど静かだった。
退院後も通常通り出勤し、機械のように業務に取り組む。
ただ、英樹を通す必要のある仕事はすべて秘書課の同僚に任せていた。
1週間が過ぎた頃、英樹から電話がかかってきた。
電話で言われた必要書類を、彼の家に届けたので、帰ろうとすると呼び止められた。
「俺はこれから会議に出なきゃいけないんだが、真白は一人で食事をするのを嫌がるんだ。だから、ここで彼女の食事に付き合ってやってくれ」
佳奈の顔がこわばった。佳奈が断ろうとしたその時、真白が当然のように言った。
「私、エビが好きなの。とりあえず1皿分だけむいてくれる?」
英樹が書斎のドアを閉めたので、佳奈は言葉を飲み込みダイニングテーブルへと歩み寄る。
1皿分むき終わると、真白は次はクルミとパイナップルを前にして言った。
「デザートにフルーツが食べたいんだけど、あいにく剥く道具がないから素手でお願いね」
硬い殻と鋭いトゲを前に、佳奈の心は沈んだ。
真白は自分を苦しめるためにわざとこんな指示を出している。
それでも、従うしかなかった。
クルミを割り、パイナップルを剥いていくうち、佳奈の両手は傷つき、血が滲み始めた。
それだけでは飽き足らないのか、真白は佳奈をキッチンまで行かせ、スープを持ってくるように命じた。
出来立てのスープはとても熱く、両手が真っ赤になる。
痛みのあまり器を落としてしまい、煮えたぎったスープが体にかかった。
熱気とともに湯気が上がり、わずか数秒で佳奈の手には痛々しい水ぶくれができた。
火傷のヒリヒリした痛みの中、必死に唇を噛み締め、呻き声を我慢する。
倒れ込んだ佳奈を見て、真白は愉快そうに笑い声を漏らした。
直後、書斎のドアが開く音が聞こえると、その笑顔は一瞬で消え、わざとらしく叫び始めた。
「英樹!小野さんは優秀なんじゃないの?スープすら運べない上に、こぼして私まで火傷しちゃったんだけど」
その言葉を聞くや否や、英樹は顔色を変えて大股で真白に駆け寄った。
「どこを火傷したんだ?見せてみろ。痛むか?」
真白はわざとつねって赤くさせた手を見せつけ、嘘の涙を絞り出す。
「少し赤くなっちゃった……跡が残ったらどうしよう」
「何をやっている?真白は小さいころから大事に育てられて、怪我なんてしたこともないんだぞ?なのに、スープ一つ運べずに怪我をさせるなんて。なぜもっと気をつけないんだ……」
英樹は顔を曇らせ、佳奈を責め立てた。
しかし、佳奈が負った傷が目に入ると、あまり強くは言えず、真白を抱き抱えて手当のため病院に向かう。
去り際、その場で呆然としている佳奈を見て、冷たく言った。
「車に乗れ。一緒に病院まで連れて行ってやるから」
佳奈は痛みを我慢し、車に乗り込んだ。
英樹は猛スピードで車を飛ばす。
真白は自分の演技がバレないよう、大袈裟に痛がり続けていた。
真白を案じるあまり、英樹は何度も横を向いていた。
真白に気を取られていた英樹は、反対車線から疾走してくるスポーツカーには全く気づかなかった。
ドカンという衝突音とともに、2台の車が正面から激突する。
激しい衝撃で、佳奈の体は思いきりドアに打ち付けられた。
内臓が震えるほどの激痛が全身を襲う。
血で視界が赤く染まった。
冷え切った体で、なんとか瞼を持ち上げると、真白を抱え外へと出た英樹の姿があった。
意識が朦朧とする中、救急車のサイレンの音と共に、救急隊員の切羽詰まった声が聞こえてくる。
「こちらの方はショックで意識を失っているだけですが、後部座席に乗っていた方はひどい出血をしています!一刻も早く病院へ搬送しないと、命に関わりますよ!」
第7話
「いいや!先に真白を病院に送ってくれ!何かあってからじゃ遅いんだ!とにかく、こいつを助けてくれ。その他のことなんて、どうだっていい!」
英樹のなりふり構わぬ必死な叫び声が、佳奈の意識が遠のく中で最後に聞いた言葉だった。
果てしない闇が押し寄せ、佳奈を完全に飲み込んでいった。
佳奈は、長い悪夢を見ていたような気分だった。
夢から覚めて目を開けると、そこには目を赤くした胡桃の姿があった。
「佳奈!帰国してすぐ、佳奈が救急搬送されたって聞いて……それに、出血がひどかったから命が危ないって言われて……もう!びっくりさせないでよね!」
胡桃の顔を見た瞬間、佳奈の心の奥に押し込まれていた感情が一気に込み上げてきた。
涙を浮かべ、たまらず胡桃に抱きつく。
「大丈夫、私は大丈夫だから……」
二人で抱き合い、落ち着いたところで、胡桃は佳奈に水を飲ませた。そして、胡桃は話題を変える。
「この数年、どうだった?お兄ちゃんにいじめられたりしてないよね?それに、彼氏ができたんでしょ?いるなら紹介してよ。私が見極めてあげるからさ。それでもし、駄目な男だったら絶対別れさせる」
佳奈の表情が硬まった。
「社長は良くしてくれてたよ。彼氏は……もう別れたんだ」
こんなにも早く別れていると思ってなかった胡桃は、佳奈を気遣って言葉を続けた。
「大丈夫だよ!男なんて腐るほどいるんだし、次はもっといい男が見つかるはず。いい男、たくさん紹介してあげるからさ」
胡桃が言い終わるや否や、病室のドアが開き、英樹が険しい顔で入ってきた。
「紹介だと?勝手なことをするな。お前の紹介するやつなんて、ろくな奴がいないくせに」
否定された胡桃は、頬をふくらませる。
「もう!ろくなやつとか言わないでよ。確かに、お兄ちゃんみたいに一生で一人だけを思う一途さはないかもしれないけど、ちゃんとしてるんだから!それより、私が親友に誰を紹介しようったって、お兄ちゃんには関係ないでしょ」
その言葉を聞いた英樹は、カッとなり声を荒らげた。
「いいか?紹介などするな。感情というものは、そう無理矢理どうこうしようったって駄目なんだから、余計なことはしないでいい」
そうだ。感情は無理やりどうのこうのできないのだ。
しかし、それを悟るまで、4年の月日をかけてしまったのだが。
佳奈は静かに微笑み、英樹を見つめる。
「胡桃はただの冗談ですから。社長、何か用ですか?」
佳奈が無事だと分かり、英樹は安堵の息を吐くと、表情を和らげた。
本当はただ佳奈の様子を見にきただけなのだが、口から出たのは別の言葉だった。
「何でもない。ただ、胡桃が君が事故に遭ったって聞いて、飛行機を降りてすぐ病院に来たから、彼女を迎えに来るついでに、ちょっと君の様子も見に来たんだ」
「もう、お兄ちゃんたら!私も夜までには帰るから、先に帰ってて。それと、佳奈は大怪我したんだから、もう無理な仕事を押し付けちゃだめだよ」
胡桃に追い出されるように、英樹は病室を出て行った。
二人だけが残された部屋で、胡桃は英樹のことをかばい始めた。
「お兄ちゃん、あんなだけどさ、佳奈のことはすごく大事にしてるんだよ?昨日佳奈の命が危なかった時、お兄ちゃんが街中から血液を集めたって看護師さんから聞いたしさ」
第8話
それを聞いて、佳奈は呆気に取られた。
だがすぐに、冷静さを取り戻す。
英樹が血液を集めたのは、単に自分を死なせたくなかっただけだろう。
しかし、自分と真白のどちらかを選ばざるを得ない状況になれば、必ず真白を選ぶはずだ。
だからもう、英樹には何も期待していない。
東都での最後の日々を、佳奈は病院で過ごした。
看護師たちは佳奈の検診に来るたびに、上の階にある特別室の噂話をする。
「恋人の世話をするために、中川グループの社長がフロアを貸し切って、引退した教授陣まで集めたらしいよ」
「中川さんが自ら飲み物を運んだり、高価な宝石を贈って機嫌を取ったりしてるのだって何度も見かけたわ。徹夜で看病するなんて、本当に愛してるのね」
佳奈はその噂話を静かに聞きながら、自分の胸元に手を添えた。
そこには何の感情もわいておらず、緩やかな鼓動があるだけだった。
心の傷はもう癒えつつあるのだろう。
退院の日、胡桃が迎えに来てくれる予定だったが、急用で来られなくなったらしい。
佳奈は一人で退院し、会社へと向かった。
今日が最終日だったので、退職手続きを済ませる。
荷物を抱えてオフィスを出ようとした時、エレベーターの前で真白とぶつかった。
コーヒーを持っていた真白は、わざと佳奈に向かってコーヒをかけた。「前を見て歩くことすらできないわけ?もう!スカートが汚れちゃったじゃん。毎度毎度こんなことするなんて、わざとでしょ?」
真白は一人芝居をしながら、ボディーガードを呼んで佳奈を入り口の前に無理やり跪かせた。
しかし、佳奈は屈しなかった。すると真白はさらに腹を立て、残りのコーヒーを佳奈の顔にぶちまけた。
「何その目?文句でもあるの?英樹に愛されているのは私なの。だから、私が何をしたって許されるんだから。あなたみたいな、しがない秘書に何ができるって言うのかしら?」
真白は得意げにそう言い捨てると、高慢な態度で去っていった。
ボディーガードは佳奈を下に連れ出し、地面に跪かせた。
佳奈は必死に抵抗したが、どうしても逃れられず、仕方なく彼らに理屈で訴えようとした。
「私はもう退職して、秘書でもないのに、どうしてこんなことをするんですか?」
ボディーガードは動じることなく、冷ややかに答えた。「社長の命令です。高木さんの意志が、社長の意志だと。だから、私たちは高木さんの指示に従っています。もし、ご不満なら社長に言ってください」
その一言で、佳奈は何を言っても無駄だと悟り、抵抗するのをやめた。
通りかかる社員や通行人は、佳奈を見て声を潜めたり、写真を撮ったりしている。
凍てつく寒空の下、佳奈は7時間も跪かされ、膝の皮が剥けてしまった。
寒さで全身が紫色に変色し、激しい震えを気力だけで耐えていた。
終業時刻が近づき、意識が朦朧としていた頃、誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
なんとか顔を上げると、胡桃が駆け寄ってくるところだった。
「佳奈!退院したばかりなのに、どうしてこんなことを?誰にやられたの?!」
佳奈は声を振り絞る。「高木さん……」