月は沈み、夜明けを抱く

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月は沈み、夜明けを抱く

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早川慎一(はやかわ しんいち)の初恋の相手であり、彼が想いを寄せていた内山佑紀子(うちやま ゆきこ)が不慮の飛行機事故に遭った後、彼は親...

Chương (1)

第1章

早川慎一(はやかわ しんいち)の初恋の相手であり、彼が想いを寄せていた内山佑紀子(うちやま ゆきこ)が不慮の飛行機事故に遭った後、彼は親同士が決めた許嫁である菅野純佳(かんの すみか)を仕方なく妻に迎えた。 入籍から一年足らずで二人は可愛らしい娘に恵まれ、早川桃香(はやかわ ももか)と名付けた。 桃香が生まれてから、純佳と慎一の間にあったわだかまりも少しずつ溶けていった。あんなに冷たかった彼も、だんだん家族を大事にするようになって、すっかり「普通のお父さん」みたいな優しい顔を見せるようになった。 そんな変化が嬉しく、このまま穏やかな日々がずっと続くのだと、純佳は信じて疑わなかった。慎一と姑の早川千春(はやかわ ちはる)が話しているのを、偶然聞いてしまうまでは。 そこで初めて思い知らされた。 これまでの幸せはすべて、純佳自身を陥れるために仕組まれた茶番に過ぎなかったということを。 「母さん、もう待てない。弁護士にはもう離婚協議書を作らせた。俺は佑紀子と結婚する!」 「駄目よ。まだこの早川家に跡取りとなる男の子を残していないのに、離婚騒ぎなんて絶対に許さないわ。どうしても別れたいなら、あの女に次を継ぐ男の子を産ませてからにしなさい」 曲がり角の壁に身を潜めていた純佳は、その言葉を聞いて心臓がぎゅっと縮み上がった。佑紀子は、慎一がずっと忘れられない女だ。死んでなどおらず、あろうことか彼とよりを戻していたなんて! 胸がぎゅっと締め付けられ、手にしていた哺乳瓶を無意識に強く握りしめた。 愕然とする純佳の耳に、彼が桃香をあの女に引き渡し、自分を早川家から追い出そうとする企みが飛び込んできた。 ただ、慎一は完全に忘れているようだった。 結婚する前の純佳が、風津市の名門大学で法科大学院を優秀な成績で修了した、法学修士だったってことを。 第1話 早川慎一(はやかわ しんいち)の初恋の相手であり、彼が想いを寄せていた内山佑紀子(うちやま ゆきこ)が不慮の飛行機事故に遭った後、彼は親同士が決めた許嫁である菅野純佳(かんの すみか)を仕方なく妻に迎えた。 入籍から一年足らずで二人は可愛らしい娘に恵まれ、早川桃香(はやかわ ももか)と名付けた。 桃香が生まれてから、純佳と慎一の間にあったわだかまりも少しずつ溶けていった。あんなに冷たかった彼も、だんだん家族を大事にするようになって、すっかり「普通のお父さん」みたいな優しい顔を見せるようになった。 そんな変化が嬉しく、このまま穏やかな日々がずっと続くのだと、純佳は信じて疑わなかった。慎一と姑の早川千春(はやかわ ちはる)が話しているのを、偶然聞いてしまうまでは。 そこで初めて思い知らされた。 これまでの幸せはすべて、純佳自身を陥れるために仕組まれた茶番に過ぎなかったということを。 「母さん、もう待てない。弁護士にはもう離婚協議書を作らせた。俺は佑紀子と結婚する!」 「駄目よ。まだこの早川家に跡取りとなる男の子を残していないのに、離婚騒ぎなんて絶対に許さないわ。どうしても別れたいなら、あの女に次を継ぐ男の子を産ませてからにしなさい」 曲がり角の壁に身を潜めていた純佳は、その言葉を聞いて心臓がぎゅっと縮み上がった。佑紀子は、慎一がずっと忘れられない女だ。死んでなどおらず、あろうことか彼とよりを戻していたなんて! 胸がぎゅっと締め付けられ、手にしていた哺乳瓶を無意識に強く握りしめた。 愕然とする純佳の耳に、彼が桃香をあの女に引き渡し、自分を早川家から追い出そうとする企みが飛び込んできた。 ただ、慎一は完全に忘れているようだった。 結婚する前の純佳が、風津市(かわづし)の名門大学で法科大学院を優秀な成績で修了した、法学修士だったってことを。 「あの女を海外へ送る時、あなたは何と約束したの!純佳と結婚して、この早川家に跡取りを残す。そう言ったからこそ、私も目を瞑ったのよ!それなのに、条件すら果たさずに今すぐ離婚だなんて……絶対に許さないわ!」 千春の怒りに満ちた声が再び響く。 慎一はその言葉に忌々しげに眉をひそめていた。最初からあんな条件を飲まなければ。そのせいで佑紀子が事故で死にかけ、一生子供が産めない体になってしまった。 この一年余り、佑紀子が夜に声を殺して泣いている姿を思い出すたび、慎一の心は身を切られるような罪悪感に苛まれていた。 彼女が誰よりも子供好きだったことを、彼は痛いほど知っている。 「俺だって後悔してるんだよ!最初からあんな条件、飲むべきじゃなかった!今そのせいで、佑紀子は板挟みになって苦しんでるんだ! だから俺は罪滅ぼしがしたい。桃香を佑紀子に育てさせて、二十七歳の誕生日プレゼントにするんだよ!」 これ以上、慎一は一秒たりとも待つつもりはない。 「ふざけたことを!絶対に認めないわよ。どうしても純佳と離婚して、あの卑しい女と再婚するというなら……今すぐ親子の縁を切るわ!」 千春はギリッと奥歯を噛み締め、慎一をきつく睨みつけた。 しかし、彼の一歩も譲らない狂気じみた決意は、母親である千春の心を容赦なく刺し貫いた。 「母さん!もう二度と同じ過ちは繰り返さない。今回ばかりは早川家から追い出されようが、息子と認められなかろうが、俺は佑紀子と結婚する! 一度失いかけたんだ。二度も失うわけにはいかない!」 慎一の心に抑え込まれていた感情が爆発し、怒号が広いリビングに響き渡る。 彼は言葉を切り、吐き捨てるように言った。 「それに……純佳のことなんて、最初から愛してなんかいない。あんな女といると息が詰まるんだ。あのおどおどした、自分じゃ何もできない無様な姿には、もう心底ウンザリしてるんだよ!」 千春は息を呑んだ。 まさか息子の心の中で佑紀子がこれほどまでに大きな存在となり、母親との縁を切ってでも妻に迎えようとしているとは思いもよらなかった。 深呼吸をし、込み上げてくる悲痛な思いを押し殺して、千春はいたたまれなさそうに口を開く。 「本当に純佳と離婚して、あの女と再婚するつもりなの?この私を母親と認めなくなってでも?」 慎一は力強く頷いた。佑紀子のことを思い浮かべたのか、冷ややかな顔にふっと柔らかな笑みがこぼれる。 「ああ、佑紀子と結婚する。あいつは桃香をとても可愛がっているし、桃香の母親になりたいと願っているんだ。その願いを無下にはできない!」 佑紀子が桃香を見る時の、あの嬉しそうな笑顔に嘘はない。 もうこれ以上、取り返しのつかない馬鹿な真似はできない。 千春は、息子の瞳の奥に蠢く計算高い光を見て、複雑な表情を浮かべた。 「慎一、純佳を妻に迎えたのはあなた自身の意思でしょう。そんな仕打ちはあまりに不公平だわ。それに、もし彼女が離婚に同意しなかったらどうするつもり?」 千春は思わず少しの同情を抱いたが、その言葉は慎一に鼻で笑って遮られた。 眉間には、ありありと純佳への嫌悪感が滲んでいる。 「あいつに惨めな思いはさせないさ。離婚した後は、残りの人生を一生遊んで暮らせるだけの慰謝料をくれてやる。 だいたい、昔の念書を盾にして乗り込んできて、大勢の前で結婚を迫ったのも、結局は金目当てだろう。あんな権力にすがりつくような女、世間にはいくらでもいる。 あのいつもメソメソして、自分じゃ何もできない性格だ。同意しようがしまいが大した影響はない。離婚を成立させる手段なんていくらでもある」 言葉の端々には、隠しきれない軽蔑が混じっていた。 寒の戻りの冷たい風が、開け放たれたバルコニーのドアから吹き込んでくる。底冷えする鋭い氷の刃となって、慎一の冷酷な言葉とともに、壁の陰で息を潜める純佳の心臓を深く突き刺した。 一瞬にして、身の毛のよだつような寒気が骨の髄まで突き抜け、全身から痛いほどの冷たさが滲み出る。 純佳が一生を託し、大切に育んでいきたいと願っていた結婚生活は、今この瞬間、慎一によって無残にも打ち砕かれた。彼を慕っていた心もまた、千々に引き裂かれ、見る影もなく壊れてしまった。 全身から力が抜け、冷たい壁に背中を預ける。 息苦しさが胸に広がり、慎一の嘲笑が何度も何度も脳内を駆け巡り、彼女の神経を容赦なく刺激した。 肺が引き裂かれるような痛みを覚え、純佳はたまらず深く息を吸い込んだ。 あの時、念書を手にして早川家を訪れた際、純佳は言葉巧みに嘲笑され、結婚に飢えていると罵られた。 だが慎一は知らなかった。 この結婚が、純佳にとって決して望んだものではなかったということを。 父はかつて身を挺して早川家の先代の命を救ったことがあった。その大恩の証として先代が残したのが、あの「念書」だった。 その父が臨終の際、一人残される純佳の将来を案じ、「この恩を盾にしてでも早川家の庇護下に入れ」と結婚を強要した。 そうでなければ死んでも死にきれないと。 だからこそ、彼女は大勢の前で結婚を迫る真似までした。桃香を産んだことすら、ただ父の最期の願いを果たすためでしかなかった。 しかし今となっては、すべてが偽りだった。心を入れ替えてくれたのも嘘、早川家が庇護してくれたのも嘘。それどころか、生まれたばかりの桃香でさえ、彼の計画の一部に過ぎなかったなんて…… 純佳の胸に突き刺さった刃が、今この瞬間も無残に掻き回され、麻痺するほど痛む心はすでにズタズタに砕け散っていた。 慎一は純佳のことなど少しも愛していなかった。 彼がしてきたこれまでの行いはすべて、早川家に寄生するように育ったあの佑紀子のため! 彼と幼馴染のあの佑紀子のためだったのだ! 純佳にはまったく理解できなかった。 自分がいったいどんな過ちを犯したというのか。なぜここまで大掛かりな罠にハメられなければならなかったのか!? 慎一の憎悪に満ちた声が響くまで、彼女はその残酷な理由を知る由もなかった。 「子供のことがなければ、純佳なんかに優しくしてやる義理がどこにある! あいつを縛るための『妻としての行動規範』をさらに細かく書き直しておいた。これなら今後、母さんが俺の代わりに躾けやすくなるだろう」 慎一の冷え切った声とともに、日常の立ち振る舞いまで事細かに記された分厚いファイルの束が、千春に手渡される気配がした。 「純佳は早川家に入ってからずっと、あなたが作った息が詰まるような掟に縛られてきたのよ。今はまだ子供を産んだばかりだというのに、いくらなんでもこんな仕打ちは……」 千春が躊躇うと、慎一の冷ややかな鼻息が聞こえた。 「あの時、純佳が大勢の前で結婚を迫ったりしなければ、佑紀子が海外へ行くと言い出すこともなかったし、突然の事故で命を落としかけることもなかった。 これはすべて、純佳が佑紀子に対して犯した罪だ!俺はただ掟を叩き込んで、外で早川家の恥を晒さないようにしてやっているだけだ。 もし本気で復讐する気なら、あいつが今も早川家で無事でいられるとでも思っているのか!」 その言葉を聞いた瞬間、純佳は怒りと憎しみで壁を支える手にぐっと力を込めた。皮が剥けた指先が壁を引っ掻き、深さの違う傷跡を残すのも構わなかった。 早川家に嫁いでからの毎日は、千春のそばで掟を叩き込まれる日々だった。 紙に書き連ねられた理不尽な決まりごとの数々に縛られ、深い苦痛を味わってきた。てっきり早川家の古臭い家風なのだと思い込んでいたが、まさか慎一……夫自身が自分を苦しめるために定めた掟だったとは。 あまりにも馬鹿げている! だが、慎一は忘れているようだ。 純佳がこれまで自分を殺し、ただ黙って従ってきたのは、すべて彼が自ら定めた掟のせいだったということを。 彼が気に入らないと一言言えば、純佳はようやく手にした風津市のトップクラスの法律事務所からの内定すらあっさりと蹴った。 そして家庭内に波風を立てないため、自分の意見を押し殺し、家庭に入って夫に尽くし、子育てに専念する道を選んだ。彼が理想とする、掟を重んじる従順な「早川の妻」になるために。 その結果がこれだ。純佳は完膚なきまでに打ちのめされ、ただの笑い者に成り下がってしまった。 あろうことか、十月十日お腹を痛めて産んだ我が子までも、初恋の女へのプレゼントに差し出そうと企んでいるなんて。 本当に滑稽でたまらない! もう、早川の妻など真っ平ご免だ。 純佳は決意した。 かつての自分に戻るのだと。誰にも縛られない、完全な本来の自分を取り戻すのだと。 胸の奥から激しく噴き出す怒りは、もはや抑えきれなかった。今すぐ慎一と話をつけてやる。離婚は構わない、だが桃香だけは絶対に引き取る! しかしその時、折悪く慎一のスマートフォンに着信音が鳴り響いた。 第2話 純佳が階段を降りて慎一の背後に立ったちょうどその時、通話が繋がった。彼のスマートフォンから、甘ったるい女の声が漏れ聞こえてくる。 「慎一、もう三分も遅刻してるわよ。ねえ、今日のレース、どうするの?もう走らない気?」 電話の向こうの女が言い終わるか終わらないかのうちに、慎一はすでに足を踏み出し、外へ向かって歩き始めていた。 純佳に口を挟む隙など微塵も与えず、すぐ後ろの壁際にいる彼女の存在にすらまったく気づいていない。 やがて、彼の口から甘く優しい声が響いた。 「すぐ着くよ。母さんと少し話をしていて遅れたんだ。怒らないでくれ、夜にはちゃんとたっぷりと埋め合わせをするから。な?」 それを聞いて、純佳は思わず体を強張らせた。 あのような愛情深く、相手の機嫌を取るような低姿勢は、自分に向けられたことなど一度もない。 彼が純佳に与えるのは冷酷な態度か、それを上回る徹底した無視だけだった。 以前見せてくれた優しさを思い返しても、その大半は桃香がその場にいる時だけのものだった。 佑紀子が受けている愛情に比べれば、純佳への扱いは誰の目にも留まらないゴミクズも同然だ。 それなのに、彼の気まぐれな施しを宝物のように大切に抱きしめていた自分が、本当に滑稽でならなかった。 慎一の後ろ姿が完全に視界から消えて、純佳はようやく我に返った。 千春が振り返り、純佳を見た瞬間にハッと驚きの色を浮かべたが、すぐにいつもの傲慢な顔を取り繕った。 「純佳。あの子の泣き声が耳に入らなくて?母親の務め一つまともに果たせないなんて、本当に育ちの悪さは隠しきれないわね」 千春は氷のように冷たい声で、いつものように純佳の些細なミスを針小棒大に責め立てる。 これまでの徹底的に無価値だと貶められてきた日々の中で、こうした理不尽な非難は数え切れないほど受けてきた。 純佳はもうすっかり麻痺していた。 我に返った純佳は、思わず目頭を熱くし、千春の罵倒を無視して震える声で事実を問い質した。 「お義母様、内山さんは……戻ってきたのですか?」 先ほどの慎一たちの会話が本当に事実なのか、純佳は確かめずにはいられなかった。 千春の視線がかすかに泳ぐ。その僅かな動揺を純佳がしっかりと捉えた瞬間、彼女の心の底に僅かに残っていた期待は完全に打ち砕かれた。 一年近く胸の内に押し殺してきた理不尽な思いが、今この時、堰を切ったように涙となってボロボロとこぼれ落ち、視界が次第に滲んでいく。 「縁起でもない泣き顔はおやめなさい!早川家の品位に泥を塗る気?長年叩き込んだ『掟』も、あなたのような女には豚に真珠だったようね」 千春は忌々しげに言い放ち、使用人に早く孫娘の様子を見てくるよう急かした。 純佳は両手をきつく握りしめ、使用人に抱きかかえられて降りてきた桃香を見つめた。その小さな顔は泣き叫んで真っ赤になっていた。 「ほら、ごらんなさい。あんなにお腹を空かせて泣かせっぱなしにして! いつまでそこに突っ立っているの!さっさと蔵に入って頭を冷やしなさい。まったく慎一の言う通り、いつもメソメソするしか能のない、目障りな女だわ!」 千春は苛立たしげに純佳を一瞥し、ゴミでも追い払うように命じた。 純佳が動こうとしないのを見ると、千春は執事に命じて力ずくで蔵へ引きずって行かせようとした。 「離して!行きません……んっ!」 純佳が抵抗の声を上げた途端、執事に力任せに口を塞がれ、無理やり蔵の方向へ引きずられていく。 使用人たちに乱暴に突き飛ばされ、純佳はよろけて氷のように冷たい床に倒れ込んだ。足首に鋭い痛みが走り、ズボンの裾の下でみるみるうちに赤く腫れ上がっていく。 「奥様、大奥様の仰せです。新たに改訂された早川家の『掟』に基づき、子供の求めに直ちに応じず、母親としての義務を果たさなかった罰として、一晩の正座と竹刀打ち十回に処します」 執事が冷酷に宣告する。そして、薄暗い蔵の壁際に置かれた刀掛けから、手慣れた様子で使い込まれた竹刀を手に取ると、純佳の抵抗など意に介さず、容赦なくその背中へと力任せに振り下ろした。 バシッ、という鈍い音が響くたび、背中には瞬く間に赤黒い打痕が斑に浮かび上がり、氷のように冷たい空気にも、次第に鉄錆のような血の生臭さが混じり始めた。 背中の痛みが麻痺し、神経にその激痛がはっきりと伝わらなくなるまで、執事の手が止まることはなかった。 「奥様、差し出がましいようですが……早川家において、旦那様に逆らえる者などおりません。少しでも楽にお過ごしになりたいのであれば、大人しく旦那様に従われるのが賢明かと存じます」 執事は血の滲む純佳の背中を直視するに忍びないのか、そう忠告すると、竹刀をしまって千春への報告へと戻っていった。 純佳を押さえつけていた力が一気に消え去る。支えを失った彼女の体は、泥のように床へ崩れ落ちた。 痛みを堪え、歯を食いしばりながら手を伸ばして使用人の服の裾を掴み、消え入りそうな声で訴えた。 「慎一に……会わせてく」 使用人は無表情に首を横に振った。 「奥様、旦那様はお出かけになりました。今は屋敷にはおられません」 純佳は掴んだ手を離さず、僅かに残る意識を振り絞って叫んだ。 「慎一に会わせて……!」 この家にはもう一秒たりともいたくなかった。 だが使用人はその手を無情にも振り払い、背を向けて蔵の重い扉をピシャリと閉ざした。 純佳は力を振り絞って外へ出ようともがいたが、全身を苛む傷の痛みが身動きすら許さない。 桃香を出産した後、体が回復しきっていない上に、慎一が彼女を縛るためだけに設けた異常な掟のせいで三日に一度は跪かされ、体力はすっかり落ちきっていた。 そこへさらに十回の竹刀打ちを受け、肉体の限界はとうに近づいていた。 純佳は懐からスマートフォンを取り出し、震える指で連絡先を開く。そして、もう二、三年はかけていなかった番号をタップした。 思いがけず、通話はすぐさま繋がった。 「先生……私、離婚します。もう慎一の妻はやめます」 純佳は心底絶望したような、虚ろな声を絞り出した。 「本当か!?君は私が手塩にかけて育てた一番の逸材だ。君の才能を早川家のような息の詰まる檻の中に閉じ込めておくべきではないとずっと思っていたんだ!」 恩師・三上俊明(みかみ としあき)の懐かしい声を聞いた瞬間、純佳がギリギリで抑え込んでいた悔しさが一気に溢れ出し、思わず嗚咽が漏れた。 「本当です……離婚します」 「よし、すぐに雅紀を呼び戻そう。君の離婚訴訟はあいつに直接担当させる」 三上雅紀(みかみ まさき)は恩師の息子であり、純佳の兄弟子でもある。 かつて学業のために海外へ留学し、今では名声轟く、誰もが依頼を熱望する超エリート弁護士になっていた。 だが、この案件は単なる離婚訴訟に過ぎない。適当な新人弁護士を一人回してもらえれば、あとは自分で処理できる。 だが、そう言葉にしようとした矢先、通話は途切れてしまった。 スマートフォンを手から滑り落とした瞬間、張り詰めていた意識の糸がプツリと切れ、純佳はそのまま冷たい床に倒れ伏した。 第3話 再び目を覚ました時、純佳はすでに早川家が経営する私立病院の特別病室に横たわっていた。 静まり返った病室には、ツンとする消毒液の匂いが漂っている。 重い瞼どうにか開けると、傍らで看護師が自分の腕に何か処置をしているのが見えた。彼女は手元の作業に集中しており、純佳が意識を取り戻したことにはまったく気づいていない。 少し隙間の開いたドア越しに、慎一の冷ややかな声が飛び込んできた。 「必要なだけ血を抜け。絶対に佑紀子の命を救うんだ!」 医師が焦った声で返す。 「しかし、慎一様。内山様は交通事故による大量出血で、通常の献血量よりはるかに多くの血を必要としています。これ以上奥様の血を抜き続ければ、奥様ご自身の命にも危険が及びます……」 その言葉に、慎一の顔に一瞬ためらいが走った。彼はうつむき、自分の服にべっとりと染み付いた血痕に目を落とした。 すべて佑紀子の血だ。 かつて佑紀子が飛行機事故に遭った時の、あの奈落の底に突き落とされるような恐怖が再び蘇り、彼のわずかに残った理性を呑み込んでいく。 慎一はごくりと喉を鳴らし、冷たい声を絞り出した。 「構わない。純佳は佑紀子と同じ血液型だ。あいつの方が体力もあるし、これしきの血を抜いたところで何の影響もない……」 必死に自らの内に渦巻く恐怖を鎮めようとしているようだった。 二度と佑紀子を失うわけにはいかない。 「しかし……」 医師が言葉を濁すと、慎一は待ちきれないように遮った。 「俺は純佳の夫であり、この病院のオーナーだ!あいつの血で佑紀子を救うと、俺が決めたんだ」 その直後、遠くから足早に近づく声がした。 「医長、血液センターから連絡です!緊急手配した血液パックが、あと一時間で到着します!」 「よかった、すぐに担当の者に伝えろ。奥様から予定していた量を抜く必要はない、半分でいいと!」 医師が安堵の声を上げる。 誰かが病室のドアを開けて入ろうとしたその瞬間、慎一が不意に声を上げ、それを制止した。 「いや!予定通りに抜け。佑紀子を少しの危険にすら晒すわけにはいかない。余った分は……予備として置いておけ」 外の会話が次第に鮮明に聞こえてきたのと同時に、純佳は不意に腕をアリに噛まれたようなチクッとした痛みを感じた。 顔を向けると、点滴のチューブはすでに赤く染まり、真っ赤な血がとめどなく純佳の体から吸い上げられている。 彼女は無意識に腕を引っ込めようとした。 だが力の加減が効かず、テーブルの上に置かれていた金属製のトレイをひっくり返してしまう。 ガシャンという激しい落下音に看護師が飛び上がって驚き、すぐに我に返って慌てて純佳の腕を押さえつけようとした。 純佳はそれを躱すことなく、逆に腕に刺さっていた針を強引に引き抜いた。腕一面に血が流れ出す。 ドアの外で騒ぎを聞きつけた慎一が即座に踏み込んできて、怒鳴り声を上げた。 「純佳!一体何の真似だ!」 血の気が引き青ざめた顔を上げ、純佳は背中の傷が裂ける痛みも構わずに身を起こし、慎一を警戒して睨みつけた。 「それはこっちのセリフよ!」 彼は散乱した惨状に忌々しげに眉をひそめたが、すぐに感情を押し殺した。純佳の血塗れの腕から視線を外し、無理に穏やかな口調を繕って言い訳を始めた。 「大事な取引先が交通事故に遭って、緊急の輸血が必要になったんだ。だが血液の在庫が底を突いていて、ちょうどお前と血液型が同じだったから、医師に頼んで血を抜かせたんだ」 顔色一つ変えずに平然と嘘をつく様子に、純佳は思わず鼻で笑ってしまった。 取引先? 今になってもまだ自分を騙し通せると思っているのか。 純佳は再び、看護師が近づけてきた医療器具を払いのけた。 「相手は重要な取引先なんだ。協力しろ!」 慎一は不機嫌に顔をしかめた。 その威圧的で不機嫌な顔は、この一年間、純佳が最も見慣れたものだった。 以前は父の恩義のこともあり、また桃香のためにも、二人の関係を少しでも良好に保とうと気を遣い、彼の機嫌を取るような振る舞いを自ら進んで行っていた。 慎一が少しでも笑いかけてくれることだけを願って。 だが今思えば、彼のその不満の表情は妻の行動に向けられたものではなく、単に彼女が自分の思い通りにならないことに対する苛立ちに過ぎなかった。 「協力ですって!?あんたと内山の茶番に、このまま付き合えと言うの! いつまで騙し続けるつもり!」 胸に渦巻く怒りを抑えきれず、純佳は激しく問い詰めた。 彼は一瞬呆然としたが、立ち直った後の顔つきにはほとんど変化がなかった。まるで純佳が真実を知ったことなど、どうでもいい些細なことだとでも言わんばかりだ。 「知っていたというなら話は早い。さっさと医師の指示に従え。佑紀子の治療を遅らせるな!」 続いて、オーナーの絶対的な命令に逆らえない看護師たちが、外から何人もなだれ込んできた。一斉に純佳の腕を引っ張り、強引にベッドへ押さえつけようとする。 もみ合いになる中、竹刀で打たれた背中の傷口がさらに無残に引き裂かれた。 絶え間なく襲い来る鋭い痛みが神経を削り、あっという間に純佳の額には冷や汗が滲み出た。 「離して!あの女に血なんて絶対に提供しない!」 純佳は必死に身をよじって抵抗する。 嘘をついたのは慎一の方だというのに、どうして自分がその代償を支払わなければならないのか。 こんな理不尽があるものか! 慎一は、絶望に満ちた純佳の瞳を見下ろしながらも、ただ微かに眉をひそめただけで、傍らの看護師に冷酷に命じた。 「鎮静剤を打て。すぐに血を抜け」 純佳は目を大きく見開き、必死にもがきながら後ろへ逃れようとする。 「慎一!あんた狂ってる!ふざけないでよ!あの女のために血なんか絶対にやらない、離してっ!」 冷たい針が容赦なく腕に突き刺さる。耳元には、氷のように冷徹な慎一の声が響いた。 「俺はお前の夫だ。お前に拒否権なんてない。これは、お前が佑紀子に対して犯した罪だ。贖え」 「やめて……離してっ!!」 薬が回り始め、純佳の意識は再び混濁していく。瞬く間に、体がふわりと軽くなっていった。 次に意識を取り戻した時には、すでに一週間が経過していた。 激しく抵抗した際についた腕の青痣はまだ消えず、背中の傷口は治りかけの痒みを伴い始めている。 夢ではなかった。 慎一は本当に、あの女のために自分の血を抜いた! 慌てて体を起こし、病室を出ようとした途端、廊下で看護師たちが佑紀子について噂話をしているのが耳に入った。 第4話 「内山さんって本当に運がいいわね。交通事故で入院したっていうのに、慎一様がつきっきりで看病してるんだから。 私が傷口のガーゼを替えに行った時も、二人は手をギュッと握り合って離そうとしなかったのよ。 それに比べて奥様は気の毒ね。血を抜かれすぎて何度も処置室に運ばれたのに、慎一様は一度も顔を見せなかったんだから」 若い看護師が、羨望と哀れみの入り混じった声で語る。 「本当よね。慎一様は、奥様が内山さんに手出ししないようにって、わざわざ私たちに時間通り鎮静剤を打つよう念を押したのよ。内山さんがゆっくり療養できるようにって……」 もう一人の看護師が相槌を打つ。彼女は純佳の血を抜いたあの看護師だ。 崩れ落ちそうになる体を冷たい壁に預け、あまりにも残酷な現実に、純佳は眩暈を覚えた。 意識が戻らなかったこの一週間、すべては慎一が仕組んだことだった。自分が佑紀子に手出しできないよう、ただそれだけのために。 本当に滑稽だ。 血を抜かれ、傷だらけでボロボロのこの体で、一体彼女に何ができるというのか。 「内山の病室はどこ?」 噂話をしていた看護師たちの前に歩み寄り、冷たく尋ねた。 彼女たちは突然現れた純佳の姿に驚いて跳び上がったが、すぐに震える声で答えた。 「お、奥様……内山様はもう転院されました。この病院にはいらっしゃいません」 転院? 慎一のあの女に対する執着には恐れ入る。二人の邪魔をしないように、転院という手まで思いつくとは。 「どこの病院へ転院したの?」 「存じ上げません……」 看護師は怯えながら首を横に振った。 あちこち尋ねて回ったが、慎一が佑紀子をどこへ連れ去ったのか知る者は誰もいなかった。仕方なく、一旦自分の病室へ戻って療養することにした。 その間、慎一に何度か電話をかけたが、一度も繋がることはなかった。 それどころか、着信拒否にまでされていた。 スマートフォンからは無機質な音声ガイダンスが流れるだけだった。 純佳は電話を切り、すぐに別の番号へと発信する。 「夫である早川慎一と内山佑紀子の不貞行為の証拠を集めてちょうだい。調査費用も特急料金も、いくらでも払うわ。ただし条件がある。一週間以内に、裁判で確実に勝てる証拠を揃えて」 「一週間では短すぎます。せめて二週間……二週間頂ければ、必ず決定的な証拠を掴んでみせます」 電話の向こうの探偵は慎重に難色を示した。 「分かった、二週間よ。絶対に奴らが言い逃れできない証拠を用意してちょうだい」 そう言い残し、純佳は通話を切った。 家庭裁判所に離婚調停の申し立てを行い、それが受理されて慎一の元に呼出状が届くまで、早くても十五日はかかる。彼に知られる前に、自分に有利な証拠を必ず手に入れなければならない。 佑紀子の誕生日が来る前に離婚問題を公の場へ持ち込めば、慎一がどれほど絶大な力を持っていようと、裏で手を回して揉み消すことなどできない。そして何より、桃香を強引に奪い取ることも不可能になる! 権力に物を言わせて自分を捻じ伏せようとしても、まず「司法手続き」という壁を越えなければならない。 離婚に関する資料をまとめ終えると、純佳はすぐに家庭裁判所へ向かい、申し立ての手続きを済ませた。 すべての手続きを終えた後、病院でさらに一週間ほど静かに体を休めた。 退院の日。 思いがけず通りかかったベビー用品店で買い物をし、桃香のためのケア用品を一式揃えた。店を出ようとしたその時、早川家の使用人から一本の電話が入った。 「奥様、大変です。お嬢様が旦那様に連れ出されてしまいました。昨日からまだお熱が下がっておらず、絶対安静にしていなければならない状態だったのに、旦那様が無理やり……!」 純佳はスマートフォンを握りしめ、思わず声が上ずる。 「どこへ連れて行ったの!?」 「分かりません。旦那様は、我々使用人が口出しすることを決してお許しになりませんので」 その言葉を聞いて即座に電話を切り、純佳はすぐさま探偵を動かして佑紀子の居場所を調べさせた。 桃香が病気であるにもかかわらず無理やり連れ出すなんて。彼をあそこまで狂わせるのは、あの女しかいない。 しばらくして、スマートフォンに一つの位置情報が送られてきた。 ある会員制の高級クラブだった。 店員に購入したベビー用品を自宅へ届けるよう手配し、純佳は踵を返して指定された場所へと急いだ。 目的地に到着すると、支配人らしき男が慌てて前に立ち塞がった。 「早川様、本日はどのようなご用件で……」 純佳は氷のように冷え切った視線を向け、静かに言葉を遮る。 「くだらない御託はいいわ。夫のVIPルームへ案内して。 ここに来たってことは、すでに裏は取れてるのよ。早川の妻である私を敵に回して、この店が明日も無事で済むと思っているの?」 言い終わるや否や、純佳はディスプレイされていた最高級のヴィンテージボトルを無造作に手に取り、一切の躊躇なく大理石の床へと落とした。 ガシャンという甲高い破砕音と共に、琥珀色の液体が壁を伝い、絨毯の上に生々しい染みを作っていく。 数本も叩き割らないうちに、ラウンジにいた客やスタッフたちがざわめき始め、ひそひそと指を差し始めた。 支配人は純佳が次に手に取った店の秘蔵ワインを見て血の気を引かせ、すぐさま慎一の個室番号を白状した。 「やめ、やめてください!言います、言いますから!どうせお二人はご夫婦ですし、ご案内しても当クラブの規則違反にはならないでしょう……旦那様は二階の一番奥、VIPルームにいらっしゃいます!」 支配人は傍らのウェイターに案内するよう目配せをした。 純佳はその一本だけで一千万円は下らないであろうヴィンテージボトルを支配人に向かって放り投げた。 支配人は這うようにして飛んできてボトルを胸に抱え込み、心底安堵したように息をついた。 ウェイターの後について階段を上がり、VIPルームの扉を押し開ける。その瞬間、防音扉の隙間から、赤ん坊の泣き声が漏れ聞こえてきた。 聞き覚えのあるそのかすれた泣き声に、純佳の神経が一瞬で限界まで張り詰める。 桃香の声だ! 第5話 佑紀子は片手で桃香を抱きかかえ、もう一方の手でグラスの液体を飲ませようとしていた。 慎一は酒気を帯びた虚ろな目でその様子を傍観しており、眉間には微かな苛立ちが漂っている。 他の同席者たちは気にも留めず、グラスを合わせては酒を呷っていた。 純佳がここまで抱えてきた緊張と焦燥は、一瞬にして爆発的な怒りへと変わった。 前へ踏み出し、佑紀子の手からグラスを力任せに払いのけると、その勢いのまま思い切り彼女の頬を張り飛ばした。 パァンという鋭い音が響く。 不意の衝撃に佑紀子はバランスを崩し、ソファへと倒れ込んだ。白い頬にくっきりと真っ赤な手形が浮かび上がり、薄暗い照明の下でひときわ痛々しく際立つ。 「あんた狂ってる!赤ちゃんに酒なんて!」 純佳は怒鳴りつけ、彼女が呆然としている隙を突いて、桃香を奪い返した。 腕に抱き留めた桃香は、熱で顔を真っ赤に火照らせ、その小さな体は恐ろしいほど火のように熱かった。あんなに激しかった泣き声も、今では弱々しくかすれてしまっている。 「違うの、喉が渇いているのかと思って、少しお水をあげようとしただけ……」 佑紀子は無実を訴えるように弁明し、すがるような目で傍らの慎一を見つめた。 「お酒なんか飲ませてないわ。あれはただの炭酸水よ。アルコールなんて入ってない」 純佳は彼女を鋭く睨みつけ、すぐに桃香の様子を確認した。泣き声にはもはや張りがなく、呼吸も弱々しい。 心臓が口から飛び出しそうだった。桃香の状態が明らかにおかしい。今すぐ病院へ連れて行かなければ。 しかし、踵を返そうとした瞬間、慎一が妻の前に立ち塞がった。 酔いが少し醒めたのか、純佳の腕をきつく掴んで離そうとしない。 純佳は彼を睨みつけ、怒りを露わにした。 「離して!桃香を病院へ連れて行くの!状態がおかしいのよ!」 だが慎一は意に介さず、冷淡に言い放った。 「どうして佑紀子をぶった!子供の世話を焼こうとしてくれただけだ。さっさと謝れ!」 彼の眼差しから一切の感情が欠落しているのを目の当たりにし、純佳は凍りつくような声で叫んだ。 「この人でなし!桃香がまだ熱を出しているのに無理やり連れ出して、その上あの女がお酒を飲ませようとするのを止めもしないなんて!」 万力のように手首を締め上げる男の腕を必死に振り払おうとしたが、力は強まる一方で、ギリギリと骨が軋むほどの痛みが走った。 「佑紀子は親切心で水を飲ませようとしただけだろう。いきなり手を上げるお前の方がどうかしている。さっさと頭を下げろ」 慎一は険しい顔で純佳を見下ろし、逃げ場を塞ぐように冷酷な言葉を畳み掛けてきた。 その揉み合いの隙を突き、佑紀子が純佳の腕の中から再び桃香を奪い取った。 「何をするの!」 純佳は恐怖のあまり声を裏返らせた。 佑紀子は哀れみを誘うように泣きじゃくる。 「慎一は私の退院祝いのために桃香を連れてきてくれただけなの。彼を責めないで。本当にお酒なんて飲ませてないわ、あれはただのお水よ」 あの女が「水」と呼んだものは、このクラブのメニューにある低アルコールの酒だ。 生後三ヶ月にも満たない赤ん坊が、あんなものに耐えられるはずがない! 「聞こえないのか、純佳。いつまで騒ぎ立てるつもりだ!」 慎一が純佳の腕を乱暴に振り払った。 予期せぬ強い力に突き飛ばされ、彼女はテーブルの角に激しく体を打ちつける。背中の傷に鋭い痛みが走った。 「私は騒いでなんか……!」 純佳は痛みを堪え、歯を食いしばりながら言い返した。 夜な夜な高級クラブに入り浸るような男が、この店に純粋な水など置いていないことを知らないはずがない。 彼は露骨に佑紀子を庇っている。どちらが正しいかなど、彼にはどうでもいい。理屈抜きで、あの女の側に立っているのだ。 今の彼に真っ向から逆らったところで、火に油を注ぐだけだ。 純佳は両手を固く握りしめ、おくるみに包まれた桃香の顔を見下ろし、血を吐くような思いで妥協した。 「わかった……謝るわ」 桃香の顔色はすでに青ざめ始めている。これ以上は持ち堪えられない。 慎一は満足げに頷き、佑紀子へと視線を向けて穏やかに尋ねた。 「お前が決めてくれ。あいつを許すかどうかを」 佑紀子は答えず、ただ丸い目を潤ませてテーブルにこぼれた酒を一瞥し、不意に悲しそうな声を上げた。 「今日はせっかく慎一が私のために開いてくれたお祝いの席なのに……お酒がこぼれて、雰囲気も台無しになっちゃったわね……」 その言葉の意図を瞬時に悟った慎一は、新しい酒を持ってこさせ、酒瓶を手に取ると一列に並んだグラスに次々と注いでいった。 その内の一つを純佳の前に押し出し、目で促す。 「アルコールアレルギーだから、飲めないわ」 純佳は冷淡に拒絶した。 佑紀子は僅かに顔色を変え、涙ぐみながら尋ねる。 「ごめんなさい、慎一……やっぱり純佳さん、私なんかがいる席でお酒なんて飲みたくないのよね。私が出しゃばったから、気分を害しちゃったんだわ……」 慎一は一瞬たじろぎ、テーブルに並んだ酒をちらりと見て、数秒の沈黙の後、言葉を継いだ。 「たかがグラス数杯だ。度数も低い、飲めるはずだ」 その言葉を聞くや否や、佑紀子の顔には再びあの純真無垢を装った笑みが浮かんだ。 「よかった。慎一がそこまで言うなら安心ね。ねえ純佳さん、まさか、このまま私のお祝いを台無しにしたりしないわよね?」 純佳は両手をきつく握りしめる。 慎一の目に映る自分は、佑紀子の機嫌を取るための道具でしかない。生きようが死のうが、彼にとっては取るに足らないことなのだ。 ましてや、たかだか数杯の酒の事など。 純佳が躊躇して動かないのを見ると、慎一は冷ややかな視線を送った。 その合図で、傍らに控えていた屈強なボディガードたちが無言で進み出た。純佳に指一本触れなかったが、佑紀子への道を分厚い人垣で完全に遮断した。 「どいて!桃香を返して!」 純佳が叫ぶと、慎一は氷のように冷たい声で言い放った。 「さっさと飲め。子供を病院に連れて行きたいんだろう?」 純佳は震える手で、度数の高い酒がなみなみと注がれたグラスを自ら掴み取った。 「アレルギーだって言ってるじゃない!あの女を喜ばせるためなら、私が死んでもいいの」 絶望の中で彼に向かって叫んだ。 だが、慎一は冷酷に見下ろすだけだ。純佳は目を閉じ、自らグラスの酒を一気に呷った。 喉を焼くような強いアルコールが気管に入り込んで激しくむせ返り、鼻の奥へと逆流して肺が千切れるように痛む。 激しく咳き込むと、佑紀子が心配して背中をさするふりをして、先ほどテーブルの角に打ち付けた傷をわざと強く叩いた。 全身を貫くような激痛に、死にも等しい苦痛を味わう。 「やめて……っ、触らないで!」 純佳は痛みに顔を歪めながら彼女を突き飛ばそうとしたが、ボディガードに阻まれ無駄に終わる。 「まだ残っているぞ」 慎一の無慈悲な声が響く。 息つく暇も与えられず、純佳は涙目で次々とグラスを空にしていった。 慎一は氷のように冷たい目でその姿を見下ろしていたが、その眉間にほんの一瞬、躊躇いのようなものがよぎった気がした。 だが、それもすぐに冷酷な表情へと塗り潰されていく。 数杯を飲み干した直後、以前味わった、意識が肉体から切り離されていくような感覚が再び襲ってきた。今回はそれに加え、胸腔が窒息で引き裂かれるような痛みまで伴っている。 不意に目の前が真っ暗になり、純佳はそのまま床に崩れ落ち、意識を失った。 第6話 純佳が再び目を覚ました時、信じられないことに、ベッドの傍らには慎一の姿があった。 「目が覚めたか。気分はどうだ」 静かな声が響く。 桃香は!あの子はどうなったの!? 純佳はそう口に出そうとしたが、喉から空気が漏れるだけで、声が全く出ないことに気がついた。 慎一が重々しい口調で説明する。 「無理に喋るな。喉の粘膜が腫れて声帯を傷つけている。腫れが引くまで声は出ないそうだ」 純佳は慌ててスマートフォンを探し出し、猛スピードで文字を打ち込み、画面を彼に突きつけた。 【桃香はどうなったの!】 その画面を見て、慎一の無機質な顔にようやく変化が現れた。瞳の奥に一瞬だけ申し訳なさそうな色がよぎり、数秒の沈黙の後、口を開いた。 「桃香はまだ集中治療室にいる。医者の話では、今夜が峠だそうだ」 言葉を切り、彼はさらに続けた。 「今回は俺の不注意だった。桃香の世話をしていたシッターはすでにクビにした。あの子は必ず助かる、安心しろ」 取って付けたような後悔の言葉を聞かされ、純佳は桃香が哀れでならなかった。 この男は、ただの一度だって桃香を我が子として慈しんだことなどない。今見せている後悔も、所詮は「父親としての体裁」を取り繕うためのポーズでしかないのだ。 純佳はいたたまれずにシーツを握りしめ、痛む体を押して桃香の様子を見に行こうとした。 折悪く、佑紀子が保温ジャーを手に病室へ入ってきた。純佳が目を覚ましているのを見ると、彼女の顔に一瞬だけ異様な光がよぎったが、すぐにわざとらしい安堵の笑みを浮かべた。 「純佳さん、よかった、無事だったのね。もしあなたに何かあったら、私、自分のこと責め続けちゃうところだったわ……これ、私がじっくり時間をかけて煮込んだ特製の薬膳スープよ。体力回復にすごくいいから、飲んで早く元気になってね」 そう言いながら、蓋を開けて差し出してくる。 瞬く間に、病室にいかにも栄養のありそうな香りが立ち込めた。 純佳は氷のように冷たい視線を向け、顔を背けてその好意を突き返した。そしてドアを指差し、出ていくように促す。 佑紀子はたちまち被害者ぶった顔を作り、目に涙を浮かべて慎一を見つめた。 「慎一、純佳さんにお酒を飲ませたのは私のせいだわ。反省してる。でも、このスープ、いろんな素材を半日以上つきっきりで煮込んで、一生懸命作ったのに……」 慎一は純佳に冷ややかな視線を向け、彼女を庇うように言った。 「佑紀子のせっかくの気遣いだ。少しは大人の対応をしろ。無下にするな」 何がせっかくの気遣いだ! 純佳は冷然とスマートフォンに文字を打ち込み、画面を見せた。 【出て行って!】 慎一の顔色が一変し、何か怒鳴ろうとしたその時、不意に鳴り響いた着信音に遮られた。 「社長、大変です。大奥様が、お寺の参拝中に急に持病の頭痛を起こして倒れられまして……」 慎一は表情を強張らせ、踵を返して病室のドアへと向かいながら電話越しに答えた。 「慌てるな、すぐに向かう」 ドアのところで立ち止まり、不安げに振り返って佑紀子を見た。 相手は優しく微笑んで彼を促す。 「大丈夫よ、純佳さんがいじめたりしないわ」 それを見て、慎一は足早に病室を出て行った。歩きながら部下に次々と連絡を入れ、母親が倒れた現場へと急行する手配を急いでいた。 慎一の足音が廊下の奥へ遠ざかるなり、佑紀子の口元からあの甘ったるい笑みがスッと消え失せた。 純佳は痛む体を押してベッドを降り、桃香のいる集中治療室へ向かおうとドアへ歩み寄る。 佑紀子はすれ違いざまに立ち止まり、純佳を嘲笑うように見下ろして言った。 「桃香のところへ行くつもり?……本当に哀れね。いいわ、そんな可哀想なあんたのために、案内してあげる。ついてきなさい」 そう言って、佑紀子は先に病室を出ると、すぐ横にある低層階の屋上テラスへの扉を押し開けた。 娘の安否を確認したい一心で、純佳が彼女を追って人気のない屋上へ足を踏み入れた。 冷たい風が吹く隔離された屋上の空間で、振り返って純佳を見下ろす佑紀子の顔には、先ほどの可憐さなど微塵もなく、ただ生々しい嫌悪だけがべっとりと張り付いていた。 「本当なら、あんたが妊娠三ヶ月の時に会うはずだったのよ。でも慎一が私を束縛して、あんたがショックを受けるんじゃないかって、ずっと隠してたの。 でもね、彼は知らないの。あの飛行機事故……実は私、彼から逃げたくて、直前でこっそり搭乗便を変更していたのよ。そうしたら、本来私が乗るはずだった飛行機が墜落した。だからそれを利用して、事故に巻き込まれたふりをして彼の前から姿を消したの。 なのに、よりによってあのタイミングであんたが早川家に嫁いできた。しかも、私と同じように両親を亡くして、他人の家に引き取られたような女が。それなのに、あんたは早川家でみんなに褒め称えられて、チヤホヤされてる。 納得いかないわ!どうして私だけが孤児だって後ろ指を指されて、厄介者だって罵られなきゃならないの。こんなの不公平よ!!」 彼女は感情を高ぶらせて振り向いた。純佳が驚愕しているのを見ても少しも動じず、言葉を続ける。 「だから、もう一度慎一の元へ戻ってきたの。私と同じように、誰からも見下される苦痛を味わせてやるためにね……慎一があんたのためにわざわざ作った家訓、どうだった?毎日蔵に閉じ込められて、陰で無能だって罵られる気分は最高でしょ?」 佑紀子は毒々しい目を向けながら、思い通りになったとばかりに得意げな笑みを浮かべた。 憎んでいる女が早川家で苦しめられ、陰口を叩かれていると聞くたび、彼女の胸はすっとした。 純佳は急いでスマートフォンに打ち込んだ。 【頭がおかしいんじゃないの!?早川家に逆らえない腹いせを私にぶつけるなんて、一体どういうつもり!】 「どういうつもり?嫉妬に決まってるじゃない。私と同じ苦しみを味わえばいいのよ。もう早川家であんたを褒める人はいない。あんたが早川家で築き上げたものすべてを奪い取ってやるわ。あんたが宝物のように大事にしている娘も含めてね!」 隠そうともしないその悪意に、純佳は思わず眉をひそめ、さらに文字を打った。 【狂ってるわ!夢でも見ているの!】 「狂ってる?まだまだこれからよ。もっと狂ったことを見せてあげようか?」 佑紀子は屋上の手すり越しに下を見下ろして、ふふっと嗤った。 嫌な予感がして、純佳は急いで文字を打ち込もうとした。しかし、文字を打ち終える前に、佑紀子が底冷えするような声でこう言い残した。 「慎一に、心の底からあんたを憎ませてあげる」 そう言い残すや否や、彼女は自ら手すりに背を向け、虚空へと倒れ込んだ。 重力に引かれ、糸の切れた人形のように、地面へと真っ逆さまに墜落していく。 第7話 慎一が廊下で電話を切った直後だった。頭上から落下してきた佑紀子が、目の前の車のフロントガラスに激突した。 血まみれのボロ布のようになった彼女の顔を確認し、慎一は驚愕に見開いた目を疑った。 「佑紀子、どうしたんだ!」 慎一の半狂乱の叫び声が響く。騒ぎを聞きつけた医療スタッフたちが慌てて救助に駆けつける中、佑紀子は青ざめた顔で虚ろに呟いた。 「慎一……純佳さんが……私が邪魔だから、死ねって……」 言い終わるや否や、力なく意識を失った。 慎一は血走った目で医師に救命を怒鳴りつけると、矢のように屋上テラスへと駆け上がった。 凄まじい轟音とともに、屋上への重い鉄扉が暴力的に蹴り開けられた。 その場に立ち尽くしていた純佳が事態を飲み込む間もなく、慎一に乱暴に首を絞め上げられた。容赦なく喉を扼され、窒息の苦しみが肺を焼くように広がっていく。 「お前……佑紀子に何をした!」 男は目を血走らせ、歯を食いしばって怒鳴りつけた。 純佳はもがきながら、震える手でスマートフォンの画面を彼の顔に突きつけた。 【彼女が自分で飛び降りたの!】 文字を打ち終えるより早く、慎一は純佳の手からスマートフォンを乱暴に払いのけた。 目を赤く血走らせて相手を睨みつけるその姿は、今にも彼女を八つ裂きにせんばかりの、猛り狂った獅子のようだった。 「まだあいつに罪をなすりつける気か!俺の目が節穴だとでも思っているのか!こいつを押さえつけろ!」 慎一が冷酷に命じると、背後に控えていたボディガードたちが、もがく純佳の腕を掴み、まるで不用意なゴミでも扱うかのように屋上の縁へと引きずって行った。 純佳は声も出せずに抵抗したが、衰弱した体では訓練されたボディガードたちに敵うはずもなかった。 屋上の風が容赦なく純佳の胸元に吹き込み、感覚が麻痺するほど骨の髄まで冷え切っていく。 「お前、以前佑紀子を一度陥れただけでは飽き足らず、俺の目の前で二度目も企んだのか!」 慎一は指先のタバコを握り潰し、怒りに震えていた。 「佑紀子がこれ以上傷つくことは絶対に許さない。お前が佑紀子を突き落としたのと同じように、ここから飛び降りて詫びろ!」 風は吹き荒れ、恐怖で噴き出した背中の冷や汗が乾いていく。眼下には底知れぬ目眩が広がっていた。 純佳は彼に向かって首を振り、自分は関係ないと弁解しようとしたが、締め付けられた喉が腫れ上がり、声が全く出なかった。 ボディガードに押され、一歩、また一歩と縁へと追いつめられる。胸にこみ上げる恐怖が涙となって風に散った。 純佳は必死にもがき、力任せに声を振り絞ろうと喉を酷使した。 やがて舌に血の生臭さを感じた後、数度の抵抗の末、ようやく木屑が擦れるようなしゃがれた音を絞り出した。 「……違う!彼女が、自分で落ちたの!」 純佳の両腕を押さえていたボディガードが一瞬ひるんだ隙に、彼女は体を横へ逸らして身をかわした。 だが、慎一はその言葉など全く信じておらず、その表情は夜叉のように冷酷だった。 「あり得ない。佑紀子がそんな愚かな真似をするはずがない。お前が桃香の件であいつに復讐したに決まっている! 言ったはずだ、佑紀子は好意で桃香に水を飲ませようとしただけで、酒を飲ませようとなんてしていなかったと!お前はそれを信じないばかりか逆恨みし、俺のいない隙に佑紀子を突き落とした。それが真実だ!」 慎一は一語一語を叩きつけるように詰め寄り、その目からは怒りの炎が噴き出しそうだった。 再び純佳を拘束したボディガードが、彼女を高台へと押しやる。 風はさらに鋭く骨を刺した。 彼女の抵抗も虚しく、半身が屋上の縁から押し出されそうになったその時、背後から義母である千春の切迫した声が響き渡った。 「やめなさい!純佳は妊娠しているのよ、手を出さないで!」 点滴スタンドを支えながら千春が息も絶え絶えに叫び、慌てて駆けつけた執事が血液検査の報告書を慎一に手渡した。 その言葉を聞いて、純佳は激痛の中でも思わず体が強張った。 そんなはずはない。避妊の対策は完璧にしていたのに、どうして妊娠など。 桃香を産んだ後、医師からは「母体がもたないため、二年間は絶対に妊娠を避けるように」と厳重に注意されていた。 だからこそ、毎回完璧に避妊の対策を講じていた。妊娠する可能性など万に一つもないはずだった。 その知らせのショックからしばらく立ち直れずにいるうちに、純佳はボディガードたちに抱えられて産婦人科へ再検査に向かわされていた。 そして医師の口から確定診断を聞かされて、彼女はようやく、自分が本当に身ごもっているという事実を受け入れるしかなかった。 慎一は苦々しい顔で純佳を見つめ、しばらくの沈黙の後、ボディガードに向かって冷酷に言い放った。 「こいつの片腕を折れ。佑紀子の転落の件はそれで手打ちにしてやる」 言い終わるや否や、彼らはすぐに千春を連れ出し、問答無用で純佳の左腕をへし折った。 メキッという骨の砕ける不気味な音が響き、骨の髄まで抉るような激痛が瞬時に全身を貫き、限界を超えた苦痛に純佳は再び意識を失った。 どれほどの時間が経ったのだろう。 再び目を覚ました時、純佳の左腕には重々しいギプスが巻かれていた。 麻酔が効いているのか、痛みは感じない。 スマートフォンを開くと、そこには、六時間前に届いた一通のメッセージが静かに表示されていた。 【離婚調停の申立てが裁判所に無事受理された。第1回期日の通知は追って書面で届くはずだ】 第8話 メッセージを確認した後、純佳はすぐにそれを削除した。 痛む体を無理やり起こし、集中治療室へと急ぐ。 「先生、娘の具合はどうでしょうか?」 観察室の窓越しに見える桃香は、深い眠りについていた。小さな体にはいくつものモニターが繋がれ、心電図の波形がゆっくりと動いている。 その痛々しい姿に、純佳は再び心臓が締め付けられる思いだった。 「現在のところ危険な状態は脱しましたが、まだ数日は経過観察が必要です。元々体が弱く、高熱だけでも厄介だったところに、こんな小さな子に度数の高い酒を飲ませるなんて……処置があと少しでも遅れていれば、取り返しのつかないことになっていたでしょう」 医師は搬送時の危険な容態を思い返したのか、青ざめた顔で語った。 なにもかも慎一のせいだ。佑紀子の歓心を買うためなら、あの男は見境もなく、どんな異常なことでも平気でやってのける。 桃香が不憫でならなかった。 まだこんなに小さな子が、どうしてあんな恐ろしい目に遭わなければならなかったのか。 「先生、詳細な診断書を書いていただけませんか。娘がこうなった原因が急性アルコール中毒であることを、はっきりと記載してほしいのです」 これらをすべて記録し、証拠として残しておくためだ。 いずれ裁判が開かれた時、これが慎一の許されざる罪を立証する強力な証拠となる。 診断書を手に医師の部屋を出ようとした時、廊下で若い看護師たちの噂話が耳に入ってきた。 「早川社長の内山さんへの執着、マジでヤバくない?鶴の一声でトップクラスの先生たち集めまくって、今、内山さんの処置室に市内の名医が勢揃いしてるらしいよ。内山さんも本当可哀想。小さい頃に両親亡くして苦労してるのに、あんな目に遭うなんてさ」 「ねえ聞いた?内山さん、事故で落ちたんじゃなくて、奥さんに突き落とされたらしいよ!普段はおとなしくて優しそうなのに、裏の顔ヤバすぎでしょ。マジでサイコパスじゃん。あんな女が妻だなんて、早川社長も気の毒すぎるわ……」 純佳は足を止め、集まって噂話をしている彼女たちを冷たい横目で見た。 歩み寄って反論しようとしたが、ふと廊下の奥に、回診中の看護師長が鬼の形相で立っているのに気づき、そのまま踵を返して歩き出した。 しばらくして、壁際で噂話をしていた看護師たちは看護師長に見つかって厳しく叱責され、あちこちで泣きべそをかいていたという。 そんなことには構わず、純佳は早川家の息がかかったこの病院を密かに抜け出し、遠く離れた別の総合病院へ向かうと、真っ直ぐに産婦人科の門を叩いた。 一通りの診察を終えた後、「左腕の骨折に関する傷害診断書」と、弁護士から送られてきた「離婚調停申立受理証明書」のデータ画面を提示した。 医師はそれらの書類を確認すると、深くため息をつき、静かに頷いた。 「……事情は分かりました。DVの記録があり、婚姻関係が破綻していると見なせる状況ですので、特例としてご本人の同意のみで手術を承ります。明日に予定を組みましょう。術前六時間は絶食してください」 この子を宿すのは、あまりにも時期が悪すぎた。純佳の体はすでに限界を超えている。桃香を出産した時点で大きなダメージを受けており、これ以上の出産には耐えられない。 静かに頷き、診察室を出る。 背後から医師の小さなため息が聞こえるような気がした。 どうしてあんな身勝手な夫に捕まってしまったのかと呆れているのだろう。 慎一のあの氷のように冷たい顔を思い浮かべ、純佳は思わず自嘲気味に笑ってしまった。 早川家の私立病院にある元の病室へ戻ると、佑紀子は骨折を二箇所しただけで命に別状はなく、すでに一般病棟に移ったと耳にした。 ほどなくして、スマートフォンが不意に震え出した。 【早川様、ご依頼のデータは指定のメールアドレスにお送りいたしました】 数分後、スマートフォンの画面上部に一通のメールがポップアップで表示される。指で軽くタップして開いた。 データ量が多すぎるのか、画面がしばらく真っ白になり、三十秒ほど経ってからようやく本文が表示された。 画面をスクロールしていくと、巨大な圧縮フォルダが添付されており、さらにその中にいくつもの小さなファイルが格納されている。 その中の一つのファイルを解凍すると、慎一と佑紀子が密会している写真が次々と現れた。写真のデータだけで十ギガバイトにも及ぶ。 他の証拠がどれほどの量に上るのか、想像するだけでも恐ろしい。 見るに堪えない不貞の証拠の数々を前にして、自分でも怒り狂うかと思っていたが、実際に目の前に突きつけられた時、純佳の心は不気味なほど凪いでいた。 すべてのファイルを解凍し終える頃には、すでに夜が更けていた。純佳はその一枚一枚の写真にじっくりと目を通していく。 写真の下に刻まれた日付のタイムスタンプが、忘れかけていたはずの残酷な記憶を、昨日のことのように生々しく抉り出していく。 慎一が佑紀子を雪景色を見に連れ出していた頃、純佳は妊娠後期に入っていた。足が頻繁に攣って苦しんでいたというのに、些細なことで蔵に閉じ込められ、一晩中冷たい床の上で過ごすことが何度もあった。 慎一が佑紀子をオーロラを見に連れて行っていた頃、純佳は罰として正座させられたせいで切迫早産を起こし、難産による大量出血で生死の境を彷徨っていた。パニックになりながら彼に電話をかけたのに、返ってきたのは「医者を信じろ。死にはしない」という軽い一言だけだった。 慎一が佑紀子に直筆のラブレターを書いていた頃、純佳は産後の悪露が止まらず、二度目の手術室へ運ばれていた。桃香も未熟児のため保育器に入り、一晩に三度も危篤状態に陥った。彼に戻ってきてほしいと懇願したが、慎一は「重要な取引先と話しているんだ、騒ぐな」と冷たく言い放った…… すべての証拠に目を通し終えた時、窓の外はすでに明るくなっていた。 これらの証拠を雅紀に転送し、相手から「確かに受け取った」という返信が来たのを見て、純佳はようやく深く息を吐き出した。 そして、すぐさま桃香の転院手続きを手配させる。 翌日。 看護師に付き添われ、再び冷たい手術台の上に横たわる。 天井の眩しい光の輪を見つめながら、静かに目を閉じた。麻酔が効き始めるとともに、胸の奥から、何かがゆっくりとこぼれ落ちていくのを感じた。 再び目を開けた時、すべては終わっていた。 「安静にしてくださいね。あなたの体は、これ以上の無理にはもう耐えられませんよ」 医師は険しい顔で念を押した。 差し出された術後の処方箋を受け取り、静かに頷く。もう二度と、彼らに自分の人生を蹂躙させはしない。 退院後、荷物をまとめるために早川家へ戻ったが、思いがけず屋敷は静まり返り、誰もいなかった。 桃香の荷物と必要な書類を素早くスーツケースに詰め込み、リビングのテーブルに離婚調停の申立書と、中絶手術の同意書の控えを残して、純佳は一人で早川家を後にした。 そして、少し離れた場所に停まっていた黒のカイエンに乗り込んだ。 「行きましょう。今後の裁判の準備をしなければ」